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  [No.799] 日高氏の記事について
     投稿者:日高さん   投稿日:2011/11/03(Thu) 17:19:09

[2290] 鈴木氏と日高氏の記事について
日高康博
2011/11/02 19:54 - パソコン
  初めまして。神戸市在住の日高康博(46歳)と申します。日高という苗字の由来についてネット検索しているうちにたどり着きました。青木氏の話題ではなくて申し訳ないですが、当ブログの「鈴木氏のルーツと青木氏 」という記事に日高氏について、かなり詳しく言及されていましたので、お尋ねする次第です。
1  参考文献について:「日高氏は南紀(和歌山の南地域)にある日高川の付近の土豪で熊野神宮の宮司の一族である」、「熊野神官5氏の一つ日高氏が宮司」と記述なさっていますが、これらの事実の基となった参考文献をお教えください。
2 源氏後裔の日高氏との関連:これまでの調査で、日高氏は、「源満仲の三男源賢に始まり、二男義正は紀伊国日高郡に750町歩を領して日高氏を称した。後裔の義宗は大隅に下向、親成は薩摩に下向、現在日高一族は薩隅日に多く分布する。」ということはわかっています。熊野神社の宮司となった日高氏は、「紀伊国日高郡に750町歩を領して日高氏を称した」一族と関連があるかどうかご存知でしょうか?
3 家紋:我が家の家紋は「丸にカタバミ」です。しかし、薩摩や大隅の日高氏の家紋とは異なります。熊野宮司としての日高氏に、「丸にカタバミ」の家紋を有する系統があるかどうかご存知でしょうか?
4 最後に、先祖調査にお力添えを頂けるような、熊野の日高氏にお心当たりはないでしょうか? ちなみに私の両親は熊本出身、6代前の祖父は阿蘇に住んでいたことがわかっています。

いきなり、いろいろと質問して恐縮ですが、何かおわかりでしたら、よろしくお願いいたします。

 


  [No.800] Re:日高氏の記事について
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/03(Thu) 17:23:18

日高さん 今日は。 始めまして。ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。これからもよろしくお願いします。
さて、本サイトは青木氏に関することに付いて研究している所です。青木氏と日高氏は血縁的な関係がありませんので、詳しい事は判りません。ただ私の趣味の範囲で鈴木氏を研究している為に日高氏との関連を調べた範囲です。折角ですので知る範囲に於いてお答えいたします。

先ず、第1番目のご質問ですが、熊野神社と熊野古道は世界遺産ですので、和歌山県史にも出て来ますし、熊野神社史にも出て来ますし、熊野神社第一社の藤白神社史にも出て来ますし、和歌山県日高地方史にも出てきますし、海南市史にも出てきます。鈴木氏史にも出てきます。弁慶ルーツでも出て来ます。
この辺の所にお尋ね下さい。
以上公に成っている資料をご紹介いたしましたが、其の他の資料に関しては法に基づき抵触する事も考えられ迷惑の及ぶ範囲と成りますので青木氏からはご紹介する事は出来ません。和歌山一帯では日高氏と言えば有名で資料は和歌山には沢山ありますし、日高地方には日高氏は多く現存する地域です。また義経の家来武蔵坊弁慶のルーツとしても有名で太平記にも出て来ます。
本投稿内容の通りの鈴木氏はもとは日高氏です。

第2番目のご質問ですが、先ず源氏であるかは11家11流の源氏は青木氏と同族ですので詳細に把握していますが、日高氏は源氏であるかは、また清和源氏の経基の子満仲の末裔であるかは検証の余地が大いにあります。末裔と呼称するには次ぎの3つの根拠に依って歴史的に呼称した慣習がありまして殆ど搾取偏纂であります。
先ず一つ目は「未勘氏」と呼ばれる氏の呼称です。
当時、荘園制度により源氏の名義を借りて荘園を護り税の減免を受けられると云う制度を利用し、その代わりに「イザ戦い」と成ると源氏に合力する事、見返りに源氏グループに参画し血縁性の無い源氏を名乗る事が出来る荘園制の仕組みです。この源氏グループに入り源氏を名乗った無血縁の土豪を「未勘氏族」と呼ばれます。殆ど源氏を名乗る氏は99%がこの「未勘氏」です。
この「未勘氏族」が最も多いのが源氏の中で最大勢力を誇った清和源氏です。上記した荘園制を利用して勢力を拡大したもので清和源氏の満仲の子供の3男の頼信系の分家一門(義家や頼朝)に多いのです。余りにこの「未勘氏族」を作り上げて勢力を拡大し皇族に似合わぬ行動を勝手に採った為に天皇から”皇族第6位皇子らしくない”として疎んじられて排斥され最終的に衰退します。
源氏と源氏の前身の5家5流一門の青木氏は皇族第6位皇子が賜姓を受けて臣下し天皇を護る六衛府軍親衛隊と成りましたが、これ等は家紋掟により皇族であるために家紋は笹竜胆紋以外は使用していません。従って、この家紋以外で源氏を名乗っている場合は全て傍系か「未勘氏」です。
この源氏を名乗っている氏は万を超えます。源平の戦いで殆ど滅亡してますので、万を超えるほどに子孫を遺していません。平安期には地方の土豪は全て漏れなくこの名義荘園主に組み込まれたのです。

次ぎに、「第3氏」と呼ばれる氏の呼称です。
室町末期、江戸初期、明治初期の3期の混乱期に出世は家柄身分を良くしないと出来ない風潮が起りました。そこで自己の家柄身分を誇張する為に搾取して源氏一門を勝手に第3者が名乗った時期がありました。
特に江戸初期に多く起りました。青木氏には「嵯峨期の詔勅」により青木氏を皇族以外の者が名乗っては成らないと云う禁令を発した為に比較的に青木氏を名乗る者は出なかったのですが、同族の源氏11家にはこの禁令を出しませんでした。そこで農民から身を興した者や農兵であった下級武士はこの源氏一門であるかの様に名乗ったのです。これを江戸期から「第3氏族」と呼ばれていました。
11家源氏には宗派や家紋等の慣習や掟事が皇族である為にあり、依ってこれにこの「未勘氏族」や「第3氏族」の宗派や家紋などが一致しないので判別が直ぐに可能に成るのです。

次ぎに、「一統氏族」(母方血縁族)があります。
つまり、直接の血縁性がない族で「遠縁族」で「母方血縁族」とも呼ばれる源氏族があります。
この氏は多くはありませんが、源氏11家が定住していた限定した地域の近隣に存在しています。
一応は源氏一門である事には間違いないのですが、間接血縁である為に笹竜胆紋は使えず綜紋として使える事に成ります。現在源氏を正等に名乗ることができたとしてもこの一族以外にはありません。
限定されていて各地には多く存在していませんし分布もしていません。
そもそも現実の史実は、源氏は11流11家の中で生き残ったのは室町期まででは四家のみで、鎌倉期に頼朝の子供が抹殺された時期で完全滅亡しています。
鎌倉幕府の実権を握り主導した「坂東八平氏」の北条氏等により大掃討作戦が実施されて源氏末端まで事如く抹殺されて根絶やしているのです。
紀州に於いては源氏の「新宮五郎」が鎌倉幕府に反発した為に紀州の支流源氏一統末端まで完全抹殺されました。
但し、最終、摂津を拠点としていた清和源氏宗家頼光系四家のみは末裔を遺す為に以仁王の乱の時に源氏の前身の同族5家5流賜姓青木氏の内の伊勢、信濃、甲斐の賜姓青木氏に末裔を跡目に入れて遺したのです。後は近江佐々木氏に跡目相続させています。依って源氏が青木氏と佐々木氏以外に基本的に末裔は遺されている事はないのです。残るは何とか逃亡して生き延びた母方血縁族の傍系一族ですが詳細不明で確証は採れず先ずはないと考えられます。
通説ではこれ等傍系を源氏として呼ばれていますが、全て搾取偏纂が通説化したものです。
まして、薩摩を含む全九州は太宰大監として大蔵氏の自治地盤域で、特に南九州は大蔵氏系肝付氏の領域で平安初期から朝廷に戦いを起すほどに反発していて排他的地域で明治維新まで薩摩藩のこの排他性は続きます。
(大蔵氏は日本66ケ国中32ケ国を領する氏で朝廷の政治機構の3蔵の内2蔵を担当し、朝廷軍を統括し、官僚機構の6割を彼等が占め、九州は「遠の朝廷」と呼ばれ歴史上「錦の御旗」を与えられた唯一の氏族です。 中国後漢の民族の首魁阿多倍一族の次男の末裔です。詳しい事は研究室のレポートをお読みください。たいら族と血縁遠戚です)
この敵地と観られる九州の地域には源氏一族はまったく地盤域はありません。源氏の定住地は明確に判明しています。あり得ませんし、まして清和源氏の租の「経基−満仲」です。歴史的な行動は明確に成っていますこられの人物の末裔とは驚きます。もしそうだとしたら歴史は変わっています。

ただ2つの源氏が配流している史実があり、一つは以仁王の乱の時に主謀者の清和源氏宗家の頼光系第4代目の頼政の3人の孫の内宗綱と有綱と伯父の高綱が伊勢青木氏の助命嘆願にて清盛に助けられて日向廻村に配流と成ります。清盛と同族の大蔵氏の自治基盤に配流されて、後に廻氏との間に出来た配流孫が掃討作戦にて平家に追われて薩摩大口村に逃げ延びて生き延びます。この子孫が後に嵯峨期の詔勅にて青木氏を名乗ります。この子孫は現存していまして超有名なアスリートが居られます。
もう一つは清和源氏満仲の三男の頼信の子孫の為朝が平家に追われて薩摩に逃げ延び更に沖縄に逃げ、舞い戻って伊豆の大島に隠れ住み、後に京に出てきて捉えられて死にますが、薩摩に移動したときに「逃亡孫」を遺したとする説がありますが現在も確認されていません。
南九州では源氏はこの2件しかありません。

尚、念のために、満仲の子の妾子で末子(三男とありますが10男)の源賢は僧名で比叡山僧ですし、子孫を遺していません。満仲の子10人の中に日高氏の租と成ったとする人物は正式には存在しません。「嵯峨期の詔勅」の掟で当時の慣習から3人の正妻の嗣子以外は原則的に皇族系であるために比叡山の僧に成り終わります。正子の子供の頼光の弟頼信も僧になる所を何とか兄に引き上げられて信濃−伊豆に拠点を築き侍として生きることが出来た位の社会慣習です。(分家頼信系義家の租)
この様な慣習から嵯峨期より皇族系で青木氏か源氏を名乗れる人物は現実には男女合わせてたった25人しかいなかったのです。実際は万を超える様な数え切れない数で名乗っている始末なのです。
満仲の子は「通名」は「頼・・」を使う事に成っています。(源賢は若くして僧になったので僧名)それ以外は上記した「未勘氏」の採った「名義借り」の偽名手段です。まして、皇族系であるために分家を興すかは財政的な問題が生まれ、朝廷の許可が必要なのです。
兄の頼光は上司の藤原道長に頼んで何とか嗣子の頼信の分家を興させたくらいで、その頼信系の通名の「義・・」を使っている処を観ると、宗家長男の頼光系の「頼・・」の通名ではなく、伊豆で分家を興した頼信系の通名に成っています。提供された情報は明らかに「後付」で混同していますので「未勘氏」の当時の手段の「名義借り」を物語ります。
そうすると、この「後付」は平安末期の日高氏発祥後の更に後の源氏滅亡後の室町期末期頃と成ります。
平安末期には頼信系の義経はこの日高氏の藤白神社で弁慶の帰りを待って暮らしていますので時代性、通名、嗣子関係、跡目慣習、門跡慣習、還俗慣習、末裔系譜の有無等全て矛盾しています。

以上の3つの源氏の呼称の説明の通りです。日高氏は源氏であるかの事は検証しなおされる事をお勧め致します。
そうすると、日高氏は紀州が発祥である事は歴史的な年代から観ても間違いないのですが、何故に平安初期に薩摩に移住したかは疑問です。当時の政治機構や社会体制が自由に移動を許されるものではなく、勝手に国を抜け出すと「国抜け」と云って一族郎党全て斬罪になります。
紀州の一地方の土豪が南九州に移動する事は先ず正式にはあり得ません。紀州は平安期は藤原北家一門の領国で藤原脩行の支配下にありました。この藤原脩行は南九州に移動していません。
主家のそれを飛び越えて紀州の一土豪のそれも無位無官で熊野神官族が主君の藤原氏を超えて移動する事、まして定住する事等あり得ません。
”下向”と表現する以上朝廷より赴任を命じられた事を意味しますが、藤原氏を超えての赴任命令はありえませんし、更に赴任を命じられる身分家柄では到底ありません。
「有品の令」(蔭位の制)の従5位下の身分でやっと下向を命じられるのに無官無位のまして土豪が命じられる事は全くありません。
また鎌倉期以降にしても紀州の神官職や農業を営んでいた一土豪日高氏が守護、地頭等になって薩摩に移動する事はありません。又薩摩には42氏の豪族が居て全て大蔵氏一族一門です。其処に紀州の土豪が入る事は不可能です。もし入ればそれこそ戦いです。当時の定められた社会慣習を無視しています。
平安期から社会は「氏族」が、鎌倉期からの多く生まれた「姓族」とに2つに分類出来て「姓族」は身分家柄が低い為に「4つの令」があり官職には就けませんし、鎌倉期もこの慣習をほぼ踏襲しました。

ただ一つ可能性として、熊野神社の布教の為に神官職として移動した事は考えられますが、この場合は江戸期に入っての事であります。確かに南九州に熊野神社の建立は2社認められます。
江戸中期以降に三島村と出水村とに建立されています。しかし明治維新の廃仏毀釈により全て消失していることも考えられます。
その一族で在れば結局は明治初期の定住者と成ります。明治前は神官職の定住は2−4年程度で戻る仕組みに成っていますので、定住が自由になったのは明治維新期の事に成ります。
とすると日高氏の九州の系譜は時代性が大きく異なりますので、江戸初期頃か遅くても明治初期頃に作成した搾取偏纂系譜を意味します。最も多いパターンです。

明治維新の政策により「自由契約社会」と社会構造がすっかり変わりましたので、明治3年に苗字令、8年に督促令を出し全国民の90%以上の者が苗字を持つ事に成りました。この庶民は苗字と氏と姓を形成する慣習がありませんでしたのでルーツを持ち得ませんし、依って檀家寺も持ち得ません。全て河原の路傍の石を積み上げての墓形式で、まして土葬でありますので土に帰るという仏教の教えに従い墓所は庶民や下級武士は持ち得ませんでした。
これは良悪の問題では無く氏家制度の中での社会慣習の宗教的な仕来りでした。
そこで先ず、お家の日高氏を明治維新の戸籍簿をご覧になって観られると、維新戸籍簿に過去の身分家柄も追記されていて、どこから移動してきたかも記載されていますのでご確認ください。
次ぎにお家の菩提寺の有無を確認されて、菩提寺が存在するのであれば菩提寺に過去帳と云う物が存在し、お家の累代のご先祖の俗名と戒名と共に記録されています。恐らくは日高氏には菩提寺はないと考えられますので、次ぎは本家の檀家寺を探し出しそこに由来書または人別帳、または過去帳がありますのでお調べください。人別帳の場合は明治3年の苗字令による姓と成ります。

菩提寺が無い事は源氏ではありませんし、南九州に根を張った氏と姓では無い事を意味します。戒名が明治以降のものしかない場合は明治3年の苗字令に基づく日高氏と成ります。
村人全員が一夜にして何らかの縁により日高の姓を選んだことも考えられ、当時明治維新は政府は苗字令がなかなか進まず半強制的に名乗らせるという事が全国各地で起こったのです。
この時、近くに熊野神社が在ってそこの神官名を名乗らせたと云う事も起こったのでは無いでしょうか。殆どはこの様な経緯を辿りました。
関東では郡全体で一夜にして藤原氏を名乗り家紋も同じにしたと言うことも珍しくないのです。それでなくては4500万の内の九割方の国民の苗字など決められる事は当時としてはあり得ませんでした。中には金品を払って神社や寺にお願いをして名籍の姓と偽系譜を付けてもらうことも起こりました。
明治維新の戸籍簿に平民士分の区別が書かれていますのでそれでも確認出来ます。その場合、もし移動であるのなら紀州から移動してきた事が書かれています。書かれていなければ明治の苗字令に基づく姓です。

問題は紀州日高氏となれば神道ですので、菩提寺、檀家寺、戒名などはありませんし、あるとしては紀州日高氏の末裔では無い事に成ります。
紀州日高氏は熊野神社ですが、九州の日高氏は仮に源氏としているならば祖先神の八幡神社が守護神です。完全に矛盾しています。上記しました様に源氏の敵の大蔵氏の根拠地で南九州の其処には源氏の根拠地がある事はありませんので源氏では無い事は明らかで矛盾です。依って日高氏の発祥地の紀州の日高氏は九州の日高氏ではないことに成りどこを捉えても成り立ちません。
そもそも九州の日高氏の姓には何か姓氏に疑問そのものを感じます。日高氏そのものに矛盾がありすぎます。”源氏云々”などの説は歴史の社会慣習をあまりにも無視していますので比較的新しい時期の家柄誇張の搾取偏纂と観られます。

ところでお家の宗派は何宗ですか。神道派ですので宗派は無い事に成りますので、これでも判別が付きます。お家の調べた系譜の云う通りとすると浄土宗の筈ですがお調べください。その日高氏の宗派で全て判明します。
ところが南九州には浄土宗派は密教である為に極めて少なく、江戸期前には先ずありません。江戸初期に浄土宗督奨令で九州にも密教ではない浄土宗寺の建立(2寺)がやっと認められましたのでそれ以降の氏と成りますが、この場合は薩摩の上級武士の入信と成ります。
浄土宗は江戸初期前は密教方式の寺ですので一氏の排他的独善独自のみの菩提寺と成ります。
神道で無く且つ浄土宗でなければ大方明治3年の姓氏と成ります。
紀州の日高氏と薩摩の日高氏との関連は考え難いことをこの様に歴史史実が物語ります。

次ぎは家紋のご質問ですが、上記の事を証明する事に成ります。これは神道では無い事を意味します。つまり、平安期からの紀州日高氏の末裔では無い事をも意味します。
そこで家紋ですが。「丸に片喰紋」ですが、この片喰の家紋の出自は駿河三河地方の一族です。この家紋の分布は限定されていて、ある特定の氏、つまり、藤原秀郷一門の主要家紋8氏の一つです。その氏の赴任先にのみ分布しています。主に四国阿波一帯と武蔵一帯の西より域に分布しています。
南九州にはこの一門は江戸期まで移動していませんので明治期の家紋保持と成ります。
更に、それを証明する一つとして「丸付き紋」ですが、これには6つのパターンがありますが、この「丸付き紋」から考えると、江戸中期以降の事と成りますが、普通は「丸付き紋」は明治期に一挙に増えた家紋です。上記した苗字令等に依り家紋を持つ氏の家紋を使うのはおこがましいので丸付きにしたと言うことが起りました。
藤原秀郷一門は家紋掟により「丸付き紋」は原則使用しませんので藤原一紋とも考え難いのです。

ただ、家紋掟により2代続きで男系跡目が得られなかった場合には女系となり、第1の養子先の家紋と成りますし、その一族の系列に入ります。養子先が「丸に片喰紋」であった場合に起こります。
もう一つはお家のご先祖が妾子の場合、本家から片喰紋使用を認められなかった場合に止む無く「丸付き紋」の片喰紋と成る事も起こります。(研究室の「家紋掟」のレポートをお読みください)
この2つの場合として元の家紋が何であったかは上記した過去帳をお調べに成れば判ります。

4番目のご質問ですが、1から3番までのことをお調べになる事でお判りになると思います。
先ずは「ご本家」の維新戸籍簿とご本家の過去帳または人別帳をお調べになればお判りに成るかと思います。ルーツ探求は其処から入る必要があります。過去帳が存在するのであればルーツの探求は可能です。
6代目とされています事から明治維新前後か江戸中期後と成りますので、上記の矛盾と合わせて特別な場合を除いて江戸期の過去帳は存在しないのではないかとも予想できます。
(中級武士以上は江戸期前の戸籍簿は寺と神社が行っていた。庶民は姓を持ちませんので累代戸籍の慣習はなく、村の庄屋が人別帳で現状を管理していた。)

紀州の日高氏の片喰紋に関しては熊野神社系である事と片喰紋は藤原秀郷一門の家紋群の一つである事と丸付き紋である事から判断して江戸期中期前半以前にはないのではないと観られます。
日高氏は紀州の一地方の土豪である事から極めて限定された狭い範囲であり公的な詳細な資料関係もないと観られます。日高氏は「氏族」ではなく「姓族」で日高地方の「郷士」ですので其処まで調べられる事はかなり難しいと考えられ個人資料の発掘領域かと考えられます。
歌舞伎で有名な「安珍と清姫」物語の道成寺の里です。
ルーツ探求は上記した様に和歌山の歴史のその辺の基本的なところから調べに入る事が必要ですよ。
その前に”ルーツを持っているか”の「維新戸籍簿」と「過去帳または人別帳」をお調べになる事をお勧めします。日高氏の場合はここから入らないと正しいルーツの判別は無理だと思います。

以上ですが、念のためにマスメディアに出ている資料の説は多くは江戸期の搾取偏纂の資料や系譜などを正としてそれに基づいて論処を立てているものが多くあり、それを信じるかは自由ですが先ずは疑う事から検証し利用に値するかを決められる事が必要です。コンピーター社会等の現代社会の宿命です。
これ等の歴史の事は地方の観光資源としても実に効果的である事から最近では富に恣意的に疑問や矛盾をある事を知りながらも訂正や前置きをせずにいかにも史実であるかの搾取誇大宣伝をしている公的な関係機関もあるくらいであります。最近の歴史ブームでのマスメディアも然りであります。
仮に正しさの史実を知るのであれば、その検証には矢張り歴史雑学が必要に成ります。その雑学に合していれば信じるに値します。先ずその雑学を先ず把握される事をお勧めします。
これ等の疑問や矛盾をクリャーする何かがあるのかは不明ですが、.ルーツ探求はこの矛盾や疑問を解きほぐして行かなければ正しい答えは出てこない筈です。それには雑学を駆使する必要があります。そもそも過去の社会が末端のルーツまでを簡単に探求できる社会構造ではなかった筈です。今回はその雑学の一端でお答えいたしましたのでご了承ください。

もし、その雑学は直ぐには取得は困難な場合には青木氏の本サイトがご協力申し上げます。
自由にお問い合わせください。その場合は、トップページの左メニューのルーツ掲示板からご投稿ください。雑談掲示板はメモリーが小さいので困難と成ります。今回のご投稿によりルーツ掲示板にお家の専用投稿欄を設けますのでそこからReでお尋ねいただければと思います。
日高氏に限りらず多くの他氏の方からのお便りが多くありますよ。


  [No.886] ご回答御礼
     投稿者:日高康博   投稿日:2013/02/06(Wed) 13:06:03

青木さんには、私の質問に対して、たいへん詳しく丁寧なご回答をいただき心より御礼申し上げます。また、お礼を申し上げるのが1年3か月も遅れまして、本当に申し訳ありませんでした。無礼をお詫びいたします。

いただいたご回答につきましては、詳しく拝読してから改めて感想、及び質問の追加などをさせて頂きます。ただ、家紋についてのお答えについて、「片喰の家紋が藤原秀郷一門の主要家紋8氏の一つ」であると言及されていたことに、思い出されることがありましたので記述いたします。

私は、かつて古流剣術に関心があり、新陰流の稽古をしていた時期がありました。ある新陰流関連書籍を買った時、新陰流の流祖である上泉伊勢守信綱の家紋が「丸にカタバミ」で、我が日高家と全く同じ紋様であったので驚いたことがありました。

さらに上泉伊勢守信綱の来歴を書籍で読んだ時に、「藤原秀郷の庶流である大胡氏の出身で本姓は藤原」といったことが書いてあったことを思い出し、青木さんのご記述から推察しますと、上泉信綱の出身である大胡氏は藤原秀郷の庶流であったので、本家に配慮して丸付紋にしたのではないかと思われました。

それでは、また連絡いたします。丁寧なご回答をいただいたことに対しまして、重ねて御礼申し上げます。


  [No.887] Re:ご回答御礼
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/07(Thu) 07:15:12

日高さん 今日は。お久しぶりです。

お便りありがとう御座います。
そうですか、剣術をされていたのですね。
その新陰流の祖とされる人が「丸に片喰紋」でお家のご家紋と同じとの事ですね。

その祖の江戸時代の国、或いは地域が何処かと云う事を知るとそのルーツの流れがある程度の範囲で判り、その愛知と静岡付近の片喰家紋族が何らかの理由(仕官赴任)で移動した経路が判ります。
それが紀州発祥の地の日高氏とどのように繋がったのか、何故同じ家紋と成ったのかがある程度雑学で判ります。
前回にもお答えしました様に、日高氏は和歌山の豪族で熊野神社の神官職の家柄で、この地域は藤原一門の藤原脩行の一族が治めていました。
何らかの関係でこの脩行の家臣の中の丸の片喰紋の家紋を持つ族から養子をとり男系跡目が叶わず養子先の家紋と成り、その系列化に入った分家筋の日高氏は脩行の赴任終了に伴なって家臣の帰参と共に移動したとの筋道も立てられます。
その時に、”その家臣の里の一族に新陰流の祖の末裔が血縁族としていた”として、家紋が同じに成ったと云う推理が成立ちます。
片喰紋の丸付き紋は秀郷一門の大胡氏であるとすると、恐らくは庶流の庶流と成る事に成ります。
実は、藤原氏、中でも北家筋の綜紋「下がり藤紋」の秀郷一門はその一門の氏名は「一定の決り」を持って定めています。
一族一門の枝葉が余りにも多く成った事からこの決まりを決めて何処のどれほどの身分の藤原氏か判る様にしたのです。
「3通りの決まり」があり、一門の地名や官職や役目の官職役職名の前の字句を藤の前に付ける方法です。
例えば、役職の佐官階級の藤原氏は佐藤氏等、築城や工事などの責任者を務めている官職の「工」(たくみ)の工藤氏、地名では伊勢の藤原氏の伊藤氏等々の全てをこの要領で氏名の仮呼称としています。この要領で附けられているのが361氏あります。
特に、主要5氏(青木氏、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏)と主要8氏を除くと、この要領に沿っています。
この主要氏と361氏の中に大胡氏は確認出来ません。依って、この大胡氏は庶流である事であり、次ぎに藤原氏と北家の秀郷一門361氏は原則は「丸付き紋」を使用しない決まりに成っています。
「副紋方式」と云う仕来りに従っています。
従って、「藤原氏の厳しい慣習」の決りに従わなくても良い必要の無い氏と成りますので庶流の更に下の庶流と成ります。
この事から藤原脩行の家臣との筋書きが出来ます。
もう一つは、前回のお答えの中に弁慶の事を書きましたが、熊野神社5氏は源氏か平家に着くかで一族の中で争いが起こりました。
この結果、源氏側に着く事に成ったのです。
其処で、平安末期の時に平家側に着いた一族が熊野の新宮を去り、関東に北側域に逃げ込みました。この中に紀北よりの日高氏分家がいましたがのこの一族が関東に逃げて定住します。
この一族が地元の秀郷一門361氏の片喰紋と血縁したと考えられます。そして秀郷一門の中に上記の理由で庶流に組み込まれたとも考えられます。

そして、前回のお答えの鈴木氏の説ですが、弁慶が義経を伴なって鞍馬山を逃げ出し紀州熊野神社に庇護を求めます。この時、熊野神社の第1神社の藤白神社に立ち寄ります。この神社は日高氏です。
この藤白神社に熊野詣で後醍醐天皇らは33年間の内32回も訪れたものでその最初に泊まる神社です。
この神社で日高氏が鈴木と云う姓を貰います。
日高氏には子供が居なかった事から氏子から養子を取ります。この日高氏に成った養子が鈴木氏を引き継ぎます。この時に平家に追われた義経や弁慶等が一時親類のこの神社に逃げ込んだのです。この後、弁慶は神宮の熊野神社に交渉に出かけます。
この藤白神社で待つ義経の世話一切を看たのがこの鈴木姓を引き継いだ氏子(三郎)この養子でした。この時、三郎は源の義経との主従の関係を結びます。三郎の弟の六郎も家来に成り、亀井と云う姓を名乗ります。弁慶が熊野神社との交渉が決裂して、結局、鈴木と亀井の兄弟を伴なってひ平泉まで落延びたのです。この時、鈴木三郎は各地で源氏勢力を拡大させる為に「現地妻」を作り子孫を拡大させます。
これが鈴木氏と亀井氏と日高氏が全国に広まった原因です。この日高氏は鈴木姓の元の養子先の日高氏の姓を名乗った鈴木氏の末裔です。日本全国の鈴木さんはこの末裔です。
従って、この鈴木氏の末裔の鈴木氏の移動に伴い日高氏も全国に広まったのです。お便りの九州の説もこの説では成立ちます。
私はお家はこの3つの説の内、この鈴木氏系日高氏が高いと観ています。
平泉も陸奥に定住していた藤原秀郷一門ですので、片喰紋と鈴木氏系日高氏は当然に考えられます。

前回のお答えの調査内容の何れかの内容が判れば、この初期の筋書きに繋がる事が判ります。そうすれば九州の件も藤原氏のある事で前回の九州の事と繋がって来ます。

兎も角も、前回のお答えの何がしの情報がお判りに成られたら又お便りください。
著とした事でも雑学で大きく進展する事も起るのです。
少しづつでも進めて行く事が出来ます。

では、またお便りください。