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  [No.1085] 群馬県の青木です
     投稿者:青木   投稿日:2016/02/09(Tue) 17:29:45

群馬の青木です。

家紋は丸に違い鷹の羽です。宗派は天台宗です。
亡くなった祖父の話だと先祖は長野から群馬の利根郡に流れてきたそうです。
ルーツが知りたいのでよろしくお願いします。


  [No.1086] Re:群馬県の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/02/10(Wed) 17:40:49

群馬の青木さん 今日は。
始めまして。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。

サイトには全国の青木さんに関する歴史的な研究資料を満載しています。
ヤフーサイトの歴史カテゴリーでは段突の情報量で、ヤフーからお墨付きをもらっています。

一度、ゆっくりと時間を割いてお読みください。お家のルーツの事も良く観えてきますよ。
お家の御先祖の生き様が判りますよ。

さて、ご質問ですが、情報量が少ないので、ルーツを確定するには無理が在ります。
信濃と家紋と天台宗の三つですね。

ただ、時代性がはっきりしませんので、有る条件下で論じます。

信濃は北部、南部、西部、東部なのかで異なってきます。
確かに、信濃には皇族賜姓族青木氏とその系列の足利氏系青木氏と同じく信濃諏訪族青木氏の定住地です。
この一族は家紋は笹竜胆紋です。宗派は浄土宗です。

然し、家紋が、「丸に違い鷹の羽紋」ですから、この家紋からすると長野県南部と岐阜ー愛知県との国境沿いの南部域と成ります。
そうすると、この南部域に定住していた「青木氏」は、日本全国最大の氏の藤原秀郷流青木氏である事に成ります。
ところが、宗派が天台宗と成りますと,少し矛盾が生まれます。

昔は一族一門で「棲み分け」をし、その一族で宗派を固定していました。
この南部域の秀郷流青木氏は浄土宗です。
そこで「天台宗」と成ると近江藤氏と呼ばれる近江に住んだ秀郷流一門の宗派と成ります。
ここには、原則的に秀郷流青木氏は定住していませんでした。
ただ、近江藤氏の一人が伊勢の母方の秀郷流青木氏の跡目を継ぎました。

そこで、この近江をベースにすると、時代が少しの平安期の後に成りますが、近江の藤原秀郷流脩行系青木氏が生まれました。
この脩行系青木氏は公家系の血筋を持ち、天台宗です。
ただ、この一族は紀州に赴任し紀州有田と地域に村を形成して住んでいました。
ところが、南北朝の時にどちらに味方するかの論争が起こり、南朝に味方した一族は敗戦し四国讃岐に逃亡しました。
残りのどちらにも味方しない一族は、故郷である美濃の北部域に移動して仕舞います。
紀州にはこの時の子孫が遺されています。

ここで信濃南部域と美濃北部域とがほぼ一致しますし、天台宗も一致します。
問題は家紋ですが、異なっています。
この一族は州浜紋です。

但し、家紋は、跡目継承に依って家紋掟から変紋する事に成りますので、美濃北部に移動した後に変紋したか、紀州の時に変紋したかに依って変わる余地があります。

分家支流の丸付き紋ですので、変わった余地は大きい事に成ります。
本家筋は家紋の変化を起こさない様に一族から養子を取り血筋を護る役目がありますので、簡単には変紋しません。

変紋説で考えますと、ルーツは定まります。
その証拠と成る事が見付かればの話です。
先祖が紀州に居た事があるのか、美濃で変紋したのかの証拠です。
実は紀州の違い鷹の羽の説も完全に否定できないのです。
紀州北部の奈良伊勢との国境域にはこの一族の伊勢の秀郷流青木氏が定住していました。

さて、そこで、群馬上野は武蔵の北部ですが、此処は藤原秀郷一門の宗家の定住地の北部の外れです。
利根郡ですので全くは縁の無い所ではありません。
何時この群馬に移動したのかと云う事に成ります。

秀郷流青木氏で在る事には疑問がありませんが、脩行系か秀郷流青木氏の分家筋かの判別に成ります。

これ以上の事は判りません。
恐らくは、「秀郷流近江脩行系青木氏」(紀州)と観ています。

兎も角も、研究室とルーツ掲示板の検索で、全国から届いている「脩行系青木氏のお便り」をお読みください。何かヒントが出る事もあります。
ご先祖の解明に繋がる何でも簡単な事でもありましたら、お便りをください。


  [No.1179] Re:群馬県の青木です
     投稿者:群馬の青木   投稿日:2020/11/23(Mon) 22:06:34

4年前に投稿した群馬の青木です。ふと思い出して書き込みに来ました。
あれから家族親戚に話を聞いた事を書きたいと思います。

母方の先祖の青木は江戸時代、石川県の金沢で大火を起こして群馬へ逃げてきたと伝わっているそうです。
あと、祖母の葬儀の際に先祖がお金を出して建立したという寺へ行ったところ、
寺の屋根に水戸黄門でよく見たあおいの御紋(?)と、丸に二と書かれた家紋らしきものがありました。
そして、関係ないとは思いますが、母が子供の頃に正月に門松を飾らずに餅を食べないで赤飯を食べるという不
思議な風習があったそうです。

これもルーツ話とは関係ないのかもしれませんが、沼田に住む仕事場の人間が
利根郡にいた母の先祖(青木)と言われている青木一族の話を知っており、
利根郡にいた青木一族は何かで信長に追われてきて利根郡に落ち延びてきたと言ってたそうです。
とりあえず分かった事はこのぐらいです。
母がルーツを知りたがっているので少しでも分かる事がありましたらお聞かせくださると嬉しいです。よろしく
お願いいたします。


  [No.1180] Re:群馬県の青木です
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/12/01(Tue) 10:53:25

群馬の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
其の後、お元気そうで何よりです。

当サイトも青木氏に関する論文を投稿し、現在は額田青木氏と駿河青木氏と伊勢の青木氏との相互の関係性に付いて論文を投稿しています。

又、お暇な時に読んでください。

さて、お尋ねの件ですが、一応、お便りから以下の五件としますのでご了解ください。

1 江戸時代、石川県の金沢で大火を起こして群馬へ逃げてきた事

イ 寛永の大火 1631年と1641年
ロ 宝暦の大火 1759年

歴史で調べると以上の2度の大火がありましたが、恐らくは青木氏に関わった大火は色々な青木氏に関する記録からロに当たると思います。
この「出火元の寺・前田氏法事」から東に川を挟んで消失しました。
この「2kの域・青木地名」を中心に半径4〜5kの円周上に集中して「青木村の集落・現在の石川県金沢市幸町」がありました。
又、そのほぼ中央域には「青木氏の守護神の神明社・田上町」が在りました。
現在も社も青木の地名も青木さんも多く存在します。

この金沢の「青木氏の所縁」は次の通りです。
元は「隣の福井県・現在の越前市」には、古来より「皇族賜姓臣下朝臣族の青木氏」の「五家五流青木氏・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」が、歴史的には戦乱を始めとして様々な事が起こりますが、その何らかの理由で、一時、逃避して「四つの神明社」に匿われ、ここで先ず自立出来るまで助けられる「青木氏の独特の仕来りの場所」でした。
当然に、この越前には現在も青木氏が多く住んでいる地域です。
これは「青木氏」に限っての制度で、これを「中国由来の制度・寒山寺」で「質制度」と呼ばれていました。
「青木氏」でもこれを平安期の初めに「伝統」として持ち込み、「寺」では無く「青木氏の守護神の神明社」の一族の救済制度として「質制度・第一の場所」と呼んで明治初期まで長く続けられました。

前回でも説明しましたが、奈良期から平安期中期にかけて「皇族賜姓臣下朝臣族」とは、元は「皇族の者」であって、「朝廷の財政上の理由」で養えなくなった者を「青木氏と云う姓」を与え「皇族」を離れて、臣下して「最高の位の朝臣」と云う「格式の身分」を与えられた唯一の「氏の族」の事なのです。
「天智天皇」から実施されました。
平安期初期まで歴史的に多くの「青木氏」が自立して行きました。

この「自立した賜姓の青木氏」がある事由があって其の後に移り住み集まった「第二の場所」が、この「金沢の幸町付近の場所」なのです。
ここは平安期から江戸期まで様々な一族の方が互いに一族一門が集まって助け合いながら伊勢青木氏の商いの支援を得て生きてきた由緒ある場所なのです。
ここから再び、歴史的に観ても出世して大名や豪商に成る等の有名な人が出ました。
従って、「お家の母方の青木さん」は、越前から来た金沢のこの「青木さんである事」に成ります。
主に何れも同族ですが、この「三つの青木氏」の以外にも「伊勢と甲斐の賜姓青木氏」の出資者がありますが、ここに集まった者は、「近江青木氏」と「美濃青木氏」と「信濃青木氏」と「信濃青木氏系諏訪族青木氏」の出自の方が多いのです。
ここに移住して元の武士を選ばずに「郷氏」と成り、その傍らで「商人」と成った人も実に多く、中でも「酒造業」で成功した「豪商の人」が多いのです。
この金沢の青木の人達は何らかの形で関わった「酒造業」は、実は、元は「越後の秀郷流青木氏」を「身元引受人」と成って助けられて、「酒屋の商い」を始めた人の「信濃青木氏系諏訪族青木氏」が多いのです。
この「越後の秀郷流青木氏」が、「長篠の戦い」で「武田氏・長篠の戦い」に味方した「信濃青木氏系諏訪族青木氏」が敗退して、先ず「相模の秀郷流青木氏」を頼って逃げ込みました。
この一族の女系で繋がる「越後の秀郷流青木氏」が、其の後に下記の通り「一族防衛」と戦乱の中での「酒造り専門職・杜氏」の「人手不足」で、これ等の人を「相模」から引き取りました。
ここに逃げ込んだこの「信濃青木氏系諏訪族青木氏・抱き角紋」が、再び、そこから、「越後の秀郷流青木氏」に移動して「酒造業の杜氏」を手伝いました。
そこで覚えた「杜氏の技術」を一族の「越前の金沢の青木氏」に教えました。
これが広がって「金沢青木氏」には「酒屋業」が増えた原因なのです。
現在も多いのは同じです。

ところが、上記の「ロ 宝暦の大火1759年」の影響をもろに受けて破産して「上野・群馬県」に一族が揃って移動したのです。
何故、この「下野」に移動したかですが、武田氏滅亡時に先ず身元引受人の「相模の秀郷流青木氏」を先ず頼って逃げ込み、そこから「北の護り」として「下野・群馬県」に一部が廻され配置されていたのです。
そこで子孫を広げたのです。
恐らくは、それが「金沢」を経て「相模」に、そして「下野」に移動して来た「お家の母方の青木氏」と成ります。

当時は、勝手に地方に移動する事は、「無宿者」として扱われ捕まり重労働の刑を受けたのです。
場合に依っては「国抜け」として罰せられて一族全員打ち首の厳しい罰を受けたのです。
「確実な身元引受人」として一族の立場を持つ「親族の長者・村長」らが成るのが当時の普通の仕来りでした。
況して、「武士・郷士」である場合は「氏家制度」に依ってこの範囲が制度的に決められていたのです。
ですから、下野に移動する際には「親族の長者」が間違いなく成ったと考えられます。
つまり、誰でも出来る訳では無くその一族性を証明する「抱き角紋の信濃青木氏系諏訪族青木氏の長」が身元引受人と成った筈なのです。

そこで、「青木氏」には、実は「一族の掟」として、「四掟」と云う厳しい掟があったのです。
それは、上記の血縁性を一定に保つ為の掟です。
この「掟」からはみ出した者は罰せられて活きて行けません。
その「四掟」とは、古代中国の伝統的習慣で、「同祖、同門、同族、同宗」の範囲が同じである事と云う掟です。
この範囲で無くては血縁は出来ません。
これを男女を問わずに破った者は一族から追放と成り、「無宿者」と成り生きて行く事は出来ない仕組みですし、「掟破り」として一族から処罰されました。

「青木氏」は明治初期までは「女系制度の中」で繋がる一族で生きて来たのです。
お家は、従って、「母方の青木氏」が主流と成るのです。
当然に、此処には、この「四掟」が働きますので、「父方」も何らかな形で何処かの「青木氏」であった筈です。
当時は、「青木氏」はこの「四掟」に依って「同族血縁」が普通でしたので、「伊勢系」か「諏訪族系を含む信濃系」か、「佐々木氏を含む近江系」であった可能性があり、一族一門の「藤原秀郷流青木氏・116氏・24地域」かに成ります。
この血縁の中には「藤原氏公家」も含みます。

2 建立したという寺へ行ったところ、寺の屋根に水戸黄門でよく見たあおいの御紋(?)と、丸に二と書かれた家紋らしきの事

江戸期には自らの家紋を寺に掲げる事は顕教令の禁令で禁じられていますし、寺は幕府の支配下に入りました。
依って、建造期の「足利幕府の紋・丸に引両紋」とし、その後に江戸期に「葵紋」としたものでしょう。
唯、「葵紋」は何処でも徳川氏系の誰でも「徳川氏の者」でさえも許可なしではそもそも使えなかったのです。
其れも使用する期間・3年から5年に限定されていました。
故に恐らくは、「葵紋」によく似た「諏訪族主家の立葵紋」だったと思います。
だとすると、2の内容と一致しますし、「上野・群馬」の事も一致します。
江戸期に全ての寺は幕府の完全管理下にあり勝手に寺を建立する事は出来ません。

3 子供の頃に正月に門松を飾らずに餅を食べないで赤飯を食べるという不思議な風習があった事

上記でご説明しました様に、その出自は、「賜姓族の近江青木氏・神明社」か、「信濃青木氏・神明社」か、「信濃諏訪族青木氏・守護神諏訪社」かの出自を持ちます。
つまり、お家はつまり「神道」なのです。
3の件は、お家の情報の通りでこの「神道の伝統の赤飯・おこわ」なのです。

4 父方は利根郡にいた青木一族は何かで信長に追われてきて利根郡に落ち延びて来た事

上記した通りです。
「長篠の戦い」の初期は,一時,難を逃れる為に「群馬の青木氏」は先ず「相模の秀郷流青木氏」を頼り、その後に一部は下野の北の護りに廻された「諏訪族系青木氏の抱き角紋の青木氏」で、「信濃青木氏族の諏訪神社系の青木氏」です。
この「青木氏には以下の3氏」があります。
1 信濃青木氏系諏訪族青木氏
2 諏訪族武田氏系青木氏
3 武田氏系諏訪族青木氏

この青木氏は 1>2>3で血縁性が高く成ります。

「お家の母方の青木氏」は金沢に居た関係性の事から1だと考えます。

5 以上と前のお便りとを取り纏めます。

信濃の疑問は信濃諏訪族青木氏で、家紋は抱き角紋です。
恐らくは、前回のお便りの「違い鷹羽紋」は、恐らくは父方の其の後・室町期末期から江戸末期までの血縁で家紋となったものでしょう。

信濃の地域は「南部・諏訪」では問題はありません。
確かに、「信濃の諏訪」は「皇族賜姓族青木氏」と同じく「信濃系諏訪族青木氏」の定住地です。
この一族は今回のお便りから「家紋」では、間違いなく「抱き角紋」と成ります。
宗派は「青木氏の掟」に於いて間違いなく「浄土宗」で、中には「天台宗」と云う事もあり得ますが、「女系一族の青木氏の母方」とすれば、この場合は今回のお便りと矛盾する事に成りますので、これは「室町期中期頃の父方」ではありませんか?

ここで父方と母方で「信濃南部域」とほぼ一致します。
そこで失われている「母方の青木氏の家紋」ですが、今回のお便りで「抱き角紋」と成るでしょう。
さて、そこで、この家紋の存在する「群馬・上野」は、「武蔵の北部の国境」ですが、此処は「藤原秀郷一門の宗家の定住地」の「北部の外れ・勢力圏際」です。
その「利根郡」ですので歴史的に縁の深くあった所であります。
前回のお便りでは、「父方の御祖父のお話」として、“父方は信濃から下野に来た”としていますので、「違い鷹羽紋」、つまり「秀郷流青木氏で在る事・父方」には間違いは無く、「下野は北の護りの最前線」であるので、「信濃」から「下野に来る事」には疑問が無いとしていました。

ところが、「信濃」には「秀郷流青木氏」は一時期を除いて存在していませんでした。
ところがその「信濃に在した秀郷流一族」には「ある歴史」がありました。
それは、この「信濃」に「足利氏系青木氏の宗家」が一大勢力を張って抑えていました。
この「足利氏系青木氏」は、そもそも元は「武蔵の秀郷流青木氏」が陸奥に赴任していた時に「陸奥の土豪・花房氏」との間に生まれた子供で、その子供を連れて来てこの「信濃・足利」に住まわしたのです。
それが、武蔵の背景で勢力を持ち「信濃」を抑えたのです。
遂に、この「秀郷流青木氏の裔」の「陸奥の土豪・花房氏」は、「地元の賜姓信濃青木氏」と血縁して「信濃青木氏系足利氏・地名」を名乗ったのです。
これが何時しか「宗家の武蔵の秀郷流青木氏」の云う事を聞かなく成ったのです。
困った「宗家の武蔵の秀郷流青木氏」は、この「信濃青木氏系足利氏」の「分家」に「子孫」を送り込み、「信濃青木氏系足利氏」の「本家」と争らそい宗家を乗っ取り、支配下に治めた経緯を持っています。
この時に「秀郷流青木氏族」がこの「信濃・足利地方」に定住したのです。
この「ルーツ・秀郷流青木氏族」が其の後に「役目」も終わり「下野の護り」として再配置されました。
これが、御祖父が云う「お家の父方のルーツ」だと思います。

念の為に、この為に「信濃青木氏系足利氏」の「本家」は追われて逃げ延びて「鳥取の米子八頭」に到達して、そこで落ち着き「米子足利氏」を築き、付き添った「信濃賜姓足利系青木氏」が「米子」で弱った「米子足利氏・重婚血縁」に代わって「米子賜姓青木氏」として勢力を持ちました。

故に、「母方の上記の青木氏」とは違いますので、ここで「父方」と「母方の裔」が再び「四掟」に依る「一族血縁した事」に成りますね。

古来より「青木氏」は奈良期から今回のお便りで判る様に長い歴史を持つ「女系族」ですので、お家の父方も明治期までは「四掟」で繋がり「秀郷流青木氏であった事」はほぼ確実ですが、「男系」ではこれを判断基準にする事は「女系の青木氏」で在る限りは難しく、今回のお便りでは「女系の青木氏」として「史実に関係性を持つ確実なお家の歴史」と成ります。

この「女系族・母方系であった事」は、「筆者の伊勢系」と「お家らの信濃系」の「明治初期」を除き、各地の青木氏でも異なりますが、血縁して凡そ幕末位までは「伊勢―信濃」は完全な女系族は保たれていたのです。

筆者の青木氏とお家の青木氏は、今では判らなくなりましたが系譜の何処かで何度か繋がっていたでしょう。
取り分け「信濃諏訪の抱き角紋の青木氏」とは、何度も血縁していた事が判っていて、直近では江戸中期頃に血縁しています。
「奈良期からの血縁族」ですので、「金沢」と成れば間違いは無いでしょう。

筆者の「祖父の弟・江戸末期」が「伊勢」に「酒米の栽培と酒造」を「伊勢」に持ち込んでくれたのは、「信濃・諏訪と越後・越前」が中心に成って、「全国各地の青木氏」の「酒造りと米作り」の専門の人を各地から大掛かりに集めて取り掛かったと記録されています。
この時の「酒造り技術者」等も「下野」からも派遣された事が判っています。
御蔭で「伊勢」にも「酒造業」が芽生えたのは有名な事です。
その中で「伊勢・青木光次郎・祖父の弟」で指導していた定着した青木さんが、その名を採って全国初めて「早場米・早稲光1号」が開発され、それを全国の青木さんの居る地方に分けたとされます。
これが“越後のコシヒカリの米”の基と成ったとしています。
その時はお家の方々にお世話に成っている事も充分に考えられます。

以上、これが金沢の母方の青木氏のルーツの歴史です。

この事を母上にご説明下さい。解らないときはご遠慮なくお尋ねください。