青木ルーツ掲示板
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  [No.857] Re:小平の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/07/27(Fri) 10:13:08

小平の青木さん 今日は。始めまして。
全国の青木さんが集うサイトです。サイトには青木氏に関わる資料が沢山用意されていますよ。
ご心配なくお気軽にどうぞ。

さて、お便り遅れました。時間オバーのエラーと成っていました。
毎日暑いですね。昔に比べて2-4度くらい気温が上昇していますね。
関東も昔は関西より低い印象もありましたが、今や関西より高い位ですよね。

御祖母が亡くなられたとの事ですが誠にお悔やみ申し上げます。

早速ですが、小平の青木さん お家のルーツのお答えですが、”「蒙古班」漢民族”のカンが当っていますよ。
お家のルーツはお便りの情報で直ぐに判りますよ。はつきりしています。
「抱き角紋」と「青梅街道」と「小平」と「蒙古班」と「磯右衛門」と「地主」、「豪農」と「神明宮」と「お寺」と「家主」でお家のルーツが読み取れます。情報が揃っていて比較的珍しいですね。
他にルーツに関する何か気のついた事が有りましたらお知らせください。

さて、ではそのお答えから先に述べますと、「信濃諏訪族系青木氏」の名籍名家です。
上記の情報は繋がっています。
この「信濃諏訪族系青木氏」は歴史の遍歴で次ぎの3つのルーツに分かれます。
先ず、本流の「諏訪族系青木氏」です。
信濃には「皇族賜姓信濃青木氏」が奈良期末期から皇族として信濃守護王として定住していました。
この「皇族賜姓信濃青木氏」が、奈良期の末期からここに定住した後漢民の職能集団の首魁(諏訪族)一族と血縁をしました。
つまり、中国の後漢が、隋と唐に滅ぼされて「漢民族」が潰れ、この結果、「200万人の職能集団の17県民」が難民として阿多倍王に率いられて渡来し日本に帰化して来ていました。
この大職能集団は「部」と云う組織で構成されていました。そして九州全土を瞬く間に征圧し、次には中国地方まで無戦制圧して66国中32国を支配下に入れました。
むしろ在来民はその「部の技能」を享受して豊かに成り、進んで配下に入って行ったのです。(日本の第一次産業の全ての礎を築く)
そして、この次から次へと押し寄せてくる組織の後漢民の民の一部が奈良期の末期に中国地方から中部地方に移されて其処で開墾を命ぜられました。
主に背の高い馬(大型馬)を飼育する「馬部」等が牧畜放牧を中心にして定住しました。その為、未開の信濃は瞬く間に著しく富み、それを背景に平安期には信濃には豪族が出来たのです。
これが有名な諏訪神社の諏訪族です。
日本書紀にもこれ等の諏訪族の開拓民の事は詳しく出てきます。
蒙古班の情報はこの事です。元は後漢の漢民族です。

そもそも日本人は「7つの民族」の「融合民族」で出来た大変に珍しい「融合単一民族」です。
(研究室に詳しくレポートしています)
そこで、朝廷は「大化改新」の「天智天皇」から始めた仕来りで、天皇の「第6位皇子」を臣下させて賜姓する仕来りがありました。蘇我氏に天皇家が脅かされた経緯もあり、この反省から天皇家の身内から一族を護る親衛隊を創ったのです。
(青木氏の5代と11代の源氏の合わせて16代はこの仕来りで発祥)
この第6位皇子の「皇族賜姓青木氏」は、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5家5流あるのですが、伊勢が施基皇子でその始祖と成ります。
天智天皇から光仁天皇までの男子の5代の天皇が天皇の第6位皇子を青木氏として賜姓して、臣下させて武家(侍の発祥源)とし、「天皇を護る親衛隊」を組織しました。
この上記の内の信濃と甲斐の「開拓地の守護王」に送り込みました。(伊勢、近江、美濃は元々主要国であった)
これが「皇族賜姓信濃青木氏」(A)の先祖で、この「信濃青木氏」と上記した豪族と成った「信濃諏訪族」の首魁族と血縁をしたのです。
この時、この「皇族賜姓青木氏」の分家は、諏訪族から「跡目養子」を迎えたのですが、2代続きで男系跡目が出来ず結局は女系と成り、養子先の系列の中に入り「諏訪族系青木氏」(B)と成りました。
昔の社会体制は氏家制度ですのでこの様に成ります。
この賜姓族の「諏訪族系青木氏」は室町期には、後に武田氏と血縁し、矢張り、男系跡目が叶わず「武田氏系諏訪族青木氏」(C)が発祥しました。
更に、この(C)が「諏訪族系武田氏族青木氏」(D)と成り(A)を元にこの3氏が発祥したのです。
従って、丸付きではない「抱き角紋」ですので、お家はこの(B)の「皇族賜姓諏訪族系青木氏」です。
「丸付き抱き角紋」はこれ等の支流一族です。
ところが、これらBCDの青木氏は、武田氏に味方し武田氏が信長に滅ぼされて、神奈川横浜等に逃げ延びました。(越後にも秀郷流青木氏をたより逃亡)
この時、母方の遠戚関係にあった特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」(116氏で構成する日本最大の最高の名籍氏族 朝臣族)に保護されてこの地に定住します。

(嵯峨期の詔勅により特別に皇族外から藤原秀郷の第3子の千国に一門の一族一門の護衛隊の任務を持たせ、天皇は特別に皇族外から青木氏を賜姓します。
秀郷は「平将門の乱」を平定した特別功労者でそれに対する論功行賞 母方一族の皇族賜姓青木氏を補佐する目的で賜姓した。藤原氏北家の摂関家筋の公家や貴族は武力を持たない原則なのですが、秀郷一門は特別に青木氏として武力を持つ事を許された。日本最大の武力集団)

しかし、この後、一部は神奈川横浜地区から離れ、勢力を盛り返すために藤原秀郷一族一門の手薄と成っている北域に移動します。矢張り、栃木の秀郷一門の「藤原秀郷流青木氏」を頼り移動します。
ここで、「藤原秀郷流青木氏」の北域の勢力拡大に大貢献し豪族と成ります。そして勢力を広げた地域には諏訪神社を多く建立しています。
この栃木の「諏訪族系青木氏」等の一族は「藤原秀郷流青木氏」を背景に仙台の直ぐ手前まで勢力を伸ばします。
そして、そこで、甲斐に定住した賜姓族ではない別の流れの皇族の「武田氏系青木氏」があって、徳川家康の家来となり武田氏滅亡で一族全員が埼玉鉢形に集団移転させられます。

(皇族青木氏は「嵯峨期の詔勅」で皇族の者が下俗する際に名乗る氏名と指定され他に使用を禁ずる。甲斐には賜姓族でないその一つの「皇族青木氏」と、守護王として定住した上記の第6位皇子の「皇族賜姓青木氏」も存在する。2つの流れの青木氏が甲斐に存在した)

江戸期にはこの徳川氏の家来と成ったこの埼玉鉢形の「武田氏系青木氏」(有名な柳沢吉保もこの青木氏)と、同じく上記の「藤原秀郷流青木氏(徳川氏家来)」の家臣と成り、その勢力を北関東一円の八王子手前まで伸ばしました。
その栃木の「諏訪族系青木氏」等3氏の一部が、徳川幕府の江戸の周囲を護る旗本御家人として「関東1000人衆」を組織します。この中の一つが有名な「八王子衆」です。
この「八王子衆」に「諏訪族系青木氏」は組み込まれましたが、大変に強く有名で豪農や名主や庄屋等の「半農武士」として生き延びて来たのです。歴史的経緯から観ると大変に苦労しました。
例えば、青木氏ではありませんが新撰組の近藤勇もこの地区の郷士組です。
これ等の人たちを江戸期では古い地元の武士団の「郷士、郷氏」と呼びました。

この郷氏と成った青木氏の「半農武士集団」を率いる郷士組護衛隊の主軸が「抱き角紋の諏訪族系青木氏」なのです。
青梅街道の情報はこの事なのです。

次ぎは「磯右衛門」の「・・右衛門」「・・左衛門」「・・兵衛」の「世襲名」は、この天皇を護る親衛隊に付けられた官職名で、宮廷の三門を護る役目があり、「武家の発祥源」である「賜姓青木氏」(朝臣族)にのみ許された永代世襲名です。(江戸期には無秩序に使用される事と成った)
平安期にはこれを彼の有名な「北面武士」と呼ばれました。
上記の「皇族賜姓青木氏」と、「藤原秀郷流青木氏」(武蔵入間を中心に半径横浜神奈川の円状の中に特別賜姓族の遠戚の青木氏がいる)のこの「2つの青木氏」にのみに許された家柄身分を表す呼称です。

次に、「神明社」はこの「2つの血縁青木氏」とその古くからの家臣団の「2つの絆青木氏」の守護神で、その「祖先神の神明社」が「青木氏のみの守護神」です。
「祖先神」は「天皇の皇祖神」(伊勢神宮)を引き継ぐ唯一の子神です。
ですから、青木氏が定住する処には必ず「皇祖神の伊勢神宮」の分霊があり、「祖先神の神明社」が建立されています。
つまり、お家の「信濃諏訪族系青木氏」の守護神の主神は「祖先神の神明社」なのです。

次に「武家の発祥源」である「2つの賜姓と特別賜姓の青木氏」は、古代密教の「浄土宗」を「菩提寺」としています。(檀家寺と異なる)
室町期中期までは「皇位の者」(朝臣族)のみが入信出来る宗派で、自らの氏の者を祭祀する独善の浄土宗派寺を持っていました。浄土宗に一般の者が入信出来る様に成ったのは江戸初期に徳川家康が特令を出して許可した事から始まります。それでも上級武士階級の範囲でした。

ですから、お家の皇族賜姓の「諏訪族系青木氏」は、この神明社を主神とし、諏訪社を副神とする2つを守護神とする諏訪族の青木さんです。
そして、菩提寺は元は古代密教浄土宗寺であった筈です。多分、信濃諏訪地方にある事に成ります。
関東にも古代密教の古いお寺が5つ程度あった筈です。この内の栃木よりのお寺が諏訪族系青木氏の菩提寺を勢力を関東で保持した時に神明社と諏訪社と共に建立したのです。
ですから、信濃には有名な諏訪神社と共に、元のこの青木氏の浄土宗菩提寺と、お家の守護神の「神明社」が栃木のどこかにありますよ。

然し、お家の大元の守護神は伊勢神宮です。ですから、この「2つの賜姓族・特別賜姓族青木氏」だけに許された主神です。(ですから、賜姓青木氏だけに「不入不倫の権」が与えられ本領は原則永久的に護られたのです)
一度、何時か「お伊勢詣で」を兼ねて青木氏の主神と、「諏訪詣で」として信濃諏訪社に詣でてはどうですか。
伊勢神宮の街燈灯篭には4つも大きな青木氏寄進の街燈灯篭がありますよ。
西諏訪地方には青木氏にまつわる色々な物が残っています。
つまり、伊勢神宮の皇祖神の下に皇族系の者の守護神として「祖先神の神明社」が子神と成っています。青木氏=神明社なのです。
信濃諏訪には、現在でもお家のルーツの諏訪(特に西諏訪地方)には青木さんが大勢いますよ。
おーい 青木さん と呼べばハーイと応える位ですよ。
埼玉の入間や八王子なども同じですね。
(青木氏の地名地形データーベースを参照)

これ等の青木氏は江戸期までは200から500人位の家臣を持ち、土地や家屋敷を与え地主や家主であったのです。
又、特に信濃と伊勢の青木氏には大きな影の「大シンジケート」を持ち、裏では「2足の草鞋策」として大商いや大地主などを営んでいました。
信長と伊勢丸山城の戦いで青木氏(伊勢−信濃)は勝利しました。信長の唯一の有名な敗戦です。
余談ですが、筆者の先祖は伊勢神宮を護る「伊勢の青木氏」で、明治35年まで950年も「紙問屋」をも片方で営んでいまして、大河ドラマにも3度も登場しましたよ。
お家等の「信濃青木氏」とは明治の頃まで親族として深い付き合いがありました。
お家の「信濃諏訪族系青木氏」ももちろんの事として、賜姓青木氏の5家5流は和紙の一連の殖産までを兼ねて全て「紙問屋」を裏業の「2足の草鞋策」として互いに連携し営んでいました。この5地方は5大古代和紙の生産地です。
お家の青木さんが農業をご先祖から営んでいた事から、昔は恐らくは生産から商いまでの古代和紙生産に関わっていた事(殖産農業)が考えられます。
上記した事は全て研究室に論文が在りますし、ルーツ掲示板のお便りや家紋掲示板や地名地形データベースなどに詳しく掲載されています。大変苦労して生き延びてこられた「青木氏の生き様」が見えてきますよ。

ご質問等有りましたら、このお便りを専用投稿欄としますのでReで何なりとお尋ねください。
掲示板には昔ご親類であった方からのお便りも多いですよ。諏訪族で検索してください

是非、膨大な論文に成りますので、ゆっくりと少しづつ楽しんでお読みください。3年くらいは掛かりますよ。10年位前からヤフーの25倍の審査に合格し、歴史カテゴリーの段突日本一トップの情報量を誇っていますよ。ブログも含めますと一日に3000人から5000人が訪れてきます。
最近は青木氏外の人もご質問が多いのです。
(青木氏族には 青木氏の他に、永嶋氏、長沼氏、進藤氏、長谷川氏 佐々木氏があります。これ等6氏を青木氏族と呼びます。)

HPの左メニューには物真似で有名な青木族の青木隆治さんが歌っている「青木氏の歌」もありますよ。
一度聞いてください。左メニューにあります。

因みに、おばあさんが丸付き紋に変更したとの事ですが、養子を迎えられたのでしょうか。
もし、養子であれば一次的に養子さんは丸付き紋か実家の紋を使います。本当は、”固い”と云う理由では無かったと思いますよ。日本一の名籍名家の家紋ですからね。
お家の場合は、形上は養子さんを迎えられたと観られますので、本来であればご主人は「丸付き紋」を一次的に使う事に成りますが、男子の子供さんがお生まれに成っていた場合は、元の丸付き紋の無い「抱き角紋」に戻ります。
「家紋掟」(研究室に掲載)と云うものがありまして、武家はそれに必ず従います。
江戸期まで守られていましたが、庶民も明治には苗字や家紋を使う様に成りましたので守られなく成りました。
お家に嫡子が生まれていた場合は家紋は、大化期からの1000年以上の悠久の歴史を持つ旧家中の超旧家名籍のお家ですので、「諏訪族系青木氏」の「抱き角紋」にお戻しくださる事をご検討ください。


では、ご質問や又お便りをお待ちしています。



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