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  [No.697] 神奈川の青木剛さん
     投稿者:青木 剛   投稿日:2010/05/21(Fri) 13:29:06

雑談掲示板から代理投稿

この前初めて投稿しました神奈川県伊勢原市の青木剛です。
家紋の事で質問があります。
絵柄は丸い円に青の木だか藍の木を図案化したものです。
過去帳も調べてみましたが、江戸時代前期までは遡る事が出来るのですがそれ以前は焼失してしまっていて判りませんでした。
ただここらへんの土地にはかなり古くから住み着いていたらしく同じ家紋の青木家が何軒もあります。
この事から何か判る事はありますでしょうか?
それと余談になるのですが同じ青木家でも家紋の違う家が何軒かすぐ側に居らっしゃいます。
家紋はまだ見せて頂いていないのですが、こちら青木家とは全く別の青木家だと親から聞いたことがあり是非一度お話を伺いたいと思っています。


青木剛さん 今日は。 始めまして。

4月の初めごろにお便りいただきましたね。有難うございます。
これからもよろしくお願いします。

さて、早速ですが、お尋ねの件ですが。

頂いた情報では、家紋は「丸に立ち葵」ではないかと思いますが、お便りでは良く判らないのですが、神奈川の青木さんとすると「丸に立ち葵」だと思います。
家紋掲示板に全国の青木さんの家紋が記載していますので、一度ご確認してお便りください。

さて、この神奈川付近には、3つの流れの異なる青木氏が分布している所です。
先ず、一つは、藤原秀郷流青木氏です。
この青木氏は武蔵の国(埼玉県)の入間郡を根拠地にして、横浜神奈川を半径とする円状の中に116氏の青木さんの本家筋が定住しています。この分家筋が全国24地方に移動分布して定住しています。
藤原秀郷一門の勢力圏で一門の青木氏は護衛役が任務ですのでここまで分布しているのです。
この青木氏は元は下がり藤紋の一つでしたが家紋掟により、つまり116の家紋に変化したことを意味します。従って、この氏の総紋(宗家が必ず引き継ぐ一門の代表紋)は下がり藤紋になります。
藤原秀郷の一門の中でもこの総紋を家紋として引き継いでいるのは7氏しかありません。
ご質問ではこの116の家紋に含まれていれば同じ家紋でなくても元は親類と成ります。
家紋掲示板か研究室の「青木氏と血縁族」(家紋)から御調べください。

二つ目は、伊豆地方を中心に神奈川付近まで伸びて分布する皇族賜姓青木氏が定住しています。
この青木氏は皇族賜姓青木氏5家5流の一つで伊勢青木氏と信濃青木氏の一部の末裔です。
家紋は笹竜胆紋です。この氏はその家柄の為から、家紋の継続システムルールが違うために家紋の変紋は原則少ない事に成ります。
伊豆の国は清和源氏源頼光系の頼政の領国でしたので同族の伊勢の青木氏が護っていました。このためにここに青木氏が存在します。


三つ目は、皇族賜姓族の末裔の信濃諏訪族青木氏と武田氏系青木氏と武田氏系諏訪族青木氏が織田氏と武田氏の戦いにて追われて、この藤原秀郷流青木氏を頼りこの神奈川まで移動し保護された末裔が住んでいます。この一部は栃木まで更に移動したのです。
家紋は「抱き角紋」か「諏訪梶紋」(3つ葉根有梶紋)です。この一族も皇族系ですので家紋の変紋は少ないのです。諏訪梶紋は「3つ葉立葵紋」と似ています。

これらの事は研究室に詳しくレポートしていますので、お読みください。
ルーツ掲示板にもたくさんの元親族の方のお便りが届いていますよ。

この3つの違う一族がこの地域に混在して青木氏圏を構成しています。
さて、お家は臨済宗であり、今回のお便りよりこの内の藤原秀郷流青木氏だと思います。
比較的新しい116氏の中の青木氏で江戸初期に発祥した青木氏です。
恐らくは、江戸時代初期以前は藤原秀郷流青木氏116氏の一つであって、江戸初期に分家となり討ち死等の何等かな理由で男系継承が困難と成り、立ち葵紋の氏から養子を迎えた。しかし、又嫡子に恵まれず再び養子を迎えて女系となったことから、氏家制度の「家紋掟」から最初の養子の実家の家紋に変紋した事が考えられます。つまり、女系に因って立ち葵の一門に成り、分家として新しい青木氏の氏を発祥させた事になります。
元は116氏の家紋のどれかであった事になります。ですから江戸初期で過去帳は止まっているものと考えます。宗派から観て寺の消失と云うより上記の事が原因と思います。
寺が燃えても家に移しの過去帳手帳が残り、元が浄土宗であれば過去の人の全戒名の書いた札の入った累代位牌が仏壇にもある筈です。
又、ご宗家やご本家のご仏壇の形が浄土宗仏壇であるかの確認をすると良く判りますよ。臨済宗に成った時期が。
戦国時代であったために江戸期初期にはこのパターンが大変多く起こりました。

この様な背景でご近所でも家紋の違う3つの青木氏がいる事になります。
違っていても元は親類と云う事もあり得ます。
只、伊豆地方の皇族賜姓青木氏は青木村を形成していますし、家紋掟にて変紋しない限り家紋は笹竜胆紋ですので、はっきりと区別ができます。この一門は青木村を形成する特別な家柄でしたので、男系が切れても村の一族から養子を迎えて血筋を保ち家紋宗派を護りました。
家紋が大きく変わることは余程の分派分流の出でなくては起こらない仕組みでした。

平安時代には3氏ともに青木村を形成する事は許されていましたが、室町時代後に神奈川は青木村には混在してしまっていて判別が困難と成っています。
全国の青木村の地名地形データーベースを参照してください。

藤原秀郷流青木氏の事については研究室には膨大な資料を準備していますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。
お家のルーツの事先祖のいろいろな事が判りますよ。

「丸に3つ葉立ち葵紋」は分家筋にあたり、三河の松平氏、本多氏の家紋となり立ち葵紋は本多氏が使用したものです。
葵紋は京都賀茂神社の神紋です。本多氏もこの賀茂神社の神官職の家柄です。
お家は江戸初期前は藤原秀郷流青木氏でしたが、上記の理由で本多氏の分家支流筋から養子を迎えた事になります。この本多氏から迎えた養子の際は公には本多氏の家紋を一時使うことになりますが、その子供が男子が生まれれば元の家紋に戻ります。
しかし、又女子であれば婿養子に成りますので女系と成って家紋が親の養子先の家紋と成ります。
つまり、立ち葵紋の新しい藤原秀郷流青木氏を発祥させた事になります。

本家筋では縁者関係から養子を迎えて本家の氏を継ぎますので家紋は維持されます。支流分家ではなかなかその様にはなりませんので他氏から迎えることになるのです。
女子がいて婿養子の場合と、子供がいなくて養子婿に嫁をとる場合とありますが、お家は恐らく立ち葵紋の家紋から見て前者と考えられます。
従って、本多氏の発祥から見て時代性は一致していますので、江戸初期ごろ以前のお寺の過去帳からの発見は難しいことになります。
調査は本多氏系のルーツに移る事が必要になりますね。
江戸初期の賀茂神社の神官職の本多氏発祥からみて、本多氏側への調査となり、本多氏の菩提寺又は神道の賀茂神社系列の調査に入る必要が出てきます。

もう一方で藤原秀郷流青木氏の本家筋が保持している元の家紋を何とか調べられれば、秀郷一門のルーツに入れる事に成ります。
多分、お家の宗派が臨済宗と成っていますので、この事から本多氏系の宗派に家紋変更と同時に行ったものと考えられます。
藤原氏は本来その身分家柄から浄土宗古代密教です。一部、24地方の赴任地に定住した地には密教の為浄土宗寺はありませんでしたので一時の代わりに浄土真宗にした経緯もあります。
しかし、臨済宗は新しいある特定の下級身分階級の宗派でした。
その宗派の勢力に特徴があり、元下級武士であった本多氏の移動経路から見てその勢力の強かった一時甲斐信濃にも移動していますし、三河の時代には家康に逆らいこの宗派的な問題を起こしています。
この事から臨済宗の強かった地域性から分家筋の本多氏の宗派となった事が家紋と合わせて一致します。この事から支流分家であって「丸付き紋」である事は納得できます。

他にいろいろなちょとした事の情報などありましたら、本流の藤原一門に入る事が出来ますのでまたお便りください。

以上、ご不明な点やご質問ありましたら是非お便りください。
尚、雑談掲示板はメモリーが小さいので、青木ルーツ掲示板にお家の専用の欄を設けましたので、この
Reでここからお尋ねください。

ルーツ掲示板には立ち葵の青木さんからのお便りもありますので検索で呼び出してお読みください。
元はご親類ですね。

では、お便りをお待ちしています。