青木ルーツ掲示板
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  [No.1193] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
     投稿者:副管理人   投稿日:2021/09/21(Tue) 09:05:35

山梨の青木さん 今日は。始めまして。
本サイトは全国の青木さんが集うサイトです。これからも宜しくお願いします。
さて、山梨の青木さんに付いては青木氏の中である事情があって信頼できる情報としては判らない事が多いのです。
「山梨の青木さん」の始祖の出自は判っていて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に「五家五流の皇族真人族」から「賜姓臣下族」として「青木氏」が「天智天皇」から「嵯峨天皇期」までの間に出自しました。
「伊勢」を始めとして「美濃、信濃、近江、甲斐」と広がりました。
「伊勢」は、「天智天皇の第七位皇子の真人族の施基皇子」が臣下して「伊勢王」となって遙任し後に赴任と成りました。
そして、朝廷の造部が作った全ての物品に必要量を取り、残りを市場に放出して金品に換える役目を負っていました。
そしてその「院号」を与えられて一切の専有権利を持つ事と成りました。
この伊勢松阪の施基皇子の一族は「歴史的な商人の始り」でした。
これに「信濃王の青木氏」が手伝いました。
この時、「天智天皇」はこれらの「賜姓真人族の臣下族」に「青木氏」を与え、それにともない「賜姓五役」と云う役目を与え、「賜姓物」をその証の象徴としての「賜姓三物」を与えました。
現在でも引き継いでいます。
この「賜姓五役」の一つには「天皇家の皇子皇女」の王位継承で外れ増えて行く場のない者を引き取る役目を与えたのです。
これを護つたのは「伊勢と信濃と近江と美濃」でした。
「甲斐」にはこの役目を護ったとする記録はありませんし、経緯から無かったと考えられます。
それは「甲斐青木氏」は「他の青木氏」と違って出自が遅かった事が考えられます。
それは「嵯峨期」に成って「伊勢青木氏出自の曾孫」でもあった「嵯峨天皇」はこの「賜姓臣下族の青木氏の制度」を強引に中止して仕舞ったのです。
その為に「青木氏」からの「財政的支援」を無くし、困った「嵯峨天皇」はその為にその代わりに財政の枷と成っていた「皇子皇女の殆ど」を「源氏」として、朝廷の財政難から皇子皇女の数が多く成った事から、賜姓し財政的裏付けを無くし放り出したのです。
当然に「伊勢と信濃の青木氏」は彼等を引き取りませんでしたので生きて行く事は出来ませんでした。
生き残ったのが「11家11流」あった源氏は遂には武器を持った「清和源氏」だけ遺りました。
然し、「商い」で得た財力で「殖産起業」を興して「巨万の財力」を蓄えていた「伊勢と信濃・商人の始り」は、この対抗策として皇女皇子を引き取る事等一切の支援をしなくなりました。
困った「嵯峨天皇」は反対派の「平城上皇・伊勢青木氏の孫施基皇子の曾孫」は乱の末に困って妥協して仲介策を執り、「皇族賜姓族である事・第4世族」の「王位」を証明するものがあれば「青木氏」を名乗っても良い事を詔勅を発して認めました。
この時に、初めて「甲斐に正規の皇族真人族の青木氏」を送り発祥しました。
これが先ず、「甲斐蔵人青木氏」として格式を与えて「嵯峨天皇の皇子」を派遣しますが、自ら賜姓臣下族の青木氏を否定した以上は「賜姓臣下族の格式」で派遣できず、一段下げた状態で派遣したのです。
つまり、甲斐の税金を管理監督する上級役人として派遣したのです。
他の4家とはその「賜姓五役の目的」は異なりました。
これをその蔵人役の二代後に「嵯峨天皇」が自らが賜姓したとして「源源光」に「甲斐青木氏」としてこの跡目を継がせ甲斐に派遣しました。
これが先ず「甲斐の賜姓青木氏」です。
ところが、この「源源光」の腹違いの下位の立場の兄が「嵯峨期の詔勅」を使って「賜姓青木氏」ではないこの「禁令」を破って「格式が無い兄の源時光」が「青木氏」を名乗ってしまったのです。
この「二つの青木氏の流れ」が甲斐には有ります。
ところが、この格式が無い「兄の源時光の甲斐青木氏」が武力を甲斐で勢力を持ち、「正規の弟の源源光」はその財力を武力で強引に兄に奪われて衰退をします。
然し、「兄の源時光の甲斐青木氏・信長に滅ぼされる」と違って室町時代末期までほそぼそと生き延びましたが、記録で明治まで子孫が生き延びた事が判っています。
この甲斐には「二つの流れの青木氏」が甲斐にはあって、他の四家四流とは異なります。
お家は、この「源時光の甲斐青木氏」です。
この「兄の源時光の甲斐青木氏」」には、大まかには「本家筋」は「二流」と、「分家筋」も「二流」に分かれ合わせて四流と成ります。
お家は、「本家筋の分流」に成ります。
この「本家筋」は、結局は武田氏の台頭で血縁して組み込まれます。
上記のこれ等は伝統の本論に詳しく論じていますのでそれを参照してください。
「時光系青木氏」や「甲斐青木氏」等のモードで伝統シリーズの検索で読んでください。
お家の事も詳しく書かれていますし、甲斐青木氏家紋なども記載されています。
さて、この武田氏に組み込まれた「本家の時光系青木氏」は三つの派系に分かれます。
大まかに「四つの流れ」があり、「武田氏系時光系青木氏」、「武田氏系諏訪族青木氏」、「諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」です。
但し、「武田氏系時光系青木氏」は更に「二つに分流」しています。

さて、結論は、「時光系の分家」の「二流」ともは「武田氏」に味方せず、「徳川家康」に救われて密かに「武蔵の埼玉の鉢形」に一族郎党全て移されて生き延びましたし、一つは「安芸」に逃げ延びて「安芸松平氏」に救われて家臣と成り助かりました。
因みに、「武蔵の埼玉の鉢形」の「時光系分家青木氏」には極めて有名な人物がいます。
それは、柳沢に住んでいた「青木吉保」です。
つまり、将軍綱吉の側用人の「柳沢吉保」です。
鉢形に移住して三代目の「青木吉保」とし、妾子であった事から出自地の「柳沢吉保」と名乗りました。
この吉保が850石から最終は三郡を獲得し72000石に、そして15万石までに主世しますが出世し、一時この甲斐の守護と成り甲斐に赴任した時に家臣が無かった吉保は生き残った一族を呼び集めて大大名の家臣団を形成した経緯を持っていて、最終は謀叛の疑いが掛からない様にこの根拠として武田氏子孫の後継者をも認めさせています。
その後、奈良大和郡山に移封してこの周辺から岸和田までに甲斐の時光系青木氏の青木氏の多く子孫を遺しています。角界には有名な人もいますよ。
この大和郡山から他国に勝手に移動する事は「江戸時代」では「国抜け」と云って一族郎党斬罪と成ります。
ですから「生き遺り」は甲斐には支流まで含めての子孫は明治初期までは殆ど無い筈なのです。
徳川氏に味方した内の分家筋は勿論の事本家筋の生き残りの者を一切呼び集めこの家臣団と成りましたので甲斐には本来は居ない筈なのです。この事は正式な記録も遺されています。
ですから上記の経緯が生まれているのですが、この史実を打ち消すには相当に難しい事だと思います。
それにはまずは下記の条件をクリヤーする事が必要でしょう。

ところが、本家筋の4家の内、武田氏系時光系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏は「信長」に完全に銃で滅ぼされて滅亡します。死者記録もあるのです。
[諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」は、徳川氏とは強く戦わずに「信濃青木氏の縁戚筋の母方藤原秀郷流青木氏」を頼り「神奈川と横浜」に逃げ延びる事が出来ました。
「藤原秀郷流青木氏」は「徳川氏の御家人衆の家臣」でしたので「諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」も家臣に成りました。
「時光系の分家」の二流と合わせて「三つ流れ」が家臣に成ります。
この事ははっきりとしています。

そうすると、お便りの明治の中頃に出版された「峡中家歴鑑」での「青木氏」は、本家筋の4家の内、「武田氏系時光系青木氏」、「武田氏系諏訪族青木氏」の二つに成ります。
恐らくは、前者です。
後者のその後の事は明確に成っていて現存します。
前者は「長篠の戦い」等で「信長の3千の銃隊」に依って完全滅亡した事も資料からもはっきりしています。
「信長側からの記録」と「武田氏からの記録」の死者名簿も幾つもあり、これを突き合わせると「甲斐の青木氏」に付いては実に正しい事が判ります。
然し、お便りから「峡中家歴鑑」ではこれらを根拠に私観を交えて纏めたものと考えられます。
そこで、武田氏の家臣であった事を前提とすると、一つは死者記録資料に載らない漏れた家臣が居た事か、将又、「三つの流れ系の青木氏」かに成りますが、この歴鑑にある以上は前者と成りますがお家で家系が繋がれていると云う前提では矛盾がうまれます。

「お問い合わせ]では「家系の伝統]が引き継がれていない事が考えられます。

そこで、お家がこの「歴鑑の青木氏である」と云うお家に引き継がれた根拠の様なものが何かあるでしょうか。
在れば教えて頂ければと思います。
実は、上記しました「他の四家四流」と違って「大日本史」にも明記されている様に、この青木氏外に「第三青木氏」と云う「青木氏」が存在します。
本来は、歴史的経緯より「甲斐」には滅んだ事により「時光系青木氏」がない筈でありながら、実は現実に多いのは「第三青木氏」という事が在るのです。

これは江戸期初期に農民等の庶民から武士に成る為にある条件を満たした「国印状」と云う証明書が必要でした。
武士から身を興した農民等には、この条件を満たす事は出来ませんので、虚偽で「姓名」を名乗ったのです。
それが甲斐では「青木氏」だったのです。
幕府は黙認しましたが、これが「第三青木氏」と云うものです。
幕府は一応は禁令を出しましたが守られず、葵木氏等にして一時逃げて偲び又再び戻すという事が興ったのです。

次に「明治維新」に「3年の苗字令」と「8年の督促令」で「90%の民が苗字・姓名」を持っていませんでしたので、何とか「姓名」を持ちましたが、この時、周囲の有名な「氏名」を勝手に「姓名」にして名乗る事を維新政府は推奨し一晩の内に強制的に強引に名乗らせたのです。
「五家五流の青木氏」は「皇族賜姓臣下族」であった事から「嵯峨期の9つの縛り」に従って「氏名」であって「姓名」では無く、「青木氏」は唯一、「姓名」を持たず名乗らなかった氏です。
例えば、四掟に基づく母方縁戚関係にある「北家藤原氏」は「氏名」で「姓名」は「佐藤氏」や「遠藤氏」や「進藤氏」等の「361の姓名」を持ちます。
つまり、「藤原氏」は「姓名」ではなく「氏名」です。藤原氏を名乗れるのは宗家だです。
因みに、「藤原氏の秀郷流青木氏」は「116の姓名」を持ちます。

これらを選別するには「青木氏の格式を物語る条件」を満たしているかではっきりと判ります。
その為に限られた特別な条件を持っています。

次の判別条件がありますので「根拠の前提」として照らし合わせてください。
宗派(江戸期以前は浄土宗です。時宗の場合もあります。)
維新戸籍簿(甲府の出自地にあります 士分と書いています)
江戸期前・1866年前の過去帳有無(人別帳ではありません)
江戸期前・1866年前の菩提寺有無(檀家寺ではありません。はっきりしています)
江戸期前の系譜の有無
墓所の墓石状況と建立の年代 又は本家の墓所の状況
家紋の有無(青木氏の家紋にあるが), 縁戚族に丸に三階菱紋の確認
戒名の形式(独特の形式をもっています)
等が判れば疑問は解決できます。
甲斐の「峡中家歴鑑の青木氏」であるかは、将又、甲斐の青木氏であるかもこれで決まります。

確かに「丸に三階菱紋」は「武田氏系青木氏の支流族」に当たる事は本論でも論じていますので間違いは無いと思いますが、これも江戸初期と明治初期に利用されていますので何か江戸期前のものとして証明するものがあるでしょうか。

実は、お家がこの明治24年編成のものの「青木氏さん」が「甲斐」には他にも多いので情報が少なく確定は出来ずに判らないのです。
子孫であるとするならばそれなりのしっかりした「伝統」があって、上記の条件を先ず最低限お判りに成っているはずですのでお調べください。
お知らせ頂ければお答えいたします。

ではお便りをお待ちしています。



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