青木ルーツ掲示板
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  [No.782] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/05/20(Fri) 15:25:51

今日は。静岡の長嶋さん。

ご返事をお読みいただけましたか。ありがとうございます。
では、早速ですが、ご質問5つに付いてお答えいたします。
何れも歴史に興味をお持ちに成っている方の納得の行くご質問と思います。

先ず、1番目のお答えです。
お答えは、薩摩藩に出入り、或いは御用達の商人は全て武士で商人です。
つまり、「2足の草鞋」策です。
この当時の商人は100%と云って良いほどに武士の出身か武士なのです。特に薩摩藩では尚の事です。薩摩藩は交易を中心に経済的な財政基盤を作り上げていたから強かったのです。
この為には国内の産物を捌く者が必要です。家臣に商に長けたものに命じて商いをさせ認可を与えて商家を作らせてその利益から権益を上げる仕組みを作り上げていたのです。そうする事で国内の産物は他国に捌け、且つ、捌ければ造る者は潤い働き甲斐が出ます。この様にして経済活動のサイクルを作り上げていたのです。しかし、武をモットーとする武家では出来ません。その為に商いの長けた者にこの捌くと云う仕事をさせたのです。当然認可制にし御用達にし且つ家臣であれば藩は自由に商いの大小によっては更に開墾も手がけられ結果として特産物を作りだす事も出来る訳です。
他国に売りさばく、他国から生活必需品を仕入れる等の事が伴うわけですから、その商いの裏づけも必要と成ります。他国の藩主との繋がりも必要と成ります。
当時は国内の産物は藩が税の対象として利権を持ち取り仕切っていましたから、勝手気ままに他国に売り捌けません。売買を放置すれば国内の需要を賄えない事も起こり得ます。
これはどこの藩も同じ事ですから、藩の横の政治的関係も必要です。
要するに藩主が大株主であればオーナーで出資者であれば担保が成立します。
それに当時は大量の物品の搬送には海賊や山賊など横行していましたので、これに対応する能力が必要です。武家であればそれを守る武力を持つ事(家臣)が許されますし、藩も後押しする事が出来ます。
また、予めその様な集団に対してシンジケートを作り上げておけば別の他国のシンジケートとの繋がりも作り上げられます。北海道から鹿児島までの搬送となれば幾つもの国を超えてこなければ成りません。海でもその海のテリトリーがあり海賊が圏域を握っていましたからそれとの繋がりも持つことが必要です。海賊山賊と云っても手下は別にしてもその元締めは武士か元は武士です。
この様なシンジケートを作らせこれに経済的な支援を裏で行うには藩は表に出られませんので、家臣の商人にさせるのです。藩御用達の範囲の商人で豪商と呼ばれた商人を調べると全て武士か元武士です。
そして、その殆どはかなりの身分の重臣で有名な氏の末裔武家です。
これには、廻船業の商人等の多種多様な商いも作る必要があります。
本サイトの讃岐藤氏の青木さんも昭和20年頃まで続いた全国を駆け巡った古い歴史を持つ瀬戸内廻船業の青木さんも居りますよ。
青木氏にはこの24地方に青木氏がありますが、その主家の多くは豪商でもあります。
参考までに例として、実は、私の先祖も明治35年まで950年間続いた伊勢松阪の商家で「2速の草鞋」でした。NHK大河ドラマに3つのドラマに筆者の商家が出てきました。(伊勢松阪青木紙屋長兵衛)
織田信長の唯一の敗戦は次男信雄を総大将とする伊勢攻め丸山城の戦いで筆者先祖の青木氏はこの商家と言う立場と伊勢−信濃シンジケートを使って勝ったのです。
庶民の商人ではこの様に合理的で物理的な行動は無理がありますので出来ないのです。せいぜい可能な範囲としては小売程度の商いの範囲です。

2のご質問と重なりますが、薩摩藩に出入りしていたとする長嶋さんも、典型的な薩摩藩の武家商人であった筈です。紋付袴姿の武家で家臣であるからこそ出入りが許されていたのです。
時代考証の間違いの多いテレビドラマではありません。「武士の商人」と「シンジケート」と「藩の利権」は当時の現実の世界です。これら3つは良悪の問題ではなく「氏家制度の経済システム」です。これでは庶民の商人は入れ切れませんね。
問題は肝付氏の家臣か島津氏の家臣かの問題ですが、出入りが可能とすると島津氏の家臣であったのだと考えます。
まして肝付氏とも成れば島津家の筆頭家老で明治維新に西郷隆盛と一緒に歴史の舞台で筆頭指揮を執った家柄ですよ。その肝付氏の一族ですから当然にその背景とする裏付けを持っていなければ600年以上の家柄を保つことは出来なかった筈です。肝付氏を一族一門が経済的に裏で支えていたのです。
その肝付氏一門として家老職から認可も出せるし必要不可欠な業に対して「こけら屋」建設業を営んでいたと考えられます。命じていたとも云えるのです。
少なくとも肝付氏とは強く結びついていたと考えられます。昔の商人は「こけら屋」としていますが、主な商いは一応「こけら屋」であって、表向きで別に「広範囲な商い」を上記のような立場から必要に応じて臨機応変にしていたのです。
私の先祖は和紙を扱う主業でしたが現実には総合商社で有ったようで大船3隻を有していて外国貿易もしていたようです。私はお家は建材業を主に建築業、内装業を手がけていたと考えます。
藩から要求に応えて手広く商いをしていたと「こけら屋」の屋号から察する事が出来ます。
一種の建築関係の総合業であったと思います。昔は今の様に専門業的なものは少なかったのです。

肝付氏の事に付いては阿多倍一門一族のレポート関係を幾つも記載していますのでそこをお読みください。概略は大蔵氏系の肝付氏は島津氏よりは家柄、身分、歴史などは数段上の氏で618年頃中国後漢の民の国16国は隋が滅びて後漢は崩壊しますが、その頃より阿多倍王とその父阿智使王が北九州に17県民200万人を引き連れて日本に難民と成って帰化して来た一団で、瞬く間に九州全土と関西以西32/66国を無戦制圧してしまいます。645年頃には薩摩大隈にその集団の首魁阿多倍王と父阿智使王は移り住みます。その後、700年前頃に伊勢国伊賀地方を賜姓青木氏から割譲して国を与え半国司に任じて住まわせます。ここから全土32国に指揮を執ります。
(阿智使王は「史部」を司り朝廷の事務官僚の元締めをしていました)
この7代末裔が「たいら族」桓武平氏の平清盛です。
阿多倍王には敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘を娶り准大臣と成り、3人の子供が産まれ長男は有名な坂上田村麻呂で坂上氏、次男は大宰府の太宰大監の大蔵氏で1018年「錦の御旗」を歴史上唯一個人に与えられ「遠の朝廷」と命名された九州全土の自治を認められる。三男は内蔵氏で陸奥一帯の歴史上の豪族は殆どこの末裔で阿倍氏等があります。
奈良-平安期は朝廷の政治組織「三蔵」で成り立っていましたが、その内の「大蔵」と「内蔵」を担当、「斎蔵」は藤原氏、官僚の6割は阿多倍王のこれ等の子孫です。日本書紀にも何度も出てきます。
肝付氏は天皇の前で銀杏の木の下で相撲をして見せたとあります。それほどの氏です。
1018年に九州全土の自治を任された賜姓大蔵氏は肝付氏などの末裔を育て上げこの肝付氏は朝廷官僚豪族伴氏と血縁します。
そして南九州を主家から任されて働きます。この肝付氏は「弁済使」で力を発揮し「税」等の政治力に長けていたのです。資料に多く残る事なのです。
ですから、室町期の新興勢力の島津氏と戦って最終には負けますが島津氏はこの管理能力を認めて潰さずに一国元の大隈国を与えて家老に取り立てます。地元には住民との1000年程度の歴史と絆を持っていますから潰すと内乱に成りますので、むしろ前回にお答えした40近い姓氏を活用して一族一門を取り立てて薩摩の内乱を鎮めたのです。その中の一つが長嶋氏ですがこの一門は商才に長けていたと云われます。
主家の肝付氏が重臣筆頭家老に成ってから大いに島津氏の有名な経済的背景を築いたのですが、裏で長嶋氏が支えていたのです。
長嶋氏は肝付氏家老の縁戚であるので勘定方組頭程度であろうと考えますが、「お目見え程度」ではないでしょうか。其処まで詳しくは判りませんし其処までの詳しい資料は遺されていないと思います。

3のご質問ですが、ありましたよ。
西郷隆盛の血判事件です。この事件には肝付氏も間接的に連座しています。
大河ドラマで演じられていますがこの時の事だと思います。
サイトは島津氏の事は青木氏と長嶋氏外の事ですので「あつ姫」等のドラマをご覧ください。
”太吉さんが血判に関わっていた”と云うことがお判りに成るのであればその資となるものから調べられる筈ですね。まして、血判と云う尋常ならざる事を承知しておられるのであればその血判事件は知っている事に成りますが。意味が良く判りません。

4のご質問ですが、青木氏サイト外の専門外の事ですので十分にお答えする訳には行きません。
肝付氏もサイト外ですが、私の妻の実家は鹿児島で島津藩の下級武士であったところからも承知している内容なのです。大蔵氏系永嶋氏に関わる事は永嶋氏とは青木氏とは室町末期まで縁戚関係にありましたので研究して承知していることに成ります。残念ですがあまり他氏は青木氏の様に研究は進んでいないと思いますがインターネットなどで調べられる事をお勧めします。(真偽は別として搾取偏纂が多い)

5のご質問ですが、”地域の有力者との関係で根笹に変えざるを終えなかったと云う事でしょうか。また、薩摩にいたときの紋を出すとまずいこともあったのでしょうか。”のご質問ですが、
このお答えは明治維新前は奈良期まで氏家制度の中でありましたから、家紋を使用する様に成ったのは平安末期からで40氏程度の氏から徐々に用いられるように成りましたが本格的には鎌倉期に入ってからです。「氏家制度」を維持する上で社会の慣習としての仕来りをこの家紋と云うもので「氏家」を明確にして行ったのですがこれを取りまとめられたのが「家紋掟」であります。
この家紋掟に関して詳しくはレポートしていますのでお読みください。また氏家制度の内容の根幹の融合氏政策が天智天皇から取られて来ましたが現在これに関する論文を投稿中ですのでそれをお読みください。
ご質問はこれ等に大いに関係してくる歴史的な雑学の範疇に入りますので、青木氏サイトにはレポートしていますのでお読みください。

情報提供は前回のものを越えていませんので何とも言い難いのですが、判断するものがありません。
前回にもお答えしました様にこの「三雁金紋」は別に薩摩の長嶋氏の独自の家紋ではありません。
花房氏の家紋です。花房氏は陸奥の氏で藤原秀郷流青木氏と大いに関係する氏でありますので承知しているものです。後に信濃に定住し信濃足利氏の前身の氏と成ります。信濃足利氏は青木氏と血縁関係にありますので承知しているものですが、お尋ねのご質問は薩摩とは無関係です。長嶋氏の氏名はこの地域には元の藤原秀郷流永嶋氏が居ますので疑われる事は無いと思われます。
むしろ家紋氏名を出した方が信濃域の周囲にはこの家紋が多く存在しますので問題が少ないと思いますが。ただ青木氏とは四国の青木さんとはある事件から血縁していますので四国にも三雁金紋の姓氏は存在します。三雁金紋の存在する所には足利氏との内部事件が絡んで逃げ込んだ経緯があります。

根笹紋は雑学上では薩摩との関係は全くありません。
この根笹紋は前回のお答えにも書いています通り2氏の家紋です。これも薩摩とは問題ありません。
この根笹紋の出来た或いは用いた経緯は松竹梅の縁起から用いられたもので竹の笹はずい祥的文様として用いられたもので江戸の旗本や御家人が江戸初期に氏を証明する手段として家紋が必要に成ったので用いたものです。
特に松平氏系桜井氏と信濃から移動してきた仁木氏が駿府三河付近に子孫を残したので増えたものです。
家紋を変えたかどうかの判断も他の情報が無くては何とも言い切れません。
たとえば宗派等、檀家寺、あるのであれば菩提寺、寺にある過去帳、明治維新の戸籍簿、ご宗家か本家の土地柄や江戸期の静岡での職業や地理の静岡との関係性を見出す必要があります。
そこから、又ご先祖が分かって来ると思います。薩摩との繋がりも見えてきます。

推測の域を脱しませんが、島津藩から何らかの目的で静岡に移動を命じられそこで商業活動をしたのでは。そして60年後明治維新に成ってしまった。
明治維新前は氏家制度ですので全ての者は国に所属するものですから、勝手に移動定住は出来ません。国に縛られています。これを犯せば「国抜け」といって一族斬罪です。
何かの理由があって移動して来た事に成ります。「こけら屋」が大きく左右していると判断します。
恐らくは、島津藩の事情から静岡の建材に関わっているのではないでしょうか。移動して移動先で血縁出来ているのですから、移動に関する許可書が出ての事です。移動の認可理由が何であったかと成ります。
血縁する相手が無宿者では根笹紋の歴然した家柄ですから血縁はしないでしょう。

その為にはと成ると、上記した様に「政治と権力」に関わる必要があります。或いは桜井氏から情報収集を図った。その為に松平氏系の桜井氏に近づき血縁をして縁戚として使命を果たそうとしたと観ます。本家か分家に養子を桜井氏から入れたが男系継承が叶わず養子方の家紋の根笹紋と成ったと観ます。
仁木氏も同じ推測が成り立ちます。信濃檜杉の材木です。仁木氏はこの利権を持っていた可能性が家柄から考えられます。桜井氏と仁木氏とは駿府において血縁関係があります。
当時薩摩藩はガラス細工や工業製品等の藩独自の生産工場を作ろうとしていましたので材木が必要であった筈です。又、江戸幕府とも対立が始まった頃で情報収集も兼ねて島津藩は動いたと考えるのが普通ではないでしょうか。当時は情報収集は系列の商人から得る事が多く又その目的でも武家商人の役目を担っていました。その役目も太吉さんが担っていたと考えます。
島津家御用達「こけら屋」と静岡と根笹紋と商人となれば繋がるキーワードは材木と徳川氏の膝元であれば情報収集と成りますね。

ルーツはこの様な仮定をつくりそれを一つ一つ証明して潰して行くのですが、それには「情報」と氏家制度の「雑学」(歴史史実)を獲得することから始まります。

以上、青木氏サイトの知る範囲でお答えをしましたが、何か今回のお答えでご質問があれば、ご遠慮なくお尋ねください。



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