青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.1001] Re:兵庫の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/09/22(Mon) 09:22:59

現在、兵庫にお住いの米子八頭の青木さん 今日は。

始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
サイトには、歴史を研究して「青木氏に関わる事」が沢山論文にして投稿しています。
ヤフーのHPでは歴史カテゴリーでは段突の情報量です。
研究室やルーツ掲示板やその他の左メニューにはお家のご先祖の事も論文として記載していますのでお読みください。
膨大な論文ですので、お家の関係する処からお読みに成り、サイト内の検索モードで引き出し、そこから「青木氏」全体の事も合わせてお読みに成ってください。
お家のご先祖の経緯が良く判ると思います。
その際には、ご質問等が在りましたら、ご遠慮なく,このReでお尋ねください。
お家の事が深く判る様に成りますょ

さて、では、その為に、その結論からお答えします。
それで、サイトの論文のキーにしてください。

お家は、提供して頂いた情報から推察すると「皇族賜姓族の足利氏系青木氏」です。

この「足利氏系青木氏」は「信濃の皇族賜姓青木氏」と、「信濃の豪族」の「信濃足利氏」とが血縁して発祥した青木氏です。
信濃の守護王のこの「皇族賜姓青木氏」の一族の者が、男系跡目が出来ずに土地の豪族の足利氏から養子を迎ました。
しかし、又、この足利氏から来た養子にも嫡子に恵まれず、二代続きで跡目ができませんでした。
(女系に成った。)
この時、「家紋掟」に依って、「養子先の系列」に組み込まれた「皇族賜姓族信濃青木氏]です。

そもそも、「皇族賜姓族青木氏」とは、「天智天皇の第六位皇子」が臣下して賜姓を受けて「青木氏」を名乗った「五家五流皇族賜姓青木氏」の一つです。
この「皇族賜姓族青木氏」には、その後には、五代の天皇の「第六位皇子」と、それに準ずる皇位継承を外れた「第四世族皇子」とを、この「青木氏」の跡目に天皇は配置しました。
夫々を伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の「守護王」として配置され、その職務を”天皇を護衛する近衛軍”の職務を与えられました。
この「皇族賜姓族青木氏」の官位官職には、「最高の階級」を授与されて「光仁天皇」まで続きました。
その後は、平安初期の「嵯峨天皇」が、この「賜姓方式」を変更して、「天皇の詔勅」を発して、「青木氏」の賜姓方式から「源氏」に変更しました。
この時、「青木氏」の呼称は、改めて ”全ての皇族より下族する際に名乗る氏名”として、「青木氏の氏名」とその「慣習の一切の模擬の禁令」を発したのです。
この禁令は明治3年まで護られました。
詳しい事は、「皇族賜姓族青木氏」で検索して把握してください。

さて、そこで、何で、”「鳥取の八頭」か”の問題ですか、それは次ぎの経緯がありました。
この「皇族賜姓族信濃青木氏」の信濃の「足利氏系青木氏」の養子先の「信濃豪族足利氏」が、藤原氏北家の藤原秀郷の宗家一門に依って、この「本家の足利氏」が廃嫡されます。
そして、「秀郷一門の跡目」が入った「分家の信濃足利氏」を「本家]にして、信濃を秀郷一門の勢力圏に入れようとして、「信濃足利氏の同族争い」が興りました。
戦いの結果、この信濃の「本家の足利氏」が敗退して、この「本家の足利氏」は、日本海沿岸を経て、逃亡し、最終は鳥取の米子と八頭に辿り着きました。
そして、ここに山野を切り開き定住します。
この時、「信濃皇族賜姓族の足利氏系青木氏」は、この親族と成った信濃の「本家の足利氏」を護って逃亡に同行しました。
この本家との血縁で親族と成った「皇族賜姓族信濃足利氏系青木氏」が、この信濃の「本家足利氏」を護って、米子まで同行したのです。
この護衛し同行した「皇族賜姓族信濃足利氏系青木氏」が、其のままこの地に住み着いたのです。

これが、平安初期に米子と八頭に定住した「皇族賜姓族の信濃足利氏系青木氏」です。
つまり、これが「米子の青木氏」と成り、それがお家のご先祖と成ります。
この子孫は宍道湖の東際まで子孫を拡げています。

処で、「皇族賜姓族青木氏」とは別に、平安中期には、もう一つの流れの「青木氏」が、関東武蔵の国を中心に発祥します。
これが上記の「藤原秀郷流一門の青木氏」なのです。

この「藤原秀郷流青木氏」は、この「皇族賜姓族青木氏」の「五家五流皇族賜姓青木氏」とは、母方で血縁関係を持っています。
これを縁に「皇族賜姓族青木氏」を補佐する為に、特別に「皇族賜姓族青木氏」と同じ身分家柄官位官職を同じにして天皇より与えられます。
つまり、例外として、「円融天皇」の時に、特別に皇族外より「特別賜姓族青木氏」を発祥させました。
その関係もあって、勢力拡大を図った為に「信濃の足利氏の同族争い」が起こったのです。
この「特別賜姓青木氏」はこの結果、全国24地域に分布しています。
これは「秀郷の宗家一門」が、「朝廷の命」に従って赴任した地域に、「護衛団」として同行して、現地に定住した子孫と成ります。
この子孫拡大で、この「特別賜姓族の青木氏」は116氏にも広がります。
詳しくは、論文をお読みください。

この経緯の持った「皇族賜姓族信濃足利氏系青木氏」なのです。
これがお家のご先祖と成り、通常は「米子青木氏」と呼ばれる様に成ったのです。

次に、その後の経緯としては、お家のご先祖は、つまり、米子と八頭に定住した「皇族賜姓信濃足利氏系青木氏」には、「青木氏の皇族氏」としての伝統の純血を護る為に、島根まで、勢力を拡大して来た上記の「讃岐の秀郷流青木氏」との同族血縁をします。
この「秀郷流青木氏」の116氏には、「讃岐秀郷流青木氏」が在ります。
瀬戸内を勢力圏に入れ、且つ四国の讃岐から伊予と土佐の南域に掛けて勢力圏を持っていました。
この「讃岐秀郷流青木氏」は、瀬戸内で得た「莫大な財力」を使って、今度は山口を除く中国地方まで勢力を伸ばし、「出雲大社の亀甲族」と連携します。
そして、「宍道湖の西域」まで勢力を伸ばしたのです。
この「讃岐秀郷流青木氏」は、瀬戸内と四国を席巻する「超豪族」である事のみならず、「二足の草鞋策」で「商い」を営む超豪商でもあったのです。
この事から出雲国の宍道湖まで子孫を送り出します。
この「讃岐秀郷流青木氏」の勢力は昭和20年まで続きます。

さて、この「讃岐秀郷流特別賜姓族の青木氏」の「出雲に定住した末裔」と、お家の「皇族賜姓族」の「信濃の足利氏系青木氏」とには、奈良期から永遠として平安期まで続く「皇族賜姓族の掟」として、”純血”を護る為に、「同族血縁の掟」が在ったのです。
そこで、お家と同族と成った「讃岐秀郷流特別賜姓族青木氏」との「同族血縁」が興ります。
そして「三階松紋の皇族賜姓青木氏」がこの米子ー八頭で発祥したのです。
実は、この「松文様」、とり分け、「三階松紋の左松紋」は、「讃岐藤氏」の末裔が用いていた家紋類なのです。
その中でも、この「松紋の讃岐藤氏」は四国南域に分布しいます。
この「松紋の讃岐藤氏」は、「讃岐秀郷流青木氏」とは親族関係にありました。
その関係から「松紋の讃岐秀郷流青木氏」が、この親族の「宗家筋の讃岐藤氏」と同族血縁をして四国南域で発祥したのです。

この「松紋の讃岐秀郷流青木氏」の一部が、「讃岐秀郷流青木氏」の本家の命に従って、中国地方の松江地域に赴任して、その子孫が宍道湖付近西域に定住します。
この宍道湖西域に定住した「讃岐秀郷流青木氏」との同族血縁をして、お家の「左三階松紋の皇族賜姓族足利氏系青木氏」が新たに発祥したのです。

何故、「左三階松紋の皇族賜姓信濃足利氏系青木氏」が発祥したのかと云う問題ですが、この「信濃足利氏系青木氏」に男系に恵まれず、娘に養子を採ります。
しかし、この養子が宍道湖西域に定住していた「讃岐秀郷流青木氏」の「左三階松紋」の一族から同族血縁で迎えたのです。
ところが、この養子にも男系の嫡子に恵まれず、”二代続きで男系嫡子”に恵まれなかった事から、女系の「信濃足利氏系青木氏」が興ったのです。
そこで、「家紋掟」に依って、”男系を跡目とする「仕来り」”から、松紋の養子先の一門に組み込まれ、家紋もこの「左三階松紋」に成ってしまったのです。
本来は、「皇族賜姓青木氏の五家五流の青木氏」には、「皇族賜姓族」である事から、家紋では無く「象徴紋」として定められていて、家紋では無く、従って、変紋しない掟に成っています。
しかし、江戸期以降はこの掟が緩み、「五家五流青木氏外」の地方に流れた「皇族賜姓青木氏」には、”変紋”も余儀なくされ、家紋扱いと成って、お家の様な家紋が生まれる事に成ったのです。
本来は、「皇族賜姓族青木氏」は、「象徴紋」で、「天智天皇」から賜姓時に与えられたステイタスの「笹竜胆紋」です。
「皇族賜姓族の青木氏」には、”同族血縁を繰り返えす掟”であった為に、この「武家の家紋掟」には関わらない事が原則であったのです。
「五家五流の皇族賜姓族」には、伊勢を除く、近江、美濃、信濃、甲斐には土地の豪族との血縁で、近江の「佐々木氏系青木氏」、美濃の「土岐氏系青木氏」、信濃の「足利氏系青木氏」、甲斐の「武田氏系青木氏」が発祥しています。

(伊勢には、「藤原秀郷流伊勢青木氏」が定住していて、”伊勢”としての土地柄から、他氏との血縁は禁じられていたので、この同族血縁の青木氏同士の「融合の青木氏」が発祥しました、現在も伊勢の四日市に定住しています。)

これらの「青木氏」で、男系嫡子が出来なかった場合には、「家紋掟」に依って、変紋しました。

松紋の中でも「三階松紋」には10の文様があって、その文様に依って、その氏が判別できます。
その中の「左松紋」は「讃岐藤氏」と「讃岐秀郷流青木氏」の分家筋が継承しています。

次に、宗派に関する事では、真言宗と成っていますが、全ての青木氏は本来は絶対に「宗派換え」はしません。
「五家五流皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓族秀郷流青木氏」には、「賜姓族」である為に「浄土宗密教」です。
特別に、「秀郷流青木氏」には、24の赴任先の事情から、「浄土真宗」に一時的に「宗派換え」をする事が許されていました。

「真言宗」は「浄土宗密教」とは宗教論争から敵対関係にあった為に、「青木氏」にはあり得ないのです。
根本的に、概念が異なっていた為に、宗派が真言宗では起こり得ません。

恐らくは、四国の南域の「讃岐秀郷流青木氏」の「松紋の青木氏」が、四国お大師さんのお遍路の環境から江戸期に真言宗に変紋したのではないかと思われます。
この結果の影響を受けて、上記した様に、養子先の家紋と当時に宗派も変わったものと考えられます。

恐らくは、、「鳥取県八頭郡隼村大字志子部村」の付近にお住いの青木さんはお家の親族関係であると考えられます。
当時は、「棲み分け」と云いまして、「青木氏」にはこの掟に縛られていました。
特に、家紋と宗派が変わる事が起こっているお家の場合は、特別に「棲み分け」が強いられました。
依って、この周囲の青木氏には、お家と血縁関係のある青木さんと成ります。
「米子」にはお家の「宗家筋」が、「八頭」の周囲にも「本家筋」の「青木さん」が、「慣習仕来り掟」を護って今でも定住している事は判っていますよ。

お家の提供された情報から、検証しますと、「米子ー八頭」に定住した「信濃の足利氏系青木氏」と成ります。

提供された曾祖父は明治初期前後の方と思われますが、それ以前もこの地域に住んでおられたとすると、「足利氏系青木氏」である事に成ります。
江戸期の昔は、「国抜け」と云いまして、定住地を変える事は勝手には出来ませんので、周囲の青木さんは、お家の何らかの形で「親族の方」と考えられます。

6代前は明治期の頃に成りますので、社会が自由社会と成りました。
「江戸期前の氏家制度」での社会でなかつたと考えられますので参考にはなりません。
しかし、墓所には1855年と記されていることから、上記した様に江戸末期を示していますので、氏家制度の中での検証が可能と成ります。

”青木太郎左衛門実俊と何か関係”に付いては、江戸期の慣習から観て、ご先祖の方と見受けられます。

”宣化天皇(第28代天皇)”に付いては、判りません。
しかし、そもそも、「先史時代」、「古墳時代」、「飛鳥時代」と在りますが、この天皇は「古墳時代の天皇」であり、歴史的な事に付いてはそれを証明するものはありません。
殆ど、この時代の事は、資料的には「神代の時代」の事として扱われます。
これを先祖とする事に付いては、他の歴史的な事は日本書紀に頼る以外には無いのに、この天皇を先祖として扱う事には問題があります。
せいぜい、歴史的には「欽明天皇」の事がせいいっぱいの事と成っています。
歴史的には、議論される範囲は、「飛鳥時代」の事で、明確に判るのは「日本書紀」で証明できる「孝徳天皇」か「天智天皇」の事からに成ります。

恐らくは、お家の父上は、上記しました様に、「皇位継承制度」を変更した「天智天皇の賜姓」の事を書いたのだと思います。
「第四世族の第六位皇子」には臣下させ、賜姓して、「天皇の警護」の役を定め、「侍の発祥源」としての「象徴氏」とし、施政を手伝う「国策氏」として「天皇の施政」を助ける事を義務付けました。
所謂、「三つの発祥源」「賜姓五役」を「賜姓青木氏」に義務付けたのです。
サイトには、「青木氏」に関わる「日本書紀」の記述に付いて掲示していますので、これもお読みください。

この「賜姓青木氏」に付いては、これは幾つかの「日本の歴史書」や「韓国の歴史書」で証明できています。
「天智天皇の第四世族の第六位皇子の賜姓」とその後の天皇の「第四世族皇子の跡目継承」を「青木氏」に入れた事にも依ります。
平安期初期の「嵯峨天皇」の「弘仁の詔勅」にも観られる様に、「賜姓青木氏」から変名した「賜姓源氏」もこの「青木氏」に跡目を入れて同族血縁をして維持しています。
特に、「伊勢青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」には跡目継承として「賜姓源氏」が入っています。

お家の父上は、この事を「神代の時代の宣化天皇」としたと観られます。
正規な発祥源は、「天智天皇」「天武天皇」「文武天皇」「聖武天皇」「光仁天皇」の五人の天皇からの「真人族と朝臣族の皇子族」から成り立っています。
「嵯峨天皇期」よりの累代の「11代天皇の皇子族」の「賜姓源氏」も「青木氏」に跡目を入れています。

以上ですが、提供して頂いた幾つかの少ない情報から、確定は出来ませんが、ほぼ間違いなく「米子青木氏」の「皇族賜姓族の足利氏系青木氏」の「分流族」である事が判ります。

詳しくはサイトの論文をお読みください。
ルーツ掲示板にも昔のお家の親族の方からのお便りもありますので検索でお調べください。

では、ご質問あれば、投稿の専用欄のReでお尋ねください。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー