青木ルーツ掲示板
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  [No.853] Re:静岡の長嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/06/10(Sun) 08:41:50

静岡の長嶋さん 今日は。お元気ですか。

お便り遅れました。申し訳ありません。
実は鹿児島に旅していましたのでお便りが出来ませんでした。

矢張り薩摩の雰囲気と人の顔かたちと人柄と伝統的な習慣が違う事が強く感じました。
それは関西付近との比較ですが、その事からすると”薩摩のルーツ探求は難しいな”と思います。
何か感性が働かないと云うかピンと来ない気がします。
以前にも研究している時に感じていたことなのですが、矢張りこれは自然環境から来るものだと感じました。人間の感性はその長く住む自然環境に大きく左右されていると云う事だと思います。
丁度、桜島が噴火して火山灰が毎日10センチも積もる様な環境では温暖な関西の様には往かないなと思います。

>肝付(長嶋)兼道−娘(新納忠秀長子養子:肝付兼康)−長男:肝付兼親、次男:長嶋次右衛門
>という推測です。
>可能性としてはあるのでしょうか。

>あと、2つ伺いたいのですが、
>1つ目は、通り名についてで、例えば、肝付兼続と肝付秋兼、大蔵義種と大蔵種親の様に後に来る場合、先に来る場合がありますが、規則というのがあるのでしょうか。
>2つ目は、例えば江戸期で名前に〇〇右衛門とつく家は、代々〇〇右衛門と考えて良いのでしょうか

さて、先ず、第1のお尋ねですが、可能性は高いと思います。
薩摩域には他の県と一つ違う習慣があるのです。
それは世襲または後継ぎの件です。
それは江戸期から”嫡子は長男”と家康が徳川氏の家光の世継ぎ事件の事で決めた事から以後そうなったのですが、薩摩は矢張り反骨の精神が強く、713年の朝廷に反骨した事件から江戸期までの歴史経緯から見てもでも判る様にまたもや違うのです。
嫡子は一応は長男としますが、実際は末子が多い事なのです。
肝付氏の氏の波乱に満ちた歴史的な経緯からして、前のお説のように 次男:長嶋次右衛門の扱いが違っていたと考えます。むしろ薩摩と云う地理性と環境性と古来の民族融合性からして合理的であると考えられます。特に産土神を主神としていた阿多倍一門大蔵氏系の子孫とすると、この末子の継承は納得出来ます。
太平洋民族とベトナム系民族と後漢民族と土着縄文民族の主要4融合民族の遺伝子が織り成す個性は”嫡子は末子”は”なるほど”と頷けます。
未だこの気風が色濃く残されていた江戸期では 次男:長嶋次右衛門の扱いは違っていたと考えます。

次ぎの第2のお尋ねの一つ目ですが、「通名」ですが、これには若干の決まりがあります。
それは「前付」の場合は、原則は「前付」です。
但し、世襲が働く場合で、妾子の場合で、跡目を受ける場合には原則は「後付」と成ります。
跡目を受けない場合は「後付」か別名を受けます。この様に嗣子の順序の仕来りは働きます。
但し、鹿児島の様に上記の「末子の扱い」が起った場合は「前付」と成ります。
跡目が養子や遠戚から跡目を入れた場合は、養子の場合は「後付」、遠戚の場合は「前付」と「後付」の両方の何れかに成っています。
つまり、世襲時の状況が違う場合で、氏家制度ですので、親族間の協議と思惑(本家の意向)に依っても変わる事に成ります。
普通は「前付」であったのに次ぎの跡目が「後付」に成っていた場合は先ずは妾子か養子か親族間協議・思惑(評価が低かった)事の意味と成ります。
ですから、幼名を使うのですが、成人に成った時の状況を配慮した跡目と非跡目、正子と妾子、長子と末子、婿養子と跡目養子、本家と分家で通名をかえることを考えます。
鹿児島の場合はこの長子と末子の変化が他県と異なる事が起こります。

次ぎの二つ目のお尋ねですが、これには2つのものがあります。
一つは江戸期中期から明治期に起ったもので、この官職名の世襲名は高額の金品を天皇家に納めてもらうものとがあり、武士階級でお金があれば名乗れる「一代限りの世襲名」です。
天皇家の収入源と成っていました。
江戸時代の奉行クラスか大名かは自分に箔を付ける為に、この一代世襲名を名乗りました。
歌舞伎で有名な遠山の金さんがそれに当ります。遠山左衛門尉下時定・・。

次ぎはこの慣習が無視されて終いには江戸末期から明治期に掛けて庶民が通常の名前として勝手に名乗ってしまったものです。右衛門や左衛門などで勝手に名乗った習慣名です。これで天皇家の収入源は激減します。その様に江戸幕府の末期で仕組んだと考えます

この3つの判別が必要です。殆どは青木氏一門と藤原氏一門以外の武士であれば一代限りの官職名です。
この場合に印鑑などを作った場合には仕来りとして返却する義務がありますが、あまり護られませんでした。
皇族賜姓青木氏と藤原秀郷一門の長嶋氏や長沼氏や進藤氏や長谷川氏等の青木氏族には、奈良時代−平安時代から天皇の親衛隊としての役柄(六衛府軍の指揮官)としての天皇を護る親衛隊の朝臣族の家柄であるのです。
藤原氏は外戚朝臣族ですので、永代の従四位の有品の位を持っています。青木氏は朝臣族であるので有品の位は最高位は宗家で永代の正三位ですが多くは従三位か従四位と成っています。

つまり宮廷の3門を守護する役目であり、その役目柄の官職が、左衛門、右衛門、正衛門に「佐」に上下の2階級、「尉」の上下の2階級に割り振られていて合わせて十二階に成っています。
この官職名を名乗れるのは世襲制で永代と成ります。
この官職を名乗れるにはその家柄が従四位以上の貴族階級並の身分である事に成ります。
従って、この条件に合致する家柄であれば跡目を受けた者が永代に名乗れる事に成ります。
これを永代で名乗れるのは極めて限られてきますが、青木氏系と藤原氏系と特別指定公家と成ります。

平安時代に北面武士、西面武士と呼ばれたものです。
後三条天皇時代とその後に政治の大改革(荘園制の廃止)を実行したので天皇の身の危険が高まって北面武士を隣室に置いた事で更に増えました。
元は大化期から天智天皇を護衛する役として皇族賜姓青木氏が臣下して武家を構成して侍と成って担ったのが最初の役目です。
これ等の事は青木氏の神明社の所に詳しく論じていますのでお読み下さい。
これらは「有品の制」又は「蔭位の令」によって定められています。

さて、お家がこの従四位上下以上の官職を永代で受けている長嶋氏であれば「・・右衛門」は正規の右衛門と成りますが、そうでない場合は一代限りか勝手に江戸中期以降に名乗った官職である事に成ります。

長嶋氏は青木一族ですので本来は名乗れる家柄と成りますが、宗家筋か跡目筋かで従四位上下以上の官職を得ている家柄であれば名乗れる筈です。

江戸期のものと成りますとこの処を調べる必要があります。
因みに結城長嶋氏一族本家は直系ですので名乗れますが、大蔵氏系と成りますと調査が必要です。
そうでなければ正規外の右衛門と成りますね。殆どはこの名乗りと成ります。
一代限りなのに無視して名乗り続けた事が起りました。然し、これは上記の事から簡単に判別が出来ます。系譜から何時から名乗っているのかでも判ります。
江戸期以上は正規外と見て間違いありません。
江戸期には朝廷の機能は全くなくなりましたし、天皇家を経済的に押さえ込みましたので、六衛府軍の組織は全くありませんので正規外です。室町期までは細々と保たれていましたのでありましたが。

ただ阿多倍一門の大蔵氏宗家筋は敏達天皇系の賜姓族ですので、親衛隊ではありませんし外戚筋に当りますので朝臣族ではありません。但し、従四位か従5位の有品の位はありましたが、大蔵氏宗家ではその可能性はありますが、その更に永嶋氏系の肝付氏の長嶋氏ですので本来は無い筈です。
逆につける事でその家柄の程度と虚偽の姿勢が読み取れます。

以上と成りますが、これらの詳細な事は本サイトの青木氏の論文の各所に論じていますので検索を使ってお読みください。
「有品の制」又は「蔭位の令」か「右衛門か左衛門」でルーツ掲示板か研究室の検索でお願いします。
更に調べる事が増えましたね。ゆっくりと少しづつで頑張って下さい。

では、又お便りください。お待ちしています。



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