青木ルーツ掲示板
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  [No.1170] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/18(Thu) 09:43:48

今日は。お便りを読ましていただきました。
大部、「ルーツの探求」が進んでいますね。
驚きました。最近では探求はなかなか難しいのですが、よく頑張っておられるようですね。

さて、では早速ですが、良い処に気が着かれましたね。
お尋ねは「ルーツの生き様」を解明する大きく拡大する「青木氏の歴史観」ですね。

では、ご説明いたします。
実は、今から観ても驚くべき事が起こっていたのです。
それは、何と奈良期からなのです。

その「史実の経緯」を先ず論じます。
「サイトの伝統シリーズ」には論じている事ですが、奈良期、天智天皇の「第六位皇子」であった「施基皇子」は、「賜姓臣下族」として「朝臣族」に成り、「氏」を構成する事を許されます。
これ等の事は「日本書紀」などにも記されている事ですが、この時、「伊勢王」として経済的にも「伊勢で自立する事」に成ります。
そこで、「天皇の内意」を受けて「施基皇子」は次の事をします。
それが、「天武天皇」に先ず、「賜姓五役」の一つの「令外官」として「和紙を国内で造る事」を命じられたのです。
それまでは、高値で中国から輸入していました。
それは「苦参人・人参の繊維」で造った悪質な紙でした。
これを「令外官」として「国内で造る事」を命じられました。
そこで、「一族一門」を挙げて色々試した結果、苦労して開発したのが「楮の繊維の和紙」でした。
これを、「伊勢」と「信濃、甲斐、美濃」、そして少し遅れて「近江」の「五カ所」と、平安末期には「伊豆」でもその土壌から良質な楮を生産する事に成功しました。
ところが平安末期に「美濃」は途中で源氏化が起こり「和紙の楮の生産」を止めます。

此処で、先ず「生産態勢」として「楮」を生産し、「生産技術」を開発した「伊勢・伊賀域」で地形を利用して「和紙」にすると云う「態勢・水車の機械化」を確立したのです。
其の後、「信濃」と「甲斐」にもこの「和紙技術」を移したのです。
平安期中期には、「土壌が悪い近江」と「独立性の強い美濃」は、「生産技術の移転」を受け付ける事をしなかったのです。
然し、「天皇の意」もあって何とか「土木業の額田部氏の協力」を得て「真砂の土壌」に「土壌改良」を施し、「原料の植え付け」に成功します。
この為に、「和紙の生産技術」も受け入れたのです。
これは、当初より「施基皇子」として「全ての物を造る部制度・国造・職人」を統括する「令外官の役目」を持っていたのです。
その為に天皇から「諱号」として、代々「造・みやつこ」を着けた号を名乗る事を許されます。
その「独占権」を以て、これを「伊勢」に一括して集めて、そこから一度、朝廷に納め、残ったものを「市場に放出する権利」を一括して獲得したのです。
要するに「生産と商いの開始」です。
これを「部制度」といい、平安期までは「市場経済」では無く、全ての利権を朝廷が受け持つ「部制度による部経済」でした。
つまり、「売上を朝廷に先ず納める」と云う「財政形態・商業形態」を日本で初めて「伊勢王の青木氏」が確立させたのです。
その結果、朝廷より“「令外官・天皇の密命を及びた役人」”として「朝廷」の「紙屋院の特別称号」を獲得します。
全国の「国造」を統括する事から「青木氏」の中に「青木氏部」を持つ事を許されます。
この「称号」を元に「天皇」は次から次へと「開発と商い」を命じたのです。
「和紙」に関連する「墨や硯や絵具の開発」を命じられ、平安中期の「925年頃」にはこの功績により一切の朝廷の「正式な商いの権利」を獲得したのです。
「部制度」の中で日本で「企業化」は初めての事であり「伊勢青木氏」は「起業人・商い人」と成りました。
其れも、そもそも「賜姓族」で「朝臣族」に執っては「商い等」は「禁じ手」の「象徴族」でしたので、「賜姓臣下族の朝臣族」、つまり「令外官」としてであった事から、「青木氏」とは別に“「伊勢屋」”を名乗る事として「伊勢青木氏」と別離する事を命じられるます。
つまり、「二足の草鞋策」を命じられたのです。
つまり「影の令外官」として、この「紙屋院の商い」を拡大させて行きます。
遂には、拡大した「総合商社」として「1025年」に初めて「宋貿易」をも初めて許されます。
「国の経済」を担う初めての「企業統括省・経済産業省」と成ります。
「賜姓五役」と「紙屋院」の他に「四つの院の称号」を持つ事に成ったのです。
この間、「朝廷の大蔵」は元より「天皇家」の「内蔵財政」は大いに潤ったのです。
「市場」にその需要を喚起する「経済システム」を構築したのです。
この「務め」は明治9年まで続きます。
「伊勢青木氏・伊勢屋」は日本で「最初の企業家で殖産家」と成りました。
この為、「平安期初期・925年」に「永代の影の令外官」を務める事に成ったのです。
この「流れ」は変わらず室町期には、「紙文化」で「巨万の富」を獲得し、「衰弱する朝廷」を「影」から「献納」で支えたのです。
そして、徳川幕府時代と成り、締め付けられる天皇家を裏で支えますが、幕府はこれを黙認します。
「紀州藩の吉宗」を伊勢松阪で「親代わり」と成り警護して育て商いの基礎を教えました。
そして、「紀州藩主」にして支え「体質的な赤字財政」を改善したのです。
この功績もあって幕府には評判が良く、「吉宗」を将軍にすべく幕府に多額の賂を蒔き「将軍」を仕立てあげます。
この長い経済知識を利用して「享保改革」を「伊勢屋の主導」で手助けします。
「吉宗」が将軍と成った時、この時、「幕府金蔵・金庫」には300両程度しかなかった事が「青木氏の資料」にも記されています。
そこで、「市場」を活発化させる「経済改革」を発案し吉宗に建議します。
この時、「伊勢屋の青木氏」は「布衣着用の格式・直接将軍に意見を述べられる身分・老中格」を獲得していました。
そこで「青木氏と伊勢屋の両輪」で「政治・経済改革・享保改革」を実施します。

「青木氏の資料」と「幕府の資料」などを総合すると、次の様な改革を施したのです。
それを「青木氏の資料」では、これを奈良期から「影の務め・令外官・賜姓五役」として、この「役務」を「質・しつ」と呼んでいました。
「伊勢」では「古来」から「中国仏教」に用いられていた「質・金山寺」と云う“「施し行為」”を真似て、これを「神明社の役目」としての行い、「越前の神明社」にこの役目を広く与えていたのです。

其の「質の考え方」を「享保の改革」に用いたのです。
先ず行ったのが、それが、「吉宗」に建議して停滞していた「市場の経済活性化」の為に、「一切の商い」に“「競争入札」”を義務付けました。
更に、これに伴って江戸に“「金融システム」”を導入します。
これ等の改革は「命の身の危険」に及ぶ程の「大きな抵抗」があった事が書かれています。
これが、江戸の“「伊勢屋の質屋」”です。
「江戸」に「青木氏の邸・中核」を設けて、江戸市中に「本店」を「5店舗」を構え、市中に「200店舗」を「伊勢屋」として展開したのです。
その為に、「江戸の伊勢屋・質屋」と云えば「質屋の呼称」の様に思われていた様です。
「質屋」とは「現在の質屋」とはすごし違っています。

さて、この「質屋」には、「一商目」では無く「種類別の金融」の「色々な範囲の質屋」を作ります。
例えば、資料に基づけば次の様な改革が書かれています。
「商記録と添書」と「幕府の資料」から読み出すと次の様に成ります。

物を預けて金を借りる。「小口金融」
金を借りて利子を払う。「大口金融」
建物などの建設費用を貸して完成すると利子と共に返す「建設国債」を造る。
大店を小分けして「グループ化」して夫々の店毎に一定の利益を認める「組合株金融」。
職種を「殖産、開発、陸運」等と区分けして「商い」とは切り離し「企業化金融」を有利な金融で促す。
「陸運業」には「特別融資」を促し、「物流と金融の流れ・物流金融」を良くする。
独占化していた「水運業の認可」を広く広げ、「人と物の流れ」の「期間短縮を促す金融」
特定した殖産・布の生産業等を個人では無く「起業化を促す金融」。
土地農地の有効活用の為の融資、農家、庶民の次男三男の「就業支援策金融」。
大店には組合を構築する事を支援し、組合株の発行と組合の中で使える御師券の発行の裏付け支援。

以上これの質を営む夫々の店舗に違う役目を与えたのです。

この事は「吉宗の政治政策」にも「青木氏の建議」に基づき反映さしています。(サイト本論参照)
これを「伊勢の青木氏の伊勢屋」が「吉宗」を「市場・金融」から補完したのです。
この「金融と云う面」からの「経済対策・都市政策」は明治期にも引き継がれて行きます。
「江戸の伊勢屋」はこれをこれまで培ってきた「質としたツール」を使って江戸経済を活性化させたのです。
一方で、幕府は民衆には「質素倹約」を奨励し、合理的でない生産性の低い”「華美な無駄」”を省く様に督励したのです。

(注釈 1716年に開始した「江戸改革・享保改革」はこの様に成功しますが、「享保期末期の青木氏の建議」に従って「吉宗」は全国に「殖産」にも金融を施し奨励します。
処がここで「非常事態」が起こります。
「信濃」に於いて「信濃青木氏」の「殖産域・神明社聖域」の大半を奪い、其処に「四つの新親藩」を設けて、これを管理させて「莫大な幕府の利益」として奪い取ったのです。
「親族の信濃青木氏」の「聖域で行っていた民の殖産」を奪った事を怒って「吉宗」に抗議しますが聞き入れませんでした。
そこで、“最早、これまで”として「吉宗の仕返し」を恐れて、直ちにこの「江戸の伊勢屋」と「二屋敷」と「200質屋」を「店子」に無償で譲渡して、「伊勢からの迎船」で早くも「三日後」には「伊勢松阪」に引き上げたのです。
そして、「江戸の青木氏」は「親と息子の死亡届」を出してお家が断絶した形を採ったのです。
そして、「吉宗御側用人の加納氏」とは「伊勢」に於いて何度も血縁関係にあり、紀州加納家は「紀州藩城代家老」であった事から、これを頼り「紀州藩の保護下」に入り難を逃れます。
其の後の「2年後・1745年」に「吉宗」は脳溢血で死亡します。
「危機を逃れた事」で「紀州藩」には、「伊勢の伊勢屋」は「2万両の債権」を持っていた事からも、且つ、「勘定方指導と云う立場」を幕末まで保持していましたので、今度は「紀州藩改革」に本格的に乗り出したのです。
「紀州と伊勢の殖産」を「紀州藩」に替わって進めます。
これで幕府は「伊勢屋」に手を出せなくなりました。
江戸初期から進めていた「15の商組合」も強化し、「御師制度・紙幣制度・信用通貨」を敷いて「紀州と伊勢の経済の活性化」を促します。
「紀州藩」は「幕府・6万両」と「青木氏・4万両」から合わせて「10万両の借財」を抱えていましたが、その後、この「借財体質」は「2万両」まで「減額・伊勢屋の債権」して改革は成功します。
幕府は紀州藩に「密命」を持って「主席家老」を「二人」も送り込み、二つの支藩の城を持たせ、この紀州藩を支配しようとしますが、「二人」とも強い抵抗を受けて逃げ出します。)

この1716年からはじまった「享保改革」は、「江戸伊勢屋の引き上げ」で、実質はその「財源の裏打ち」が無くなり終わり、「小口金融の伊勢屋」だけが残ったのです。
「享保の改革」の「終わり・終焉」はこの引き上げで頓挫したので終了期は歴史的に判らなくなりました。
その後、江戸では「70〜90年間弱」はこの「経済システム」は続きますが、再び崩れ始め、“一切の商いに税を掛けないと云う”「享保期までの商慣習」は崩れ、次第にこれに代わる「悪弊」の“「冥加金や運上金等」”を要求し、これが横行し、癒着し、この為に「一族性の強い財閥」が生まれます。
更には、「小店」までも「財閥」に飲み込まれる結果と成って行ったのです。
これが明治初期まで続きます。
これが、次の通りの「財閥」が日本全国に生まれました原因です。

三井、三菱、住友、安田、鴻池、渋沢、浅野、大倉、古河、川端、藤田
以上の「11の一族性財閥」で「市場」は握られて仕舞います。

寧ろ、幕府より「経済的な強力な勢力」が生まれ、政治は「冥加金漬け」で動かなく成ったのです。
ところが、明治初期に、この「財閥解体の令」が発せられて、「享保期に近い経済システム」が、「伊勢青木氏と関係性・幕末の勘定方指導」を持っていた「陸奥宗光・紀州藩藩士の建議」で再構築されたのです。
「陸奥宗光の父」は「伊勢青木氏」から教育を受けた「幕末紀州藩の勘定奉行」であったので、この「宗光」もこの上記の「享保改革の知識」で「維新政府」を改革します。
この手始めとして”「11財閥の勢力」”を抑え込もうとしたのです。
この時、西洋に追いつく為に、「基幹産業の財閥」を遺し乍らも、「一族性の経営形態」を否定し、「冥加金制度」も否定し、且つ、「腐敗の元」と成っている「税体系」を新たに確立させたのです。

この様な「経済経緯」が享保期以降90年程度の間は構築されていました。

さて、お尋ねの件ですが、歴史的に「氏発祥」より既に「伊勢青木氏の出自の氏族」には、この様な現在と余り変わらない「進んだ概念」が「奈良期」から構築されていました。

「伊賀青木氏の香具師の働き」から室町期に「近江」に移動して「近江」に於いて活動していた「伊勢の伊賀青木氏の裔系」としては、この進んだ影響を受け、且つ、「伊勢屋の支援」を獲得し、「近江」に於いての「香具師の商い」も明治35年頃までは間違いなく手広く広げていたと考えられます。

従って、お尋ねの “半径200メートル以内に「香具屋の店」が11軒(内屋号山上の店は9軒)あるのは、現在の経済構造からは、信じられません。” に付いては、「伊勢の裔系」の「青木氏」である限りは全くその懸念には及びません。
ご指摘の事は充分に有り得た事です。
寧ろ、自然では無いかと云えます。

125600平方メートルの中で、約11400平方メートル/1店舗ですから3450坪/1店舗
つまり、余り広くも無く、且つ、狭くも無い範囲に於いて「販売」には「合理的な範囲」と考えられます。
江戸期から明治にかけて「香具師の店」として「扱う商品」としては、「1店舗」で全ての関係する商品を販売する事よりは、「香具師の内容別」に「店」を分けていた事の方が、「買う側」も「売る側」にも利便性が生まれ、取り分け、「仕入れ」には便利と成り、「夫々の店」には「仕入れ」などの経営をある程度に任す事で大きい店を経営する方がよい筈です。

上記しました様に、享保期ではこの事を積極的に推奨させました。
「大店一つ」で全ての物で販売経営するシステムは何時か「店」そのものが動かなくなるのです。
そこに「紀州藩士の陸奥宗光」に依る「明治期の改革」が起こったのです。

尚、「昭和の高度成長期」からは、再び享保期の改革に見習い、日本もこの昔の「一族性財閥」から、この「グループ化方式」を採用して転換させ、三段階までの「グループ化」を促し、その企業一つ一つに「10%程度の利益」を許可する「税制方式」を採用したのです。

この事と同じで、古くから「伊勢の伊勢屋」でも「殖産業等」に分けて経営を分散化していたのです。
恐らくは「近江」も「物品の仕入れ先」は「伊勢屋」であったと考えられますので、大いにあり得た事です。

「財閥解体・一族式所有」の政策は、明治初期と昭和20年の時の二度行われました。
先ず「明治初期の解体」は、「商業態」を中心とした”「組合株制度」”を推し進め、“「規模を中心とした分散型」”を目的として奨励しました。
これは「享保の改革の目的」の通りで、「都市政策金融」が進まない事を危惧した政策でした。
明治期では、“「享保期の金融・商業」には「商い」を発展させるために「税は掛けなかった」”ですが、「明治維新」からはこれを廃止し、それを「政府の税制」で優遇したのです。
ですから、「伊勢の伊勢屋」も同様にしていますので、「近江」のお家でも「店」はより「組合株の分散化」を施したと考えられます。
つまり、そうする事で「伊勢」や「伊賀」が一枚絡んで「経営」を安定化させたのだと思います。

明治維新の「地租改正策」や「農地解放」などの一連の政策で「大店が持つ不動産」にも無償放出を義務付けられたのです。
「日本書紀」にも記されている奈良期から持つ伊勢の「五つの大字や小字」の「広大な地権」の「旧領地・本領地」を「共生共存共栄の概念」の許で「青木氏の氏人」に無償で分け与えました。
従って、受けた氏人の「ある程度の規模の店」は、必然的に「所有財産」を「組合株」で分散化させたのです。
つまり、お家もこの流れの中に必然的に分散化に追い込まれていたのです。
然し、この時、「基幹産業」はその侭としましたが、寧ろ「西洋」に追いつけとして、国も参加する程で奨励したのです。

昭和の解体策は、「一族性」を完全に無くした「株式制とした分離型・アメリカ式」でした。

従って、「明治期のお家」はこの政策に従って規模を分散した状態で伊勢屋等の“「組合株」”とした「経営」に移したと考えられます。
其の後は、「跡継ぎの事情」や「経営上の理由」などで、これが何時しか「組合株・理事株」が他人に譲渡され疎遠化したと考えられます。
故に、上記した「合理的な狭い範囲」に於いてでも、19店舗、11の店舗、9店舗、1店舗の「山上の屋号」と成ったと考えられます。
この現象は何処でも起こっていたのです。

以上でお家の範囲には、故に「本家筋の店」と観られる「香具師の香具屋」も発見できているのだと考えられます。

(注釈 伊勢の記録や公の記録には、「伊勢」から始まったこの「組合株・御師制度」は全国的に有名で、明治35年まで続き「摂津域・近江兵庫・越前・越後・武蔵・駿河・三河」まで広がっていた事が判っています。
尚、「伊勢屋の店」は「全国500弱」に及ぶとし、西は摂津店、東は松阪店を「核」とし、それぞれを統括し、「各店主」は「伊勢の氏人」が務めていたと記されています。
従って、「伊勢屋」は、この「家族構成」では無く、元より「奈良期」から「伊賀衆」を含む「伊勢衆50」との形態で構築していたのです。
「伊勢衆50」とは「重婚の女系の血縁関係」を繰り返した例の無い生き遺りの「唯一の朝廷が認めた純粋で正式な氏人での構成」であったのです。
故に、氏の主家頭として「伊勢の松阪青木氏」は「御師様・おしさま」や「氏上さま」と呼称され、それを以て、この「組合株制度」は「御師・おんしせいど」と呼ばれたのです。
明治期にこの「伊勢衆50の氏人」が「氏名の青木氏」を「姓」として名乗る事には何も問題は無かったのです。
又、「摂津店」と「松阪店」を経営主体とし、他の「500の店」は「組合株の店」として系列化を避け、「明治期の税体制」に対応したのです。
そうする事で、「摂津店と松阪店以外」は、「組合株」を持ちながら「税の納税対象範囲の基準規模以下」にして「税の優遇」を受けたのです。
恐らくは、その「流れ」の中にお家もあった事が考えられます。

この事で「維新政府・薩摩」から「松阪」では不正と見做され「焼き討ち」や「打ち壊し」を受けた事が判っています。
然し、奈良期より「伊勢青木氏の一族・伊勢衆・氏人」での「一族性の無い経営形態・氏形態」であった事からこれが理解されなかったのです。
それは、「信濃青木氏」と共に日本に唯一遺る「正統で純粋な氏族」であったからです。
これは「伊勢の青木氏」だけではなく「信濃や美濃や信濃の青木氏」でも「焼き討ち」や「打ち壊し」があった様です。

この「組合株」は、全国では初めて「伊勢」から始めた「御師制度の組合株」ですが、江戸初期に組んだ越後までの15組合」にも及んでいたものまでも含み、「紙幣としての価値」は高かったのです。
お家の「伊賀青木氏の営む香具師の香具屋」も含む「全国500以上の店」とその関連店に流通していました。

故に、江戸期から、その形態は「財閥としての位置づけ」は本来から無かったのです。
尚、念のために、お家の「伊賀青木氏」の一族は、「伊勢屋」と関わりながらも他にも、「絹に関わる産物の商い」や「機械・器具の生産販売」や「紙箱や小物の生産と販売」の「店」も各地に持っていたのです。

又、何か判りましたらお便りをお待ちしています。



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