青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.1045] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/04/05(Sun) 15:18:34

今日は お元気ですか。

ルーツ探究は進んでいますか。

前回のお答えには、書き切れなかった事として次の事が在ります。
このお便りをする事が、お家の調査や本サイトの読者のご努力に必要以上に「先入観」を与える可能性があるとして控えていましたが、敢えてお便りをする事に致しました。
本サイトで得られた知識と合わせて調査されるとご理解が深まる事もあり得ますので、お便りを差し上げる事にしました。


実は、このお便りは実に重要な事なのです。
必ず「お家のルーツの根拠」と成る事には、間違いないと思います。
全国に分布する[柏紋の青木氏]に執っても参考に成ると思います。

実は,それは次の事にあるのです。

前回までのお便りは「青木氏」に執っては大変に貴重な情報でした。有難うございます。

と云いますのも、この埼玉には,下記に示す様に、極めて「古い神明社」が多くあって,「伊勢と信濃の青木氏」が「初期の段階」で建立したと考えられている「祖先神の原型」と観られる「神明社」が、この「奈良期の遺跡」と成っている「深谷の地域(瀧宮)」にあったのです。

ですから、ここに当然に、初期の「神職の柏紋」を「象徴紋]とする「伊勢青木氏」がここに赴任している筈なのです。
つまり、この近隣に「柏紋を象徴紋とする青木氏」の「現地末孫」が定住している筈なのです。
他の地域の「神明社]も可成り確認できているのですが、この「深谷の瀧宮神明社」には、「古く歴史ある神明社」である事から、何か遺されている事を期待していたのです。

ところが、この「武蔵の国」には、関西に比べて「神明社の伝統」に関わらず資料や伝統や遺品が少ない事が云えるのです。
平安中期以降には、同族の「秀郷流青木氏」に関して「116氏」も居たのに、比較的その様な「資料や伝統や遺品等」が不思議に遺されていない事が云えるのです。
これは、関東に於ける「時代性の変化」が大きかった事が原因しているのですが、最低限でも”滅亡した”と云う記録が無い事から、つまり、「人」は残っているのですから、「家紋的な事」は未だある筈と観ていました。
ところが、研究を進める中で、残念ながらこの事が掴めませんでした。

恐らくは、次ぎに述べます様に、「柏紋の青木氏」は、長い間、その「家筋」から「生活の自由度」が「慣習仕来り掟]に縛られて、どの地域でも「子孫]を大きく拡大をさせていない事があるのです。
これは、「皇族賜姓族の氏の家柄(純血性 同族血縁)」や、「神に仕える身の神職」と云う立場もあった事もあり、且つ、「五家五流の青木氏」の「福家筋]から、「四家制度」に依って”「神職]を派遣される”と云う安心もあり、又、赴任後も、”出自先に帰れる”と云う安心感の事もあって、何処でも大きな「子孫繁栄の形」が無かったのです。
(「秀郷流青木氏」は、逆に赴任先に「現地孫」を遺す事を義務付けられていた。)
ですから、当然に資料や遺品なども少なく容易には検証が難しかったのです。

江戸期初期には、未だこの「貴重な青木氏の伝統」が、その関係者の中では”「伝統」”として遺されている事が一般的であったのですが、これは、”「ある事」”で判っているのです。
この「ある事」とは、それは、”「甲斐の青木氏」の「柳沢吉保」がこの事を知っていた”と云う事なのです。
そして、この”「柳沢吉保」”は、ここに(所沢中尾)、何と”青木氏の守護神として神明社」”を建立しているのです。
何故、この「柳沢吉保」が、”「青木氏の守護神の神明社」なのか”と云う疑問が湧くと思いますが、それには、「下記」に示す「確実な理由」があったのです。
この”「ある事」”に付いては、歴史家の中でも余り知られていない事なのです。(下記参照)

ですから、筆者は、必ずこの「象徴紋である柏紋」は、”この地域に小さいながらも必ずある”と観ていました。
これを確認出来れば、「伊勢青木氏の古代の柏紋を象徴紋とする青木氏」が「何らかの形」で、この地に末裔が定住している事が証明出来ますし、又、「神明社」の事もより明確に証明できます。

これは普通は、その「神社の由来」を調べれば判る筈なのですが、残念ながら、「神社」はこの具体的な証拠を公的に遺さないのが通例なのです。
その”「古い」”と云う事が、”「神と云う神秘性」”から一般的には公的にはっきりさせないのです。
取り分け、この「深谷の瀧宮」の様な「極めて古い神明社」(建設様式で決まる)は、「古い事」からそれを物語るものが「日本書紀の程度」しかないと云う事もあるのです。
殆ど、室町期中期前迄には遺されていたとしても、その後には、この様な「高位の家柄の氏」は「下剋上」で潰されて、”「戦国時代の戦乱」”で焼き討ちされて消失しています。
「神社」は、古来より「戦いの拠点」とも成りましたので、「神職の柏紋の青木氏」も巻き添えを食って、「滅亡の憂き目」もあり得ると観ていました。

従って、その環境下の中で、お便りを頂きました時に、大変に驚きました。

そもそも、「深谷」のこの「瀧宮の地」は、秩父山の雨水が荒川に流れ込み、その地下水系がこの深谷の地に湧き出て来る非常に水系に恵まれた土地柄です。
この「水系の恵み」を頼って、ここに奈良期から多くの人が集まり住み着いた場所で、「古い遺跡」の地域でした。
この地に、平安期初期に朝廷は、「青木氏」に「大神明社」を建立する事を命じ、「皇祖神の天照大神と豊受大神」を祭祀したのです。
これが、通称、その「象徴」と成り得るべき「瀧宮神明社」なのです。
そして、この「神明社に湧き出る水」は「神の水」として扱われ、その川に流れる様を以って、瀧に見立てて「瀧の宮」と名付けられたのです。(歴史的には有名な事)
この様に「悠久の歴史」を持ち、「由緒ある憂愁明媚な土地柄」であった事から、この地に初期の「神明社」を建立し「青木氏の神職」を必ず配置し、是非に「現地孫」を遺したと観られるのです。

(注釈 「天智天皇」は、「蘇我氏の横暴」の反省から「大化改新」を実行しましたが、その中の一つとして「自らの考え」を信頼できる身内にやらせる事で,「臣下の横暴」を防ごうと考えました。その為に、「第六位皇子の施基皇子」を賜姓して、臣下させました。
「臣下族」に成ったにも関わらず「官位官職」などの[権威」を「皇位継承者族」より遥かに上の「最高位」(天皇に継ぐ身分と地位)にして与え、「青木氏」を発祥させるシステムを採用したのです。
そこで、注釈として「神職の青木氏」である場合は、知って置くべきことがあるのです。
それは「伊勢王の施基皇子]の弟の「第七位皇子の近江王の川島皇子」を始祖とする「近江佐々木氏」も同様なのです。
ただ、この「賜姓族の第六位皇子」の外でありながら特別に賜姓を賜った「天智天皇の賜姓族」の「近江佐々木氏」は、「青木氏」の様に「氏存続の要の経済力」を高める為に「二足の草鞋策」を採らなかったのです。
故に、「国策氏」等としての力はあまり発揮されなかったのです。
それ故に、「神明社の神職」、「菩提寺の住職」に力を注いで兄の「青木氏」を助けました。
奈良期の段階では、「佐々木氏」との「神職」に依る同族血縁が起こっているのです。
恐らくは、場合に依っては,埼玉地域の周囲に「柏紋の佐々木氏」も存在する事もあり得ます。
(「近江佐々木氏系青木氏」が存在する。)
「東北北陸」の広域陸奥域には、「神職の佐々木氏」が実に多いのはこの事に依るのです。
逆に、「広域陸奥」には存在する事はするのですが、「神職の青木氏」が少ないのは、この「佐々木氏の補完」があったからなのです。
当然に、同族で血縁していますので、その結果として「柏紋の佐々木氏」も多いのです。

この「与えた役目」が”「三つの発祥源」”と呼ばれるもので、その一つの務めとして”「国策氏」”を担いました。
つまり、「皇族の身内」が「実際の政治」を「執政」として実行するシステムの「第一期皇親政治」が始まったのです。
「天皇の身辺を護る事」や、「皇居を護る事」から始まり、「政策立案、実行、監査」の末端までをこの「国策氏」が、「自らの氏の力」で行うシステムです。
それには、「経済力、軍事力、政治権力」の「三権」を獲得する必要があります。
「経済力」には、「内蔵の天皇家の財政」を頼らない「和紙の開発・殖産」などの「二足の草鞋策」、「軍事力」には「守護神の神明社を使ったシンジケート」、「政治権力」には「授与された最高位の権威」で対応しました。

その「国策」の中の一つとして、「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」を、政治的に平定した各地に、その印として,又、「国家のステイタス」(国家統一)として建立する必要性が出ました。
この一つが、「柏紋の神職」であったのです。
その為に、「青木氏」は、この「神明社の神職」を「自らの氏の組織」の中で養成する組織の「青木氏部」(「国策氏」としての神明社や菩提寺や和紙製造等に関わるあらゆる職能集団 国策氏)を創設したのです。
そして、この「神職」には「青木氏」から輩出させました。

注釈 上記しました様に、「古代の社」は、単なる”民を安寧にする神を祀る”と云う目的だけでは無く、「政治権威の誇張]、「各地の情報網の拠点」、「軍事の拠点」、「皇族配置の拠点」、「政治の支所」等の「多くの役目]を持っていたのです。
この「役目]を担ったのが、「青木氏の柏紋族」であって、「柏紋」と云えば、決して「神職のイメージ」だけでは無く、影で”上記の仕事をする氏”とも観られていたのです。
これを司る氏の事を”「御師」(おし)”と呼ばれていました。
お家のご先祖も、”「御師さま」”と周囲から呼ばれていた筈です。

「伊勢青木氏」は、全国に配置したこの”「御師」”の「御師頭」を務めていたのです。
この「印象」とその「務め」は、周知の事として、実際にも江戸中期まで持たれていたのです。

つまり、故に、上記した「柳沢吉保」も「所沢」に「自らの守護神の神明社を建立」した上で、この自藩でのこの役目を果たさせ様としたのです。
「綱吉のお側用人」であった事から、江戸城から離れられない事が在って、この「青木氏のシステム」を採用したのです。
恐らくは、この「柏紋の神職の御師」から、各地の「神明社」からの「情報の連携」で「政治的な情報」を獲得してい事に成ります。
一種の「諜報官の様な役目」も果たしていたのです。

ですから、平安期末期までは、その中の一つに、”全国の民の安寧”を保つ為に全国に「神明社建立」と、その「一切の諸事の始末」を命じたのです。
この「仕事」を「国策氏の務め」として”「賜姓五役」”と呼ばれるものがあったのです。
つまり、その時の「初期の段階」で建立したのが、この「深谷の神明社」なのです。

その証拠に、一時、室町期末期に上杉氏の支配に入りますが、この上杉氏も、”余りの良き由緒ある「土地柄」”から、この「深谷の神明社」を”自らの現地上杉氏の守護神に指定する等”の事をしました。
上杉氏の「裏の目的」は、「東の端の勢力圏」と成った「深谷の地域」に、この「諜報活動の拠点」にするつもりであった事が考えられるのです。
その証拠に、しかし、この上杉氏も支配したここに”「軍事力拠点の城」”を建てましたが、時の勢いに負けて城は廃墟と成り、直ぐにこの支配が解け秀郷一門の下に戻ります。

要するに、「柏紋の神職」の末裔がこの深谷付近に確認出来ないのは、筆者は、”この時の乱世の影響を受けているのかな”とも考えていました。

そもそも、この「賜紋」の「柏文様」は、「伊勢の守護王」であった事から「伊勢神宮」の「神職の象徴紋」としても用いられた文様でした。

(注釈 「施基皇子」は、「日本書紀」に何度も出て来る様に、「天智天皇の執政」として忙しい為に、国司の「三宅連岩床」が代理を務めた。)

この後、「鎌倉期末期頃」に「青木氏の神明社の神職」が「象徴紋」として用いましたが、「室町期初期」には、「戦乱で勃興した豪族」等が”「類似紋の家紋」”として用いた物です。
この発祥期から観て、お家の始祖は、奈良期末期には、この「深谷の神明社」に赴任した時のその「現地孫の枝葉末裔」であると観られます。

そもそも、この「柏文様」は、「ブナ科」の木の広葉で、飛鳥期前には、食器として用いられていたものです。

「神に捧げるお供品」としての「柏餅の由来」も初期は「米餅の食器」としてのものであったのが、蒸して「柏餅」に成ったのはこの事から来ています。)

「中国の古書」にも「倭人は皿を用いず、「柏葉」を以ってして食器とし成し、手で用いて食らう」と記されています。

注釈 「青木氏の総紋の笹竜胆紋」と同じく、この「柏紋」は誰でもが使える文様では無く、許可なく使用する事を禁じていた文様なのです。
「嵯峨期の詔勅」に伴って出された禁令に依って、「青木氏の習慣と仕来りと掟」の一切を使用する事を禁じたのです。明治3年まで原則護られました。
従って、この「深谷」には、”他氏が使えない柏紋様”(同族の近江佐々木氏を除く)が遺されている事は、この史実の大きな証明に成るのです。

「天智天皇]と皇位争いで「壬申の乱」の政争でたおれた「有間皇子」は、熊野古道の「紀州藤白の坂」で,「蘇我赤兄」に殺害されますが、この時に詠んだ歌に、「家に居れば、飯井盛るしいも草枕、旅にしあれば、椎の葉(柏)に盛る」と詠んでいます。

つまり、既に、この時には、「柏葉」は「神技」の一つに成って居た事を示し、「榊木]や[青木]と共に”「神木」”であった事を示しています。
この「神木」から採った「アオキの木」を「青木氏」として賜姓を授かり、この少し前の647年に発祥しています。
この「青木の木」は、賜姓時に「青木氏」の「氏木」と定められました。
この「神木」(「青木」と「柏」)の二つを「氏木」と「青木氏の象徴紋様」と定められたのです。
(本サイトの写真館に載せています。)
そもそも、この様に色々な目的を持って「神明社建立」は、既に奈良期末期から建立に入っています。
京に都を移した「桓武天皇」(「伊勢青木氏」の「光仁天皇の子供」で「施基皇子の孫」)は806年までには、この「神明社」を既に「広域陸奥」に、記録から推算すると何と「20社の神明社」も既に建立していたのです。

注釈 平安初期は、可成りの伝染病や災害や飢饉や治安悪化などから「民のフラストレーション」が高まっていて、慌ててそれを鎮める為に建立した傾向があります。
この為に「青木氏の神職」は不足傾向にあったのです。
「身内の桓武天皇:孫」から「律令政治の完成」の為に、「皇親政治の青木氏」は軋轢を加えられて苦しんでいた時期でもあったのです。
そんな中での「柏紋の神職」を各地に廻さなくてはならない事に成っていたこの事から、恐らくは「深谷の神明社」は、この社会が不安定に成っていた前後の頃に、この社会安定を祈願しての「奈良期末期頃の神職」と成ります。

注釈 この「平安期の直前の時期」か、その少し前の「奈良期の後半の末期の時期」に建立された可能性が有ります。

(注釈 奈良期から平安期には”「陸奥」”の呼称は、「関東以北」を”「陸奥」”と一括して呼んでいた。)

「広域陸奥」の「南域末端の武蔵」のこの「瀧宮域の古跡」には、「神明社の建立」と「神職の柏紋の存在」は確実で、「神明社の存在」は既に確定されていますが、「深谷」に「柏紋の青木氏」が確認出来なかったのです。

奈良期末期には、「青木氏」(「桓武天皇の山部王」も「伊勢青木氏の出自」)に依って「20社程度」は既に建立されていました。(この時期の後半期に建立か)
その時からの、「柏紋様」は「青木氏の神職の象徴紋」であった事が云えるのです。

(注釈 この事から、奈良期から食事を作る者を「膳夫」(かしわで)と呼ばれる様に成りました。
そして、遂には、神社で手を合わせて叩く動作を「かしわで」と呼ばれる様に成ったのです。
この「食器]として用いられた事から、「神事」にも用いられる様に成りました。
そして、遂には奈良期末期には「神木」として扱われたのです。
つまり、この”「かしわで」”も「青木氏の由来」に関わっているのです。)

その事から、「神職」は、これを「神職の象徴文様](賜木)として「青木氏」が用いました。
「鎌倉期末期から室町期初期」の頃から、これを「高位の者が氏の文様」としたことから,室町期中期からは「周囲の氏」は使い始め、これを真似て、「姓族」から発祥したその豪族たちが「室町期末期」には「家紋化」したものです。

(注釈 「氏族」と「姓族」とは「家柄」が異なります。「禁令」で有る為に「類似紋」として許可を得ていたのです。
「氏族」とは、奈良期から平安期の朝廷が認めた氏で室町期中期以前にもルーツを持つ氏です。
「姓族」とは、農民や職人等から立身出世した勃興の姓で、室町期中期前のルーツを持たない姓、朝廷や幕府が認めていない姓です。「日本最初の姓族」は瀬戸内から出た「海部氏」)

この事から、他の神社系列の神職も,これに習って「柏紋」を変化させて「類似紋の柏紋」を用いました。
その「柏文様の原型」が「青木氏が用いた柏文様」です。
つまり、「お家の由緒ある文様」なのです。
結果として、この文様は、「132もの家紋」が出来上がりました。
その元は、お家の「象徴紋」からなのです。
この事から「青木氏」は、その立場から「総紋]である「笹竜胆紋様」を「家紋]とは呼ばずに、「青木氏」は「柏紋様」も含めて”[象徴紋」”と呼称していました。

そもそも、「皇族賜姓族青木氏」には、「子孫拡大」に依って「分家、傍流,支流」とその「枝葉末孫」の広がりで、普通は、”「家紋掟」”に依って「跡目」が「不継承」と成って「二代続きの養子」を迎えて仕舞うと、「養子先家紋」と成って仕舞います。
しかし、「青木氏」は、奈良期からの”「四家制度」”と云うシステムに依って”「純血性」”を保って、この「家紋の変化」を起こさない様にしていたのです。
従って、この「四家の末裔子孫」は「象徴紋(家紋)」であるので「青木氏」である限り変化しないのです。

全ての「四家(20家)に所属する末孫」は、「天智天皇」より賜紋の「笹竜胆紋」を、所謂、「家紋」では無く「象徴紋]として来たのです。
同じ「血統を持つ末裔子孫」である為に,「家」は原則的に無く、「氏」で纏まっていた事から、起こった「厳しい仕来り」でした。
従って、「姓族」が使う様な「家紋]とか「分家」とかは起こらないのです。
これは”「四家制度」”と云う「皇族系」に課せられた護らなければならないシステムで、「純血性」を護る厳しい「最大の宿命」でした。

但し、このお家の「神職の柏紋」だけは、”「神職」”と云う事からその「神に関わる氏」として、よりその「純血性」を保ち「特別な務め」を全うする事から「別扱い」とされました。
「笹竜胆紋」を「総紋」として、職柄から「柏紋」を示して、その「職域の重要性」を示した行為であったのです。
従って、尚更に、「家紋」では無く、且つ、「神職の特別な象徴紋」であったのです。
現在は、状況が変わっていますが、元は「氏の象徴紋(家紋)」が「笹竜胆紋」で、「職紋]が「柏紋]と云う考え方であったのです。
「職紋」を持つ氏は、日本の「氏姓」が8000もある中で、「青木氏」ただ一つです。

この「青木氏の仕来り」に真似て、「由緒ある悠久の歴史を持つ他の神社」は、この「柏紋の類似紋の使用」を特別に「朝廷」より許された「文様」なのです。

(徳川幕府初期に葵紋を始として「名家の家紋」に対して、「権威」を護る為に「類似紋の使用」を禁じた。)

例えば、「神明社」と同じ様に、奈良期から、平安初期からの「悠久の歴史」を持つ神社である「熱田神宮の千秋氏」、「宗像神社の宗像氏」、「吉田神道の吉田氏、卜部氏」、「吉備津宮の大守氏」等が許されて用いました。

さて、そこで、この「柏紋」の「祖先神」の[神明社」は、埼玉では次ぎの通りです。
この中で、直接的に「青木氏の柏紋の神職」の関わった「祖先神の神明社」は、「深谷の神明社]と、[所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社]が加わり4社に成るのです。(後は、後に建立された「神明社系の分社」等です。

「深谷の神明社」は、「伊勢神宮」の「内宮の天照大神」と、「外宮の豊受大神」とを祭祀する純然とした「神明社」で、「伊勢神宮」は「天皇家の守護神の”皇祖神”」で、この”「子神」”と定められた「皇族賜姓族の守護神」を”「祖先神」”とします。
この”「子神」の「祖先神」”を祀るのが”「青木氏」の「神明社」”であるのです。

「皇祖神」の神を祭祀する「子神」であるので、この「深谷神明社」は、「親神」の「皇祖神]と、「子神]の「祖先神」の両方を祭祀する神社形式(神明造)に成っています。
この「祭祀形式」は、極めて古い形であって伊勢神宮を祭祀した頃の形式です。
この「古式の祭祀形式」から奈良期からの形式であるのです。

やや遅れて、「所沢神明社」は「天照大神]を「親神]として祭祀しますが、「祖先神の神明社」を「主神]として祭祀する「神社」です。
この事から、西域の「深谷神明社」を創建した後に、やや遅れて続けて、東域に建立した純然とした「神明社]の「所沢神明社」であるのです。

次に「川越神明社」は、その中間の地に建立された純然として、「皇祖神の子神形式」で「祖先神形式の神明社」として建立されています。
平安期中期までに続けて建立されたものと考えられます。

この深谷地域、所沢地域,川越地域の「三つの神明社」は、「柏紋の青木氏」が関わった神明社です。
中でも、お家のご先祖が深谷地域に定住していたとすると、この「奈良期形式の創建」とされる「最も古い神明社」に「伊勢]から配置された神職に任じられた「青木氏」である事が判ります。
この奈良期に「神職」を配置できるのは、未だ「青木氏部」を持つ「始祖施基皇子」の「伊勢青木氏」しかありませんでした。

関東には、上記しました様に、余り「青木氏の伝統資料」が遺されていない事もあって、お家のルーツがどの程度まで辿れるかは、興味のある処です。
恐らくは、辿れても、資料が無い為に江戸初期か室町期末期までのものであると思います。
所沢と川越の地理的な由来から、お家の子孫が、この「二つの神明社」に配置された可能性が考えられますが、お家の末裔の広がりにも関わりますので、判断の情報が無ければ確定は難しいと思います。
普通であれば、その様に成るのが順当ですが、この所沢と川越から観て、難しいかなとも思えます。しかし、この「二つの地域性」と、「二つの神明社の祭祀形式」と、この「武蔵の時代性」と、「三つの創建期」と「秀郷流青木氏の発祥期」(958年頃)から鑑みて、お家の同族の「柏紋の青木氏」を赴任させた可能性も高い事が伺えます。
この場合は、同じ「柏紋の神職」ですから、「信濃青木氏」からも送る事は可能に成っていましたので、他の神明社系は伊勢と限定する事は難しいのです。
この「三つの神明社」以降は、時代性から観ても、「伊豆地方」からも同族を赴任させる事は可能でしたので、お家の「深谷からの末裔」を配置したとは考え難いのです。
”お家の末裔だ”と判定させられる要素が「同じ柏紋の青木氏」であるので、お家に何か遺されたもの以外には判断が出来ません。
一応は、この事に付いて「状況証拠」としての研究は続けたいと思います。

ただ、ここで、その「状況証拠」として、他に「13の神明社系の神社」がありますが、これらの社の由来は比較的新しいものであり、系列ではありますが、本流としてのものが少ない事から、果たして、「創建時の時代性」から観て、中には伊勢や信濃から直接配置したと云い難いものがあり、これらの「神職」は必ずしも「柏紋]ではありませんので、「三つ乃至は五つの神明社」から「13の神明社系」にその弟子を配置していた事が考えられます。

この「16の神明社」、及び、「神明社系」は、埼玉域を万遍に配置している事や社名の統一性から観て、ある程度の計画性が有った事を物語っています。
恐らくは、「分社」としての扱いで「弟子」を配置していると観られます。

さて、ここで、上記しました「柳沢吉保」に付いて、「青木氏」である場合は知って置いて頂くべき、一つ興味深い事を記述します。
上記した事で、実は、江戸初期の”「柳沢吉保」”を御存じだと思いますが、彼は、元は由緒ある「甲斐国の武田氏系青木氏」です。

(注釈「五家五流皇族賜姓族」の「甲斐の青木氏」と「甲斐の武田氏」が血縁して、二代続きで跡目が継承されず、女系と成った為に「養子先の武田氏」に組み込まれた「青木氏」の事)

「柳沢の地」に住んでいた「青木氏の始祖」は、「曾祖父の青木信定」で、この子には、「三人の兄弟」が居て、「兄の正定]は「巨摩郡]に定住します。
そして、「次男の豊定(吉保の祖父)」は「柳沢の地」に定住します。
「三男の豊勝」は父親に可愛がられ「常光寺」の「親許」で暮らします。

甲斐の「武田氏系青木氏」のこの「青木豊定(吉保の祖父)」は、「跡目騒動」と「宗教改宗」と「武田氏系青木氏一族争い」と「父親(信定)との路線争い」の「四つの騒動」に巻き込まれ、結局、「父親の反発」を買い、「青木氏」を名乗る事が許されなかったのです。
そこで、仕方なく住んでいた地名を採って”「柳沢」”と名乗ったのです。
そこで、「武田氏」が滅んで、「甲斐武田氏系青木氏一族一門」は、「徳川氏の配下」に入り、一族全てが「埼玉の鉢形村」に移住させられます。
「吉保の父の安定」は「館林藩の下級武士」として仕えます。
そして、「150石の低い身分」に成りますが、その跡目は吉保は長男でありながら妾子であった為に腹違いの弟に譲り、下級武士としながらも勉学に励み、その才知で綱吉に仕えて出世して、最初にこの縁のある「所沢の藩主」に成ります。
この時に、この「所沢中富」に、「青木(柳沢)吉保」は「青木氏の守護神の神明社」をもう一つ建立したのです。(研究室の武田氏の花菱紋の論文に記載)
これが、「所沢中富の祖先神の神明社」の所縁です。
これが、「柳沢吉保」が、「神明社」を建てられる理由であったのです。
つまり、「青木氏」である事を認識して、この「青木氏の守護神である神明社」を建立したのです。

実は、この時に、もう一つの「所沢神明社」から由緒ある神職を廻した経緯があるのです。
従って、論理的には、所沢にも「柏紋の青木氏の末裔」、つまり、お家の親族が存在する筈ですが、現在は判っていません。
所沢は、入間地域は、「秀郷流青木氏のメッカ」ですので、「青木氏」が多すぎて「秀郷流青木氏」か「伊勢青木氏」かの判別が、最早、資料の消失で確定して云う事も出来ない事もあるのです。
然し、今回の事で確証は高まりました。

恐らくは、この様な「吉保の所沢中富の神明社」がある事から,お家のご先祖の神職との何らかの関係があった事が充分に考えられます。
「正式な青木氏の守護神の神明社」とする以上は、宮司も「正式な青木氏」からとなるでしょう。
そうすると、正式な「青木氏の柏紋の神職」を求める筈です。
況して、その由緒正しい「柏紋の青木氏」が近くに定住しているのですから、この事を見逃すわけにはいかない筈です。
面白い「青木氏のロマン」ですね。
これを証明する糸口は、残念ながらお家の「深谷の御本家」と成りますが、判らないとすると、難しかなとも考えられます。

そこで、次ぎに、この埼玉の神明社を記述します。

埼玉   神明社  深谷市西島(別名 瀧宮神社)
     神明社  所沢市中富
     神明社  川越市神明町
     神明社  所沢市
          
     神明宮  川越市鹿飼
     神明宮  さいたま市岩槻区釣上
     
     神明神社 飯能市
     神明神社 さいたま市西区塚本町
     神明神社 朝霞市田島
     神明神社 加須市川口
     神明神社 川越市今泉
     神明神社 志木市柏町
     神明神社 新座市野火止
     神明神社 ふじみ野市亀久保
     神明神社 南埼玉郡菖蒲町上栢山

     天照皇大神宮 久喜市上清久島

神明社 3 神明宮 2 神明神社 9 大神宮 1 神社   皇大神社   其の他 1

以上の事は、「青木氏の守護神と神明社」に詳しく記載しています。
尚、以上の表は、特に、シリーズの−20に記載しています。

以上が埼玉のお家の「柏紋の由来」です。
「深谷神明社」がお家の御先祖の神職であったのです。

更に、残りの「神明社系の神職」を配置するには、室町期中頃から江戸期に掛けて「伊勢と信濃」から配置するには難しく成り、室町期中期頃に武蔵の「特別賜姓族の秀郷流青木氏との融合族」を発祥させて、その子孫を「残りの社」に順次に配置した可能性が有ります。
これを「伊勢と信濃の青木氏」の協議と、「伊勢と信濃の融合族」の仲介で、「武蔵の秀郷一門」と「秀郷流青木氏」との血縁を進めた事が充分に考えられます。
「氏家制度」の社会の中では、「吊り合いの範囲」で血縁と成り、更には、「神明社の神職」の場合はより「純血性]を求められていた事から、他の地位と同じ様に、先ず間違いはないと考えられます。

「三つ程度の神明社」であれば、未だ何とか伊勢と信濃と深谷でも可能ですが、一国に16社もあるとなると、何らかの手を打つ以外には無い事が判ります。
各地では「神職の問題」だけでは無く、「宮大工等の職能部の問題」なども関わってきますので、「融合族」は「必須の課題」でした。
この「弟子説」も、「青木氏の仕来り」で、「女系の絆青木氏」として血縁させて、配置して居た事は充分に考えられます。
現在は、どの様に成っているかは、判りませんが、「融合族」である事とお家が分家である事から,その後に充分な子孫を拡げていますので、元の経緯は上記の経緯で辿った事が充分に考えられます。

これだけの埼玉の「神明社及び神明社系の社の神職」(全国約500社)を維持させて行くには、大変な事であり、可成り積極的に子孫を発祥させて配置したと考えられます。

以上の様に、お家の「柏紋」には、この様な大変貴重な歴史的史実を持っています。

是非、この情報を大事にされて、後世の末裔にロマンとして書き残して頂きたいと思います。
最早、系譜などは判らなくなっていますので、辿る事は出来ません。
系譜などよりは、ご「先祖の生き様」を伝統として未来のご子孫に伝える事が肝要では無いでしょうか。
現在の「真言宗勝輪寺」は、「氏の菩提寺手」は無く「檀家寺」でありますので、且つ、「顕教」ですので、お家のルーツの事は伝承されていません。
あったとしても、ルーツが明記されていない「租税管理]の為のその時代毎の「人別帳」が残っている程度です。「青木氏の菩提寺」でなければ「氏の系統性」はありません。
況して、お家はこの武蔵では、元は「神道」ですから、「菩提寺」も持っていなかった筈です。
あるとすれば、「伊勢の菩提寺」に遺る事に成る筈ですが、この「伊勢の青木氏」だけの「菩提寺」も何度か災難に遭遇して記録は消えています。

上記しました様に、この「深谷神明社」も「室町期の混乱」で記録は消えていると思いますが、一度、お参りに「深谷神明社」と「所沢神明社」と「川越神明社」にも”そっと”行かれては如何ですか。
それこそ電撃的な何かを感じるかも知れませんよ。
ご訪問された際には、是非にお便りを頂きます様に、お願いします。
「伊勢神宮]に今度は訪れる際は、もっと引き付ける何かがあるかも知れませんね。
有名な神宮参道に、「伊勢青木氏」の寄付した大きな「燈夜塔」が4基ありますよ。
参考として匿名としますが、お家の始祖と成る人の菩提寺は、松阪市多気郡にあります。

以上の事を配慮されて、ルーツ探究のご努力される事を期待します。
では、又お便りください。お待ちしています。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー