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  [No.648] 分かりましたら御教授願います。
     投稿者:セキグチ   投稿日:2009/10/27(Tue) 23:27:34

初めまして。
関口と申します。
家紋を調べていて、こちらに辿り着きました。秀郷流藤原氏の研究、楽しく読ませて頂きました。
現在、自分で我が家のルーツを調べているのですが、今一つ要領を得ません。氏と家紋から、恐らくは秀郷流藤原氏ではないか、と考えているのですが、もし此方で分かる事があれば、御教授頂けたら幸いです。以下に現在分かっている事を挙げます。

・先祖代々、現在まで群馬県勢多郡富士見村(現前橋市)に居住。
・姓は関口、家紋は下がり藤(丸は付かない)、宗派は天台宗。
・代々の菩提寺は和銅年間に勝道上人によって開かれた石井山珊瑚寺。上州七福神の一つで恵比寿天を奉ずる。元は禅宗の寺であったが、後に天台宗に。鎌倉期には尼寺であった。先祖にはこの寺の住職であった者も居る。但し、寺の紋は下がり藤ではない。
・同地域には関口姓が二系統あるが、もう一つの系統については、詳細が分からない。
・元は豪農で、かなり離れた最寄りの駅まで、他人の土地を踏まずに行けたらしい。
・実家の入り口には馬頭観音を奉った碑があり、実家裏には伊豆三島大社を奉っている(珊瑚寺とは恵比寿天繋がりか?)。
・祖母は村田氏で武家らしい。確認はしていないが、祖母の祖父は髷を結い、家のなげしには槍を架けていたと聞いた事がある。
・先祖代々の墓地を整理した際、古い墓石に藤原の文字があったと母が言っていた。

父の代で群馬から静岡に出た為、思うように調べられませんが、以上が幼い頃に聞いた話や、冠婚葬祭で実家に帰省した際に見たり聞いたりした話です。特に、母が見たと言う墓石の文字から、秀郷流藤原氏を疑い調べた処、佐野氏の支流に関口三郎を名乗った、佐野時綱と言う人物を見つけたのですが、佐野氏の家紋は左三つ巴、若しくは揚羽蝶で、その支流が本流筋の下がり藤紋を使う訳が無いですよね。私の知らない他の可能性もありましたらば、と考えて、書き込ませて頂きました。宜しくお願い致します。


  [No.652] Re:分かりましたら御教授願います。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/29(Thu) 11:00:04

関口さん 今日は。始めまして。
ようこそ青木サイトに御越し頂きました。全国の青木氏が集う歴史などで一時を楽しむサイトです。
当サイトには青木氏とその関連する氏の内容に付いてレポートしています。
これからも本サイトをよろしくお付き合い願います。

さて、お尋ねですが、関口氏の歴史的なことに付いては良く判りません。
しかし、折角お越し頂いてのお尋ねですので、青木氏を調べて知りえた知識でお答えしたいと思います。
お尋ねは、藤原秀郷一門ではないかとのものと考えます。
そこで、既に藤原秀郷流青木氏関連のレポートを多少お読みに成っているとしてのお答えとします。
未だお読みに成っていないところが有りましたら、都度お調べに成るかお尋ねください。
このお答えはREでお願いします。関口さんの専用投稿欄とします。

本文に入ります。
関口氏には5つの流れがあります。
一つ目は明治期の苗字令による発祥第3氏です。この氏は家紋を五山桐紋としています。
2つ目は美濃足利氏系関口氏で、清和源氏支流です。家紋は二引両紋です。
3つ目はその支流の木瓜紋です。
4つ目はその支流の一文字紋です。(江戸初期の未勘氏と観られます)
5つ目は秀郷傍系の関口氏です。(江戸期の未勘氏と観られます)

当サイトでは足利氏系青木氏がある処からの関連氏の調査で把握した結果の知識ですが、2番目の美濃の足利系の傍流支流の関口氏がこの関口氏の本流である事が判っています。しかし、家紋が綜紋の二引両紋とあるのは多少疑問です。関口氏が出ている事は確実ですが。

足利氏は元よりそのルーツは藤原秀郷一門の十二人の者が鎮守府将軍として陸奥に赴任した時に、その土地の土豪の花房氏と血縁して発祥した秀郷流花房氏で、秀郷一門が美濃に赴任地代えで護衛団として秀郷流青木氏と共に先ず武蔵に戻り足利に赴任しました。
そこでこの花房氏が定住し、力を付けて土豪となり足利の地名から土豪足利氏を名乗りました。
其処に、秀郷一門からこの土豪足利氏に対して発言権を増す為に、余り従わなかった血縁族の土豪足利氏の本家に対して、絶えた分家に一門から跡目を入れて分家を興し、後押しをして本家に対抗させ、この本家と決戦をして本家の土豪足利氏を追い払いました。この土豪足利氏は日本海沿岸路を伝わり米子、八頭に逃げ延びて末裔を遺しました。この時、この足利氏と土地の守護王で聖武天皇第6位皇子の賜姓青木氏との血縁族の足利系青木氏の一部も土豪足利氏と同行しました。
信濃には秀郷一門の跡目を入れたこの分家筋を本家として立て、足利氏を名乗りました。後に清和源氏と血縁をして足利氏が繁栄しました。この足利氏の室町幕府後、その第3支流として関口氏を名乗ったとされています。多分傍系であろうと考えています。
この秀郷一門の血筋を色濃く持つ足利系支流関口氏は一門分けで江戸初期に秀郷流関口氏を名乗ったと観られています。
その秀郷一門の秀郷流関口氏と言われる元は、秀郷一門の足利氏は「成行」を始祖とします。
その成行の孫の成俊が佐野氏の始祖と成ります。
成行の孫(成俊の弟)の足利の有綱の子供の基綱が佐野氏の元祖と成ります。
依って、秀郷一門の成行の足利氏は曾孫で佐野氏と成りますので、この秀郷流関口氏は佐野氏系とも言える事になるのです。

しかし、秀郷一門の主要5氏から本筋24氏となり第2支流の最終351氏となった一門から更に外れたところの傍系支流であります。
この佐野氏系関口氏と云われている氏は秀郷一門で確証される現存するこの351氏の中にはありません。

恐らくは、足利系の関口氏のルーツからのその一部がその経緯から読み佐野氏系として後に江戸期初期の頃に名乗った未勘氏であろうと考えられます。
この風潮は3期に起こっています。
第1期は室町末期の戦国混乱期、第2期は江戸初期の混乱期で最も氏を搾取偏纂して氏を発祥させた時期、第3期は明治初期の3年の苗字令と8年の督促令にて氏を持たない市民が名乗った時期の3つに成ります。夫々内容が異なります。

関口氏はこの江戸初期の家柄身分を重んじる風潮の最も盛んな時期に藤原秀郷一門の佐野氏を搾取偏纂して佐野氏の系譜の中にルーツの不明人物を創り上げてそれからの系譜を偏纂したものと観られます。徳川氏も有名な事実として、征夷大将軍の称号と幕府を開く根拠として、朝廷に圧力を掛けてこの系譜を認めさせるように系譜を偏纂した史実があります。豊臣秀吉の系譜も有名ですね。

各地に残されている系譜の殆どはこの搾取偏纂のもので、お調べに成られた史料もこの類ではと思えます。佐野氏の正しい正規系譜上に無い人物を創り上げる常道で別ルーツを繋いでいます。
搾取偏纂のルーツはこれを常道手段としています。

関口さんのお調べに成った佐野氏の時綱なる人物にその末裔が正規に繋がっているかの確認が私には残念ながら取れません。

当然ながら、矛盾点が出てきます。
先ず家紋です。佐野氏の支流を含む家紋群は明確に成っていますので、左三つ巴紋を含む家紋群からは関口氏は出てきません。
又、秀郷一門には家紋に関する掟があり、「下がり藤紋」の綜紋に対して、351氏は副紋方式を採用しています。
まして、下がり藤紋は武蔵入間に現存する藤原秀郷総宗本家とその一族だけが使える護っている家紋です。それを傍系が家紋として使うなど大いなる疑問です。ありえません。
秀郷一門の斎藤氏等もこの綜紋の下がり藤紋は使わず別の紋に成っているのに、支流で傍系が下がり藤紋とは。

後は、藤原氏は本流でもそれに藤紋の中に副紋を入れて使う掟に成っています。
各地24地方の藤原一門の本家筋だけが使える綜紋の副紋方式は正規に全て成っています。
先ずはこのことから観ても未勘氏か第3氏である事が明確に覗えます。
多分、江戸初期の未勘氏であろうと考えます。

恐らくは、次ぎの身分の者であったと考えられます。
庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商の何れかでしょうが、このどれかはお家の情報が有りませんので判断が付きません。
恐らくは大きく土地を持っていたなどの内容から苗字、帯刀、家紋の保持を許されたこの6氏の前の三つのどれかと見られます。
その苗字などの許された相手はこの足利系関口氏の末裔からでは無いかと考えられます。この事は頻繁に行われたのです。

つまり、戦いの時には兵を集めなくてはなりませんが、家臣だけでは兵とはなりません。
そこで農兵をある契約で集めます。この時、足利系関口氏からこの6氏に依頼が来る仕組みに成っています。
そして、戦いの勝利した暁には、この6氏の前の3氏には、契約金、戦利品、褒美等と共に勲功として、苗字、帯刀、家紋の保持が許されたのです。
秀吉はこの農兵制度の禁止を令として発しますが護られませんでした。
恐らくは、足利系関口に配下に入った者であったと観られますから、矛盾点が出るのです。

その典型的な関口氏が在ります。
当初に述べた五三の桐紋です。
この紋は元は天皇の象徴紋です。
ところが天皇家には締め付けにより経済的余裕が有りませんでしたので、秀吉に褒美としてこの五三の桐紋の使用を許しました。そうすると今度は秀吉は自分は五七の桐紋を作り、大名に対しては恩着せがましくこの五三の桐紋の使用を勝手に許しました。例えば秀吉の家臣のその一人として、黒田藩は更にはこの五三の桐紋を家臣に使用を許しました。最後は、その家臣が農兵として参加した者の長に対して褒美でこの五三の桐紋の使用を許したのです。
したがって、北九州にはこの付近にはこの五三の桐紋が多いのです。
特に、ところが明治政府は初期にこの使用を禁止しましたが護られませんでした。
このことは大大名の国で全国的に起こりました。
この五三の桐紋の足利系関口氏の未勘氏はこのルーツなのです。同じく一文字紋も同様です。 
故に関口氏は足利系関口氏が本筋です。

尚、江戸初期頃までの墓石の藤原氏の文字は普通は刻み込みません。
その墓石は明治初期頃から流行った大理石の墓石では有りませんか。
江戸期の墓石は泥岩か砂岩が宗教的仕来りで使用していましたので大理石(御影石)は使用していません。
”人は死ぬと土に帰る河原に石になる”とのたとえ通りにこの様な路傍の河原の石を使用したのです。
これも判定の基準と成ります。

事程左様に、又、宗派も天台宗とありますので、自ら独自の菩提寺を持つ浄土宗寺があるので、藤原秀郷一門の綜紋「下がり藤紋」藤原氏の掟ではありえませんが、宗派と共にこの家紋を使用している事でも上に書いた史実事柄からも明確です。

念のためにご本家菩提寺の過去帳をお調べに成り、その時代の一番古い人とその人の戒名をご覧下さい。一目瞭然に判ります。藤原氏にはある一定の浄土宗の戒名と浄土宗仏壇を持っていますので判別が可能です。ここまでは未勘氏、第3氏は変える事は出来ませんので、調査される事をお勧めします。
何らかの形で遺されていますので。

では、この内容にご不明点並びにご質問がありましたらご遠慮なくお尋ねください。


  [No.653] 有り難うございます。
     投稿者:セキグチ   投稿日:2009/10/29(Thu) 12:59:54

長文での詳細な回答、有り難うございました。
前回記しました通り、父の代で群馬から出てしまった為、後の代の事を考えて調べられる処までは調べてみようと思った次第です。余りややこしい事しないで貰いたいですね、ご先祖様ってば。
一ヶ所、墓石の事ですが、大理石ではなく、神社の欄干に付いている、ギボシを縦に細長くしたような形の物だったみたいです。
実家の近くにある、総本家には何かしら資料があるかと思われますが、私の代で総本家より4〜5代離れており、現在付き合いもないようなので中々難しいですね。
いつになるか分かりませんが、また実家に行く機会があり、新しい事実が分かりましたら、ご相談させて頂く事もあるかと思います。この度は有り難うございました。


  [No.654] 度々申し訳御座いません。
     投稿者:セキグチ   投稿日:2009/10/29(Thu) 19:55:07

度々申し訳御座いません。頂いた情報と此方の秀郷流藤原氏の記事を幾度か読み返した中で、少し分からない点が出て来ました。今後掘り下げて調査する際の参考にしたいので、もし宜しければ教えて下さい。
まず、当家について御推察頂いた、傍系足利系関口氏に雇われた半農の武士ではないか、と云う点についてですが、どのような働きがあったにせよ、自らの家でも使用出来ない宗家の綜紋を、褒賞として半農の土豪に下賜したり、使用を許諾したりするものなのでしょうか?
次の一点は、当家に関係なく、宗派に関してですが、私の浅薄な知識では、秀郷公が平将門を追討したのが西暦で930年代、浄土宗が立教開宗したのが1170年代で、この間約200年の時間的間隔があります。少なくとも、秀郷公より200年もの間は、その宗派は浄土宗ではあり得ない筈です。また、室町から鎌倉時代には浄土宗はどちらかと云うと迫害の対象となっており、皇族や高家の武士は真言宗もしくは天台宗であり、実際に覚行法親王は真言宗の門跡、後醍醐天皇の皇子護良親王は天台座主、足利将軍家からも足利義教は還俗して将軍位に着くまでは、153代天台座主で義圓と名乗っていました。法親王の制度は明治期まで続いており、浄土宗は徳川幕府が庇護するまで、内部闘争もあって主流とはなりえなかったと記憶しておりますが、秀郷流藤原氏一派は、その歴史中のどの段階で浄土宗に宗旨を変えたのでしょうか?
以上2点、細かい事で申し訳ないのですが、御教示頂けたら嬉しいです。宜しくお願いいたします。


  [No.655] Re:度々申し訳御座いません。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/30(Fri) 20:32:51

お答えします。
半農の長が何れかの支配者(この場合は関口氏)から使用を許可されたとするのは、苗字、帯刀、家紋等を全て一度に与えられたと云う事では有りません。
更には、これ等の使用を全面的に無制限で使用を許されたという事では有りません。
例えば苗字の使用はある特定の場合に使う事などを条件として付けられました。又使用する方でも遠慮して儀式などの場合のみに使用したのです。
実際に武士の様に名乗ったと云う事ではありません。元々武士とは社会習慣の場所が違います。
現実、農民には変わりは無いのですから農民同士と付き合う場合は苗字はまだ習慣の違う農民の社会では大した意味を持ちません。
何事もそうですが、与えられた時にその意味合いが無ければ自然に淘汰されて消え行くものです。
それが何時かその意味合いが出た場合に於いて使用すると云う事が自然の成り行きです。
その一つとして、都度起こる儀礼的行為もその一つですが、これが後に例えば、明治3年の苗字令8年の督促令の時にそれを正式に苗字としたのですが、当然明治維新の社会が苗字を基本とした社会(契約や戸籍などの習慣)に変わりましたから絶対的に必要となったのです。
そして、村の長が関口氏を名乗ると周りの農民も同じ農兵として働いて過去に長に与えられただけの事であっても参加した農兵に与えられたものですから、口伝を通じて苗字令の時に一斉に村が同じ与えられた氏姓を名乗ると云う現象が起こったのです。むしろ政府が指導した経緯があります。

次ぎに帯刀ですが、これも農民である事に変わりは無く許されたからと云って武士のような生活習慣になった訳ではありません。矢張り同じなのです。これも大した意味を持ちません。これこそが意味も無いのです。鍬を持つ者が刀を持っても何の利点もありません。
農兵と云っても直接戦う役割を果たす事では有りません。
戦いには、沿道の警備、食料の準備、調達、柵の準備、運搬、軽い警護、指揮所の建設準備、勝利や敗戦処理などの付帯的な仕事です。中には屈強であって戦いに参加したい者がいて実戦をする者が居たとありますが、これ等の者は後に立身出世してとり立てられて支配者に武士にした貰うなどの事が起こったのが室町期から江戸初期までに起こりました。家臣全てがこれ等の事をしたのでは有りません。
戦う場合は戦闘の専門集団の雑賀、根来、柳生、伊賀、甲賀など有名ですが、この様な集団は各地にあり「雇い兵」として戦力にしたのです。
しかし、一般の農兵には本職があるのですからそんな挑戦などしません。元々は契約なのですから。戦って死んでしまったては農民としては意味が有りません。
農民にとっては戦いに参加する事で得られる利益があるのです。
それは先ず契約の現金収入です。次ぎは戦後処理(戦場の清掃処理など)による鎧兜刀などの処理金の取得です。敗戦処理(逃亡者の追討報奨金)等、又更には戦利品の収入です。これ等を個人では無く参加した村の集団で行動するのです。
附帯作業とは云え危険は伴ないますが、これ等を回収し売りさばく商人などがシステムとして存在し膨大な収入があるのです。
農民だけではなく、土地の豪商などもこの戦いに参加したのです。材木の調達、大工の工面、食料の調達、など何万と云う者を動かすのです。

彼等は現実には支配者以上の力を持っていたのです。豪商は元は豪族でその税の取立てや物納の処分などでその処理方は慣れています。そこで武士の顔も持ち、豪商の顔も持ち、「二束の草鞋」をとり当時の物品の運搬などには警護が必要ですから、武装しての搬送と成りますので、普通の商人が出来るものでは有りませんでした。当然にシンジケート(戦いで敗れた土豪、武士等)を保護して経済的に裏付けてシンジケートを作り上げたのです。ですから、豪農、豪商、郷氏らはこれ等を勢力手段として闇の集団として暗躍するほどに力を持っていました。支配者の武力を中心とした力のレベルではありません。
これが裏で農民などを動かしている現実の社会でした。表の勢力者と裏の勢力者の違いでした。
豪農、豪商、郷氏等は農民を裏で動かし、それを支配者に繋ぎ戦いと云う市場に参加するのです。
戦国時代は農産物だけで農民は潤っていた訳では有りません。

歴史の人物の楠木正成がその例です。10万の軍を3000で迎えて10万の兵を餓死させたのです。こんな人間に苗字等の勲功を与えてもばかばかしいだけですが、朝廷はそれでもこれ等の名誉勲功を与えましたね。
そんな者達に苗字、家紋、帯刀など与えても現実には何の意味も無いのです。
これが氏家制度の裏の真実、現実で矛盾の一つです。
ですから、与えられたとしても名主、庄屋、程度の範囲です。
元より、戦いは何度もある訳ですから、直ぐにこの全部、苗字、帯刀、家紋を与えたわけでは有りません。
例えば、これ等の内情とシンジケートの事は知っていた秀吉や信長(後に知る)の戦ではこれ等のことが史実事件として起っていますね。秀吉の「一夜城」でも有名ですね。
他には、信長の只一度の敗戦の次男信雄と滝川一益の軍は天正伊賀戦いでは、実戦では無く戦用の丸山城の城構築で木材や材料調達で城が立てられない、立てたと思うと火付け作戦で燃えるなどと云う事件が起こり、伊勢の元守護王で豪商紙屋の青木長兵衛(青蓮寺城主)との戦いがありました。
紙屋長兵衛は上記した農兵等とシンジケート1万を裏で動かして戦い勝利した事件は有名で、信雄ら二人らは信長に家臣の面前で烈火の如く怒られ蟄居を命じられると言う事件は有名です。
この後、これ等のことを良く知っている秀吉の意見を入れて以後戦いをしたのです。秀吉自身も今度は天正伊勢永嶋の戦いでは裏面工作の紙屋長兵衛(青木長兵衛信忠)とで、秀吉は自ら家臣を使って吉野の山から材木を切り出し谷から麓に流す作戦を実行したのです。結局、秀吉は時間は掛かりましたが勝利しました。これ等の戦いを観ていて学習した家康が云うように”戦いの大半は戦前の戦いで決まる”と言われています。
つまり、実質裏方の農兵らの働きに依るのです。それだけに支配者側は「ありがたみ」を感じての特典を与えた訳で、農兵側からすると生きている社会が違うので何の意味も持たないのです。

帯刀などは本当に何の意味もありません。むしろ持つ事の事態が危険です。

家紋も推して知るべしで、与える側も余りこれを使われると、家紋は武士らの名誉の一種ステイタスです。これで家柄身分などが判り立身出世に大きな役割効果があり、氏家制度の中で生きる武士にとっては無くては成らないものです。しかし、農民は氏を持ちませんので氏家制度と云えどその社会に生きていません。家紋があったからと云って米が増えるわけではなく何の意味をも持ちません。
従って、この家紋使用支配者と農民の間には利害が伴ないます。頻繁に氏以外に使われると武士の権威が低下してしまいます。故に特に限定した使用を求めたのです。
例えば、儀礼的な儀式等だけとか墓石だけとか限定しました。実際にはかなり遠慮して使用した形跡です。使うと何か不始末が興すと支配者側に武士の面子に関わる迷惑が掛かることに成りますので、許可したと云え有名無実な事なのでした。この家紋を付けた時だけに面会を許すとかの「権利的条件」を附帯したのです。支配者側はだから与えたのです。それがどんな家紋であろうと。

お家のご先祖に家紋の下がり藤紋を与えたかは大いなる疑問です。
宗家だけしか使えない、まして副紋方式で、傍流であり、とするとこの掟の知識を知らない事が覗えますので苗字を付けた時期に同時に藤原氏一門と観て引き出して使用したことだと思います。
まして、武士の一門でも家紋使用は宗家の許可を得て使用するのが氏家制度の掟です。
武士の子供でも妾子の子供は使えない許可しないの仕来りがありますので、農民に直接使用を認めることは少ないのです。先ずは無いと思います。
元よりステイタスの低下と利害を招きますので、余程の事では無くては使用を認めません。武士でもある郷士、郷氏、豪農、(豪商は元は武士)の場合は武士でもある訳ですから与える事には問題は有りませんし、むしろ、支配者(関口氏)より家柄、身分、官職などは上の場合が多いのです。
ですから、これ等3者には幾つも家紋を持つ者が出たのです。与えても低い家紋は敢えて使用をしません。支配者との会う場合とかで儀礼的に使用する程度でした。
例えば、賜姓青木氏が笹竜胆の賜姓家紋族ですが、これ以上では天皇家の家紋以外にはありません。しかし、室町期ごろでは守護から離れて郷氏、豪族、豪商に成っています。
支配者より領地や経済的により勢力を持つ郷氏(庄屋、豪農、豪商も営む二束の草鞋です)です。与えられても極めて迷惑です。歴史上この様な場面を歌舞伎で表現しているものもあるくらいです。

更に例として、家紋を付けた羽織を着た伊勢賜姓青木氏は、家康の子の紀州徳川頼宣が天領地であった伊勢地を飛び知領としますが、この際に信長と戦った伊勢の豪商青木長兵衛と面会をしました。この時頼宣は上座を青木氏に譲り下座すると言う現象が起こったのです。この事は個人の伝記、口伝でも伝わっていますが、昔の歌舞伎でも演じられています。
ですから、藤紋使用は郷士、郷氏、豪農、豪商の3者では明らかに無く、前回お答えの前の2者(庄屋、名主、)と申し上げたのです。寛永史書などにも第三氏と未勘氏としてこれ等の氏も多く書かれています。

次ぎは、浄土宗の件ですが、古代仏教は450年ごろに後漢の帰化人の鞍造部で仏師の首魁の司馬達等が私伝として伝えたのが最初です。(後漢阿多倍王等に率いられて渡来人200万人の第一陣です)
これを大化改新前に同じ後漢の第1次の帰化人の物部氏と蘇我氏との争いでも有名ですが、この仏教の阿弥陀思想伝導と成りますが、この時、天智天皇(中大兄皇子)は、大化改新で皇位継承制度の改革を行い、その中の一つ改革の天皇を自ら護る親衛隊の編成をするために第6位皇子を侍にして臣下させる事になりました。
この時、賜姓である青木氏にステイタス仏像と法宝物等を与え、更に伝導直後の仏教の阿弥陀思想の伝導、普及のためにこの古代仏教に帰依させる事を定めて伝導役を決めました。
そして伊勢神宮の保護と伊勢の守護王として伊勢に施基皇子を配置しました。
この時から、この一族5家5流の5代の天皇の第6位皇子が、賜姓を受けて臣下して守護王として配置されました。この時から、この「伝統の伝導義」が起こり、青木氏が独自の阿弥陀寺を主要地5国に建立して古代密教を伝統として伝導継続しました。
神道と仏教で戦っただけでの事だけでは有りませんで、後の「伝導政策」としてこれ等の第6位皇子の臣下賜姓族にその役目を任じたのです。この役目は嵯峨天皇より賜姓源氏に引き継がれて合わせて16代続きました。

(参考 桓武、平城天皇はこれに反発して母方(高野新笠)後漢の帰化人阿多倍王の末裔に賜姓をした。桓武天皇は第6位皇子伊勢王施基皇子の子供の光仁天皇の子供。賜姓は「たいら族」として5代後には太政大臣平清盛です。嵯峨天皇は桓武天皇の子供嵯峨天皇は桓武、平城天皇と路線争いをする。最終この役目を担った第6位皇子の制度に戻し、青木氏から源氏として変名し賜姓する。花山天皇まで続く。これ以後、賜姓青木氏は皇族の者が、下族するもしくは比叡山から還俗する際に名乗る氏名とすると詔で定める。明治3年まで原則守られる。)

それがこの様にして古代密教の阿弥陀思想の仏教は引き継がれて来て、1175年の法然源空がこれを阿弥陀思想の法典として確立しさせ、それを浄土宗と呼称しただけなのです。これに古代密教の阿弥陀仏教から浄土宗の阿弥陀仏新仏教へと「自然継承」となった経緯なのです。
新たに「新しい考え方」の仏教を確律(立)したわけでは有りません。
引き継がれて来た古代密教の仏教を学問化したのです。

天台密教、浄土密教、真言密教の3密教がありますが、ここで「密教論争」のあり方に付いて議論が起こります。賜姓青木らが伝えた古代密教派が浄土宗と呼称されたのです。

藤原秀郷も平貞盛と共に「平将門の乱」の平定の2つ条件で貴族の身分と武蔵下野の国の領主と成りました。従って、武力を使えませんので、自分の第3子の千国を嵯峨期の詔により青木氏を名乗らせて護衛団を形成させて、賜姓青木氏と同様の任務と伝統を維持させたのです。
当然に、朝廷はこの北家秀郷系統には母方が賜姓青木氏と天皇家に血縁していますので、賜姓青木氏と同様として特例としてその同方式と同官職と同役職、同身分を秀郷に与え千国が臣下させて与えました。
当然に、仏教の帰依も含まれて居ました。
この後に共に2つの青木氏は末裔は栄えますが、1175年に法然により浄土宗が改めて開山されて、賜姓族と秀郷一門は同じ浄土宗のその古代仏教と、その密教を仕来りを伝統として各地に末裔が広まり、朝廷で最大勢力を誇った賜姓青木氏に習って引き継ぎます。
仏教宗派としての時期は書物、口伝などから平安期末期の帰依と成ります。
法然源空の浄土宗開山(開基ではない)と同時期と成ります。
浄土宗派はこれ以後、特定地域で皇族賜姓青木氏主要29氏と藤原秀郷一門351氏と源氏11代とその末裔のそれらの支流一門族と縁者関係族に、「特定伝統宗派」として引き継がれて、特定宗派とその特定域に特定氏の寺を建てる古代密教方式に移行してゆきます。
この時から、他の宗には観られない浄土宗の伝統が定まり浄土宗仏壇なども特定仏壇となり戒名や特定の浄土宗習慣等が引き継がれてきました。恐らく現在も筆者の家も含むこれ等の宗家筋ではこの伝統が護られていると観られます。この特定伝導は南北朝時代まで引き継がれて行きます。
初期頃の事として、日本書紀にも伊勢王として朝廷の政務仕事に専念し、この古代仏教に関係した事と、天皇から各地の古代仏教の実情調査を命じられて朝廷の冊子(律令の基)として遺され居り、その関連する事等が書かれています。これが元となり日本最初の桓武天皇の律令制度の国家体制の完成に繋がったです。
この国家態勢に起因するまでに発展させ、その仏教の経緯は専門的には平安末期前後から古代仏教と新仏教に内容が更に変わっています事をご承知ください。言わずもがな学術的にもこのことが確立しています。教材にもこの経緯等は詳細に記載されている衆知事です。
当然、この二つの青木氏、つまり第6位皇子の賜姓族と秀郷第3子の千国の青木氏に関わる高位朝臣族と宿禰族の臣下族と、それに相当する嵯峨期詔の皇族系青木氏等の族は、この伝統を護り維持して古代仏教の伝統は平安期には同じ阿弥陀思想を引き継ぐ浄土宗に帰依する事が定められたのです。

天智天皇から始まった皇位継承制度が更には嵯峨天皇により修正されましたが、第5位皇子以上の真人族は天台宗に入信し、第4位皇子とも天台宗に上り僧侶として務めたのです。皇位継承から外れた者は必然的に比叡山に入り門跡僧侶として入信しました。現在でも比叡山にはこの院が継承されて存在します。当然に、ご指摘の真人族としての貴族、公家は天台密教に帰依する事に成るのです。
平安期末期までには以後、第6位皇子賜姓臣下外の対象者は計18人の対象者が在りましたが、全て天台宗比叡山に上り、後には還俗する者も含めて嵯峨期詔による伝統から浄土宗に入信しました。

この天台宗と浄土宗の判別は真人族(第5位又は4位皇子)は天台宗、第6位皇子族と以下第7位皇子族の朝臣族と宿禰族の高位身分の者で臣下族の皇族賜姓系と皇族系は浄土宗と定められていました。
第7位皇子以下は奈良時代の大化から天皇が代るたびに出る第7位皇子以降は坂東警護団として配置されましたが、この一族末裔の「坂東八平氏」も皇族系ですので当然にこの浄土宗の伝統を護っています。
朝廷では氏家制度を維持するために「八色の姓制度]等を多く決めて、それにより宗派や行為や諸道具や仕来り、身分、官職、役職等を詳しく定めています。
この様にこれ等を判定する条件がいろいろとありまして、ここでは書ききれませんが判定が出来るのです。
何々親王とか云々で高位だからと云って何でもかんでも一緒にして歴史上のことを判断する事は危険です。何は兎も角も「氏家制度社会」です。今とは社会が完全に違います。
兎角、歴史を勉強するとこのジレンマに陥り私の経験を始めとして兎角早とちりして間違いを興して失敗するのです。
氏家制度の多くの知識が必要です。この様な区分けが出来ているのです。
宗派も元より、更には、天台宗、真言宗、真宗などであるかの判定もその伝統とある決まりで出来るのです。
身分、家柄、氏、官職などを重んじる「氏家制度」の社会ですから、当然に多くの事柄が区分けされているのです。
これ等の高位の者は官職名、身分、家柄、役職、など朝廷の決まりを持っています。
日本書紀等にはこれ等の初期の事が詳しく書かれていますので読みますと大きな判定力に繋がります。

これ等の事は青木サイトとしては皆さんは既に都度レポートを読み続け継続の知識として持ちお答えにはこの様なレポートを書く事は余り有りませんが、他氏にはどうしてもお答えにはこの様な事を割愛してのレポートに成ります。
一度、青木氏のサイトとで少しづつでも各種のレポートをお読みいただきますと必ずや氏家制度の仕来り等が良く判りますのでお読みください。他のサイトには書いていない研究論文を登載しています。
しかし、間違いを起こさないようにして完全に書くと本になってしまいます。
前回のレポ−でも文頭にこのことを追記しましたし、文中でもそれなりに意味を持たせて間接的に表現しているつもりですが、伝わりませんか。難しいですね。

以下のご意見ご質問の前提は、若干貴方様の主観性がありますので、そのお答えには次ぎのご質問をさせていただきます。全てにお答えが困難ですので。
「浄土宗の宗旨」の件ですが、以上「宗旨変え」では有りません。仏教には何事も同じですが変化の経緯が在ります。それを宗旨替えとするは如何ですか。
「内部闘争」に関してはそれを闘争と観るかはその人の判断です。宗教はこの世の「考え方」ですので元より論争争いを起こしていますが、その立場の人には書物では闘争ではないと教えがあります。私は闘争とは観ていません。
「将軍云々の件」は全て世の中の事柄は完全には決まりにはまる事なのでしょうか。
朝廷が定める高位等の者が入る「門跡寺院」と云う事をご存知でしょうか。
特に平安期を始め、鎌倉、室町期の寺社仏閣は誰が建てたのでしょうか。どのようなシステムだったでしょうか。そして、その寺社仏閣の文様はどの様にして決まるのでしょうか。
それを判断出来る戒名や法名での「院殿居士」とはご存知でしょうか。
天慶の乱は長く掛かりましたが。秀郷は958年ですが。
天台宗は密教です。個人の天台宗入信は江戸初期の宗教督奨令以降に成りますが。
この質問で私の答えが出ます。

取り敢えず、このご質問もこの程度にしますので、これで宜しいですか。ご質問有りましたらお尋ねください。
では、又お便りください。


  [No.656] 重ねて御礼申し上げます。
     投稿者:セキグチ   投稿日:2009/10/30(Fri) 22:30:53

ご丁寧かつ詳細な内容でのご返信、誠に有り難うございました。
また、理解が足らず、青木さんのホームページなのにも拘わらず、度々御手数をお掛けしまして、大変申し訳御座いません。
誤解のないよう、申し上げますが、私個人としては先祖が何処で何をしていた誰であろうが、一向に構いません。ただ現在の私に至る迄の命を繋いでくれた事だけで充分です。その上で、どのような仕事をして、何を考え、どのように暮らしていたのか、少しでも垣間見る事が出来れば面白いと思っています。
ご返信頂いた内容ですが、農民と武士では住む世界が違う。身分制度の確立した世の中での農民と武士との関わり合い方、大変勉強になりました。資料を読むだけでなく、もっと想像力を働かせないと駄目なんですね。難しいけどとても面白いです。周りに歴史に詳しい、このような質問に答えをくれる人が居ない為、つい甘えてしまった事、ご容赦願います。
私がどう思うとか、自らの主観でなく、想像力を働かせ、他者の意見も良く聞いて、それを容れる素養を持った上で、一次資料に基づいて知識を構築しなければならないものだと理解致しました。
「全て世の中の事柄は完全に決まりにはまる事なのでしょうか」…正にその通りですね。耳が痛いですが、折角頂いたアドバイスですから。これから掘り下げて調べて行く上で、気を付けていきたいと思います。
私の為、貴重な時間をかなり割いて頂いたかと思います。
心より御礼申し上げます。有り難うございました。


  [No.657] Re:重ねて御礼申し上げます。
     投稿者:福管理人   投稿日:2009/10/31(Sat) 11:07:52



ありがとう御座います。
私の真意をご理解頂き誠に感謝します。
史実が如何ともあれど、その真意をお汲みいただいたことが何よりも冥利に尽きます。
重ねて、私は私以外の学問的なことに付いては生来忌憚の無い物言いですので、ご容赦願います。

全くおしゃられる通りです。歴史の面白みはそのご先祖の生き様が想像で垣間見える事にあると思います。
全く大賛成です。これは人の古への本能では無いでしょうか。

これからも、ご遠慮なくお尋ねください。生来の物言いでお付き合いさせて頂きます。