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  [No.1130] 私のルーツはどうなっているのでしょう?
     投稿者:青木郁稔   投稿日:2017/12/05(Tue) 17:55:30

父の実家は、佐賀県三養基郡みやき町天建寺 家紋は丸に四方剣花菱 宗派は臨済宗です。
子供に頃に行った記憶では、近所に青木さんがとても多かったです。
亡くなった時に取り寄せた戸籍を見たら6代(江戸の文政時代)まで遡ってこの地に居たようです。


  [No.1131] Re:私のルーツはどうなっているのでしょう?
     投稿者:福管理人   投稿日:2017/12/09(Sat) 14:35:11

佐賀の青木さん 今日は。はじめまして。
ようこそ、全国の青木さんが集うサイトにお越しいただきました。
これからも宜しくお願いします。

さて、お尋ねの件ですが、江戸期の資料が遺されているとすると、次ぎの事が云えます。
御家の青木さんは、北家の藤原秀郷流青木氏で、秀郷一門361氏の中で116氏を占める「第二の宗家」と呼ばれる程の「氏族」の末裔です。
主には武蔵国の入間を拠点に半径を神奈川横浜までとする範囲に定住しています。
日本一の豪族で、江戸期には「江戸幕府官僚族」として幕府を支えた旗本や御家人等(1千石以上)の一門です。
その中でも、ところがこの「秀郷流青木氏一族」は、「日本全国24の地域」に「現地孫」を残した一族です。
例え、大名でなくてもこれ程に116氏にまで広げた江戸期までその勢力を維持した豪族はありません。

さて、そこで御家のこの一門の経緯ですが、この「秀郷流青木氏」の一族一門は平安期から江戸期まで九州北部に於いては、赴任に於いて「現地孫」を拡げました。
この「現地孫」とは、そもそも赴任中に「現地の豪族の娘との間に子孫を遺す制度」です。
これは現地の豪族と中央の豪族との定められた「慣習仕来り掟」に於いて平安期から行われていた戦略的な制度で、地方豪族の一族に適当な娘が無い場合は、妻をも差し出すまでの子孫を遺す「武士間の正統な仕来り」がありました。

そこで、御家はこの「現地孫」に成ります。
何故ならば、その根拠の一つは、「丸付きの四方剣花菱」である家紋です。
「秀郷流青木氏」にはこの家紋はありません。
「秀郷流青木氏の家紋」は研究室掲示板のメニュウにありますので参照してください。
そして、その「四方剣花菱紋」に「丸付き」が着いていますので、その「分家筋」という事に成ります。

次に、宗派は臨済宗ですので、「秀郷流青木氏」は「宗家本家筋」は「浄土宗」で、本来は浄土宗ですが、地方に赴任すると、「浄土宗」は元々、「密教」ですので限られた身分の高位の家筋が宗派としているためにあまり地方には存在しません。
従って、「分家筋」は浄土真宗を宗派とする事になり武蔵国に戻ると元に戻す制度を敷いていました。

「現地孫」には、従って、「浄土真宗の一族」と、「他宗の宗派」を信仰する事に分かれる事に成ります。
御家の場合は、「分家筋」と成りますので、「浄土宗」、或いは、「浄土真宗」では無く、「臨済宗」と成りますので、恐らくは、「分家筋」の更に「分家」の御家の家柄と観られます。

そもそも、子孫には、「直系族」と「傍系族」があり、更にこの「傍系族」には「尊属系」と「卑属系」とが有ります。
概して言えば、「尊属系」とは親方筋、「卑属系」とは子方筋の事です。
116氏もの子孫を持つ「秀郷流青木氏」は、直系族の傍系族、傍系族の傍系族とだんだんと広がります。
この中で御家は家紋や宗派が直系族のものと異なりますので、傍系族である事に成ります。
確定は出来ませんが地域、傍系、宗派、家紋などから傍系卑属の可能性があります。

この「九州の秀郷流青木氏」は、歴史的に観て第一の赴任場所の「長崎の青木村(現存)」を拠点としていて、東に「大きな村」を作り上げました。
そのこの「長崎青木村の周囲」にも、東に向かって「第二の青木村」を作り上げるまでに発展します。
江戸期までに「赴任先」は、大きく分けるとこの「2つの地域」に至っています。

この「長崎の青木村」を拠点に、歴史的経緯により「2つの地域」に更に広がりを見せました。
取り分け、その「子孫力」は「長崎」を最大に「佐賀域」、次ぎに「福岡−大分域」と続きます。
この事から、御家はこの「長崎域の青木村」から広がった子孫である事が考えられます。
史書に残る古い順に、「第一の青木村(長崎)」、「第二の青木村(佐賀)」、「第三の青木村(福岡)」、「第四の青木村(大分)」を造り上げていったのです。
平安期から江戸期までです。
歴史書を観ると、「長崎域」と「佐賀域」は平安期、「福岡域」は室町期から江戸期で江戸期に大きく広がりを見せた域です。
「大分域」は鎌倉期から室町期に広がりを見せています。

然し、御家は、「傍系族」で「分家筋」ながらも、「大変古い家柄」であった事が判ります。
この「吉野か里遺跡」の傍の「みやき町」の近くの「白壁」と云う地名がありますが、この地名は「青木氏族」に大いに関わっている名なのです。
その事から確認は取れませんが場合によっては、「伊勢秀郷流青木氏の流れ」を汲む一族の子孫であるかも知れませんね。
つまり、奈良期から天皇の名などに関わる地名は明治3年まで禁令で使えなかったのです。
取り分け、「嵯峨期の詔勅の禁令」で正式に禁止されました。
それまで使っていたとすると不遜と見做され直ちに変更を余儀なくされました。
(白壁は光仁天皇の名です。)

「秀郷流青木氏の事」に付いては詳しくはサイトをお読みください。
膨大な資料ですので、少しづつゆっくりとお読みいただけると「御家のルーツの事」が判る筈です。
判らないときは遠慮なくご質問ください。
御家の専用欄のReでお尋ねください。

以上、頂いた情報から以上の事が読み取れます。