[青木ルーツ掲示板トップにもどる] [青木氏氏 研究室へ]
一括表示

このページのリンクURLです。張り付けてご利用ください。
 
キーワード: 条件: 表示:
 

  [No.740] すみません、私は永沼なのですが
     投稿者:永沼   投稿日:2010/08/25(Wed) 03:32:38

 はじめまして、このたび実家から家系図(といっていいのでしょうか)古い和紙で綴られたボロボロの書物が出てきまして、文字や書かれた文章を見る限りそれほど古いものとは思えませんでした。

残念ながら私が古文に明るくないもので解読はいまだ試みてはいないのですが、とりあえずとは思いインターネット上で書物に載っている古い先祖からを調べてみましたところ、こちらのサイトにたどり着きました。
たしかに、表題に「長沼系図」とありまして」最初の始祖様は天御中尊寺とあり、そこから藤原秀郷、宗政(長沼)となっているところまでは、別段気になるものではありませんでした。

ただここから実際に「永沼」にたどり着くまでには「駿河守藤四郎 宗干」から突然分派(ほとんどの系図では筑前守 政忠 石川氏で切れています)し、持宗にはじまり、讃岐守 宗春、光寛、をへて源右衛門(永沼彊三郎)となり、ここで初めて永沼の姓が出てきます。年代はそのまま読めば慶長五年、私の直系である九州福岡の筑前遠賀郡伊佐座村(現在は水巻町あたりだとおもいます)の永沼にたどり着きます。

こういった系図は確かにどこまでの信憑性があるのかも解りませんし、途中で没落したせいで中央権力から農民に成り下がったのかもしれませんし、ある意味現況でも小市民的な親戚一同を見る限り、すごい家系だとは思ってもおりません(笑)

ただ、系図などがあると、過去から連綿と続いて今があるのだなと、もはや他人も同然かもしれませんが、ネット上にでもその名があるのを見つけると少しでも嬉しいものを感じます。極近い先祖に有名な書家の先生がいたという話は聞きましたが、少なくとも私にその才能はないことはわかっております(笑)

結局何が言いたいのかよくわからなくなってしまいましたが、私の手元にはこういった資料がありますが、このようなものはやはり「あとからかかれた(こじつけられた)もの」である可能性のほうが高いのでしょうか。これらを精査するにはどのあたりから調べればよいのでしょうか。

皆様のお力を少しでも拝借できればと思います。また資料的な価値があるかどうかは解りませんが、できるだけ自分でも読み解いてゆきたいと思っています。(永沼か長沼に関連される姓の方がおられましたらあわせてお知らせいただけると嬉しいです)
全国の青木さん管理人様、私事のようで申し訳ありません。不適当であれば削除していただいて結構です。


  [No.741] Re:すみません、私は永沼なのですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/25(Wed) 13:11:18


永沼さん 今日は 始めまして。

ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
これからもよろしくお願いします。
青木サイトには青木氏とその関係する氏に関して研究レポートしています。

確かに、長沼氏と中沼氏に関して藤原秀郷流青木氏を含む藤原秀郷一門として詳しくレポートしています。このことを参考にされたと思います。
さて、早速ですが、ご質問に入りますが、お家は「永沼氏」ですね。

実は、長沼氏と中沼氏は同一氏である事が研究から判っています。
しかし、この過程で「永沼氏」の関係も同じ氏なのかを調べました。

実は、「長沼氏、中沼氏」とはルーツが別である事が判っています。
この藤原秀郷一門の長沼氏は「永沼氏」を江戸以前の確かな歴史的資料から確認出来ません。
しかし、、この「永沼氏」もはっきりとルーツを確認出来るのです。

結論から、申し上げますと、「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」です。

そこで、この「永沼氏」には2つの別のルーツが存在します。
一つは、上記した織田氏系の「永沼氏」、もう一つは島津氏族系中沼氏の「永沼氏」です。
島津氏系中沼氏の中に「永沼氏」を名乗った者の一族があります。
しかし、この「永沼氏」には時代性に問題が若干あり疑問です。

確実に信頼できる「永沼氏」は「織田氏族系永沼氏」です。
先ず、織田氏は家紋からも地理からも平家一門です。
織田氏の先祖は「たいら族」の平氏の支流末裔です。
北条氏などの「ひら族」の第7世族の坂東八平氏とは異なります。
後漢の渡来人の阿多倍王の末裔の国香から始まり貞盛より出世して5代目の清盛までの賜姓の桓武平氏系です。
詳しくは研究室の阿多倍関係レポートを検索してお読みください。
この平家一門の信長より17代前の「親真」から始まった氏で、丁度この「親真」から17代目が「宗康」が「永沼氏」を始めて名乗っています。
「永沼左馬進」からです。始祖となります。
これは確認される歴史的史実です。
ここでお気づきと思いますが、「信長」と17代で同じですから祖父が兄弟と成ります。

そこで、可能な範囲まで系譜を記述しますが、個人情報が絡みますので、この「永沼氏」の始祖の所までのものとします。

親真−権太郎新基−孫太郎−太郎兵衛行広−三郎太郎兵衛末広−三郎基実−三郎四郎広村−三郎右衛門真昌−次郎四郎常昌−助次郎常勝−次郎兵衛教広−次郎兵衛常任−三郎弾正左衛門勝久−弾正左衛門久長−三郎伊勢守敏定−彦次郎定宗−「永沼左馬進宗康」

信長は三郎伊勢守敏定−弾正忠信定−信秀−信長となります。

さて、この「永沼左馬進宗康」の始祖が全国の永沼氏となります。

お便りの藤原秀郷一門からは出ている事に付いては搾取偏纂の結果です。
明治初期又は江戸末期によく行われたルーツを持たない者、わからない者が専門業者に作ったもらったもので、その特長として、突然分派の人物を作り出しこれに別のルーツを貼り付ける手法です。
この種の系譜は全てこの手法に従っています。
お説のとおり突然分派して永沼氏のルーツが出来ている事に付いては、史実がありながらも、このパターンに一致します。

さて、お家がこの「永沼氏」であるかは先ず江戸期以前の氏家制度と封建社会の仕来りから、国の移動は自由に出来ません。不法の「国抜け」は一族郎党の斬罪を受けます。
依って、先ず地理的な問題も出てきます。
この「永沼左馬進宗康」の始祖は明治初期まで主に岐阜と愛知一帯に分布する一族でした。

この付近には、藤原秀郷流青木氏と藤原秀郷流永嶋氏が分布する地域です。

お家のお国は、”慶長五年、私の直系である九州福岡の筑前遠賀郡伊佐座村(現在は水巻町あたりだとおもいます)の永沼にたどり着きます。”と云う事ですと、当時の社会慣習から、時代と掟が一致しませんので、恐らくはお説の通り農民であったと考えられます。そして、明治3年苗字令と8年の督促令の強い指導に基づき何らかの環境と理由にて「永沼氏」を名乗ったものと思われます。

とすると、「永沼左馬進宗康」の始祖のルーツとは異なる事に成ろうかと思います。
一つは、島津氏族系の一部が何らかの理由で名乗った「永沼氏」の系列が覗えますね。

この2つのルーツ確認には、「ご本家の維新戸籍簿」と「氏寺の菩提寺」か「檀家寺にある過去帳」をお調べに成ればすぐに判る筈です。お家の「家紋」もお調べになってください。
また、前者の「永沼氏」と後者の「永沼氏」の「宗派」は異なります。お家は何宗ですか。
前者は浄土宗又は真宗 後者は主に臨在宗、曹洞宗系列の宗派となります。これ以外も明治期の「永沼氏」と考えられます。


明治以前は氏家制度の社会慣習で、この様な身分家柄により仕来りが決められていて、これから逃れる事は出来ませんでした。従って、系譜などを偏纂してもこの仕来りの矛盾が出てしまいます。
ご質問のお答えとしては他の確認要素を見る前に矛盾がありお説の通りと思います。
現在、お家の仕来りとの違いを確認されると直ぐに矛盾点がこの「永沼氏」のように出てきます。

ただ、明治期以降に、この「永沼左馬進宗康の始祖」の末裔が明治期以降に移動してお国に子孫を遺したとも考えられます。福岡の筑前遠賀郡伊佐座村がそれに当るかは不明確ですが、この2つの確認をなされれば村のことも判りますね。

ただ、例外として明治以前にしても、この地域には下級武士から立身出世して秀吉に取り立てられた黒田藩の移動により「永沼左馬進宗康の始祖」の末裔が兵庫播磨地域から住み着いたことも考えられます。黒田藩は家来を少なくし「農兵制度」を採用していましたので、農民でも先祖が氏名を持っていた事もあるのです。それが明治初期に名乗った事も史実として残っています。
農民であったとしても、この村が昔どの様な歴史を持つ村であったかもお調べになる経緯も判る事にも成ります。

恐らくは推測ですが、ご先祖が書き残したものを考慮に入れるとすると、この説が妥当な所ではないかとも思えます。だから、何とか伝え聞いたことを思い出し系譜を作ろうとして無理に継ぎ足しの系譜が出来上がったのかも知れません。
大変、この福岡付近、黒田藩付近には「兵農」を主体としていたのでこのパターンが実は多いのです。下級武士の兵で農民で、農民であって兵であったとするのが殆どです。
多くは、普通は庶民は家紋や墓紋は持たないのですが、戦いの勲功として黒田藩から貰った無秩序に成った天皇家の桐紋を戦いの褒美に与えて使用を許されそれを明治後に家紋や墓紋にしているのです。
これには一つの特長を持っています。

先ずは一度のこの村での上記の調査をされると直ぐに判りますよ。

ルーツの調査は雑学が大いに役に立ちます。この歴史知識が元になります。社会の時代の体制が異なりますので判断には注意してください。
例えば、士農工商の士を除く庶民9割は氏を形成するなどの明治初期以前のルーツの習慣がありませんでした。
氏名、家紋、墓などは江戸より前の時代には無かったなどの雑学が必要になります。
ただ、庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商は苗字帯刀を許され、元は武士が殆どで、または「2足の草鞋策」を採用しています。

ご不明な点やご質問がありましたら、都度ご遠慮なくお尋ね下さい。青木氏はルーツ解明にご協力いたしますよ。


  [No.746] Re:すみません、私は永沼なのですが
     投稿者:永沼   投稿日:2010/08/29(Sun) 11:45:59

こんにちは、つたない私の質問にここまで真摯にお答えいただき大変恐縮な思いです。

搾取編纂、やはりそうでしたか。

余談ではありますが、やはり現在でもルーツという縦のつながりをどこか自身のプライドのようなものとして認識していることが私にあることが伺えました。(現況はともかく)「うちは武家の出身」だと聞くと慢心し「農民だった」と聞くと落胆する、それの何が自分に影響するかなどといえばほとんどないにもかかわらず、です。歴史的な有名人や英雄がそのルーツに含まれていれば、自分まで少し偉くなった様な気がする。
昔も今も大して変わらないのかもしれません。

私が子供のときから実際に親から伝え聞いたことは、おそらく件の系図を基にしたものですから、長沼→永沼になったという記述が証明できないわけですね。
だとすると、私がもつ資料からは何も出てこないと考えるべきですね。
これは、大きな収穫といいましょうか、親族一同この系図を信じているので複雑な気分です(笑)

そもそも武家出身説を補強する物的材料に長刀と短刀が数本祖父の家にあったからでありまして、無論その刀の年代を考察するには至っていないわけですが、祖父あたりの前戦時中に兵隊(仕官)として出たという話はありませんのでそれより古いものだということは確かです。これは一度改めて確認したいと思います。(第一、軍刀を二本差しなどしませんもんね)

家紋はよく珍しいと言われるのですが、菱に五本骨扇です。葬儀屋が父の葬儀のときに家紋のデータがないといって、現場で風呂敷を参考に自作しておりました。

福岡の水巻には永沼の姓が多く残っているとも聞きました。関係はないかもしれませんが福岡の重文として永沼家庄屋家屋というものが京都郡みやこ町犀川本庄 にあります。


藤原系から外れたとなると、もはや青木さん系列からも外れた結果になるかと思われ、手前勝手ですがこれもご縁と取っていただき、しばしお知恵を拝借できればと思います。


  [No.747] Re:すみません、私は永沼なのですが
     投稿者:福管理人   投稿日:2010/08/29(Sun) 20:45:05

> こんにちは、つたない私の質問にここまで真摯にお答えいただき大変恐縮な思いです。
>
> 搾取編纂、やはりそうでしたか。
>
> 余談ではありますが、やはり現在でもルーツという縦のつながりをどこか自身のプライドのようなものとして認識していることが私にあることが伺えました。(現況はともかく)「うちは武家の出身」だと聞くと慢心し「農民だった」と聞くと落胆する、それの何が自分に影響するかなどといえばほとんどないにもかかわらず、です。歴史的な有名人や英雄がそのルーツに含まれていれば、自分まで少し偉くなった様な気がする。
> 昔も今も大して変わらないのかもしれません。
>
> 私が子供のときから実際に親から伝え聞いたことは、おそらく件の系図を基にしたものですから、長沼→永沼になったという記述が証明できないわけですね。
> だとすると、私がもつ資料からは何も出てこないと考えるべきですね。
> これは、大きな収穫といいましょうか、親族一同この系図を信じているので複雑な気分です(笑)
>
> そもそも武家出身説を補強する物的材料に長刀と短刀が数本祖父の家にあったからでありまして、無論その刀の年代を考察するには至っていないわけですが、祖父あたりの前戦時中に兵隊(仕官)として出たという話はありませんのでそれより古いものだということは確かです。これは一度改めて確認したいと思います。(第一、軍刀を二本差しなどしませんもんね)
>
> 家紋はよく珍しいと言われるのですが、菱に五本骨扇です。葬儀屋が父の葬儀のときに家紋のデータがないといって、現場で風呂敷を参考に自作しておりました。
>
> 福岡の水巻には永沼の姓が多く残っているとも聞きました。関係はないかもしれませんが福岡の重文として永沼家庄屋家屋というものが京都郡みやこ町犀川本庄 にあります。
>
>
> 藤原系から外れたとなると、もはや青木さん系列からも外れた結果になるかと思われ、手前勝手ですがこれもご縁と取っていただき、しばしお知恵を拝借できればと思います。

永沼さん 今日は。
ご返事をお読み頂けましたか。ありがとうございます。

青木サイトでの参考とするお答えですが、参考になれてよかったと思います。

さて、国民の九割は庶民で明治初期前のルーツを社会慣習から持っていません。
そもそもそう云う概念がなかったのです。又、社会もその必要性を持っていませんでした。
ですから、明治期の契約社会になった事から国民全員がその必要性に迫られたのです。そこで、1割の氏がいると羨望が生まれるは必然です。
しかし、有るものが無いのではなく、無いものが無いだけです。九割の人が。
論理的に辿りたくても辿れないのです。辿るためにはファクターとして経時的に氏名が必要です。
これはファクターの一つの墓も同じです。家紋も同じです。必要ないものを持つ必要も無かったのです。
宗派もある意味でその一つとして成り立っていたのです。
限定された3密教の宗派だけがファクターと成っていました。

心の持ち様は個人の責任の範囲であり個人の資質の範囲です。何時の世も。
ただ、武士であったからと云って良い悪いの問題では無いと思います。
武士であったからと云って氏や家紋や墓や宗派を持っていたのは中級以上の武士階級で、やや持つ様に成ったのは江戸の中期ころからの事です。
武士であったから良かったと云う事では有りませんでした。ただある程度の経済的幸運が保証されていたことだけの話でその必要とする伝統を維持するために命をかけることが頻繁であったからです。
武士の嫡子はよくっても後の嗣子は薄幸です。中には抹殺されるか僧になるか養子になるかの宿命しか有りませんでした。
世襲の中で氏を形成しないと武士としての支配権が獲得できないからで、その立場に居た中級武士の立場だけでした。氏家制度の中に、農工商の民は組み込まれていたからに依ります。
氏が構成する国が潰れればそこの民も潰れると云うシステムです。
私などは農工商の方が良いと思います。今でも伝統を維持する苦労は大変ですよ。それに苛まれて。

さて、珍しい家紋、宗派、明治期までのルーツ、地理的な事から本ルーツの永沼氏では無い事は間違いはないと思います。ただ、明治期に起こった九割の庶民の苗字では土地の土豪等の氏名や家紋を用いた、又は維新政府が用いさせた大方の経緯があるからで、同じ氏名であってもルーツを持つ持たないは別です。九州に見られる長沼氏又は中沼氏から永沼氏を名乗ったとする氏は末裔を広げた事は史実があり、又その氏名を以ってして明治期にも発祥した事も史実です。

専門外ですが、恐らく藤原秀郷一門から観ると、長沼氏又は中沼氏の九州の氏は蒙古襲来で福岡一帯に一時移動して襲来に備えした時に青木氏や永嶋氏や中沼氏や長谷川氏等の藤原秀郷一門は土地の豪族の菊地氏や肝付氏や大蔵氏や佐伯氏や島津氏と血縁関係を結んで子孫を遺しています。
この時の九州中沼氏または長沼氏の一部の者が何らかの理由で「長沼氏」を名乗れなかったのではないかと思います。それで止む無く別ルーツの「永沼氏」を名乗ったと観るのが筋で、その現存する「庄屋の永沼氏」の場合はその末裔ではないかと推測されます。恐らく、この場合の多くの場合は妾子であって宗家本家から氏名や家紋使用の許可が出なかったのではないかと推測します。


又、刀等の古物はその時に多くは自己の明治期の氏名を証明するものとして準備した事の流行がありました。系譜も作るなどの事の職業としてあり、金を出して頼めば家紋、系譜、刀、古物、氏名など全て準備するものが流行ったのです。寺や神社や専業者が連携してありました。現在でもあるのです。
ですから、当時の人は余計に家柄を意識しその様な口伝を遺そうとするのです。
しかし、氏寺、菩提寺、宗派や過去帳や戒名や墓、仏壇等、伝統古物までは代えられないことから矛盾が生まれて見破れるのです。
ただし、氏家制度の中で、政治的、経済的、地理的なその掟の中では庄屋、名主、豪農、郷士、郷氏、豪商だけは別です。多くは中級以上の支配武士階級以上であったからです。農民でも氏の伝統を持ちえていたのです。大変な思い押して伝統を護っているのです。元は平安期からの多くは豪族であったのです。
それが下克上の焼き討ちや戦国での敗退で退きました。
ですから、歴史的に観て庄屋等が永沼氏であるからと云ってそうでない永沼氏はそうであると云う論理は違うのです。
この様に過去の事には歴史的史観があります。

判別手段
そこで、刀の件は前回のお答えに書きましたが、黒田藩を含む北九州地方又は薩摩藩を含む九州全体は「農兵制度」を採用していましたので持っているのです。秀吉はこの刀狩をしてこの農兵制度を禁止しましたが、これ等の藩は守りませんでした。明治維新の立役者「鎮来さん」は伝統ある農兵ですよ。ですから幕府を倒したのです。上記の件かこの事の何れかです。歴史では刀だけではさして証にはなり得ないのです。家紋などの異なる永沼氏を名乗っている経緯から「農兵」であったと考えます。
その村や郡の農兵を取り仕切っていたのは「庄屋の永沼氏」で、戦いに勝つと農兵には永沼氏等の氏名や家紋を使用を許したのです。黒田藩などは秀吉から天皇家の桐紋の使用を許されていましたので、これを褒美に村人の農兵には特別な場合に於いて(祭祀、式典、登城、墓紋)桐紋の使用許可を与えたのです。誉を助長させたのです。
この桐紋は秀吉が頻繁に大名に与えたので、その全国の授与大名は又家臣や農兵に限定許可しました。全国に桐紋が多いのはこの理由なのです。
この様に歴史史実による雑学私観の判断が必要になるのです。ルーツ解明には。

其の他、判断が確実に出来るものとして、家紋を含む、氏寺、菩提寺、宗派や過去帳や戒名や墓、仏壇等、伝統古物を証しとして調べられるように。
先ず、戒名は3つの意味合いを含ませて寺は作りますが、その家柄身分で戒名の作りが異なるのです。一目瞭然で判ります。
過去帳の有無は九州ですので残っている筈です。下克上の嵐があまり起こりませんでしたから、江戸中期のご先祖の戒名が存在するかで決まります。
宗派はお家の場合全国氏の家紋8000の中にも有りませんから永沼氏の氏を構成するほどの大きさではない極めて小さい氏である個人家紋のことを意味します。
大きい氏は氏家制度ですので氏寺までとは云えませんが一定の決めた氏の菩提寺を持っていて一族の仏を一箇所に定めて祭ります。
墓の形や石でも判りますよ。花崗岩の墓石では明治以降の墓になります。江戸期の墓石は仏教の決まりでこの石は仏が安住して眠れないとの戒めがあり使用していません。多くは砂岩や泥岩から作ります。自然に戻るという教えに基づきます。
ご宗家に近い本家が判別できれば維新戸籍簿に詳細に記述されています。
墓処に付いては時期が問題です。江戸中期頃のもので、墓石の件は勿論、輪塔がある事です。
仏壇にはその身分家柄に相当する宗派の仏壇が置かれています。
伝統の年代古物には検定では難しい専門域ですがそれなりの歴史的背景の意味を持っています。

何はともあれ、如何なる口伝を護るもそれはそれなりに意味のあるところであり、それをどう扱うかはその口伝を聞いた者の如何で、ある意味で宿命です。それの扱い方です。信じるも良し信じないのも良し黙認するも良しその取り扱いに自己の度量の如何によるものと思います。
しかし、一面伝統あるも地獄ですよ。その人物の心得如何と成ります。

お答えは常に青木氏のサイトを青木氏の歴史資産として管理するに必要とする責任と考えています。
史実を遺して青木氏の人の責任に於いて史実を全てに明確に網羅せんとしています。それを「伝統」としてその生き様を振り返る事を後世に委ねて遺しています。

何か有りましたら、何なりとお尋ねください。青木氏に関わらず忌憚なくお答えします。