今日は。静岡の長嶋さん
歴史を知る事は伝統を知る事であり、伝統を知る事は先祖を知る事であり、先祖を知る事は我を知る事の現れだと思います。
現在はこの伝統が薄らいでいる事が気に成ります。
余りにも喜怒哀楽に人生の目的を求め過ぎたことだと思います。
その為に仏教では厳しく誡めている「刹那主義」が蔓延り、恥も外聞も無く”その日その日の生活を楽しめばよい”等と実しやかに発言する人が多く成りました。
その日その日を楽しむ事は継続性のある「伝統」を軽視する事に成り、当然に先祖を軽視する事に繋がり何時しか自らを否定しなくてはならないことに成り付きます。
その為に若者の自殺行為が多くなるのですし、行き詰まると犯罪に走る事にも成ります。
次回の論文は家訓の9番目の論文に入りますが真にこの事について戒めているのです。
と云う事は、青木氏族にもこの様な刹那思考の蔓延った時期があった事を物語ります。
恐らくは、生きる事も侭成らなかった平安中期から室町期の下克上と戦国時代の時期に生きることの難しさが起りこの刹那思考が蔓延った事を意味しています。
弱い人間として観ると、色々な方法があると思いますが、私は、一番に自然に、自らを律し自らを保つには歴史を知る事から始まると考えています。
この様な事を考えて歴史探訪をされるとより一層深いところの先祖を知る事に成ります。
それが歴史の羅列だけでは無く「真の伝統」を知る事に成るのではと考えます。
さて、余談は過ぎましたが、前回のお答えにご理解いただきましたか。ありがとう御座います。
では、今回の2つのご質問にお答えいたします。
先ずは最初のお尋ねですが、
後漢=高句麗の件ですが、この検証には次ぎの「3つの要素」で考えなくては成りません。
一つは「人」の括りです。
二つは「場所」の括りです。
三つは「時」の括りです。
一つ目の「人」の括りではここでは「人種」或いは「民族」と云う事に成ります。
「後漢」の人種は「漢民族」と成ります。
高句麗は「漢民族」なのかという事に成りますが、明らか正確には違います。
純粋な漢民族ではありません。光武帝が征圧して興した東国の中には朝鮮族まで含みますが、統治時代に血縁して融合民族が生まれましたが、三国志に書かれている純粋な漢民族ではありません。
この「後漢」と云う括りに歴史的な経緯から判断に難しさがあります。
筆者はむしろこの「後漢」に付いては「後漢国」と云うよりは「後漢人」と捉えて論じる必要があると考えています。
国として考えるとこの歴史的な経緯が複雑で間違いが起りやすいのです。
確かに、高句麗は中国系朝鮮人の括りに入りますので、歴史的な経緯からすると後漢人との血縁族と成ると思いますが、光武帝から21代目末帝の献帝まで石秋王の子供の阿智使王と孫の阿多倍王は東国域に分布した後漢人であります。しかし、この時には最早、国としての括りではありませんでした。
漢人の三国志の中に住む後漢人です。この中国の東域には後漢人の三国志の通り小国が乱立し遂には統一して献帝の傀儡政権の魏が起こります。阿智使王や阿多倍王はその乱立した民族の王朝族の末裔として扱われていたのです。(900年代の後漢・こうかんと間違う)
故に後漢人として括るのであれば東国の西よりの域に定住した人種と見るべきです。
依って、純粋な「高句麗国」又は「高句麗人」という事ではありません。
論文中の「後漢」の表現は全て「人」の括りでご理解して頂きたいのです。必ずしも国としての括りではありません。
二つの「場所」として、論じれば、国として括れば「高句麗」はその西域の一部である事に成ります。
上記の通り「人」を括りとして論じていますので厳密な「場所」を特定した国の括りではありません。
後漢の場合は三国志から観ても「国」の括りでは論じる事は歴史的経緯より誤解を生み且つ論じる事はかなり難しいと考えます。(後漢難民17県民を配慮して目安として表記したものです。)
三つ目の「時」の括りとしては光武帝より献帝−石秋王−阿智使王−阿多倍王までは「国」と同じく「時」も論じるには同じ危険を潜んでいます。
以上の様に、「歴史的経緯」、つまり、「三国志の内容」から「人」の括りで論じる事が大切で必要であると考えます。
全て、歴史に限らず仏教や禅宗の教えにもある様にこの世の森羅万象はこの「3つの要素の如何」(三相)を考慮して初めて正しい結論を導き出す事が出来ると解いていますし、又、私も全く同じ考え方を持っていますし、この考え方が「青木氏家訓10訓」にも成っていますので正しい判断要素だと信じています。
「後漢国」、「後漢人」、「後漢期」と限定すればその限定した括りで思考判断すれば良い事に成りますが、「後漢」とした場合は、この「3つの要素」を幾らかの比率での意味あいを以って表現している事に成ります。依って「阿多倍」のことを論じる場合は「後漢」として表記し「人」に重点を置いた意味あいの表現方法と成ります。
当然に、「後漢国」「後漢人」とする場合は、「後漢国」は光武帝から献帝前の期間での国として明らかに存在した状況をさす事に成ります。「後漢人」は光武帝から阿多倍までの人の状況をさす事に成ります。
これ等の事を理解して頂く為に、青木氏の研究室には個々に分離して論文を記載しています。それをご理解頂いた上での「後漢」の表現と成っています。青木氏に関わる事としてこれ等の説明を一つにまとめた中でして表現し論じる事は物理的に困難ですので、全て「後漢」としています。
(注釈 実は、科学系の論文と違い文系の論文はこの様な微妙な表現があり、筆者の苦手とする処でサイトの全ての論文ではいつも何回も見直して修正編集を繰り返す始末です。つい”判っているだろう”と頭の中で無意識に思ってしまって不祥に成ってしまうのですが、一般の人として”後で読み直すと何を書いているのか判らない”と云う事が異たる処で起こり修正編集する始末です。技術系論文はわかっているだろうとする基本的な事は省くが常道で、判らない人は調べて技術力を高めるが論文の目的ですので癖が付いてしまっているのです。上記、下記のご質問のお答えも「三国志」の事が関わりますので、済みませんが書き込むと大変な長分に成って仕舞いますので、時期を見てお読みください。)
さて次ぎは二つ目のご質問ですが、上記の論調手法に従っています。
敢えて大まかには日本の帰化人は「7つの民族」の「融合の比率」から判断して大きく国に関わった帰化人は3つになると考えます。(詳しくは研究室に)
その内の二つはこの後漢と朝鮮の地域からの帰化人と成ります。
後漢は2期に渡ります。
朝鮮も2期に渡ります。
この二つの帰化人が良く同じとして間違われるのですが、別なのです。
朝鮮系は主に南朝鮮半島域の百済国の崩壊によるものですが、第1期は応神王(応仁王)が大阪湾に5世紀はじめに大船団で入国し岸和田の泊まりから上陸して、当時、関西の国を5族でのヤマト連合国家を形成していましたが、先ずその一つの「紀族」と「巨勢族」を攻め滅ぼし、紀伊半島の新宮から奈良盆地に入りました。そこで盆地の状況から補給路が絶え、他の3つの族との戦いで苦戦します。
そこでそのままでは全滅する恐れから休戦を実施し、この5つの族との話し合いを行い、結論としてこの朝鮮族を含めた6つの族に大王を定め、これに朝鮮族の応神王が初代連合国家の大王と成ってヤマト王権を樹立させます。
そしてこの応神大王がこの5族との血縁族を造りヤマト王族が成立したのです。
これが正式な天皇家の初代の王であり後に天皇と呼称した人物です。
この時に、正確には判明していませんが全難民は50万人程度(1018年頃まで)ではなかったかと言われています。
ボートピープルとして入国した難民の朝鮮人には第1期と第2期の帰化人が入国しています。
この第1期とも云われている物部氏や蘇我氏部等氏が王権内で後に力を持ちます。
間違いを起している問題はこの第2期の入国期と後漢の第1期の入国期がある程度の範囲で重なっていた事にあると判ります。
ただ問題は入国主な地域です。朝鮮族は一つは船で下関に渡りまた船で瀬戸内を通り大阪湾に入り、そこから関西に移動して来て定住しています。
しかし、後漢は福岡に入り其処から先ず南下し九州全土に流れ定住し、その後に中国地方域までで止まっています。一部は信濃甲斐に移動させられていますが、先ず地域が異なっています。
次に朝鮮族は上記の様な経緯から関西に大和に3世紀頃の元より繋がりや所縁のある所に移動定住しています。又、後漢の帰化人の様に正式な帰化の申請をしたと云う経緯が見付かりません。
つまり、「時人場所の経緯」が全く異なっているのです。他にも組織で入国した後漢族と無組織で入国した朝鮮族との大まかな違いなど沢山ありますので、その判別は簡単です。
この事からも下記のご質問のお答えの一部と成ります。(「武寧王」の件は余りにも時代考証の稚拙説)
無秩序で入国し帰化した人種は1018年頃を境に一挙に無くなりますが、大蔵種材による九州自治(「遠の朝廷」と云う称号を与えられ「錦の御旗」を個人として受ける)の大宰府の太宰大監の時から武力によってこれ等の海族のような行動を採る無法入国者をブロックします。ここで徐々散発的に発生していた後漢と朝鮮人の入国は終わります。
さて、ヤマトの国に大いに関わる有名な「武寧王」は「百済国」の第25代の王(在位:502年 - 523年)ですが、「武寧王」は若い頃大和に長く人質として滞在して、その時に生まれた子供が「淳陀」と云いますが、日本の古い書籍には良く出てくる人物で、そのまま定住したこの末裔子孫が「高野新笠」だとする説があるのですが、これは阿多倍が勲功として青木氏が支配する伊勢北部伊賀地方を半国割譲して薩摩大隈の隼人(大隈も半国割譲)からここ伊勢に住み着きます。この子孫と淳陀子孫だとして混同している説ですが、何の証拠もありません。百済と後漢の違いです。
百済は新羅・高句麗に圧迫、後漢は隋・唐に圧迫ですが、これらの経緯の違いがよく間違われています。
結論は現在では全く別で、上記した現在確定している帰化人の内容から別のものである事か判っています。この「武寧王説」を主張している事にはある種の思惑が介在しています。
又、日本書紀などに記載されている資料と伊勢の地理的な事や阿多倍がここに住み着いて「大蔵氏」や「たいら族」(国香−清盛の5代)を発祥させた事の史実として確定していますので明らかに異なっています。桓武天皇期にはこの阿多倍王の別名の高望王(高尊王 朝廷命は平望王)に勲功を与えた史実もありますし、「高」の字句の使い方からも「高野新笠」は孫娘と成っています。この「高野新笠」は伊勢に住んでいた事も判っていますので、それと伊勢青木氏の始祖の施基皇子の長子の光仁天皇と同じ隣の伊賀北部に住む「高野新笠」が血縁して桓武天皇が生まれていますので、まだこの様な史実が判明しない頃の造り上げた推測説で現在では間違い無く「淳陀」の末裔とは成りません。「淳陀」は飛鳥と成っていますので地理的にも違っています。
(桓武天皇は平安遷都 伊勢は天智天皇期の皇祖神遷座決定地 光仁天皇は桓武天皇の父で伊勢の住人 桓武天皇の母は高野新笠 高野新笠は伊勢の高望王の孫娘 歴史経緯も明らかに違います)
この様に上記の「3つの要素」を明らかにして行くと「・・説」がどの様な説であるか、またどの様な思惑と背景で説が出来ているかは判って来ます。
青木氏と阿多倍子孫とは伊賀古代和紙でも繋がっていますし、源平の初戦の「以仁王の乱」の時にもこの縁続きの所縁で主謀者の源頼政の孫の2名(宗綱と有綱)の助命嘆願がかなえられ日向に配流しています。(頼政の孫の三男京綱は伊勢青木氏に跡目相続として入る 宗綱子孫が日向青木氏)
歴史的な事は現在判明していてこの「武寧王の説」は上記の2つの帰化の史実の不祥期に論じたもので思惑は別にしても古過ぎます。
「高野新笠」の事は青木氏と大いに関わりのある人物として青木氏のみならず、血縁族の他氏でも研究されていて「高野新笠」の事も研究が尽いています。
(研究室の個別の論文を参照 「晋から唐代の後漢と高句麗の関係」に付いては「三国志」と「後漢書」をお読み成れば良くわかります。)
恐らくはお家はインターネットのところでこの珍しい古説を観たものと考えますが、インターネットでの歴史解説の説には過去の資料の良悪は別としてそれを根拠に論じていますし、思惑背景が介在させています。そして室町期中期以降の資料には時代背景から、これらの資料にはこの良悪の思惑如何が挿入されていますので先ず用いる際には注意が必要です。
氏や団体が遺した思惑の入ったこの時期の資料を正として殆ど論じています。その為にはこの「3つの要素」と「3つの手段」で充分に検証して用いる事と又信じられる事をお勧め致します。
追伸
さて、前回のお答えに書き込まなかった事があります。それは大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の右衛門、左衛門の世襲名を一代限りか永代かを調べるには、上記の「3つの要素」を基本でお調べに成ると良いと思います。
と云うのは、一代限りの世襲名であるとしても長嶋氏には永代として使用できるある時期である特別な根拠があるのです。
前回のお答えで述べると誤解を招く事になるとして記述しませんでしたが、先ず一番最初にこれを名乗った人物は誰なのか、何時なのか、何処で名乗ったのか、そしてそれがどの様な理由、目的、手段の3つの要素の何故なのかを確認する必要が出て来ます。
そこで前回には敢えて記述しませんでしたが、先ず世襲名の基本をご理解頂いたので、そこで私は、この手法で以前に調べた事として次ぎの事を改めて今回記述します。
「九州永嶋氏の発祥出自の環境」
先ず最初に名乗った人物には、大蔵氏から母方の跡目の永嶋氏を名乗った時、つまり、永嶋氏を名乗る以上は関東の藤原氏の北家の名籍で、且つ「関東屋形」と呼ばれた氏に相応しい家柄を示す官職を付ける必要が出てくる筈です。ただ名乗れば良いと言う訳には氏家制度の中では行きません。名乗る以上はこの行為が絶対に必要です。名乗る特別な理由が必要で在った筈です。
昔の人が大事にした人間としての行為の「大儀明文」です。その場合は「家柄身分の誇張」が氏に執っては絶対に必要です。特に九州全土を統治している大蔵氏には欠かせない事であります。
日本最大名籍で日本最大最古の大豪族の大蔵氏から氏を興すのですからそう簡単ではありません。
それに相応しい身分と家柄が必要です。それには母方の永嶋氏にも勝るとも劣らずの永嶋氏と長嶋氏が持つ最大官職を名乗る事が必要です。大儀を作る以上は取って付ける訳には生きませんし、その名乗る理由と目的とそれに相応しい手段がはっきりしなくてはならない筈です。
つまり、まずは”この名籍の大蔵氏に執ってもそれに見合うものは何か”です。
朝廷が承認した正式な名籍の皇族の血筋を引く大蔵氏族にも欠けているもので「武家」としてただ一つありました。それは、「六衛府軍大将・近衛将軍」です。それは天皇に継ぐ最大権力者です。
前回のお答えの三門を守る「近衛軍の長官」です。十二階の階級に分けられた「北面武士の長官」です。
平安中期前は「武家」の長の「3つの発祥源の青木氏」の最高官職であったものが、平安後期の後に武家では無く、一時、公家の藤原氏北家摂関家に引き継がれたのですが、これが武家にとって何物にも代えられない最大の権威です。(「たいら族」が台頭して来た時期)
ここから「征夷大将軍」や「鎮守府将軍」や「鎮西将軍」(征西将軍)などが任命される仕組みでしたが、長嶋氏・永嶋氏は永代のこの「鎮守府将軍」の家柄です。又阿多倍の次男の大蔵氏の兄の長男坂上氏は「征夷大将軍」の家柄でもあります。当然に大蔵氏から何等かな理由で永嶋氏を継承する以上はこの二つのどちらかに近い官職を継承する必要があります。そして且つ大蔵にとって名誉である事が必要です。
然し、どんな場合でも「朝廷の勲功」による「任命」が無くては勝手に官職やそもそも氏までも名乗る事は出来ません。
そして、「朝廷」も任命する特別な根拠無しには出来ません。ではこの時期にどの様な根拠があったのでしょうか。
何かが在った筈です。大きな理由が在った筈です。(大蔵氏に大事件がありました)
当然に従って、秀郷一門からの任命は、本来無い筈の大蔵氏支流一門の形と成りますが、そこに本家筋の「永嶋氏」を名乗る以上はそれにふさわしい世襲名の官職を名乗る必要が出て来ます。
「氏家制度」の社会の中で「八色姓制度」の縛りがある以上は名乗る根拠が必要で、勝手に大蔵氏が朝廷の認可なしでは氏もこれに伴なう官職も名乗る事は絶対に出来ません。
しかし、では史実は名乗っている訳ですから、それが誰で、何時であったのか、どんな理由で、どんな目的で、どの様なやり方かで大きく変わってきます。
この時期は平安末期−鎌倉期に重なる複雑な時期とも成ります。
恐らくは支流であった事から一代限りの世襲名を朝廷に申し込んだ筈です。或いは朝廷側から任命した筈です。この事で当然に名籍の出来事ですので、朝廷の中で激しい政治的な駆け引きがあったと考えられます。然しながら、朝廷も大蔵氏もその申請認可には拒絶する根拠はありません。
朝廷は、「官僚の首魁の大蔵氏」−「斎蔵の首魁の永嶋氏」の関係の事は承知している筈ですので、認める必要が出て来ます。
(この時期は江戸期の誰でも金のある者が幕府に申請して後に朝廷からもらえるものではなかった。)
そうすると系譜・添書から絞り込むと、「種秀」か「種親」か「種武」かの3人の誰かと成ります。
そうするとここで、「種輔」より3代目の「種直」(大蔵氏族原田姓を名乗った)が太宰大監であった時に、阿多倍の末裔の同族の「たいら族」の「清盛」にその立場を奪われた大事件がここで起っています。
その直後の「種秀」ですので、朝廷は代々九州全土の自治を治めていた名籍の大蔵氏を怒らす訳には済まなく成ります。恐らくは、怒らせると朝廷は成り行かなくなります。
なぜならば、九州全土と陸奥域を相手に戦いとなる事は必定です。両方から最大勢力に挟撃されては太刀打ちできませんし、この時期、藤原氏、源氏、平家はこれに対抗する勢力は全くありませんでした。
後白河天皇(この事件の後すぐに譲位する)と朝廷は「たいら族」を引き上げ、且つ大蔵氏の財力の一部を吸い上げる為にこの様な裁定を清盛に強引に命じたのです。(清盛も武家の勢力を高めるには瀬戸内の権利を大蔵氏の後押しで掌握した時からこの事は期待していたのです)
(その同族の大蔵氏は税を全九州自治を名目に殆ど納めていなかった。記録から主要国1国の1/5程度 この有名な事件で「たいら族の清盛」は「宗貿易」を始め財力を蓄えたのです。その太政大臣まで上り詰めた最大のきっかけでした。)
この事件を朝廷が納めるには、犯罪も犯していないで奪われた大蔵氏の官職「太宰大弐・太宰大監」に匹敵する官職を与える必要に迫られたと観られます。
藤原北家一門の中から藤原氏北家筋の秀郷一門の永嶋氏を名乗らせる事と、太宰大監に匹敵する官職を例外的に支流一門として与えて治めようとしたと考えられます。
同族ではある「たいら族」の清盛もこの時期まだ大蔵氏の反乱は清盛の勢力(国数、石高、貿易財力の全てに1/10位の勢力)の及ぶ範囲ではありませんから戦いだけは何とか避けようとして動いた筈です。
然し、九州の「太宰大弐」の官職が「たいら族」発展の為に絶対的に必要に迫られていたのです。
(史実から現実に動いた 現実に同族の衰退事も嫌った史実あり)
それに見合うものとして「六衛府軍」の長の「3つの将軍」に継ぐ「右・左衛門佐上」を与えたと考えられます。
これを直接大蔵氏には与える事は仕来りにより出来ず「朝臣族の身分」の賜姓青木氏か秀郷流青木氏の藤原氏ではなければ成りません。その手段が名籍の筆頭の「永嶋氏」の氏の血縁授与なのです。
これが秀郷一門の支流(宗家の永嶋氏系譜添書より政略血縁あった)である為に仮に一代限りであったとしても家柄身分の系列として永代を名乗る事は「蔭位の令」に従い可能と成り不思議ではありません。
上記の事件の経緯から永代を天皇家の仕来りから正式には困難であっても暗黙で認めたと考えられます。暗黙で認める根拠は充分にあります。
これが大蔵氏宗家から別の氏を興して名籍の永嶋氏を名乗った経緯でもあります。
(これは平安末期の朝廷内での大蔵氏−藤原氏の関係での政略血縁と観られる。「跡目養子」か「嫁入り」かは現在不明だが一般的仕来りからは永嶋氏からの「跡目婿入り」が原則です。このどちらかで意味合いは異なるが 大蔵氏系の意味合いが強い事から「嫁入り」ではないかと考えている。 鎌倉期に興った永嶋氏から長嶋氏の継承は伊勢長嶋氏からの「跡目婿入りで継承」である事は状況判断から判る事から平安期のこの件では宗家永嶋氏からの「嫁入り」ではないかと観ています。)
では、”この3人の内の誰か” 事件性から観て添書から読み取れる人物は「相伝の種秀」>「太郎兵衛の種親」>「種武」となりますが、「種武」は菊地氏と血縁しているので低いと成ります。
添書より明らかに「兵衛」を最初に名乗ったのは「種親」です。
しかし、添書では「種秀」は「相伝」とありますので、「種秀」の子供の妾子の「頼種」は僧侶となり世継ぎの子供が居ませんので、「兵衛」の祖父の弟「種嗣」のその孫の「種親」に「永嶋氏の跡目」を継がせていますし、添書からその「兵衛」を名乗った最初の人物と成ります。
そしてこの時期は平安末期で平家全盛期と完全に時代考証は一致します。
これ以後は鎌倉期の「肝付氏−長嶋氏の発祥」に繋がる境目です。
この間65-80年の3代から4代以内の間です
(別のレポートで論じている朝廷外の関係から再び平安末期の「大蔵氏−永嶋氏」の関係から鎌倉期の「永嶋氏−長嶋氏」を名乗る時にも繋がる根拠は存在した。)
つまり、それ以外には大蔵氏と九州永嶋氏の系譜添書には「兵衛」は居ません。(九州大蔵氏にも)
これでお判りに成ると思いますが、本来、世襲名の無い筈の大蔵氏系肝付氏族長嶋氏の世襲名の名乗りの元継承は大蔵氏系日向永嶋氏の「相伝の種秀」と「兵衛の種親」との2人と成ります。
その後は以前のレポートの通りの世襲した直系氏孫(肝付氏族の長嶋氏)がこの「兵衛の官職」(「左衛門佐上」)を引き継いだと観られます。この引継ぎには従って上記の「永嶋氏継承の経緯」より問題は無い事を意味します。
念の為に「種秀」の父「種有」と祖父「種貞」は「右馬允」の官職を引き継いでいました。
突然に父や祖父の官職より数段の上の名誉ある官職に成っています。これには何かあったことを意味するのです。
更には大蔵氏は代々「従5位下」で、永嶋氏は代々「従四位下」の有品の身分差があり、四位以上が公家貴族に成れる仕来りですから永嶋氏の方が上です。(この2回の身分立場の差の扱いは実に大きい)
ですから、本来は大蔵氏族は「官僚族」の「五位」ですので「右・左衛門佐上」には成り得ない身分です。
其処に永嶋氏を血縁で継承させる事で実質大蔵氏を引き上げたのです。
曽祖父の「種輔」は最高の官僚職の太宰大監、長門権守、岩門少卿の官職を持っていましたが、曾孫が更に武家の最高の名誉を得た事を意味するのです。
これは「公家貴族族の摂関家藤原氏北家」に対して「官僚族の大蔵氏」が身分的に並ぶ立場と身分を朝廷内に得た事を意味します。
「太宰大弐」等の立場は失ったが、この直ぐ後(大蔵氏系永嶋氏発祥後 「右・左衛門佐上」任命)に官職を清盛に奪われた前任の「大蔵種直」(原田氏)の弟の「大蔵種俊」(三原氏)に「太宰大監」(長門権守、岩門少卿も)の立場を再び本領と共に安堵されます。
これはつまり、「右・左衛門佐上」の武家としての「官僚族の大蔵氏」は「最高権威を獲得した事」で「貴族公家の藤原北家筋と並ぶ位置」まで上昇したし、「藤原氏と縁続き」に成り”「失った物無し」”の結果が残ったのです。
これらの対応策は、恐らくはこれは同族(阿多倍一門−清盛5代前同族)の大蔵氏を護る「たいら族」清盛の一連の策略であったと考えられます。
「宗貿易」をするにしても九州域の協力を得なければ貿易する品物も調達する事は出来ません。
何しろ阿多倍一門の組織は「物造りの部組織」であり、つまり、「品部の協力」無しでは成り立ちません。
まして、先祖の大蔵春実の時に「純友の乱」(海族問題)が起こりますが、この時に大蔵氏は瀬戸内全域と九州海域の警察権(瀬戸内令外官追捕使)を正式に獲得しています。そして同時に「大蔵春実」は同族「たいら族」をこの瀬戸内海域に導いていて安芸−播磨守護にして、且つこの域の問題の海族を配下にもしてもらっているのでこの恩義が清盛にあります。”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われる程のこの海域の警察権を持つ大蔵氏を敵に廻しては「たいら族」発展の基礎となる「宗貿易」どころか「太宰大弐」等の官職さえも名前だけのものと成り得ます。大蔵氏族の協力無しでは成り立たないのです。
だから、大蔵氏の永嶋氏継承策が完了すると同時に「大蔵種俊」に本領安堵したのです。
当然役職上、この指名権利は「太宰大弐」の清盛にあります。朝廷は当然に清盛の指名ですから任命せざるを得ません。清盛(たいら族)は「瀬戸内の一連の恩義」がこの同族の大蔵氏にあります。
つまり、これは明らかに「たいら族」の「清盛の一連の策謀」だったのです。
そして同族の大蔵氏の反発も避けて、大蔵氏の身分を引き上げて大蔵氏の九州一帯の勢力を高め、藤原氏北家筋と縁続きに成り一族の安定を図り、且つ一族一門の争いも避け、更に互いに両立する為にも「宗貿易」からの利益を共有したのです。同族2氏が共に発展する道を選んだのです
確かに「種俊」にこの戻す本領安堵の権力は、この時、既に朝廷内では清盛だけにあって、「(保元)−平治の乱」の「信西」(藤原氏南家)の死亡後(1160)に藤原氏摂関家から「たいら族」清盛に朝廷内の実権(後白河院政)は完全に移っているのです。
「大蔵氏系永嶋氏発祥」(1155−1159)にはこの様な経緯があったのです。そしてそれをある歴史的経緯の引き継ぎで大蔵氏系肝付氏族長嶋氏が発祥したのです。それが「・右衛門・・」なのです。
(この時の摂関家の長は有名な凡庸人物 上記した一時期の異例の公家の「近衛大将」に祀り挙げて飾り物になった人物でここから政治を推し進める能力が低下して摂関家は衰退した。変わりに清盛の実権は高まった。)
(「青木氏と守護神(神明社)]の論文にも詳しく論じています。)
この「3つの要素(人時場)」と「3つの手段(理由目的手段)」を組み合わせてそれで答えを導き出して行く方法で調べ上げて行くとこの様にこの時期の「永嶋氏の生き様」が見えて来て結論が出てきます。
お家のご先祖の本当の生き様がプロネタリュウムの様に映し出され見えて来るのです。
筆者が思う大事な事とは、この「生き様」を描きあぶり出す事ではないでしょうか。その上でお家の独自の系譜が出来上がるべきと考えますが。
他の青木氏に関わる論文も青木氏族としてもあわせてお読みください。
そうすると色々な事が見えてきますよ。
これが前回のお答えです。
この様に「3つの要素」と3つの手段」を以って、インターネットなどの一つの資料だけに余りに頼らず、「歴史的経緯」とあわせて調べてルーツを割り出してください。注意する事はインターネットの資料には必ずエラーとバイアスを持っています。このエラーとバイアスをどのように扱うかは個人の自由ですが、老婆心ながらご注意申し上げます。
要するに、「3つの要素」と「3つの手段」でエラーとバイアスを小さくして、その事の「繋がり」を導き出す事が大切です。
ネット上等の情報はあくまでも相対的な短編的な情報で必ずしもお家の情報とは絶対に成り得ません。そんな個人事はネット上等では表現と論じる事は現在では法的に不可能だからです。
ましてエラーとバイアスを持っているのですからね。ネット上等では陥りやすい欠点です。
あくまでもデータの一つです。まして現在では個人情報保護で個人事と氏の事を書く事は違法と成っていますから余計に無理と成ります。
大蔵氏と永嶋氏の添書や特別な系譜を調べたから出来た個人事で、今回の筆者のお答えもお家のものとなっていますが、ネット上等では不可能なのです。より個人事に近づけるには「3つの要素」と「3つの手段」の組み合わせで個人事になる筈です。
実はこれも科学系の間違いを起さない論文の絞込みの手法です。(このことも詳細は研究室に記載しています)
では又判らない事が有りましたらお尋ねください。