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  [No.841] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:長嶋   投稿日:2012/03/15(Thu) 00:21:22

福管理人さん、どうお礼を言ったら良いかわかりません。
また根笹の杉浦家とご縁がある方が、福管理人さんの菩提寺の御住職さんとして赴任されるなんて、
不思議なことです。また、ご先祖様にも感謝です。

副管理にさんの言うように、もっと時代背景、その時代、地域の生活などについても知識を今後増やしていくよう努力していきます。アドバイスありがとう御座います。

豊川市中央図書館で『三河』という書籍より以下の記載がありました。
額田郡
杉浦氏:和田八郎五郎政重、延徳年中、信忠(安祥松平家長親嫡男、三男信定が桜井松平祖)に仕え、杉浦と改む。父大八郎五郎政次、信忠、清康(信忠嫡男)に仕え、参州六名の内、入吉郷を賜うと云う。

この杉浦氏の子孫が、根笹紋の桜井松平氏と養子を迎え入れ、根笹紋の杉浦氏が生まれたのですね。

源吉さんの父幾次郎さんは『次』あるところから,次男で、丸に根笹となった可能性も考えられますね。
杉浦幾次郎さんと長嶌太吉さんが、材木関連の仕事で知り合い、次男である源吉さんが太吉さんの長女とめと結婚し、長嶋家に養嗣子に入ったのですかね。

巫女さんの話では、太吉さんは宮大工としての腕もあったとのことです。
新城市川路の近くには、徳川家の東照宮がある鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、宝飯郡一宮町には砥鹿神社があり、藩からの仕事とは別に、その寺院の修復等にも太吉さんは携わっていたのではと思ったりもします。

源吉さんは、とめさんと一緒のお墓に入っているので、離婚はしてないと思います。
太吉さんのことでは、でも離婚はしてないと思います。
太吉さんは、墓石に三名の禅定尼さん、太吉さん、りわさんの戒名が刻まれていて、禅定尼さん供養を巫女さんにしてもらったときに、御簾越しでの対面する位の女性で、太吉さんは殿様より奥方のところに出入りしており、そこで知り合ったとのこと。
身分が違いすぎるため一緒にはなれないため、太吉さんのもとへ来たく、家を飛び出して、こちらに来たとのことです。
女性の位が高いため、太吉さんには藩の上のものから情報は来てきたと思われます。そんな世間知らずの人が、一人で旅などできるはずがないと思うので。
その後、太吉さんのお店で女将をしていたが、髪の抜ける病気となり、尼(坊主ではなく、白い布を被っている)となり、身を引き、天保12年(墓石の記載)なくなったそうです。
太吉さんもその方と一緒になるつもりであったそうです。
その方が、亡くなる年(天保12年)に、牧野りわ(牧野喜平の長女)と結婚しています。
巫女さんは、『太吉さんは、氏を残すためりわさんとは一緒になったねと』言ってました。


牧野喜平次 情報としては、

1. 琉球關係文書
   天保三年  一七 島津家編輯所圖書  中小姓 牧野喜平次 足輕

2. 旧薩藩御城下絵図 安政六年
   住居:上之平馬場の北 島津伯耆(佐多島津家)の西 160坪

なので、この方は下級武士の出のようです。その後160坪の家に住んでいるため出世しているのかなと考えました。

喜平さんと喜平次さんが同一であれば、りわさんは,上記の位のある女性の御付として、来たのかななんて想像もしました。

また、牧野氏は三河地区に多い氏名であり、りわさんの戒名が、南延妙善信女の『南』にも三河ではなく薩摩から来たよという意味があるのかなとも思いました。

だらだらと、空想をしてしまいすみません。

伊勢長嶋氏も根笹紋のお家が多いのですね。



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