> 福管理人、お久しぶりです。
> 先週末から鹿児島旅行してきました。
> 韓国岳登山口にある六観音御池:六観音の像を祭る仏堂のあった豊受神社と岩屋霧島神社湧水町栗野:地蔵供養塔、
> 霧島市:隼人塚、韓国宇豆峯神社
> 志布志市:臨済宗大慈寺、肝付兼続之墓
長嶋さん 今日は。 お帰りなさい。
暑いですね。
鹿児島も大変暑い様で、大変でしたでしょう。
来週、法事で私も出かけます。
さて、「・・右衛門」に付いては太吉さんの鹿児島の事がもう少し判れば改名の経緯が判るのですがね。鹿児島の太吉さんが幼少の頃に住んでいた所がわかれば良いのですがね。その寺や神社から何か出て来る筈ですがね。
>伊勢長島氏に長島〇之進かねみつ(金光?)と云う方はいるのでしょうか?
>宜しくお願いします。
さて、伊勢長島には「2つのナガシマさん」の流れがありますがこの2つの中にはお尋ねの方は居ません。
伊勢は長嶋氏と永嶋氏ですが、桑名郡と多気郡と一志郡であります。
何れにも光の付く人は居ません
多気郡と一志郡は具(とも)が通名ですので、恐らくは近い親族と見られます。北畠氏との縁者系ですね。
桑名郡の長島の長嶋氏は代々伊勢長嶋殿と呼ばれ有名で僧侶で願澄寺の住職系です。何れも信長に抗したのですが滅びました。
この2氏ともに元は親族と成ります。
系譜と戒名からは「光」は出て来ません。お尋ねの人は存在しません。「光」を通名としている長嶋氏はありますが関東の佐野氏系長嶋氏です。
確かに伊勢長嶋氏の中に長嶋武右衛門貞国なる人物が居ます。
そもそも、 この「・・右衛門」は関東の佐野氏系長嶋氏の世襲名にも多いのです。
実は念入りに調べて行くと、今回次ぎの様な事が判ったのです。
この貞国なる人物が途中を経由して関東武蔵国平方郷に移り住んだとあります。(子孫は現存している)
この者の一族の寛永の頃から続いた戒名には光を読み込んだ人物が5人も居ますし・・右衛門が3人も居ます。
そして幕末の頃の戒名には光以外に緑と林と木を読み込んだ故人は4人居ます。
前半は院殿居士の武士の戒名 江戸末期頃の戒名は武士出身のある程度大店の商人階級の居士です。太吉さんもこの戒名でしたですね。
ところが、幕末の太吉さんの頃の男子の戒名がありません。
安政4年の大姉の女性の戒名だけです。その前の男子は養子の長嶋銀蔵さんと成っています。
何か変です。その後明治の中頃以降に飛んでいます。そして明治以降はこの一族は養子が多い事です。
この幕末に跡目の男子が死亡以外に一族から何かの理由で籍を抜いた事を意味し、墓には入れなかった事を意味します。
この人物にも気にかかりますね。
この一族と太吉さんとの繋がりです。時代は考察する中にあります。
太吉さんが来たという「鹿児島」と云う前提ですが、見方を変えて、伊勢長嶋系であるが為に、この者が江戸期に鹿児島から長島に来て住み、その後、静岡等の長嶋氏の定住地を経由して関東に移り住んだと記していますので、この様に考えられるのてすが。
その時に子孫の一人の太吉さんがこの静岡近辺に来た時にこの地に留まったと云う推理もありますね。留まる以上は一族との決別と言う事でその為に姓の字を変えたとする説です。
一族の意思に反し、何らかの商売(材木)をしていてそれを守る為に留まったとする説に成ります。
この貞国と云う者は鹿児島薩摩藩の意を得ての伊勢−静岡−埼玉の移動の遍歴を繰り返したと考えられます。この地域の共通点は「長嶋」と「材木」です。
伊勢の長嶋、駿河の分家筋の長嶋、武蔵の本家筋長嶋
伊勢の吉野杉、駿河の檜、そして武蔵上野の材木
遠戚を頼って、「材木の商い」で移動していった。鹿児島は火山帯である為に良い材木はない事からの買い付けで移動定住していったと推理出来ます。
またご質問が有りましたらお尋ねください。