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  [No.1192] 峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
     投稿者:山梨の青木   投稿日:2021/09/14(Tue) 14:49:35

私の先祖は峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀と聞いております。
この峡中家歴鑑の青木與兵衛忠秀と関連のある書物をさがしておりますが、今のところみつかりません。
参考になる書物等ありましたら教えてください。
家の家紋は丸に三階菱です。現住所も上の書物にある住所です。
よろしくお願いします。

山梨の青木です。家紋は丸に三階菱。
私の先祖は峡中家歴鑑の青木與兵衛と聞いておりますが
他の資料その前後の資料が見つけ出せず困っております。
どなたかしっている方は教えてください。


  [No.1193] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/09/21(Tue) 09:05:35

山梨の青木さん 今日は。始めまして。
本サイトは全国の青木さんが集うサイトです。これからも宜しくお願いします。
さて、山梨の青木さんに付いては青木氏の中である事情があって信頼できる情報としては判らない事が多いのです。
「山梨の青木さん」の始祖の出自は判っていて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に「五家五流の皇族真人族」から「賜姓臣下族」として「青木氏」が「天智天皇」から「嵯峨天皇期」までの間に出自しました。
「伊勢」を始めとして「美濃、信濃、近江、甲斐」と広がりました。
「伊勢」は、「天智天皇の第七位皇子の真人族の施基皇子」が臣下して「伊勢王」となって遙任し後に赴任と成りました。
そして、朝廷の造部が作った全ての物品に必要量を取り、残りを市場に放出して金品に換える役目を負っていました。
そしてその「院号」を与えられて一切の専有権利を持つ事と成りました。
この伊勢松阪の施基皇子の一族は「歴史的な商人の始り」でした。
これに「信濃王の青木氏」が手伝いました。
この時、「天智天皇」はこれらの「賜姓真人族の臣下族」に「青木氏」を与え、それにともない「賜姓五役」と云う役目を与え、「賜姓物」をその証の象徴としての「賜姓三物」を与えました。
現在でも引き継いでいます。
この「賜姓五役」の一つには「天皇家の皇子皇女」の王位継承で外れ増えて行く場のない者を引き取る役目を与えたのです。
これを護つたのは「伊勢と信濃と近江と美濃」でした。
「甲斐」にはこの役目を護ったとする記録はありませんし、経緯から無かったと考えられます。
それは「甲斐青木氏」は「他の青木氏」と違って出自が遅かった事が考えられます。
それは「嵯峨期」に成って「伊勢青木氏出自の曾孫」でもあった「嵯峨天皇」はこの「賜姓臣下族の青木氏の制度」を強引に中止して仕舞ったのです。
その為に「青木氏」からの「財政的支援」を無くし、困った「嵯峨天皇」はその為にその代わりに財政の枷と成っていた「皇子皇女の殆ど」を「源氏」として、朝廷の財政難から皇子皇女の数が多く成った事から、賜姓し財政的裏付けを無くし放り出したのです。
当然に「伊勢と信濃の青木氏」は彼等を引き取りませんでしたので生きて行く事は出来ませんでした。
生き残ったのが「11家11流」あった源氏は遂には武器を持った「清和源氏」だけ遺りました。
然し、「商い」で得た財力で「殖産起業」を興して「巨万の財力」を蓄えていた「伊勢と信濃・商人の始り」は、この対抗策として皇女皇子を引き取る事等一切の支援をしなくなりました。
困った「嵯峨天皇」は反対派の「平城上皇・伊勢青木氏の孫施基皇子の曾孫」は乱の末に困って妥協して仲介策を執り、「皇族賜姓族である事・第4世族」の「王位」を証明するものがあれば「青木氏」を名乗っても良い事を詔勅を発して認めました。
この時に、初めて「甲斐に正規の皇族真人族の青木氏」を送り発祥しました。
これが先ず、「甲斐蔵人青木氏」として格式を与えて「嵯峨天皇の皇子」を派遣しますが、自ら賜姓臣下族の青木氏を否定した以上は「賜姓臣下族の格式」で派遣できず、一段下げた状態で派遣したのです。
つまり、甲斐の税金を管理監督する上級役人として派遣したのです。
他の4家とはその「賜姓五役の目的」は異なりました。
これをその蔵人役の二代後に「嵯峨天皇」が自らが賜姓したとして「源源光」に「甲斐青木氏」としてこの跡目を継がせ甲斐に派遣しました。
これが先ず「甲斐の賜姓青木氏」です。
ところが、この「源源光」の腹違いの下位の立場の兄が「嵯峨期の詔勅」を使って「賜姓青木氏」ではないこの「禁令」を破って「格式が無い兄の源時光」が「青木氏」を名乗ってしまったのです。
この「二つの青木氏の流れ」が甲斐には有ります。
ところが、この格式が無い「兄の源時光の甲斐青木氏」が武力を甲斐で勢力を持ち、「正規の弟の源源光」はその財力を武力で強引に兄に奪われて衰退をします。
然し、「兄の源時光の甲斐青木氏・信長に滅ぼされる」と違って室町時代末期までほそぼそと生き延びましたが、記録で明治まで子孫が生き延びた事が判っています。
この甲斐には「二つの流れの青木氏」が甲斐にはあって、他の四家四流とは異なります。
お家は、この「源時光の甲斐青木氏」です。
この「兄の源時光の甲斐青木氏」」には、大まかには「本家筋」は「二流」と、「分家筋」も「二流」に分かれ合わせて四流と成ります。
お家は、「本家筋の分流」に成ります。
この「本家筋」は、結局は武田氏の台頭で血縁して組み込まれます。
上記のこれ等は伝統の本論に詳しく論じていますのでそれを参照してください。
「時光系青木氏」や「甲斐青木氏」等のモードで伝統シリーズの検索で読んでください。
お家の事も詳しく書かれていますし、甲斐青木氏家紋なども記載されています。
さて、この武田氏に組み込まれた「本家の時光系青木氏」は三つの派系に分かれます。
大まかに「四つの流れ」があり、「武田氏系時光系青木氏」、「武田氏系諏訪族青木氏」、「諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」です。
但し、「武田氏系時光系青木氏」は更に「二つに分流」しています。

さて、結論は、「時光系の分家」の「二流」ともは「武田氏」に味方せず、「徳川家康」に救われて密かに「武蔵の埼玉の鉢形」に一族郎党全て移されて生き延びましたし、一つは「安芸」に逃げ延びて「安芸松平氏」に救われて家臣と成り助かりました。
因みに、「武蔵の埼玉の鉢形」の「時光系分家青木氏」には極めて有名な人物がいます。
それは、柳沢に住んでいた「青木吉保」です。
つまり、将軍綱吉の側用人の「柳沢吉保」です。
鉢形に移住して三代目の「青木吉保」とし、妾子であった事から出自地の「柳沢吉保」と名乗りました。
この吉保が850石から最終は三郡を獲得し72000石に、そして15万石までに主世しますが出世し、一時この甲斐の守護と成り甲斐に赴任した時に家臣が無かった吉保は生き残った一族を呼び集めて大大名の家臣団を形成した経緯を持っていて、最終は謀叛の疑いが掛からない様にこの根拠として武田氏子孫の後継者をも認めさせています。
その後、奈良大和郡山に移封してこの周辺から岸和田までに甲斐の時光系青木氏の青木氏の多く子孫を遺しています。角界には有名な人もいますよ。
この大和郡山から他国に勝手に移動する事は「江戸時代」では「国抜け」と云って一族郎党斬罪と成ります。
ですから「生き遺り」は甲斐には支流まで含めての子孫は明治初期までは殆ど無い筈なのです。
徳川氏に味方した内の分家筋は勿論の事本家筋の生き残りの者を一切呼び集めこの家臣団と成りましたので甲斐には本来は居ない筈なのです。この事は正式な記録も遺されています。
ですから上記の経緯が生まれているのですが、この史実を打ち消すには相当に難しい事だと思います。
それにはまずは下記の条件をクリヤーする事が必要でしょう。

ところが、本家筋の4家の内、武田氏系時光系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏は「信長」に完全に銃で滅ぼされて滅亡します。死者記録もあるのです。
[諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」は、徳川氏とは強く戦わずに「信濃青木氏の縁戚筋の母方藤原秀郷流青木氏」を頼り「神奈川と横浜」に逃げ延びる事が出来ました。
「藤原秀郷流青木氏」は「徳川氏の御家人衆の家臣」でしたので「諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」も家臣に成りました。
「時光系の分家」の二流と合わせて「三つ流れ」が家臣に成ります。
この事ははっきりとしています。

そうすると、お便りの明治の中頃に出版された「峡中家歴鑑」での「青木氏」は、本家筋の4家の内、「武田氏系時光系青木氏」、「武田氏系諏訪族青木氏」の二つに成ります。
恐らくは、前者です。
後者のその後の事は明確に成っていて現存します。
前者は「長篠の戦い」等で「信長の3千の銃隊」に依って完全滅亡した事も資料からもはっきりしています。
「信長側からの記録」と「武田氏からの記録」の死者名簿も幾つもあり、これを突き合わせると「甲斐の青木氏」に付いては実に正しい事が判ります。
然し、お便りから「峡中家歴鑑」ではこれらを根拠に私観を交えて纏めたものと考えられます。
そこで、武田氏の家臣であった事を前提とすると、一つは死者記録資料に載らない漏れた家臣が居た事か、将又、「三つの流れ系の青木氏」かに成りますが、この歴鑑にある以上は前者と成りますがお家で家系が繋がれていると云う前提では矛盾がうまれます。

「お問い合わせ]では「家系の伝統]が引き継がれていない事が考えられます。

そこで、お家がこの「歴鑑の青木氏である」と云うお家に引き継がれた根拠の様なものが何かあるでしょうか。
在れば教えて頂ければと思います。
実は、上記しました「他の四家四流」と違って「大日本史」にも明記されている様に、この青木氏外に「第三青木氏」と云う「青木氏」が存在します。
本来は、歴史的経緯より「甲斐」には滅んだ事により「時光系青木氏」がない筈でありながら、実は現実に多いのは「第三青木氏」という事が在るのです。

これは江戸期初期に農民等の庶民から武士に成る為にある条件を満たした「国印状」と云う証明書が必要でした。
武士から身を興した農民等には、この条件を満たす事は出来ませんので、虚偽で「姓名」を名乗ったのです。
それが甲斐では「青木氏」だったのです。
幕府は黙認しましたが、これが「第三青木氏」と云うものです。
幕府は一応は禁令を出しましたが守られず、葵木氏等にして一時逃げて偲び又再び戻すという事が興ったのです。

次に「明治維新」に「3年の苗字令」と「8年の督促令」で「90%の民が苗字・姓名」を持っていませんでしたので、何とか「姓名」を持ちましたが、この時、周囲の有名な「氏名」を勝手に「姓名」にして名乗る事を維新政府は推奨し一晩の内に強制的に強引に名乗らせたのです。
「五家五流の青木氏」は「皇族賜姓臣下族」であった事から「嵯峨期の9つの縛り」に従って「氏名」であって「姓名」では無く、「青木氏」は唯一、「姓名」を持たず名乗らなかった氏です。
例えば、四掟に基づく母方縁戚関係にある「北家藤原氏」は「氏名」で「姓名」は「佐藤氏」や「遠藤氏」や「進藤氏」等の「361の姓名」を持ちます。
つまり、「藤原氏」は「姓名」ではなく「氏名」です。藤原氏を名乗れるのは宗家だです。
因みに、「藤原氏の秀郷流青木氏」は「116の姓名」を持ちます。

これらを選別するには「青木氏の格式を物語る条件」を満たしているかではっきりと判ります。
その為に限られた特別な条件を持っています。

次の判別条件がありますので「根拠の前提」として照らし合わせてください。
宗派(江戸期以前は浄土宗です。時宗の場合もあります。)
維新戸籍簿(甲府の出自地にあります 士分と書いています)
江戸期前・1866年前の過去帳有無(人別帳ではありません)
江戸期前・1866年前の菩提寺有無(檀家寺ではありません。はっきりしています)
江戸期前の系譜の有無
墓所の墓石状況と建立の年代 又は本家の墓所の状況
家紋の有無(青木氏の家紋にあるが), 縁戚族に丸に三階菱紋の確認
戒名の形式(独特の形式をもっています)
等が判れば疑問は解決できます。
甲斐の「峡中家歴鑑の青木氏」であるかは、将又、甲斐の青木氏であるかもこれで決まります。

確かに「丸に三階菱紋」は「武田氏系青木氏の支流族」に当たる事は本論でも論じていますので間違いは無いと思いますが、これも江戸初期と明治初期に利用されていますので何か江戸期前のものとして証明するものがあるでしょうか。

実は、お家がこの明治24年編成のものの「青木氏さん」が「甲斐」には他にも多いので情報が少なく確定は出来ずに判らないのです。
子孫であるとするならばそれなりのしっかりした「伝統」があって、上記の条件を先ず最低限お判りに成っているはずですのでお調べください。
お知らせ頂ければお答えいたします。

ではお便りをお待ちしています。


  [No.1194] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
     投稿者:山梨の青木   投稿日:2021/09/27(Mon) 14:27:48

大変中身の濃い情報のレポートを頂きありがとうございました。
文中の最後の「根拠の前提」について、今分かっている事を少し返答させて頂きます。
1.宗派(江戸期以前は浄土宗です。時宗の場合もあります。)
 ⇒曹洞宗です。
2.維新戸籍簿(甲府の出自地にあります 士分と書いています)
 ⇒まだ調べてありません。
3.江戸期前・1866年前の過去帳有無(人別帳ではありません)
 ⇒家の過去帳があったお寺は廃寺になっていまはありません。
4.江戸期前・1866年前の菩提寺有無(檀家寺ではありません。はっきりしています)
 ⇒まだ調べてありません。
5.江戸期前の系譜の有無
 ⇒武川村以前がわかりません。青木與兵衛忠秀が高遠城の戦いでなくなって、高遠にお墓があるときいていますがまだ見つかっていません。
  家の言い伝えで高遠にお墓があることは伝えられています。
6.墓所の墓石状況と建立の年代 又は本家の墓所の状況
 ⇒一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。
7.家紋の有無(青木氏の家紋にあるが), 縁戚族に丸に三階菱紋の確認
 ⇒まだ調べてありません。
現段階では少ないですが以上です。
今後、新しい事がわかり次第報告します。
また私の家の屋号は門口村と呼ばれております。現在の家の場所が一条氏館跡の正門があった場所に家を作ったからだそうです。
お蔵に古い証文等がまだあるかもしれませんから、これから調べていくつもりです。


  [No.1195] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/09/29(Wed) 11:56:12

山梨の青木さん 今日は。
早速のお便り感謝します。

さて、今回のお便りから読み解く事が出来ることが幾つかあります。
「青木氏」には「伝統と云う情報の足跡」を残していますので、それから読み込めばちょっとした情報から判る事が実は多いのです。
「調査項目の1356」から凡その事で「二つの武田氏系青木氏」が持つその「経緯と歴史観」から読み取れます。
兎も角も、「信長の長篠の戦い前後の戦いの掃討作戦・記録」は歴史に遺る激しいものがあり、甲斐に遺る一族郎党を悉く調べ上げ全てを抹殺する程のものでした。
取り分け、特別の立場にいた「二つの武田氏系青木氏」は伝統がある為に隠す事が出来ず生き残る事は先ず無理であったと考えられます。
「家康」もこれには驚き密かに救い出した「青木氏」を含む優秀な武田氏家臣を隠すのに必死となり、それが三つの記録にも詳細に遺されています。

「二つの武田氏系青木氏」に付いては「青木氏」と云う「特殊な氏名姓名とその伝統」を持っていた事で、芋づる的に発見されていまして、近江の領域まで歴史に遺る広範囲に掃討を受けた事が判っていて、中には、妾と成っていた甲賀者の娘までも掃討を受けた資料も遺っていますが、幸いにこれも唯一に甲賀者が救い出した事が判っています。
ですから、甲斐には「二つの武田氏系青木氏」は全滅とされている事は先ず間違いは無いと思います。
恐らくは、甲斐に青木さんがいるとすれば、「第三青木氏」は別として「前のお便り」にも書きました通り明治維新後に女系で繋いできた者の内に「青木氏」を別に興して「甲斐」に戻した事が殆どと成るのです。
維新期前は「国抜け」で移動移住は出来ない掟なのです。
ですから、「前提の根拠の部分」が途切れますので異なる事に成るのです。
取り分け、この事で「宗教」が先ず異なる事に成るでしょう。

そこで1の「曹洞宗」ですが、この宗派は1365年以後の鎌倉期の事で、本格的には江戸期初期の1615年に寺院法度により永平寺と總持寺が大本山と成った遅い経緯を持っていて、これ故にこれ以前には「青木氏の歴史観」には一致しません。
確かに、禅宗派であり「浄土宗の大日如来からの悟り」を前提とする点では一致する事から「室町期末期」には浄土宗でありながらも得度を受ける「青木氏」も出ましたので否定できません。
本来、「時宗」は「武田氏系青木氏全氏」に執っては重要で「時宗の常光寺・元浄土宗」を本山とし、一遍上人を開祖としてその教えを基に、「南無阿弥陀仏」を前提とする浄土宗一門の流派です。
然し、この「甲斐」では信長に占領され、これを前提にして見つけ出されて掃討されたので、甲斐では明治以降で無いとされます。故に「時宗」はあり得ません。
結論としては、「曹洞宗」はその教えから庶民の信仰の対象とは成り得ませんでしたので、「曹洞宗」とすると「男系からの青木氏」ではなく、上記の明治以後の甲斐に移動した青木氏で無くてはあり得ない事に成ります。

3の過去帳の件ですが、曹洞宗寺の廃寺と成っているとの事ですが、この時期と場所を教えてください。
そもそも「過去帳」は「氏族」だけのもので、氏が「存続維持管理運営される独善の氏寺での事」です。
故に「過去の青木氏の先祖の履歴」が「系譜」の様に遺されているのです。
つまり其れだけの「氏の財力」を持っていた事に成ります。
この「曹洞宗」だとすると、禅宗であり、氏寺ではあり得ませんね。
「甲斐の青木氏」ははっきりとしていて「常光寺」が「氏寺」です。
確かに甲斐には「5つの常光寺」があり、一時は「主寺」は戦国期には廃寺には成りましたが宗派は「時宗」です。
元は浄土宗であったのですが、一族内で勢力争いの揉め事が起こり宗派替えをしました。
その後に甲斐の領主と成った「家康」に依って再建されていて、仮にお家が「甲斐武田氏系青木氏2氏」の一つの子孫であるとすると、この「5つの内の氏寺」の内にある筈で、其の内、「韮崎市清哲町青木」の「分寺の常光寺」が「分家支流祖卑属の族の氏寺」と成っていた筈です。
「宋宗本家」は「甲府の本山常光寺」です。
現在は氏寺は「江戸期初期の顕教令」で無くなりましたが墓所はそのままです。
ですから、「高遠にあるとする墓」は、5の「高遠の戦い」での戦死1545年と成るとしていると、この墓は「氏墓の菩提寺」の墓では無く、戦死者を合祀する「統一墓の合祀墓の事」で、ルーツを確定する墓所とはならないでしょう。
戦死した場合はその骨などの遺品を「韮崎の常光寺の氏寺」に葬ってもらうのが習わしですが、江戸期にはまだ流石に常光寺に戻す事は出来なかったでしょう。
ですから、高遠の此処は「氏寺の菩提寺」では無く、「武田氏系青木氏」はそもそも甲斐に「菩提寺」を持つ氏であって、高遠は「氏寺」ではありませんので、高遠には青木氏の先祖を物語るものは無い筈です。
但し、下記説の「娘の嫁ぎ先の家筋から青木氏を興した」とする場合の墓氏とすれば別です。
「曹洞宗」とする前提と「丸付き紋の前提」ではあり得るかもしれません。

“一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。”とありますが

次はこの6の件ですが、“一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。”ですが、何処の墓を以て言っているのかが良く判りません。
教えて下さい。
又、江戸末期の「慶長」とすると、「菩提寺」では無く、顕教寺である事に成ります。
それ故に青木氏とする場合は「韮崎の氏寺」では無いと考えますが、仮に「韮崎の常光寺の氏寺」であったとして、この情報には、庶民は墓を持つ事を許可なく一般にはできませんでした。
精々に木の「卒塔婆」でした。
従って、江戸期以前の墓は、そこで「武士の墓」は「砂岩」を前提として掟が定められていました。
それは土に帰るを「仏教の前提」としていた為で、明治以降に使われ始めた大理石の墓はまだ在りませんでした。
当然に刻まれた戒名などは消えて行く事に成ります。
「江戸末期の慶長」とすれば、1545年からすれば320年程度後に成りますので読めなく成る事は当然です。
この時は「曹洞宗」でした筈ですが、「江戸期前の伝統ある武士の墓」は,通常は「3つの段階」に分かれていて、先ず50年毎に隣の墓に移され最後150年後には最終は「先祖墓」と云う「三段構えの墓」に移されて葬られて行くシステムです。
中には累代の先祖の戒名を書き並べた先祖墓がある筈てす。
ですから「伝統」としては「墓の字」では読み取れないので「過去帳」を造り記録し「氏寺の菩提寺」に保管し、家では「曼陀羅帳」を掲げて祀ります。
「浄土宗系一門の宗派」ではこの「過去帳」を「氏寺」で持ちますが、浄土真宗などの「顕教」は「過去帳」は無く顕教なので持ちません。
「氏寺」では無く顕教寺の場合は「人別帳・税などに利用する一種の戸籍簿」です。
「顕教」とは誰でもが帰依する事が出来る寺の事で独善性はありません。
これを「菩提寺」では無く「檀家寺」と云います。
「曹洞宗」も禅宗ですが「浄土系」ですので「過去帳」も「墓所」も「永代供養の願い込み」をすれば持ち得る事は可能ですが、代々に於いて「財力」が無いと出来ない事に成ります。
取り分け「曹洞宗」はその傾向にあります。
従って、「曹洞宗」であり、且つ、「高遠の戦い」でお家の先祖とする当主が戦死したと成れば、先祖の履歴を追い求める事は出来ないのでは無いかと思います。
つまり、仮に「韮崎の常光寺」で無いとすると、先祖を追い求める事は無理では無いかと思えます。
従って、「二つの武田氏系青木氏」の「男系子孫」であるかは「曹洞宗」である限り難しいものと考えます。

筆者は、そこでこれらの事から次の様に考えます。
上記した「高遠で戦死した事」で、「女系の出自の者・嫁に行っていた娘の家筋」が、その家の「男子の子供に青木氏を興させて継がせた事」に成ったのでは無いかと思います。
お家が云う墓の事は、この「女系の出自の者・嫁に行っていた娘の家筋」のものか、「男子の子供に青木氏を興させて継がせた事」の墓ではないでしょうか。
だから、「曹洞宗」であって、その後の「別の国」に住んでいて「信長の厳しい執拗で徹底した長期間の掃討作戦」でも生き延びられたのではないでしょうか。
この「織田氏の勢力の及ぶ範囲」に掃討作戦は長期間に専門隊を編成して、期間は「信長甲府凱旋」まで続いたとされています。
だから、伝統の最たる「家紋」でも掃討される筈ですが、「別の国説・娘らの嫁ぎ先の国」で「分家筋や支流族が使う丸付き紋」の「二つの武田氏系青木氏」の「三階菱紋」であったのでは無いかと思います。
然し、何処にいても「丸に三階菱紋」は信長の勢力の届くところでは無理で会った筈です。
少なくとも室町末期間での青木氏と曹洞宗と三階菱紋の使用は無理であったでしょう。
当主が高遠での戦士と成れば、「戦い」では一族の大きさに課せられた人数を集めなくてはならないので、治めている領地の村の農民の次男三男も駆り出し、当時は男子15歳で戦士として当主と共に戦いに出ます。
当時は「1騎2将50兵100傭兵の原則」であったので、恐らくは最低で300から400の数に成っていたので村ごと戦いに出た筈です。
甲斐武田氏系青木氏であれば「1騎」と云う事はあり得ないので「2騎」であればこの倍はあり当主と共に戦死した事に成ります。
「甲斐の「青木氏の領地」では、「山梨郡、八代郡、南北巨摩郡、南北都留郡の4郡」が設置されていて、最大時は南北の巨摩郡と甲府の中央と等5郡が領地であったとされていますので、最大でも「二つの武田氏系青木氏」では2騎の1000には成っていたと考えられます。軍議にも参加できる資格を持ちます。
従って、当主が戦死するとなると「跡目を継がせる男子」は全く無くなり遺された幼い子供の者も掃討作戦で無くなっている筈ですから、「嫁の嫁ぎ先からも男子を建てる事」は相当無理で、出来る限りは別の国に嫁がせるのは戦国時代は通常でした。
そうすれば「曹洞宗との矛盾」は解けます。

“また私の家の屋号は門口村と呼ばれております。現在の家の場所が一条氏館跡の正門があった場所に家を作ったからだそうです。”の件ですが、
つまり「一条信龍」は「武田信虎の八男」で「信玄」とは異母兄弟の事ですね。
この屋号は何時からの事でしょうか。
恐らくは「明治後の事」に成ると思いますが、こんな良い場所に家を建てられたとすると「青木氏」を興せるくらいの財が在った事に成りますね。
つまりは、上記の説も含めて「商人の可能性」がありますし、だとすれば「掃討作戦」から逃れられます。
だとすると、何故に「5つの常光寺」に、取り分け「韮崎の常光寺」か「甲府の常光寺」に「甲斐の青木氏」として辿り着かなかったのでしょうか。大いなる疑問です。
「時光系の武田氏系青木氏」であれば判っていた筈ですよね。
これは「丸付き紋」を使った「嫁の嫁ぎ先筋の曹洞宗の青木氏・女系族・支流卑属」を興したからではなかったとも考えられますが。
故に「氏寺」では無いとしていたからでしょう。
そうでなければ、普通は先祖が祭られている「韮崎の常光寺」に行くでしょうし、忘れると云う事には成らないでしょう。

さて「甲斐」は別にして、奈良期より「筆者等の伊勢と信濃の賜姓青木氏」は発祥の元来より「直系女系族で繋ぐ青木氏」です。
「女系族」を主流としてその中から代々跡目の男子を4人選び、四家を構成し、「四掟」と云う決められた範囲で「娘の嫁ぎ先」から「別の血筋」を入れて再び血で繋がる娘を取る「戻し方式」です。
仮に、「甲斐」でもこの上記の説が正しければ、この「女系方式」を一部で執っていた事が裏付けられます。
まだ記録は見つかっていませんがあり得る事です。
「甲斐の賜姓源光系青木氏」はこの女系制度を採っていた可能性が強いのですが、何せ嵯峨期よりほかの「四家の賜姓青木氏」との付き合いが全く無かった事から記録が見つからないのです。

それは「室町期の戦国時代」と「武田氏の壊滅的滅亡」で男子が壊滅的に無くなった事にあり、取り分け「二つの武田氏系青木氏」は上記の「掃討作戦」もあって男子のみならず子孫全体が壊滅しました。
ですから必然的に戦いに参加しなかった「娘の嫁ぎ先子孫の男子・出来るだけ遠くで、商人など」に密かに「青木氏」をほとぼりを覚めてから興させるしかなかったのです。
他の徳川氏等に味方したり「秀郷流青木氏」を頼って助かった「武田氏の血筋」を持つ「青木氏からの養子跡目の件」は、「賜姓源光系青木氏」を含み記録から観て犬猿の仲であった様で無かった様です。

因みに、生態学からこの「女系制度」は遺伝的に叶っていて、「人間の種の遺伝情報」は全て女性に依って引き継がれるのです。
娘から娘へと引き継いで行くのです。
つまり、人間は女性から生まれ男性を目的に応じて変化させたものなのです。ミミズやカタツムリの様にです。
その証拠が元女性であった事の証拠が男性に不必要な4つの器官が遺されています。
故に女系で繋ぐ制度は理にかなっている事に成ります。
5家5流は古来より記録に遺る長寿派で長寿にもなる理屈と成ります。
最後まで生き遺った「皇族臣下族の賜姓族の伊勢と信濃の青木氏」は古来よりこの「女系制度」を敷いて生き残りました。

因みに、「源光系青木氏」は甲斐の北巨摩郡の山奥で小さい村で生き延びていたのですが、信長甲府凱旋のおりに道端に皇族賜姓族として朝廷礼儀を正し白馬に載り白服の正装で出迎えたのですが、これを観た信長が怒り自ら馬から降りて心頭し引きづりおろしてまだ掃討したのに子孫遺していたとして死ぬほどに打ちのめしたのですが、家臣が何とか制して一難を得てた事が信頼できる記録として遺されています。
其の後は徳川氏に匿われて北巨摩郡の山奥に逃げ延びて隠れ住んでいて、明治まで子孫が生き延びた事が判っています。

この様な歴史観の1356から「上記の女系説」が生まれますが、247が判れば当時の戦国時代の武士の家では殆どであった「上記の女系説」が確定する筈です。
殆どは明治初期ですが、その後に安定した時点、つまり江戸期と明治初期の2期で「時光系青木氏」の正式な「青木氏の家紋や宗派や伝統」などは戻せませんが系統としては何時か男子に戻せばよい訳です。

抑々、「菱紋」は100紋あり、この内、主な青木氏を含む「武田氏系列の菱紋」は10紋あり、「三階菱紋」とその「分家支流族と卑属」が使うとされる「丸付き紋」もこの中にあります。
この上記の歴史観と家紋分析などの資料と江戸期に出された「国抜け」などの「当時の禁令」から明治初期では無いかと考えます。
そうでないとすると、甲斐でどの藩に仕えていたのかです。

つまり、「二つの武田氏系青木氏」が仮に生き抜けていたとして「甲斐」でどの様に生き抜いたのかですか、無理であった事が歴史的に判っています。
長篠等の戦いで信長の3000丁の弾幕で無力の武田家臣は試し撃ちの様に戦死者の原を造ったとされ15000人中の内500人程度を勝頼の護衛兵で生き残ったと云われ最終信濃に着いた時には50人程度と成っていたと両軍の記録が一致する様に複数遺されています。
全滅覚悟の「重臣全てが別れの盃の宴」を躱した事が残されています。
武田氏家臣は元よりその一族郎党は捕まり斬罪を受けた事が記録に在ります。
生き残る事は銃弾の弾幕の前と掃討作戦では少なくとも「二つの武田氏系青木氏の子孫」は絶対に無理で会ったでしょう。

前回のお便りの通り「家康の家臣と成って救われた甲斐の青木氏」では無くては生き抜けられなかったのです。
恐らくはこれ以外には可能なのは他国での武士出身の商人であったと観ています。
江戸期初期までは殆どと云っていい程は「武士出の商人」でした.
これらは「維新戸籍簿」で判りますよ。
江戸初期であれば、「家臣、媒臣、陪臣」などを問わず全武士は「国印状」を幕府や藩主から受けねばなりませんから難しい事だと思います。
国印状は伝わっていますか。無いと思います
勝手な移住も「国抜け制度」で禁令ですので藩に届けでないと無宿者の犯罪者になります。

今回のお便りから歴史観として少なくとも上記の事が読み取れます。

新しいちょっとした情報でも結構ですがお便りください。
意外と判る事が多いのでお待ちしています。