明確なお答え、ありがとうございます。
1.薩摩藩に出入り、或いは御用達の商人は全て武士で商人の「2足の草鞋」で、 そのため薩摩藩に出 入りしていたとする長嶋さんも、典型的な薩摩藩の武家商人であり、紋付袴姿の武家で家臣であるか らこそ出入りが許されていたこと。
2.島津藩から何らかの目的で愛知東三河に移動を命じられそこで商業活動をし、そして60年後明治維 新に成ってしまったという推測。
3.島津家御用達「こけら屋」と静岡と根笹紋と商人となれば繋がるキーワードは材木と徳川氏の膝元であ れば情報収集と成りますね。
非常に分かりやすく納得し、ちょっとドキドキしてしまうお答えでした。
長嶋氏の家紋は肝付氏と同様に「三雁金紋」であり、養子などの血縁にて根笹紋に変紋したのではと云うことですが、静岡県浜松、また長野にも近い愛知県東三河新城に移り住んでからは、同じ町の杉浦氏から養嗣子を向かえているくらいです。
杉浦氏は、桓武平氏三浦氏流らしく、三河にも移り住んでいるようです。この杉浦氏が、松平氏系桜井氏と仁木氏と血縁があり、養子を取る前の家紋があることが判明すると良いのですが、今後の課題です。
質問ばかりですみません、『肝付氏を40近い姓氏の一族一門が経済的に裏で支、その中の一つの長嶋氏が、この一門は商才に長けていたと云われます。』とのことですが、長嶋氏は薩摩史等で名前が出てき、商才に長けていたことも解っていた事実のでしょうか?