青木ルーツ掲示板
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  [No.1184] 應仁の乱までは青木だったようです。
     投稿者:岩田京子   投稿日:2021/04/14(Wed) 22:35:06

3週間ほど前に投稿させて頂きました岩田です。

投稿後、青木氏をもっと知りたいと思い、青木氏のレポートを『青木氏の伝統』を中心に約1000枚(500枚の両面)をプリントアウトして勉強しています。
まだまだ、続きをプリントアウトして勉強を続けていくのを楽しみにしています。

今まで全く知らなかった内容ばかりで読み込むところまではまだ出来ませんが、桓武平氏の流れであることは分かりました。

桓武平氏が渡来系であることを初めて知り、一つ納得できたことがあります。
それは、三重県の東員町にある後醍醐天皇より青木紀伊守安定が賜った山田城(笹尾城ともいう)の発掘調査で鉄製品や陶器などの出土品の中に中国銭があったことを今まで不思議に思っていました。
渡来系の流れならば、あっても不思議でないと納得しました。

今、一番知りたいことは、青木紀伊守安定の青木のルーツです。

伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとは家系図に書かれていますが、後醍醐天皇から山田城と共に青木を賜ったのか?いつから青木であったのかが分かりません。

そして應仁の乱で青木駿河守安豊の3代目で山田城が織田信長に滅ぼされ廃城となったと伝えられます。
落城後逃げた?先祖が津市の岩田を横領して姓も岩田に変えたとあります。
その後、北畠顕家公秀秋公に属すともあります。

曽祖父の代までは、員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋をしていたと聞いています。

青木のルーツを知るためにお力をお貸しください。



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