青木ルーツ掲示板
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  [No.1058] Re:伊勢射和商人との接点について
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/05/23(Sat) 16:28:24

岸本さん 今日は。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。

さて、青木氏サイトの情報をご利用されていることは感謝します。
大いにご利用ください。
判るところの範囲でご質問にはお答えします。

伊勢の郷士族についてお調べの様ですが、残念乍ら、青木氏から見た範囲の「伊勢郷士」の事に付いて研究をしています。
従って、これを超える範囲の事は基本的には判りません。

ただ、調査される際の心得は判りますので、それを簡単に申し述べて置きます。

伊勢は古来奈良期からの歴史を壊さず持ち得ている唯一の国であります。
この伊勢は、その歴史の中で、護られての由緒を持ち得ています。
他国とは全く特異な環境下にありました。

お調べの「伊勢郷士」と呼ばれるものは、66国の中で一国に付き「全国平均540程度の郷士族」を有していますが、然し、伊勢はこの3%程度の20程度(正式には18)しか成りません。
これは、伊勢は奈良期から、「伊勢神宮」を抱えての事で、「不入不倫の大権」に護られてきました事から、余り、戦乱の中に巻き込まれる事も無く、この「20の郷士族」は、地主の「郷氏」の中に組み込まれて護られてきました。
歴史上、時の権力者の誰一人、この「伊勢の大権」を犯す事は原則はありませんでした。
依って、その中に共に護り合う組織は充実していて、互いに血縁関係を保ち生き残ってきました。

然し、ただ一人、「織田信長」だけは、これを犯し、「伊勢三乱」を起こしました。
然し、この時、信長はこの攻める相手は、この「20の郷士族」を相手としていなかったのです。
信長が、攻めたのは、鎌倉期から室町期中期まで、この平穏な伊勢の状況を狙って、京から平穏な伊勢に移動して来て瞬く間に勢力拡大した貴族出身の「二つの豪族」を潰しに掛かったのです。
そして、これを「蒲生氏郷」に命じました。
この「蒲生氏郷」は伊勢とのたいへん深い関係を持った豪族で、親族を伊勢に置いていた者でした。
これは「信長の配慮]でした。後の秀吉はこの伊勢を整理した後護りました。
そして、「信長」はこの京から来た勢力を作った貴族出身の「二つの豪族」を潰しに掛かったのです。
この時に、この「20の伊勢郷士」の内の「二つの郷士」が結束を裏切った事から、戦闘に巻き込まれたのです。

然し、信長は逆らう者は討ち滅ぼす方針であった為に、この「18の伊勢郷士」を纏めていた「郷氏」は、「武力」を使わずに、「知力」と「財力」と「影の抑止力」の「伊勢シンジケート」を使って、これらの「18の郷士」を護り通しました。

この「18の伊勢郷士」が、「伊勢の郷氏の大豪商」の下で「武士」でありながらも「商人」でもあると云う「射和商人」と成ったのです。
この「18の伊勢郷士」は「商人」でもあり、「影の抑止力」とも成って互いに護り合ったのです。

さて、お家が調べようとする族は、この「二つの貴族」の「豪族」と成った「配下の武士族(例えば神戸氏や内藤氏)である事に成ります。

お調べに成るには、この「伊勢の特殊な歴史的環境」を把握しなければ、恐らくは無理で困難と思われます。
正しいルーツを観る事は出来ません。
又、この時代の遺されている資料は殆どは、家柄格式を誇張する為に搾取偏纂の下にあります。

従って、お家が云われる「源氏が・・云々」と云った事柄はこの中にあることをも考慮するべきで、江戸初期には敢えて、「権威の創設」の目的で、恣意的にこの搾取偏纂の上でも良いから武士には「家柄の補償」を要求した経緯があって、これに従わない場合は、何人共「黒印状」を出さなかったのです。
この「国印状のお墨付き」を得ないと大名とその家臣は禄を食む事は出来なかったのです。
ですから、民の身分から「立身出世」したものばかりですから、搾取でも何でもいいから作り上げる事に専念したのです。
この事も充分に考慮するべきです。(この時,神社や寺社の歴史に聡い「神官や住職」が「家柄作り」に活躍した。)

依って、本サイトとしては、このお家の「源氏・・云々の前提」にある限りはテリトリーが異なっている為にお応えする事は出来ません。
伊勢は「日本最古の歴史」を持っています事から、この「歴史観の知識」が無ければ正しい答えを導き出す事は不可能です。
つまり、そもそも、この伊勢の特殊な歴史の中に、何で木曽源氏が出て来るのでしょうか。
昔は、人は領地に所属する社会で、自由移動は現在の様に叶わない社会でした。
伊勢には、「賜姓源氏」の祖の「皇族賜姓族青木氏」が居て、そこに悠久の歴史で、且つ血縁関係で深く結ばれた「20程度の郷士」が居て、その「20程度の郷士」に何で「清和源氏の支流の木曽源氏」が入り込む事が出来るのでしょうか。
「普通の歴史観」があれば、普通は、現在社会と違い「氏家制度」の中では、大いに疑問を持つ筈ですが。
それを無視していますよね。其れでは正しい答えは出ません。
況して、上記した京から来た「北畠氏」とは、「村上源氏」ですよ。
「北畠氏」では無いのなら、「北畠氏の家臣」と成りますが、昔は「氏家制度の慣習仕来り掟」の中にあったのですよ。
「家柄、格式」等の「つり合いの取れた婚姻」を行います。
「郷士」や「家臣」とには、無理な婚姻です。
先ずは「妾子」か「配流孫」でなければかなり無理な事ですね。
況してや、「純血性維持」を「賜姓族」として宿命で義務付けられていますから、あり得ない搾取である事は普通は判りますが。
其処に「清和源氏支流の木曽源氏」ですか。其れも「伊勢郷士」にですか。
先ずは、ここから疑問を持たれて、検証を進めるべきではありませんか。
「伊勢の一伊勢郷士」が主家を超えての婚姻、其れも「木曽源氏主流」とですよ。
先ずはあり得ない話です。

では、一歩譲って、その「家紋」は何でしょうか。
「嵯峨期詔勅」に依って発祥した11流の中の一つの「清和源氏」には、「賜姓族」として「象徴紋」に対する厳しい「慣習仕来り掟」が有って、ある範囲に限られています。
お家が示す「家紋」は、その「氏の出自」を証明するものですが、何でしょうか。
この「賜姓族」としての「慣習仕来り掟」が護られているでしょうか。
先ず、この様な事から検証して、証拠立てて一歩ずつの「ルーツ探し」が必要であると思います。
「伊勢郷士20」の中の一つの「森田家」に関しては、多少承知しています。
しかし、上記の事からとても根底でカテゴリーやテリトリーが違いすぎて論じる事は出来ません。

以上



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