青木ルーツ掲示板
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  [No.1101] Re:東京の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2016/12/05(Mon) 17:21:11

東京の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
お元気で居られる様で何よりです。これからも宜しくお願いします。

お便り頂きました。ご先祖が埼玉の神明社の神職を務められ、柏紋をベースに子孫繁栄されている始祖を「伊勢青木氏」とする「青木さん」と記憶していましたのでお便りを読んですぐに判りました。

神社を参拝された様で、矢張り、御先祖が神職をされていた事もあり、何か遺伝子が心に引き付けるものが有るのだと思います。

私も良くそんな気分に成る事があります。何か「ベータ波のテレバシイ」が、未だ人間に持っていて脳幹の近くにしまわれている「原始脳」から発するのかも知れませんね。
これは「人」にもよる様ですが、私と同様に、お家もシナプスを「原始脳」に働かせる回路を未だお持ちなのかもしれませんね。

さて、お便り頂きました事に付いて、前回にも述べましたが、それを更に裏付ける事であると考えます。

>名前の記載は致しませんが、墓碑の一番初めの年号は寛永でした。
>歴史は詳しくはありませんが、改めて、青木氏の歴史を感じました。

>そこに書かれていた先祖の名前を検索してみたところ、
>児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

>こちらの祭神は大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命とのことです。
>住んでいた土地の神社なので、こちらに刻んだのでしょうか

「前回のお答えの要点」
「児玉郡」は、埼玉県北部域の「深谷神明社」から西隣接域の山手ですから、「分家の入所」としては充分に考えられます。
以前、お答えいたしました「武蔵神明4社」、つまり、「深谷の神明社]と、「所沢の神明社」と、「川越の神明社」で、特別に「所沢市中富の神明社」が加わり4社に成るのですが、後は、後に建立された「神明社系の分社」等がこの児玉郡域に建立されました。

恐らくは、この「分社域の神明社」をお家の分家筋が受け持たれたと観ています。
依って、「深谷の本宮」から「児玉郡の美里域」にお家の分家筋が移動されて、子孫を拡大させて「分家筋の墓所」を別に持たれたと考えられます。

依って、「児玉郡の美里町の勝輪寺」の前は、ご本家筋の深谷域に「本宮の神道の本墓所」があった事に成ります。
昔は、墓所や建物を建てる事等の「自由に出来る土地」は、「郷氏」や「庄屋]や「豪農」や[社領」や「寺領」などが「地権」と云う権利で補償されている地域、つまり、お家の場合は「社領」にしか持つ事は出来ませんでしたので、「児玉郡の美里」に「神明社の社領」の「地権」を持っていた事に成ります。
従って、「分家筋の墓所」を設けるには「児玉郡の美里」しか無かった事に成ります。

お家の家紋が統一されている事は、一族が互いに助け合い「児玉郡」で纏まり「子孫繁栄」を図って居た事に成りますね。

依って、「勝輪寺」の元は、古くはお家の「柏紋の神道」の「墓所」て、後に小寺を設けて「菩提寺」に成った事に成り、その[菩提寺の経営等]が成りゆかずに、明治期に世間の仕来りに従い「一般」の「檀家寺」に成ったものと観られます。
多くはこの経緯を辿りますが、明治期では経営が成りゆかずに全てが「檀家寺」に変えたのです。

「今回のお答え」
寛永期は1625年から20年間で、寛永期が刻まれている事は、徳川氏がやっと幕府を安定させた時期ですから、柳沢吉保が神明社を建立する直前の事に成ります。

前回のお答えの通り、お尋ねの件は次ぎの様になりますね。

>児玉郡美里町の北向神社の御神燈に先祖の名前が刻まれていたとこのことでした。

とすると、寛永期頃と成りますと、上記の前回のお答えを裏付ける事に成ります。
寛永前は「青木氏の財力」で「神明社系分寺」を維持していましたが、寛永期に神明社や寺等を江戸幕府に移行した時期で、その後幕府の財政が行き届かずに荒廃しました。
この時に、「特定の氏」が持つ神社や寺は禁止されました。
この例外に洩れず「美里町の守護神」としていた「神明社系の北向神社」も「分社」として周囲の氏子等ともに「社の維持」を図ったのです。
この時に、郷氏として分社の「総代的な立場」から、「御神燈」を寄贈した事に成ります。

「神社や寺等の寄贈燈」は、この総代(守護)等に依って行われたものです。
明治期以降は、「総代」だけでは無く、「地域の商人」なども加わり寄贈する事に成るのですが、寛永期では、庶民はこのような事に関わる事は出来ませんでしたので、刻まれている事は「総代」であった筈です。
神明社では、この「総代」を務める人を「御師(おし)」と呼称していました。

そもそも、「総代」とは、「神社の維持管理一切を取り仕切る責任者」の人の事を言います。
多くは、室町期では、「柏紋等の神社の関係者(氏上)」がこの「永年に総代」を務めました。
そうでない場合は、「氏子総代」と呼称し、現在と同じ様に交代制です。

次ぎに、「大巳貴命」とは、「大国主(おおくにぬし)」の事ですが、この「命」を祀ると云う事は、「自然神」に類する社であり、「皇祖神や祖先神」がそれにあたるものです。
主に「神明社」だけがこの「社神と仏神」を含む「古式型の合祀体」でした。

更に、「素盞嗚命」はその先代の倭国の初代大王で、、「大巳貴命」が倭国を引き継いだ二代目で自らを高める為に全国を行脚し、「農業の開発」が国を高めるとする考えを持ち、その開発の見本と成る拠点を紀州に求めたのです。
そして、中国の近代的な農業を会得していた「少彦名命」を重用し、その拠点とする社を紀州に築きます。
この拠点造りに「少彦名命」か活躍したのです。

現在もこの拠点と成った神社が紀州の若山から有田近郊に幾つもあります。
後に「最終の遷宮地」として「伊勢」に成ります。
これがわれらの青木氏を通じて「古い深谷」を始めとして全国500社に広まったのです。
その関東の一翼を担ったのがお家の御先祖です。

この拠点が、後の大和朝廷の「祖先神」であり、「神明社の役目」でもあるのです。
つまり、この「三者」が紀州では無く、関東にも祀られていると云う事は、まさしく「神明社」で全国に建立し「農業開発の拠点」とした事であり、「神明社系の合祀体」の証です。
きわめて古い「深谷の神明社」の「分社」である事を間違いなく証明しています。

依って、お家の「柏紋系」、「総代」、「御神燈」、「児玉郡美里の定住地」等の情報が一致してます。
名が刻まれていた事、寛永期の時期の事からも時代性に矛盾はありません。

つまり「土地の者」であったからだけでは無く、上記の経緯を持った「御神燈」であったと云う事です。
これで、よりお家の「御先祖の歴史観」が発掘された事に成りますね。
だから何か引き付けるものがあったのでしょう。

全国の青木さんの「青木氏の歴史観」としては大変に役に立つお便りでした。

何か判りましたらお便りください。



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