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  [No.1078] 今はさぬき市ですが
     投稿者:青木 一夫   《URL》   投稿日:2015/11/27(Fri) 00:34:00

長野県千曲市桑原の父の実家のルーツを知りたいです。
菩提寺は千曲市大雲寺(曹洞宗)、過去帳で江戸時代中期まで辿れるようです。
曽祖父以前は代々久右衛門、又右衛門を襲名しています。紋は「丸に蔦」、
屋号は「車や」、裏手に水車の設備の跡が残る精米所、表は養蚕農家を表す
ウダツの上がった3階建て(最上階は換気用)で北国西街道に面しています。
建物は明治期のものです。
父は官立の上田蚕糸専門学校(現信州大学繊維学部)出身です。
因みに数軒上には旧松代藩士の関家(本家)がありその下方に関家の分家が土塀を連ね
父の実家がその下にあります。
私の祖母の実家が関一門です。因みに文政年間に関(本家)の次男が紀州家家臣葛山八郎衛門(八百石)として養子に迎えられています。
江戸期の大半を関家が桑原村の名主庄屋を占め明治に入ってからも本家が区長、分家が戸長をやっていました。
青木家では久右衛門が寛文5年(1665)に長百姓として村誌に名を残しています。
昭和に入って祖父が桑原村の助役、戦後更埴市となって始めての選挙で伯父(父の長兄)が市議に当選しています。
戦前まで大地主だったことは間違いないです。
父に先祖は「猿が馬場峠警護の侍」と聞いたことがあります。
信じている従兄弟たちもいますが私は疑問に思っています。
あるとすれば松代藩真田家家臣ではなく(松代藩武家屋敷の巡回コースに青木家がありますが)むしろ川中島藩森家の残党ではと思っています。森家と関家は一門ですし、同じ期織田信長の家臣団に青木があります。
因みに桑原の関家の当主は代々新右衛門長○です。
我が家は私の代で絶えますが良い家系であれば娘に伝えます。


  [No.1079] Re:今はさぬき市ですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/28(Sat) 19:54:01

信濃の青木さん 今日は。
始めまして。
全国の青木さんが自由に集う本サイトにようこそお越し頂きました。
これからも宜しくサイト運営にご協力の程をお願いします。

さて、お便りをお読み致しましたが、実は大変に驚きました。
常日頃、「信濃青木さん」のお便りがある筈だと期待しておりましたが、遂に頂きました。

実は、筆者は「伊勢青木氏」ですが、「筆者の家」とお家の「信濃の青木氏」とは、明治35年まで親密な親族関係を保っていました。
筆者の家の口伝では、大変にお世話に成ったと聞き伝えられておりまして、取り分け、江戸後期に久右衛門さんには、祖父の弟の光三郎が養蚕技術を学びに2年間お世話に成ったと聞いていまして、この光三郎は、その後、伊勢に帰って養蚕の殖産を広めたと聞いています。
この事は、三重の郷土史にも書かれていて、又、伊勢の郷士衆の家にも伝わっている有名な事なのです。
又、伊勢は米の品質が悪く、且つ、古来より地形と気候の影響で米の石高が耕作面積より低いと云う事があって、別には、「伊勢の青木氏」の者が、信濃は「米どころ」ですので、「信濃青木氏」の「宗家の久右衛門さん」に頼んで暫く生産方法を学び、それを伊勢に持って帰って品質は良く石高も多く採れる米の生産に成功したと伝えられ、更に、この技術を使って当時としては極めて珍しい「早場米」の育成に成功した事が伝えられています。この「早場米」は「早稲光」(早光米)と呼ばれ全国に広まったと聞いています。
郷土史にも記録され、地域の人々から徳宗家として「信濃青木氏」と共に尊敬されていた事が判って居ます。
その節は有難う御座いました。

さて、お家の事に付いては、研究室やルーツ掲示板等で詳しく論じていますので、そちらを先ずお読み頂くとして、「信濃青木氏の概要ルーツ」だけをここでは述べて措きたいと思います。

奈良期の天智天皇期に「大化改新」が起こります。その時を契機に青木氏は発祥します。
それまでは、「天皇家の皇位継承制度」は、「第六世族の皇子」までを王位継承者として扱われてきましたが、「天皇家の内蔵の財政」の立て直しの為に、これを改めて「皇子王」を第四世皇子までとし、「皇位継承者」は「第四位皇子」までと定められました。
天皇の代わりの際に起こる「第六世族以降の皇子」は王位を失い、且つ、皇族から排除され、更に、都から離れ、「坂東」に配置され職を失いました。
そして、合わせて、「第六位皇子」は、臣下して「侍」として「青木氏」を賜姓して発祥させ、天皇を警護する「臣下族」(侍)と定められたのです。
それ以外は比叡山に「門跡僧侶」として移されました。
「第四世族内の第六位皇子」は「宮廷警護」と「五地域の守護王」と施政執行を担う「国策氏」等の「賜姓五役」に任じられたのです。
この時に、「青木氏」を賜姓されたのは、「伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王」でした。
そして、この「五つの王家」には、代々起こる「第四世族内の皇位継承者」から皇位で外れた皇子がこの「五家の青木氏跡目」に入る事を定められたのです。
これが、「伊勢青木氏」であり、「信濃青木氏」等であるのですが、ところが、下記にします様に、「近江」と「美濃」の「青木氏」は、平安末期に滅亡して仕舞いました。

「甲斐青木氏」は、平安期から室町期に掛けての戦乱で青木氏氏是を護ったのですが、同族争いが起こり衰退して地域での繁栄は大きく出来なかったのです。

それ以下の皇子は、全て下族して、坂東の警護に付きました。
これが「坂東八平氏」(ひら族)です。

ところが「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、「二足の草鞋策」で生き延びました。
奈良期の頃から、「朝廷の役処」として「賜姓五役の国策氏」として、新たに”「紙屋院」”と云う「特別な役処」を与えられて、「和紙」(墨・硯)を作る事を命じられ、日本で最初に「和紙の生産」に成功しました。
それまでは中国の紙を全て輸入していました。
この中国の紙品質は良くなく、結局、研究の結果、「楮による和紙」の生産に成功したのです。
朝廷が「青木氏の紙屋院」の下で、丹波で直接に和紙生産に関わります。
又、「墨」も「備長炭の煤」を墨する事が出来、「硯」も紀州にて良質な「紫石の岩石」の素材が発見され、共に成功したのです。

それまでの「木簡]を使った記録から和紙の記録に切り換えます。
その結果、紙の利用文化から「朝廷絵師処」等の役処を支配下に置き、朝廷の「賜姓五役外」に多くの「文化的役処」も課せられました。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は共に力を合わせて「賜姓族」として役目を果たしたのです。

その後、朝廷で使われていた「余剰和紙」を「金銭に換える役目」も命じられて、且つ、市場で使われる様に改革を任じられました。
これが、平安中期に「二足の草鞋策」として朝廷より認められて、「賜姓五役の国策氏」として「紙屋院」の「紙屋」の屋号で「商い」も初め豪商とも成りました。
925年までには、「賜姓五役」として「信濃青木氏」も、「甲斐青木氏」も「和紙の殖産」に携わり、1025年には、「賜姓五役」以外に「二足の草鞋策」として、遂には日本で初めての「総合商社]を営み貿易まで手掛ける「商社」を経営します。
この時、お家の「信濃青木氏」もこの「古代和紙の殖産と興業と商社の経営」を共に担ったのです。
ところが、「嵯峨期の詔勅と禁令」を基にした「青木氏氏是」に従わずに、「平安末期の源平合戦」で、近江と美濃の青木氏は滅亡しました。

この様な数多い口伝や記録が「伊勢青木氏」や「信濃青木氏宗家」には遺されていまして、お家のお便りの様な概要の事は承知をしております。

そもそも、この「青木氏の事」は、全て研究室やルーツ掲示板等に記述していますが、賜姓五役を担う「五家五流皇族賜姓族青木氏」として、当家の記録にも遺され、平安期の「五つの歴史書」にも記録されています。
この様に、奈良期より「第四世族内の皇子王」として「伊勢、信濃、近江、美濃、甲斐」に「皇族賜姓族」の「青木氏」が、「朝廷の命」により定住し、「守護王」として活躍をし、又、宮廷の護衛団としても最初に担当した家柄です。

ところが、「平安末期の源平合戦」にて、「青木氏氏是」を破り「近江]と「美濃」の青木氏がこれに加わり敗戦して嵯峨期の詔勅に依って発祥した同族の「賜姓源氏」と共に、「美濃富士川の戦い」で滅亡して仕舞いました。

お家の「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」と「甲斐青木氏」は、「青木氏氏是」を護り生き延びたのです。
その後、お家の「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」は、その後、「賜姓五役」を維持する為に課せられた特別な家制度の”「四家制度」”に基づき、何度も互いに「養子養女」にて同族血縁して子孫を拡大してきました。
明治35年までこの「商いの関係」も続けられ、「親族」としての付き合いがありました。
その直近の象徴的な事が、上記の「久右衛門さん」に世話に成った事です。

筆者の家の屋号は、上記しました様に。「紙屋」で、襲名は「福家」の松阪殿は「長兵衛」と名乗っていました。
これらの概要はお家の信濃青木氏の宗家筋との関係ですが、さて、お家の「信濃青木氏」の「関氏との血縁」があったとの事ですが、明治後の事ですので、「社会の構成」が全く異なっていますのでルーツには参考には成りません。

>父に先祖は「猿が馬場峠警護の侍」と聞いたことがあります。
>信じている従兄弟たちもいますが私は疑問に思っています。
>あるとすれば松代藩真田家家臣ではなく(松代藩武家屋敷の巡回コースに青木家がありますが)むしろ川中島藩森家の残党ではと思っています。森家と関家は一門ですし、同じ期織田信長の家臣団に
青木があります。

次に、以上の行ですが、「信濃青木氏」の「江戸期の動き」に付いては、筆者が先祖から聞き及ぶところでは、西国街道と信濃善光寺と繋ぐ商道の「猿が馬場峠警護の侍」の説が理解できます。

この江戸期の「信濃青木氏」のご先祖は、二つの派に別れた事が聞き及んでいます。
一つは地域の庄屋で、地主の土地を生かした米生産と和紙殖産と養蚕等を始めとして「豪農」で、それを売り捌く「豪商」と、紙製品を加工して裁く「企業家」であった事が判って居て、この道を貫いた「賜姓五役」を務めた「郷氏の家筋」と、お家の「分家枝葉の家筋」と成った「武家の郷氏」の家筋を活かして「郷氏の国衆」として「真田氏の家臣」に成った「二つの家筋」とに江戸初期に分かれた事が判って居ます。
その豪農と豪商と企業家の宗家とは、筆者の家とは親族として親交を深めていた事が判って居ますので詳細は判って居ます。

筆者の家との親交が絶えたのは、筆者の福家の家(松阪宗家 筆者の家)が失火元の「松阪火災」になり「福家」は、賠償倒産して、家筋を「四家」に引き渡しました。(現存)
「信濃青木氏の宗家」とは、明治35年まで続きましたが、この時を境に「福家」と親交が無く成りました。
一部は娘の末裔に残務整理で遺しましたが、多少の親交もあったのですが、この松阪に遺した福家の我が家は平成10年に絶えてしまいました。
依って、紀州に移った「跡目の筆者の家」とも親交が途絶えました。
現在、信濃の情報は全く無く成りました。

この「信濃青木氏」は、宗家筋の枝葉では、伊勢青木氏と同じで、家紋は「笹竜胆紋」、宗派は「密教浄土宗」である事が判って居ます。

そこで家紋と宗派から、お家は下記の青木氏で分家筋に当たる「信濃青木氏」ではないかと観られます。
真田氏の家臣と成った青木氏は、その経緯から国衆と成って曹洞宗に宗派返していますし、この時に、「家紋掟」から蔦紋に成った事も判って居ます。
つまり、江戸期の中頃にお便りにある様に秀郷一門の支流族の「関家」を通じて「藤原秀郷流青木氏」との血縁をしている可能性が有ります。
或は、関家から養子を迎え、二代続きで男系跡目が出来ずに、武家の家紋掟に依り男系側の関家系列に入った事で蔦紋の青木氏が出来たことも考えられます。
然し、後者ではないかと推測します。
「青木氏と血縁族(家紋)-2 (蔦紋)」 にその事を記述していますが、「蔦の家紋」とその「丸付紋」ですので、江戸中期頃に支流族の分家として発祥したと観られます。
このルーツの分家筋に当たります。

然し、もう一つの武家として他藩に仕官した家は真田藩に仕官した事が判って居ます。
この真田藩に仕官した青木氏は二派に分かれ、一つは九度山に真田氏と共に同行し、もう一つは松代で家臣を続けたとあります。
この事はサイトでも論じています。

関家は母方に成りますので「青木氏」とは別と観られますし、「織田家の家臣の青木氏」に付いてはルーツははっきりしていて別の青木氏です。これも詳細は論じています。
尚、関家に付いては、その出自源は三つあるとされていまして、「伊勢関氏」で「たいら族」、「陸奥関氏」で「秀郷一門支流族」、「美濃関氏」は出自は不明です。
お家の云う関家は、恐らくは、「蔦の家紋」から「秀郷一門の陸奥関家」と観られます。

その根拠は、この陸奥関家は、陸奥から秀郷一門が陸奥から引き揚げた時に、陸奥の土豪で秀郷一門の血筋を受けた末裔の花房氏と共に信濃に定住しました。
この時に、信濃に同行した同じく秀郷一門の血筋を持った花房氏の配下の陸奥土豪の関氏だと観られます。
そもそも、この花房氏は、「信濃足利氏」を最初に名乗った豪族ですが、この「花房氏系足利氏本家」は秀郷一門に本家を追い出され、最終は米子に逃げ延びました。信濃足利氏は秀郷一門野血筋を受けた分家が取って代りました。
この時には、「足利氏」は「信濃青木氏」と血縁をしています。これが「足利氏系青木氏」です。

その経緯から、「信濃青木氏」の分家筋が、江戸期には関氏とも血縁を進めたと観られます。
この関氏は「藤原秀郷一門の支流族」ですが、この関家と江戸中期頃に下記の青木氏と血縁している可能性も在ります。
恐らくは、お家は、この「信濃青木氏の支流枝葉の分家筋」に当たると観られます。
本流の宗家枝葉が久右衛門の家筋と成ります。

そもそも、この青木氏は大きく分けると二つのルーツに成ります。
一つは、上記の「皇族賜姓五家五流青木氏」の25氏と、二つは「藤原秀郷流青木氏」の116氏があり、「藤原秀郷流青木氏」の「特別賜姓族青木氏」は、円融天皇に依って賜姓を受け、「皇族賜姓族青木氏」を「賜姓五役」も膨大な職務と成った事に依り、これを補完する母方の「特別賜姓族青木氏」です。
後は、嵯峨期詔勅で名乗った[青木氏」4氏が在り、明治3年期の苗字令で名乗った第3青木氏が在ります。

お家は、信濃の「皇族賜姓族青木氏」です。
先ずは、論文をお読みください。お判りに成ると思います。

「出自などの詳細」は、「研究室の論文」を先ずはお読みに成り、その後には「ルーツ掲示板」でサイトの検索を使って「信濃青木氏」で検索してお読みください。
「家の詳細」は、「伝統シリーズ」で詳しく論じています。

膨大な論文に成りますので、ゆっくりと少しづつお読みに成り、都度判らない時はご質問をして頂く事でご理解が進むと思います。

「青木氏」の皆さんからよくご質問頂きますが、明治以降の現在の社会体制と、江戸期以前の社会体制は全く異なっていますので、「過去のルーツの事」を御理解いただくには、その当時の「歴史観」が必ず必要です。
お読みに成りながら、この「歴史観」を深めて行きながら理解を深めて行くことが必要です。
その為にはご質問も必要に成って来る事かと考えます。
ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.1080] Re:今はさぬき市ですが
     投稿者:青木 一夫   《URL》   投稿日:2015/11/28(Sat) 23:03:03

有難い情報大変ありがとうございました。

先月伯母(父の姉)が107歳で亡くなりその葬式のとき従姉が先祖侍説を持ち出してきましたので少し調べてみました。状況証拠はいろいろありますが実態は養蚕と精米所をやっていましたので農家だろうと思っていました。ただ後の調査で藩米の精米は庄屋階級が自家精米所で行うことがあり養蚕については明治になって士族授産として奨励されたと知りそれを家業として継続できたと納得しました。
関氏につきましては家紋は「五葉木瓜(瓜の唐華)」です。現当主で四十六代とのことです。
明治35年頃の青木久右衛門につきましては私の祖父が明治13年生まれですからその父の久右衛門に間違いないと思います。
世代交代で本家に直接聞き難い中このサイトがあって大変助かりました。
大変有難うございました。
今後もこのサイトで勉強させていただきます。


  [No.1081] Re:今はさぬき市ですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2015/11/29(Sun) 21:21:02

信濃の青木さん 今日は。
早速、お便りをお読み下さって有難う御座います。

直近の{信濃青木さん」との親交では、明治の地租改正で伊勢と信濃では、歴史上の記録に遺る大規模な農民を交えた一揆が起こりました。
この一揆と云いますか動乱と云いますか、この一揆を裏で経済的に支えたのは「信濃青木氏」と「伊勢青木氏」です。
この一揆は明治9年に租税の修正の案が出されて収束しましたが、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、超大地主であって地域の農民を護る為に貢献した事が判って居ます。
この時も地租改正で土地の利権を放棄する法が成立し、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、共に結束して民に開放して大きな痛手を負いますが、農民の税付加に反対していますが、「商い」でこれを賄い立ち直った事も有名な事です。
これ程の「賜姓族」としての結束を図りました。
この様な同じ援助の事が室町期にも起こっています。
この様な生き様に付いての事が掲示板には論じています。
兎も角も、お読みください。


  [No.1082] Re:今はさぬき市ですが
     投稿者:青木 一夫   投稿日:2015/11/29(Sun) 23:29:04

副管理人様

> この様な生き様に付いての事が掲示板には論じています。
> 兎も角も、お読みください。

今も読んでいたところです。
歴史観、生き様、圧倒される思いです。
私ながらに検証しながら読み続けると相当時間はかかると思いますが
大分人生観も変わってくると思います。

このサイトに出会えて幸運です。
大変ありがとうございました。