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  [No.483] 私も青木ではないのですが
     投稿者:祖父の旧姓が近藤   投稿日:2009/05/05(Tue) 17:07:51

管理人様 はじめまして。

祖父の実家の近藤家のルーツを調べているうちに、このサイトに巡り会いました。

さて、近藤家は明治時代私の高祖父の代に、和歌山から大阪泉州に出てきました。高祖父も曾祖父も存命中は、家の表札には

「士族」と掲げ、また腰には帯刀していたこともあったようです。曾祖父と地元の農民の娘の間に生まれたのが、祖父です。

昭和40年代前半に、私の親父とその従兄弟が高祖父の壬申戸籍の謄本を、和歌山市役所から交付を受けました。そこには、

「士族 近藤某」と高祖父の名前が記載されていたということです。現在その謄本は紛失してありません。

多分、紀州藩士であったことは、間違いようです。また、私の大叔父は「足軽ではなく、れっきとした武士やった。」と言って

た記憶があります。近藤家の家紋は、上り藤紋です。和歌山での寺や宗派はわかりません。

この近藤家のルーツは、「藤原秀郷流」なのでしょうか。

祖父も大叔父も親父も今は亡く、是非とも皆様のお知恵をお借りしたく投稿しました。大変場違いかと存知ますが、宜しく

お願いします。


  [No.484] Re: 私も青木ではないのですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/05/05(Tue) 20:23:30

実家の近藤さん 今日は。始めまして。
お家の名前はメールで判りますが、敢えて伏せます。

この青木サイトに良くお越し頂きました。
これからも宜しくお願いします。

さて、お便りを拝見さして頂きましたが、残念ながら、青木氏を専門として居りますので充分にお答えする事が出来ません。

しかしながら、折角のご訪問ですので、可能な範囲でお答えします。

明治期の身分に「士族」と書かれていた事、家紋は「上り藤紋」、「紀州徳川家家臣」の三つと思います。
情報が新しいので確定は困難ですが、兎も角、この情報で推測検証します。

ルーツの確定は少なくとも江戸中期前の情報が必要です。これは時代が大きく変化してその情報の真偽が確定出来ないのです。

そこで、先ず、近藤氏の由来をお答えします。
近藤氏は元は藤原氏です。ところが藤原氏は奈良時代から鎌倉時代まで最も栄えた氏です。
その藤原氏は平安初期に内部で勢力争いが起こり、結局、北家一族が勝利し、他の南家、式家、京家は潰されました。子孫を遺す事が出来ませんでした。

この北家一族が摂関家として政治権力を握りました。この北家一族の中でも、藤原秀郷一門が最も繁栄しました。この「藤原秀郷」は「平の将門の乱」で勲功をあげましたので、下野の地と他には武蔵国を領国として与えられました。同時に貴族の身分を獲得しました。これは5年以上も乱を平定する者がいなかったために朝廷が困っていました。そこへこの条件を出していましたので平定後これを与えました。この時、平の貞盛も共に戦いました。この5代後が「平の清盛」です。

この時、この藤原秀郷は藤原氏の家紋の「下がり藤紋」を引き継ぎましたが、他の藤原氏は下がりは縁起が悪いとして、上り藤紋に変紋しました。下がり藤紋を強引に引き継いだのは秀郷一門9氏だけです。

その内、一門一族の主要5氏として、青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏があります。
この主要5氏は「下がり藤紋」の一族です。

そこで、お家は「上り藤紋」ですので、藤原秀郷一門では有りません。

次に近藤氏の姓は近江の藤原氏です。
各地に、朝廷の命で赴任して、赴任地で子孫を遺してきましたが、近江にも子孫を遺しましたが、各地の藤原氏が多い事により間違いが起こる為に地名を藤の前につけて呼ぶ事に成りました。
また、朝廷の役職を藤の前につけて呼ぶこともしました。
特に「上り藤紋」の家柄では原則としてこの役職名をつけた氏名としました。 
工藤氏、斎藤氏、加藤氏等沢山あります。

元々は朝廷の政治機構は「3蔵」と云って「大蔵」、「内蔵」、「斎蔵」です。
この内、藤原氏はこの斎蔵です。
朝廷の祭事を役職とする官僚です。「大蔵」は朝廷の財務、「内蔵」は天皇家の財務を担いました。
この蔵の二つは平氏(たいら族)の先祖の中国の後漢国の王の帰化人の阿多倍王の一族が担いました。
朝廷軍もこの一族が担いました。
天皇家の軍の近衛軍は青木氏です。天皇の第6位皇子(5家5流の青木氏)と藤原秀郷流青木氏(第2の宗家)がこれを担いました。

「斎蔵」は財務以外の朝廷の事務仕事と言う事です。

次ぎに家紋ですが、疑問があります。
各地の秀郷一門以外の北家の藤原氏は家紋を「上り藤紋」としたのは97家の中7家だけです。
更に、「上り藤紋」の変紋として使用したのは27あります。
江戸時代には、この藤紋を使った旗本は170紋にも成ります。

近藤氏は藤原秀郷一門の氏ですが、お家は「下がり藤紋」のところ「上り藤紋」です。矛盾があります。

更に、たった7家しか無い「上り藤紋」ですが、普通はこれは本家筋が引く継ぐ家紋で綜紋と云います。
綜紋とは一門一族代表する紋の事です。
最大勢力を誇った北家の斎藤氏でさえ本家は上り藤紋では有りませんで、梅鉢紋です。
藤原氏系藤紋97の内たった7氏でこれは全て宗家です。
お家が宗家と言う事に成ってしまいます
170ー97=73は藤原氏とは関係の無い氏です。

和歌山の藤原氏は秀郷一門の「下がり藤紋」の和歌山の元祖の「藤原脩俊」です。
吉備当りに定住していました。吉備脩俊と呼ばれていました。
藤原氏に史実としてこの人物は出てきます。
後にこれ等の子孫は紀州藩に仕官したとされています。
このことも矛盾しています。

更に、問題なのは和歌山の藤原氏系の近藤氏が宗家と言う事に成り、尾張からは以北下野当りに現在も存在する宗家と場所的に異なっています。

この「4つの矛盾」を一つにするにはどのように解決するかに懸かっています。
これでは検証の確定は困難です。

藤原氏そのものを名乗れる氏は総宗本家1家だけですが、藤原氏をそのものを名乗る姓が全国に如何に多いか感じたことがありませんか。

実は、ただ一つ解決できる史実があるのですが、その前にこれ等4つの矛盾を解決する情報が他にありませんか。江戸中期以前の物とか何かありませんでしょうか。

疑問としては、仮に、上り藤紋の綜紋を使っている宗家、本家筋ともなるとすれば何かあるはずですが。
又、菩提寺、宗派、守護神が判らないという事は宗家、本家として、又藤原氏としては考えられません。
藤原氏は独自の菩提寺と特定の宗派と独自の守護神を持つ事を許された家柄で、現在に於いても宗家本家筋はこれを維持しています。それが宗家本家の主目的です。
お調べください。

その解決方法はお便りをお待ちして後とします。

では、お便りをお待ちしています。