青木ルーツ掲示板
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  [No.1177] Re:三重の青木です
     投稿者:副管理人   投稿日:2020/08/25(Tue) 10:17:17

今日は。
ようこそ全国の青木さんが集う「青木サイト」にお越しいただきました。
これからも宜しく是非にお願いします。

そうですか、次第に年齢を重ねると自分自身を知りたくなるのは、人間が脳に持っている過去への憧れで、それが無意識に出て来るものです。
何時か自然に引き付けられて行くものだと思います。
これが「遺伝子」の中に組み込まれているのだと思います。


お聞きしたいこと、の件に付いて。
自分のご先祖様がどんな人たちだったか(仕事や生き様、社会の中で果たした役割、後世に遺したものなど)

「青木氏」には、「伝統的な密教の考え方」があって、“自分は曾孫までは自分の未来の自分とし、それを見ているのだ”と云う考え方があって、“孫や曾孫が無条件にかわいい”と成るのは、この事に由来する事だとしているです。
今の科学から観て、これが遺伝子に組み込まれたものから来ていると云われています。
そういう場面に遭遇すると、何となく親しみを感じたり落ち着いたりするのはこの事から来ていると云われています。
筆者も小さい頃から「歴史好き」で、取り分け「青木の事」に付いて興味を持ち父の旅に付いて行って昔の親族や関係者に会って話を聞くのが好きでした。
他の兄弟とは全く行動が違っていました。
当時は、“松阪の主家・福家の御坊様”と呼ばれた記憶があり、何の事か良く判りませんでした。
一族関係者に遺された資料等を読み漁り其れを纏めて行ったもので年月と大部足を運びました。
それが現在に至っているのです。

さて、故に、お家には筆者は実に親しみを不思議に感じました。
それは、この事から来ていると思います。
何故ならば、「血のつながり」のある当に”「親戚・家族」”だからです。
筆者は「伊勢松阪の青木」です。
この「伊勢」には、”「四家」”と云って、「松阪」と「名張」と「員弁」と「桑名」の四つに分けて構成され「氏族の主家」を構成していました。
これは「皇位族」に課せられた掟でした。
この「氏族」は「伊勢衆50氏」から成る「氏人」で、全て「女系」で何重にも繋がる族を構築しているのです。

「天智天皇の第七皇子」の「施基皇子」は、647年に皇族から「臣下」して「朝臣族」として「賜姓」を「天智天皇」から授かり、「伊勢王の臣下族」として「賜姓の青木氏」を名乗ったのです。
そして「天皇」が認める初めての正式な「唯一の氏族」を構築したのです。
この時、「天智天皇」から「皇位族の象徴紋」として「笹竜胆紋」、「仏師の鞍作止利作の大日如来坐像」、「神木で象徴木のあおきの木」と「旗印の白旗」と「祖先神の神明社」を守護神とし、「神職の象徴紋の柏紋・神木」を与えられました。
「仏師の鞍作止利作の大日如来坐像」は平成10年まで青木で保管していましたが、「青木氏の氏の菩提寺」である「松阪の清光寺に移しました。
JR松阪駅前の道路を渡った右手の角の裏手にありますよ。
そこには、青木氏の氏族の大きな墓所もありますので、この仏像と共に観てください。
「神職」と書かれていましたが、その「皇祖神」の「子神」の「祖先神の神明社」の守護神も付近にあります。
これが「柏紋の青木氏の神職」で、全国に「488社」もあります。
ここの神職全ては「青木氏の神職」ですよ。
全国の神明社を5年程度の交代制で回っていたのです。
お家は、元はこの「総紋・氏族紋の笹竜胆紋」を「総紋」として、唯一、天智天皇から与えられた「神木の副紋」を持つ「柏紋の神職の青木氏」なのです。
員弁から桑名に掛けて9社ありますので、恐らくはこの内のどれかの神明社の神職をしていたと思います。
交代制ですから全て廻っていたと思いますので「菩提寺の清光寺」と「神明社訪問」も良いかもしれませんよ。

さて、話を基に戻して、お問い合わせの話に戻ります。
それをすべて、「男系」で繋がるのでは無く、「女系で繋がる氏族」を先ず「伊勢」を始めとして形成したのです。
これが伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の五家五流に広がります。
伊勢王の「施基皇子」の青木氏には「7人の嗣子」と「9人の女子」が生まれました。
この「七人の嗣子」の内、「松阪と名張と員弁と桑名」と、別に後に「四日市」に配置して、要するに「四家」と云う制度を敷き「皇親族の家」を造ったのです。
そして、「天皇」よりこの「朝臣族」としての「賜姓氏族青木氏」に課せられたのが、永代の「賜姓五役と令外官」でした。
この役目を「四家の青木氏」で熟したのです。
其れの内、お家は「員弁殿」と呼称された「青木氏」なのです。
この制度の仕来りは江戸末期まで続きました。
つまり、お家がその「員弁殿の末裔」という事で、筆者とは非常に濃い血が流れているのです。
最後は明治35年に「伊勢屋・青木氏」が「維新政府・薩摩藩」から攻撃されて一度倒産の形を執り摂津に本家を移して難を逃れました。
この時、正式には伊勢は「解散の形」をとり「四家」は、名張家、松坂家、員弁家、桑名家として独立して生きて行くことに成ります。その少し前から難を逃れる為に開始していました。
それがお家です。
天皇家より余計な格式のある家・青木氏の存在を薩摩は否定したのです。

「織田信長」に攻められて(当時神主?)、その後農業に携わった の件ですが、
この事は「伝統シリーズの論文」で詳しく論じています。
室町幕府は青木氏を律宗族として認めましたが、信長は青木氏の力が大きいので認めませんでした。
この間、農業・庄屋に関わりながらも四家は護っていたのです。
江戸期で再び青木氏を認められ四家・伊勢屋は続けます。
実は全くおっしやる通りで、その通り「信長」と「伊勢青木氏」との「戦い」でした。
「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、そもそも、「施基皇子の皇位族」であって、賜姓時に当たって「朝廷・天皇」から「永代の賜姓五役と永代の令外官」の役目を与えられ、その「伝統ある格式」を護るために、「信長」に対抗する直接する「武力を持つ事」を禁じられていました。
その変わりに、「皇位族」でありながら「影の令外官」として「紙屋院」と云う「格式ある称号」を初めて与えられ、この「称号」に基づいて「商い」を認められたのです。
この時期は、全ての職人の造った物は、一度、朝廷に納められ、「余った物」を市場に放出して、「利益」を獲得して「朝廷の財源・内蔵」としていたのです。
これを「部経済」と云います。
「部」とは、「職人」の全てを以て「部人」と云う身分を与え、「朝廷の国造」か「青木氏の造」に所属させました。
これを「青木氏部」と古来より呼ばれていました。
そして、この「青木氏」は同時に、「国造」をも含むすべてを「管理支配する役目も令外官」としても役目を担っていました。
この「市場に放出する役目」から、先ずは「紙の放出権」を与えられて「商いの役目」を司ったのです。
この時は未だ、「木簡や竹簡」と云ったものに記録する文化で、「紙」は全て中国から輸入する状況で、高価で中々普及しませんでした。
そこで、天皇は“これを解決せよ”と命じられ、特権を与え此の「貿易の務め」も果たしていたのです。
そこで「悪質な中国製の紙」ではなく、「日本製の良質な紙」を開発する様に天皇より命じられます。
これに楮を使った紙に見事成功します。
此の「紙の独占権を持った青木氏」は、室町期末期には「紙文化」が起こり、「日本一の巨万の富」を獲得します。
これが「伊勢屋と青木氏」です。
つまり、「二足の草鞋策」です

さて、時代が進み、この「青木氏・伊勢屋」は「信長」にとって「目障り」でした。
「伊勢と信濃の青木氏」には「抑止力」と云う「信長の武力財力」の数倍以上を凌ぐ力を持っていたのです。
海には「伊勢水軍」を配下にし、自らも千石船3艘をも持つ「大勢力」で関西と瀬戸内の支配権を持っていたのです。
「信長」はとてもかなう勢力の抑止力では無かったのです。
そして、更には、「日本一の豪族」の「藤原北家秀郷流青木氏・116氏」と「秀郷一門361氏」とは「女系」による長い歴史の親族関係にあって、「信長」も中々に手が出せなかったのです。
そして、その「財力」と「50の伊勢衆の氏族の氏人・伊賀青木氏を含む」が構成する「伊勢シンジケート」があったのです。
南北朝時代に「10万の足利氏の軍・2万餓死」をこの「伊勢シンジケート」で餓死させる戦績を持っているのです。
この事を知っていた「信長」はこれ等の「武力」そのもので背後を突かれるからです。
この事を恐れていたのですが其処を「信長」は「伊勢攻め」を無理に実行したのです。
そして「5つの出城」を築いて「伊勢」を攻め落とそうとします。
ところが、「伊勢シンジケート」と「秀郷一門の武力」の「動向」等も加えて、この城を「火付け火災」で能力低下させ、「搬送の食料」を襲い、関東から迫る秀郷軍を恐れて、遂には、先に信長軍は大阪に引き上げて仕舞い「北畠氏」は潰されましたが、其の後に「信雄・責任者」を罰して取り敢えずは治まりました。
この時、「四家」は犠牲を負いますが、お家の「員弁殿」は地理的により大きな犠牲を負ったのです。
「松阪」も寺や蔵などに焼き討ちを受けましたし、尾張に近い「桑名殿」も犠牲を負いましたが、財力で直ぐに元に戻りました。
「伊勢攻め」は2度あり、「秀吉の長島攻め」もありましたが何れも「強力な抑止力」で勝ちました。

“私の曽祖父の祖父が青木佐右衛門(天保十三年生まれのようです)”

この件ですが、当にお家が「員弁殿の裔」である事にはこの事で間違いはありません。
其れは「賜姓の青木氏」には「天皇」から認められた「氏族であった事」から、その呼称には「5つの名前」を持っているのです。
その内、「家柄を示す世襲名」と云うものがあったのです。
「伊勢の松阪」の「松阪殿・福家」は「・・兵衛」、「員弁殿」は「・・右衛門」として呼称し、桑名は「・・左衛門」とその前にその「立場・役柄」を表現する事で「格式」が判る様にしたのです。
お家は「佐」が付いていますが、この「佐」とは「朝廷の役職」の「佐官」と云う「最高級の立場」を示しているのです。
天皇を直接護る「近衛兵軍団」の佐官、つまり、「軍団の最高クラス」の指揮官を意味します。
現在の「自衛隊の一佐・将軍の直下で上から3つ目」の事です。
「伊勢王」の「施基皇子」は、「天智天皇の第七位皇子」で「大化の改新」で「第四位皇子以外」は、「天皇の継承権」が無く、「皇位継承族・真人族」から外れ、臣下して、天皇より直接に「賜姓・氏名」を授かり「朝臣族」と成ります。
この「朝臣族」には2種類あり、我々の「賜姓青木氏」は「皇位族の朝臣族」で、血筋の繋がる「天皇を身内で護る近衛兵軍団」を造って、「宮廷の門、寝室の隣」で侍って護っていたのです。
この事から、「侍らう人。はべらうひと」、つまり、「侍人」、つまり、「侍の始まり・さむらい」の言葉が生まれたのです。
宮廷門には「右門と左門」があって、左門が上位なのです。
これに最初に成ったのが、「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」と「北家藤原氏」なのです。
ですから、伝統よりお家の「員弁殿」は「佐右衛門」なのです。
因みに、松阪は「長兵衛」は「左の門」、「右の門」と「寝室の隣室」でこれらの「兵衛軍」の全体の「長・頭・指揮者・責任者」の事で、務めは「寝処警護役」です。
この「慣習」が後に世間に真似されて庶民誰でもが使う呼称と成って仕舞ったのですが、「四家の呼称」は元々の本物なのです。
現在でも「伊勢神宮の常夜灯」に「伊勢青木氏の四家」が寄付したものが遺っていますよ。
其処に、長兵衛や右衛門等の四家の名が刻まれていますよ。

さて、筆者は「四家の松阪殿」と呼ばれた「福家」です。
「施基皇子の賜姓の青木氏」とは「氏族名」ですが、「皇位族」であり「賜姓五役の立場」である為に、「姓」を発祥させません。
従って、「氏名の青木」のみを「四家の末裔」は名乗る掟に成っています。
他氏とは異なり唯一「姓名」を持たない氏族」なのです。
その代わりに「女系族」であり「嫁ぎ先の氏人」の「50の伊勢衆・郷士」は夫々独自の「姓名」を持って名乗ります。つまり、「氏人」としての「50の姓名」が女系の縁者があるという事です。
故に、「四家」の裔は「姓名」を持たなくて「氏名の青木」を名乗るのです。
もし、ところが「青木氏の子孫」として「姓名」として名乗っているのは偽で、江戸初期にこの搾取の現象が起こつたのです。
江戸初期に「武士としての証明書・国印状」を貰う為に、「良い家柄の偽の系譜」を造らなくては貰えない事からこれを幕府はこの偽行為を黙認したのです。
格式ある江戸の幕府を造り上げる為に行いました。
ところが、幕府は其の後に反省して「偽の青木氏」を名乗つた武士に対して別の名にする様に命じました。
そこで、生まれたのが、葵木や青樹や仰木等のあおきで、偽の系譜を作った「春原」や「美海」等の「偽の姓名」も「別の名」に改めました。

故に、この独特の氏族としての「四家」にはその差が無く、独特の跡目継承をして引き継いで行きました。
他氏から絶対に男子が入ってこないし、「男系継承」を絶対にしない「女系での継承族」です。
お家はその「四家の青木氏の員弁殿」のお家です。
四家は殆どは家族なのです。
全て「女系、即ち、母方族」で其れで「血」を濃く成るのを防いでいるのです。
後に論じますが、「遺伝子学的」には最も合理的な継承方式なのです。
「女子から生まれた子供の男子・嗣子」を「四家の仕事」を図る為に据えるのです。
この為に、「四掟」と云う「血縁に関する掟」を定め、「妻嫁制度」と云う「仕来り」で、「女(むすめ)」を養育して「50の伊勢衆の血縁族の氏人」に嫁がせ、そこで生まれた女子を「福家」に再び集めて、「玄孫」までを一か所で集めて「青木氏の娘・「女(むすめ)」」として養育するのです。
ここで統一して養育された玄孫迄は「青木氏族」の差別のない「女(むすめ)」として育てます。
そして、そこから「秀郷流青木氏」や「四掟」と云う「皇位族」に特別に課せられた「掟に叶う家」に「青木氏」の「女(むすめ)」として嫁がせます。
当然に、その嫁ぎ先の「女(むすめ)」で生まれたその「娘」は、「嫁家制度」と云う「仕来り」で、「伊勢の四家の青木氏」に再び「嫁」として戻る事に成る仕組みです。
嫁家先は、伊勢で教育を受けた統一した慣習仕来りを嫁家先に敷きます。
これを繰り返すと、その家は代々に「青木氏の仕来り」が敷かれますのでそこで育つた娘が又、再び青木に入る仕組みですので、「慣習仕来り掟」は同じものを持った「娘・嫁」で繋がって行きますので円滑に「青木氏の伝統を繋げて行ける仕組み」に成るのです。
この「繰り返し」で「青木氏の氏族」を守っていたのです。

お家が「四家」の一つの「員弁殿」であるので、この内の「氏人の50の伊勢衆」からと、「秀郷流青木氏」や、四掟に叶う「公家一門」から嫁いで来た娘との間に出来た「嗣子」が、「員弁殿」に関わらず何処かの四家の当主と成ります。
この場合、その母から離れて嗣子の中で優秀な嗣子から「四家」の何処かの当主と成って行くのです。
況や、「員弁殿の血縁族」は「伊勢青木氏全体の血縁族」と成るのです。
つまり、「松阪殿も員弁殿も同じ血を持つ家の子」なのです。
「松阪の筆者」も「員弁殿」のお家も「親戚」ではなく要するに「家族」なのです。
全く同じ血を分け合った「四家と云う大きな家族」が出来ているのです。
これが「青木氏の女系族」です。

当然に、「嫁家先」の例えば、「秀郷流青木氏116氏」の「家の慣習仕来り掟」は、「伊勢・四家」から入った「女(むすめ)」が持ち込んだ「慣習仕来り掟」で育ってて、それを身に着けた中で、「育った娘の娘」が再び「伊勢」の四家の何処かに戻ってくると云う事に成るのです。
そして、その「娘」が伊勢で産んだ娘は、再び「女(むすめ)」として赤子の時から一か所に集められて、「女(むすめ)」としての知識や素養で教育され、一人前の「女(むすめ)」として「妻嫁制度」と云う「教育制度」で養育されるのです。
一人前の「女(むすめ)・8〜15歳」に成るまでの、丁度、「青木氏族保育園・学校」ですね。

「青木氏の研究室」の「検索」で、「伊勢青木氏」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟」や「秀郷流青木氏」や「松阪殿」や「名張殿」や「員弁殿」や「桑名殿」や「施基皇子」や「春日王」や「榎井王」や「湯原王」や「白壁王」や「桑名王」等を検索して出て来る論文を“かたぱし”から読み漁る事で理解が進みますよ。
「歴史的な青木氏の専門用語」がありますので、それを覚えて行って下さい。
先ずは、メモリ容量の事もありますので今回は此処までとします。

そこで判らないことは直ぐにご遠慮なく質問やお便りください。
そして、先ずは徐々に深めて行きましょう。
ある程度が出来れば更に論文を読んで行くと理解が出来ますし、遂には「歴史マニアー」に成りますよ。

では、先ずはお便りを



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