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  [No.1157] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:青木 正明   投稿日:2020/03/15(Sun) 20:21:05

ご返事ありがとうございます。
益々、ワクワクしてきます。
 
武士で商人であった先祖は京都で油問屋を営んでいたこと【日足】が蝋燭の紋と油が繋がり
納得できます。母方の【抱き角】と父方の【日足】を組み合わせ抱き角の副紋となったことも納得できる。


追伸 父は母方は藤堂高虎の家臣といっていました。
又、記憶は定かでないのですが母方は藤堂家の側室に仕えていたと言っていたような気がします。

追伸
 京都の油問屋の屋号が分りました。
 屋号は【山上】です。

 大津市山上 清光寺に繋がりませんか?

3月は多忙なのですが4月に入れば 三つの清光寺の探訪と明治維新戸籍簿の調査を致します。


  [No.1158] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/18(Wed) 11:03:12

早速の御返事有難う御座います。

さて、御納得いただいた事は何よりです。
筆者も先ず間違いは無いと考えています。

先ず、次の「追伸」からご説明します。

追伸1
父は母方は藤堂高虎の家臣といっていました。
又、記憶は定かでないのですが母方は藤堂家の側室に仕えていたと言っていたような気がします。

追伸2
京都の油問屋の屋号が分りました。
屋号は【山上】です。

大津市山上 清光寺に繋がりませんか?

追伸3
疑問2の母方の住所解決しました。Googleマップの検索ミスでした。
阿山郡上野町は現在の伊賀市の伊賀上野でした

追伸4
疑問が二つほど発生しました。、
1 祖父の戸籍から母方の住所がgoogle mapで調べると、三重県阿山郡上野町で伊賀上野でない
伊賀上野の忍者は父の勘違いか?

2、ご指摘の大津市山上町の清光寺は浄土宗です。
是も父親の勘違いですか?
それとも大津市の真宗大谷派の寺を検索したらよいですか?

尚、私の作成した系図を送付したいのですが、添付ファイルではうまく送れません。
FAX で送付したいのですが、FAXはありますか?

先ず、お便り全て届いていますよ。
個人情報等の方に触れるかどうかをチェツクするシステムがあり、一度、サイトで確認後に投稿欄に記載するシステムに成っています。
そして、筆者の投稿の準備の時間がかかり遅れる事はあります。
取り分け、お家の事を論じるには「歴史的背景」を理解する必要があり、それを纏める時間がかかっています。
従って、少し遅れる事が起こりますので、御了承ください。

「追伸1と2」は、これを御説明するには「下記の歴史的経緯」を知る必要があり、お家のルーツは明確に成ります。

追伸3です。
三重県阿山郡上野町で伊賀上野でない
伊賀上野の忍者は父の勘違いか?

以上の件ですが、追伸1と2で詳しく論じますが、「勘違い」では有りません。
昔と現在の位置関係は何度も過去に違っています。
昔の伊賀は戦国時代でその線引きは異なっていると同時に定住地はその勢力分布で跨る事は当たり前の事で、阿山郡の上野は伊賀の勢力域でしたので問題は在りません。
次に、御父の勘違いの件は、下記でも論じますが間違っていません。
伊賀域とその周辺は要するに伊賀なのです。
そして、伊賀の者全ては要するに“何らかの忍者”なのであって、お家が考えている「忍者認識」は間違えています。
要するに、「忍者」と呼称されるものには「多くの種類」で成り立っていたのです。
テレビでも活躍する忍者姿もあれば「普通の人の忍者」もあるのです。
当に、この事が「下記の論点」に成ります。
お家が想像している「忍者」は、傾向として主に「甲賀忍者の事」でして、ここに「伊賀者と甲賀者」との根本的な違いがあったのです。
この「考え方」が元で「伊賀」から分かれて「甲賀」に移動したのです。

次に、追伸4の2です。
指摘の大津市山上町の清光寺は浄土宗です。
是も父親の勘違いですか?

この件は下記で論じますが、「青木氏」はそもそも平安期より日本最古の「古代密教浄土宗」です。
「青木氏」は、本来は「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社の神道」です。
「神明社」を「守護神」とした「皇親族の青木氏」です。
この「青木氏」には、「五家五流の青木氏・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」が先ずあって、960年頃にこの「青木氏の母方」であった「武蔵の藤原北家秀郷流青木氏」を「円融天皇」に依って賜姓され、「24地域の116氏」に広がります。

ところが、「天皇」は、形式上は「浄土宗」を容認しましたが、「神道の天皇家」である為に帰依する事が出来ない事があって、その為にこの「皇親族の青木氏」に対して伝来時の「原理主義の古代密教浄土宗」の「伝統」を護る為に「継続」を命じたのです。

ところが、平安期末期に「近江と美濃と甲斐」は「源氏化」して此の定められた皇族としての「縛り、掟」の「伝統」を護らず「平家」に名古屋で二度の戦いの末に潰され滅亡します。
この本来の「原理主義的な伝統」を護った「天智天皇系の皇親族」の「伊勢と信濃の青木氏」はこの「清光寺」を護ったのです。

ところが、「伊勢の青木氏の裔系の伊賀青木氏」は、この「清光寺の伝統」を護ったのですが、「江戸期初期に顕教令」が出され、「清光寺の密教性」を禁止され、「顕教の寺・庶民誰でもが信心できる共通の概念」として運営せざるを得なく成ったのです。

そもそも「密教」とは、「青木氏」だけの「浄土概念」を持つ教えの事で、この「青木氏の氏族だけの教え」を禁止されたのです。
そこで、やむなく、「本家筋・秘密裏に密教を護る」は別として、それに近かった「浄土真宗」に分家筋が入信したのです。

その必要性は下記で論説しますが、従って、家紋から分家筋とみられるお家の「伊賀の青木氏」は、「真宗大谷派」をもお調べに成る事は必要なのです。
「時代の時系列」が根本的に異なっていますので、矢張り、「お家の歴史」を知るのであれば、その前に先ずは本来の「清光寺」だと思います。
でなければ以下のご説明の論の必要性が成り立ちません。

つまり、大きく歴史にまたがつた経緯を持つご質問なので、「詳しい事」は下記に説明しますが、尚、詳しい事はサイトに論じていますのでお読みください。
又、追伸のご質問も全てサイトに論じていますのでお読み下さい。
ここでは概要をご説明します。

先ずは「下記の説明」をお読みに成れば大まかに御理解できますよ。
尚、FAXは個人情報で運営上有りません。

更に投稿時下の所に「添付ファイル」のところが有りますので、一度、パソコンに登録した後、そこから添付してください。
唯、個人情報に大きく関わる内容ですのでお勧めできません。
確認したらすぐに削除する事に成ります。
但し、現在の所では明治以後は政治体制が変わりましたので参考にはなりません。
現在の明治維新までの「情報」を頂ける範囲で大筋は判りますよ。

さて、本説論に入ります。

実は、最初にお便りを頂いた時に、「香具屋の情報」と「二回目の享保期・戒名の情報」が100%史実に一致していた事なのです。
これで大方は判りました。

その前に追伸から説明に入りますので、今回は重要な「二つの情報」を頂きました。

先ず、最初の追伸の件から。
それは、「藤堂高虎」で室町期末期に活躍した武将ですが、多くの武将の家臣と成り、「寝返り」をして伸し上がった者です。
遂には、「伊勢の津藩の初代藩主」と成り、「伊賀上野」に城を築き、「伊賀者」を支配下に治めた時期が有りました。

従って、「側室に仕えていたと云う件」に付いては、「伊賀上野城」を造る以上は「伊賀者」を配下にするには充分に有り得る事かと当時の慣習から考えられます。
唯、「伊賀者」は、「甲賀者」と違って「主従契約を拒んだ組織」です。
これが基で「伊賀者の一部」が山一つ越えた「甲賀地域」に逃れて「甲賀忍者と成った組織」です。
故に、「男子」では無く、「地元の伊賀の女子」が「側室の下働き」をする事は「当時の慣習」としては日常的に充分に有り得た事です。
事例があって、この「慣習」に依って「伊賀の女子」が「信長の子供」を産み「妾」と成り、その事で「伊賀掟」を破った事で「甲賀」に逃れ、其の後、「信長死後」に「伊賀者」から狙われ襲われ「近江」に逃れたのです。
これは有名な記録に遺る史実です。

殆どは、「地元の娘」が藩に勤める慣習がありました。
従って、「情報」としてはルーツに関わる物ではないでしょう。
この慣習は江戸時代の大奥でも採用されていた仕来りです。
全て「仕える下働き」は「家臣の娘」と云う事に成りませんでした。

追伸の2
「大津山上の清光寺の件」は、下記に論じる「青木氏のルーツの経緯」をお読み頂ければ納得されると思います。
「清光寺」とは、つまり、そもそも「お寺と云う役目」は「仏」を祀るだけでは無く、「一族の者」が集まり「情報」を集め「衆義」し会う処でもありました。
又、「一族の者」が使う「宿」でもあり、「食事」も得られる場所でもありました。
その「菩提寺」を「運営する氏・青木氏」が財政的な裏付けで行われていたのです。
これが字が示す通り「菩提寺」なのです。
「顕教寺」は氏姓に依らず一般の大勢の信者の寄付によって賄われていた寺であり、その様な宗教概念を持った寺と云う事に成ります。
従って、「清光寺」は「青木氏だけ宗教概念を持つの寺の事」で、要するに「密教の菩提寺」なのです。
つまり、此処が「青木氏の活動の拠点」でもあったのです。

当に、この「清光寺」が目的の通り「香具屋・忍者」では、「絶対に必要とする情報拠点」でした。
敢えて、それを誇示して「香具屋・忍者」に「屋号・山上」で示したと考えられます。
先ず、そうでなければ「香具屋・香具師」の組織は成り立つ事では無く間違いは無いと観られます。
とすると、「清光寺」は、元より「お家」でもこの「拠点の役目」を果たしていた事が充分に考えられます。
「伊賀青木氏」を確定するにこの上ない情報ですね。

これが後に、「伊賀別れの甲賀者」は「幕府・徳川氏との主従契約」を結び「情報活動を主体とした組織」に成ります。
ところが、この「考え方」を持たない「伊賀者」は、「主従契約」を結ばずに「甲賀」に対抗して、「紀州藩の情報活動」に「伊勢青木氏」を通じて参加し協力したのです。
構図としては、互いに「伊賀者同士」が対抗して「情報活動」をし合ったのです。
激しい争いであった事が史実として遺されています。
唯、そこで「伊賀と甲賀」は「活動の仕方」が異なったのです。
「紀州藩」は「幕府の動向」を、「幕府」は「紀州藩の動向」を探りあうと云う構図が出来上がったのです。
初代藩主の家康から信頼されていた「頼宣」は、幕府から謀反の嫌疑をかけら潰そうとされますが、「伊賀青木氏」の「香具屋・香具師」を通じて「幕府の諜報活動」をしていた「甲賀者の殲滅」に動いて潰しました。
「頼宣」はこれで救われると云う大事件が起こったのです。

もう一つの「香具屋が絡む事件」として、この構図が、何故、起こったかと云う事ですが、「湯殿女」に産して生まれた「三男の吉宗・頼方」は兄の二人に危険に晒されたのです。
そこで、「二代目の藩主」は、この「三男の吉宗・頼方」を「伊勢青木氏」に預けて隠し、「香具屋」に警護を依頼し「親代わり」を頼みます。
これに「付き添い」として「身分の低い伊勢の加納氏」を密かに付けて面倒を看させたのです。
これが後の「吉宗の御側用人の加納五郎左衛門」です。
「加納家」は「伊勢の出自」で「伊勢」では「加納屋」と云う「商い」を「伊勢屋」と共に行い、青木氏とは深い血縁関係を結んでいます。
筆者の「曾祖母」は「尾鷲」に居て「加納氏の長女の御勝殿」ですが、何代にも渡り血縁しています。

「伊勢青木氏」には「伊賀青木氏」が「血縁族」として居て、彼らの配下の「伊賀者の組織・香具屋」に警護を委ねて護ります。
これが「紀州藩との間接的な繋がり」と成っていました。
これが何と明治初期まで続きました。

そして、話を戻して、「香具師の伊賀者の経緯」に付いて。
紀州藩の二人の兄と父親が三か月以内に全て死亡し、そこで優秀に育った吉宗を伊勢から帰し、「紀州の藩主」に押し出した「吉宗」を、今度は「将軍に仕立てる為」に「伊勢青木氏・伊勢屋」が幕府に金品を贈り働きかけて「将軍工作」をしました。
結局、「吉宗」は「将軍」と成りますが、この時、「吉宗」が江戸に向かう時、「伊勢青木氏」は「親代わり」として同行し、「吉宗の経済対策の支援・享保の改革」を行う事に成ります。

この「江戸動向・向行」に伴い道中も「伊賀青木氏の支配下にある伊賀者等」は、「伊勢青木氏の警護」をも担当し、「江戸の町」でも「伊勢青木氏」を「影」で警護したのです。
これが「伊賀青木氏・香具師」です。

さて、此処で「お家の先祖」が「青木氏」として出て来るのです。
つまり、「影で護り情報を集める事」の為に、「伊賀青木氏の者等」は、「一つの姿」に身を替えたのです。
それが、「香具師」、又は「香具屋」なのです。

「薬や油や線香等の生活雑貨」の「露天商・出店」として「各地」から「情報」を集めて来て、「伊勢青木氏の伊勢屋」に集める仕事をしていたのです。
当然に「甲賀者」に襲われない様に厳重な警護も影でしていました。
この事は、室町期中期頃から始めていて、これが表に出たのが「吉宗の江戸・享保」でした。
「伊賀者」は、「香具師」、又は「香具屋」と呼ばれて有名に成ったのです。
歴史的には、「甲賀者」と比較して忍者ドラマでも描かれますが、この様に「伊賀者の実体」はもっと「広範囲な仕事」をしていたのです。
余り知られていない事ですが、江戸では甲賀と伊賀が火花を散らしていたのです。
取り分け、「伊賀青木氏」の「香具屋・香具師」は諜報活動を専門にした集団で、「甲賀」と戦う時は、「配下組織の伊賀者」が影で動いたのです。

「室町期の紙文化」で獲得した「巨万の富・500万両」を下に、「青木氏の伊勢屋」は、江戸に「200店舗以上の伊勢屋店舗」を展開しました。
中には、「質屋の伊勢屋」も営みましたが、これ等の情報を集める為にもこの「質の仕事」にも「伊賀青木氏の者」は「店主・店子」として務めました。
ここから、「江戸伊勢屋」から「薬や油や線香等の生活雑貨」を受け取り「情報活動」をしていたのです。
全国に散り情報を集め「江戸の伊勢屋」は「伊勢との連携」を執りながらこれを進めました。
この各地の拠点が、「神明社の組織」であり、「清光寺の組織」であったのです。
そして、「伊勢青木氏」は「江戸屋敷」を「吉宗」より二つ与えられており、「江戸の伊勢屋」の「伊勢青木氏」は、“「吉宗」に直接に意見を述べられる「立場」”の“「布衣の位」”を持っていました。
この“「布衣の位」”は「大名」でも、「御三家程度の立場」しかいませんでした。
その為にも、「香具屋・忍者」は、「紀州藩出の吉宗」には、密かに「江戸伊勢屋の青木氏」を通じて欠かせない「情報源」が絶対に必要で、「甲賀忍者」に翻弄されない態勢を造り上げていたのです。
従って、江戸では火花が散る様に、「甲賀忍者」との駆け引きが起こっていたのです。
この事は、つまり、「伊勢青木氏・伊勢屋」の「伊賀青木氏」に率いられた「香具屋・忍者」は公的にも有名な史実であったのです。

其の後、「江戸の青木氏・江戸の伊勢屋」と「吉宗との間」で「大事件・1769年」が起こったのです。
それは、「同族」であった「信濃青木氏の領地・新聖地」を「吉宗」は強引に奪ったのです。
「幕府財政の立て直し」の為に「殖産」で「利益」を上げていた「信濃青木氏の信濃佐久地域」に、「四つの新藩」を造り、それを与えて財源を造り上げようとしたのです。
「甲賀忍者」に依って「情報」を抑えられていたこの「裏切り行為」を、「伊勢の伊賀青木氏」の「香具屋・忍者」は、「江戸の青木氏の江戸の伊勢屋」に事前に詳しく持ち込んだのです。

「吉宗」に確かめる事は危険と察知したのです。
「吉宗の親代わり」だった「伊勢青木氏・伊勢屋」に対しての「裏切り行為」が発覚し、これが「表向き」に成って「吉宗の圧力」が掛からない内に「1769年」に一切の財産を「店子」に無償で渡して、数日で「香具屋・忍者の警護」で伊勢に帰ったのです。
この時、「店子」には「伊賀」の「香具屋・忍者」が務めていたと記されているのです。

(注釈 上記の経緯から、実は、現在も東京には「伊賀青木氏・香具屋・忍者」が存在していると観ていたのです。
数件の伊賀青木さんと観られるお家が見つかっています。
又、勿論、「伊勢」の「伊賀」か、その近隣にもこの「伊賀」の「香具屋・忍者の青木さん」の御子孫が存在しているとして研究していました。
「伊賀」には殖産で関わっていまでも定住されている事は判っていますが、歴史的に関連する各地では未だ見つかっていませんでした。
当然にお家の近江・滋賀もです。)

さて、其の後、「伊勢」に「吉宗の圧力」は陰日向で掛かり、“「香具屋・忍者」”は「甲賀忍者」と戦い、これを護り通したのです。
結局は、「信濃青木氏の聖地」は何と1/4と成り、現在の「信濃の青木村」の広さと成ったのです。

この事は「伊勢と信濃」に執って有名な史実なのです。
つまり、「香具屋・忍者、即ち、伊賀青木氏」に依って救われたのです。
これは、「享保期の香具屋・忍者」の欠かせない史実としての「伊賀青木氏の活躍」の歴史なのです。

此処で、これが「お家の事」に繋がるのです。
ところが、「香具屋・忍者」が活躍したもう一つの歴史的な「有名な事件」が「近江」で起こっていたのです。

それが、次の事件です。
「室町期末期・1543年」に「火縄銃」が種子島に入ります。
そして、其れよりかなり前に、既に「伊勢屋の貿易」で入手した新しい欧州で開発された「銃の見本」を「伊勢青木氏」は入手し、皇位族として武力の持てない立場であった為に、戦国の世を生き残るために、これを「青木氏の抑止力」にする為に、試作して改良して堺で密かに作ろうとしていました。
また、木曽の山に逃げ込んでいた美濃の青木氏を救う戦略として、そして、それを生き残った「美濃の伊勢の裔系の額田青木氏」に渡して「戦国の乱世」を「国衆」として生き抜かせようとしました。

そこで、「堺・伊勢屋の支店・摂津」で先ず作り始め、それを「近江と日野」でも部品を造らせて組み立てていました。
ところが、「種子島」から入った「火縄銃」を直接島に渡り、学んだ後に「紀州の雑賀衆と根来衆」が独自に「火縄銃」を作り始めたのです。
そして、これが「近江と日野」でも密かに「火縄銃」が造られる様に成ったのです。
そして、この「近江・日野の銃」が「掟」に従わず「高額・1000両〜2000両」で各地の大名に密かに売り渡していたのです。
これの情報が「香具師・香具屋」によってもたらされました。

慌てた「伊勢青木氏」は、この「火縄銃」が世間に多く渡れば、“国は乱れ「殺戮の世界」が生まれる”として「伊勢青木氏」は危惧していました。

そこで、全国を情報収集していた「伊賀青木氏」の「香具屋・忍者・伊賀青木氏」から得た詳細な情報で「掟を破った事」を知ります。
「堺」は「組合」を通じて、「近江・日野」に「資材や財源」の供給していたのですが、対策としてこれを停止しますが未だ続きます。
そこで、これを何とか抑え込もうとして、武力の持たない「組合の差配頭の伊勢青木氏」は、大勢の「香具屋・忍者・伊賀青木氏」を近江に送り込んで抑え込もうとしました。
そして、次第に秘密裏に各地から流れる資材などを探り抑え込みに成功します。
結果、真面目に働いていた殆どの「近江鍛冶職人」は「香具屋・忍者」に誘導され保護されて「伊勢」に逃れてきます。
そして、これらの「職人」は「伊勢の殖産」に従事する事に成ったのです。

中でも「伊賀」では、「伊勢青木氏」の主家と共に「伊賀青木氏」が中心に成って「綿花の織物などの殖産」や「和紙の殖産」等を手掛けていて、「近江の職人」の彼等をこの為の「機械」を造る様にさせたのです。

実は、「織機や水車や和紙機」などの「機械を造る職人」の事を古来から「服部・はっとりべ」と云うのです。
これが「伊賀の服部」さんです。
その裔が、「伊賀忍者・香具屋」で有名な「服部半蔵の香具屋と機械造りと忍者の家筋」の小頭でした。
これらが、「伊勢青木氏の青木氏部」の「伊賀青木氏の差配頭・大頭」に所属していました。

「青木氏部」とは「奈良期から青木氏に所属する職人集団の事」です。
「伊勢青木氏」は、奈良期から「守護神の神明社・500社と清光寺」を独自に持つ為に「宮大工や全ゆる職人」を大勢抱えていて、これを差配するのが「升目紋の家人の青木氏」です。
その「家人の一人の差配頭」が「伊賀青木氏」なのです。

室町期に「信長」に「伊賀」が攻められる「前・1578年(1581年)」には、「伊賀原士は18士、又は21士」も居ました。
ところが、この内の「下山氏等三士の原士」が「裏切り」をして「織田方」に情報が洩れ、この事が事前に、結局、「香具屋・忍者」から齎された情報でありました。
慌てた「伊賀青木氏と伊勢青木氏の「郷士衆全員・50衆」は軍を、編成して「総攻撃の前夜」に「名張の清蓮寺館・青木氏の平城」より「伊勢青木氏」が、「伊賀青木氏等」の「伊勢シンジケート」を使って「伊賀青木氏等の配下の仲間」を「伊賀城」から救い出したのです。
結局は救出できたのは「11士」でした。
名張城で密かに匿います。
この「11氏の原士・郷士」が「伊賀青木氏の支配下」にあったのです。
残りの「1〜3氏」は打ち取られたとされていて、他は全国に散っていた者を「香具屋・忍者」は各地を廻って呼び寄せます。

そして、「1581年の戦い」には、「11士」の「香具屋・忍者系の組織」は参加せず、今度は、「伊賀青木氏」の許で生きて活躍する事に成ったのです。
歴史的に残る大きな史実では、「江戸初期の殖産の活躍」と、「享保期の活躍」と、伊勢に戻った時の「甲賀との活躍」と、「室町末期の近江の活躍」と、「信長との戦いの活躍」があります。

其の後、享保期以後、「伊勢青木氏の殖産」を中心に活躍し、その各地に配置していた「香具屋・忍者・伊賀青木氏」の「情報集め」にも大いに活躍します。
中には殖産物を摂津に警護しながら「運搬」もした事が書かれています。
要するに、お家の「伊賀青木氏」は「香具屋」を務め、「伊賀の郷」では「服部等」を差配下にした「差配頭・家人・氏人」なのです。

この上記の史実から、導かれる事は、お家の父方の「香具屋・忍者」は、そもそも「享保期の活躍」からも本筋の「伊賀青木氏・家人」で、同時に「祖母方の青木氏」も「伊賀青木氏の一族系列・11士」の「青木氏」であった事を意味します。

それが、「近江」での「火縄銃の事件」で配置された「青木氏の縁」で再び血縁した事に成ります。
「二つの伊賀青木氏」が「近江」で血縁出来ていた事は、情報として未だ伊勢青木氏の郷士衆の中では知られていた事を物語ります。
「伊賀青木氏」は「伊勢青木氏の氏族」の「伊勢衆の氏人衆」の「氏人衆・伊勢衆50衆」の一つです。
「伊賀衆11士」を支配下に置いた「伊賀青木氏」なのです。
これで「青木氏と云う氏族」を奈良期から形成していた朝廷が唯一認める「正規の氏族」で、現在に遺った「唯一の諡号の氏族・正規」です。
「伊勢と信濃の青木氏」以外に「正規の氏族」は現在ありません。

実は、筆者は初回のお便りで驚いたのです。
筆者とは、「伊勢青木氏の裔系」として「親族のお家」が「近江」に「お住まいであった事」に成りますので、驚きました。
「香具屋・忍者・伊賀青木氏」が、矢張り「近江」に居りましたか。
「享保期の事」が蘇る様でした。

「近江の清光寺の件」は「浄土宗」で良いのです。
元は、そもそも、「祖先神の神明社」を守護神とする「神道族」で、更に、平安期で「密教浄土宗」であった事に成り、恐らくは、「近江」に入った時か、「江戸初期の顕教令」かで、「隠れ蓑」として「武士の真宗大谷派」に入信した事が考えられます。
恐らくは、「近江」であると考えます。
「香具屋・忍者」の「商い」であった以上は、表向きには「浄土宗」はあり得ません。

「三つの清光寺」ですが、「甲賀の所縁」から「甲賀にある清光寺」かと推理していましたが、「屋号の山上」から「大津山上の清光寺」と成りますね。
これで納得できますが、「甲賀青木氏」を除く他の一つは、滅亡した「元近江青木氏三氏」の「清光寺の浄土宗」で滅亡した「近江青木氏の菩提寺」でした。
「近江青木氏の支流傍系」が「摂津支店の援護」を受けて摂津に定住しまして子孫を増やしました。

何故、お家が「近江」なのかと云う事ですが、上記の事と合わせて。次の事で証明できるのです。
「大津山上の清光寺」は、「真西10kの所」に「厳龍寺」と云う寺が有りますが、これが上記した「近江銃」、即ち、「厳龍寺銃」と呼ばれる「火縄銃の生産根拠地」でした。
つまり、故に「お家の浄土宗の清光寺」は「大津の山上」が正しいのです。
近くに居て監視し「情報」を集めていた事を物語っています。

「神明社」は全ての「青木氏の守護神」です。
「清光寺以上」に「情報の拠点」でした。


詳しくは、これ等の事は全て研究室に論じていますのでお読み頂けると、上記の詳しい事が判ります。
ヤフーが認める段突の膨大な資料で、他にないとの事です。
「伊賀の事」も広範囲に詳しく論じています。ゆっくりとお読みください。
青木氏に関わらず「歴史マニア」にきっと成りますよ。

長い御説明でしたがご質問が有りましたらお便りください。
サイトをお読みに成ってわからないときはお尋ねください。

長い御説明でしたが