福管理人さん、ありがとうございます。
・杉浦氏の本家から何かつながりが読める事が判りますね。
・太吉さんの家紋は前記した根笹紋の2氏かこの大庭氏の根笹紋から来ている事もありますね。
からも調べてみます。
『根笹紋は太吉さんの奥さんの実家先の家紋(大庭氏では?)かも知れませんね。』
太吉高祖父の奥さんの旧姓は『牧野』といいます。なので、大庭氏との関わりは無いかと思われます。
りわ高祖母の父は、戸籍には牧野喜平との記載がありました。
気になっているのは、 太吉さんを真ん中に右にりわさん、左に禅定尼さんが墓石に掘られているのですが、不明の戒名:玄少(妙)雲如用禅定尼(?−天保13年12月卒)です。
巫女さんの話によると、この方が、御簾越しでは話すような、位の高い方で、太吉さんを慕い、飛び出してきたとのことでした。その巫女さんに対し『お主らとは、身分が違うのじゃ』をおっしゃられたそうです。太吉さんの店で女将をし、病気で身を引き尼となり、亡くなったとのことでした。
その店には、口を布で覆った錦糸の入った袴を着た武士が出入りする姿も見えたそうです。
りわさんとは、子を残すために結婚しているねとのことでした。
これをどう考えるかは、解りませんが、自分としては、糸口になればと思っています。
太吉さんとりわさんは、亡くなる年、天保13年3月に結婚してます。(りわ27歳、娘とめを34歳で生んでいる)
本家から数十メートルのところに智教院という尼寺があったそうです。明治に廃寺となっているのですが、昭和の初めまで、尼さんが守っていたそうです。
長嶋(旧姓杉浦)源吉は、本姓ではなく本性でした。すみません。
戒名:本性良源信士(弘化元年−大正2年卒)
「坂東八平氏」の一つの「三浦氏」から「和田氏」→「杉本氏」→「杉浦氏」となっているのでそちらとの繋がりで、大庭氏と言うことはないでしょうか?
鹿児島市史の「薩州鹿児島衆中屋敷御検地帳」寛永13(1636)年に長嶋次右衛門という方が、新堀より上に住んでいた記載について、以前触れましたが、鹿児島県史料集「薩陽過去帳」32頁、芝の皿子町にあった大円寺(江戸)のものに、肝付次右衛門(戒名:露巌良体居士)元禄11(1698)戌寅年七月卒がありました。やはり、長嶋姓ではないので、同一と考えるのは難しいですよね。
鹿児島県史料集「薩陽過去帳」には、92頁に肝付十右衛門(戒名:円山了覚居士)明和6(1769)巳丑年9月卒、『右衛門』では亡いのですが、肝付吉兵衛(戒名:活獅龍騰居士)元文2(1737)年11月卒我の記載されていました。
鹿児島城下絵図 文政4(1821)に長島勘右衛門とともに肝付五右衛門という方も住んでいるので、そちらの関係なのかななんて考えたりもします。肝付家の添書にはこの方々は存在しているのでしょうか?
よろしければ、教えてください。