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  [No.283] 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:02:00

土佐の青木氏
青木(いごっそう)さん 2007/03/12 (月) 23:38
高知県の青木です。
私には幼い頃から疑問に思っていたことがあります。
それは曽祖父の遺影なのですが、武田菱のついた紋付袴を着て写っていたのです。
現在は生家を離れておりますので詳細の確認は出来ませんが、高知県の我が家が武田家といかなる関係があるのか、それともただ単に武田菱を使用しただけなのか。
その点を知りたく、ご存知の方がいらっしゃるのであればご教示をお願いいたします。

現在持っている情報としましては
1.曽祖父が遺影に武田菱のついた紋付袴で写っている。
2.江戸時代(年代は忘れました)に名字帯刀を許された。それ以前は名主であったらしい。
3.100年ほど前までは大地主であった。
4.宗教は神道。

以上ですがよろしくお願いいたします。
また新しい情報を確認し次第追記いたします。


  [No.284] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:03:26

Re: 土佐の青木氏
副管理人さん 2007/03/13 (火) 21:02
高知の青木さん 今日は。はじめまして。

良くこの青木サイトにお越し頂きました。
元のルーツを正せば親族でありますので、これからも度々お越しください。
青木さん同士でコミニケイション計りましょう。
何か質問や相談事有りましたら遠慮なくお尋ねください。

さて、ご質問ですが、
先ず確認したい事があります。武田菱紋は家紋掲示板に示している武田菱紋でしょうか。
ご確認下さい。

というのも、唐菱紋または唐花紋を武田菱紋と間違えている人が大変多いのです。
現在、日曜日に放映している大河ドラマの「風林火山」で武田の紋所をこの唐花紋を用いていて間違っておりましたが途中で、間違いの指摘を受けてか本来の「武田菱」に戻りました。

この唐花紋は中国の高級官僚が使用する文様で、これが後に、儀式の幔幕等に使用する儀式紋になりました。
これが、日本に入り、朝廷が儀式紋として幔幕や飾り紋に多く使用しました。
これが後に平安末期から鎌倉末期に高位の家柄(青木氏や藤原氏や平家や源氏とこれに血縁する大豪族)の氏が使用する様になりました。
この菱紋には真ん中に空間などあり花模様となっていますが、武田菱紋は菱形を4つあわせたものでシンプルです。
この事を確認ください。

つまり、この唐花紋は、江戸時代以降は庶民の儀式や礼服の文様として用いる様にもなりました。特に明治初期ごろからは家紋の待たない庶民の紋付の袖紋に使用しました。写真を撮るときなどに使用していました。
昔は、祝い事があると写真を撮りましたが、この時に使用されました。

ところで、武田菱紋であるとすると、結論から言いますと、武田氏系青木氏と成ります。

甲斐の国の守護の皇族賜姓青木氏の一族が甲斐の武田氏と血縁を結びました。
ところが、家に男子がなくこの武田氏より跡目婿養子をいれて血縁した皇族賜姓青木氏です。この家に男系の子供が生まれず、家紋掟により婿先の家紋となり、次ぎに、その子供に男子が生まれれば元の「笹竜胆紋」に戻りますが、男子が生まれず女系となつた事により、結局は武田菱紋となってしまった事によります。

この事で武田氏の系列に入った武田氏系青木氏です。

この皇族賜姓青木氏に付いては研究室の「皇族賜姓青木氏」のレポートを参照ください。
この皇族賜姓青木氏は5家5流青木氏があり、この氏より24氏に拡がっています。
この24氏の一つです。

5家5流は伊勢王、近江王、美濃王、信濃王、甲斐王となり、天智、天武、聖武、文武、光仁の5代の天皇の第6位皇子が臣下して侍となり、天皇より青木氏の氏を授けられました(賜姓)。

この甲斐王の青木氏です。綜紋は笹竜胆紋です。(賜姓源氏と同じで第6位皇子です)
この賜姓甲斐青木氏が地元の勢力を高めていた武田氏と血縁をしたものです。

当時の豪族は家柄をよくする為に上位の青木氏や源氏や藤原氏などと血縁をして家柄を上げてゆきました。
この武田氏は同時に源氏とも血縁しました。

源氏は5代の青木氏の後、桓武天皇が青木氏を賜姓せず、母元の渡来人の阿多倍の一族を賜姓(京平氏)しましたが、この息子の嵯峨天皇は第6位皇子に戻して青木氏から源氏に変名して続けました。
この5つの賜姓青木氏は天皇の親衛隊としての役目を担っていました。そして、上記の主要地に配置しました。

青木氏と源氏は同じです。青木氏は5代、源氏は11代であわせて16代です。
この皇族賜姓青木氏には自前の神社や自前の菩提寺を持っていました。
そして、この神社や寺社を身内の本家筋の青木氏が宮司や住職となつて守っていました。

もし、「神道」であるとしますと次ぎの事が言えます。
(但し、仏教の浄土真宗の”真宗”又は”真党”ではないこととします。)

武田氏系青木氏は、甲斐の皇族賜姓青木氏の本家筋の一族が宮司を務めていて、その一族の末裔が武田氏と血縁を結び、上記した結果、家紋掟で武田菱紋となったと考えられます。

この宮司の青木氏は多いのです。朝廷系の大きな神社の宮司には、佐々木氏と並んで現代でも青木氏が多いのです。
この5家5流の宮司筋の青木氏は、全て「神道」で、これが一つの皇族賜姓の青木氏のシンボルなのです。
この青木氏の住職は浄土宗です。浄土宗は江戸時代まで藤原氏と共に、この高位の身分家柄の氏が入る事が出来る宗派でした。

苗字帯刀で名主で大地主であると室町期に下克上にて滅ぼされてたか、室町期の戦国時代に潰されたかのどちらかで、子孫が生き延びて移動先で土地の郷氏になり、名主はこの郷氏が多いのです。そして、地主なのです。

郷氏と郷士とが有りますが、この郷氏にはこの青木氏や藤原秀郷一門や藤原秀郷流青木氏が多いのです。
郷士は普通の地方の地元小豪族侍です。

これ等の情報から間違いなくこの皇族賜姓青木氏の甲斐の青木氏の本家筋の末裔であると考えます。

この光仁天皇の第6位皇子の甲斐王を始祖とする皇族賜姓青木氏であると見られます。

もし、そうだとしますと、天智天皇の第6位皇子の施基皇子を始祖とする皇族賜姓伊勢青木氏とかなり近い親類と成ります。

光仁天皇は天智天皇の第6位皇子の施基皇子(しきのみこ)の子供です。同じルーツです。

実は筆者は、この日本の初代青木氏の伊勢の皇族賜姓青木氏の本家に当ります。御家とはルーツはかなり近い兄弟関係にある事に成ります。
御家は家紋が変化しましたが、ルーツの伊勢は現代も「笹竜胆紋」を保持しています。

そして、5家5流のステイタスシンボルの天智天皇から与えられた鞍作部止利の作「大日如来坐像」の大きな立派な仏像を伊勢賜姓青木氏の当家が保存しています。

やっと、甲斐の同じルーツの青木さんに会う事が出来ました。
甲斐には未だ沢山同じルーツの青木さんがいると思います。
御家は、下克上の時か室町末期の混乱期にご先祖のところに逃げ延びたものと考えます。
下克上は家来の中級武士達により、このような青木氏や藤原氏などの高位の家柄の尽く守護などが狙われたのです。

或いは、信長に滅ぼされた時に信長の勢力の届かない、親族のいる土佐付近に逃げ延びた可能性があります。
他の武田氏系青木氏と諏訪青木氏は関東の藤原秀郷流青木氏の所[神奈川横浜と栃木付近)に逃げ延びました。

伊勢青木氏は伊勢神宮の地元は「不入不倫の権」が与えられており保護されていました。
しかし、秀吉に攻められるまで無傷でしたが、統治した血縁関係の有る蒲生氏郷より保護されて伊勢で無事に残りました。

先ず間違いないと思いますが、唐花紋か武田菱紋か家紋掲示板で確認ください。

甲斐には、同じルーツを持つ諏訪族青木氏が存在します。

この諏訪族賜姓青木氏は甲斐の武田系諏訪族青木氏です。
隣の信濃では信濃皇族賜姓青木氏の神官は三つ柏紋の青木さんです。

そして、是非又お便りください。

研究室には沢山の青木氏に関係するレポートがありますが、一度、皇族賜姓青木氏の所を、先ず選んでゆっくりと楽しんでお読みください。
そして、多くのご親類の諏訪族青木氏や武田氏系青木氏などの人の投稿もありますのでお読みください。青木氏のことが良く判ると思います。

ご質問等有りましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


  [No.285] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:05:11

Re: 土佐の青木氏
青木(いごっそう)さん 2007/03/15 (木) 06:35
早速の返信、ありがとうございます。
記憶では武田菱紋だったはずなのですが、実家に帰った際に確認いたします。

またお邪魔させていただきますのでよろしくお願いいたします。


  [No.286] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:06:20

Re: 土佐の青木氏
青木(いごっそう)さん 2007/04/08 (日) 21:40
ご無沙汰をしております。
土佐の青木です。
先日はありがとうございました。
副管理人様のレポートは楽しく読ませていただいております。

さて、追加情報が入りましたので追記いたします。

1.以前実家は神道と記載しておりましたが、どうやら江戸時代に改宗したようです。
仏教とのことですが、残念ながら資料が残っておりませんので詳細は不明です。

2.現在四万十町(旧窪川町)に実家がありますが、以前は現在の土佐市に居を構えていたようです。
土佐藩時代に旧窪川町近辺では「3町開けば土地を与え苗字、帯刀を許す制度」があったとのことですので、その際に開墾に着手し、地主となり名字帯刀を許されたと推測します。

3.町史にのこる先祖は最古で文政。

以上の点が判明致しました。

現在も土佐市には青木という地名がありますので次はそちらの方向から調べてみたいと思います。

余談ですが、子供の頃金属製で三つ折りの腕輪のようなものを見つけた記憶があります。
唐草模様のような紋様が刻まれ、中央には七色に光る菱形の白い石がはめ込まれていました。
何かご存知の方がいらっしゃれば情報をお願いいたします。

長文失礼致しました。


  [No.287] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:07:36

Re: 土佐の青木氏
副管理人さん 2007/04/09 (月) 09:39

土佐の青木さん 今日は。
お久しぶりです。

ルーツをおしらべになったのですね。

そこで参考に、この土佐には須崎という所があり、この須崎には青木町というところがあります。
四国には阿波(徳島 剣片喰紋 五瓜に剣片喰紋)と讃岐(香川 下がり藤に結び雁金紋)に平安期から藤原秀郷流青木氏が定住しています。
そして、この讃岐の青木さんの一族が土佐に移り一つの村を形成しました。

阿波と讃岐には藤原秀郷一族の者が守護として朝廷の命で赴任しましたので、当然に護衛役の藤原秀郷流青木氏の一門も同行しました。
そして、鎌倉幕府樹立により藤原秀郷一門全てが改易となり一部本家筋は武蔵に帰りましたが一部が残りました。
この残存した藤原秀郷の宗家筋と護衛役の同門の青木氏が奮起して土地で根好き力を発揮して大勢力を保持し、阿波と讃岐の一族は力をあわせて廻船業などの大豪商を営みました。
その時に讃岐の藤原秀郷宗家(讃岐の藤氏という)も大勢力を持ちこの一門と秀郷流青木氏とが組んで土佐に勢力を伸ばしました。大豪商としても「2足の草鞋策」で讃岐や阿波は勿論の事として一族の青木村を形成するまでになりました。
これが、土佐の須崎の青木町です。
したがって、土佐の青木町と讃岐の青木町と阿波の青木町には藤原秀郷流青木氏が存在します。

この事は研究室の讃岐の青木さんや阿波の青木さんの所の投稿レポートを参照して下さい。
更に、この3つの青木町に関して地名地形データーベースや青木地名地図でも検索してください。レポートしています。

そこで、御家は菱紋であるとしますので、この藤原秀郷流青木ではありませんので、ここの青木氏では有りません。

御家は土佐で開墾して地主となったと推測されていますし、甲斐の武田氏系青木氏が信長に滅ぼされて一族が逃げ延びた先が土佐であったと見られます。
殆どは甲斐の武田氏系青木氏の皇族賜姓青木氏一門は藤原秀郷流青木氏を頼って、その青木氏の縁故を頼りに武田氏系青木氏は横浜神奈川から栃木に逃げ延びました。

御家の菱紋の武田氏系青木氏は土佐方向に逃げ延びたと考えられます。

当時は、「国抜け」といって他国を通過して自由に一団と個人がテレビドラマのように移動できる事は出来ませんでしたので、移動できるときと言えばこの信長の戦乱期だけでした。

実は埼玉を中心とする藤原秀郷一門が住んでいた所には信長は勢力が及びませんでした。(秀吉が後に征圧しました。)また、土佐もこの時は長曾部盛親一族の勢力範囲であり、まだ勢力圏外であったのでこの四国の藤原一門の青木氏を頼って逃げ延びたと見られます。
そして、一族が力をあわせて開墾して地主となったと見られます。

山内氏になる前からこの土地には開墾すると土地を与えられて郷士になれました。そして、この郷士同士が連携して一つの集団(シンジケート)を形成していました。
山之内氏もこの者らの力を生かすために尚奨励したのです。
土佐の坂本竜馬もこの郷士族です。

御家はこの歴史的経緯を経たものと思います。

「手環」(てわか)と言って昔これ等のシンジケートの者達が互いの目印として又は会員としてのしるしとして持っていたといわれています。
このシンジケートは各地にもあり伊勢のシンジケートや九度山のシンジケートや尾張の若宮シンジケートなど大豪商が生まれる所には必ずありました。

例えば、楠木政成が新田義貞の10万の軍に3000で立ち向かい勝つたのです。
これはこの九度山の伊勢から関西圏に及ぶシンジケートが後ろを後押ししていた事から買ったのです。この時、このシンジケートは伊勢青木氏が支配する伊勢シンジケートが動いたとされています。
歴史史実の小説「名張の小太郎」などの小説などにもこれらが詳しく書かれています。

他に、信長は鉄砲をいち早く入手できたのも秀吉の仲介でこの尾張の若宮シンジケートが堺のシンジケートに働きかけて3000もの獲得が出来たのです。

でなければ、この時代はその利権と護るためには、その勢力を護り大商いは絶対に出来ませんでした。又、土地の守護であればその産物の処理なども手がけていましたから武力と共に条件が備わっていたのです。だから直ぐに出来ることでした。

多分御家はこの讃岐の青木さんシンジケートに護られて土佐に逃げ延びて子孫を繁栄させたと思われます。他国で生きようとすると昔は今のように自由はありませんでした。

以上、土佐における史料としてお知らせしますので参考にしてください。

また何か有りましたらお知らせください。お待ちしています。


  [No.288] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:08:46

Re: 土佐の青木氏
青木(いごっそう)さん 2007/04/11 (水) 02:14
早速の返信ありがとうございます。
いつもながら副管理人様の知識量には驚かされます。

さて、私の先祖が居た土地は高知県土佐市高岡町なのですが、こちらにも青木町があります。
この辺りは青木という名前の商店が多く、青木一族の集落であった可能性が高いと思われます。
副管理人様のレポートによりますと賜姓青木氏が四国に赴任したとの史実は無いとのことなので、やはり藤原一門の青木氏の集落だったのでしょうか。

しかし、そこに甲斐の国から逃げてきたとなると、信長の勢力圏を通過しなければならないはずなので、私の先祖はかなりの勇気の持ち主であったのかも知れませんね(笑)


このHPと出会えたおかげで自分のルーツを辿るということの楽しさに目覚めました。
ただ通り過ぎるだけだった土地、たまたま自分と同じ姓の商店など、意識しなければ見落としてしまうような先祖の繋がりを認識させていただき、管理人様と副管理人様にはとても感謝しております。
今更ではありますが、御礼申し上げます。

また我が家のルーツを調べていくつもりですので、結果が分かり次第こちらに書き込ませていただきます。
私の調べた結果が他の青木家の方々のルーツを辿る一助になれば幸いです。


  [No.289] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:09:55

Re: 土佐の青木氏
副管理人さん 2007/04/11 (水) 09:27
今日は。土佐の青木さん。早速のご返事と御礼ありがとうご在ます。

おっしゃる通りです。
おしゃることがご先祖に省みる心をはぐくみ感謝していることではないかと思います。
全く同感です。
一助に成れてありがく思います。
これからもどうぞ同じ青木さん同士コミニュケ−ション致しましょう。
それが同じ先祖を持つ供養でだと思います。

さて、高岡町に青木町があるとは知りませんでした。大変貴重な情報です。
早速、データーベースに追記させていただきます。
このことで須崎以外に四国の青木氏の活動具合がひろがってきました。

5家5流24氏の定住地は皇族賜姓族というその家柄から限定されており分布が史実の箇所に限定されておりまして、これが子孫を大きく広げられなかったという原因にもなっています。
下克上や戦国乱世で敵のように大分つぶされましたし、家柄上自由に移動できませんでした。

鈴木氏や藤原秀郷一門との戦略上の違いで起こった現象ですね。(「鈴木氏のルーツと青木氏」のレポート参照して下さい。)

御家の逃走経路は史実上判っています。
ご指摘のように信長の勢力圏を通過する事は出来ませんでした。
ところが、この信長の勢力圏には落とし穴があったのです。
この落とし穴を最後秀吉が潰したのです。

信長は甲斐の北側はまだ勢力圏には成っていなかったのです。
上杉謙信の勢力圏で、甲斐の北側の信濃を通り越中から越前、若狭、丹波から播磨、美作の経路を経ています。つまり、この経路の若狭行きまではの地域は5家5流の24氏支流の分布地域なのです。
これを頼っています。そして丹波と播磨と摂津は近江青木氏が定住地域です。ここを頼っています。

次に美作は足利本家が分家(藤原秀郷の後押し)との本家争いに負けて逃げ延びてここに青木村を形成して定住しました。この地域には前回のレポートでも書きましたが、讃岐の藤原秀郷流青木氏が大勢力を持っていたところです。「2足の草鞋」で瀬戸内海を牛耳る大廻船問屋の大豪商の勢力圏です。「讃岐の藤氏」の言葉有名です。明治時代まで続いています。
摂津より西側の海に出ればもう絶対に安心です。

信長の欠点は史実上、この日本海側の国と瀬戸内海の海に弱かったのです。秀吉もこの国を押さえるのに大変な時間と苦労をし過ぎて基盤を築けずに滅びたのです。
家康はこの域を勢力圏に入れる時間がおおくとっていたので天下取りを遅らしたのです。

前回のレポートでも書きましたが、賜姓青木氏と藤原秀郷流青木氏には2足の草鞋でシンジケートを持っていたのです。これも信長の欠点でした。(この反省から家来の榊原氏を配置して家康はこの点に力を注いだのです)
だから信長が死んだときには家康は堺にいましたが、このシンジケートに助けられて三河に逃げられたのです。
このシンジケートの存在なのです。
古い伝統と家柄を持つ氏は下克上と戦国で滅びましたが、遠縁の縁故を頼りに生残るためにこのシンジケートに入り一員として働きながら庄屋や地主や郷氏や郷士や名主などになって一族を守ったのです。
この様な背後の力がなくては到底他国では大勢の一族は生きて行けません。
当然に逃亡してくる事も出来ません。
5家5流の青木氏と藤原秀郷流青木氏の存在するところには必ずこのシンジケートが形成されていました。
尾張や駿河では今宮シンジケートがありこの総取締りは今宮神社の宮司でした。
関西では特に紀州では雑賀根来シンジケートがありました。

伊勢にもこの様なシステムが働いていました。
伊勢の大豪商の青木長兵衛(紙問屋 紙屋長兵衛)は小説や歌舞伎やNHKの大河ドラマにも3度も出てきた程に有名で、2足の草鞋策で明治35年まで950年間の大店を維持してきました。
この豪商を元締めとする伊勢シンジケートです。
全て、これ等のシンジケートは堺と攝津等の5大豪商町に繋がっていました。

これを通過するには「手環」(てわか)という「鑑札保証札」があったと書かれています。

多分、御家もこのこの藤原秀郷流一門の讃岐の藤氏と青木氏の「讃岐シンジケート」に護られて資金源を裏打ちされて、土佐で、一族で土地を開墾して地主までになれたものと思います。

この讃岐シンジケートと土佐の土地の豪族との戦いも記録されていますが、讃岐シンジケートが勝っています。この様にシンジケートの勢力を広げて言ったのでしょう。

時代的には同じ頃ですので、調べて行くと大きな集団の御家の一族を守るために通過点の反対豪族を潰したと見る事もできますね。

実は御家のようなこの皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一門青木氏とは母方で全て繋がっているのです。

当時は血縁は家柄身分での仕来りでおこないました。この二つの家柄身分は一致しますので同族結婚のような血縁に成ります。
だから禁令の青木氏を名乗ることを朝廷は特別に藤原秀郷に許したのです。

「讃岐の青木さん」にこの詳しい事が書かれていますので、研究室の検索で調べてお読みください。

この様に調べていくと面白い史実が出てきます。
先祖の苦労が働き具合がよくわかりますね。

又、何かわかりましたらお便りください。お待ちしています。


  [No.290] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:15:28

Re: 土佐の青木氏
青木(いごっそう)さん 2007/05/06 (日) 04:42
ご無沙汰をしております。
青木(いごっそう)です。
GWにやっと実家に帰ることができまして、色々と調べてきましたのでご報告まで。

一、我が家の家紋ですが、丸付きの割菱紋でありました。

ニ、我が家の祖先が記述した年譜差出書の内容を知ることができましたので以下に記述します。


年譜差出書
青木栄三郎

高岡村百姓
忠左衛門
一、実子平次兵衛儀御詮議之上同村老役被召出寛保三亥年〜昭和元申年迠(まで)勤役仕候

平次郎実子
権八
一、昭和元申年〜寛政元酉年二十六ヵ年相勤申候勤役之内波川村ニ而盗賊生捕戌九月被呼出之上御目付方において厚御褒詞被仰付候。
  勤役之内総領茂十郎儀寛政丑年御詮議之上上甲原村庄屋役被仰付候。

権八二男
青木林兵衛
一、文政五午年御詮議之上仁井田窪川両郷散田芝開発被仰付候。苗字帯刀御免之上彼地罷越即年御裏判頂戴仕同六未年開発成就同二月新規郷士職被召出同十亥年林兵衛病死仕候。

実子総領
青木栄三郎
  同十月七日跡式無相違被仰付候。
一、文政十二巳年十二月異船渡来ニ相成早速与津浦昼夜相詰候訳ヲ以テ天保三寅年十二月御呼出之上重キ御褒被仰付之。
一、嘉永元申年七月異船渡来ニ付ハ多郡稲荷村罷越之訳ヲ以同六丑年三月廿三日御目附方御呼出之上重御褒詞被仰付之。
一、嘉永度諸郡御取分相成候砌須崎御郡奉行所附属被仰付之節実子総領覚作代勤奉願安政六未二月御聞届被仰付之。
一、同十一月仁井田窪川両郷剱術相手役被仰付之勤役仕候。
一、慶応三卯年窪川  山内主膳殿御立越ニ相成  附属被仰付其砌両郷剱術相手役被仰付之。
一、慶應四辰六月刺潮隊ヲ以西原へ御臨時御用被仰付七月五日出足仕罷越之処同九月十九日東京御差立被仰付之道筋〜斥候ヲ以罷通申候。
一、明治二巳五月十九日御用済ヲ以帰国仕候。
一、右隊無異議御免被仰付候。
一、明治三年三月廿八日異星隊第二小隊銃手被仰付之。
  右之通ニ御座候間為御届如此御座候。 已上
   明治三年十月
青木栄三郎

資料に誤植があるようで所々おかしなところがありますが、このような内容でありました。

また、開発にあたり冥加銀一貫目を土佐藩に納めたとありました。

三、同じ町内には青木姓は非常に少なく、3〜4件です。
町の歴史を見てみましたが上記以外に青木姓のつく人物は出てきません。


さて、我が家の家紋は『丸付き』割菱紋でありましたが、これは第三の青木氏が勝手に使用したものでしょうか?それとも変紋したのでしょうか?
気になるのは権八の代に盗賊を捕らえ、『総領』茂十郎が上甲原村の庄屋を仰せつかったと言う点ですね。
忠左衛門、平次郎(平次兵衛?)、権八に総領という表記はありませんでしたし、林兵衛は二男との表記がありますので分家ということでしょうか?
ご意見を伺いたく、お願いいたします。


  [No.291] Re: 土佐の青木氏
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/01/21(Wed) 14:16:34

Re: 土佐の青木氏
副管理人さん 2007/05/06 (日) 10:59
さて、我が家の家紋は『丸付き』割菱紋でありましたが、これは第三の青木氏が勝手に使用したものでしょうか?それとも変紋したのでしょうか?
気になるのは権八の代に盗賊を捕らえ、『総領』茂十郎が上甲原村の庄屋を仰せつかったと言う点ですね。
忠左衛門、平次郎(平次兵衛?)、権八に総領という表記はありませんでしたし、林兵衛は二男との表記がありますので分家ということでしょうか?
ご意見を伺いたく、お願いいたします。

今日は。お久しぶりです。
お調べになって、詳しく情報を収集されましたね。
大変でしたでしょう。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが、私の考えをお答えします。

その前に重要と思われる情報をまとめますと、次の様に成りますね。

以前の情報に加えて次の情報が出てきました。この情報は以前にもありましたが、より詳しくなっていますので大変重要な情報が含んでいます。

実子平次兵衛の方が「老役」に任じられている事。
総領茂十郎さんが「庄屋」に任じられている事。
林兵衛さんが「郷士」に任じられている事。

左衛門、兵衛、の官職名を称している事。

割り菱紋に丸付き紋である事。(割り菱紋は家紋掲示板の1Pに掲示しています)

先ず、「村の老役」ですが、この様な役どころに任じられるには、当時はそれなりの「家柄、身分」が必要で誰でもその役に任じることはしませんでした。
江戸時代では百姓でも、元は武士であり、それなりの村の人を導く力を保持している人であつた者を選出します。

「村の老役」や「庄屋」や「名主」や「豪農」等は大抵は元武士ですし、「郷氏や郷士」でした。

御家は又はご本家筋は、真にこの「村の老役」や「庄屋」や「郷士」に任じられていますので、その力があったことを意味します。
その証拠に、普通の百姓では当時はこの「左衛門、兵衛」の官職名を使いません。

このことに付いては、「青木氏の官位と官職の研究」のレポートでも書いていますのでご参照ください。

この官職の名は明治以降は、誰でもが「通称名」として用いるように成りましたが、江戸より前はある程度の家柄の者が官職名と通称名を併用していました。

例えば、芝居で有名な大岡左衛門尉越前守忠考とありますと、左衛門尉は朝廷よりの官職で江戸では金品を渡して名誉職として受ける名で、越前守は守護職で江戸幕府の職位で後には誰でもが金品のある者が名誉職を取得しました。
忠考は俗名で通称名です。

依って、御家はそれなりの格式のある氏であったことがいえます。その最たることとして「郷士」の身分が物語ります。

平安、鎌倉から格式ある武士の身分であった氏が鎌倉幕府の樹立や下克上や戦国の乱世で落ち延びて武士を捨ててひっそりと暮らし、江戸時代の身分制度の確立で百姓などになった一族が、それなりの力を利用して土地の豪農者として生き延びて「郷士」となり「村の三役」等になったものです。
特に土佐では代々の藩主がこの「郷士」を厚遇してまとめました。

ここまで少なくとも、それなりの身分と家柄の元武士であったことがいえます。第3の青木氏では無い事を意味します。先ず絶対にと言っていいほどに普通の者はこの様な「村の三役」には成りえません。

次に、この「丸付き割り菱紋」のことですが、先ず「割り菱紋」の紋は武田氏の「武田菱紋」の一つですが、この家紋は同じく支流分家筋に当ります。
武田氏3家紋の「菱紋」「花菱紋(唐花紋)」「割り菱紋」の一つです。

ところが、ここで一つ問題があります。
この武田氏3家紋は「丸付き紋」を使用していないのです。

普通一般に、藤原氏や青木氏や源氏や武田氏や土岐氏、など高位で古い家柄の氏は、この丸付き紋は使用せずに副紋か同文様の一部細工で子孫末裔の家紋を定めていました。
丸付き紋を直接家紋にする習慣は室町末期と江戸初期と明治初期の第3氏の発生時期に相当します。

つまり、もとより丸付き紋であることは新しい氏の家紋の可能性がある事を意味します。

依って、この家紋に丸付き紋がある場合はよほど特別な事情がある場合を除いて偽の第3氏のものと成ります。

そこで、この「丸付き紋」に成るには普通は家紋掟によりは四つの定義があります。

一つは、宗家が一族の者が分家するときに与える家紋として丸付き紋を使用しました。
但し、この場合は嫡子外の本妻子でなく妾腹子である場合に宗家又は本家が使用を許します。

次に、止む無く養子をとり次の嫡子が出来るまでの間の家紋として丸付き紋を使用します。
この場合は、次に嫡子が生まれなかったとき、つまり、女系になったので養子先の家紋に変紋を余儀なくされます。この場合は嫡子が生まれると元に戻ります。戻らないときは養子先の本家の許可を取り養子先の家紋か丸付き紋に成ります。

宗家外での同紋の分家筋の本妻で、子供でも嫡子外に、丸付き紋を与える場合は、縁者より養子を入れたる場合は宗家は丸付き紋を許す事になります。

それと、最後に氏外の者が無断で家紋を使用する場合は遠慮した場合には「丸付き紋」にする事に成ります。(第3の氏です)また、

そこで、この内、どれに相当するのかと言うことです。
武田氏は丸付き紋を原則使用していないのでのですが、武田系青木氏は皇族賜姓青木氏から変紋でやむなく武田系に入った賜姓族ですから、純然たる武田氏一族では有りません。
綜紋は源氏と同様に青木氏で「笹竜胆紋」を持つ皇族氏です。

従って、「割れ菱紋」に丸付き紋になった理由としては一番目と三番目の変紋が考えられます。
そこで、「村の三役」等の情報や前回のお便りから考えると、一番目が理由と見られます。

多分、室町期の戦乱で嫡子が少なくなっときに家氏を絶やす事を防ぐ為にとったものと思います。

信長に追われて四国に逃げ延びた故に一族の多く居ない四国内での青木氏一族の家紋掟で起こった変紋と推理します。

御家のご先祖に何かが、「特別な事情」として室町末期か江戸初期にこの時におこっていたと考えられます。
これに関係する情報を掴めば確定すると思います。

次に次男、三男が家を継ぐ場合の件ですが、必ずしも長男が家を継ぐと云うことではありません。

継ぐのは「氏家制度」では「嫡子」です。「嫡子」は家を継ぐに相応しい者が継ぐ事を意味します。
長男でもこれに相応しくない場合は次男三男や、場合に依っては妾腹子の者が継ぐ場合もあります。

長男となったのは江戸中期からの安定期からで、それに相応しくなくても安定期であるので特に問題がなければ誰でもが良いわけです。

長男が死ぬと家を護るために次男が嫡子になる事もありました。

室町後半(1580)から四国に来たわけですから、江戸時代(1603)の中ごろまで(1750)には150年程度ですから3代程度の事に成りますので子孫は、この間だと大きく広がっていません。

ですから、特に四国に逃げてきた御家の場合には、周囲には親族が少ないので縁者から養子を取るなどが出来ません。
まして当時は子供が全部育つと言う時代では有りません。
逃避行中には死亡する事も当時では充分にありえました。

そこで、次男、三男が嫡子になる可能性が強い事に成ります。
特に御家の場合のご先祖では長男と拘ることはないと考えます。

結論としては、変紋とする事の理由の方が、第3の青木氏に比較にならないほどに確率高く成ります。
今までの情報と考え合わせますと「変紋」と言うことに成りますが、割り菱紋への変紋は四国と言う事ではなく、甲斐時代での変紋の血縁と言う事に成ります。

つまり、当時の江戸期の「国抜け」の掟と慣習では、四国で変紋になった可能性と、又は四国に殆ど少ない割り菱紋の一族との血縁した可能性は少なく時代も子孫数も多くないと考えます。

そこで、次は「丸付き紋」になった時代が土佐か甲斐かの問題と見ます。
ここには、何かあると思います。

推測ですが、信長に敗北して長距離の逃避行の四国に逃げ延びてきた直後の期間に嫡子を失った可能性が大と見ます。そこでやむなく丸付き紋とした可能性が大であります。
この状況は戦死者の多い戦国時代には多かったのです。

現代の「丸付き割り菱紋」の四国での変紋が無い事は、明治まで男系で来られたことを意味しますので御家のご先祖の一番苦しい時代に起こったと云う事に成ります。
多分、「逃避行」と思いますが、先ずは1580年前後の頃と見ます。

一度この線でお調べになると何か出て来る可能性が高いとみます。

念の為に、室町後期や江戸初期のこの第3氏は、例えば青木氏であれば5家5流の24氏の土地の者が、第3の青木氏を名乗っていることが傾向として殆どで多いのです。藤原氏と藤原秀郷流青木氏も同様です。
明治初期は一般の者の移動が自由になつたので何処でも起こりました。しかし、元を正せばよく知った土地の者でした。

四国では、明治前の2期では讃岐籐氏の勢力が強かったので統制されていて第3青木氏は少なく、明治以降で阿波、讃岐に存在します。

又何か情報がつかめましたら、お伝え下さい。