青木ルーツ掲示板
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  [No.1104] Re:三つ鍬形紋のやすさん
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/01/17(Tue) 11:19:37

> 本欄は エラーにより代理投稿
>
>
> またまた歴史に興味がわき、ルーツが気になってきました。
> 和歌山のやすです。
> 氏は
> 浅井 あさい
> ついでに名は……
> 康臣 やすとみ
> やすは家康の『康』
> とみは豊臣の『臣』



和歌山の浅井さん 今日は。

お久しぶりですね。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

さて、前回お尋ね頂いた際には、御姓が判りませんでした。
その際に、お家のご家紋が、三つ鍬形紋(くわがた)との事でした。
この時のお答えは、紀州徳川氏の家臣であるとのお答えをしました。
その中で、「浅野氏系の一族」ではないかとのお答えをしました。

実は、和歌山北域には、浅井氏が多いのです。
この系列の多くは、浅野氏系の一族一門に含まれ、その血縁を一部引き継いでいる家系と成っています。
主に、山梨域と「和歌山の北紀域」に多いのです。

さて、この度のお便りの中にお家の「ルーツの所縁」が出ているのです。
実は、歴史マニアの中で「有名な逸話」が遺されているのです。

それは、家紋研究の中でも、”「家康」が夢を見たとして、信長と秀吉と家康が「三つ鍬形の兜」を被って、天下国家を論じた夢を見た”として、この事からこれを”「兜の替紋」”にしたと成っている所縁のある「有名な家紋」なのです。

そこで、「替紋(替家紋)」とは、江戸期初期から使われた「特別な慣習」で、この最初が、「紀州徳川氏」の「頼宣」なのです。
「紀州徳川氏」は「主紋」は「三葵紋」ですが、「替紋」は「兜等の武具」にも用いる「武勇を示す文様」です。
この「替紋」は「副紋扱い」の家紋なのです。
後に、大大名は幕府の徳川氏から許可を貰い「自分の家の替紋」を造り真似る事が起こりました。

そこで、この「替紋」は「誉れある武勇」を示す文様である事から、戦功を挙げた家臣にもこの主君の替紋を使う事を許されたのです。
江戸期には最大の「家の誉れ」であったのです。

そこで、これを「家康」から聞いた「紀州藩の初代頼宣」は、これを「兜の替紋」に指定し、そして、「紀州徳川家の縁続き」の「伊予西条の松平氏」もこの「替家紋」を使う事に成りました。

この「替家紋」(かえかもん)は、同時に「戦功のあった家臣」に「名誉」の為に「主君の家紋」を与える事にも使われましたが、「紀州浅野氏」や「縁続きの浅井氏」のお家とかが許された特別な数少ない「誉れの家紋」なのです。

この様に「替家紋」(鍬形文様)とは「紀州」と「伊予」にしか分布しいませんので大名が戦功のあった者に特別に与える家紋としても用いられたものなのです。

実は、「紀州徳川氏」では、「浅野氏、浅井氏」(昔は”あざい”と呼んでいました。)の家臣が多く仕官されていました。
これには「ある経緯」があって、浅野浅井氏が紀州に分布しているのです。

紀州では,この「誉れ」から、特別に”「浅野浅井氏」(あさのあざいし)”と云う言葉で特別に呼ばれていたそうです。
昔は、”あさい”では無く”あざい”と呼んでいたのです。

現在でも、浅井さんは和歌山に多いのですが、この一族と考えられます。

故に、お家の名がこの家紋の「夢の謂れ」に因んでご先祖の名誉を後世に伝える為にお説の通り”「康臣」”と名づけられた可能性が有ります。
臣は「豊臣」では無く、「兜の経緯」(名誉の三つ鍬形の替紋)から「徳川氏の臣」であった事を示している事もあります。
つまり、これはお家が、矢張り、紀州徳川氏の由緒ある初代からの家臣であった事を意味しています。

実は、上記の経緯とは、「家康」に最も愛された「紀州初代の頼宣」が、紀州伊勢に居た青木氏等の土豪の武士を全てと云って良い程に多く抱えました。
この為に、幕府から「謀反の嫌疑」が掛かり、一時、蟄居を命じられたほどの事件でした。
この時の元の「紀州浅野氏」と共に一族であった仕官した「土豪の浅井氏」と考えられます。

後に、秀吉の時代に大阪の泉市に城を構えていた「紀州浅野氏」も江戸期には「頼宣の入城」と共に「国替え」と成ります。

徳川幕府は1625年に正式に樹立させますが、「頼宣」は1619年に紀州に入城します。
夏の陣で徳川氏に命じられて「紀州浅野氏一族一門」は紀州から大阪に側面攻撃の為に攻込みますが、この時にお家らの「紀州の浅野氏一族一門の土豪」は、この時に戦功を挙げたものと考えられ、その後の混乱で紀州を平定に貢献して、「頼宣」よりこの「替紋」の「三つ鍬形紋の使用」が認められたものだと考えられます。
紀州北部の和歌山と泉との境に小さい領地を与えられたのです。

然し、紀伊国は慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」の後、「甲斐国主」であった「浅野幸長」に与えられ、外様の浅野家の治める紀州藩が一時成立しました。
ところが、元和5年(1619年)の「福島正則改易」に伴い嫌疑を掛けられた「紀州浅野家」が「安芸国・広島藩」に移されるます。
それまで駿府藩主だった徳川家康の十男・「徳川頼宣」が「浅野の旧領地」に入城し、「紀州徳川家」の治める「親藩の紀州藩」が成立しました。
この時に紀州の「浅野氏一族一門」は後に国替えと成りますが、この「浅野氏の一族」の一部の「浅井氏」等が地元に残り、「徳川氏」に改めて仕官したのです。

この事も含めて、「福島正則改易」で疑われた「紀州浅野家一族一門」の家臣を召し抱えたとして幕府から嫌疑を掛けられた事にも成ります。

ところが、然し、残ったお家は「戦功」をあげていた事から、紀州徳川氏の替紋「名誉の三つ鍬形紋」を授かっていた事から疑いが解け「仕官」が出来たのに間違いはありません。

現在も、お家の所縁の地の「泉」(泉佐野)に城跡がありますよ。
近くですから一度先祖の城跡でも見られては如何ですか。

出来ましたら、是非、この伝統を御子孫に伝えてほしいものですね。

では、判らない事や御質問がありましたら又お便りください。
お待ちしています。

お家のご先祖が仕官された時、「紀州伊勢の青木氏」等も仕官した時の事をサイトに記載しています。

「研究室の伝統シリーズ」の処で、検索で、”「頼宣」”か「浅野氏」等のキーで検索してください。



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