> はじめまして、東京に住む仁太郎と申します。お世話になります。
> 私の母の実家は古川氏といい、岡山の花房国興の後裔といわれており、江戸時代後半は村上水軍の後裔でもあるためか広島のある島に移り住んでいます。村上、鳥居、板倉の流れといわれています。そのことがわかるように各氏の祖先の名や縁の地名から名前ができています。
> さて本題でございます曽祖父は青木氏と結婚しており、その女性の父の名前は十左衛門です。その子たちには、仁、一、重、興等の字や、「六一」という名、美濃青木村のあった大垣の別の呼び方等が名前となっております。さて、十左衛門の生まれた年代は戸籍で逆算でおよそ1800年前後となり、麻田藩青木一貞の息子一興と同じ世代となります。その青木氏の実家が明治初頭でいう武庫大社村(のみ記入)と戸籍にあります。端的に伺いますが、この青木氏は一興の兄弟ではないでしょうか?「六一」という名前の意味は男子六人の一人という意味で、十左衛門は男女12兄弟の10人目での男子6人内の1人ということはないでしょうか?戸籍に載っている情報は約200年まえからです。
> よろしくお願いします。
今日は。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからも、よろしくお願いします。
さて、曾祖父は青木氏と所縁のある家婚をされている様ですが、先ず、末裔の方のお名前(A)からそのルーツ(B)が、且つ、お家のご先祖の移動ルート(C)と、明治初期の戸籍簿(D)と、曾祖父の年代(E)と合わせて勘案しますと、青木氏の別譜の歴史的経緯(F)から一つのお答えが出ます。
それは、お説の通り、お答えは、(A)から(F)が合致するのは、「丹治氏系青木氏」である事です。
「丹治氏系青木氏」の詳細については、「ルーツ掲示板のお便り」や「研究室の麻田藩に関連する資料を参照してください。
そこで、この「丹治氏系青木氏」に付いての概要を述べます。
「丹治氏系青木氏」は、武蔵の国の入間より北部域に定住していた土豪で、平安期に皇族の十市王の孫の「多治彦王」が罪を得て、関東に配流されます。
この王の面倒を看たのが、武蔵七党と呼ばれる一つの「土着の丹族」です。
この「土着の丹族」との間に「現地孫」の子供が出来ます。
その後、この「多治彦王」は罪が解けて京に戻ります。
この武蔵には、平安期から日本最大豪族の藤原秀郷流青木氏116氏が定住地として存在しています。
その中で、この「多治彦王の現地孫の末裔」が、この時の事を理由にして、「嵯峨期の詔勅」に基づき「青木氏」を名乗ったのです。
此処で、「嵯峨期の詔勅」とはそれまでは「皇族」が下俗し臣下族と成る場合は、「青木氏」の賜姓を受けて名乗り「皇族賜姓臣下族」で「五家五流青木氏」の何れかの「氏族の跡目」に入る仕組みがありました。
ところが、始祖の「施基皇子の後裔青木氏」の「三代後の後裔」でありながら「嵯峨天皇」は、この「青木氏」を「賜姓族」とせずに、新たに指定した皇子の者に付いては「賜姓源氏」を名乗らせ、「青木氏」に付いては、皇族の賜姓を受けられなかった「朝臣族」に対して名乗る氏名とする事に決めたのです。
つまり、「多治彦王」は賜姓を受けられなかった皇子ですので、それの血筋を持つ現地孫である事を理由に「丹族」は、別系列として丹治氏を興し、その者に「青木氏」を名乗らせて権威を付けたのです。
現地孫としての証拠は「青木氏」を名乗るべき物は見つかりませんが、「丹治氏系青木氏」を興します。
その後、室町期に入り、この「丹治氏系青木氏」は、「本家の丹治氏」と共に、家を興す為に全国各地を「傭兵の国衆」と成って回ります。
主な処は、信濃、甲斐、最後に「美濃」に「傭兵国衆」として定着します。
皇族賜姓臣下族の五家五流青木氏と藤原秀郷流青木氏のルーツ詳細は判っていますので。(A)から(F)から判断すると次ぎの様になります。
、
この時、名冬夏の陣が起こり、当初は、この「美濃」にいた「丹治氏系青木氏」は「傭兵国衆」は豊臣に付きますが、夏の陣では、徳川方に味方して戦功を挙げて、やっと「摂津麻田藩1万石」が与えられます。
この時に、一族郎党摂津に移動します。
この弟には、「河内」や「土佐」や「美濃」の「村程度の小領」の合わせて4000石を分け与えたのです。
その後、この弟の小領の河内や土佐の領地は没収され、元の国衆として暮らしていた「美濃の村」に落ち着きます。
美濃には兄の本家の末裔はいません。
本家の摂津麻田藩1万石は、明治期まで摂津にて続きます。
従って、大名と成った初代の一重の弟のルーツの美濃の丹治氏系青木氏と成ります。
>美濃青木村のあった大垣の別の呼び方等が名前と・・
このお家の美濃説に付いては、美濃には、上記の「五家五流皇族賜姓臣下族青木氏」の「美濃青木氏」と「美濃の豪族土岐氏」と血縁した「土岐氏系青木氏」が在りましたが、これら全てが室町期に滅亡します。
後は、これ等の傍系の末裔が土豪と成って「美濃の青木氏」を興しますが、この族のルーツが「丹治氏系青木氏」との区別が資料が無くつきません。
お家の曾祖父の血縁先のご先祖が、この弟の末裔の「丹治氏系青木氏」である事は、お家の美濃説を採れば先ず間違いはありません。
次には、「一興の子孫」との御推理は、当時の江戸社会の掟の「国抜け」で各地に自由に定住する事は出来ません。
藩士であれば藩内での永住の定住で、惣領以外の部屋住み者は、惣領の家人や僧侶にしか成り得ず、他の地に定住する事は無宿者と成り出来ません。「国抜け」は「一族斬首」が掟です。
次の「戸籍説」に付いては、「明治初期の苗字令」に基づく「戸籍令」で出来たものであり、それ以前1800年頃の説とすると、江戸期以前は摂津藩の菩提寺の「寺の過去帳」に記載されています。
従って、武士以外は、江戸期には「戸籍の記録」はありません。
税に基づく帳簿で「檀家寺」のお寺の「人別帳」か、「庄屋の人別帳」にしか記載はありませんので過去にさかのぼる事は出来ません。
従って、”「200年とする戸籍簿」”のお説は、「戸籍簿」は「明治初期に苗字令」に基づくものしかありませんので、約100年の歴史です。
仮に、200年だとすると、江戸期半ば頃と成りますので「菩提寺」を持ち「過去帳」を持つ事に成ります。
「麻田藩の所縁」の「青木氏族」とするとすると、現在からすると「360年の戸籍」が遺る筈です。
「過去帳」のある「何所のお寺」の「何宗」のどの「宗派」と成るかの疑問と成ります。
当然に、お墓は何時建立されたものでしょうか。
「江戸期の武士以外」は「墓」を持ちません。
国民すべてが持ったのは戸籍簿が出来た明治以降です。
従って、「200年の戸籍簿」はありません。
100年ではありませんので、有ればどこの青木氏かも明確に「過去帳」ですので元より判る筈です。
要は、この「明治初期の戸籍簿」には、江戸期の身分に「平民」か「士族」と書かれていて、その出身地も記載されています。
この「明治期の戸籍簿」では、「武庫大社のある村」と云う事に成ります。
「武庫大社]は極めて古い奈良期からの「摂津の社」で、この地名は「務古」と記載され古書にも載る程です。
この「武庫地域」は、室町期初期頃からの「近江青木氏系」の「摂津青木氏」の「逃避地の定住地」です。
この神社のある村に明治期初期に住んでいたとすると、美濃との関係で矛盾する事に成り、矛盾を起こす現象は、「第三の青木氏」との判別と成ります。
結局は、その「明治初期の戸籍簿」に「武庫大社村」と書いていたとする事から、その戸籍簿が優先されます。
依って、江戸期の「お家の身分」を補償する「士族」と書かれていたかの問題に成ります。
無ければ、「明治初期の苗字令」に基づく「第三の青木氏」です。
先ずは、念の為にお家に関わった青木さんの「明治初期の戸籍簿」をご覧ください。
「士族」と書かれていなければ、明治期に「青木氏の定住地」に住んでいた農民等が「青木氏」に関わったとして一斉に「村や郡の一般の民」が「青木氏」を名乗ったのです。
「青木氏29地域」に関わらず、「藤原氏361氏等の豪族の氏名」を名乗る事が一夜にして全国各地で起こりました。
これは苗字令が進まなかった為に、明治8年に督促令を出し政府がこの様に強引に指導したのです。
これを学術的に「第三の青木氏」と云います。
実は、五家五流の美濃、摂津、近江、信濃、甲斐などの「青木氏」にもこの現象が大きく起こりました。
この現象は、幕府が、姓名を持たない農民から武士に成った者に、認めましたので江戸初期にも起こります。
実は、摂津には、「五家五流の近江青木氏」の流れを汲む近江から流れて来た傍系族の「摂津青木氏」が室町期にありました。
又、「伊勢青木氏」の「二足の草鞋の商い」の支店もあり「伊勢青木氏」が現在も定住しています。
「武庫大社」の付近は、「皇族賜姓族の近江青木氏」の末裔が住んだ「摂津青木氏」が「青木村」を形成して定住していました。
注釈 明治初期まで、嵯峨期の詔勅禁令に依り「青木氏」以外に、この「青木氏」の「氏名」を「村名」とする事を禁じていました。護られました。
依って、明治初期の戸籍簿の「士族」(士分)の明記があるかの確認をしてください。
他に確かめる方法として次の事でも判ります。
麻田藩は明治初期まで一族が続きましたので、過去のルーツの記録や遺品や過去帳や曼荼羅図等の伝統品が必ず引き継がれている筈です。
尚、「士族」である場合は、必ず慣習として、麻田藩である場合は、江戸の武家諸法度の規則により「姓名」の「俗名」と「通名」と「襲名名」と「仮名」を持っています。
取り分け、「通名」がある事に成ります。
位牌や墓所には、「士族」である場合は、「院殿居士」の戒名と成っている筈です。
摂津や美濃の「麻田藩系」の「士族」である場合は、「浄土真宗」に帰依しています。
確認される事が多く在りますので、お判りに成られた場合はお便りをください。