青木ルーツ掲示板
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  [No.1054] Re:先祖について明確に知りたいです
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/20(Wed) 14:43:40

京都の青木さん 今日は。始めまして。

全国の青木さんが集うサイトにようこそお越し頂きました。
これからもよろしく青木氏同士のサイトとしてご協力の程を宜しくお願いします。

サイトには,「お家の丹治氏系青木氏」の事に付いては、研究室やルーツ掲示板や左メニューに関する資料がありますので、時間を掛けてゆっくりとお読みください。
その際、判らないところやご質問がありましたら何なりと本欄のReでお尋ねください。

さて、お尋ねですが、情報が少ないので確定は出来ませんが、凡よその事は判りますので、お答えします。又、他に判りましたらご連絡ください。

お家の情報としては、お家の御先祖の事について判るのは「家紋」と「京都のお寺」の事に成ります。

その前に、お家が口伝等で推測される「青木氏]としては、「摂津麻田藩1万石青木一重」のルーツの末裔ではと云う事ですが、この「青木氏」に付いてそのルーツを述べて見ます。
詳しくは、研究室やルーツ掲示板などで論じていますので、そちらをお読みください。

「摂津麻田藩の青木氏」は、関東の「武蔵7党」と呼ばれ豪族集団(地方の土豪)で、その中の一つで、「丹生党」と呼ばれる豪族集団がありました。
この豪族集団には、「丹治氏」と云う豪族がありました。
この「丹治氏」には、平安時代の中頃に、京都に住んでいた「皇族の丹治彦王」と云う第五世族の王子がいました。
しかし、この「丹治彦王」は罪を犯し、その罰として、坂東に5年の刑期で「配流の罪」を受けました。
この「丹治彦王」が配流中、この「丹生党の世話」を受けました。
この時、「丹生党」との間に「配流孫」を設けました。
この後、刑期を終えて、「丹治彦王]は京に戻されました。

この「配流孫」が成長して、「丹生党」の中に、「丹治氏」を発祥させました。
この「丹治氏」が、「嵯峨天皇の詔勅」を利用して、「皇族系」であると云う事から「名誉ある青木氏」と云う氏名を名乗る事が許される事に成っていました。
そこで、それを根拠に、室町期初期に「丹治氏系青木氏」を名乗ったのです。

この土豪の「丹治氏系青木氏」は、「室町時代の戦乱期」を生き延びる為に、丹治氏一族と共に子孫を現地に残し、”「傭兵軍団」”と成り、全国各地の豪族の「傭兵」として渡り歩きました。
そして、チャンスを観て、勢力を徐々に拡大させて行きました。

その最のキッカケは、信濃の国の豪族の傭兵と成って移動していた「丹治氏系青木氏」が、豪族の戦乱に出動して「傭兵代」をより多く獲得して勢力を大きくしました。
そして、その武蔵の7党から人を呼び寄せて拡大し傭兵を増やしました。
この結果、隣の甲斐の国から「傭兵依頼」があり、今度は甲斐の豪族の傭兵として働きました。

この「甲斐の大豪族の傭兵」と成った事から、更に、東北各地に出かけていた「党の者」を呼び寄せて「軍団」を大きくし、ここで暫く働きました。
ところが、室町期末期にこの大豪族は戦乱で衰退し、結局、「丹治氏系青木氏」の傭兵軍団は、美濃国に移動して、大豪族に成りつつある豪族の傭兵軍団として働きました。
ところが,この大豪族も問題を起こして、なかなか勢力を維持させる事が出来ずに一時、軍団を縮小させて武蔵に返しました。

ここで、「豊臣氏と徳川氏の戦い」が起こり始め、このチャンスを逃さないとして、美濃での繋がりを利用して、関ヶ原近くに軍団を自由な状態(何れの陣営にも所属しない「自由軍団」)で配置して、時期を待っていました。
そして、「夏冬の陣」が起こり、最終、戦いと成って、徳川氏側が窮地に追い込まれた時に、この「丹治氏系青木氏の自由傭兵軍団」は、同じ「関東の誼」を通じて「徳川氏に味方」して、徳川氏は一挙に形成が変化させました。(小早川事件と共に有名な事件)

この結果、徳川氏が勝ち、「論功行賞」で、この「武蔵7党」の「丹生党」の「丹治氏系青木氏」は摂津の麻田地域の一部の1万石分を割譲して徳川氏から与えられ、藩を構築する事を傭兵軍団として初めて認められます。
これが、摂津麻田藩1万石の青木氏の藩です。
この時、傭兵軍団であった事から、定められたある大きさの家臣団を構築する必要に迫られ、全国各地に散会していた一族一門とその家族と「武蔵7党」を呼び寄せて、麻田藩を構築したのです。

この時に、「丹治氏系青木氏]の一重には兄弟が居て、この者に麻田藩の兄を通じて弟に4千石を与えられます。
この時、河内、土佐、伊予、滋賀、近江に、1郡か2郡程度の「小さい所領」を与えられました。
この「磨田藩の支藩」にも成らない「小さい所領」を軍団に関わった一族の者で分け与えて管理しました。

この時、この「丹治氏系青木氏」がこの地域に分布して子孫を拡げました。
全国に大名と成った者等が行う様に、この磨田藩に成った時に、徳川氏に恭順の意を示す為に人質の娘を差し出します。
これが、亀姫ですが、後にこの亀姫の才量が優れ、尾張徳川氏に気に入られる事に成って、お家が書かれている様に「徳川氏との血縁関係」を持つ様に成ったのです。

この時に、この姫に付き従った一族の侍が京に住んでいた事は判っていて、上記したこの京での地領がこれらの者の管理下に置かれた土地なのです。
この時に、「麻田藩」は「徳川幕府」から、戦乱後の政情不安定な時期が未だ15年位続きましたから裏切らない様に多くの「藩の役目」を命じられました。

何故かと云いますと、この「丹生党の丹治氏系青木氏」は、上記しました様に、信濃と甲斐と美濃に「国衆」(傭兵軍団がある豪族の直接配下に入り働く軍団を「国衆」と呼ばれた。)であって、この時の豪族は全て豊臣方でした。
豊臣家の淀君とも面談し味方する褒賞として「飛鳥の一部」(土佐の一部等)を与えられていた為に、何時か裏切るのではないかと徳川氏に疑われていたのです。
「関ヶ原の戦い」でもギリギリのところで、豊臣氏を裏切り「徳川氏の調略」により味方した経緯があったのです。
この背景から、「亀姫の人質]の経緯があり、「弟(徳川氏に味方する事を主張していた)」に分量した経緯があるのです。

さて、そこで、お家はこの「武蔵7党の丹治氏系青木氏」、後に摂津麻田藩の一族とどの様な関係を持っていたかの問題と成ります。
それには、この「隅切り桔梗紋」の家紋に関わってきます。
実は、この角文様は、通称は「職能紋」と呼ばれ、職能に関わった者が用いた文様です。
そして、この角文様は、通常、その中に別の文様を入れて使われる文様です。
従って、お家がこの「角文様」を家紋としている事は、お家の御先祖は「職能集団]に関わっていた事を意味します。

次ぎに、その中に、「桔梗文様」を入れています。
この「桔梗文様」は、元は、朝廷に関わる職業を仕事する族で、特に、その仕事は朝廷の祭祀や職役に限定されてきます。
元はその先祖が朝廷の官僚集団であった族とか、朝廷の職能官僚などの先祖を持つ族が使用しました。
その意味で、他の家紋とは違う朝廷と云う領域の文様であった事から、「家柄格式」としては良い事を意味します。

つまり、お家の家紋は一般の職能紋の角文様を主として、その血筋として先祖の中に桔梗紋に関わるものを持っていた事に成ります。
中でも、この隅切り文様は、江戸期には宮大工等の一流の者を棟梁とする者が使用する事を許された事に成ります。
また、明治期には全ての民が苗字や家紋を用いましたが、この時にも、この職能に関わった者等が棟梁とは別なくこの文様を用いました。
従って、この角文様は色々と類似文様を作って用いた為に全てで72文様にも成ります。

特に、江戸時代に、徳川吉宗が、その幼少の頃、伊勢で育ちましたが、この時に親代わりに成った「伊勢青木氏」は、”「御師」”と云う伊勢神宮の一切を管理する職能集団の頭役を担っていました。
この「職能組織の棟梁」を[御師(おし)」と呼ばれていました。
この組織が職能集団を統率するに適していると観ていた吉宗は、紀州藩主から将軍に成りましたが、この時に、徳川氏の職能官僚にこの「御師制度」を採用したのです。
そして、官僚外の職能集団の民の頭領にも、この制度を適用して、その取締役にはこの角文様を名誉として与えたのです。
これが、角文様で、その角文様を観ると、何の職能集団かも判別が出来て、更に細かく判別できるように角文様の中に別の関係する文様を入れる事でより判り易くし,その家紋を持つ者は名誉とした文様でした。

とすると、お家は職能集団に所属し何らかの祭祀関係の仕事に従事して居た事を物語っています。
つまり、お家の御先祖は神社か仏閣かの職能に従事して居た事が判ります。
お家の情報から「寺侍」であったとしています。
その「寺侍の情報」と「お家の角文様」とは一致しています。

では、何時、お家が、この角文様を家紋としたのかという事に成ります。
「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」は、1605年頃を境に藩主と成った訳ですから、恐らくはこの家紋が使われたのは吉宗の時代ですから、この時、お家はこの家紋を使う事を許された事に成ります。
さて、そこで、然し、「御師の立場」に居たかは判別が情報が無い為に出来ません。
然し、この吉宗の時にお家の家紋は決まった事に成ります。

ところで、「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」のルーツとしてもどの程度のルーツなのか、誰のルーツなのかは判りませんね。
上記しました様に、全国に散会していた本家から分家、更には縁者の一族一門を呼び集めたのです。
ですから、又、この「丹治氏系青木氏」は、主に兄のルーツと弟のルーツに別れますが、ところが、矢張り、内部で一族一門が二派に分かれて激しい「勢力争い」が起こりました。
その混乱が原因して、”何処の丹治氏系青木氏”であったかは判別が難しく判り難いのです。

ただ、お家の場合が、「隅切り桔梗紋」とする限りは、「弟のルーツ」に関わる一族である事は判ります。
弟は徳川氏に味方する事を主張して居た事から、特別に家康に認められて、親族でありながらも、4000石と云う破格の扱いを受けていました。
普通はこの様な事は先ずはありません。
それに、この弟に所属した一族一門のものは、河内や土佐や伊予や近江や滋賀や摂津の西の一部の小さい所領地を与えられました。

この時には、近江、滋賀に一族の者を配置しています事からもこの弟のルーツである事は判ります。
では、何で、「京の寺侍」と成って移動したのかと云う疑問が起こります。
これには、予想できる事が在ります。
それは、この弟には、徳川氏は「色々な役目柄」を与えて引き立てようとしました。
その時に、京には由緒ある寺社が多く、この為に幕府は「京の寺関係の管理維持」をさせることを目的として赴任を命じたのです。
更には、近江滋賀域には小さいながらも所領の村も持っていた関係からも、命じられたと観られます。
むしろ、この役目を果たす為に、その財源とする処の所領を与えた事にも成ります。
無暗に意味なしに所領地だけ与える事は無く、況してや、天下の京に赴任を命じる事もありません。
何らかの意味があって、政治的に配置された事が伺えます。
恐らくは、「人質の亀姫」が子供を産み、それが後に「尾張藩の藩主」に成る等の経緯から観て、「有能であった亀姫」が働きかけた事が伺えます。
又、尾張藩もその様に働きかけた事が予想できます。

従って、お家は、本家筋では無く、分家筋の更に別れの血筋を持った「丹治氏系青木氏」である事が頷けます。
その証拠は、この本家の家紋群は、「富士山に霧紋」(富士山紋含む)です。
ルーツ元の「丹治氏」は、「三つ頭巴紋」でその元は関東に居た平家の子孫である事を示す「丸に揚羽蝶紋」を総紋としています。
この「三つ頭巴紋」には、現在に子孫を遺している「丹治氏系青木氏」としては多いのです。
主に関東以北に定住されています。
つまり、この「摂津麻田藩の丹治氏系青木氏」は、後に関東の故郷に多くが帰った事を示しています。
この事は、お家が関西に定住した事は、矢張り「職能集団の青木氏」であった事を示しています。
「職能集団」であったからこそ、その赴任地を離れる事は出来なかったのですし、離れなかったのです。

昔は、人は国に所属し縛られていて、その国から無断で自由に出る事は現在の様に許されなかったのです。
出れば、捕まり、「国抜けの刑」と云って一族は「斬首の刑」に処せられる程に厳しかったのです。
但し、神職や住職等、又は宮大工等の職能集団はある程度に許されていて、これらはその職能が長い経験と知識を必要とするところから、それぞれの「自国内での能力」には限界があって、幕府は各地にその「職業の枝葉」を拡げる事の意味から、申請すれば認められていたのです。

ですから、「隅切り桔梗紋」のお家は京に遺れたことに成ります。
全く、お家のご先祖が口伝で伝えていた事には矛盾が在りません。

お家としては、家紋から江戸初期が発祥と成りますが、その「源ルーツ」を辿れば、「丹治彦王」の平安期中期に遡る事が出来ます。
お家の「始祖の丹治彦王」の息子には、配流刑が解けて京に帰って後に、彼の有名な政治的に活躍した摂関家の「島左大臣」が排出されました。
「お家の遠祖」と云う事にも成ります。
この意味からも、縁の所縁を以って京に赴任した事も考えられます。

お家は、「皇族賜姓青木氏五家五流青木氏」と「特別賜姓族の藤原秀郷流青木氏」の「二つの血縁青木氏」と違って、「嵯峨期詔勅」に従って発祥した「賜姓族」では無い「皇族系青木氏」です。

この系列の「皇族系青木氏」は、比較的子孫を戦乱の世の中を生き抜く事が出来ずに遺せなかったのですが、他に現存しているのには二氏あります。

お家は、現地孫で配流孫であった事から、「武蔵7党」と「丹治氏」に保護されて、「傭兵軍団」として、麻田藩の青木一重の様に、世の中を積極的に生き抜いたことにあります。

実は、もう一つありまして、この「青木氏」の氏名を使って、明治期3年の苗字令と督促令の時に、一般の民は、この「丹治氏系青木氏の氏名」を使った「第三の青木氏」と呼ばれる姓があるのです。
上記した「二つの血縁関係のある親族の青木氏」と異なり、この「青木氏」が最も多いのです。

そして、その如何にも「丹治氏系青木氏」で「麻田藩の青木氏」であるかの様に、出自事を示す書類なども寸分違わない形で搾取偏纂して作って持っていて、一見して間違う事が起こる位です。

然し乍ら、何が判別条件で判別できるかは、それは宗教です。
つまり、浄土宗では無い事に依ります。
何故かといいますと、この浄土宗は奈良期からのある経緯があって、「密教系」で一般の民は信者には成れなかったのです。
この慣習は、江戸時代も密教を顕教に変更して「信者範囲」を緩められましたが、矢張り、高級武士が入信する宗派で、明治3年から自由に入信する事が出来る様になりました。
然し、可成り高額の檀家費を払わなくてはならない事から、大正時代まで一般には入信する事が出来ませんでした。
又、お家の「浄土宗寺」も「青木氏の定住地」にしかあまり建立されておらず元々入信は難しかったのです。
ですから、どんなに搾取してもこの事だけは搾取は出来なかったのです。

ただ一点,お家にも疑問があって、「隅切り桔梗紋」で「寺侍」としている場合は、「神道」である事にも成るのですが、お家の浄土宗は何時頃からのものであるかを検証する事が必要ですね。

それは、お家の「江戸初期の御先祖の戒名」がどの様な戒名に成っているかで判別する事が出来ます。
過去帳の資料をお持ちとしていますので直ぐに判ります。
又、この戒名でもお家の「隅切り桔梗紋の家紋」が妥当であるかも判別する事が出来ます。

この滋賀近江には、明治期では無い「第三の青木氏」がもう一つあるのです。
平安末期に国内は乱れますが、この時、伊勢北部の上田郷と云う地域があったのですが、この上田郷から一人の農民が立身出世を夢見て滋賀に出てきます。
そして、やくざの様な組織を作って頭に成り、各地で盗賊山族などの悪さをします。
この時、丁度、滋賀に居た「皇族賜姓族青木氏」の「近江青木氏」が赴任を終えて、京に戻りますが、この一族の縁者で老人と一人の娘がこの地に遺ったのです。
この事を聞きつけた上田郷の者は、この家を襲い、その娘を誘拐して子供を産まします。
この子供を家長に据えて、許可なく勝手に「近江青木氏」を名乗ったのです。
そして、この事を朝廷に届け出て、賂に依って認められます。
その結果、この者は有能であった事から、朝廷から11もの赴任地を経験して、「近江青木氏」の役職を奪い成功したのです。
そして、滋賀に上田姓系の「青木氏の子孫」を拡大させたのです。
近江青木氏は、この結果、仕事を奪われて衰退します。
然し、再びその末裔の一部が摂津で生き延びて勢力を高め、この滋賀の「上田姓の青木氏」に戦いを挑みました。
結果、矢張り、敗退してしまいます。
ところが、後に、秀吉が、この名家の「近江青木氏」を復活させようとして、この上田姓の「滋賀の青木氏」と秀吉の面前で公式に戦わせたのです。
結果、勝利し、「近江青木氏末孫・摂津青木氏」は復権し、今度はこの「滋賀の上田姓系の青木氏」は衰退して、一部を遺して多くの子孫は千葉に逃げて行きます。

この復権した「摂津青木氏」のその後の末裔は、京では神職住職等の色々な職能集団の職業に就きました。

さて、この「滋賀青木氏」と「近江青木氏」も浄土宗(知恩院系)であります。
ただ、滋賀に遺った「滋賀青木氏」の末裔は、家紋は異なっていますが、この「青木氏」も明治期から錯誤忘却し混乱して「丹治氏系青木氏」の証拠資料を掲示して「丹治氏系青木氏」だと名乗っているのです。

ほぼ間違いは無いかと思いますが、この「二つの青木氏」との違いの「確実な証拠」を見つける必要があります。

尚、この近江滋賀地域には、上記した「皇族賜姓族近江青木氏」と系列の「賜姓族佐々木氏系近江青木氏」(源平合戦の富士川の戦いで滅亡し、僅かにその傍系末裔が遺されている)、其れに「藤原脩行系秀郷流青木」の一部末裔が定住しています。
これらの「青木氏」の氏と、お家とは「家紋」と由来が異なっていますので、このルーツでは無い事が判ります。

以上、お家の情報で判る範囲で検証しました。
他に情報が在りましたらお便りください。
どんなちょっとしたことでもルーツにつながることを見つける事が出来ます。

ご質問やご不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ではお便りをお待ちしています。



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