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  [No.1064] Re:千葉県で庄屋をしていた永嶋家について教えてください
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/09/30(Wed) 15:20:49

永島さんの黒木さん 今日は、お久しぶりです。

お便りを楽しく読ませていただきました。
下総の青木氏族がどんな生き方をしていたかが蘇った気がします。

さて、次にお便りには大変な多くの情報が在りました。
それを下記に答えします。


>墓石の大きさは、70センチ〜80センチぐらいの高さで文字が風化しており殆どが読めない状態でした。
>向かって正面から、右に年号があり、中央に戒名、左に月日が彫られてました。墓の左サイドの面に生前の名前が彫られてます。
>台座の所に『永島』と彫られてました。
>何故お墓の文字が永島であって永嶋でないのかは、本家の親戚の人も分からないようでした。

前回のお答えで述べました様に、「永嶋」が「永島」に成っている事は、概して、江戸初期頃か明治初期前後での社会風潮が左右したと観られます。
下記の述べています様に、お家は幕末末期から、恐らくは、その秀郷一門の古来からの「慣習仕来り」や{経済的背景」に変化を起こしています。
恐らくは、この時の影響から「お家の慣習」にある程度の断絶が起こった事に依り、取り分け、この江戸中期から明治初期の影響を強く受けた事が考えられます。
唯、その「永島」と成っている「墓所の建立年代」が何時なのかに依りますが、幕末末期頃の建立であれば、この社会風潮が影響した事に成ります。
然し、「先祖墓」があるところを観ると、江戸初期の直ぐ後の頃とも思えます。

現実に、全国の藤原秀郷一門の「永嶋氏」が、この「二つの時期」に「永島、長嶌、永嶌」等多くに変えています。
それを維新戸籍に登録して反映さして仕舞っています。
伊勢の「長嶋氏」もこの二つの時期に同様に変更しています。
江戸初期頃としては、下記のお便りの”「永島郷士館」の影響”で永島氏に変更を起こった事に成ります。
実はこの「永島郷士館」には、下記に記しますが「永島氏」に成るある意味を持っているのです。

そもそも、「永嶋氏」は、歴史的に地域に依って「見分け」が出来る様に、「名乗り」を次ぎの四つに変更しました。
基は、関東域は「永嶋氏」で、中部(伊勢尾張)関西域では「長嶋氏」、九州大蔵氏系の北九州域は室町期初期に「永嶋氏」、中部域の日向域は「永島氏」と、肥後域では「長嶌氏」、南部九州の東域は「永島氏」、南部九州の西域は「長島氏」で名乗っていました。
現在も村があって遺されています。
これらの「ナガシマ氏」の末裔が、江戸末期の動乱期から明治期初期の社会変動期に掛けて職を失う等して、この為に起こった「経済活動」に依り、末裔移動が大きく動きました。
その事に依って、全国各地にこれらの「ナガシマ」が拡がって仕舞いました。
この時、明治維新と成り全国民が新規に戸籍の登録が義務付けられました。
この時に移動地に上記の「ナガシマ氏」が各地に発祥したのです。

そこで、各地の一族が大きな一族を頼って移動しました。
南九州と北九州からも総宗本家等のルーツ元を頼って千葉や埼玉に移動しています。
九州の永島氏も千葉にも移動していて、そこで同族血縁して、「永嶋氏」が「永島氏」に変わる事等も起こっています。
実は、一つの推理としては、この時に、下記に示す様な経緯から「永島郷士館」が興ったのかも知れません。

お家の地域は、当に「永嶋氏の里」ですので、今のところでは筆者は、「江戸初期後の社会風潮」が原因だと考えます。
唯、明治初期にも「維新戸籍」で新たに国民全員が戸籍登録しますが、この時に、敢えて伝統に関わらず「永嶋氏」を「永島氏」に変更して戸籍登録した事もあってこの事も考えられます。
これらは良く観られる現象でしたが、一つの形の分家のを作り出した理由と成っています。
お家の場合は、江戸初期後と筆者は考えます。

特に、室町期中期頃からには、関東でも本家が分家に対して「永嶋氏」を名乗る事を許さずに、「永島氏」を名乗らせたと云う事も起こりました。
その理由は、分家でも正妻の子と妾子があり、妾子の場合は、良くこの「永島氏」等にさせた事も起こりました。
この現象は全国の永嶋氏でも起こりました。
一つの形の「分家「を作り出す理由と成っています。

お家は庄屋をされていた末裔で「分家」とすると、上記の形では無く、「伝統の断絶」と「社会風潮」とが合わさったものと考えられます。
完全には、時期的な事が一致していますので、「移動に伴う血縁現象」も排除は出来ません。
この点はお調べに成ると良いと思います。

唯、下記のお便りに「女性の墓所」がある事や「先祖墓」がある事は、大いに判断の材料として気に成るところです。

つまり、「女性の墓所」がある事は、「婿養子」であった事も考えられ、その子供にも男子に恵まれず、又「二代続きの養子」と成り、「藤原氏の慣習」に従って、「最初の養子先の氏名」を名乗った事も考えられます。
依って、「永島氏」に成ったと云う一つの形の永島氏の推理です。
これも一つの形の「分家」です。

そこで判断材料と成るのは次ぎのお便りです。

>その中でも、何とか読めた墓石の文字としては、
>弘化二?年
>空是山秀道信士位
>寛政十二中年
>元圓室妙鏡信女位
>と言うお墓がありました。
>(どなたのお墓かは分かりません。)
>宝暦、寛政、弘化と言う年号の入ったお墓がありましたので、少なくとも江戸中〜末期からこれらのお墓があったのではないか?と思います。
>また、近くに、変わった並びのお墓がありました。中央に墓石があり、その周りを円を囲むように墓石が立ってました。
>中央のお墓には○中行人山(○の文字が潰れていて読めませんでした。
>と書かれており、上部に仏像が彫られてました。
>台座の所になにやら紋のようなものが彫られていたようにも見えるのですが、風化が激しく判別はできませんでした。

このお墓は、”「先祖墓」”と云うもので、個人や家等の祭祀では無く、「一族一門の先祖を祭祀する墓所」と観られます。
この「先祖墓」を別にして持つと云うものは、藤原氏等の「高位の氏族」が持つ事を許された「祭祀の慣習」でした。
他氏が誰てもが認められた「慣習仕来り」ではありませんでした。
取り分け、「台座の家紋」と「上部の仏像」と「碑文の構造」から観て、「一族の家紋」を継承している「分家枝葉範囲の一族」の「先祖墓」と成ります。

この「構成している慣習」から考えると、丸の不明の文字は、「藤」と云う字であったのではないかと思います。
つまり、「先祖墓」として、一族一門のモットーとすることを刻む習慣がありましたので、それを刻んだのでは無いでしょうか。
従って、恐らくは、”藤氏の者山を行く”、恐らくは、”藤氏一族の者はこれからも永遠に続きここに眠る”と云う事の碑文を願いにしたと読み取れます。

その「上部の仏像」に導かれて永遠に続くとしたのではないでしょうか。
実は、”「碑の上に釈迦像」等を載せる慣習”は、「江戸初期頃」から起こりました。
この慣習から、その「台座の部分」には、お家の「総紋」と成る「下り藤紋」が刻まれていたと考えられます。
前回お答えしました様に、この「総紋」には「お家の家紋」を組み込んだ「副紋方式」かはお調べに成る必要がありますが、どちらの「副紋方式」を採っていたかと云う事が判れば、お家の墓所の意味合いが、どの様な経緯で建設されたかが判ったのですが。
今回、この「台座の文様」が判って居れば、この問題も判ったのですが残念ですね。

「碑の上に釈迦像」等を載せる慣習には、ある意味が在るのです。
それまでは、そもそも、秀郷一門は、一族一門の「独自の教義」を旨とした「密教浄土宗」でした。
ところが、江戸初期に家康に依って、全ての「高位の氏族」が宗派とする「密教系浄土宗」は、全て、「密教」を止めて「顕教」にする様に禁令(顕教令)を発しました。

そもそも、「密教の宇宙仏」は「大日如来」で、直接、如来様が下界の者に教えると云う教義です。
限定された「氏族」のみを導く「密教」に対して、誰でも全ての者を導くとするのが「顕教」です。
ところが、この「顕教」は、「宇宙仏」は「盧舎那仏」で、その「盧舎那仏」が「釈迦」を通して下界の者に言葉として教えると云う教義です。

この「江戸の顕教令」で、”「碑像」などの頂上に釈迦像等を載せてあの世に導かれるとする意味から、この像の頂上に載せる習慣が起こりました。
これは「顕教の証」です。
然し、「顕教令」が出たからと云って、「永嶋氏」らは、直ぐに「密教」の独特の「伝統や慣習や仕来りや掟」を止められる事はありません。

と云う事は、「碑像の頂上の釈迦像」があるお家の「先祖墓」は、江戸期初期以降のものであった事に成ります。

それ以前はこの慣習は在りませんでしたので、お家の「先祖墓」と、その「周囲の墓所」はそれ以降のものであった事に成ります。
お家は、この時は、既に、「永嶋氏」の宗家や本家が継承していた「密教の教義の伝統」を継承していなかった事を意味します。

つまり、「お家の永島氏」は、「宗家筋」と「本家筋」から枝分かれして、”一つの分家一族を形成して”、ここに「独自の枝葉」の「顕教の先祖墓の墓所」を作った事に成ります。
その時期が江戸初期後であった事を物語っています。
そして、その「永嶋氏の密教の伝統や慣習」は、ある程度に「不継承」と成っていた事を意味します。
従って、この段階で、「密教の永嶋氏」では無く、「顕教の永島氏」に成っていた事を意味します。
「永嶋氏」から「永島氏」に成らざるを得ない状況に成っていた事にも成ります。
「先祖墓の建設の原因」はここにあったと考えられます。
「密教の伝統」から「顕教の習慣]に換える”何か(下記)”がこの直前に起こったと云う事では無いでしょうか。
そうで無ければ、”「祭祀寺」を持つ「先祖墓」”と云う「伝統の象徴」の様なものを独自に建設する事はあり得ません。
この「先祖墓」を建設した時には、既に、「密教の伝統を引き継ぐ永嶋氏」では無く、「密教の伝統」を少なく成ってしまった「永島氏」であった事に成ります。
これも分家に成る原因の一つの形です。

ただ、これは秀郷一門の中での「習慣 仕来り 掟」に依る結果の「名乗り」です。
一族一門の「伝統」が、「別の異なる形式」の「伝統」に成ったのですから、取り分け、少なくともこの「掟」が原因している事は少なくない事に成ります。
ご先祖の本家が”「庄屋」を務めた”とすると、この「一族の証」としての「先祖墓」の「お墓の存在」を如実に物語ります。
「庄屋」を務めながらも、「ご本家筋(永嶋氏)」で何かが「宗家筋」との間で「伝統の事」等での「考え方に意見差」が起こって、その結果、その「先祖墓の場所」がここに決められ祭祀される様に成ったとこの事を物語っています。
そもそも、「先祖墓」の傍に、「祭祀寺」がある事が、「永島氏」として分家独立した事を意味しています。
顕教に成っていたのですから、祭祀寺を経営する以上は、徐々に他氏も檀家として入って来た事に成ります。

又、ご本家筋が務めていた庄屋は、村域の「人別帳」を税の為に管理していましたので、この時にお家は、「永嶋氏」か「永島氏」として登録されていたかは確認する必要があります。
この事で、「江戸期の戸籍」の「代わり」として確定される事に成るのです。
「永島氏」としてならば、上記の事があった事は間違いは無い事に成ります。
この「人別帳」を探して確認する必要がありますが、恐らくは、この時には、上記の事から、「永嶋氏」の一族の中の「永島氏」であったと観られます。

「正規の戸籍簿」は、明治維新の「維新戸籍簿」に成ります。
「維新戸籍簿」は、国民全員が個人の自発意志で登録した最初のものです。
そこで、この時に、「永島氏」として登録していれば、「永島氏」です。
藤原氏の仕来りの中では、「永島氏」であっても、この「維新戸籍簿」では「永嶋氏」と戻して登録すれば「永嶋氏」に成って居た事に成ります。
この時に、「永島氏」として登録していたとすると、上記の事が原因している事に成り、「お家の永島氏」は、この「江戸期の先祖墓」を建築した時期には、既に「永島氏」と成った事に成ります。
つまり、江戸初期の”「少し過ぎた頃」”に、「永島氏」として名乗ったと云う事に成ります。
従って、この墓所には、これ以降の先祖のお墓しか無い事に成ります。

当時は、現在の様にこの荒れた土地に在りますが、「藤原氏の慣習」に従って、この山中に「祭祀寺の菩提寺」があって、一族を祭祀していたと観られます。
それなりの未だ「藤原氏の慣習」を護って居た事を物語ります。
そして、ここを”「・・山」”と唱えて、「永島氏の先祖が眠る墓」としたのです。
これは、「名乗りの先祖墓」を作る事は、「永嶋氏枝葉一門」の「永島氏」に成った事の「藤原氏の伝統の慣習」です。
「先祖墓の建設」には、その意味を持つその一つの証です。

昔は、墓所のある処が平地でも、「山」と唱えそこに由来する呼称で「・・山」と呼称しました。
これを墓所のあるところを”「霊山」”と云っていました。
この「霊山」がある所を、「永嶋」や「永島」の「名乗り」と同様に、「一つの藤原一族の名乗りの手段」としたのです。
藤原氏の伝統を完全には消失していなかった事に成ります。
肝心なところは維持していたと観られます。
従って、この「山の名」が何であったのかも、「永島氏」と共に重要な事なのです。

「・・山」と云うと、「あぁ− 下総のあそこの永島殿か」と云う風に判る事に成るのです。
この「一族の先祖を祀る霊山」の「山の名の慣習」で、「宗家 本家 分家 支流 分流 分派 縁者」等の「一門の枝葉」が判る事に成っていたのです。

だから、親族の方がこの山の事を「一つの名乗りの記憶」として、「レイザン」の「霊山」として発言したのです。
「霊山の名」を記憶して貰えていれば良かったのですが残念ですね。
「伝統の記憶」のギリギリの処でしたね。
若しかすると、「弘化の御先祖の戒名」の方の”「空是山」”がこの山の呼称であった可能性が充分に有りますね。

普通は村を見渡せる「小高い丘」を「墓所」や「先祖墓」を置くところとされていました。
そして、そこを「・・山」として呼称していました。
現実にお便りのお墓の戒名には「空是山・・」とありますからね。
「永島氏の伝統の霊山」として、将来に遺す事も含めて、敢えてご先祖はこの「戒名」にしたのではないでしょうか。
そもそも、「空是]は、浄土宗の「般若心経」の中の「色即是空 空即是色」の一説を採ったのではないでしょうか。

実は、お便りにはこれには「藤氏の慣習」が未だ読み取れます。
それは、先祖が50年過ぎると、その個々の「先祖の墓」を、この「先祖墓」に移すと云う慣習があったのです。
それには、「二つの方式」があって、一つは、その「先祖の墓」を「先祖墓の周囲」に「小さい碑」の様な形で作って祭祀する方法です。
もう一つは、その個々の「先祖の墓」を取り外して無くし、「霊位」のみを「御霊移し」と云う形で儀式を行い「先祖墓」に移すと云う方式です。
江戸中期頃までは、この慣習が続けられていたと観られます。

恐らくは、お家は前者では無かったかと思います。
だから、上記の「碑文の様な文章」と成ったと読み取れます。

そして、弘化の墓(1844年)と寛政の墓(1789年)は、この二つの墓所は、その後、この慣習が、この山にある寺が「廃寺」(明治か幕末か)に成ってから、その慣習を実行出来なく成ったかと観られます。
一族一門を専属に祭祀する「菩提寺」が、「廃寺」になると云う事は、それを維持して行く経済力が低下した事を意味します。
「顕教令」が出ても直ぐに、だれでもが祭祀する「顕教の檀家寺」に成ったのではありませんが、然し、「顕教」でありながらも、この「先祖墓」のある寺を「菩提寺」としていた事が、「江戸期の顕教令の影響」を物語ります。
そして、この「山の名」が、仮に「空是山」とすると「浄土宗の名残」も持っているのです。
これは「永島氏の所縁」を如実に物語っています。

今回のお便りには、「永嶋氏と永島氏の所縁」を強く物語る情報が在りましたね。

宝暦、寛政の墓所が遺されている侭に成っている事は、本来であれば、この「先祖墓」に移される筈ですが、其の侭に成っていることは、1789年の50年後は1839年に移される筈ですね。
ところが、その直ぐ後の1844年にも新しい墓所が設けられています。
つまり、1839年−1844年の幕末の頃から、この慣習が護られなくなった事を物語っています。
菩提寺が衰退したか廃寺に成ったか、慣習が忘れられたか何かがあった事に成ります。
「廃寺」が、お便りでは「叔父の頃」と解釈しますが、「廃寺」に至るまでには、「衰退」が起こりますので、幕末頃には既に「藤原氏の仏教的慣習」が護れにくく成って居た事が考えられます。

(幕末頃前後から「社会の経済的衰退の状況」から、全体的にこの寺や神社の維持が極めて難しく成り「廃寺や廃社」が続発しました。
青木氏から幕府に引き渡した500社に及ぶ神明社等は、著しく荒廃して200社以下に成って居た事が伝えられています。
寺も同じで、秀郷一門の菩提寺も「・・光寺」(匿名)の荒廃も激しく、遂には「一族の菩提寺」である事さえ「伝統」が消えて仕舞っている状況です。)

その証拠に、この二つの戒名には一つのこれを物語る現象が起こっているのです。
それは、お便りに依ると、庄屋や名主の場合で、且つ、”「郷士」”の身分を確保していた様ですから、藤原秀郷一門では、普通は「戒名」は、「院殿居士」の着いた「高位の戒名」を着ける「仕来り」に成っています。
然し、普通より夫々一つ格式の上の「・・山」の着いた「信士の戒名」ですし、女性の場合は、一つ格式の上の「室」と「信女の戒名」と成っています。
江戸中期から末期には、この「院殿居士」の着いた「最高位の格式」の「慣習の戒名」を着けられなかった事に成ります。
衰退は庄屋一族でありながら、既に江戸中期には起こっていた事を意味します。

つまり、格式は、「永島氏」であったのですから、「院殿居士」を着けるには問題はありません。
ところが、着けるには、それ「相当の戒名代」として「布施金額」が必要です。
それを払えなかった事に成ります。
つまり、この事は、この「菩提寺衰退と廃寺」と「伝統の慣習」がかなり進んで忘れられていた事が同時に起こっていた事に成ります。
「忘れられていた証拠」に、「女性の墓所」を設けていた事も「藤原氏の慣習知識」が途切れて仕舞った証拠に成りますし、「女墓」が消えている事もこれを物語る事に成ります。
「藤原氏の重要な仕来り」の「女墓」は絶対にあった筈です。

最低でも、この「先祖墓」の横に、「青石等の平石」に「女性の戒名」を代々書き足す事に成っていた筈です。
これも消えている様です。
「菩提寺衰退と廃寺」の際に住職も無く成った事から、「伝統」が途切れて仕舞った事に成ります。
尚且つ、「寛政の墓」は女性の墓所ですね。

然りながら、ここで興味深い事は、”女姓の方の墓”がある事です。
本来は、「嫁家の家」の墓に入り墓石の夫と併記して祭祀されます。
且つ、同時に「女系先祖」ばかりを祭祀する”「女墓」”に祭祀され、「戒名」を代々連ねて刻まれるのが「藤氏の仕来り」です。
この事も、「菩提寺衰退と廃寺の影響」で護られなかったか、続ける事が実行出来なかったと観られます。

>そして、肝心要の私の祖父の墓はやはり墓石が見当たらず、多分、この辺りと言う事で、その辺りに線香を上げてお参りをして参りました。

「祖父の方」の「御先祖の墓」が発見されないのは、その後に、別の寺に入った事から、その宗派にも依りますが、碑の様な墓を設け、この一族の「中央の先祖墓」に50年経過後に移したのではないでしょうか。
この碑の様な「小さい墓石」が何らかの理由で紛失したか、或は、ご本家が50年経過し、分家である事から「先祖墓」の方に「御霊移し」した事で管理を容易にする為に排除した事も考えられます。
その後、其の侭に成ったと観られます。

>これらのお墓は、本家の叔父が管理をしているような状況で、元々管理していたお寺が廃業になったそうです。
>何処かのお寺に引継ぎをしたようでしたが、そのお寺が何処かは何となく聞きそびれてしまいました。
>叔母が言うには、『レイザン』と言う宗派であるように聞きましたがはっきりしないままです。
>また、本家の叔母が言うには、永島郷土館と言うものがあり、その永島さんとは、血縁があるかもしれないと言う話を聞いた事がある。との事でした。
>本家の親戚にとっても、祖先の話は既に伝わらなくなってしまったようです。

ここで、重要な情報が在ります。

先ず、”叔父さんが管理していた”とすると、その時期は明治期とし、「衰退」はそのかなり前から始まって、「廃寺」に成ったのは明治期だとすると、「藤原氏の慣習」が途切れて仕舞っていた事に成りますね。
江戸初期には、まだ「祭祀の伝統知識」は護られていたが、その後、江戸中期前の頃の宝暦1751年頃には未だ継承されていた事に成ります。
とすると、お寺の住職の代の代わり目の頃1760年代に継承され得なかった事に成ります。
何かが寺側でも起こっているようですね。

これを段階を追って分けるとすると次ぎの様に成るのではないでしょうか。

「顕教」に成った事での「寺側の影響」で、「藤原氏の永嶋氏の伝統」が途切れた事も考えられます。
この場合は、「永島氏の枝葉ご本家」が、「伝統」を寺側に示す必要がありますが、「顕教」と成った事で、「他家の檀家」の人の「家の慣習」も入ってきて、「藤原氏の伝統」は強く云えず必ずしも守れなくなってしまった事が考えられます。
そうすると、最初の根本的な伝統が途切れたのは、第一段階として「江戸初期」と成ります。
次に、「先祖墓の建設期」が第二段階となり、「江戸中期前頃」と成ります。
江戸中期後の「寺の衰退期」が第三段階と成ります。
そして、廃寺期の幕末期が第四段階と成ります。
最後は、明治初期の第五段階と成ります。

夫々、段階ごとに依ってその「伝統の消滅」は変化した事に成るでしょう。
筆者は、「永島郷士館」の存在が「大きな境目」と成ったと観ています。
恐らくは、第三段階の時期に、「永島郷士館」は゜別の寺の檀家氏」として移動してから、この「伝統」も何もかも途切れて仕舞ったと云う事だと思います。

そもそも、「ルーツ先である事さえの忘却」が起こって、且つ、その墓所が判らないと云う現象を見逃す事は出来ません。
それで、ここで「重要な情報」とは、”「永島郷士館」”と「レイザン」(「霊山」)の事です。

先ず、「レイザン」の件ですが、これは当時は、上記しました様に、先祖を祀る一族の墓所で「先祖墓」のあるところを「霊山」と呼びました。
恐らくは、この事と間違えての先祖が祀られているところの事を「レイザン」として、そこにある寺の事を宗派と間違えたと観られます。

次に、その前に、「永島」と云う苗字です。
上記した様に、「永嶋氏」が「永島氏」に成っていて、その「氏名」(姓名では無い)を呼称する館があったと云う事ですが、血縁は大いにあって一族であった筈です。
同じ地域に別の一族が住む事は「氏家制度」の中では絶対にありません。
「棲み分け」と云う習慣があったのです。、それは、”伝統により棲み分けていた”とするこの”「先祖墓」”がある事で判ります。
その周囲には、お家の「祖父の墓所」があったとする事から、間違いはありません。
更に、その「永島」さんに「郷士の呼称」が付いています。
これには、重要な意味が在ります。
それは、「棲み分け」を前提とする「郷士」である限りは、”「地権」と云う慣習”があったのです。
これがある限りは「棲み分け」をする以外にはありません。

そもそも、「郷士」とは、その「国の藩領」とは別に、「領地内」に旧来から長く住み、その領地の土地の一部に”「地権」”を認められた「一族の武士団」の事を指します。
その網の目の様に血縁で結ばれた「郷士の一族」の「郷士頭」が住んでいた処を「郷士館」と呼ばれていました。
「土地の所有の権利」を持っているのです。
この「地権」を持っているのですから、後から入って来た別氏の藩主に成った者からすると、「厄介な集団」です。

有名な江戸初期の大事件が在ります。
山内一豊が土佐の藩主として入りますが、「一豊」は「土佐郷士の勢力」を弱める為に、この「地権」を小さくする政策を採ったのです。
この「地権」の持った「郷士集団」は抵抗します。
著しい戦いが起こり、「話し合い」を理由にこの郷士集団全員を城に招き入れます。
突然、城門を占めて、これらの「土佐郷士集団」を騙し討ちで全員殲滅したのです。
日本各地で同じ様な事が起こります。
逆に「家康」は、この「永嶋氏」を始めとして秀郷一門の「下総の郷士集団」を「御家人」として「幕府官僚の主軸」に置いたのです。
前回にお答えしました様に、唯、この時、「地権の所領」は「減額」しますが、「減額分」は「御家人」「旗本」「庄屋」「名主」などの豪農の俸禄で補えましたので、この様な騒ぎは起こりませんでした。
郷氏であり御家人と成った「永嶋氏」の枝葉の中での配分ても、「地権の配分」は「宗家や本家や分家等の格式」から変更されました。
当然に「永島氏」の枝葉の中でもその「一族末裔の配分も変わった事に成ります。
当然に、枝葉を大きく広げた氏では、生活がままならない事が起こります。
お家は、「永島氏の本家」の「一村の庄屋」の更に「分家格」と成りますから、小さい地権を認められた「郷士身分」のままであった事に成ります。

筆者は、この事で起こる「密教顕教の伝統の問題」もありましたが、この「地権の問題」もあって重なって「宗家永嶋氏との意見差」が起こっていたのではないかと観ています。
結局は、江戸初期の混乱期の「何だかんだの解決策」として、ある程度の地権を認めて「先祖墓」を作る事に至ったのではないでしょうか。
生活は苦しい事が続いて祭祀寺も維持が困難と成っていったと観られます。
これが上記しました様に「江戸初期の後」と観ているのです。


「郷士頭」とは、一族一門の古来から土地に住んでいた縁者関係を纏める「指導役」を各地域毎に置いて管理していました。
この事を云います。
この一族が担当する「地域の郷士」が住む各地域の「数人の郷士頭」とその「総元締め」の「宗家筋」に当たる「本家筋」の「永嶋氏」を名乗る「郷氏」とで藩領の領地の一部を地権で管理していたのです。

この「総元締め」の「郷氏」とは、大きな地権(大地主)を持ち、その地権の下に一族の「郷士の地権」が保障されていたのです。

つまり、この「郷氏」が、「永嶋氏」であって、本家の上の「宗家」と成り、その血縁のある「郷士頭」が「永島氏」であって、「本家筋」あった事を意味しています。
そして、お家は、その「郷士館」のご「本家の分家筋」に当たる事を、この「永島郷士館」が物語っています。
お家は、この「郷士館」の永島さんと共に、当初は「墓所」を護って居た事が判りますが、「衰退と廃寺」で、結局はその後にこの「郷士館」のご本家の永島さんは墓所を別にした事も考えられます。
「永島郷士館」は「お家の家筋」が「地権を有する郷士の庄屋」であった事を証明しています。
「庄屋」でも「地権」を持つ格式高い”強い庄屋”であった事に成ります。

結局、分家筋の叔父さんルーツが何とか檀家として明治期から管理する事に成ったと観られます。
依って、「先祖墓」や個々の墓所を管理するのは大変な労力と経済的な負担も必要ですから、一族の伝統も途切れ墓所が管理しきれなく成り、現状と成っていると観られます。
「永島」と云う氏名に成ったのも、この「永島郷士館」との本家分家の関係が在った事から起こっていながらも、然りながらも、現在は其れさえも判ら無く成っている事からも理解は出来ます。
つまり、「血縁の有無」も判らないと云う事は、今は同じ墓所には無い事になりますから、「永島郷士館」の墓所は別の処に移された事を意味しています。
「お家の先祖墓」もありながらも、「ご本家筋の墓所」も「別の処」と「檀家寺の寺」に移されている事ですから、大きな変遷がお家の一族に興った事を物語っています。

今回、頂きました一寸した情報でも、当時の慣習から照らすとご先祖の色々な事を引き出す事が出来ます。
ご親族の方にもこの事をお知らせください。
これからも色々判りましたらお知らせください。
「青木氏族の生き様」ががどんどん解明されて行く事に成ります。

では、またお便りをお待ちしています。



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