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  [No.860] 主人の家系は代々青木 重○です
     投稿者:青木 美佐   投稿日:2012/09/08(Sat) 23:21:46

こんにちは。
私の主人のルーツをどうしても知りたいと思っています。
主人の実家は新潟県長岡市寺泊町野積金沢にあるのですが、何代か前に古文書が焼失したらしく、口伝えが多少残っているだけになっています。
聞いたところ、
・代々、男子の名前に重の一字を付けるならわしになっていること
・昔、「長崎」というところから来て上記住所に居を構えたこと
・こちらに来た祖先は「長崎屋 重三郎」と名乗っていたこと
・祖先が自ら土地に「金沢」という名前を付けたこと
・以前、秀吉に仕えたらしいこと

私の仮説ですが、長崎は長崎県ではなく、石川県七尾市(能登島)の長崎ではないか、金沢の地名は石川県金沢市にちなんで付けたのではないか、昭和40年代に七尾市長だった青木重治氏が青木家文書(七尾市古文書一覧より)を所有しているとのことですが、血筋として何らかの関係があるのではないか、と推測しています。
主人は181センチありますが、兄弟や父、祖父、従兄弟も皆身長が高く、親戚が集まると大きくて異様な雰囲気です。武士っぽいんです。
もし主人のルーツについて、分かることがありましたら、是非教えて頂けると幸いです。
家紋は「木瓜紋」か「横木瓜紋」か「丸に木瓜紋」だったかと思います。


  [No.861] Re:主人の家系は代々青木 重○です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/09/09(Sun) 12:18:35

>・代々、男子の名前に重の一字を付けるならわしになっていること
>・昔、「長崎」というところから来て上記住所に居を構えたこと
>・こちらに来た祖先は「長崎屋 重三郎」と名乗っていたこと
>・祖先が自ら土地に「金沢」という名前を付けたこと
>・以前、秀吉に仕えたらしいこと

>私の仮説ですが、長崎は長崎県ではなく、石川県七尾市(能登島)の長崎ではないか、金沢の地名は石川県金沢市にちなんで付けたのではないか、昭和40年代に七尾市長だった青木重治氏が青木家文書(七尾市古文書一覧より)を所有しているとのことですが、血筋として何らかの関係があるのではないか、と推測しています。
>家紋は「木瓜紋」か「横木瓜紋」か「丸に木瓜紋」だったかと思います

新潟の青木さん 今日は。 始めまして。
ようこそ青木サイトにお越し頂きました。これからも宜しくお願いします。

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この記録をお読みに成ると青木氏の先祖の事が詳しく判りますよ。膨大な資料ですのでゆっくりと少しづつお読みください。毎日全国の青木さんと青木氏族の方々や青木氏外の方々が3000人から5000人も訪問しています。
「ヤフーHPサイト」の「認可投稿サイト」としての歴史カテゴリーで日本一段突トップの情報量を毎年獲得しています。
これからも「青木サイト」を宜しくお願いします。青木氏掲示板には多くの青木さん等からお便りを頂いております。研究室などのメニューにも資料もありますし、有名な歌手の青木隆治さんが歌っている青木氏テーマソングもあるのです。一度お聴きください。左メニューの下側にあります。

さて、本題に入ります。
ご質問には、確実な口伝情報をお持ちでした。良かったですね。直ぐにお家のルーツが判りましたよ。ではそのお答えを致します。

現在新潟にお住まいとの事ですが、この新潟は全国青木氏が定住する地域では最大の地域です。
ここには、「藤原秀郷流青木氏」と「信濃諏訪族系青木氏」の2流が定住しています。
その経緯は研究資料に詳しく掲載していますのでそれをお読みください。
とすると、この末裔かと思われますが、ところが違うのです。
情報による内容とお家の仮説と見事に一致しています。
すごい推察力です。

実は、お答えから致します。
「摂州麻田藩主青木一重」の末裔です。

この青木氏は、武蔵の国に武蔵7党」と呼ばれる地域の豪族がいてその一つの丹党の系列の「丹治氏系青木氏」と云う氏です。
その始祖は、平安初期の皇族の「多治彦王」と云うものが罪を犯し罰せられて、この地に「配流王」として流されて、暫く土豪「丹治氏」に預けられて定住しました。
この時、この「武蔵7党」の「丹治氏」との間に子供が生まれます。
この後、この子供が成人して、「嵯峨期の詔勅」に基づき朝廷の許可を得て「皇族青木氏」を名乗ります。この「多治彦王」は罪を許されて都に戻ります。
「青木氏」には「皇族朝臣族」のみが名乗る事が許された皇子の「第6位皇子」が対象となり累代天皇がこの青木氏を賜姓し臣下させました。この「賜姓青木氏」もあります。天皇を護る「親衛隊」が役目です。
この「皇族賜姓青木氏」は「天智天皇の施基皇子」からこの「賜姓青木氏」が発祥しています。光仁天皇まで5代続けられます。

その後に、平安初期にお家は、賜姓ではない「嵯峨期の詔勅」で名乗った方の「皇族青木氏」なのです。
その皇族皇子の対象者が18人いましたが子孫を遺したのは4氏と成ります。
その内の一つがおうちのルーツです。

光仁天皇の2代後の「嵯峨天皇」は「第6位皇子の賜姓」を「賜姓青木氏」に変えて「賜姓源氏」としました。
これが有名な源氏です。中では源氏九代目の「清和源氏」が有名です。「義経」や「頼朝」です。
この「賜姓源氏」は花山天皇までの累代11代続きます。賜姓青木氏と合せて16代の賜姓族が誕生した事に成ります。
この「嵯峨天皇」は、この時、元の「青木氏の氏名」は「皇族の者」以外に使用を禁じます。
そして皇族の者が下俗した時に使う氏名としたのです。
それがお家の元祖に成ります。

ところがこの武蔵の此処には、もう一つの「青木氏」が定住しているのです。
此処には「藤原秀郷一門」が領国として定住しています。
その秀郷は「平の将門の乱」を平定した勲功でこの地を領国として公家の地位を与えられます。
この秀郷の第3子の「千国」という者が、朝廷の特別の許可を得て「特別賜姓族」として「青木氏」を名乗る事を許されます。公家と成った以上は秀郷一門は武力を持てません。
そこで子供の「千国」に一門を護る「武力護衛集団」を形成させます。これが「特別賜姓族青木氏」です。
大勢力を持ちます。
従って、此処関東一円には「土豪の丹治氏系青木氏」と日本一の最大豪族の公家の秀郷流一門の「特別賜姓族青木氏」の2氏が定住していたのです。お家はルーツはその一方です。

つまり、お家のルーツの「多治彦王」を始祖とする青木氏が、上記の「嵯峨期の詔勅」により青木氏を名乗ります。これが「皇族青木氏」です。4氏の皇族青木氏があり、お家は関東出自の「丹治氏系青木氏」です。
これがお家のルーツと成るのですが、その後、時代を経てその末裔は幾つかの地に仕官し移動分布して子孫を拡大させます。(11地域)
そこで、お家のルーツの「丹治氏系青木氏」の分家は、室町末期に秀吉に味方して奈良の一部の土地4000石を与えられて、ここにこの「関東の丹治氏系青木氏の分家」が移り住みます。
この関東の宗家の流れを汲む「丹治氏系青木氏」には11程度の流れを持つ他の支流族が各地に移り住んでいます。その内の一つが奈良に移り住んだお家なのです。

ところが、この奈良の東の名張から伊勢一体に掛けて上記の「皇族賜姓伊勢青木氏」が定住しています。
上記の「天智天皇の第6位皇子」として初代の「皇族賜姓青木氏」の「賜姓」を受けて「伊勢守護王」として先ず松阪に定住していました。
そして、この「伊勢」にはもう一つ上記した「藤原秀郷流の特別賜姓族の青木氏」が「皇族賜姓族の青木氏」を補佐する為に武蔵から差し向けられて平安期から分家が定住していたのです。
この「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓族の藤原氏の青木氏」とは血縁関係を結んでいます。

お家のルーツの「奈良の丹治氏系青木氏」と、「皇族賜姓族の青木氏」と、「藤原秀郷流の特別賜姓族の青木氏」の3つ氏の青木氏がこの地域奈良付近に定住していた事に成ります。

そして、徳川氏と豊臣氏の「夏冬の戦い」が起こります。
この時、お家の奈良に移り住んだご先祖は、最初に豊臣家の方に味方し、奈良に4000石を与えられています。
しかし、戦況が徳川氏に形成不利と成った時、徳川家康は、このお家の本家が同じ武蔵にいた事からこれを理由に豊臣氏に味方している奈良の分家に対し徳川氏に味方する様に説得します。
本家が関東にいますので敵対すれば本家が潰されます。そこで、戦況ぎりぎりのところで徳川氏に味方するのです。事前に徳川側に味方すると、大阪の隣ですので潰されます。
この時、「伊勢の二つの青木氏」も中立を保っていましたが、徳川氏に味方する事に成ります。
この結果、豊臣側は伊勢奈良の境界のところで防御壁が崩れ始めます。
結局、この調略が元で徳川氏が勝利して、この勲功から本家の本領安堵と、奈良分家に摂津の麻田藩1万石を与えます。
この時、この摂津藩と成った兄は、弟に「奈良と河内」に一部土地を分け与えて計4000石を与えました。

そして、この「丹治氏系青木氏」は「本領の関東の足立」と「分家の関西の河内名張の一部」と「新潟上田」と「南佐久郡」と「一部に小県郡」と「石川県と富山県」等の地域に末裔が移動します。

この時、「石川−富山−福井」の地域に移動した「丹治氏系青木氏」は「麻田藩分家の弟の末裔」が定住したところです。
つまり、お家は「石川−富山−福井」の地域に定住したこの分家の末裔の青木氏と成ります。
分家の分家と成ります。
この関東の「丹治氏系青木氏」の本家一族は他にも長野と山梨にも末裔(関東の本家末裔)が徳川氏から郷や村程度の土地を与えられて一部が移動定住しています。(その後配置換えが起り他の地に移動した)

現在、新潟にお住まいとの事ですが、この新潟の小県を含む富山までに隣接する全域には上記の「特別賜姓族の秀郷流青木氏」が定住しているところです。
この勢力の北は青森までこの秀郷流青木氏の「特別賜姓族」が分布しています。
ここには新潟の「特別賜姓族」を頼って武田氏が滅んだ時に逃げ込んだ「諏訪族系青木氏」の2氏も定住している所です。

「石川と富山と福井」の3県にも、「皇族賜姓族青木氏」の末裔の5家5流の青木氏が移動定住しています。(一時の退避地であったが一部の末裔が残り子孫を遺した)

お家のご先祖の土地の石川と富山と福井と新潟にはこの様に別の氏の青木氏定住している地域です。

つまりは、お家は「石川、富山、福井」に退避定住した関東の埼玉に隣接する東京足立郡の「丹治氏系青木氏」の「麻田藩の分家」の青木氏に当ります。

お家の青木氏のお名前の部分はお説の通りに分家も含めて全て「重」が付く通名です。
その元は青木一重ですが、その元祖は現在でも総宗本家は東京足立に定住しています。

お家の家紋は木瓜紋類との事ですが、この家紋群は愛知から奈良域までに分布する家紋群です。
恐らくは、奈良に定住した麻田藩の分家がこの地域の木瓜紋類との血縁をした青木氏です。
お家の関東のご本家は「富士山に霧紋」が主流です。
一族には12程度の異なる家紋がありますが、「綜紋」は「富士山に霧紋」です。
この分家の麻田藩の家紋は同じ「富士山に霧紋」を使っていますので、本家の直系の流れを汲んでいる分家である事が判ります。
そこで、お家はこの分家の分家ですが、家紋が「木瓜紋類」とすると、関東の「丹治氏系青木氏総宗本家」の中に「木瓜紋類」の流れが一つあります。
従って、お家はこの流れをも強く引いた分家と云う事に成ります。
つまり、関東の「木瓜紋類の丹治氏系青木氏」は、奈良の分家の者が本家筋の「丹治氏系青木氏の跡目養子」に入った可能性があります。

もとより、この家紋類は織田信長も使用する家紋ですが、この家紋は尾張から奈良の東側まで分布する京平家「平の清盛一族」の家紋群でもあります。
「織田信長」は「平家の末裔」ですので、お家は、関東の木瓜紋の平家の流れも持つ「丹治氏系青木氏」の流れも引き継いでいる丹治氏族である事が判ります。
この「関東の木瓜紋の青木氏」は、この「京平家」の流れを引いていて「副紋」は京平家の家紋「揚羽蝶紋」です。従って、お家は一部一時関東に役目で定住した京平家の流れも引いている事に成ります。

そうなると、「麻田藩の兄」は本流紋となり、お家の弟の流れは母方で違う事に成りますので、お家は第2夫人以降の母からの子供である事が判ります。本流系ではありますが、母が違う事が判ります。
この弟に兄はその勲功から4000石を分け与えたのですから本流系の母が違う事が判ります。

では、お家の関東のご本家の系譜を先ずはご紹介します。
この「丹治氏」は、「丹党」から分岐します。この氏は武蔵守の「多治比氏」の末裔で、「秩父別当」となり其処から「丹治氏」と名乗ります。関東の児玉、入間、秩父、足立に分布しています。

その始祖の経緯は、平安期の左大臣島氏 ” 「真人族」を賜う”とあります。「真人族」は「第4位皇子で4世王以内の皇子」を云います。天皇に成る資格を有します。
ところが、「第4世族内の第6位皇子」は「朝臣族」と呼び、天皇には成れません。
臣下して「武家」を形成します。これが「武家の発祥源」の「皇族賜姓青木氏」です。5家5流あります。
この「皇族賜姓青木」は、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の5国の「守護王」に成ります。

「真人族」の正式名で云うと、「 ・・島」の子「広成」の孫の「武信」は武蔵に配流されますが、孫の「峯時」の時に戻されます。更にその孫の関東に残った「繁行」が「丹党」を結成します。
この枝葉末裔の「基房」の曾孫の「直時」が青木氏を名乗る、と成ります。

島左大臣 家範 家広 家綱 頼景 家景 家義 家信 武信 峯信 ・峯時 峯房 武綱 武時 ・武平(武峯) 基房 直時 直兼 ・直時(青木氏)・・・実近・・・
・峯時は関東に住する。
・武峯は関東に配流される。
・二人目の直時は青木を名乗る。
・青木実近は高麗郡の山切り開き城築く、周囲畑と成す。ここから土豪と成す。
とあります。

次ぎに、お家のルーツの「摂津麻田藩の系譜」は研究室の「麻田藩の系譜」の論文を参照して下さい。詳しく記録しています。

そこで、何故に分家の分家の末裔が石川に移動したかの疑問ですが、ご説明します。
「徳川−豊臣の戦い」の時、当初、豊臣に味方し、後に徳川側に味方した為に、徳川が負けた時には本家ともに滅亡します。
そこで、「子孫生き残り策」の為に兄の子孫を残すと疑われますので、「弟の子孫」に富山、石川、福井の3県に移して、負けた時の「子孫存続策」を構じたのです。記録から読み取るとこの様に成ります。
その為に、弟に奈良と河内の土地4000石を見返りに分け与えて、石川に移した「食い扶持生活量」としても河内分を与えたのです。
これ等の事は全ての氏が行う当時の常道作戦の対策です。

例えば、この時に「真田氏」も同じ作戦を実行します。有名な「豪傑の真田幸村」の兄を徳川方に味方させて遺します。

次ぎは、何故、石川他3県と云う事ですが、ここは、上記した「皇族賜姓族5家5流の青木氏」とその「支流一族25氏」が逃げ込む地域として「伊勢青木氏と信濃青木氏」が、経済的に、軍事的に対策を構じて、正式には平安期初期頃からの「戦乱のその退避拠点」として構築していた地域なのです。

其処にお家のご先祖は、族がまったく違いますが、基を質せば、同じ皇族の出自の青木氏としてここに逃げ込めば助かるとの見込みがあるとして、利用し退避させたのです。

周りが「皇族系の青木氏」ばかりですので見分けが付きませんし、生活も伊勢青木氏から援助を受けて安定しますのでここに退避させたのです。

実は、奈良期の天智天皇は、この「5家5流の皇族賜姓青木氏」に対して、「天皇の詔勅」を発して「不入の権と不倫の権」を与えて一切の難から子孫を護ったのです。
従って、この「賜姓族の青木氏」に対して一切他の豪族は手を出せなかったのです。手を出すと朝廷の逆族の汚名を受けます。この事はその氏が潰れ事です。
この為に「皇族賜姓族25氏」は、万が一の事を配慮して、この3県を指定してここに退避地域を構築して、経済的、軍事的に護って保護したのです。
長い歴史の中では、現実に周囲の戦いの”トバッチリ”で、万が一の事が5家5流の各地で度々に起ったのです。
然し、この地域を護り安全に送り届けその地での生活を保障しなくてはなりません。
実は、此処には「伊勢−信濃」の「強力なシンジケート」(影の防衛集団)を構築していたのです。
詳しい事は研究室に論文として各所にこの事に付いて詳しく説明をしています。
この「伊勢−信濃シンジケート」は「織田信長」にも「丸山城の戦い」で勝つほどの強力な力を持っていたのです。
例えば、有名な10万の軍を相手に戦って勝った「楠木正成」の「南北朝の戦い」も、「信長との伊賀の戦い」も、「信長と北畠の戦い」も、「徳川家康の豊臣家との最後の戦い」にも、「伊勢青木氏」が頼まれてこのシンジケートを動かしたのです。
この「夏冬の陣」に戦った伊勢から大阪までの間の前哨戦は、このシンジケートが戦い掃討して家康が安全に大阪に辿り付けたのです。
この様にすべて勝利しています。関西の絶大な「影の力」を持っていたのです。

「伊勢青木氏と信濃青木氏」は平安期から「古代和紙」を商いとして「2足の草鞋策」を採っていたのです。
この商いは明治35年まで続きます。
「皇族賜姓族」の「裏の顔」として「大商い」をしていて、歴史上の記録として、NHKの大河ドラマに3つのテーマに出て来ます。これが大豪商「紙屋長兵衛」なのです。最初は58万石程度の力を持っていました。
ですから、信長に3度勝っているのです。

信長はこの戦い以外は敗戦していないのです。この事は歌舞伎にも成っていて、信長はこの負けた事に対して烈火の如く怒り、息子の信雄と滝川一益を罰して全ての領地を取り上げて仕舞うと云う有名な事件が起ったのです。それ程にこの「影の力」は強かったのです。

実は、何故この3県を退避地としたのかも疑問ですね。
実は、ここは「伊勢青木氏の大化期の始祖 施基皇子」の母方の土地なのです。
「越の国」「越の道君」と云う青森から石川県に掛けての越の国の奈良期の大豪族の地なのです。
この3県には、「皇族賜姓族青木氏の守護神」があります。それは「祖先神−神明社」ですが、この「神明社」または「神明神宮」は「皇祖神」の唯一の「子神」です。
この「神明系社」を42社もこの3県に多く建立されていて、ここを拠点に「伊勢との連絡網」として「3県の子孫」を護る拠点を構築していたのです。

(「皇祖神」とは{伊勢神宮]の事で、 「伊勢青木氏」が護っていた。 「神明系社」は「2つの賜姓族地」に建立する仕来りがありますが、この3県は賜姓族地ではありません。然し、一族の退避地として特別に42社も建立した。)

「青木氏の守護神」の「神明系社」は29地域566社も全国にあります。
この内の1割をここ3県に集中させて「社」を建立して「戦略的に護る子孫の退避地」としていたのです。

上記した様に、更にこれに日本一の超大豪族の「藤原秀郷の一門の護衛集団」の「特別賜姓族の青木氏」がこの「皇族賜姓青木氏」を「円融天皇の詔勅」により護る事を命じられていたのです。

当然に血縁関係も深く、特に母方が同じ代々藤原氏と云う同族血縁を繰り返していたのです。
これでは、他の氏はめったに手も出せません。
(同族血縁は純潔性を守る為に当時の皇族氏の仕来りであった。)

この「特別賜姓族の青木氏」は「皇族賜姓族」を助けて「418社」も「神明系社」を建立しているのです。
この3県はこの様に護られていたのです。全青木氏に執っては真に「安全地帯」なのです。

ここに「基ルーツ」を同じくすると云う事でお家のご先祖が此処に退避したのです。

そこで、情報によると、「長崎屋」と云う商号を提示されていますが、これは重要な情報です。
上記しました様に、「皇族賜姓青木氏」の「伊勢と信濃の青木氏」は、ともに「古代和紙」を殖産し取り扱う大商いをしていましたが、実質は「総合商社」で、堺と摂津と松阪の6店舗では大船を出して貿易もしていました。
(因みに、忠臣蔵の「浅野家取り潰し」の「城引渡し」の際に、「浅野家の財産」を買い取ったのは「伊勢青木氏−信濃青木氏」の「総合商社」であった事が記録で遺されています。)

恐らくはお家の長崎屋も上記の経緯から「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」と取引関係をしていた可能性があります。
退避した時に「伊勢青木氏」はお家に「商い」で身を立てる事を指導している筈です。
現実に、この3県の他の「皇族賜姓族の退避族」は全て商いをしているのです。
これは「伊勢青木氏」が指導していた証拠です。
そもそも退避しての時には資金も得意先も全くありません。
これを「伊勢青木氏」の「総合商社」の支店的な働きで店を動かすことで成り立ちます。

「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、この様に各地に支店を置いて各地の殖産物を伊勢に廻して、それを売り裁き、又、貿易をすれば両者は潤います。これには「港と船」が必要です。
「退避地の3県」は大きな日本海の港です。
千石船の大船は「伊勢青木氏」と「特別賜姓族の讃岐青木氏」が大船団として持っていました。
(「特別賜姓族」の「讃岐青木氏」は武蔵の宗家に匹敵する位の古くから「瀬戸内の海族」を支配下にいれた大豪族で「大廻船問屋」です。昭和20年まで続きます。)

この様にして「取引関係」を構築して子孫を護ったのです。
ですから、お家とも何らかの関係を保持していた事に成ります。
先ず、皇族の一族を放置しておく事はないと思います。放置するほうが不利です。
3県に導いたのであれば少なくとも身の立てる方策の援助もしなくては意味が無い筈です。
だから「金沢」と名づけるほどの力を持ったと考えます。
要するに、「退避後のベース」になるものが必要です。
どの様な商いをしていたが判れば確定は出来ます。是非お調べください。

現在、「青木氏と守護神」のシリーズの研究論文を20まで投稿していますが、来月の始めにはこの様な関係論文21を投稿する予定に成っていますのでお読みください。この3県のことも詳しく論じています。

そして、これがお家の経緯と系譜関係の情報です。

突然に「専門的な歴史情報」を書きましたが、少しづつでも良いですから、左メニューから選んで雑学を増やしてください。そうすればお家のルーツの全てを納得する筈です。
御主人と楽しんでお読みください。

お家の古いご親戚の方から沢山お便りを頂いて居りますので、これも青木氏掲示板や家紋掲示板や地名地形デー掲示板等も一度観てください。青木氏の検索モードでチェック出来ますよ。

では、何かご質問や御不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。
ではお便りやご感想をお待ちしています。

 


  [No.865] Re:主人の家系は代々青木 重○です
     投稿者:青木 美佐   投稿日:2012/09/23(Sun) 23:59:53

こんばんは。ご丁寧な解説を頂いていたのに、返信が遅くなりすみません。
義父に聞いたところ、以下のことが分かりました。

・約400年前から野積の地に住んでいるとの口伝え
・先祖が一族を連れて移住する際に、白山ひめ神社から分祀をして貰い、この地に一族の鎮守として祠をたて、義父の家が代々祭祀をしてきたこと
・家号の「重三郎」のしるしは¬(かぎ)に十で、何十組もの漆塗りの膳の揃えに記してあったとのこと

過去帳は失われており、先祖の商いのことも分かりませんでした。
それでもこのルーツの解説を頂いたことで、遠い昔の方々を偲び、皆でたのしい一時を過ごすことができました。
本当にありがとうございました。  


  [No.868] Re:主人の家系は代々青木 重○です
     投稿者:福管理人   投稿日:2012/09/24(Mon) 15:25:44

新潟の青木さん 今日は。

さて、お答えがお役に立てて良かったです。
これからも色々な地元のお話など有りましたらお便りください。

この度、約400年前とのお便りに付いて、まさに時代年数が一致してますね。
石川付近に移り其処から新潟に移動されたとすると江戸初期前後の事ですので、先ず間違いはないと考えます。

次ぎに、商号がカギに十字紋との事ですが、このお便りも更に証明しています。
日本海沿岸には昔は港が多く、且つ、「山陽道」に繋がる「北陸道」とそれに平行に「商業港」が多くあったのです。  そしてこの沿岸沿いには陸奥現在の青森県まで商業港を繋ぐ「商業道」があったのです。
現在では「細い道路」として「古道」として消えていますが、あったのです。

そして、「カギ」は船の碇を示し、「十字」は当時の輸送用の「荷車の大八車」の車の縦横の輪を支える軸を示しています。つまり、「海陸の輸送業」であった事を物語っています。

新潟にお家が移動した理由が想像できます。
新潟は昔、北陸の経済の拠点でしたので、ここに支店を出した為に一族の一部が移転したと観られます。
最初の移動先の地理的環境から観て充分に納得出来ます。
財を成して地名の「金沢」を付けるくらいですので納得出来ます。
実は、昔は江戸期まで国を勝手に抜ける事は禁止されていて、「国抜け」として一族は「打ち首」に成るのです。「武士の任地の移動」と「商人の経済活動」の為に届ける事で許される時代でした。
移動して、その地に子孫を遺すのは「武士と商人」以外には原則無かったのです。
400年前に新潟に移動したと成ればこのどちらかですが、「長崎屋」と言う店を営んでいたとすると商人になっていて移動が出来たのです。
それ以外の者は「国抜者」としては財を成すこと、地名を付けるなどの事は出来ません。

それと石川から移動して来ていますので、過去帳や菩提寺が判らないと云う事も商人であった事を物語っています。実は武士以外は「人別帳」に移動者は書き込まれるのです。
人別帳は村では庄屋に、商人は寺等の「人別帳」に書き込まれますので「過去帳」と異なり系譜は無くなり自然に消えて行くのです。国抜けの制度に依って400年前に新潟に移動したとなれば商人と成ります。
当然に「過去帳」は「2足の草鞋策」を採用する武士であったとすれば、石川か奈良か埼玉足立にしか無い事を意味します。武士を捨てたとすれば当然に過去帳はありません。人別帳です。
遠い昔の先祖の過去帳は本家の過去帳に存在するのですが、分家が大きく成らない限りは過去帳はなく成ります。従って、武家で移動すると移動先では菩提寺は無く、江戸初期の丹治氏の菩提寺か麻田藩の菩提寺にしか過去帳はなくなります。
(檀家寺を建立するだけの力財力があった場合 丹治氏と麻田藩にはありました。)
普通は武士はその土地で骨を埋めたとした場合は檀家寺と成りますので、原則人別帳と成ります。菩提寺に遺そうとすると納骨して本家の菩提寺に埋葬してもらう事に成ります。
移動してその地に定住した武士の殆どは檀家寺と本家菩提寺にも納骨するのが慣習でした。
そうすれば系譜として過去帳に記載される事に成ります。
氏家制度の社会ですので、本家筋に断わられれば檀家寺と成ります。
この様に「人別帳」と「過去帳」とは異なります。現在使われている過去帳という言葉は明治以降の言葉で両方の意味を含んでいる言葉と成っていますが、江戸期以前は完全に分かれていたのです。

これ等の事から、本来移動定住できないのに400年前に移動していて定住していますのでお家の場合は無いのが正しいのです。つまり、石川では既に商人に成っていた事を物語るのです。

そもそも中級武士以下は過去帳がある事が当時の慣習では矛盾なのです。下級武士ではそのような財力はありません。
武家を構成する氏以外の一般の民は「過去帳」を持ちません。そもそも中級武士以外は墓そのものを設ける習慣が無かったのです。あっても「河原の石」か「泥岩」の「路傍の石」の墓で自然に消えて行く事を習慣としていたのです。仏教の慣習でした。一般の者の墓石などの現在の習慣は全て明治以降の事です。
「過去帳」はその「氏の菩提寺」のみに存在するものですので、「檀家寺」には原則ありませんでルーツの系譜を引き継がない人別帳です。現在の地域にいる人の存在のみ記録するシステムですので系譜はありません。
前回のお答え通り丹治氏系青木氏で麻田藩の分家で分家で石川に移動して更に新潟に移動定住していますので本家の菩提寺に納骨は困難と思いますので、檀家寺と成ります。
問題はお家の昔の宗派は何宗であったかをお調べに成ると「2足の草鞋策」ではなく「商人」になっていた事を確定できます。過去帳がない理由がはっきりしますよ。


商人となれば伊勢青木氏と信濃青木氏の大店との繋がりは充分に納得出来ます。
実は他の青木氏との繋がりでは廻船業との繋がりが多いのです。
特に他の青木氏の中でも瀬戸内の廻船業を「2足の草鞋策」としてのその繋がりは強かったのです。
筆者の予想通りでした。

この様に、ちょっとした事がルーツを物語る事が多いのです。

また何がちょっとした事でも判りましたらお便りください。