青木ルーツ掲示板
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  [No.824] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2011/12/27(Tue) 11:08:43

長嶋さん 今日は。

お便りありがとう御座います。

さて、三河の長嶋氏の追記の件は判明しましたね。

見つける事も必要ですが、潰すことも歴史の検証には絶対必要ですね。

確か、伊勢の長嶋氏の調査の時に記憶ではありましたので追記いたしました。記憶が定かではありませんでしたが判って良かったです。熊野氏子衆の中で源平のどちらかに組むかで争いが起こりましたが、この時に平家側に味方する事を主張したグループが一門から何人かが外れました。
確か長嶋に移動した事は判っていまして鈴木氏のレポートにも書きました。
そうですか、長嶋から三河に移動していましたか。
然し、御家とは全く疎遠ではありません。お家は永嶋族の伊勢長嶋氏の名籍を引き継いでいることに成りますので、大蔵氏との血縁時は伊勢長嶋氏から入ったことに成りますからね。

”何故、お家が江戸末期に三河や愛知の移住なのか”の疑問1は現在のところ「商いの説」が有力と成っていますが、私にはそれたけではない気がするのです。
当時の慣習から青木氏も同じなのですが、矢張り伊勢の長嶋氏の「何かの所縁」があって移動定住していた事も考えられるからです。
永嶋氏は伊勢までその勢力を伸張してきましたので、九州で長嶋氏を名乗った以上は名籍の宗家筋を頼る事は充分にあり得た事だと思います。
青木氏も同じ事が起こっていますから。
まして、「長嶌氏」から「長嶋氏」にこちらで養子になられた方が変更していますよね。何故変更したのでしょうか。疑問2です。
養子には色々な養子の形があります。
お家の養子の形がどの形なのかが原因している気がします。
そこを解明すると元ルーツ名籍源の伊勢長嶋氏にたどり着くのではないでしょうか。

その意味で何か繋がっている気がしましたので前回のお便りとしました。

商い以外に移動した事と変名した事のこの2つの疑問1と2は何かで結び付いていると感じます。
突然に南九州から幕末から維新に掛けてに三河、静岡、愛知に移動するのは無謀であり何かの縁を頼ったと見るのが普通ではないでしょうか。

次に3つのルーツの件ですが前々回11/15にお答えしていますが、兼久です。
殆ど肝付氏の本家の長嶋氏にこの時は成っていますが、添書では兼久は突然に長嶋氏に1506年頃に変名しています。この流れです。最早、肝付氏そのものの長嶋氏と云うところですね。

(この時が最も肝付氏が弱体化して体をなしていなく完全に長嶋氏が代替して支えていたので兼久は長嶋氏を全面に押した時期であった。そしていよいよ島津氏との高山城の戦いに入った。この時は肝付氏では家臣は最早誰も付いてこない為に戦えなかったと観られる。史実、時系列的に最も弱くなっている。だから島津氏が攻めて来たのです。)

兼俊、兼成、兼久の3つのルーツが後に拡がった事に成りますね。
兼久の元の長嶋氏へ名乗り変えは前後経緯から凡その原因は判りますが、お家の由来としてこのあたりもはっきりとさせて後世に伝え置く必要がありますね。
宗家肝付氏に跡目を入れているので元を正せば同じルーツに成りますが。

実は、次ぎの様に考えているのです。
この事と前記の2つの疑問には何か伊勢長嶋氏の何かの意向の様なものがあったのではないでしょうか。商いを通じて繋がりを伊勢宗家と持っていた或いは持ったと考えているのです。
肝付氏=長嶋氏と成っている絶大な勢力事から島津氏の幕末の政治的駆け引き上から繋がっていたと観ています。小さい長嶋氏ではないのですからね。島津氏に執っては肝付氏=長嶋氏なのですからね。
つまり肝付氏は「名義の家老」、長嶋氏は「陰の家老」なのですからね。商人に成った経緯はこの辺にあると見ています。幕末の島津氏の状況を反映していると観ているのです。動きやすいですよね。
そして、伊勢長嶋氏は関西では実力者の家柄、その力を利用しない訳はありませんよね。
藩の代行の商人であれば。
意外に西郷隆盛と繋がっている事もありますね。彼はそのような仕事を肝付氏(長嶋氏)と相談しながら動いたのですからね。その肝付氏は長嶋氏ですからね。西郷隆盛は長嶋氏と相談していた事に成る筈です。彼は江戸と京でその面識を広めているのですからね。
お家も西郷隆盛と同じように幕末を暗躍していた事も考えられます。
だから、伊勢長嶋は見逃せないのです。

この根拠は2つありまして、一つは「長嶌氏の変名」と「100石の扶持米」です。
前回お便りの時のこの「扶持米」で納得できました。
”何故、長嶌氏に変えて活動していたのか”と云う疑問です。
薩摩の長嶋氏は、肝付氏=長嶋氏ですから、暗躍する時は”薩摩藩の「影の家老」が動いている”と目立ちますし、商人に成ったので変えたが維新に成り元に戻したと考えられます。
「100石の扶持米」はただ藩に関係すると云うだけでは貰えません。少なくとも元家臣である事です。
相当に藩との関わりが無くば受けられないものなのです。まして藩の財政は危急しているのですからね。
そしてその額は下級藩士200石以下の額とするのが、慣習でその関わり内容に依っても異なりますが100石は相当の関わりを持っている事を意味します。通常はあまり公表しないものなのです。
貰う方は100石の額には大した意味を持っていません。「扶持米」を受けていると言う事の意味があるのです。つまり、「扶持米」を受けていて100石も受けていたとすると、上記する様な「影の役目」を荷っていた事を意味します。大きな藩はこの「影の人物」を多く抱えて暗躍するのです。これが当時の兵法戦略なのです。「影の家老」として幕末には暗躍していたのです。
当然にこの「扶持米と偽名」は一対に成っています。お家はこれに「こけら屋」の呼称を使っているのです。
先ず間違いはないと考えます。

>明治3年に太吉長女とめと杉浦源吉が結婚しているため家紋の掟で三つ雁金紋から丸に根笹に変紋したその後、明治以降に嫡男ができているが、家紋の掟についての知識がなく、家紋を戻さなかったのではないかと・・。

この件ですが、お家の判断が正しいです。
実は明治維新後この家紋掟が緩くなったのです。
家紋掟は江戸期以前は武士の慣習でしたが、維新3年と8年の苗字令に基づき庶民は苗字と家紋と寺を持ちました。国民の九割がこの家紋を持ったために武士階級の仕来りは完全に崩れました。
現在でも家紋は変わらないと思っている人が殆どです。家紋に限らず寺の仕来りやお盆や正月や仏壇や墓の仕来り等も全て九割の家では守っていないようです。
この事は武士階級の仕来りでしたから当然の結果ですが、大体家紋で元が武士であるかは判りますが、私の知る範囲では武士の家であった家紋は厳格にこの仕来りを現在も守っているようです。昭和の初期まではこの習慣もある程度知られていました。
この事で元が武士であったかは判ります。
江戸期中期以前は色々な資料から観ても厳格に守られていたようです。崩れ始めたのが江戸中期後の幕末の頃からです。武士の力が弱くなって行った時代からです。
特に戒名を見ると一目瞭然です。これはお寺がこの仕来りを今でも厳格に守ってきたためにこの仕来りで判断出来るのです。いろいろと掲示板でお便り頂くとこの矛盾が見えますのでよく判りますよ。
家紋と宗派と土地で殆ど判別できます。

次ぎに根笹紋は以前の書きましたように仁木氏と桜井氏の家紋ですが、明治以降墓は泥岩から大理石に変わって行きましたので墓に家紋を刻む習慣が起りました。消えないと言う事からですが、杉浦氏の墓所を確認されたら如何ですか。墓でなくても杉浦氏の多く集まる村や地域の墓所でも良いと思います。
地域的に桜井氏の様に根笹紋の多い所ですから可能性は高いと考えられますね。

上記の2つの疑問と家紋の疑問の3つを解明するか或いはその可能性の高い推論をストリー性を持たして纏めて後世のルーツの根拠として書き記して置くと良いのではないでしょうか。後世の者にとってはこの様な雑学史実でもロマンに結び付き何か心温まる遺産に成るのではないでしょうか。
筆者は人間は「知恵」と云うものを持った以上「何がしかの伝統」を持たなくては心を安寧にし癒す事は出来ない動物であると信じています。持論の「知恵−知識−伝統」の理論として。

その為には青木氏氏のサイトはご協力を惜しみません。

では又お便りをお待ちしています。



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