青木ルーツ掲示板
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  [No.1186] Re:続 豪商長島屋
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/22(Thu) 10:18:23

今日は。お久しぶりです。
お元気でしか?
コロナ禍で大変ですがお気をつけください。

お便り楽しんで読ませていただきました。
より深い興味のある疑問点をご指摘頂きました。
これ等のご指摘の疑問点はルーツの発祥源にあると考えられ、それで筆者のルーツの考え方を先ず論じて観ます。

お便りには、順不同でシリーズで論じてお便りします。

イ 富士宮の件です。
ロ 高島屋の事です。
ハ 一色の件です
ニ 神光寺の件です。
ホ 神仏習合の件です。
へ 斎宮の件です。
ト 伊勢治の件です。
チ 明治13年の大火の件です。
リ 平将門の乱の件です。

先ずイの件です。

「伊豆青木氏」か「秀郷流青木氏」かですが、先ずその前に筆者はこの「二つの血縁族の区分け」に付いて次の様に考えています。
それは「円融天皇の賜姓」に依って「960年頃」から「秀郷流青木氏」が「三男の千國」を以て永代に正式な形で発祥しましたが、その前から「秀郷流一族一門」とは「母系族」として、それまで「313年間」に於いて「中国の四掟制度」を持ち込み、これを基準に「皇親族」、又は「賜姓族臣下族」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、先ずこの範囲で「重相互血縁」を繰り返し純血性を保ってきたものです。
そして、それは相互に「妻嫁制度」と「嫁家制度」と云う「掟と仕来りと慣習」で他から新しい血を徐々に入れながら「血縁被害」も防いで来ました。
それは現在の遺伝学で解明されている様に「女系」であってこそ成せる事でした。
「人類の種の系列遺伝」は「母親」から「娘」にだけ引き継がれると云う特徴を人は持っています。
「日本人」は「7つ民族の融合」の中で、更には、様い範囲では、且つ、「青木氏」、「秀郷流一門」の中で、「基幹遺伝子」は引き継がれていると云う事ですから、「四掟」を限定し「妻嫁制度」と「嫁家制度」を敷けば「特定の範囲の純血性」は保たれると云う事を奈良期から「経験則」で悟っていた事に成ります。
それが偶然にも「遺伝子的」に証明されているのですから、相当な経験則でした。
これが「秀郷流青木氏」が発祥して、その範囲を狭め更にこの「女系での純血性」が保たれ、何と明治初期までの「1200年程度の期間」を女系で繰り返されて来たのです。
遺った「伊勢と信濃の青木氏」は「伊勢と信濃の郷士衆」から新しい血を女系で入れ、「伊勢と信濃の青木氏」は、又、相互に血を入れ、「秀郷流一族一門裔系」から「秀郷流青木氏の裔系」に入り、又、直接に秀郷一門からも新しい血を入れ、これを更に「伊勢と信濃の青木氏裔系」に「女系」で戻すと云う「青木氏族の形態」を構築していたのです。
これは二つ池の水の流れに相似していますね。
これを考えれば、要するにそもそも、“二つの流れに分ける必要は無い”と考えているのです。
その証拠に「近江佐々木氏の研究論文」に於いても、この考えに沿って「研究タイトル」は「青木氏族」と括っていますが、筆者も賛成です。
この「近江佐々木氏の研究論文」は、「近江佐々木氏系と近江青木氏系」も含んだ「奈良期」からの範囲で「青木氏族」を論じています。
間違いなくこの「近江の二つの裔系の血筋」は所謂、「青木氏族」に流れている事は否めません。
唯、「近江佐々木氏の場合」は、「平安末期までの範囲」に限定される為に、「450年程度の期間」とその1200年間の約1/3と成りますので、どう扱うかはそれぞれの考え方に左右されますね。
従って、この「富士宮の件」は、結論から「伊豆青木氏」か「秀郷流駿河青木氏」か「秀郷流相模青木氏」かに成りますが、上記の「括りの考え方」では同じとし、敢えて分けるとすると成ると、「秀郷流相模青木氏」であると成るでしょう。
それには、血縁はその族の大きな決定事項ですから、その「差配」が何処かに依る事に成りますね。
当然に両者の計画的な事前協議に基づく事に成りますが、「伊豆」が勝手に決める訳では無く、「氏家制度」の中では「伊勢の福家」に届け出て裁可を受けての事に成り、その上で綿密に協議して決まりにますので、伊豆の生活圏から横の東に広げる力は無かった筈で元より「伊勢と信濃の融合族」です。
「秀郷流駿河青木氏」は、一度、源平戦で滅亡して「伊勢の助け」と「血縁」で興して再び「秀郷流一門に戻せた経緯」を持っていて、西の「伊勢」や「三河」に生き方を向いていますので、室町期では元の東に広げる勢いは未だ無かった筈です。
だとすると、「神奈川横浜圏」の「秀郷流相模青木氏」の「西外れの生活圏」に矢張り入ると成るでしょう。
当然に一時「伊勢」まで張り出していた「秀郷流一門の青木氏族系の永嶋氏系」が、「源平戦後の鎌倉期」と「室町期中期」から「700年にもなる期間」では、「甲斐武田氏系の青木一族」が救済を求めて逃げて来た歴史的経緯からや過去帳等を観ると、一度や二度の血縁は充分にあったと読み取れますが、これはさておき、「本流の裔の定住地」としての結論は「伊豆青木氏」であったと考えます。
要するにここは「伊豆青木氏」は東は「真鶴」。西は「藤枝」までの域が「伊豆青木氏の住み分けの生活圏」でありました。
確かに「際どい領域と成る事」は間違いなく、「定住地」とは「氏族の戦略的な要素」の中でありますので、「氏族」を固める為にもこの「血縁」もこの中で行われます。
従って、この「富士宮」は「戦略的な意味合い」からも、「西の駿河青木氏」の血縁から観ると「伊勢青木氏系」に成った事を意味し、これに「勢力」を復興させ、南に「伊豆青木氏・伊勢信濃融合族」、東に「秀郷流相模の青木氏」と「三角形の中」で固めていますので、流石に時の勢力の信長も秀吉も家康も手の出す事は出来なかった地域です。

其処を北が弱いとして流石に北から「武田氏」が浸食して来ても結局は左右からこの圧迫を受けて失敗します。
故に、一族を「血縁」で固く固めていた事は否めませんが、「南の伊豆と西の駿河を「要」として「伊勢の財と抑止力」を背景に「経済力」で南海を制し、東は「相模の秀郷一門の勢力」で固めていたので、「伊豆・伊勢信濃系」と「駿河・伊勢系」と血縁で充分に固める前に「伊勢との重血縁で固める事」で「青木氏一族」は護れたと考えます。
矢張りそれには、「伝統」で論じている様に、「伊勢」が動いたのは「伊勢との血縁」で「駿河青木氏の復興」を先ず果たさせ、同時に信長に破壊された「伊豆青木氏とのパイプライン・神明社等」を復興させ、構築する事が「喫緊の課題」であったと成ったのでしょう。
その為には「衰退していた美濃の額田青木氏」に「20倍の即戦力となる近代銃(300・20=6000兵力以上)」を渡し、これを美濃の山奥から引き出して来る事であった事に成ります。
当に「血縁・重婚」よりは、先ずは「歩」を「金」にするよりは「将棋の駒の動かし方」にあったと観ています。
従って、この「周囲で護れる三角形の中心」の「血縁」には余り必要性はなかったと観ています。
恐らくは「祖先」もその様に観ていたのでしょう。
ですから、「伊勢から観た歴史観」からすると「融合族」までに至らずに、「富士宮」の「東・真鶴」からは、主に「秀郷流相模の青木氏」であったと考えます。
「ルーツ掲示板」でもお便りがありましたが、この方の場合はその経緯から「伊豆青木氏」でした。
「伊豆青木氏」が、何故、武力の持たない伊豆青木氏が「半島より北の幹線域」に出て来たかは、それは飽く迄も「商いの伊豆」であったからです。
其れで「伊勢の海運の力」で護ろうとしたのです。

次はロの「長島屋」を追論します。
「長島屋の件」に付いて良くお調べになりましたね。
依然は、この長島屋は、通説から次の様にお答えしています。
それは、この「結城永嶋氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢長嶋氏」とは、取り分け「血縁関係」が深く、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」は一族関係であった事から、「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」の協力を得て、「二足の草鞋策」を「江戸」で財源確保の為に始めたのが始まりです。
そして、「主要五氏」の中でも「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」は「青木氏一族」と呼ばれる一族で、「永嶋氏の中」からも「永嶋氏系青木氏」が出ていたのです。
これが、後の「長島屋の呉服商」なのです。

然し、筆者は別の論を持っていて次の様に成ります。
その理由は、「普通の商い」とは別として、「総合商社の大商い」は「システム」と云うか「背景」と云うか簡単には出来ないと云う事です。
この点に注目して以前から「次の仮設」を立てて、その「証拠集め」をしていますが、「二つの事の記録の証拠」が採れません。
それは一つ目は、“吉宗に同行して伊勢から江戸向行した”と云う記録です。
二つ目は、“江戸での「秀郷流永嶋氏の長島屋の確実な記録」が無い事です。
その大元の疑問は、“長島の名”の確実な記録の事です。
実は第一に秀郷流一門と青木氏に関する記録が何故か消失して実に実に少ないと云う事です。
筆者では、「伊勢の情報」だけのもので、「商記録」に遺された記載でしたが当初は「取引相手」と観ていたのです。
ところが、「長島屋」が「永嶋氏」に通ずる事から関係性があるとして調べる事にしていたのですが、問題は「長島」とするには、「伊勢の長島・古資料には長嶋」か「薩摩の長島」か「静岡の長島」かの範囲で調べていました。
「秀郷流青木氏族5氏の永嶋氏」はその子孫の広がった土地に依って書き方を変えていました。
これは「秀郷流一門の仕来り」ですから、ある経緯から薩摩では無い事は判ります。
とすると、「静岡の長島氏」は「薩摩藩の商人」として移動してこの長島氏の裔が商い」で「静岡」に定着した「長島氏」である事は判っています。
従って、「伊勢長島」と成ります。
とすると、何故、「長島屋の屋号」にしたのかの疑問が解決しますし、そこで何故、江戸なのかです。
そこで、これを仮設に仕立てて、「伊勢青木氏と伊勢秀郷理由青木氏」の影響を受けて「享保の改革」に向けて「吉宗」に同行して「伊勢青木氏の伊勢屋」と共に「江戸」に向かったと観ています。
そして、「伊勢秀郷流青木氏の意向」から幕府の官僚族と成った「武蔵の秀郷流青木氏」を“「商い」で「後押し」”をする為に出向いたとしました。
何故、「後押し」をするかですが、「武蔵の秀郷流青木氏」と共に秀郷一門はそっくりそのままに「江戸幕府の官僚族・家人衆」の名で全て抱えられ史実があり彼等を補完する必要に迫られたのです。
ところが、歴史でも良く知られる様に「三河旗本の旗本衆」との「大きな軋轢」が発生していました。
そこで彼等に「力」を着ける為に、それには「吉宗の改革」に乗じて「武力」では無く「経済的な後押し」をした事は史実として遺っています。
この事は、当に同時期として「駿河青木氏」にも論じた通りです。
それが「長島屋」であったのではないかとして、その史実を集め始めたのです。
判って来た事には「矛盾する処」は有りませんでしたが、問題の「吉宗の江戸向行の史実」が掴めません。
この「江戸向行の史実」の記録が無いのは、“江戸に着いてからの「立上策」であつた”とする仮設も成り立ちます。
つまり、“「表の伊勢屋」の「影の長島屋」の「商社」を策して作った”とする仮説です。
吉宗と繋がる「伊勢屋」が表立って出来ない事をこの「長島屋」がしたと云う仮説です。
それは一族の「3000石の出世近習衆の駿河青木氏」と共に「家人衆の幕府官僚族」と成っていた「秀郷一門族」を裏で力を持たせるために「経済的」に支える役目です。
これに相乗的に「衣布着用の伊勢青木氏の発言力」も伴ってそれでこそ煩い旗本や大名を抑えて「享保の改革」は進む筈です。
「お便り」の通りに間違いなく「長島屋」はこの役割を果たしその様に動いていた事は判っていたのですが、又、「伊勢屋」の「商いでの後押し」であるからこそ「お便り」の通りに「総合商社としての動き」を見せていた事も納得が行きます。
唯、この「総合商社」とする以上は、それを運搬する手段等の総合のシステムが必要で、其処までの「能力・大船やシンジケートなどの保有」が「結城永嶋氏」には勿論の事、「秀郷一門」にも無かったと観られます。
だから、「伊勢青木氏の伊勢屋」なのであって「無数の船籍を持つ伊勢水軍」と「自らも4艘の大船保有」を有し、「伝統の所」で論じた様に「復興した駿河青木氏の水軍」があり、これにも矛盾していません。
後は、その「船の行動範囲」は自由航行権は無く「幕府の伊勢山田奉行所」で規制されていましたので、最高でも「伊勢」は「駿河」まで、後は、「駿河青木氏」がこれを繋ぐシステムで「江戸」に運べば可能です。
それには、どうしても上記した「側衆の家人衆の力の政治の力」と「秀郷一門に経済的な力」で「政治」を動かせば「長島屋の商い」は無理なく成り立ち「システムの構築」は現実に動きます。
筆者は、「青木貞治の裔の家人近習衆」を「出世させた経緯」の一つに繋がつていたと観ているのです。
この「長島屋」が「武蔵の秀郷流青木氏の裔」とする説も確かに成り立ちますが、「総合商社の商い」と云う観点からは説得力は低いと考えています。
これは絶対に「伊勢」と繋がって無ければ成り立つ話ではない筈です。
その「伊勢青木氏と伊勢屋」が「吉宗の享保の改革」を裏から支えていたのは何よりの証拠に成ります。
研究では、其れが「富士宮の伊豆の青木氏論」に繋がっているのです。
「美濃の額田青木氏」と「駿河青木氏と伊豆青木氏」を復興する論の事で此の“「長島」”は成り立つ話でしょう。
この「一連の戦略」の中にあったと考えています。
その証拠に、「享保の改革」の末期に「吉宗」が「伊勢青木氏との約束」を破って「信濃青木氏の領地と養蚕等の殖産」をそっくり幕府に奪い取った史実の事から、「伊勢との関係性」が最悪に悪化して「200店もあった伊勢屋の店」を3日以内に「店子に無償譲渡」し、「船」で「伊勢」に逃げ戻り、その「伊勢」では「伊勢紀州の殖産・勘定方指導の立場」を一手に引き受けていた「紀州藩の保護」で守られて、「幕府からの激しい追討の難」を逃れた史実があるのです。
この「吉宗の行動」は、「力の持ちすぎた伊勢青木氏と伊勢屋と長島屋と秀郷流青木氏と秀郷一門一族のタッグ」を警戒したと解釈できます。
「紀州藩」は、この時に幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられる始末でしたが、護り通したのです。
この時は、既に「紀州藩」は「吉宗系保科氏の系列」から外れ「安芸松平氏」から「養子」を迎えていました。
ですから、「吉宗の幕府」に対して「伊勢の秀郷流青木氏を始めとする伊勢藤氏族」が「紀州藩の全官僚」と成っていた事から、故に「明治維新」の「財政改革と近代的軍革の明治維新」を推し進めた「紀州藩士の陸奥宗光等」が代表される様に維新まで続いた「独立性の強い紀州藩・惣国藩と呼ばれていた・慶喜に従わなかった」が出来ていたのです。

江戸から引いた後は引き続き「伊勢紀州の殖産」で、幕府から「毎年紐付き2万両の借財」をしていた「10万両以上」を5年で返却していて、“紀州藩は云う事が聞かなく成った”と云われるまでにして警戒視されていたのです。
「低い経済力の無い伊勢加納氏」に代わって「親代わり」と成っていた「伊勢の青木氏・伊勢屋」が、その「紀州藩を救う原因」を作ったとして何との「吉宗」に睨まれて、その「親族の信濃の弱い処・聖地の半分の3000石分と養蚕の殖産剥奪」で突いて来たのです。
恐らくは、この時の史実の事件から、この疑問の“「長島屋」”も上記の「システム」が壊れて衰退して行く事に成って、「危険な伊勢」に戻らずに、遂には「女系の縁者の多く居る武蔵」に逃げて隠れた事に成ったと現在の研究では観ています。
実は、この「長島」には当時は「次の仕来り」が在ったのです。
それは各地に拡がった「永嶋氏の家柄」を姓名の漢字で表現して「何処の永嶋氏」かを当時は判別する様に成っていました。
これは「賜姓の青木氏」を除き、秀郷一門361氏全てに適用されていました。
それは「関東屋形」として最高に永嶋氏が勢力を張った「定住地域」に依って変えられていて、永嶋氏>長嶋氏>永島氏>長島氏>永嶌氏>長嶌氏でした。
つまり、その「長島屋」なのです。
その意味からすると、果たして「結城永嶋氏の長島屋の通定説」には筆者は実は未だ「疑問」を持っているのです。
最もしっくり行くのは、完全に「上記の二つの記録」が無い為に確定は出来ませんが、通説とは異なり本説の「伊勢秀郷流青木氏の伊勢長島」ではと観ているのです。

サイトのメモリーの関係から今回は此処までとし、引き続き3の一色論を披露し



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