青木ルーツ掲示板
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  [No.1069] Re: Who am i?(愛知の青木さん)
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/10/21(Wed) 19:36:55

今日は。お久しぶりです。

さて、早速ですが,御質問のお答えに入ります。

御質問は次ぎの通りですが、以前のご質問でお答えした内容は、以下の通りです。

今回のご質問には、知っておかなければならない歴史観が在ります。
先ずは、祖父の方は明治の方と見受けれられます。
これは、江戸期と明治期では社会体制が全く異なっています。
氏家制度の江戸期には家紋などの伝統でルーツを確認できましたが、明治期はこの身分制度の「封建制度」と「氏家制度」で纏まる社会体制ではありません。
従って、明治期ではルーツを追う事は出来ません。

次に、善光寺の件ですが、この善光寺は、密教と顕教を併せ持つ中立的な大変に珍しい寺で、平安期から、比叡山の僧侶が集まる天台宗派と、皇族系の宗派の浄土宗派とが、二つの派で構成されていた珍しい寺に成ります。
平安期の当時は,社会は主体が未だ「密教」を前提とする宗教でしたから、一般の者、つまり、民衆を含む官僚や侍(当時はこれらの身分の人々を「百姓]と云った。)が信心できる寺として大いに広がりました。特に、民衆は「古代稲荷信仰」を主体として信心出来る宗教体制でした。

そもそもその「密教の天台宗」は、平安期は密教系を前提に貴族や公家衆等の出身者が僧侶と成り、この系列でこの寺に僧侶と成って入りました。
ところが、教義は「顕教」の「盧舎那仏」を「宇宙仏」として「釈迦」を「如来像」として説く宗派であり、明らかに「顕教」でした。
然し、体制では、つまり、「密教の大日如来を宇宙仏」とする説を唱える宗派でしたが、教義は「顕教の説法」を採用していました。
少し矛盾する宗派でした。
これが、「密教の在り方」について平安期の有名な[宗教論議」となり、挙句は「宗教戦争」と成った原因です。
比叡山系は、多くは「皇族の門跡院の者」と「公家や貴族」が僧侶と成った宗派でした。

ところが、これに反して「浄土宗」は「皇位で高位の氏族」が入信し、その「氏族の者」が「氏内から僧侶」と成り説法する「密教」だけを前提としていました。
「達親」と云う「仕来り」を敷いて布教する「独善の宗派]でした。
(研究室の「伝統シリーズ」で論じています。)
そこで、この「善光寺」は、この「二つの態勢の宗派」の僧侶を招き入れての寺の構成を採った事で、「特殊な善光寺」が生まれました。
当然に、内部は、二派に分かれる事に成ります。

この「密教」であって「密教」で無い、「顕教」で有って「顕教」で無い不思議な寺が出来上がったのです。
従って、後には民衆も含めて、江戸期には誰でもが信心出来て、且つ、「高位格式を持つ氏族」も信心できる「高い格式のある寺」が出来上がったのです。

この体制を持つ「善光寺」は、江戸初期には家康に依って「密教」を全て禁止した為に、全て「顕教」に統一しましたので、当時としては「身分の高い、格式のある僧侶」から成る「格式のある寺」が出来上がり、この為に家康は、特別に、この徳川氏が定める「葵紋」の他に、権威を更に高める為に特別に、「格式紋・権威紋」として、「立葵紋」を作りました。結果的にこの葵紋の使用を認められたのは、「二つ出自」にこの「立葵紋」を与えました。
一つは、「皇族賜姓族の伊勢青木氏」と「特別賜姓族の秀郷流青木氏」の「伊勢青木氏の融合族」に「徳川氏の勝姫」を嫁がせてこの「立葵紋の使用」を認めました。
そして、他に一切の使用を禁じました。
これらの上記の事は「伝統シリーズ」で論じていますので参照してください。

つまり、同じルーツの皇族系の持つ格式の高い氏や寺社に使用を認めたのです。
これが、「善光寺の格式紋・権威紋の立葵紋」の経緯由来です。
幕府は、この善光寺に「立葵紋の使用」を認めて「寺紋」として使わさせて「徳川氏の権威」を高める事に利用しましたし、且つ、保護したのです。
従って、この特別の神紋と成った「立葵紋」に付いてはお家とは家紋ではありませんので無関係です。

元は、上記しました様に、「皇族系の笹竜胆紋」と「神職で神道系の柏紋類」と「高位の格式を持つ木瓜紋類」(平家揚羽蝶紋を総紋としての織田氏も木瓜紋の由来を持つ)の「氏族の寺」として唯一の最高の格式高い寺が平安期に出来上がり、それが江戸期に「立葵紋の使用」をこの「善光寺」にだけが認められたのです。
当然にその僧侶の多くはこの紋類を持つもので構成されていたのです。

本来は、「柏紋類」は「青木氏の皇族賜姓族の神職系の家紋」で特別に朝廷より認められたものです。
依って、この善光寺にもこの「神職系の柏紋の者」が僧侶と成る事も起こったのです。

>祖父の実家が「長野の善光寺」であることがわかりました!
>しかしながら「善光寺」ですと家紋が立ち葵であること、我が家の家紋は丸に五瓜?でして宗教も神道です。

実家が「善光寺」と云う事は、どの様な経緯と裏付けで判明したかは判りませんが、考えられる事は、その「浄土宗派の僧侶の青木氏系」の者が、還俗して子孫を遺したとすればあり得る事です。
平安期では無い事であったのですが、江戸期中期頃からこの「善光寺の僧侶」が妻帯する事も起こり、善光寺内にも、還俗した者にも妻帯した子孫を遺した事は記録として遺されています。

ですから、元は「神職の神道」でありながらも、「善光寺の僧侶」であって還俗した者が、この還俗後に「元の家紋」を使ったとする事もあったとも考えられます。
依って、「柏紋類、木瓜紋類の青木氏」が、還俗して次ぎの経緯の中で子孫を増やした事も起こり得ます。

「立葵紋」は上記した経緯から家紋としては全く関係がありません。
「立葵紋」は江戸初期から家紋化する事は厳しく禁じられていましたし、江戸期の事ですので、関係はありません。
本来の家紋は、室町期中期頃以降では「五瓜紋」では無かったと観られます。
恐らくは、元は「柏紋の青木氏」であった事に成ると思います。
この事は不思議な事では無いと考えられます。
但し、還俗の所運が付いていて、下記の様な「跡目の家紋掟の経緯」から幾つかの家紋が江戸期には起こったと観られます。

ただ、明治期では、社会体制が異なっていますので、どんな家紋にも広がった事が云えます。
お家の祖父の事は、明治期ですから、「丸に五瓜紋」に成ったとも考えられます。

下記の様に、以前のお便りにも書きましたが、次ぎの様に成ります。

以前のお答え内容
>多分、推測の域が出ませんが、「木瓜紋」の前は一時期に「皇族賜姓青木氏の神職」の「三つ柏紋」を持つ氏であって、その後に、「土岐氏系の一族」との血縁を結んで男系跡目が叶わずに再び変紋を余儀なくされる事と成り、「家紋掟」に依り「木瓜紋」に成ったと見ます。
>それだけにこの神道、特に「高位の皇族賜姓青木氏」だけが持つ「自前の神社」の情報には重点をおいています。
>1200年以上の長い古い家柄をお持ちであるが故に言えることで、室町期や江戸期ではこの説は無理でしょうが。
>これに関する何かの情報があるといいのですが。例えば、御家は丸付き紋ですのでその分家筋ですので、本家筋の一部では、この「三つ柏紋の青木氏」の家紋を保持している可能性がありますし、地理的には同じ域の家紋類ですので充分にあり得る事と思います。
>キーポイントはお家が分家の「丸に五瓜紋の青木氏」であったとしても、本家筋の一部にこの「三つ柏紋」もあることかと思います。
>これが確認出来ればルーツ検証は確定です。
>兎も角も、綜紋は「笹竜胆紋」です。
>筆者とともに変紋前は「皇族賜姓青木氏の総宗本家の笹竜胆の家紋」と成ります。
>現在まで男系で続いてきた「伊勢青木氏」が皇族賜姓すべての青木氏の元に成りますので、元は「笹竜胆紋」であります。
>賜姓源氏も青木氏の綜紋の笹竜胆紋を同族ですので保持しています。
>賜姓源氏一族の全て総宗本家は完全に絶えましたので、現在では「伊勢青木氏」を始めとする5家5流の24氏の一族が「綜紋の笹竜胆紋」を繋いでいること成ります。
>(ただ、土岐氏系と近江系は源平合戦で滅亡しています。)
>つまり、その「24氏の青木氏」の一つの分家筋の御家は、「笹竜胆紋」から「三つ柏紋」へ、そして「木瓜紋」と移り分筋となっことから「丸付き紋」となったとも云えます。

さて、そこで歴史的に「ある変遷」があって、「木瓜紋」は、そもそも、上記した様に「高位で皇族系の氏族」であった事から、そもそも、「丸付き紋」は、本来は慣習として用いていなかったのです。
然し、この慣習も江戸期に成ると緩みましたので、「丸付き紋の木瓜紋の青木氏」もある事は認められます。
但し、特にこの場合、その中でも「五瓜紋」は、織田氏等の「平家の支流族」が用いた家紋類です。
その「五瓜紋」の真ん中にその「支流族の紋」、つまり、「副紋」を組み入れた文様の習慣を持っています。
その中に組み込むこの「副紋」は一般的に「唐花紋の変紋した文様」を用いました。
依って、お家のこの家紋に真ん中にある文様があるかどうか、無いかどうか、在ったとしてその文様がどんな文様であったかで、お家のルーツ先がどこの氏姓であったかは判ります。
この上に、本来は上記した様に「高位の純血性を護る為に「氏族」からすると無い「丸付き紋」ですが、唯一つ「丸に五瓜に唐花紋」使用した「姓族]があり、この「姓族」は唯一「江戸期の渋江氏」が認められます。
恐らくは、時期は何時かははっきりとは云えませんが、恐らくは「渋江氏の由来事」から江戸の中期頃から明治期初め頃の事では無いかと云えます。
つまり、二つ目の説は、この渋江氏の系列と養子血縁した青木氏である事が云えます。
「柏紋の青木氏」が男系跡目が出来ず、養子を渋江氏から迎えたが、この養子にも男系が認められずに、女系となり、家紋は「養子先の家紋」に変紋せざるを得なく成り、渋江氏の男系の系列に入り「五瓜紋の青木氏」と成った事に成ります。
だから、「神道神職の柏紋の青木氏」であったが「神道の五瓜紋の青木氏」が発祥したのです。

明治期の祖父の実家先のルーツは、江戸期に入っていますから、そのルーツの元は、辿れば善光寺の僧侶で有って、還俗して、妻帯して、子孫を拡げたが、その後の江戸末期頃に[渋江氏」と血縁して、上記の経過を辿った事が云えます。

問題は、”お家の実家先が善光寺”とする凄い発見は、どの様に見付けられたのかが問題です。
その事に興味が湧きます。
そもそも、上記の様に「善光寺の構成経緯」からは、本来ならば「実家先」とは出来ない筈ですし、更に、仏門の者の還俗の経緯は本来は伏せる事が慣習でした。
「還俗」と云っても簡単には「還俗」は起こりません。
例え還俗しても元の青木氏の下に戻る事に成ります。
依って、実家先とは成ら無い筈です。

況して、善光寺です。
これは、実家先とするそれが判る判断資料が滅多に観られない「凄い歴史的価値」を持ちます。
この事が判る事は、家紋云々等の「ルーツ事]は充分に判る筈です。
「善光寺実家」とは、果たしてどの様な意味なのでしょうか。
一応は、”「善光寺実家先」”としての資料から観られる範囲で考察をしましたが、少ない事ですので、「善光寺の地名」の事を云っているのですか。
そうだとすると、「立葵紋」のご質問の無意味が何を意味しているのですか。

では、お便りをお待ちしています。


お答え頂ければ幸いで改めてお答えし直します。



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