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  [No.1184] 應仁の乱までは青木だったようです。
     投稿者:岩田京子   投稿日:2021/04/14(Wed) 22:35:06

3週間ほど前に投稿させて頂きました岩田です。

投稿後、青木氏をもっと知りたいと思い、青木氏のレポートを『青木氏の伝統』を中心に約1000枚(500枚の両面)をプリントアウトして勉強しています。
まだまだ、続きをプリントアウトして勉強を続けていくのを楽しみにしています。

今まで全く知らなかった内容ばかりで読み込むところまではまだ出来ませんが、桓武平氏の流れであることは分かりました。

桓武平氏が渡来系であることを初めて知り、一つ納得できたことがあります。
それは、三重県の東員町にある後醍醐天皇より青木紀伊守安定が賜った山田城(笹尾城ともいう)の発掘調査で鉄製品や陶器などの出土品の中に中国銭があったことを今まで不思議に思っていました。
渡来系の流れならば、あっても不思議でないと納得しました。

今、一番知りたいことは、青木紀伊守安定の青木のルーツです。

伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとは家系図に書かれていますが、後醍醐天皇から山田城と共に青木を賜ったのか?いつから青木であったのかが分かりません。

そして應仁の乱で青木駿河守安豊の3代目で山田城が織田信長に滅ぼされ廃城となったと伝えられます。
落城後逃げた?先祖が津市の岩田を横領して姓も岩田に変えたとあります。
その後、北畠顕家公秀秋公に属すともあります。

曽祖父の代までは、員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋をしていたと聞いています。

青木のルーツを知るためにお力をお貸しください。


  [No.1187] Re:應仁の乱までは青木だったようです。
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/22(Thu) 10:26:41

副管理人から返信

サイト事情で正規な方法で返信投稿できませんでしたので、今回はお便りから返信する事にします。
お許し下さい。


今日は。始めまして。
ようこそ全国の青木氏が集うサイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
随分とサイト情報で青木氏の事をお知りに成っている様ですね。
何でもお聞きください。

さて、今回のお尋ねは先ずは、
1 伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとする「青木紀伊守の件」とそして、何時から青木氏であったのかと云う事ですね。
2 1のルーツとする「青木紀伊守と駿河守安豊の3代目の青木駿河守安豊」が信長に滅ぼされ「岩田」に隠れ住んで、「岩田」を名乗つたとし、その後に「北畠氏に仕えたとする事」ですね。
3 江戸時代に員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋務めたとする事ですね。

さて、要するにこの3つが「伊勢青木氏の史実」に合致するかですね。

お答えは青木氏の遺された史実に大まかに合致しています。
唯、一部に矛盾の疑問が残ります。
では、但し、それには「一つの流れ・経緯」があります。
それをご説明いたします。

1に付いて、この人物は記録的に実在した事は判っていますし、江戸初期の記録にも「伊勢青木氏」で記載されていますし「青木氏の記録」にもあります。> その前に、では何時、青木氏であったのか?ですが、お答えは、お家は「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」で、「奈良期末期」からです。
この「伊勢青木氏の発祥」は、「大化の改新期の647年」の伊勢松阪からです。
その「始祖」は、「天智天皇の第7位皇子の施基皇子」で、改新に依って「第4世族内の第6位皇子以上・5位も含む」は「真人族」から「賜姓・氏族青木氏」を授かり、臣下して朝臣族に降下して「二代目の伊勢王」と成りました。
その「子孫」は「ある目的」から「青木の氏族」の「氏名」だけを名乗り「伊勢」に発祥する事に成ります。
これが先ず五家五流の「全国の青木氏の始まり」です。
その記載の詳しくは「伊勢青木氏の記録資料」や「日本書紀や累代三大格式録等」にも詳細に記載されていますし、「伊勢の記録」にも遺ります。

そこで、さてそもそも当時の奈良期に付いては、“「部経済」”と云って「全ての民」、即ちこれを現在の全く違う意味の当時は「百姓」といいました。
この「百姓」は、「職人・部人」として扱われ、彼等が作った「全ての物品」を先ず「朝廷」に納められて、朝廷で使われる以外の余った「全ての物資」は市場に放出して売り裁き、その「利」を獲得して、「朝廷の副財源」とする「経済システム」でした。
これを「施基皇子」が臣下して生まれたその「子孫等・この時は「約30人程度」が、賜姓時に天皇から命じられた「役・賜姓五役」を務め、その一つとしての「役目」の「永代令外官・天皇から勅命・密命」を果たす特「特別官職」としての役を担ったのです。
つまり、朝廷を潤すためらは朝廷自らが「商い」は出来ませんので、「皇子」を一般に臣下させて「諡号の特別氏名の諡号姓の身分格式」を与え、これに「特別権限」を与えて、「朝廷や天皇家の財を潤す役目」を与えたのです。
これを「施基皇子」が担いその子孫が実行すると云う組織を造り上げたのです。
そして彼等に「賜姓五役と云う特別な最高格式・青木氏以外に無い」を与えます。
これが所謂、現在で云う「身内の者」が果たす「特別御用商人の役目」の最初で「大商いの始まり」です。
昔は、この「天皇」が「特命」を与え実行するのがこの「令外官の仕事」でした。
中には大臣や官僚などに云えない「命令」を「秘密裏」に行う事も多くあったのです。
そして、その為にその仕事をやり易くする為に、「伊勢青木氏」に「特別権限」を与えます。
其れが「賜姓五役」と云うもので「皇族」を始めとして全ての官僚も、この「賜姓五役の持つ者」に従う事しかなく、その立場も「天皇に継ぐ格式・官位官職・浄大一位」を持っていましたので、従って、大臣であろうがこれに従うしかなかったのです。
故に常に「天皇の傍・寝所の隣の部屋」に居ました。
それは「身内の者であった事」で安心して「正しい情報」が入手できるからです。
元々、それは「伊勢青木氏」は「近衛軍団の最上位」の「永代の上佐の階級」を持っていました。
更には、それらの朝廷が持つ「全職人」を束ねる「国造」の「差配頭・伴造」を「令外官」として務めました。
つまり、この「天皇」に代わって全権を握る族である為に特別に「氏族」とし、これを「政治の全権」を握る「皇親族」と云われました。

さて、戻して、お話の様にこの時の職人の殆どが進んだ技能を持つ「渡来人・後漢」であったのです。
「日本書紀」にも記述されている事ですが、「天武天皇」はこの事に憂い、「青木氏等」に命じて“「倭人の職人」を育てる様に”と命じます。
これを「賜姓臣下族の施基皇子」が受けその裔の「伊勢青木氏」が実行したのです。
「天武天皇」がこの「兄の天智天皇の施基皇子」を「川島皇子」よりも、又、自らの全ての皇子よりも「上位・浄大一位」に置いて可愛がった理由はここにあったのです。
日本書紀にも記されている通り、更には自らの葬儀や后の持統天皇の葬儀も事前にこの「施基皇子とその子孫」の能力を買って任す様に命じたのです。

「中国の後漢」と云う国が隋に618年に滅ぼされて「200万人の職人集団」が九州北部に渡来族として上陸し瞬く間に九州全土を「無戦・3日」で制圧します。
そして、その「勢い」は関西の手前の兵庫県域まで無戦占領し、遂に33/66国まで占領する事に到ります。
これは占領と云うよりは、「倭人」は積極的にこの「進んだ技術技能」を習得する為にこの渡来人の支配に入って戦わなかったのです。
此処で、渡来人側は「戦い」を止めて大和朝廷と講和して九州南部の「隼人」と「阿知・現在の地名として遺っている」に戻って行ったのです。
ところが、その後、713年頃に朝廷は薩摩に船で攻めますが完敗し負けてその時の王の「阿多倍王」と父の「阿知使王」を飛鳥に呼び寄せて、特例で「准王位」を授け、「伊勢」を「半国割譲」して「伊賀」と「隼人と阿知」を正式に半国譲渡して与えます。
この「伊勢の半国割譲」に係わったのは、命を受けていた「始祖の施基皇子」であり、「倭人の技術者技能者の実現」の為にも阿多倍一族と血縁して係わります。
これが「伊賀の青木氏の発祥」なのです。
この時に「阿多倍王の渡来人」が「伊勢伊賀」に住み着いたのです。
そこで、この「渡来人の子孫」が拡大し、その一族が興した「平の将門の反乱」を沈めた一族の「父の始祖の平国香」と「子の貞盛」が、「敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘」を娶り、先ずその子が「大蔵氏・次男・北九州」で「内蔵氏・三男・奥羽」と「坂上氏・長男・飛鳥・京都」を発祥させます。
この「朝廷の軍」を担った「坂上の田村麻呂」が日本全国を制圧した「桓武天皇の義理の弟」として活躍した有名な人物で、「朝廷の財源」を担った役の「大蔵氏」は「九州探題の大監」として九州を任された人物で、仏像の仁王様のモデルに成った超有名な人物・種材」で、「阿蘇神社の神官祖の菊池氏や筑紫氏等」の始祖と成ります。
「天皇家の財源」を担った「内蔵氏」は「奥羽の大豪族の安倍氏の祖・秀吉に滅ぼされる」と成ります。

当時は、「三蔵・斎蔵の藤原氏」と云い、朝廷はこの「三つの官僚形態」を採用していました。
これに「天皇を護る近衛軍・青木氏と藤原氏」を加えて四つの政治形態」をとっていたのです。
この「令外官」の「近衛の氏族」が上記した様に「賜姓五役と令外官の役」を担ったのです。

要するにこの経緯で「伊賀の阿多倍王・清盛の祖」と上記の「賜姓五役の伊勢の青木氏」と血縁して「伊賀青木氏・桓武期」が発祥したのです。
その「伊勢青木氏の裔系の伊賀青木氏」が「お家の青木氏」です。
この「伊賀青木氏」は「永代賜姓五役の令外官役」の「情報機関と秘密警察と秘密武力集団」として江戸時代末期まで大活躍したのです。
当時は秘密裏に、これを当時は「お家」を含む「伊勢青木氏」の「伊賀の香具師・忍者はこの一部役・伊賀青木氏」と呼びました。
江戸期にも「伊勢青木氏」と共に表舞台に出てきますよ。
「伝統」をお読みに成っているとこの言葉に出会います。

このそれに繋がる「桓武天皇」の所以は次の通りです。
そこで「伊勢青木氏」の「施基皇子の四男」で「白壁」と呼ばれる子がいて、「孝謙天皇」の時に皇族に皇位継承者が完全に絶えた為に、この200年弱前に「皇族」であった「施基皇子の伊勢青木氏」に「白羽の矢」を立て、一般化して上記の令外官として勤しんでいたのてすが、嫌がる奇人を装っていた「青木氏の白壁・54歳」に、無理やり「孝謙天皇の姉の井上内親王」を嫁がせて「皇族に戻す策」を執り、既に「商い」をしていた「54歳の白壁」は、結局は、「光仁天皇」と成って「天智天皇系に戻した形」としたのです。
この「光仁天皇の子の山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。
「光仁天皇の妃」が「伊賀の平貞盛」の「孫女の高野新笠」で「桓武天皇の母・妃」と成ります。
つまり、「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」の血筋を引く「高野新笠」と同族血縁した事に成ります。
そして、伊賀に居た「平族・たいら族・清盛の祖」は其の後に播磨国に一族が全て移住します。
元から伊賀に居た原住民の者や渡来人の者や平族の一部の遺った者等の融合族は、「伊勢青木氏」と血縁した「伊賀衆の族等の18氏」として生き延びます。


時代は飛ばしますが、室町期末期にこの「生き残り」の為に「伊賀青木氏」が「信長の配下・合力」に入り、その為に「紀伊守」を名乗ったのです。
ここに「大きな経緯」があるのです。
そもそもこの伊賀国とは、北には山を挟んで現在の甲賀域までを室町期中期頃までは“「伊賀・伊勢の賀州」”とよばれていました。
ところが室町期の戦乱でその「生き遺る為の生き方」を巡ってこの「伊賀」の中で「激しい争い」が起こりました。
一つは、生き方を縛られたくないとする一派は、「大豪族・主君」に仕官せずに「味方・合力」して生きて行く「味方合力論・傭兵形態」
二つは、逆に主君に仕官して家臣と成って契約して安定して生きて行く「家臣論・契約形態」でした。
「伊勢の影響」を色濃く受けている近い「南域の伊賀」は、「味方・合力」を採りました。これが現在域の伊賀です。
「伊勢の影響」を余り受けていない小山を一つ越えた近江に近い北側域は「家臣論」を採ったのです。これが北側に存在する甲賀です。
この二つに分かれて仕舞ったのです。
何れにもこの「伊賀域の青木氏」は「桓武期」に発祥していますので「伊賀青木氏」と「甲賀青木氏」は存在します。

さて、当時はだれでも「‥守」を勝手に名乗ったのですが、この信長に与力・合力する以上は、「名目の官位」が必要で一国の頭としての格式名として「紀伊守」と名乗ったのですが、これが自由の効く当然に合力派でした。
家臣化したので「甲賀青木氏」にはこれは有りません。
故に、最初は「応仁の乱」を境の戦乱期では、「伊賀守」を名乗って「信長」に味方し「伊賀」を任された形で「二万石の豪族の形」となります。
但し、「4万石・10万石の説」がありますが「室町期の時期」に依って石高は違うのです。
「甲賀域を含めた伊賀域」では石高は4万石はあり得ますが、10万石説は無いでしょう。

「家臣論の形態」と違って「自らの力の二万石の豪族」として「合力・俸禄」は無く「身分だけを保証される形態」を採りながら生きて行く事に成ります。
これが「伊賀青木氏の紀伊守」でした。

そこで「小さい疑問」です。
そもそもお便りの「天皇が城を与えるという事」は100%先ずありません。
あるとするならば「武士」ですので、それ統括するその時の「幕府の管轄下」にありますので幕府と成ります。
ここに先ず間違いがありますね。

故に、「後醍醐天皇の件」は絶対に無いし、且つ上記の「青木氏」であり、且つ、「伊賀の生き方」である限りにも無いと考えますし、“「氏家制度」”の中では「青木氏の宗家・福家」の「伊勢青木氏の松阪殿の了解」の無しには絶対にできません。
勝手にすれば「青木氏」から排除され生きて行く事さえも出来ません。
従って、“先祖が津の岩田を横領して姓も岩田”の件も、“横領”とする事は元より「員弁」は「日本書紀等の歴史書」に記載にある通り、「青木氏の旧領地」で、且つ、この地域の「地権」も持っていますし、自らの土地を自らが奪うと云う事は有り得ません。
これも間違いです。

そもそも、「室町幕府」からも「青木氏族」は「律宗族」として「本領安堵」されていますのであり得ませんし、これは記録にも遺ります。
そもそも「氏家制度」の中で一族が固く結束して生きている限りは一人はみ出して勝手な事は100%無く、“「青木氏の氏名」”が在るのに態々「岩田姓」も勝手にはできない筈です。これも100%無いです。
そんな事をすれば「伊勢」にはいられませんし、生きて行く事も100%出来ないでしょう。
況してや、「伊賀青木氏」ですので「掟破り」で厳しい伊賀の中でも尚無理です。
そう云う「一大事の事」に成れば「伊勢の福家」か「清光寺の菩提寺」か「守護神の神明社の祐筆記録」の青木氏に遺り、一切の出来事、つまり歴史を「祐筆」は遺す制度と成っていましたので、これに関する「記録」は遺りますが資料や記録は有りません。

つまり、何か変ですね。ここで、お家にその様な記録がある事に「錯語の問題」が生まれるのです。
恐らくは、途中で「恣意的な伝統の伝承の忘却消失」が起こった可能性がありますが、これ等の歴史観の無い錯誤の事を伝え遺した者がこれさえも「菩提寺か神明社」に行けば直ぐに解る事ですので理解が出来ません。
そもそも「青木氏」とはそういう上記した組織で、奈良期より伊勢全体を全ゆる制度で固めていましたから、何故その様な記録が遺ったのかは先ず解明する必要がありますね。

どうもその錯語内容から観て、その「伝えられた事の全体」が「明治期以降のお家の誰か」の様ですね。

「岩田の庄屋」であったとすれば、寧ろこれ等を護り取り締まる立場にあり、「氏家制度の上位」で「伝統を監視し、精査し、記録しする庄屋と云う立場」での記録もあるのに、何か変ですね。
一度、越前に移動時にこの「伝統」を失ったのか、一族の中に勝手に調べずに明らかに矛盾している処が多いのは、「史実」に基づかずに繫ぎ合せた様な事ばかりを言い遺したか、当時の歴史習慣に基づかずに無理に書き遺したかにありますね。
其れ等の事が良く起こったのは「江戸初期か江戸期の末期前後」ですね。
「青木氏の中」で生きていればこれらの事は無い様に考えますが。



考えられる事は末期頃に何かが在って、又は起こって、「お家」と「青木氏の四家」とが疎遠に成ったかですね。
だとすれば、然し、「疎遠」に成れば「地権」も亡くし、「庄屋」も失うので「庄屋」も失った程の出来事が起こった事に成りますね。

そこで、一般的に考えられる「仮定の話」ですが、「青木氏」から外れ「岩田に成った事」に起因していた可能性があるのではないでしょうか。
つまり、「青木氏を名乗れない事」が起こった。だから「岩田姓」として「青木氏」から外れたと云う仮説です。それで許して貰ったとする筋書きです。

「氏家制度の社会」の中では、「姓を持つ者」が「当時、姓を変える事」は「無宿者・裏切り者」に成り、「一族を養って行くだけの糧を得られず死活問題・命問題」で簡単では有りませんでしたからね。

「打ち首に成る国抜け等の重罪」はしていない様なので、軽犯罪を犯したか、>婚姻に従わなかったか、>伝統に従わなかったか、要は興ったとすれば「青木氏の中で処置できた事」に成るでしょう。

この仮定を証明するには、「宗派、家紋、墓所、菩提寺、過去帳」などの「情報」で「決・掟・歴史観」がありますので判りますよ。
普通は下記に記している様な事が考えられるのですが、疑問が残ります「岩田姓」と成った時期の前後の情報です。

次に、「2の問」の通り「信長のやり方」は、「光秀」や「銃の傭兵軍の雑賀族」らの「織田氏歴史」が物語る様に、「青木氏」にも仕掛けられた事があって、“必要が無く成ると切る”と云うのが「信長の合理主義」です。

お説の通り、“岩田に隠れ住んで?、「岩田」を名乗つたとし、その後も「北畠氏に仕えた”と成るこの「疑問の経緯」を辿って「北畠氏」が滅び、最後に目的の価値が無く成った時に切られたのです。と成るところなのですが、“岩田に隠れ住んで”?が疑問なのです。
北畠氏に味方・合力したとするのはあり得ますが、隠れ住む事には「伊勢の歴史」と全く一致しません。
そのその「名張松阪員弁桑名域」は、「日本書紀」にも記載の通り奈良期より「四家の永代の大字名の領地」です。
故に、「疑問のあり得ない経緯」と成ります。
つまり、北畠氏の侵入に限らず歴史に遺る有名な「伊賀の戦い」や「長島の戦い」や「松島の戦い」等がそれらでも侵されてはいません。

其の後、「伊賀青木氏」は「伊賀の者の了解」と「福家の了解」の中で「秀吉の時代」に、再び「味方・合力」して「一定時期」は史実として記録に遺る様に保証されます。
唯、その後の秀吉の裏返しの「伊勢攻め」では、その総指揮官が「伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏の縁者」の「蒲生氏郷」でしたので、難を逃れます。
然し、この時、「伊勢」を護る為に「伊賀青木氏」がこの「豊臣側に味方・合力した事」で「関ケ原の戦い」で負け、江戸初期前頃に叙封されて仕舞います。
結局、「叙封」で危険と成り、「伊勢青木氏」は「伊賀青木氏」を「青木氏の逃避地」の「青木氏の神明社の救済地・質制度」と云う「青木氏だけの古来の救済制度」に従い「福井」に逃げ込んだのです。
ここまでは、上記の疑問の経緯では無く祐筆が遺した「紀伊守の記録に遺る史実」です。
「近江佐々木氏・川島の皇子の裔」の「青木氏族の研究論」の中でも伊勢と同様に詳細に記されています。

注意書きとして、「室町期末期の官職」のこの頃は「‥守」は誰でも勝手に肩書として名乗ったもので、余り意味がありませんで、要は「伊賀青木氏」です。
「甲賀」にも「甲賀青木氏の歴史」がありますが、今回は「伊賀青木氏」に限定します。
当時は大きな一族を抱えて合力する場合は、この「肩書」を持つのが一般で造る必要があって、要するに「‥守」は誰かに味方・合力した証拠なのです。

この唯一斯くの如しで動くのは「伊賀の青木氏」だけで、江戸期直前に成って叙封され、結局は「伊賀」に居られずに、「青木氏の逃避地域の越前・福井」に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「全国の500社」に成る「青木氏の守護神の神明社組織」を利用して「一族の者ら」を保護して「生活の糧」を与えて独立させる仕組みです。
この越前国に逃げ込み「伊勢の伊勢屋」の「絶大な経済的な支援」を受けて、越後の秀郷一門の支援を受けて、遂に「造酒屋」を営み大成功して生き延びたのです。これも史実です。
但し、この「分家の一部」は、「越前」に行かずに「福家の差配」の元に「伊勢青木氏の四家の員弁殿」に頼り、「肥沃な土地」の「員弁桑名域」を「開墾・開拓」に従事して生き延びたのです。
そこに越前に行きそこで「造酒屋」で成功して地震で倒産した「伊賀青木氏」が、「福家の差配」でこの「員弁」の開墾を手伝っていた「伊賀青木氏の親族の所」に戻り「開墾」を手伝います。
この「二つの伊賀青木氏」と同族の「員弁殿の青木氏」の更に融合した伊賀香具師の性質を秘めた「員弁青木氏」が発祥し直した事に成るのです。

ところが、この肥沃な地域の「員弁殿と桑名殿」も「秀吉の紀州征伐」の際に「秀吉」に一時は攻められますが、背後で「松阪殿の保護・伊賀等の伊勢シンジケートを動かす事・忍者」で再び直ぐに勢力を持ち返します。
「商い」をしていた「四家」より自由の効くこの「伊賀青木氏」は、上記の通りですが、「秀吉」は「名張殿と松阪殿」は「賜姓時」に「天智天皇」が与えた「朝廷の不可侵の永代格式」を持っていた事から、「攻める事」は社会からバッシングを受ける危険性があって出来なかったのです。
「名張殿と伊賀殿」は有名な戦いの史実として「信長や秀吉」が攻めても落ちなかったのです。これは超有名な史実です。
唯、「伊賀攻め」を数度に受けますが、「伊勢青木氏等と伊賀者18氏」は絶滅滅亡寸前で「城並みの清蓮寺」と「堅固な清蓮寺城」にその内の「伊賀11衆」を何とか直前で救い出します。
それは「清蓮寺城の平城館」を持ち、且つ、「伊賀勢力」を後ろに控えていた事と、「伊勢青木氏」が「秀吉の軍需物資」を背後で「伊賀の伊勢シンジケートのゲリラ戦」を使い、且つ、「商い・食料」で「秀吉軍」を「枯渇作戦」で追い込んで抑えていた為に攻められなかったのです。
これも江戸期に有名な小説に成った史実です。

「北畠氏の件」は、元は「朝廷の学問処の官僚」でしたが、「天智天皇の伊勢不可侵の命」を破って「伊勢」に侵入して来たのです。
故に、瞬く間に「直接的な武力」を持たない「賜姓五役の伊勢青木氏」はこの北畠に占領されますが、すかさず「信長」がこの北畠氏を更に潰して伊勢を乗っ取ったのです。

お説の「応仁の乱」は1467年に発生して、1477年までの約11年間の「室町期中期の内乱」ですが、廃城後と事と考えますが、上記の通り再び「津」で興し「秀吉」に味方して、「子孫の青木駿河守」は「4万石、又は10万石」を領したとしたとする事は、それは上記の通りですが、その子孫は江戸初期に叙封されて「福井」に逃げ込んだ記録も、「江戸叙封録」にありますし「伊勢」にも遺されています。

その逃避地の「質」の地域が次の通りです。
現在名 「質」を行っていた神明社
1 坂井市三国
2 敦賀市松島
3 鯖江市新町
4 池田町松ケ谷
5 越前町小曽原
以上で「越前」では「五つの地域で質」を行い「青木氏」を救助し自立させたのです。
これは「中国の仏教の地の金山寺」で行っていた「民を救うやり方」を唯一、「伊勢青木氏」が、平安期には仏教では無く「青木氏の守護神の神明社」を使って採導入し用したのです。
これが「現在の質屋」の始りですが、その広めた最初は「吉宗の育ての親」であった「伊勢青木氏」が、江戸に同行して「吉宗の享保の改革」を「江戸の経済の改革」を手伝ったのです。
この時、「伊賀青木氏」が伊賀を差配しながら「伊勢青木氏の福家」の警護の為に、影に成り同行したのですし、改革中は敵も多く「香具師」と成って諜報活動し、「幕府の甲賀忍者」と火花を散らした「有名な伊賀と甲賀の戦い」です。元は一族で会った者同士の熾烈な戦いでした。
最終は、「伊賀」は「紀州藩」に味方し、「甲賀」は幕府に仕官と成って戦います。
枯渇していた幕府の蔵埋金300両が、瞬く間に400万両で一杯に成りました。
この時に、江戸市中に自己資金で「200店舗」に成る「江戸伊勢屋」としてこの「質制度の質屋」を営んで「金融の経済改革」を行いました。
これが全国に広がった現在の質屋です。
この時、「伊勢屋の青木氏」は、「布衣着用の身分・将軍に直接に意見を述べられる最高位の身分」で、最大大名に相当する「二つの屋敷」を与えられ改革を進めたのです。
この時に「影」で働いたのが「伊賀青木氏・伊賀者・香具師・諜報人」を全国に配置した「伊賀青木氏」です。
「有名な忍者の伊賀者・香具師」はここから呼ばれる様に成ったのです。
今でも子孫が各地に定住され、自らも「香具師」をし「差配頭」としても働き、「伊勢」や「紀州」や「近江」や「江戸」や「桑名」や「三河」の各地に子孫を多く遺していて「お便り」も多いのですよ。
一度、ルーツ掲示板の検索で香具師と入力すれば出てきますよ。そこで読みください。

この「香具師の伊賀青木氏」はお家の血の分けた「伊勢青木氏」の「裔系の一族」ですよ。
「松阪の差配」で必要に応じて「伊賀」は勿論の事、「桑名や員弁や名張」などからもこの身分を換えてこの「諜報機関」に参加していたのです。
これらの事は「伝統」にも論じていますよ。

さて、問題はこの「岩田」に関する「姓名」に変えたとする事には問題があります。
「青木氏」は奈良期から「皇位族・皇親族」であって「姓を持たない氏族」ですので、「氏名の青木氏」の場合は、“室町期中期には「氏族の青木氏」であったとする事”から本来はあり得ず「青木氏」です。
恐らくは、「歴史的な経緯」としては唯一つ考えられる事がありました。
それは「青木氏」は上記した様に「女系」で何重にも1200年もかけて血縁した「伊勢郷士50衆・伊勢氏人衆とも云う」の「氏人で構成される氏族」です。
その上記した「四家」が「氏族の氏上」で、又は「御師様・郷氏様」と「伊勢氏人衆50衆」から呼ばれていました。
その一つに「員弁郷士の岩田氏」が確かにあります。
この「郷士」の「一つの女系支流氏族」の「岩田氏」では無いかと考えます。

では何故、「伊賀青木氏」が「郷士衆の岩田氏」に成ったかと云う疑問ですね。
普通は「氏族」ですから無い筈です。
「応仁の乱」まで「伊勢青木氏の血筋」を持つ「伊賀青木氏」である以上は「氏族」ですので、現在でもほって於いても「青木氏」である筈ですし、態々、「姓族に替わる事」は「氏族」である限り100%ありません。

唯、それには、一つ起こり得る事件がありました。
「伊勢青木氏系一族」は、確かに平安期から「女系」で「皇位族の干渉」から逃れましたが、それは「明治維新」に「考え方・観方」に依れば現在の「天皇家の始祖」に当たる「格式」を江戸期末期でも持ち続け、「光仁天皇の出自元」である限り歴史を手繰れば一部女系であるにしても一部は有している事にも成ります。
鎌倉幕府では「日本書紀」に基づいて「土地の本領安堵策」や、室町期の「律宗族の指定」や、「正親町天皇等」の「追認指定」が「伊勢と信濃」にあり、それに基づいてそれ故に、江戸初期には特別に「家康のお墨付き・お定め書」もあり保持していました。
従って、この史実を消したい「明治維新政府」をリードしていた「維新改革をした「薩摩藩」などは、「天系一途の原則」を貫こうとし、江戸末期まで献納金で経済的に天皇家を支えて来た「伊勢と信濃の二つの青木氏」が邪魔に成って消して抹殺しようとしたのです。
そこで、「薩摩藩の意を汲んだ民衆等」を動かし、「伊勢青木氏」に「焼き討ち」や「打ち壊し」や「嫌がらせ」を掛け続けました。
これに対抗して「伊勢や信濃青木氏」が背後に成って有名な江戸末期から「氏人衆等の伊勢騒動」が9年間も起こりました。
幕末の江戸幕府はこれを黙認し、遂には明治9年まで続きました。
結局は、「明治政府」はこれらを罰する事が出来ずにこれに応じて伊勢側も引きさがり、そこで「薩摩藩の攻撃等」も無く成りました。
この時に、既にお家らはその「岩田に住んでいた事」から「女系」で深く関係していた「郷士50の氏人衆の岩田姓」を名乗ってこれを避けた事が考えられます。
ところが、それが「名字帯刀?の岩田の庄屋」で会った事から明治3年の苗字令の時に「岩田とした事」が「一般的な経緯」として充分に考えられます。
それらを確定させるには「上記の疑問点の情報」を獲得する必要がありますね。
これであれば「氏家制度の縛り」は無く成り自由と成り上記の矛盾点は消えます。
又、維新政府の政策は、地租改正や土地解放や農地解放や家廃仏毀釈や債権放棄等の政策や氏族開放令で一族を固めていた「一切の縛り」は無く成り自由と成りました。
「伊勢青木氏の財産」も「伊勢郷士50人衆の氏人」に全て分配しました。
ですから、この時にしか簡単に「姓の岩田氏に替える時期」は無かった筈です。
恐らくはこの時に間違った由来を書き残した事が考えられます。

「筆者の松阪殿」は、「支店の摂津」と「旧領地の尾鷲」に、「名張殿」は「伊賀」に、「桑名殿」は「額田」に、この様に他では「松阪の福家の指揮」で一時的に「分散の策」で「生きる地域」を移して躱しました。
取り分け、他の四家に比べ上記の様に「波乱の多かった員弁」は記録にもある様に大きく直接に攻撃の影響を受けた事が判っています。

其れは、「員弁」には「越前・福井」の「伊賀青木氏・紀伊守の青木氏」が移住していた「伊賀青木氏の一部」が、連続して起こった「天正等の大地震等」で多くの「青木氏の酒蔵」が倒産し、越前に残った者や越後の青木氏に移住した者、又その一部が「伊勢の肥沃な土地・員弁」に「伊勢松阪の福家の差配」で「四家の員弁」に移住して移り住んだのです。
従って、江戸初期前にこの「員弁」には「四家の員弁殿の裔」とお家の「伊賀青木氏の裔」が融合して、「肥沃な員弁」を「桑名の額田部氏」に頼んで開拓して定住した事に成っています。
お家がその後に「開拓した土地の員弁の庄屋であった事」がこれを証明しています。
この時、「伊勢青木氏の殖産業の開発・額田部氏」と共に沼地であった桑名員弁域の干拓灌漑開墾で、「紀州藩の離藩領・支藩」と成っていた「伊勢」は40万石から55万石に成ったのです。
「15万石」を紀州藩の赤字体質の為に私財を投入して伊勢を干拓灌漑開墾と数多い殖産で増やしたのです。

「伊勢」は奈良期から「日本書紀等の歴史書」にも記載されている様に「氏族」であった事もあり、その「日本書紀等」の通りに「伊勢大半」と云っても良い程に「福家の伊勢青木氏」が「旧領地と各地に大地権」を持つ事に成ります。
唯一遺る朝廷が認める「48氏」あった内の唯一の生き残った「氏族」であったのです。
ですから、「伊勢郷士衆50の氏人衆」を抱えられる程の「超大地権者」でした。
これには奈良期から「朝廷の命」を受けての「和紙などの幾つもの殖産業」を営み、江戸初期には「紀州藩の藩主」等に「2万両以上10万両の債権」を持つと共に、「紀州伊勢の殖産」を手掛け助け、「紀州藩の勘定方指導の立場」で「窮地の紀州藩」を立て直し、「巨万の富」を獲得していた「大氏族の大豪商・伊勢屋・名を隠して摂津商人に」でした。
従って、「松阪、名張、員弁、桑名、四日市、尾鷲等」の地主と伊勢郷士の庄屋を務めましたが、これ等は「伊勢氏人衆50の郷士の家・1200年の5重以上の婚血縁族・殆ど親族」が「庄屋」を務めたのです。
ですから、「員弁の岩田の庄屋であった事」は上記の矛盾を無くせば充分に考えられ矛盾は消えます。
つまり、「青木氏の氏族」の中で「岩田」に「苗字が替えられた事」に付いては、この説からは一般論として一応は納得が行きます。

但し、ここで問題です。
先に「中国の古銭の件」は、「伊勢青木氏」は平安期の初期頃から「令外官」として「朝廷の命」を受けて唯一「南宋貿易・中国貿易」をしていましたので何の不思議もありません。
「室町期の銃の件」でも、この貿易で「西洋の新式銃」を日本用に改良して「額田青木氏」に与えて「戦乱期の抑止力」を高めました。

それは全ては「松阪殿の福家の了解」を得ていなければなりません。
その時期が何時かという事ですが、「信長の山田城攻めの時」か、「秀吉の時」の「伊勢紀州征伐の時」は未だ合力していた事もあり無いと思いますが、その後の江戸初期直前の「越前の大地震」で員弁に一部が戻った経緯から、この「岩田の庄屋」をしていた時か、将又、「明治維新の薩摩藩の攻撃時」かの3つです。
筆者は「青木氏の経緯」から上記したのは「明治維新の薩摩藩等の時」であると考え、「岩田の庄屋」の時には正式にでは無く、正式は明治3年の苗字令の時期と観ています。
何故ならば「青木氏」は、明治35年の頃までそれでも「伊勢北部の地権者・地主」そのものですし、「庄屋」は「氏上や御師」であって出来ませんので、従って「青木氏の氏名」から外れて「庄屋」とする以上は郷士であってこの時であった可能性が高いでしょう。
「名字帯刀の庄屋の件」と成る以上は、その「出自の格式」が問われます。
つまり、「青木氏の格式」を有した事を物語るものです。
又、同時、何かの手柄を立てなければ「名字帯刀」は無い筈で「員弁や桑名の干拓灌漑の農地開拓した事」を意味します。
然し、「青木氏」は元より「郷氏族」で「近衛軍」の当に「真の侍の武士」で、その階級は永代に「上佐位」の「侍の最上位の格式」を有している「唯一の武士」です。
従って、「名字帯刀の件」は、苗字は「氏族の青木氏」、「帯刀」は刀では無く逆反りの「平安剣・貴族剣」であり、これ等は元よりの事で、「名字帯刀」とする事は必要が無く疑問です。
「岩田氏」を含む「伊勢郷士氏人50衆」は奈良期からの格式ある「侍の武士」で「伊勢青木氏の女系の血筋」が何重にも流れている、所謂、准青木氏です。
この「名字帯刀の件」が史実とするにはお家は「郷士の下にいる百姓」であった事に成り矛盾です。
そもそも、「伊勢の民」は「他の国の民」と違って、「日本書紀」に明記されている様に、「伊勢青木氏と一体と成った民」なのです。
つまり、「民と郷士と青木氏」の要するに「氏族」なのですよ。
「下俗の民」ではないのです。
況してや、「名字帯刀」は「紀伊守」との「整合性」が「真逆」でもう一つの解決出来ない「大疑問点」です。
そもそも「応仁期で青木氏」であれば「永代に青木氏」ですからね。
この「真逆の矛盾の事」を解決する必要があります。
これには、上記の情報で何方かは解決します。

参考に「岩田にある筈の明治維新戸籍簿」にこの事が判る決定づける「情報」が記載されていますよ。
その前にお家にこの「出自元の岩田」に「明治維新戸籍簿」があるかどうかですね。
又はお家の「浄土宗の菩提寺」が在るかどうか、有ったとして先ず「伊勢の清光寺か来迎寺」であって、其処に「過去帳」があるかどうかです。
「顕教の檀家寺」ではありませんし、「人別帳」ではありませんよ。
「青木氏」は「密教浄土宗知恩院系流白旗派」です。
「青木氏」は「神道」でもあり「守護神を持つ社」はお家の場合は「員弁」にある「11ある神明社」の何処かです。

同時にこの時期には明治3年に全国一斉に改めて「苗字令」、8年に「督促令」が政府から発せられていますので、現在も「岩田」を名乗っている限りは、一時、「越前等の経緯」があり、「伊賀青木氏」の「故郷の祖の紀伊守所縁」の「岩田」でこの時に正式に届け出たと考えられます。
それまでは「岩田郷郷士の庄屋さん」で通したと考えられます。
「伊賀」を除く「名張や員弁や桑名」での「青木氏での庄屋」は、「伊勢」では明治初期まで「氏族名の郷氏」の「地主・御師様・氏上様」です。
従って「庄屋」ではあり得ません。
つまり、「姓族」では無く日本では唯一生き遺った「氏族」でした前提が「青木氏一族」にはあります。
この点も錯語していますね

又、唯、その「647年の氏の発祥以来」、「中立を保つ事」が「青木氏の施基皇子からの氏是」でしたので、「青木氏四家」の中では「員弁の場合」だけは、調べると最も時代に翻弄された経緯を持ちます。
それ故に上記した様に、一時期に「北畠氏」に「属した事等の経緯」は否めませんし、又、史実として記録に遺り「福家・四家」も合力しています。

唯、次にそこでお便りでは“属した”としていますが、これは間違いです。
上記した様に「味方する事」は「氏是」ですので、「松阪・名張・桑名・四日市」も同じで、「秀吉の長島の戦い」の時も「合力」はしていますよ。
この様に上記から疑問は、「青木氏の歴史観」の必要とする間違いを起こすのはお家の明治後の人が「錯語」で「余計な事」を残した証ですね。
だから「不必要な矛盾」を引き興してしまったと観ています。

改めて五家から「伊勢と信濃の二家」に最終的に成った「青木氏族」は、「女系の一族」で「四家・松阪殿・名張殿・員弁殿・桑名殿」と「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合族の四日市殿」で構成して、これを「四掟・家柄格式を限定して血縁する制度」と云う制度で「氏族」を維持して行きます。
お家の伝統の詳しい制度に付いては「伝統シリーズ」をお読みください。
兎も角も政治に巻き込まれない様に、「光仁天皇期の様な事」が二度と起こらない様にする為に徹底した「女系の血縁性・妻嫁制度と嫁家制度」を守って、「商いと氏族」の「二足の草鞋策」で独立して防護したのです。
尚、上記の「越前・福井」で「酒屋」を営んでいましたが、江戸直前の天明等の数回に及ぶ大地震で「家業」が傾き続けられず、一部は越前に定住する者や再び一族の居る「伊賀の故郷」や「員弁に開拓移住する事」が史実として起こりました。お家はその後者ですね
これが1〜3の大筋の経緯の答えでした。
これがお家のルーツでしょうが、「上記の疑問の情報」がありましたお便りください。

「青木氏の歴史観」を詳しく獲得するには「伝統シリーズ」を引き続いてお読みください。
上記の情報が得られましたら「元の正しい歴史観」にこの際に戻す必要がありますね。

正規手段から返信が出来ませんでしたので、お便りから返信します。

今日は。始めまして。
ようこそ全国の青木氏が集うサイトにお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
随分とサイト情報で青木氏の事をお知りに成っている様ですね。
何でもお聞きください。

さて、今回のお尋ねは先ずは、
1 伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとする「青木紀伊守の件」とそして、何時から青木氏であったのかと云う事ですね。
2 1のルーツとする「青木紀伊守と駿河守安豊の3代目の青木駿河守安豊」が信長に滅ぼされ「岩田」に隠れ住んで、「岩田」を名乗つたとし、その後に「北畠氏に仕えたとする事」ですね。
3 江戸時代に員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋務めたとする事ですね。

さて、要するにこの3つが「伊勢青木氏の史実」に合致するかですね。

お答えは青木氏の遺された史実に大まかに合致しています。
唯、一部に矛盾の疑問が残ります。
では、但し、それには「一つの流れ・経緯」があります。
それをご説明いたします。

1に付いて、この人物は記録的に実在した事は判っていますし、江戸初期の記録にも「伊勢青木氏」で記載されていますし「青木氏の記録」にもあります。
その前に、では何時、青木氏であったのか?ですが、お答えは、お家は「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」で、「奈良期末期」からです。
この「伊勢青木氏の発祥」は、「大化の改新期の647年」の伊勢松阪からです。
その「始祖」は、「天智天皇の第7位皇子の施基皇子」で、改新に依って「第4世族内の第6位皇子以上・5位も含む」は「真人族」から「賜姓・氏族青木氏」を授かり、臣下して朝臣族に降下して「二代目の伊勢王」と成りました。
その「子孫」は「ある目的」から「青木の氏族」の「氏名」だけを名乗り「伊勢」に発祥する事に成ります。
これが先ず五家五流の「全国の青木氏の始まり」です。
その記載の詳しくは「伊勢青木氏の記録資料」や「日本書紀や累代三大格式録等」にも詳細に記載されていますし、「伊勢の記録」にも遺ります。

そこで、さてそもそも当時の奈良期に付いては、“「部経済」”と云って「全ての民」、即ちこれを現在の全く違う意味の当時は「百姓」といいました。
この「百姓」は、「職人・部人」として扱われ、彼等が作った「全ての物品」を先ず「朝廷」に納められて、朝廷で使われる以外の余った「全ての物資」は市場に放出して売り裁き、その「利」を獲得して、「朝廷の副財源」とする「経済システム」でした。
これを「施基皇子」が臣下して生まれたその「子孫等・この時は「約30人程度」が、賜姓時に天皇から命じられた「役・賜姓五役」を務め、その一つとしての「役目」の「永代令外官・天皇から勅命・密命」を果たす特「特別官職」としての役を担ったのです。
つまり、朝廷を潤すためらは朝廷自らが「商い」は出来ませんので、「皇子」を一般に臣下させて「諡号の特別氏名の諡号姓の身分格式」を与え、これに「特別権限」を与えて、「朝廷や天皇家の財を潤す役目」を与えたのです。
これを「施基皇子」が担いその子孫が実行すると云う組織を造り上げたのです。
そして彼等に「賜姓五役と云う特別な最高格式・青木氏以外に無い」を与えます。
これが所謂、現在で云う「身内の者」が果たす「特別御用商人の役目」の最初で「大商いの始まり」です。
昔は、この「天皇」が「特命」を与え実行するのがこの「令外官の仕事」でした。
中には大臣や官僚などに云えない「命令」を「秘密裏」に行う事も多くあったのです。
そして、その為にその仕事をやり易くする為に、「伊勢青木氏」に「特別権限」を与えます。
其れが「賜姓五役」と云うもので「皇族」を始めとして全ての官僚も、この「賜姓五役の持つ者」に従う事しかなく、その立場も「天皇に継ぐ格式・官位官職・浄大一位」を持っていましたので、従って、大臣であろうがこれに従うしかなかったのです。
故に常に「天皇の傍・寝所の隣の部屋」に居ました。
それは「身内の者であった事」で安心して「正しい情報」が入手できるからです。
元々、それは「伊勢青木氏」は「近衛軍団の最上位」の「永代の上佐の階級」を持っていました。
更には、それらの朝廷が持つ「全職人」を束ねる「国造」の「差配頭・伴造」を「令外官」として務めました。
つまり、この「天皇」に代わって全権を握る族である為に特別に「氏族」とし、これを「政治の全権」を握る「皇親族」と云われました。

さて、戻して、お話の様にこの時の職人の殆どが進んだ技能を持つ「渡来人・後漢」であったのです。
「日本書紀」にも記述されている事ですが、「天武天皇」はこの事に憂い、「青木氏等」に命じて“「倭人の職人」を育てる様に”と命じます。
これを「賜姓臣下族の施基皇子」が受けその裔の「伊勢青木氏」が実行したのです。
「天武天皇」がこの「兄の天智天皇の施基皇子」を「川島皇子」よりも、又、自らの全ての皇子よりも「上位・浄大一位」に置いて可愛がった理由はここにあったのです。
日本書紀にも記されている通り、更には自らの葬儀や后の持統天皇の葬儀も事前にこの「施基皇子とその子孫」の能力を買って任す様に命じたのです。

「中国の後漢」と云う国が隋に618年に滅ぼされて「200万人の職人集団」が九州北部に渡来族として上陸し瞬く間に九州全土を「無戦・3日」で制圧します。
そして、その「勢い」は関西の手前の兵庫県域まで無戦占領し、遂に33/66国まで占領する事に到ります。
これは占領と云うよりは、「倭人」は積極的にこの「進んだ技術技能」を習得する為にこの渡来人の支配に入って戦わなかったのです。
此処で、渡来人側は「戦い」を止めて大和朝廷と講和して九州南部の「隼人」と「阿知・現在の地名として遺っている」に戻って行ったのです。
ところが、その後、713年頃に朝廷は薩摩に船で攻めますが完敗し負けてその時の王の「阿多倍王」と父の「阿知使王」を飛鳥に呼び寄せて、特例で「准王位」を授け、「伊勢」を「半国割譲」して「伊賀」と「隼人と阿知」を正式に半国譲渡して与えます。
この「伊勢の半国割譲」に係わったのは、命を受けていた「始祖の施基皇子」であり、「倭人の技術者技能者の実現」の為にも阿多倍一族と血縁して係わります。
これが「伊賀の青木氏の発祥」なのです。
この時に「阿多倍王の渡来人」が「伊勢伊賀」に住み着いたのです。
そこで、この「渡来人の子孫」が拡大し、その一族が興した「平の将門の反乱」を沈めた一族の「父の始祖の平国香」と「子の貞盛」が、「敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘」を娶り、先ずその子が「大蔵氏・次男・北九州」で「内蔵氏・三男・奥羽」と「坂上氏・長男・飛鳥・京都」を発祥させます。
この「朝廷の軍」を担った「坂上の田村麻呂」が日本全国を制圧した「桓武天皇の義理の弟」として活躍した有名な人物で、「朝廷の財源」を担った役の「大蔵氏」は「九州探題の大監」として九州を任された人物で、仏像の仁王様のモデルに成った超有名な人物・種材」で、「阿蘇神社の神官祖の菊池氏や筑紫氏等」の始祖と成ります。
「天皇家の財源」を担った「内蔵氏」は「奥羽の大豪族の安倍氏の祖・秀吉に滅ぼされる」と成ります。

当時は、「三蔵・斎蔵の藤原氏」と云い、朝廷はこの「三つの官僚形態」を採用していました。
これに「天皇を護る近衛軍・青木氏と藤原氏」を加えて四つの政治形態」をとっていたのです。
この「令外官」の「近衛の氏族」が上記した様に「賜姓五役と令外官の役」を担ったのです。

要するにこの経緯で「伊賀の阿多倍王・清盛の祖」と上記の「賜姓五役の伊勢の青木氏」と血縁して「伊賀青木氏・桓武期」が発祥したのです。
その「伊勢青木氏の裔系の伊賀青木氏」が「お家の青木氏」です。
この「伊賀青木氏」は「永代賜姓五役の令外官役」の「情報機関と秘密警察と秘密武力集団」として江戸時代末期まで大活躍したのです。
当時は秘密裏に、これを当時は「お家」を含む「伊勢青木氏」の「伊賀の香具師・忍者はこの一部役・伊賀青木氏」と呼びました。
江戸期にも「伊勢青木氏」と共に表舞台に出てきますよ。
「伝統」をお読みに成っているとこの言葉に出会います。

このそれに繋がる「桓武天皇」の所以は次の通りです。
そこで「伊勢青木氏」の「施基皇子の四男」で「白壁」と呼ばれる子がいて、「孝謙天皇」の時に皇族に皇位継承者が完全に絶えた為に、この200年弱前に「皇族」であった「施基皇子の伊勢青木氏」に「白羽の矢」を立て、一般化して上記の令外官として勤しんでいたのてすが、嫌がる奇人を装っていた「青木氏の白壁・54歳」に、無理やり「孝謙天皇の姉の井上内親王」を嫁がせて「皇族に戻す策」を執り、既に「商い」をしていた「54歳の白壁」は、結局は、「光仁天皇」と成って「天智天皇系に戻した形」としたのです。
この「光仁天皇の子の山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。
「光仁天皇の妃」が「伊賀の平貞盛」の「孫女の高野新笠」で「桓武天皇の母・妃」と成ります。
つまり、「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」の血筋を引く「高野新笠」と同族血縁した事に成ります。
そして、伊賀に居た「平族・たいら族・清盛の祖」は其の後に播磨国に一族が全て移住します。
元から伊賀に居た原住民の者や渡来人の者や平族の一部の遺った者等の融合族は、「伊勢青木氏」と血縁した「伊賀衆の族等の18氏」として生き延びます。

時代は飛ばしますが、室町期末期にこの「生き残り」の為に「伊賀青木氏」が「信長の配下・合力」に入り、その為に「紀伊守」を名乗ったのです。
ここに「大きな経緯」があるのです。
そもそもこの伊賀国とは、北には山を挟んで現在の甲賀域までを室町期中期頃までは“「伊賀・伊勢の賀州」”とよばれていました。
ところが室町期の戦乱でその「生き遺る為の生き方」を巡ってこの「伊賀」の中で「激しい争い」が起こりました。
一つは、生き方を縛られたくないとする一派は、「大豪族・主君」に仕官せずに「味方・合力」して生きて行く「味方合力論・傭兵形態」
二つは、逆に主君に仕官して家臣と成って契約して安定して生きて行く「家臣論・契約形態」でした。
「伊勢の影響」を色濃く受けている近い「南域の伊賀」は、「味方・合力」を採りました。これが現在域の伊賀です。
「伊勢の影響」を余り受けていない小山を一つ越えた近江に近い北側域は「家臣論」を採ったのです。これが北側に存在する甲賀です。
この二つに分かれて仕舞ったのです。
何れにもこの「伊賀域の青木氏」は「桓武期」に発祥していますので「伊賀青木氏」と「甲賀青木氏」は存在します。

さて、当時はだれでも「‥守」を勝手に名乗ったのですが、この信長に与力・合力する以上は、「名目の官位」が必要で一国の頭としての格式名として「紀伊守」と名乗ったのですが、これが自由の効く当然に合力派でした。
家臣化したので「甲賀青木氏」にはこれは有りません。
故に、最初は「応仁の乱」を境の戦乱期では、「伊賀守」を名乗って「信長」に味方し「伊賀」を任された形で「二万石の豪族の形」となります。
但し、「4万石・10万石の説」がありますが「室町期の時期」に依って石高は違うのです。
「甲賀域を含めた伊賀域」では石高は4万石はあり得ますが、10万石説は無いでしょう。

「家臣論の形態」と違って「自らの力の二万石の豪族」として「合力・俸禄」は無く「身分だけを保証される形態」を採りながら生きて行く事に成ります。
これが「伊賀青木氏の紀伊守」でした。

そこで「小さい疑問」です。
そもそもお便りの「天皇が城を与えるという事」は100%先ずありません。
あるとするならば「武士」ですので、それ統括するその時の「幕府の管轄下」にありますので幕府と成ります。
ここに先ず間違いがありますね。

故に、「後醍醐天皇の件」は絶対に無いし、且つ上記の「青木氏」であり、且つ、「伊賀の生き方」である限りにも無いと考えますし、“「氏家制度」”の中では「青木氏の宗家・福家」の「伊勢青木氏の松阪殿の了解」の無しには絶対にできません。
勝手にすれば「青木氏」から排除され生きて行く事さえも出来ません。
従って、“先祖が津の岩田を横領して姓も岩田”の件も、“横領”とする事は元より「員弁」は「日本書紀等の歴史書」に記載にある通り、「青木氏の旧領地」で、且つ、この地域の「地権」も持っていますし、自らの土地を自らが奪うと云う事は有り得ません。
これも間違いです。

そもそも、「室町幕府」からも「青木氏族」は「律宗族」として「本領安堵」されていますのであり得ませんし、これは記録にも遺ります。
そもそも「氏家制度」の中で一族が固く結束して生きている限りは一人はみ出して勝手な事は100%無く、“「青木氏の氏名」”が在るのに態々「岩田姓」も勝手にはできない筈です。これも100%無いです。
そんな事をすれば「伊勢」にはいられませんし、生きて行く事も100%出来ないでしょう。
況してや、「伊賀青木氏」ですので「掟破り」で厳しい伊賀の中でも尚無理です。
そう云う「一大事の事」に成れば「伊勢の福家」か「清光寺の菩提寺」か「守護神の神明社の祐筆記録」の青木氏に遺り、一切の出来事、つまり歴史を「祐筆」は遺す制度と成っていましたので、これに関する「記録」は遺りますが資料や記録は有りません。

つまり、何か変ですね。ここで、お家にその様な記録がある事に「錯語の問題」が生まれるのです。
恐らくは、途中で「恣意的な伝統の伝承の忘却消失」が起こった可能性がありますが、これ等の歴史観の無い錯誤の事を伝え遺した者がこれさえも「菩提寺か神明社」に行けば直ぐに解る事ですので理解が出来ません。
そもそも「青木氏」とはそういう上記した組織で、奈良期より伊勢全体を全ゆる制度で固めていましたから、何故その様な記録が遺ったのかは先ず解明する必要がありますね。

どうもその錯語内容から観て、その「伝えられた事の全体」が「明治期以降のお家の誰か」の様ですね。

「岩田の庄屋」であったとすれば、寧ろこれ等を護り取り締まる立場にあり、「氏家制度の上位」で「伝統を監視し、精査し、記録しする庄屋と云う立場」での記録もあるのに、何か変ですね。
一度、越前に移動時にこの「伝統」を失ったのか、一族の中に勝手に調べずに明らかに矛盾している処が多いのは、「史実」に基づかずに繫ぎ合せた様な事ばかりを言い遺したか、当時の歴史習慣に基づかずに無理に書き遺したかにありますね。
其れ等の事が良く起こったのは「江戸初期か江戸期の末期前後」ですね。
「青木氏の中」で生きていればこれらの事は無い様に考えますが。

続く。

考えられる事は末期頃に何かが在って、又は起こって、「お家」と「青木氏の四家」とが疎遠に成ったかですね。
だとすれば、然し、「疎遠」に成れば「地権」も亡くし、「庄屋」も失うので「庄屋」も失った程の出来事が起こった事に成りますね。

そこで、一般的に考えられる「仮定の話」ですが、「青木氏」から外れ「岩田に成った事」に起因していた可能性があるのではないでしょうか。
つまり、「青木氏を名乗れない事」が起こった。だから「岩田姓」として「青木氏」から外れたと云う仮説です。それで許して貰ったとする筋書きです。

「氏家制度の社会」の中では、「姓を持つ者」が「当時、姓を変える事」は「無宿者・裏切り者」に成り、「一族を養って行くだけの糧を得られず死活問題・命問題」で簡単では有りませんでしたからね。

「打ち首に成る国抜け等の重罪」はしていない様なので、軽犯罪を犯したか、>婚姻に従わなかったか、>伝統に従わなかったか、要は興ったとすれば「青木氏の中で処置できた事」に成るでしょう。

この仮定を証明するには、「宗派、家紋、墓所、菩提寺、過去帳」などの「情報」で「決・掟・歴史観」がありますので判りますよ。
普通は下記に記している様な事が考えられるのですが、疑問が残ります「岩田姓」と成った時期の前後の情報です。

次に、「2の問」の通り「信長のやり方」は、「光秀」や「銃の傭兵軍の雑賀族」らの「織田氏歴史」が物語る様に、「青木氏」にも仕掛けられた事があって、“必要が無く成ると切る”と云うのが「信長の合理主義」です。

お説の通り、“岩田に隠れ住んで?、「岩田」を名乗つたとし、その後も「北畠氏に仕えた”と成るこの「疑問の経緯」を辿って「北畠氏」が滅び、最後に目的の価値が無く成った時に切られたのです。と成るところなのですが、“岩田に隠れ住んで”?が疑問なのです。
北畠氏に味方・合力したとするのはあり得ますが、隠れ住む事には「伊勢の歴史」と全く一致しません。
そのその「名張松阪員弁桑名域」は、「日本書紀」にも記載の通り奈良期より「四家の永代の大字名の領地」です。
故に、「疑問のあり得ない経緯」と成ります。
つまり、北畠氏の侵入に限らず歴史に遺る有名な「伊賀の戦い」や「長島の戦い」や「松島の戦い」等がそれらでも侵されてはいません。

其の後、「伊賀青木氏」は「伊賀の者の了解」と「福家の了解」の中で「秀吉の時代」に、再び「味方・合力」して「一定時期」は史実として記録に遺る様に保証されます。
唯、その後の秀吉の裏返しの「伊勢攻め」では、その総指揮官が「伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏の縁者」の「蒲生氏郷」でしたので、難を逃れます。
然し、この時、「伊勢」を護る為に「伊賀青木氏」がこの「豊臣側に味方・合力した事」で「関ケ原の戦い」で負け、江戸初期前頃に叙封されて仕舞います。
結局、「叙封」で危険と成り、「伊勢青木氏」は「伊賀青木氏」を「青木氏の逃避地」の「青木氏の神明社の救済地・質制度」と云う「青木氏だけの古来の救済制度」に従い「福井」に逃げ込んだのです。
ここまでは、上記の疑問の経緯では無く祐筆が遺した「紀伊守の記録に遺る史実」です。
「近江佐々木氏・川島の皇子の裔」の「青木氏族の研究論」の中でも伊勢と同様に詳細に記されています。

注意書きとして、「室町期末期の官職」のこの頃は「‥守」は誰でも勝手に肩書として名乗ったもので、余り意味がありませんで、要は「伊賀青木氏」です。
「甲賀」にも「甲賀青木氏の歴史」がありますが、今回は「伊賀青木氏」に限定します。
当時は大きな一族を抱えて合力する場合は、この「肩書」を持つのが一般で造る必要があって、要するに「‥守」は誰かに味方・合力した証拠なのです。

この唯一斯くの如しで動くのは「伊賀の青木氏」だけで、江戸期直前に成って叙封され、結局は「伊賀」に居られずに、「青木氏の逃避地域の越前・福井」に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「全国の500社」に成る「青木氏の守護神の神明社組織」を利用して「一族の者ら」を保護して「生活の糧」を与えて独立させる仕組みです。
この越前国に逃げ込み「伊勢の伊勢屋」の「絶大な経済的な支援」を受けて、越後の秀郷一門の支援を受けて、遂に「造酒屋」を営み大成功して生き延びたのです。これも史実です。
但し、この「分家の一部」は、「越前」に行かずに「福家の差配」の元に「伊勢青木氏の四家の員弁殿」に頼り、「肥沃な土地」の「員弁桑名域」を「開墾・開拓」に従事して生き延びたのです。
そこに越前に行きそこで「造酒屋」で成功して地震で倒産した「伊賀青木氏」が、「福家の差配」でこの「員弁」の開墾を手伝っていた「伊賀青木氏の親族の所」に戻り「開墾」を手伝います。
この「二つの伊賀青木氏」と同族の「員弁殿の青木氏」の更に融合した伊賀香具師の性質を秘めた「員弁青木氏」が発祥し直した事に成るのです。

ところが、この肥沃な地域の「員弁殿と桑名殿」も「秀吉の紀州征伐」の際に「秀吉」に一時は攻められますが、背後で「松阪殿の保護・伊賀等の伊勢シンジケートを動かす事・忍者」で再び直ぐに勢力を持ち返します。
「商い」をしていた「四家」より自由の効くこの「伊賀青木氏」は、上記の通りですが、「秀吉」は「名張殿と松阪殿」は「賜姓時」に「天智天皇」が与えた「朝廷の不可侵の永代格式」を持っていた事から、「攻める事」は社会からバッシングを受ける危険性があって出来なかったのです。
「名張殿と伊賀殿」は有名な戦いの史実として「信長や秀吉」が攻めても落ちなかったのです。これは超有名な史実です。
唯、「伊賀攻め」を数度に受けますが、「伊勢青木氏等と伊賀者18氏」は絶滅滅亡寸前で「城並みの清蓮寺」と「堅固な清蓮寺城」にその内の「伊賀11衆」を何とか直前で救い出します。
それは「清蓮寺城の平城館」を持ち、且つ、「伊賀勢力」を後ろに控えていた事と、「伊勢青木氏」が「秀吉の軍需物資」を背後で「伊賀の伊勢シンジケートのゲリラ戦」を使い、且つ、「商い・食料」で「秀吉軍」を「枯渇作戦」で追い込んで抑えていた為に攻められなかったのです。
これも江戸期に有名な小説に成った史実です。

「北畠氏の件」は、元は「朝廷の学問処の官僚」でしたが、「天智天皇の伊勢不可侵の命」を破って「伊勢」に侵入して来たのです。
故に、瞬く間に「直接的な武力」を持たない「賜姓五役の伊勢青木氏」はこの北畠に占領されますが、すかさず「信長」がこの北畠氏を更に潰して伊勢を乗っ取ったのです。

お説の「応仁の乱」は1467年に発生して、1477年までの約11年間の「室町期中期の内乱」ですが、廃城後と事と考えますが、上記の通り再び「津」で興し「秀吉」に味方して、「子孫の青木駿河守」は「4万石、又は10万石」を領したとしたとする事は、それは上記の通りですが、その子孫は江戸初期に叙封されて「福井」に逃げ込んだ記録も、「江戸叙封録」にありますし「伊勢」にも遺されています。

その逃避地の「質」の地域が次の通りです。
現在名 「質」を行っていた神明社
1 坂井市三国
2 敦賀市松島
3 鯖江市新町
4 池田町松ケ谷
5 越前町小曽原
以上で「越前」では「五つの地域で質」を行い「青木氏」を救助し自立させたのです。
これは「中国の仏教の地の金山寺」で行っていた「民を救うやり方」を唯一、「伊勢青木氏」が、平安期には仏教では無く「青木氏の守護神の神明社」を使って採導入し用したのです。
これが「現在の質屋」の始りですが、その広めた最初は「吉宗の育ての親」であった「伊勢青木氏」が、江戸に同行して「吉宗の享保の改革」を「江戸の経済の改革」を手伝ったのです。
この時、「伊賀青木氏」が伊賀を差配しながら「伊勢青木氏の福家」の警護の為に、影に成り同行したのですし、改革中は敵も多く「香具師」と成って諜報活動し、「幕府の甲賀忍者」と火花を散らした「有名な伊賀と甲賀の戦い」です。元は一族で会った者同士の熾烈な戦いでした。
最終は、「伊賀」は「紀州藩」に味方し、「甲賀」は幕府に仕官と成って戦います。
枯渇していた幕府の蔵埋金300両が、瞬く間に400万両で一杯に成りました。
この時に、江戸市中に自己資金で「200店舗」に成る「江戸伊勢屋」としてこの「質制度の質屋」を営んで「金融の経済改革」を行いました。
これが全国に広がった現在の質屋です。
この時、「伊勢屋の青木氏」は、「布衣着用の身分・将軍に直接に意見を述べられる最高位の身分」で、最大大名に相当する「二つの屋敷」を与えられ改革を進めたのです。
この時に「影」で働いたのが「伊賀青木氏・伊賀者・香具師・諜報人」を全国に配置した「伊賀青木氏」です。
「有名な忍者の伊賀者・香具師」はここから呼ばれる様に成ったのです。
今でも子孫が各地に定住され、自らも「香具師」をし「差配頭」としても働き、「伊勢」や「紀州」や「近江」や「江戸」や「桑名」や「三河」の各地に子孫を多く遺していて「お便り」も多いのですよ。
一度、ルーツ掲示板の検索で香具師と入力すれば出てきますよ。そこで読みください。

この「香具師の伊賀青木氏」はお家の血の分けた「伊勢青木氏」の「裔系の一族」ですよ。
「松阪の差配」で必要に応じて「伊賀」は勿論の事、「桑名や員弁や名張」などからもこの身分を換えてこの「諜報機関」に参加していたのです。
これらの事は「伝統」にも論じていますよ。

さて、問題はこの「岩田」に関する「姓名」に変えたとする事には問題があります。
「青木氏」は奈良期から「皇位族・皇親族」であって「姓を持たない氏族」ですので、「氏名の青木氏」の場合は、“室町期中期には「氏族の青木氏」であったとする事”から本来はあり得ず「青木氏」です。
恐らくは、「歴史的な経緯」としては唯一つ考えられる事がありました。
それは「青木氏」は上記した様に「女系」で何重にも1200年もかけて血縁した「伊勢郷士50衆・伊勢氏人衆とも云う」の「氏人で構成される氏族」です。
その上記した「四家」が「氏族の氏上」で、又は「御師様・郷氏様」と「伊勢氏人衆50衆」から呼ばれていました。
その一つに「員弁郷士の岩田氏」が確かにあります。
この「郷士」の「一つの女系支流氏族」の「岩田氏」では無いかと考えます。

では何故、「伊賀青木氏」が「郷士衆の岩田氏」に成ったかと云う疑問ですね。
普通は「氏族」ですから無い筈です。
「応仁の乱」まで「伊勢青木氏の血筋」を持つ「伊賀青木氏」である以上は「氏族」ですので、現在でもほって於いても「青木氏」である筈ですし、態々、「姓族に替わる事」は「氏族」である限り100%ありません。

唯、それには、一つ起こり得る事件がありました。
「伊勢青木氏系一族」は、確かに平安期から「女系」で「皇位族の干渉」から逃れましたが、それは「明治維新」に「考え方・観方」に依れば現在の「天皇家の始祖」に当たる「格式」を江戸期末期でも持ち続け、「光仁天皇の出自元」である限り歴史を手繰れば一部女系であるにしても一部は有している事にも成ります。
鎌倉幕府では「日本書紀」に基づいて「土地の本領安堵策」や、室町期の「律宗族の指定」や、「正親町天皇等」の「追認指定」が「伊勢と信濃」にあり、それに基づいてそれ故に、江戸初期には特別に「家康のお墨付き・お定め書」もあり保持していました。
従って、この史実を消したい「明治維新政府」をリードしていた「維新改革をした「薩摩藩」などは、「天系一途の原則」を貫こうとし、江戸末期まで献納金で経済的に天皇家を支えて来た「伊勢と信濃の二つの青木氏」が邪魔に成って消して抹殺しようとしたのです。
そこで、「薩摩藩の意を汲んだ民衆等」を動かし、「伊勢青木氏」に「焼き討ち」や「打ち壊し」や「嫌がらせ」を掛け続けました。
これに対抗して「伊勢や信濃青木氏」が背後に成って有名な江戸末期から「氏人衆等の伊勢騒動」が9年間も起こりました。
幕末の江戸幕府はこれを黙認し、遂には明治9年まで続きました。
結局は、「明治政府」はこれらを罰する事が出来ずにこれに応じて伊勢側も引きさがり、そこで「薩摩藩の攻撃等」も無く成りました。
この時に、既にお家らはその「岩田に住んでいた事」から「女系」で深く関係していた「郷士50の氏人衆の岩田姓」を名乗ってこれを避けた事が考えられます。
ところが、それが「名字帯刀?の岩田の庄屋」で会った事から明治3年の苗字令の時に「岩田とした事」が「一般的な経緯」として充分に考えられます。
それらを確定させるには「上記の疑問点の情報」を獲得する必要がありますね。
これであれば「氏家制度の縛り」は無く成り自由と成り上記の矛盾点は消えます。
又、維新政府の政策は、地租改正や土地解放や農地解放や家廃仏毀釈や債権放棄等の政策や氏族開放令で一族を固めていた「一切の縛り」は無く成り自由と成りました。
「伊勢青木氏の財産」も「伊勢郷士50人衆の氏人」に全て分配しました。
ですから、この時にしか簡単に「姓の岩田氏に替える時期」は無かった筈です。
恐らくはこの時に間違った由来を書き残した事が考えられます。

「筆者の松阪殿」は、「支店の摂津」と「旧領地の尾鷲」に、「名張殿」は「伊賀」に、「桑名殿」は「額田」に、この様に他では「松阪の福家の指揮」で一時的に「分散の策」で「生きる地域」を移して躱しました。
取り分け、他の四家に比べ上記の様に「波乱の多かった員弁」は記録にもある様に大きく直接に攻撃の影響を受けた事が判っています。

其れは、「員弁」には「越前・福井」の「伊賀青木氏・紀伊守の青木氏」が移住していた「伊賀青木氏の一部」が、連続して起こった「天正等の大地震等」で多くの「青木氏の酒蔵」が倒産し、越前に残った者や越後の青木氏に移住した者、又その一部が「伊勢の肥沃な土地・員弁」に「伊勢松阪の福家の差配」で「四家の員弁」に移住して移り住んだのです。
従って、江戸初期前にこの「員弁」には「四家の員弁殿の裔」とお家の「伊賀青木氏の裔」が融合して、「肥沃な員弁」を「桑名の額田部氏」に頼んで開拓して定住した事に成っています。
お家がその後に「開拓した土地の員弁の庄屋であった事」がこれを証明しています。
この時、「伊勢青木氏の殖産業の開発・額田部氏」と共に沼地であった桑名員弁域の干拓灌漑開墾で、「紀州藩の離藩領・支藩」と成っていた「伊勢」は40万石から55万石に成ったのです。
「15万石」を紀州藩の赤字体質の為に私財を投入して伊勢を干拓灌漑開墾と数多い殖産で増やしたのです。

「伊勢」は奈良期から「日本書紀等の歴史書」にも記載されている様に「氏族」であった事もあり、その「日本書紀等」の通りに「伊勢大半」と云っても良い程に「福家の伊勢青木氏」が「旧領地と各地に大地権」を持つ事に成ります。
唯一遺る朝廷が認める「48氏」あった内の唯一の生き残った「氏族」であったのです。
ですから、「伊勢郷士衆50の氏人衆」を抱えられる程の「超大地権者」でした。
これには奈良期から「朝廷の命」を受けての「和紙などの幾つもの殖産業」を営み、江戸初期には「紀州藩の藩主」等に「2万両以上10万両の債権」を持つと共に、「紀州伊勢の殖産」を手掛け助け、「紀州藩の勘定方指導の立場」で「窮地の紀州藩」を立て直し、「巨万の富」を獲得していた「大氏族の大豪商・伊勢屋・名を隠して摂津商人に」でした。
従って、「松阪、名張、員弁、桑名、四日市、尾鷲等」の地主と伊勢郷士の庄屋を務めましたが、これ等は「伊勢氏人衆50の郷士の家・1200年の5重以上の婚血縁族・殆ど親族」が「庄屋」を務めたのです。
ですから、「員弁の岩田の庄屋であった事」は上記の矛盾を無くせば充分に考えられ矛盾は消えます。
つまり、「青木氏の氏族」の中で「岩田」に「苗字が替えられた事」に付いては、この説からは一般論として一応は納得が行きます。

但し、ここで問題です。
先に「中国の古銭の件」は、「伊勢青木氏」は平安期の初期頃から「令外官」として「朝廷の命」を受けて唯一「南宋貿易・中国貿易」をしていましたので何の不思議もありません。
「室町期の銃の件」でも、この貿易で「西洋の新式銃」を日本用に改良して「額田青木氏」に与えて「戦乱期の抑止力」を高めました。

それは全ては「松阪殿の福家の了解」を得ていなければなりません。
その時期が何時かという事ですが、「信長の山田城攻めの時」か、「秀吉の時」の「伊勢紀州征伐の時」は未だ合力していた事もあり無いと思いますが、その後の江戸初期直前の「越前の大地震」で員弁に一部が戻った経緯から、この「岩田の庄屋」をしていた時か、将又、「明治維新の薩摩藩の攻撃時」かの3つです。
筆者は「青木氏の経緯」から上記したのは「明治維新の薩摩藩等の時」であると考え、「岩田の庄屋」の時には正式にでは無く、正式は明治3年の苗字令の時期と観ています。
何故ならば「青木氏」は、明治35年の頃までそれでも「伊勢北部の地権者・地主」そのものですし、「庄屋」は「氏上や御師」であって出来ませんので、従って「青木氏の氏名」から外れて「庄屋」とする以上は郷士であってこの時であった可能性が高いでしょう。
「名字帯刀の庄屋の件」と成る以上は、その「出自の格式」が問われます。
つまり、「青木氏の格式」を有した事を物語るものです。
又、同時、何かの手柄を立てなければ「名字帯刀」は無い筈で「員弁や桑名の干拓灌漑の農地開拓した事」を意味します。
然し、「青木氏」は元より「郷氏族」で「近衛軍」の当に「真の侍の武士」で、その階級は永代に「上佐位」の「侍の最上位の格式」を有している「唯一の武士」です。
従って、「名字帯刀の件」は、苗字は「氏族の青木氏」、「帯刀」は刀では無く逆反りの「平安剣・貴族剣」であり、これ等は元よりの事で、「名字帯刀」とする事は必要が無く疑問です。
「岩田氏」を含む「伊勢郷士氏人50衆」は奈良期からの格式ある「侍の武士」で「伊勢青木氏の女系の血筋」が何重にも流れている、所謂、准青木氏です。
この「名字帯刀の件」が史実とするにはお家は「郷士の下にいる百姓」であった事に成り矛盾です。
そもそも、「伊勢の民」は「他の国の民」と違って、「日本書紀」に明記されている様に、「伊勢青木氏と一体と成った民」なのです。
つまり、「民と郷士と青木氏」の要するに「氏族」なのですよ。
「下俗の民」ではないのです。
況してや、「名字帯刀」は「紀伊守」との「整合性」が「真逆」でもう一つの解決出来ない「大疑問点」です。
そもそも「応仁期で青木氏」であれば「永代に青木氏」ですからね。
この「真逆の矛盾の事」を解決する必要があります。
これには、上記の情報で何方かは解決します。

参考に「岩田にある筈の明治維新戸籍簿」にこの事が判る決定づける「情報」が記載されていますよ。
その前にお家にこの「出自元の岩田」に「明治維新戸籍簿」があるかどうかですね。
又はお家の「浄土宗の菩提寺」が在るかどうか、有ったとして先ず「伊勢の清光寺か来迎寺」であって、其処に「過去帳」があるかどうかです。
「顕教の檀家寺」ではありませんし、「人別帳」ではありませんよ。
「青木氏」は「密教浄土宗知恩院系流白旗派」です。
「青木氏」は「神道」でもあり「守護神を持つ社」はお家の場合は「員弁」にある「11ある神明社」の何処かです。

同時にこの時期には明治3年に全国一斉に改めて「苗字令」、8年に「督促令」が政府から発せられていますので、現在も「岩田」を名乗っている限りは、一時、「越前等の経緯」があり、「伊賀青木氏」の「故郷の祖の紀伊守所縁」の「岩田」でこの時に正式に届け出たと考えられます。
それまでは「岩田郷郷士の庄屋さん」で通したと考えられます。
「伊賀」を除く「名張や員弁や桑名」での「青木氏での庄屋」は、「伊勢」では明治初期まで「氏族名の郷氏」の「地主・御師様・氏上様」です。
従って「庄屋」ではあり得ません。
つまり、「姓族」では無く日本では唯一生き遺った「氏族」でした前提が「青木氏一族」にはあります。
この点も錯語していますね

又、唯、その「647年の氏の発祥以来」、「中立を保つ事」が「青木氏の施基皇子からの氏是」でしたので、「青木氏四家」の中では「員弁の場合」だけは、調べると最も時代に翻弄された経緯を持ちます。
それ故に上記した様に、一時期に「北畠氏」に「属した事等の経緯」は否めませんし、又、史実として記録に遺り「福家・四家」も合力しています。

唯、次にそこでお便りでは“属した”としていますが、これは間違いです。
上記した様に「味方する事」は「氏是」ですので、「松阪・名張・桑名・四日市」も同じで、「秀吉の長島の戦い」の時も「合力」はしていますよ。
この様に上記から疑問は、伊勢には歴史記録があったのに、「青木氏の歴史観」の必要とする間違いを起こすのはお家の明治後の人が「錯語」で「余計な事」を残した証ですね。
だから「不必要な矛盾」を引き興してしまったと観ています。

改めて五家から「伊勢と信濃の二家」に最終的に成った「青木氏族」は、「女系の一族」で「四家・松阪殿・名張殿・員弁殿・桑名殿」と「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合族の四日市殿」で構成して、これを「四掟・家柄格式を限定して血縁する制度」と云う制度で「氏族」を維持して行きます。
お家の伝統の詳しい制度に付いては「伝統シリーズ」をお読みください。
兎も角も政治に巻き込まれない様に、「光仁天皇期の様な事」が二度と起こらない様にする為に徹底した「女系の血縁性・妻嫁制度と嫁家制度」を守って、「商いと氏族」の「二足の草鞋策」で独立して防護したのです。
尚、上記の「越前・福井」で「酒屋」を営んでいましたが、江戸直前の天明等の数回に及ぶ大地震で「家業」が傾き続けられず、一部は越前に定住する者や再び一族の居る「伊賀の故郷」や「員弁に開拓移住する事」が史実として起こりました。お家はその後者ですね
これが1〜3の大筋の経緯の答えでした。
これがお家のルーツでしょうが、「上記の疑問の情報」がありましたお便りください。

「青木氏の歴史観」を詳しく獲得するには「伝統シリーズ」を引き続いてお読みください。
上記の情報が得られましたら「元の正しい歴史観」にこの際に戻す必要がありますね。