青木ルーツ掲示板
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  [No.811] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/11/28(Mon) 20:20:01

静岡の長嶋さん 今日は。
大変ご努力されている様ですね。
推理を働かして少しづつ前に進めて行くとほぐれた糸が解きほぐれてきます。
これが楽しいのですよね。推理が当った時の嬉しさはスポーツの勝利の楽しみと同じですね。

お家のルーツ解明の問題としては、今は不祥の誰が肝付氏と血縁したのか、何故不祥に成っているのか、この処を解明する必要が有りますね。
肝付氏は大蔵氏族ですから、大蔵氏側にヒントがあるのか、肝付氏側にヒントがあるのかと云う事の解明ですね。
何か事件性が感じるのです。肝付氏の長嶋氏の元祖が不詳に成っているのは何故か。後ははっきりと判っているのに。
何か問題を起して廃嫡処分等に成った事が考えられ、この時代は戦国時代でこの廃嫡が多く起っていたのです。
1継承者がこの時代を切り抜ける為の能力が無かった場合
2継承者が何かの理由で大蔵氏か肝付氏の何れかの人物にある場合
3事件を起して系譜から抹殺された場合
等が考えられます。
私は2の場合が強いと考えています。
この時代だけに背景に1と3も原因していたと観ています。

”兄兼重が大きすぎるためか”のお家の推理は当っていると観ます。
私と同じ考えです。
そこで、系譜の成り立ちを添書と良く見比べながら、この間ある推理説に付いて見直しで調べておりましたが、系譜に一箇所疑問のところを発見しました。それが次ぎの通りです。
次ぎの推理ではこの「不祥」とする点が解決します。

肝付氏側から見た場合
”「兼重」の1子の「周防守秋兼」を宗家の「肝付兼尚」の娘に養子に出し宗家の跡目とする”とあり、”この「兼重」の弟「兼成」の1子の「左衛門尉兼幸」を・「赤子」の時から養子に迎えて養い後に嗣子にした”としていますから、分家の自分の子供を、既に嫡子のある「兼尚」の宗家に出してその娘に養子とし同族血縁で跡目を継がし、跡目の無くなった自分は弟の部屋住みの「兼成」の「子」の「兼幸」を「子供」の頃から育てて養子にし自分の分家の跡取にしたと言う経緯があります。

上記の添書の”子供の頃から”と云う字句が問題です。
つまり、”始めの頃からこの宗家に対する戦略を練っていて実行した”と云う事を意味します。
それだけに「宗家に対する危機感」を有していて何とか「肝付氏」を護ろうとしていた事に成ります。
当然に現状の立場を保守しようとして宗家筋からは猛烈な反発が出る事は必定です。
その危機感は、「島津氏の台頭」と「宗家の無能」であったと観られます。
恐らくは、宗家筋から観た場合は分家筋からは「乗っ取り」と成るでしょう。かなりの内紛があった事に成ります。
故に「兼俊−兼重」側からは「系譜の不祥処置」や「長嶋氏(永嶋氏)の出自」で事態を納めようとしたと考えられます。現実に確固たる人物の跡目を据える事で”事態は一時納まった”と成ります。
但し、もう一つの危機の「島津氏台頭の件」は保守派と強行派との対立が再燃し、「高山城の戦い」で強行派の通りに火蓋は切られます。結局は「親子対立」の様相を呈する事に成ってしまったのです。
これでは、この時点で「兼俊−兼重」の立場は「悪者」「裏切り者」として扱われて無くなってしまう事に成ります。”系譜を消される”とは成らないが「不祥処置]は免れないでしょう。
後の肝付氏の一族一門からは逆恨みが「口伝」として伝えられていた事を物語ります。
事前に「兼俊−兼重」は島津氏との間で「裏工作」をしていた事が覗えます。
その証拠に「肝付氏敗退」では島津氏は肝付氏を阿多地域と肝付の領国を与え家老に抜擢したのです。そして、血縁関係を結んだのです。
これは島津氏が明らかに初期の「兼俊−兼重」の「血縁関係などの裏工作」を信じていた事に他成りません。下記に記す戦いの経緯でも兼久の高山の初戦から兼続26まで勢力を戻していますから島津氏は手を引いていた事に成ります。結局、29代で決着を就けて敗退するのです。

「兼尚」には妾子の嗣子が一人居た事が判っていますが系譜には「某」(不祥)としか出てきません。
添書には”若年にて早世”とあります。
恐らくはこの時代の厳しい武家の慣わしから「亜子」であった可能性があり、または「亜子」として扱われた場合や、廃嫡され場合に依っては充分に抹殺された可能性が高い事が考えられます。
「亜子」で無くても嫡子に価しないと観られた場合、或いは困難と観られた場合には抹殺されるのがこの時代の名門宗家の仕来りですから、当然にこの系譜の様に系譜上には「某」として扱われ「若年早世」とか書かれるのが「慣わし」です。
恐らくは545年以上も長期間一族を維持して来た事には、乱世に置いては並大抵の事では維持できません。同族結婚を主体とした「民族氏」の大蔵氏族ですから隔世遺伝で必ず「弊害子」が出てくる事は間違いは無く、その為に「妾子」を多く作るようにしている訳ですから、同族結婚からの弊害(亜子)が起っていた事が考えられます。
この宗家の「兼尚」も多少其の傾向を持っていた事が考えられ、宗家跡目としての力量に疑問が有って、分家本家の「兼俊−兼重」が一族の実権を握っていた事でそれを物語ります。
つまり、宗家の「兼尚」の存在が完全に無視されています。
此処では「兼俊−兼重」の宗家の代理として実権を振るっています。
それならば戦国の世の慣わしからすれば自分「兼俊−兼重」が宗家の跡目と成るのが当り前の慣わしです。然し、分家の侭に実権を握っているのです。

だから、此処が重要なポイントで、故に肝付氏ではなく「永嶋氏−長嶋氏」を名乗ったのであり、そうする事に依って、”一族一門の反発や不満を押さえ込んだ”と観られます。
”分家が本家を乗っ取った”とする本家側の勢力を交したのではないでしょうか。
重要なのは、「兼重」と「兼尚」の関係と、「兼成」−「兼幸」の養子の問題の事件性です。
この系譜が変です。
何故、「兼俊−兼重」は宗家を思うままにこれ程の実権を握っていたのかが先ず疑問です。
この4人の何れかが大蔵氏との長嶋氏(永嶋氏)の名籍を継いだ血縁者である可能性があります。
もしそうだとすると、「継承者不祥」の問題は解けます。
その4人の中で”最も可能性の高い人物は誰か”と成ります。
実権的には「兼重−兼成−兼尚−兼幸」と成るのではないでしょうか。
それに「秋兼」は妾子ですが、宗家の跡目にした事も変です。
本来であれば宗家の跡目となると正妻の嫡子と成ります。
恐らくは弊害子の出ない妾子で総宗本家を立て直す戦略に出たと考えられます。
故に「秋兼」は妾子でありながら、且つ分家でありながら、”周防守の職位”を得ており、「兼幸」は”左衛門尉の官位”と、本流宗家が継ぐ官位官職を持っています。既に宗家分家は逆転していた事と、「兼尚」に官職が無い事はそれ相当の宗家の能力が無い事を認めていて朝廷や幕府は認めていないことを物語ります。
実権は明らかに分家側にあり朝廷と幕府はこの状態を認めていた事を意味します。つまり本家にしか与えられないものが分家筋に与えられていた事から既に本家としての機能を果たしていた事に成ります。
更に、「兼俊と兼重」にも与えていない所からこの二人は別扱いとして分家であり、肝付氏とは異なる立場、つまり長嶋氏(永嶋氏)であった事に成ります。
子供の2人が与えられている事はこの二人は長嶋氏(永嶋氏)の出自でありながらも上記した宗家の跡目に入り肝付氏の宗家の身分と成った事で官位官職を得た事を意味します。

更には単純には官位官職は与えませんから、宗家としての実力能力が認められての事ですから、この実権を握れるには「兼尚」を抑えられる同族の中でも身分家柄で上位にある者と大蔵氏の背景を強く持っている物と2つと成ります。
もちろん実力も備わっての事ですから、「兼重」かその親である「兼俊」の「兼俊−兼重」の背景があります。
さすれば総宗本家の大蔵氏の背景があり何よりの宗家を牛耳るだけの実力の背景と成りますと「兼俊」か「兼重」と成ります。
もしこの2人とすれば説明がついている事ですから「系譜不祥」は解決します。
この系譜の添書に書き入れる必要が無い事に成ります。十分に「読み取れる人物」として考えられるに依って、後日”系譜を作った時に編者は書き入れなかった”と云う事に成ります。

「兼俊」か「兼重」かの問題ですが、年代数から観ると親の「兼俊」と考えられます。
実力を出せるのは「兼尚」の年代にあわせると「兼俊」の子供の「兼重」と成るでしょう。
兎も角も「兼俊−兼重」が長嶋氏(永嶋氏)の継承者と考えます。
もしこの肝付氏の中にもう一人の人物を入れるとすると、当時の平均年齢から見ると年数的に多少無理と成ります。
また、「兼俊」が長嶋氏(永嶋氏)の名籍を継ぎ肝付氏一族の中で発言力と実力を発揮するには先ず基盤を構築せねば成りません。直ぐに分家「部屋住み」の者が肝付氏宗家に発言するには一族一門は黙っていません。
そうなるとその基盤を基に何時の世も優秀であれば2代目の分家筋が強く成るのが必然で条理です。
一族一門を束ねる度量と器の人物が招き入れられるが戦国の名籍の条理ですから、そうなると「兼重」がその道を歩んでいますから考えられるシナリオですので矛盾は少ないし、「兼重」が分家である事から一致します。
仮に、ある人物が長嶋氏(永嶋氏)を継承したとして、系譜上に乗らない添書に乗らない人物とは戦国の時代での考えられるのはただ一つは一族一門の裏切りによる廃嫡です。
当然に系譜からはその系譜の編集者の個人的考えで名誉ある名籍の系譜から抹殺する事が起こるのがこの戦国の武家の系譜です。
では、「部屋住み」が長嶋氏(永嶋氏)の名籍の分家を興したのに裏切り行為で系譜末梢と成ると、当時、争いの火種に成っていて台頭して来た島津氏との関係です。
現実に其の後(兼久)に高山城で火蓋が切られています。

島津氏と政略結婚で平和裏に進めようとする派閥と戦いで決着を就けようとする派閥との争いと成ります。
迫り来る島津氏の勢いに対して、一族一門は協議を重ね戦略を如何するかの激論を交されていたと考えられます。
この時の兼尚の押さえ込みと兼重らの宗家の跡目問題等はこの時に起こっていた事件ではないかと考えられます。

そして、推理の域を越えませんが、「兼俊−兼重」派は平和裏に政略結婚を勧めて収めようとする派に成り、宗家に跡目に入れた子供の秋兼との間で意見の対立が起ったのでは無いでしょうか。
結果は宗家の戦い派が主導して行った事に成ります。
そのために肝付氏の系譜には長嶋氏(永嶋氏)の継承者が不詳扱いにされたのではないでしょうか。
然し、「不祥」扱いにしても添書から観れば”継承者は誰であるかは一目瞭然に判る様にしていた”と考えられます。編集者は引き継がれて来た「事件性のある口伝」をこの様に”工夫して系譜上に遺した”と考えられます。

恐らくは、545年もの続く名籍であり大蔵氏や藤原氏からすればからすれば800年くらいの超名籍ですから平和裏は少数派に成ると考えられます。
然し、実際はこの戦いから肝付氏は衰退を起します。

文書ではこの後にすぐに、”永正3年八月、島津忠昌(忠久より11代)当城(高山城 山元城)を抜かむとして攻め来る。城主肝付河内守兼久(長嶋氏の元祖)は密に志布志城主新納忠武に援を乞う。忠武不意に島津の営を襲う。忠昌利あらず、同十二月兵を収めて鹿児島に退く、・・・云々。と有ります。
又、二十六代の河内守兼続は「日向」(諸邑・諸県)を併せて兵勢盛なり。二十九代の左馬助兼道に至り、徐々に勢い衰え僅かに高山(一邑)のみを保つ至り、天正八年遂に島津氏に属して薩摩阿多に移る。その後・・・云々。”と有ります。

”邑”は村の意 「邑、村、郡、県」 長嶋氏(永嶋氏)の親族が集まって集団を形成していた証拠の地名が明記されていて、その地名は何と”一”と”諸”で一族の家柄を物語る地名にしています。”一つ”と”全て”ですから「分家」と「本家」か、「裔」と「祖」か等の意味として取れます。この意味からすると、日向は現在の地名が”諸県”で昔は”諸邑”なので「祖」であるとして「永嶋氏」で、高山の一邑は「末裔」(分家)の「長嶋氏」と読み取れます。現実に史実はその様に成っていますので、上記した異変の様子を明らかに物語ります。

この戦いでも新納氏は島津氏を裏切り攻めています。この様に肝付氏は大変な時期に成っていたのです。
この事から一族一門の意思を統一する為に長嶋氏(永嶋氏)の継承者は抹殺された事も考えられます。
むしろ、「長嶋氏(永嶋氏)の継承」も肝付氏を名乗る事を拒まれて自ら大蔵氏系永嶋氏から伊勢族の長嶋氏(永嶋氏)の名籍を後に名乗った事も考えられます。
故に、廃嫡で生き延びた末裔が長島氏、長嶋氏、永嶋氏、長嶌等の名乗りが興ったとも考えられます。
第3氏でない限り「氏の呼称」の乱れは何かを物語って見逃す事の出来ない要素と云えます。
中でも阿多では長島氏、肝付では長嶋氏、肝付との国境の大口付近から日向までは永嶋氏と成ります、
お家の静岡に移動した人は長嶌氏を名乗っているのも、後に本来の長嶋氏に戻したのもこの経緯から来ているのかもしれません。

鹿児島を離れ愛知に移動した事と商いに従事した事で「長嶌氏」とした可能性がありますね。
それを次ぎのお家の養子の方の時に明治維新にも成った事なので肝属の長嶋氏に戻したと考えられますね。上記する鹿児島の肝付氏の厳しい慣習が外れた事で戻したのではないでしょうか。

戦国時代に伝統あり超名籍の「氏呼称」の字句を変えるのはこの様な異変によくある事象なのです。
ただ名籍が歴然として永嶋氏から継承されて肝付氏の膝元に遺されている訳ですから、この場合は誰かを廃嫡された継承者の人物に代わって跡目を肝付氏一族一門は継承させている筈です。
これが、「兼俊」か「兼重」に成ると観ている訳です。
この2つの推理説の何れにしても「不祥」であって「不明」ではないのです。
何れにも、「兼俊」か「兼重」が無理なくマッチングします。

つまり後勘から観ての前者説や後者説にしても系譜編纂時の編者の思惑が働いていることを意味します。
実は、系譜偏集者不明です。 普通は書き記しとして”編集者”と ”後勘に問う”とか”後勘に備う”のが系編集の際の最後の字句が決まり事です。 手紙で「長嶋・・」と書き「敬具」とか「草々」と記す様に。
この決まりの印が無いのも変ですし、編集者が書き記し難かったと観られ、この事からも長嶋氏に「氏呼称」の乱れがあった事が明らかに覗えます。
事件性として「氏呼称」に最後まで尾を引いていた事が判ります。

そこでこの2つの推理説の確証的なものを探すために大蔵氏から検証したのですが、「種武」ですがこの「種武」周辺に何か疑問に成る点が出てこないか探っていましたが出てきません。
と云うのは、大蔵氏は南の一族の宗家が弱体して島津氏に侵蝕される事は戦略上好ましく無い事から種武の永嶋氏を分家側の跡目に入れて肝付氏の宗家の建て直しに差し向けた事が強く考えられます。
だとすると大蔵氏に何かの痕跡が残っている筈です。
案の定、有ったのは矢張り北と東の一族の強化策に出ているのです。
むしろ、大蔵氏は末裔の北九州の大豪族の菊地氏との関係に重点を置いている傾向が添書から読み取れます。
大蔵氏は南の同族の肝付氏と北の同族の菊池氏との戦略的な強い血縁関係を築こうとしていた事が読み取れます。当然に南の肝付氏も問題を持っていたのですから強化策を取ったと観るのが自然です。
そのキーの氏と成ったのが長嶋氏(永嶋氏)と菊地氏で有った事が読み取れますが、中には中部地域の佐伯氏や佐竹氏等とも血縁関係を深めています。
長嶋氏(永嶋氏)継承に関する人物は「種武」のみしか出てきません。
恐らくは肝付氏の中でも宗家(兼尚)より分家筋の「兼俊−兼重」の実力者を選んでいる筈です。
菊地氏も添書で観ると戦略的には何かある様で宗家筋は選ばず同様のようで実力者を選んでいるのです。

前回のお答え
種武の子(不祥)が肝付氏と血縁 1400年頃
兼行−兼貞−兼俊−兼重−秋兼−兼尚(−肝付氏) 
兼重の弟の兼成−兼幸−「兼久」・・兼続26・・兼道29 1581年島津氏に敗北
兼成は大蔵氏系永嶋氏(長嶋氏)と血縁 1410年頃
兼久が長嶋氏を継承し発祥 1507年頃 永嶋氏から長嶋と変名

種武の子=兼俊→分家肝付氏の跡目 肝付氏の通名名乗る
兼俊→永嶋氏 肝付氏系永嶋氏の祖
兼俊−兼重−秋兼→肝付氏の跡目宗家
   −兼成−兼幸→肝付氏系永嶋氏の跡目
   −兼重−兼幸−兼久→肝付氏系長嶋氏の祖   

以上の跡目劇があった事に成ります。

次ぎに長嶋氏と肝付氏の名乗りの件ですが、長嶋氏は肝付氏から母方筋または養子先筋の名籍を部屋住みが名乗ったのですから、要は肝付氏なのです。何れを名乗るかはその場の状況に依ります。
兼久が肝付氏で名乗っている場合と、永嶋氏で名乗っている場合とがあります永嶋氏からすれば長嶋氏ですし、肝付氏を論じている資料では肝付氏を名乗る事に成るでしょう。
但し、本流筋のみの事です。傍系筋は出来ない慣習です。

例えば、藤原秀郷一門の長嶋氏や永嶋氏は例えば「長嶋・・」と名乗りますと、それは正式には「藤原・・」と名乗るのです。「藤原朝臣長嶋の・・」「藤原朝臣斎藤の・・」と名乗ることにも成ります。
肝付氏系長嶋氏であれば「長嶋・・」は「肝付・・」と名乗る事が許されているのです。
しかしこれも支流一族傍系は名乗れません。あくまでも本流の総宗本家−宗家−本家−分家の範囲での名乗りです。ですから、長嶋氏は肝付氏の宗家に跡目を入れる本流ですから、「肝付氏第・・代長嶋の・・」と成ります。ただ藤原氏を名乗る事が出来るかですが、九州長嶋氏の前に大蔵氏永嶋氏があり更には大蔵氏がありますので、藤原氏からは本流ではなく傍系と成りますので無理と成ります。
前回のお答えにも長嶋氏と書かずに肝付氏の代数を書き記しましたのはこの意味を持たすためです。

今回は以上の様に「不祥」としているのところの検証で更に見直しの調査をしていましたが、矢張り上記の「2つの推理説」しか出て来ませんが、自信はあるのですが「兼俊−兼重」の私説は超えませんでした。

これからの確証資料の発見が期待したいのですが、長嶋氏からは資料の遺産が少ない為に難しいかも知れませんね。
家紋分析からも試みましたが無理でした。
後は島津氏からの考察以外には無いと考えられますね。

ではまた何か有りましたらお尋ねください。



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