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  [No.1016] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:黒木 新吾   投稿日:2015/01/08(Thu) 16:48:55

こんにちわ。
先日、自宅よりメール致しましたが、
もしかしたらメールが届いていないように
思いましたので、もう一度再送させて下さい。

もし、2重に届いてしまいましたらご容赦頂きたく
お願い申し上げます。

宜しくお願い申し上げます。

以下前回のメール内容********************

明けましておめでとうございます。
本年度も宜しくお願い申し上げます。

年末、年始に実家に帰って色々と調べて来ました。
思った程の収穫はありませんでしたが、少しは
前進したように思います。

まづ始めにお詫びがございます。
私のお墓に付いていた家紋は下がり藤では
ありませんでした。
『丸付き抱き沢瀉紋』でした。
私もうろ覚えでしたので現物を見て違う事に
気がつきました。
父親に聞いたら、そうそう下がり藤ってやつだと
言っていたので、すっかり信じてしまいました。
申し訳ございません。

また、叔母の家に新年の挨拶に行った折に
過去帳を見せてもらおうと思ったのですが
物置の奥に入ってしまっているので今は無理と
大変つれない返事で、見る事が出来ませんでした。

ところが、母が生前、叔母宛に手紙を出しており
そこに、墓石にまつわる事が調べられており
少しは状況が分りました。

まづ、家紋についてですが、母の手紙には
家紋一覧表が同封されており、そこに
『抱き沢瀉紋』の所にマーカーの記しが付いていました。
どうも母は、祖父の墓の家紋を紙に写し取った後、家紋一覧表
から『抱き沢瀉紋』を見つけたのだと思います。

しかし、何故墓石につけた家紋を、『丸付き抱き沢瀉紋』に
したのかは分かりません。家紋一覧表には、同じページの
少し離れた所に『丸付き抱き沢瀉紋』が掲載されているので
間違えたとは思えません。同じページの家紋一覧表の中から、
わざわざ『抱き沢瀉紋』にマークしてあったのですから
何か意図して、お墓の家紋の所を『丸付き抱き沢瀉紋』に変えたのだと思います。

私の祖父は次男だったから『丸付き』にしたのか、祖母が永嶋の籍を
離れたから『丸付き』にしたのかは分かりません。

当時の関係者の父に聞いても、藤紋と間違えるほど無頓着ですし、
叔母に聞くと、あ〜間違えちゃったんだね。後で墓石の方を直して
おくよと気軽に言っておりました。

墓石に直接家紋が彫られているのに、どーやって修正するのか
全く分かりませんが、父や叔母はあてになりませんので
この経緯はここまでしか分かりません。

また、家紋一覧表を見ていると、叔母の娘(私からは従姉妹にあたります)が
祖父の写真に写っている袴に『立ち沢瀉紋』がついていたような気がすると言いました。
祖父の写真を見た事が無いので私は確証は持てませんが、81歳の叔母より
は従姉妹の方が信頼できると思いますので、何か関係があるのかも知れません。

叔母のあやふやな話によると、父は近衛兵もしくは騎馬隊にいた。(第二次大戦で
騎馬隊があったのか疑問ですが)
祖父は、叔父と父に似てとてもイケメンだった。(遺伝子学的にそれは無いと思うのですが・・・)
永嶋家のお墓は大きかった。
血縁関係にある伊藤さんのお墓が近くにあった。

と言う事が分かりました。(とっても怪しい証言ですが・・・)

また、母の手紙には、何処から調べたのか千葉県袖ヶ浦市役所の
除籍の謄本の写しが同封されていました。

それによると、祖父の祖父の父からの記録が載っていましたので
簡単に以下記してみたいと思います。

地籍本 千葉県君津郡富岡村xxxxx

祖父の祖父の父 永嶋佐兵衛(天保拾弐年拾壱月弐拾九日生)
その妻       永嶋がく(天保拾四年九月拾日生、柴崎左エ門の四女上?国)

祖父の祖父 永嶋治郎次(出生日、出生地不明)
その妻    永嶋さだ(文久弐年拾壱月弐拾四日生、永嶋佐兵衛長女)

祖父の父 永嶋忠治(明治拾弐年九月拾九日生、千葉県君津郡)
その妻   永嶋るい(明治拾壱年九月拾日生、菊池伊八の四女千葉県君津郡)

祖父 永嶋伊之八*次男(明治四拾四年壱月壱日生、千葉県君津郡)
その妻 永嶋ユキミ(明治参拾九年拾弐月三拾日生、黒木茂吉の長女、宮崎県東臼杵郡)

そしてこの伊之八が私の祖父に当たり、父と叔母と叔父が生まれました。

私はこの祖父の長男の息子(長男)になります。

この戸籍から見ると、祖父の祖父である治郎次は永嶋家に婿養子に
来た人のようです。

また、気になる所では、私の祖父、伊之八の兄(長男)の嫁に
当たる方が、『永嶋』と掛かれずに『永嶌』と姓が書かれていました。
この女性も出生日、出生地が不明でした。)

この他にも母の手紙には、現在の永嶋家でご存命の方数名の
住所、氏名、電話番号が記されており、この方々へ手紙等で連絡をして
祖父のお墓の場所を教えてもらおうと思います。
(電話番号は分かりますが、電話をいきなりしたら怪しまれると思いますので・・・)

しかし、生前の母は当時インターネットも無い頃(平成8年)に
よくこれだけ調べたものだと我が母ながらたいしたものだと
思います。私の母方も旧姓武田と言い、昔は大地主で
家にはでかい槍が飾っており、祖母は人力車で
女学校へ通っていたが、戦後の農地解放にて土地を
失ったと言う経緯があるようで、いづれ調べて見ようと
思っております。

長々と書き大変恐縮ですが、上記から何か分かればお教え頂けましたら
大変幸いでございます。
お願いばかりで大変恐縮ですが、
宜しくお願い申し上げます。



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