青木ルーツ掲示板
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  [No.882] Re:ルーツを教えて頂けると嬉しいです
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/01/17(Thu) 19:10:23

今日は。 お久しぶりです。
本年も宜しくお願いします。

過去帳をお調べに成りましたか。大変でしたでしょう。

さて、重要な情報がありましたね。

前回のお答えでは、「信濃諏訪族青木氏」の可能性が高いとしました。
今回のお答えと一致します。

実は、多少、先ず問題があるのですが、それは「青木和泉守」が過去帳では「一番古い人」と成っています。これは移動して現在のところで菩提寺を作られ、その時に過去帳を作られた時にご先祖が少しの口伝の記憶の間違いを起したと観られます。実は皇族賜姓族の信濃青木氏には和泉守は存在しません。
これは”間違い”と決め付ける程の事でも無いのですが。、恐らく、ルーツは「青木紀伊守」との間違いであったと観られます。和泉国は昔は紀伊国の北の域の郡郷でした。

(和泉国は江戸期のものです。従って、山口での過去帳は1520年代後の2から4世代後に作った事が判ります。思い違いをした事に成ります。「青木紀伊守」は越前福井没ですから、山口移動後、末裔が拡大して自らの氏の菩提寺と過去帳を作った時に、この祖の官職を間違えた事を意味します。)

何故かと云いますと、この「青木紀伊守一矩」は前回にお答えしました様に、「皇族賜姓族」の信濃青木氏の足利氏と血縁した「信濃足利氏系青木氏」です。(ニ引両紋)
この末裔の者が室町期に勢力を持ち直し足利幕府の重臣になり、室町末期に起った幕府倒壊に繋がるお便りの「天正8年の船岡山の戦い」が起こりました。(この時の人物は青木一矩)
(先祖のルーツを明確にする為に最も先祖を物語る重要なトピックスな事を「添書」として書き記したと観られます。よくある方法です。室町期末期の天正8年の事を書き記した事は過去帳は江戸期に成って後に書き記した事を意味します。)

この戦いは足利幕府の家臣団が2分して戦い、最終は幕府崩壊の「応仁の乱」へと発展します。この時の人物が「青木紀伊守一矩」と云います。この後、この人物は信長−秀吉に従い越前北の庄8万石を領します。
(この一族一門には同時期に越前国阪井郡丸岡4万6千石の青木伊賀守忠元なる人物も居る)

然し、何れも徳川氏との戦いで豊臣側が負け徳川氏から叙封されて、末裔は越前に本家一部を遺して其処から日本海側を通じて西に移動しました。この移動した末裔と成ります。現在その本家筋が福井に現存します。

(注意 信濃の土豪時代の足利氏の本家が藤原秀郷の指揮に従わなかったので、別に分家を引き上げて本家を作られて乗っ取られて、この為に立場が無く成ったこの土豪足利氏元本家筋は一門を引き連れて米子と八頭に移動逃亡して定住して生き延びた足利氏があります。
これに付き従った親族と成った上記の皇族賜姓族の足利氏系青木氏の一部も移動定住して、この青木氏は現在では宍道湖まで子孫を伸ばして居ます。然し、この一門には抱き角紋は無く血縁していません。御家とは別ルーツと成ります。)

足利幕府の重臣に成ったのは信濃足利氏(陸奥の斯波氏とも後に名乗った)で足利幕府を作った真の実力者であったのです。関東栃木域に勢力を持っていた足利尊氏とは親族関係(伯父)にあって、実際はこの「信濃足利氏」が全国を制覇したのです。11の国を領したこの足利氏の中では最大の勢力でした。
この「信濃足利氏」から養子を迎え「信濃皇族賜姓青木氏」と血縁をしましたが、2代続きで男系跡目が叶わず、結局、女系と成った事から家は養子先の「信濃足利氏筋」に組み込まれた「信濃皇族賜姓青木氏の末裔」なのがこの「青木紀伊守一矩」なのです。
因って、足利幕府の中では最高の家筋の一門であったのです。この一矩一門の中に「信濃諏訪族」と同じく血縁して2代続きで男系跡目が叶わず養子先の諏訪族に組みこまれた「信濃皇族賜姓族の足利氏系青木氏」なのです。
お家は、結局、「足利氏系諏訪族青木氏」と云う事に成ります。
詳細は研究室に記載しています。
「諏訪族系青木氏」にはお家を含めて3氏(内武田氏系2氏)あります。
(諏訪族に関しては前回お答えしましたが詳細は研究室で参照して下さい)

其処で、お家の過去帳がこの人物が最も古い人として地元に遺されているのですから、恐らくはこの人物の末裔で仮に「和泉守」が史実であるとして、それを「和泉守」としたとも考えられますが、つまり、一矩一族一門筋で知行地の一部の北域「和泉地域」を任されていた末裔とも観られますが、青木氏の記録には見付かりません。この判定は末尾の確認で明確にしています。」

前回の家紋が「信濃皇族賜姓族」の「諏訪族の抱き角紋」で「浄土宗の総代」も務め、「神社の神職」で地元の「庄屋的名主」でしたから、1512年前後にこの地に移動定住して来た事を意味します。
問題は移動定住の時期ですが、叙封された時の移動期なのか、その前に神職(神明社の神職)として移動して来たのかが判別が出来ません。

叙封期として検証しますと、「浄土宗の総代」、「神社の神職」、「庄屋的名主存在」から果たして江戸時代にこの様な実力を確保する事は安定した江戸期ですので無理と考えます。
然し、叙封期前とすると、この事は考えられます。
そうすると室町期中期以前と成ります。

実は、山口には、「神明系社」が古くから1社あります。
室町期中期直前頃のものとして、「柳井市阿目」と云う地域にありますが、ここに「神明宮社」があります。記録からここに信濃から神職の青木氏を配置しています。
研究室に「青木氏の守護神(神明社)」の研究論文がありますので詳しくは参照して下さい。
この事から、その後に大小の神明系社が拡がっている可能性がありますが、「諏訪族青木氏」の「抱き角紋」のこの地域への家紋分布と上記の3つの家柄から判断して、この室町期中期前に配置した神職では無いかと考えられます。
当初江戸初期までは、皇族賜姓族の青木氏の慣習により「神職」なので「神道」であった筈で、後に「神仏習合」の流れが起った時に末裔も広がり菩提寺も建立したと観られます。
この時に過去帳を作り祖とする人をこの青木紀伊守一矩とした事に成ります。この「神仏習合」の慣習では「神明系社」486社を独自に持つ青木氏に拡がり、「古代密教浄土宗」を独自に持っていたので神職青木氏に拡がったのです。

この「神仏習合」「神仏併呑」「神仏併合」「神仏合体」の流れは歴史上大きなもので4度起こっています。
平安末期と室町期中期と江戸初期と明治初期ですが、夫々の流れの特長が異なっています。
そもそも、皇族賜姓族と特別賜姓族の2つの青木氏は「伊勢神宮の皇祖神」の子神の「祖先神の神明系社の守護神」と奈良期からの「古代密教浄土宗」の「神仏の社」を独自に持ち自らの氏から神職と住職を輩出して維持管理する唯一の氏で朝臣族に許された「特別の権利」でした。
それだけに、「神道」でありながらも「菩提寺」を持つと云う慣習は青木氏にしか観られない奈良期からの元々の古い許された慣習であったのです。
これを「神仏習合の慣習」と呼ばれていました。
この慣習が後に各地の大豪族にも広がり、藤原氏や青木氏等の「朝臣族」に観られる「神仏習合」の他に時代毎の背景を受けて他の3つの流れが起ったのです。
(詳しくは、「青木氏の守護神]などの論文をお読みください)

恐らくは、お家の場合は、「青木紀伊守一矩」の頃は慣習上「神仏習合の状態」であった筈で、その後に山口に移動して神職を務めながらも「神道」をベースとしていましたが、子孫末裔が広がり本家筋からの経済的支援もあって、上記した本来の「守護神と菩提寺」の慣習に戻したのです。
因って、お便りの情報、「浄土宗の総代」、「神社の神職」、「庄屋的名主存在」は普通であれば矛盾するところなのですが青木氏に限っては当り前の慣習なのです。
この様に、「青木氏の雑学」からお家が「笹竜胆」を綜紋とする「信濃皇族賜姓族青木氏」の末裔で「二引き両紋」の血筋も持つ「抱き角紋」を家紋とする「青木紀伊守の末裔」である事が検証出来るのです。
この様にちょっとした何でも無い情報が青木氏には決めてに成るのです。
この口伝が現在まで伝えられていると云う事は、ご累代の御先祖がこの口伝の意味するところを認識していた事を示すものと考えます。

(この様なお家の口伝は子孫のロマンの為にも何らかの形で纏められて本文などの情報と共に何時か纏められて復元して是非引き継いでもらいたいと思います。ルーツ掲示板にはお家の昔の青木紀伊守一矩をルーツとする親戚の方のお便りもありますので掲示板の検索を使ってお読みください。)

中国地方には、比較的に浄土宗と神明社系神社は出雲大社の社領域から青木氏の定住地はすく無いのですが、5氏の青木氏が安芸、美作を中心に室町期中期前に増えて居ますのでこれに対応した建立であった事も考えられます。「皇族賜姓族の伊勢青木氏や信濃青木氏」や、「特別賜姓族の秀郷流青木氏」が「2足の草鞋策」の大商いを営み、これに伴なって増加するこの地域の一門の「青木氏の守護神」として、又、「2足の草鞋策」の「戦略的な根拠地」として建立された可能性があるのです。
それだけに、「国抜け制度」の中で、これだけの勢力確保とこの制度に掛からない立場となると神職(又は住職)の配置しかない筈です。普通は無い事なのに、故に「寺社の両方の力」(神仏習合)を持っていたのだと観られます。そして、その背後には「2足の草鞋策」の皇族賜姓族青木氏と特別賜姓族青木氏の連携に基づく「2つの青木氏」の「莫大な経済力」が背景にあったのだと考えます。
江戸時代も含めてこの時代に地域の一青木氏の家がこの無縁の地域でこれだけの力を維持する事は不可能です。故にこれ等は符合一致します。

叙封後では大名や豪族が力を持つ事を極力嫌った徳川氏のチェックもあり不可能であり、室町期中期前の「信濃青木氏の神職移動」と成ります。
故に、過去帳の一番古い人が中国地方に移動した末裔でその始祖を「青木紀伊守」と成っているのだと考えます。本来で有れば、この中国地方では賜姓地ではないのですから、「過去帳」と成らない筈です。「人別帳」で「檀家寺」となる筈ですし、宗派も「浄土宗」とは成らない筈です。恐らくは普通ならば戒律から真宗か曹洞宗かになる筈です。

因って、お家のルーツは前回のお答えどおりの「信濃皇族賜姓青木氏の諏訪族形青木氏」で間違いないと観られます。室町中期前後を中心として信濃青木氏の再興を果した「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐)をルーツとする事には矛盾は無いと考えられます。
「従五位左衛門佐」のこの最高位の官職は「皇族賜姓族青木氏の朝臣族」にしか与えられない仕来りの永代官職です。この意味は実に大きいです。
室町中期前のお家のルーツは研究室に詳しく論じて居ますのでゆっくりとお読みください。

このお家の祖となる「青木紀伊守一矩」(笹竜胆の綜紋を宗家家紋)の遠戚の末裔の多くは越前地方3国に多く分布しています。お家の「家紋」は「抱き角紋」ですが、綜紋は「笹竜胆紋」と成ります。

以上ですが、因って、「氏神の守護神の神社名・地域等の詳細」や「菩提寺の浄土宗の寺名・地域等の詳細」の確認を、なかなか判らないと思いますが判る範囲で、創建の時代等が判れば完璧ですね。
念の為に、この和泉守、又は紀伊守の俗名をお調べください。
戒名が「院殿居士」ですとして、当然にこの人の永代官職名「従五位左衛門佐」等が書かれて居る筈ですので、これも合わせてお調べください。個人情報に関わる事でもありますので可能な範囲で結構です。当時の慣習雑学で判りますので。

尚、戒名にも本人が山口で没した場合は「院殿居士」の中にこの内容を読み込んでいる筈です。
読み込んでいなければ先祖名を記憶から後漬けで作った事に成ります。この時に誤った事に成ります。
実は江戸初期と明治初期に一時、過去帳に先祖のこの後付け慣習が起ったのです。
だから、上記した様に家紋の「抱き角紋」は維持しながらも、大化期からの信濃皇族賜姓族の正式な先祖ルーツを持つ筈の越前没の紀伊守(和泉守)まで止まりの途中の祖と成ったのです。

では、又お便りをお待ちしています。



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