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  [No.888] 「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/07(Thu) 03:20:49

ブログに書いてあった「永嶋」で、家紋も「丸に五つ瓜に唐花」なんですが。。。。

家紋と苗字の由来を検索していたら、検索にあがっていて、読みましたが
日本史を履修していないため、じっくりよまないと、といったところです。

家紋屋さんからは、「織田木瓜」で織田の家臣の紋だといわれましたが、
こちらのブログを呼んでいると、家紋屋さんから言われたこととは、どうも違っているようでした。

非常に少数派だと思いますが、
この家紋と名前の組み合わせはどの程度の家が使っているのでしょうか?

ブログ中に既述のある県も該当しており、情報を集めているようなので、投稿してみましたが、
こういう掲示板の投稿になれていないので、名前は〇〇としました。


  [No.889] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/08(Fri) 11:36:43



今日は 始めまして。
ようこそ青木氏氏のサイトに起し頂きました。
これからも宜しくお願いします。
青木氏のサイトには沢山の永嶋氏の資料がありますので、ゆっくりとお読みください。膨大な資料ですが永嶋氏の事は大方は判ると思います。
偶然のお立ち寄りですが、奇遇ですね。青木氏族が青木サイトに訪問されるのは、何かの縁ですのでこれからも宜しくお願いします。

実は、永嶋氏は北家の藤原秀郷一門の主要5氏の一つで、「第2の宗家」と呼ばれる藤原秀郷流青木氏があり、青木氏族と呼ばれ主要5氏の中でも、永嶋氏と長沼氏は特に血縁関係が青木氏とは強い一族です。
従って、青木氏族の永嶋氏は本サイトとの一族と成ります。
これからは全国青木さんで運営してる自由な青木サイトです。青木氏と同じくサイトにご協力ください。
ルーツ掲示板には沢山の永嶋さんと長嶋さんからのお便りがありますよ。
掲示板の検索を使ってお読みください。

さて、ご質問に入ります。
御家紋が「丸に五つ木瓜唐花紋」であると云う事ですが、この家紋は中国の官吏の官服の袖に着けた官職文様です。
この家紋は94の文様があります。この家紋は始めは平安末期の頃に公家徳大寺氏の牛車に着けられた象徴紋でしたが、鎌倉期に多くの武家が発祥してこの象徴紋を武家の家紋としたのです。
この中で、室町期に平家末裔の織田氏が勃興してこの文様を使いました。
ところで、ご質問の織田氏との関係ですが、全く関係がありません。
織田氏の家紋は94の中の一つで、区別して「織田木瓜」と呼ばれる家紋です。
お家の家紋は秀郷一門が使う「5つ木瓜唐花紋」で青木氏族の家紋類です。

そもそも、青木氏族とは秀郷一門は361氏ありますが、その中でも主要5氏があります。
この主要5氏は、青木氏、永嶋氏、長沼氏の兼光系 進藤氏と長谷川氏の文行系に成ります。
この主要5氏が青木氏族と云われるものなのです。何故呼ばれるかは論文をお読みください。
青木氏族に付いては秀郷一門の事を論文で資料として投稿していますのでそちらで詳しくお読みください。
特に、青木氏と永嶋氏は同じ兼光系として緊密な同族血縁を結んでいます。完全な親族です。
永嶋氏は「関東屋形」と呼ばれ、室町期には関東と東北域の最大豪族でした。
永嶋氏は38氏で構成されています。因みに青木氏は116氏で構成されています。
この38氏の永嶋氏の中に「丸に5つ木瓜唐花紋」があります。
「5つ木瓜唐花紋」の分家筋に当ります。
織田氏の織田木瓜紋とは類似しますが、元々のそのルーツが異なっています。京平家の末裔ですが、この家紋は真ん中の唐花紋の花弁の真ん中の先端部分が異なっているのです。

少数派とのご意見ですが、全く逆で日本最大豪族ですよ。
南九州までにその子孫を拡げています。
その勢力は西域は伊勢長嶋まで伸張していました。北域は陸奥まで伸ばしていた超大豪族です。
奈良期の大化の改新の最大功労者の中臣鎌足を始祖とする藤原氏で四家が有りましたが、その最大の北家筋の最大勢力を誇った藤原秀郷一門です。秀郷は平将門の独立の乱を鎮圧した功労者で武蔵国と氏も下野国を領国とする全国24地方にその子孫を遺したのです。

さて、家紋と氏の関係のご質問ですが、38氏の家紋類に広げた永嶋氏です。
藤原氏の秀郷一門の綜紋は「下がり藤紋」です。この永嶋氏は同門血縁族の青木氏116氏と長沼氏52氏と繋がっています。進藤氏と長谷川氏とも繋がっています。
”どの程度の家”とのご質問なのですが、意味が判りませんが、「5つ木瓜唐花紋」とその「丸付き紋」は永嶋氏の独自の家紋です。他氏が使う事はありません。
お家は千葉県の結城を拠点とする藤原宗家の藤原朝光を祖とする永嶋氏でそのルーツから枝葉として拡がった「5つ木瓜唐花紋」の一族で38氏の中でも主要一族です。
この家紋の永嶋一族は関東を拠点として静岡−愛知の東よりと千葉に多く分布しています。
長嶋氏と長島も血縁族で同族です。
お家の元の一族一門が共通して使う家紋の綜紋(共通紋)は「下がり藤紋」で藤原四家一門の内7氏がこの「下がり藤紋」を綜紋としています。
有名な「5つ木瓜唐花紋」は由緒ある家柄で、その永嶋氏です。
詳しくは研究室の関係論文をお読みに成って、判らない時は都度ご遠慮無くご質問下さい。
ルーツ掲示板の検索で永嶋氏と入力して頂けば、お家の親族の方のお便りが沢山ありますので其処からも情報を獲得する事ができます。情報は膨大です。1年は掛かるかもしれませんね。
楽しんで少しづつゆっくりとお読みください。
永嶋氏に関する情報はこの青木氏サイトにしかインターネットでは無いと思います。永嶋氏の独自に研究した書籍は無いと思いますので青木氏族として御遠慮無くご訪問ください。
最近では、完全な他氏の方のご質問も多く成りました。
ヤフーHPサイトの歴史カテゴリーに正式に登録されている段突日本一の情報を有するサイトとしてヤフーからお墨付きを貰っているサイトです。
ご質問は、お家の専用欄を設けますので、このお返事のReでお便りください。

では、ご質問を心よりお待ちしています。


  [No.890] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/08(Fri) 15:58:10

ビックリの内容で。。。。

実は、織田の家臣といわれて調べていたのですが、丸に織田瓜の家臣をなく、
当家は石〇県からですが(私は首都圏生まれ)、ご存知だと思いますがほとんどない苗字でしたので、
へんだなぁと思つつ、家紋の起こりを調べていたのですが、たまたま変な検索ワードにしたら、
このサイトがひっかかりました。図書館やあらゆる使える方法で調べましたが、20年以上かかりました。

しかしながら、日本史を履修していないので、時代的な感覚はなく、「藤原秀郷って誰?」といった感じです。
藤原北家(きたけ?)も歴史的に出てくるメジャーな人たちよりも早い時期の人のようですし、苗字が「青木」と関係しているとは想像もできず、最終的なところまで辿り着くはずもありませんでした。

多分、「永嶋」の苗字の調査をされていると思いますが、
当家の場合、田舎でも戸籍は「永嶋」でも実際は「永島」で使っていたりしていたので、いちいちどの字を
書くのかを説明するのがめんどうなので、都会にいて田舎との関わりは薄いので「永島」に変名しました。
ですので、「永嶋」の比率はもう少し多くなると思われます。
石〇県〇〇〇ん市では「丸に五つ瓜に唐花」の「永嶋」は当家だけのはずです。

中国の官職の紋だったというのは驚きで、また織田瓜とは花弁が違うとのことですので、
家紋帳を見て、正式な家紋にしなおします。
この紋はあまりみかけることはないので、平安や中世の頃から入ってきた紋でしたら、
時代的に少数派にもなるので、仕方がないですし、家紋屋さんも間違えてるのも当然かと。

当家の元祖は織田よりも古い平安頃、しかも藤原は公家(最終的には公家から武家ですが)で、
日本に来た唐人は高級官僚でしたから、ある意味、織田よりも格が上なので、
「旧家?、いいジャン!」と誇れるところとなりました。

本来の宗派も浄土宗だとか。(石〇県は真宗:私は納得してませんが)
人頭税を取るために仏教という寺を使ったのが徳川の檀家制度。
本来の宗派に戻してもいいかなぁと思うところでもあります。

神明社との関係も興味深く、うちすぐ近くに神社(神明社)があり、
時々いきます。常々、神社との縁があると感じところです。

私の意見ですが。。。。。
今や葬式の時だけの家紋。
日本人がへんになってしまったのも、こういう日本が長年持ち続けている文化的な財産を
特に明治以降ほかしてしまったのも一因かと。

しかし、日本は家紋と苗字で分かりますね。
これは濃厚で面白いです。ボリュームがありすぎて、まだ全部は読んでいませんが、
ブックマークしたので、印刷をしながら、読みすすめます。

永島(永嶋)


  [No.891] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/11(Mon) 00:41:56

福管理人さん、だんだん理解できてきました。
"永嶋氏 belongs to 青木氏 that belongs to 藤原北家の秀郷."  なんですね。

さて、質問です!
綜紋は「下がり藤」とありますが、青木氏としての綜紋はあるのですか?
当時は、「丸に五つ瓜に唐花」ならば、藤原北家の青木氏の「永嶋」となるのでしょうか?
和紙に家紋を入れるものがあり、家紋を扱う店が間違えたことを教えて織田瓜となっていたので、
正式な紋に変えて、せっかくなので、両方つけてあつらえてしまおうかと。

家紋のところを読みましたが、織田瓜と唐花との違いは唐花のほうが充填率が高いようで、
他のサイトに比較できる画像があったので、家紋を扱う店が間違えないようにwordで注意書きを作りました。

家紋帳も植物等の分類ではなく、戦国時代以降に出来た家紋、鎌倉時代に出来た家紋、平安時代からの存在していて藤原北家のグループ等として分類し、索引に植物等の分類にしておけば分かりやすいと思うのですが。。。。

新橋の烏森神社は藤原秀郷を祀っているとあったので、さほど時間がかからないので
行ってみようかと思っているところです。

膨大すぎるので、ワードにコピペをして印刷して読んでいます。


永島(「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋)


P.S. 当方の投稿の番号が888で末広がりでいいですね〜


  [No.892] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/11(Mon) 07:23:45

永嶋さん 今日は。
お答えをお読みいただけましたか。ありがとう御座います。

そうですか、20年も掛かりましたか。それは大変でしたね。
然し、もう大丈夫です。どんな事でも永嶋氏の事は青木氏族ですから、全国の青木さんが集う青木氏のサイトでバックアップしますよ。

”888”は本当にいいですね。

然し、”変な検索ワード”では、何かの奇遇で青木氏が迷う「青木氏族の永嶋さん」をこの親族が集う古巣に呼び寄せたのですね。そう云う事はありますよね。

さて、先ずは、ご先祖は”越前”との事ですが、実はこれはお家のルーツを物語る大変な情報なのです。
越後を基点として越前の北側域までこの秀郷一門がこの地域を勢力圏として抑えていたのです。
特に越後には秀郷流特別賜姓族の青木氏が、根拠地あり、ここで ”おーい 青木さん”と叫んだら、周囲で ”はーい”と一斉に応える程に多いところで青木村があるのです。
(青木氏は「氏名」村名に付けて「青木村」を形成できる特別の権利を有する氏で、 永嶋氏も役職名を村名として着ける事を許された氏です。普通は地名以外に奈良期から村名を付けては成らない慣習令と成っているのです。)
当然にお家も一族ですから越前を江戸期頃の定住地として見ますと、永嶋氏も関東の千葉の「結城」から赴任して来ている事は充分に考えられます。
普通は定着し続けると「国抜けの大罪」に成りますので、2から4年の一定の期間を経ると領国に帰ります。然し、現地の土豪との血縁関係を結んだ場合はその者の末裔はその地に残る事が許されます。
(秀郷一門の戦略として24の赴任地の地域に現地との血縁族を積極的に作り赴任地に末裔を遺して勢力圏を広げる正式な戦略を採っていたのです。中には「戦地妻」と云う高級武家の仕来りで子孫を現地に残す正式な慣習があったのです。)

江戸末期までは「国抜け」と云って許可無く勝手に移動できず、これを犯した場合は一族全員が内首の刑に処せられるのです。武家が赴任地の当地の土豪などと血縁した場合はその血縁した者の末裔は定住を届ける事により許されるシステムであったのです。
恐らくは、お家が江戸期からこの越前地域に定住していたとするならば、この地に残留した永嶋氏である事に成ります。秀郷一門の主要5氏と家紋群主要8氏はこの方式を積極的に採ったのです。
むしろ義務の様な「慣習、仕来り、掟」であったのです。
故に、「永嶋氏の五つ木瓜唐花紋」の永嶋氏(青木氏の「五つ木瓜唐花紋」もある)が越前に存在するのです。ですから、親族である「青木氏族」の「青木氏の五つ木瓜唐花紋」もこの越前より北域越後よりに定住しているのです。現在も多くこれが何よりの証拠です。

ですから、越前には「五つ木瓜唐花紋」の名門中の名門の永嶋さんは少ないのであって、主要5氏の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」が越前に何処でも観られる事そのものの事態がおかしい事なのです。
結城から越前に移動定住した永嶋氏である事が「越前」と云う特定の定住地の地名でも判ります。
秀郷一門の定住地24地域外であれば疑問なのですが、地域としては一致しています。
だから、丸付き紋なのです。
何故ならば、「五つ木瓜唐花紋」では本家筋ですが、現地に残す子孫は主に分家筋の役目であったのです。嫡男が本領の跡目を継ぐ必要から赴任地に残る訳には成らないからです。
従って、現地に末裔を遺す役目は嫡男外の者の積極的な務めであったのです。
この時は、赴任地には仮に「五つ木瓜唐花紋」の本家筋の者であっても、現地に残る者の末裔は「丸付きの家紋」とするのが「家紋掟の仕来り」であったのです。
もし、「丸付き紋」で無かったとすると本家筋の嫡子系の者が残った事を意味しますから、氏家制度の中での「家紋掟」から観ておかしいのです。
氏を絶やさない事が最大の「武家の役目」ですから、よほどの理由が無ければ現地に残すのは嫡子外の嗣子となるのです。
もし、あるとすると、この場合は本家から特別に「五つ木瓜唐花紋」の使用を何らかの理由で許されてた事を意味します。家紋は武家の象徴で氏家制度の家柄身分を物語る最大の手段であったのです。家紋使用は勝手には嗣子であるからと云って本家の許可が必要であったのです。
この「家紋と氏名」を観る事で身分、家柄、官位、官職、上下の事を即座に観て自分と比べて礼儀の作法を即座に採る仕組みであったのです。
”秀郷一門主要5氏の「永嶋氏の五つ木瓜唐花紋」”と成れば、大抵の他氏の武士は即座に礼の儀を尽くします。それだけの名門の家柄でした。当然に勢力も「関東屋形」と呼ばれる筆頭の永嶋氏ですから尚更であります。

次ぎに、織田氏家臣の件ですが、これはあり得ません。
何故ならば、秀郷一門は関東一円から中部地方伊勢地域までその勢力圏を伸ばしていたのです。
織田氏は京平家の名古屋付近の滅亡した平家の僅かに残された末裔末孫です。
「織田氏の勃興の経緯」から、関東を中心に勢力を張っていた藤原一門と対峙していて、その秀郷一紋の主要5氏の永嶋氏が織田氏の家臣に成る可能性は低いと観られます。
そもそも織田氏は室町期の勃興でこの時期は秀郷一門の中でも永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれる位に勢力を張っていたのです。もしこの時期に織田氏の家臣と成ったとして氏名と家紋の使用は一門から剥奪されて武士としての存在は否定されます。絶対的に「大きい氏」が「小さい姓」の家臣に成る根拠がありません。あったとしてもその時点で宗家より一族事如く抹殺で潰されます。それが氏家制度です。
先ず、家臣に成っても一族が食べて生きて行けません。
そして、そもそも、織田氏は史実この関東の主の秀郷一門に手が出せなかったのです。
幾ら織田氏でも先ず無理であったと考えられます。故に、信長に倒された武田氏の諏訪族青木氏や武田氏系青木氏等はこの秀郷一門の青木氏を頼って神奈川に庇護を求めて逃げ込んだのです。
全く信長はこの時も手を出せなかったのです。
その後はこの秀郷一門は徳川氏(松平氏 同じ地域の武士団)と手を組んで終局、徳川氏家臣団の上級家臣団としてそっくりと加わります。
この後は秀吉と徳川氏(背後に秀郷一門の軍団が関東に控えていた)との対抗と成りますが、秀吉が関東に手を出せ無かった理由の一つはこの「藤原氏の家臣団の存在」であったのです。
この中には「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」が控えていたのです。これは全国各地24地域に末孫が勢力を維持していた事から、この秀郷一門を敵に廻す事は全国各地から周囲と背後からの襲撃を食う恐れが強かったからなのです。
鎌倉期の時も、この秀郷一門を頼朝と北条氏は味方に引き入れたから10万の軍に成ったのです。
同じ戦略的な藤原一紋の存在から平家側は周囲からの脅威で動けなかったのです。
まして、越前の永嶋氏は尾張の織田氏では家臣の説は成り立ちません。未だ織田氏はこの時期、越前越後は秀郷一門の勢力下にあり上記の移動慣習からも成立ちません。
越前を制したのは秀吉の時期です。この時は越前域は青木紀伊守の青木伊賀守が秀吉に任されてこの地を抑えていたのです。
故に、家臣説は時代の経緯錯誤の説と成るのです。秀郷一門は徳川氏に味方したのです。だから家康は簡単に秀吉の配置換えの命令を受け入れたのです。むしろ、秀郷一門に護られる事の方が安全で秀吉から攻められる事は無かったからです。

”藤原北家(きたけ?)も歴史的に出てくるメジャーな人たちよりも早い時期の人のようですし”
このお考えかは少し違います。
藤原氏は北家(ほっけ)京家、式家、南家と云う流れがありまして、その中でも北家が他の家を倒して藤原氏を制したのです。その筆頭が秀郷一門です。
その勢力は衰える事無く江戸期末期まで続きます。
メジャーとする定義はどの範囲とするかは判りませんが、江戸末期までメジャー中のメジャーでありました。秀郷は960年代の人物ですが、その後には有名な人物が出てきます。平泉の栄華を誇った藤原氏はこの末裔ですよ。メジャーと呼ばれる歴史上の人物は全て室町期末期からの勃興氏ですから、同じメジャーとしても藤原氏北家筋の末裔は奈良期からの朝廷より氏として認められた1400年程度の悠久の歴史を持つ朝臣族なのです。「勃興氏の姓族」と「朝臣族の氏族」との違いを持っています。表に事件として出るを以ってメジャーとするのか、表に出ないかは何時の時代でも大した差ではありません。”現在は表に出る”がどんな事であろうと、メジャーとする論調には疑問です。
特に室町期末期までは永嶋氏が一門の最大勢力を張り、結局、秀吉との決戦に及び陸奥域から伊勢、愛知域の永嶋氏は滅亡し、関東域だけは一門に護られて残りました。歴史上の人物が永嶋氏からも出ていますよ。ただ外部性を前提として観ているから一般には知られていないだけの事です。

越前を制したのは秀吉ですが、この時に越前は破られましたが、幸い皇族賜姓族(秀郷一門と血縁関係にある青木氏)の青木氏がこの越前を任されましたので越前永嶋氏は無事であったのです。
そもそもこの皇族賜姓青木氏とは母方血縁族で縁者関係にあったからです。
そもそも「皇族賜姓族」とは、累代天皇第6位皇子が臣下して天皇を護る護衛集団で天皇から賜姓を受けた青木氏です。 この青木氏と特別にこの賜姓族と母方血縁族の秀郷一門の青木氏(始祖 千国)は天皇から青木氏の賜姓を受けた青木氏で「特別賜姓族青木氏」と呼ばれます。116氏あります。身分、家柄、官位官職の一切が最高位として同じに扱われました。
この青木氏は秀郷一門の全体を指揮していた「第2の宗家」と呼ばれます。この青木氏の血縁氏が38に氏に拡がった永嶋氏なのです。
「皇族賜姓族青木氏」との繋がりを持った永嶋氏で「青木氏族」と呼ばれる氏名の所以なのです。
その身分は「永代従四位下左衛門上尉」と云う最高身分で、これは公家と相当の身分で貴族に類する家柄身分なのです。
藤原氏は公家身分ですが、公家身分が全ての藤原氏に与えられるものではありません。
主に宗家筋に与えられますから、宗家外の場合は武家で通すしかないのです。秀郷はその意味で最初は「押領使の武家」(警察軍)であったのです。
そして、「平の将門の乱」は5年も続き誰も鎮める事が出来なかった時に、秀郷が乱を鎮める条件として「武蔵国の領国と公家貴族の身分」を条件として朝廷に出したのです。これが認められて後に武蔵と下野が与えられます。この時に貴族に成りましたので、「朝廷の決り」により武力は仕えませんので藤原氏を護る為に一族宗家の第3子がこの役目を担ったのです。
これが千国と云う秀郷の第3子が、天皇より青木氏の特別の賜姓を受けます。
青木氏は「嵯峨期の詔勅」で青木氏を如何なる他氏も使っては成らないとする禁令を発し、この2つの青木氏を犯しては成らないとする「不入不倫の権」を与えたのです。
これが明治初期まで護られます。依って藤原秀郷一門は最初は朝臣族の武家、朝臣族の貴族、朝臣族の公家と武家、この公家が衰退し最終はお家の様な朝臣族の武家が残ったのです。

特にこの永嶋氏は今で云えば、「日本一の総合ゼネコン企業」の職を持った氏で、奈良期からの「工頭」の職位を持っていたのです。その中でも、平安期の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」はこの首魁であったのです。
前回にもお答えしましたが、この家紋は唐の官吏の官位官職を示す紋と説明致しましたが、これが「工頭」(たくみのかみ)の家柄を示す家紋なのです。「五つ木瓜」の物を切り開いて作った形を断面にした文様の”切り開く”の語意から「工」(たくみ)の記しとし、それを司る官吏の「唐花の役職文様」とにしているのです。
そして、その先祖が生き続けた領国の千葉県の「結城地域の村名」の通り、”城を作る(結]”としているのです。これは「結城族」と呼ばれる「工族関係族」の呼称なのです。
そして、朝廷と幕府からその職位を奈良期から村名とする事の許可を得て「結城」と云う歴史ある由緒ある呼称と成っているのです。
もっと云えば、天智天皇と共に始祖の藤原鎌足は九州から飛鳥まで広域の一本直線道路を作り(現在の山陽幹線道路)、その道路に沿って情報信号と防護の城を築城したのがこの鎌足の子孫なのです。
現在この道路の発掘が成され、その技術の高さは現在の土木工学の原理を踏襲する技術の高さであった事が判っています。
それを受け継いだのが藤原氏の中でもその家紋が示す様に「永嶋氏」と成る流れの末裔であったのです。そして、その末裔と成るのが「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」なのです。江戸期までその職を引き継いだとされてます。
因みに、「永嶋氏38氏」の家紋にはこの工事関係族を示す家紋が他の藤原秀郷一門と違って沢山あるのです。12氏/38で全体の1/3に及びます。これらを永嶋氏は束ねていたのです。中でも唐花紋ですのでその総支配の立場にあった事が判ります。12氏は直接その仕事関係を文様にしています。故に、永嶋氏はその氏の仕事の財力で勢力を伸ばし生き残ったのです。
だから、むしろメジャー中のメジャーの氏なのです。
この永嶋氏の職種から観て、越前にはこの仕事で赴任して当地に定住した事が判ります。
何かの城か道路か堤防か池か家かの工事関係者の支配として赴任したと考えられるのです。

次ぎに永嶋氏と永島氏との違いを述べますと、「永嶋氏」の氏名は上記の通りですが、永島氏は明治3年の苗字令と8年の督奨励で国民の一般の8割の者が苗字を持っていませんでしたが、この時に使われた姓です。苗字は江戸末期まで武士階級だけに許された慣習ですが、この時にお家の永嶋氏の村民と成っていた配下の大工や農民や商人などの一般庶民が、領主や庄屋や名主や豪農や郷氏や郷士に肖って、この明治の苗字令の時に付けた姓です。遠慮して主家に憚って永嶋を永島としたのです。
むしろ、その支配者がその様にせよと命じた事も考えられます。
多くはこの様な工事関係者はこの支配の武家(主家・氏上)の指導に基づいて姓としたのです。
従って、秀郷一門の領民の殆どは一夜にして藤原姓や永島姓が出来たのです。特に関東域ではこの現象が起こりました。政府が故意的に指導して苗字促進を図ったのです。
然し、家紋だけはおこがましいので別のものにしたのです。庶民には当然に苗字が無い事から氏の履歴は作れませんので、依って寺の慣習は無かった事から宗派も違うものに成ったのです。
従って、庶民は菩提寺では無く、檀家寺の人別帳となりますが、永嶋氏は氏名がありますので系譜ができますので過去帳と成るのです。
ですから、「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」は「姓名」では無く「氏名」としては「永嶋氏」が正しい事に成ります。
先祖の上記に書いた意味がこれで異なってくる事に成りますね。戸籍が正しい氏の経緯を示しているのです。氏名と家紋はその意味でその「先祖の伝統の概容」を引き継いでいるものなのです。
伝統の無い「姓名」とは違うところです。
だから、現在でも「氏名」と「姓名」との二つの呼称が現在も残っているのです。
そして「庶民の永島」は「氏名」では無く、「姓名」と成りますのでもとより本質が違います。
氏と姓はここに違いがあるのです。もし、永島をお使いに成っている事は先祖の伝統を留めている事を意味します。
平安期からの永嶋氏は、たった全国に認定された40程度/8000しかなかった由緒氏の一つとして朝廷より認められた由緒ある「氏名」ですよ。「姓名」ではありません。

次ぎにこの家紋が余りに見かけないと書かれていますが、逆ですよ。
武家階級の多い地域、特に関東ではこの家紋は大変多い家紋ですよ。
江戸の時代劇をよーく見ていてください。羽織の両袖と背中に武士のこの紋どころが多いのです。

次ぎに家紋は平安末期から始まった習慣でして、もとは公家や高級武家 青木氏や藤原氏等の氏にしか使用は許されていませんでした。この時は家紋では無く象徴紋であったのです。
家紋になったのは、もっと後の鎌倉期から室町期に入って一挙に武士が増えて200程度の氏から室町期には800程度に増えて家紋としての慣習と成ったのです。
この室町期の末期頃から徐々に力の持った庶民が、武士と成って「姓」が増えて家紋が上級武士の間で流行したのです。殆どは江戸初期に家紋と姓を持った武士でした。
お家のこの「五つ木瓜唐花紋」は伝統ある由緒ある「象徴紋」からの物なのです。
だから、越前にはこの様な上級武家の少なかった地域であるから少ないのです。

次ぎは、織田氏と比較しての事ですが、織田氏は「姓氏」ですが、永嶋氏は「氏」です。
織田氏には永代の官位官職は全く先祖からありません。だから、信長はこの様な象徴や官位官職の権威を破壊したのです。
青木氏と青木氏族はその象徴中の象徴ですなので信長に攻められましたが、青木氏は信長の歴史の中でただ一つ戦いで破れたのは歴史上この青木氏だけなのです。
この事件は歴史上有名な事と成っていて、歌舞伎にも成っていますよ。だから関東には攻められなかったのです。信長は永嶋氏を勢力の筆頭とする藤原秀郷一門には。比べられない当時であれば拝謁出来ない位の身分家柄差であったのです。
そして、”旧家”では無く、”名籍・名跡”で意味をもっています。ただ古いだけではありません。

”本来の宗派も浄土宗だとか。(石〇県は真宗:私は納得してませんが)”の件ですが、本来は浄土宗ですがお答えは納得するべきです。
何故ならば、お家は「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」ですから、関東の本家筋に帰参すれば、間違い無く「密教浄土宗」ですが、ただここにも、「お家の仕来り」があったのです。
それは、お家の上記した永嶋氏の歴史から、「浄土宗」ではなく「浄土宗密教」の家柄なのです。
そもそも、「浄土宗」は次ぎの経緯を辿っています。
「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」−「密教浄土宗」−「浄土宗」−別部派「浄土真宗」の経緯を辿っています。
従って、藤原氏は青木氏とおなじく天智天皇期からの賜姓族ですから、浄土宗でもこの経緯を氏の教義として維持していたのです。
つまり、普通の浄土宗では無く「密教」なのです。
自分の氏だけの自分で建てて、維持管理する氏だけを祭る独善的な寺、即ち、「菩提寺」なのです。従って、一門が少ない越前には江戸期からいたとして、この「密教」とする永嶋氏の菩提寺の寺は越前には原則無い筈なのです。
あるとすると、それだけにお家の永嶋氏菩提寺を作るほどに多かった事を意味します。この様な時には周囲に永嶋さんがオーイと呼べばハーイと応える程長嶋さんが周囲にいて子孫を大きく広がっていた筈である事に成るのです。
秀郷一門の定住地は24地方とはっきりしていますので菩提寺はもとより密教派寺はお家の越前とする所には無いのです。
”そうするとどうするか”と云う事に成ります。
其処で藤原一門は24の地域に赴任していますが、其処には戦略的に子孫を遺しますから、菩提寺が無いと困ります。その為にこの時、別部派の「浄土真宗」に「仮入信」する方式を採ったのです。
この為に各地に藤原氏の一門が定住した地域には浄土真宗の藤原氏が存在するのです。
越前のどの付近かは判りませんが、越後の県境付近ではないとすると、真宗にしか入る事が出来なかったのです。宗家一門はこれを認めたのです。
だから、越前の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」としては先ず間違い無くこの真宗に成る事が考えられのです。むしろ、越前の西域では皇族賜姓族の青木氏が逃避地として定住していましたので浄土宗も考えられますが、永嶋氏の密教の菩提寺は無いと考えられます。
同時に、お住まいに周囲には「守護神の春日社」も無かった筈です。(越後よりにはあるが)
故に、時代考証からして、「浄土宗」では無く「真宗」がむしろ正しいのです。
領国に帰れば結城の浄土宗の密教菩提寺がありますよ。
そもそも、密教で無い「浄土宗」としたのは家康で、「浄土宗督奨令」を発して密教方式を外し、中級武士まで入信出来る浄土宗としたのです。明治以降は庶民も入信する宗派と成ります。

もし元に複するのであれば、浄土宗ですが、真宗でも問題は、別部派ですので、無い事に成ります。
むしろ、お便りの情報がお家の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」を証明する情報と成ります。

次ぎは神社の件ですが、菩提寺の密教と共に、藤原一門は春日神社が藤原氏の独自の守護神です。
越前の周囲に永嶋氏が多く住んでいたとするのであれば、定住していた地域には必ず春日神社がある筈です。そこがお家等の独自の守護神です。
これも藤原氏一門の特長です。多分、無いと思いますがお探しください。
あるとした場合に、周囲に他の秀郷一門の氏がある事に成りますが、事に依ってはその神社にお家の記録がのこっている可能性があります。真宗にはお家の記録がある事には、密教で無かった事からかなり古い人別帳があるとするならば別ですが、年数から焼失している可能性があり無理があると思います。
藤原秀郷一門の氏は全部で庶流を除いて361氏に成りますが、直ぐにその氏名で判ります。
ある一定の決りを付けて氏名を付けているのです。この氏名の決りに従っていた場合の一門の氏名が多ければ春日社はある事に成ります。密教菩提寺が無くてもそこがお家の守護紳の春日社です。

次ぎに、伝統に付いてのご意見ですが、本当にそうですね。これは本サイトの趣旨でもありますが、今やこの伝統には意味を持ちません。
然し、後世に「先祖の生き様」を伝える事には時代とは別に意味を持ちます。
そして、「分身である末裔」が何時かこの伝統の記録を読んでもらえるところにロマンが生まれます。
そのロマンの想起さえあれば、今自分の生きている「立ち所」が判り生きる意味も判ってもらえると考えられます。それが出来れば「先祖の役目」としては「分身の末裔」に伝えられます。
それで良いと私は考えます。時代はこの様に合理化し近代的に成れば成るほどにあらゆる「伝統」は消え去ります。これも必然です。然し、記録は遺すべきです。
青木氏のこのサイトの情報は膨大に成っているのは、奈良期からの先祖の生き様を遺して伝えるために管理人さんと共に運営しているものなのです。問題はこの記録が今までの時代にその努力が無かった事が問題であると考えます。
現在、歴史の少ないアメリカでも”先祖、ルーツの記録運動”が起こっているのです。
管理人さんは更に掘り下げて戦国時代の先祖の生き様をスポットして数サイトの別サイトでも運営して、記録を遺す為に頑張っています。青木氏とともに英語版のHPもあります。
青木氏テーマソングも歌手の青木隆治さんの歌でありますよ。
超アスリートで有名な渡米中の青木さんのそのご家族もこのサイトにお便りを頂きました。
日高青木氏で筆者とは先祖を同じくしています。

以上ですが、先ずはお家のご先祖の基本的なルーツ基盤をお話しました。ルーツを探求するにはこの様な雑学が必ず必要です。何なりとご質問ください。青木氏としてご協力致します。
以上の事の全ての雑学は論じていますので、ゆっくりとお読みください。
幸いに青木氏はその立場から多くの正しい資料が遺されていますので、研究する事でこの様な情報量と成っています。全部をお読みに成れば、最早、青木氏族の歴史マニアです。

此処まで一つ前のご質問のお答えです。
次ぎは本日のご質問のお答えです。
ご質問は次ぎの通りですね。

>質問です!
>綜紋は「下がり藤」とありますが、青木氏としての綜紋はあるのですか?
>当時は、「丸に五つ瓜に唐花」ならば、藤原北家の青木氏の「永嶋」となるのでしょうか?
>正式な紋に変えて、せっかくなので、両方つけてあつらえてしまおうかと。
>家紋のところを読みましたが、織田瓜と唐花との違いは唐花のほうが充填率が高いようで、
>家紋帳も植物等の分類ではなく、戦国時代以降に出来た家紋、鎌倉時代に出来た家紋、平安時代からの存在していて藤原北家のグループ等として分類し、索引に植物等の分類にしておけば分かりやすいと思うのですが

青木氏には、上記しています様に、「皇族賜姓青木氏 25氏」と、この青木氏5家5流の「母方血縁族」で、「特別賜姓族青木氏 116氏」があり「2つの血縁族青木氏」で、この両氏には「2つの絆青木氏」(家臣団と職能集団で宗家がその「家臣の長」や「職能の長や「村民の長」に「青木氏の姓」を特別に名乗る事を許可した集団とその配下)とを持っています。
この「絆青木氏」は上記する様に、ある特殊な主従関係を保持した「青木氏」ですが、これらに付いて詳しくは論文をお読みに成ればその関係が判ります。
これ以外に、「嵯峨期の詔勅」により皇族出身者である場合は、青木氏を名乗れると云う「嵯峨期の詔勅」があり、これに基づいて名乗った「真人族と朝臣族の青木氏」があり、この青木氏を「皇族青木氏 4氏」と云います。
更に、明治初期の苗字令に基づき、これ等の青木氏の「一般の民」が主家の氏名を姓名として名乗った「第3の青木氏」と、室町期末期に青木氏の農兵として青木氏に仕えて後に力を持った者が主家の青木氏を名乗った「第3の青木氏」の6つがあります。

そして、今、お答えしている藤原秀郷一門の青木氏は「特別賜姓族青木氏」の事です。
秀郷一門の青木氏の綜紋は秀郷一門ですので、「下がり藤紋」です。
「皇族賜姓族青木氏」は「近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏」の5家5流の青木氏があり、累代天皇り第6位皇子の皇族で各々は同族血縁に依る親族関係にあります。
綜紋は「笹竜胆紋」ですが、この青木氏は皇族慣例上、本家分家の仕来りを採っていませんので、全て「笹竜胆紋」です。
ところが、この皇族賜姓族と特別賜姓族の二つの青木氏は上記の5つの国で互いの同族血縁関係を維持しています。母方族との同族血縁です。この「2つの血縁青木氏」の「融合の青木氏」が発祥しています。この青木氏は両方の綜紋を持っている事に成ります。
後の「絆青木氏」と「第3青木氏」の2つの時期の青木氏は家紋は別に成ります。当然にイザ鎌倉と云う時は上下関係にありますので、この綜紋の下に入ります。
「皇族青木氏」は別に家紋を持っています。綜紋はありませんし、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」との血縁関係は全くありません。

依って、ご質問のお答えは、秀郷一門の特別賜姓族の青木氏の綜紋は「下がり藤紋」ですが、その中には上記した様に青木氏同士の同族血縁氏の「笹竜胆紋」を綜紋とする「青木氏」もある事に成ります。


次ぎは、「青木氏族」の永嶋氏の事ですね。
古来より分け方がありまして、「族」と「系」です。
これは江戸時代末期までは「氏家制度」によって社会は全て構成されていました。全ての民はこの「氏家制度」の上下の中に置かれていました。
先ず、「系」はその一族に組み込まれた「氏」を云います。「縦並びの関係」の中にあります。
例えば、「青木氏系永嶋氏」と成れば、青木氏の中にある永嶋氏と成ります。
然し、「族」は「横並びの関係」にあります。当然に血縁関係がありますが、絶対的組織の中の上下関係にはありませんで、「青木氏族永嶋氏」は、血縁関係があるにしても、命令的な上下関係にはありません。
「氏歴、家柄、身分、官位、官職、有品制と賜姓の有無」等が一切上位である「青木氏」がリーダーとして一門の組織を采配している事を意味します。これが「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」と呼ばれる所以です。つまり、武蔵国の入間にある「秀郷宗家」の下にある「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」は、宗家の全ての格式より上位とする逆転現象が起こって入るのです。
青木氏は青木氏 永嶋氏は永嶋氏 一門として動かす時は青木氏族として指揮下に入る事を意味する分け方でした。
ただ、一門としては氏家制度の中にある訳ですから、礼儀は青木氏の方にある事に成ります。116氏と38氏の違いの勢力も左右して来ますから、この同族血縁族であっても格式外にも礼を採る事に成ります。
故に、北家筋の青木氏の永嶋氏ではありません。青木氏族の永嶋氏です。青木氏は所謂、リーダーです。

次ぎは、前回のお答えの中にあります通り、両方の家紋をつける事は「完全な家紋の矛盾」が起こります。少し家紋の事で知る人が居れば、”これはおかしい”とお宅の家紋に対して疑問を持たれます。
何故なら、あり得ない事ですから。つまり、家紋学から観て笑止します。
つまり、矛盾ですから”「第3氏」だ”と観られて仕舞います。織田氏は京平家の末裔の庶流で綜紋は「揚羽蝶紋」です。
「揚羽蝶紋≠下がり藤紋」と成り何事もこの関係にあります。但し、「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」の母方が「嶋崎氏」と呼ばれこの京平家の庶流の末裔の娘が千国の母と成ります。
矛盾を敢えて伴なわせるかは先祖の意思に反していると思いますが、どうするかは、お家の選択ですが。
自分の家の家紋を「織田木瓜」と「五つ木瓜唐花紋」とは、そもそも、上記した氏歴、家柄、身分、官位、官職の示す家紋の家柄が違っているのです。家紋=家紋の数式は成立ちません。それかを分けているのが家紋の昔の役目・目的なのですから。

次ぎは、「分類」のご提案ですが、本サイトの目的は「青木氏」にあるのです。「全氏の家紋研究」ではないのですから、分類は不可能です。上記した皇族賜姓族と特別賜姓族の家紋を持っていた「青木氏の家紋」の分類なのです。家紋の持っていなかった明治期の「第3の青木さん」の場合は、8000ものある家紋分類のどれかに成りますのでそんな事は不可能ですし、この青木氏は元は姓を持って無いので家系譜を持っていません。室町期の第3の青木さんも下級武士であったので家紋と宗派等は本来は持っていなく正式に姓とか紋などを持ったのは明治期なのです。一致しませんので追求が出来ないのです。その目的の中にはありません。
下級武士の全てが姓と家紋などを持つのは明治期前後なのです。記録を保存する当時の役目をしていた寺や神社などは正式に持っていなかったのです。墓や家紋などを含めてその様な概念が元々無かったのです。
故に、関係する青木氏族の家紋も論文としては論じていますが、この様な習慣が無い青木さんの家紋は調査する事が出来ないので家紋掲示板の中には入れていません。
従って、家紋掲示板の中にある青木さんは何らかの履歴を持つので第3氏の青木さんでは無い事を意味します。つまり、ルーツなどを明確にする事が出来る青木さんは室町期中期以前の最低でも平安期末期の発祥の青木さんで、青木さんは第3氏以外は発祥していないのです。
上記した様に嵯峨期詔勅にて名乗っては成らない氏名なのであり、明治期まで原則守られました。
この第3の青木さんも江戸中期頃の定住地の地域が何処かでも判ります。殆どは上記する青木氏の村民や支配下にあった職能集団の関係者であったのです。
(同じ様に同じ氏の仕来りを持っていた永嶋氏にもこの第3氏の永嶋さんがいます。直ぐに見分けが付きます。)つまり、はっきり云えば時代毎に分ける必要が無いし出来ないのです。
”青木氏族は姓ではない”と記述しました事でお判りだと思います。

この様な事はサイトの論文をお読みに成れば全てより詳しく網羅しています。
長沼氏や永嶋氏は同じ族として同じ慣習仕来りの中にいましたので青木氏の論文とほぼ同じ考え方して判断が出来ます。

実は、その計画もあって既にそれが検索に依って出来るようにと管理人さんが特別な掲示板を用意してもらっているのですが、未だ其処までの計画と研究には至っていません。
管理人室と云うところにはそのソフトが入っていますが計画途中の段階で終わっています。

その代わりに、既に管理人さんが特別にその様にする為の研究情報を集める為の掲示板(クワンプネット)が用意してくれています。然し、その様なデータのお持ちの訪問者が全く居ないのが現状です。
だから、青木氏の家紋掲示板には他氏が多く訪問があり質問が来るのです。
管理人さんが ”戦国サイト”の幾つかの研究サイトを運営しています。その時はそちらにリンクされると良いのではと考えます。
ヤフーの話だと、1氏がこの様な氏の家紋等を統計的に集めているのは青木氏だけとの事です。
兎も角も、青木氏には伝統としてある慣習がありまして、分ける事は青木氏の教示の別の意味を持つ事に成ります。この事らはお読みに成れば論じていますので次第にお判り頂けると思います。



では、又、お便りをお待ちしています。


  [No.893] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/11(Mon) 18:03:58

管理人さん、詳しい内容で、読むのが大変です。
まずは、今更ながら、「氏(うじ)」の意味が分かりました。


福管理人さんの言われるように、本来の宗派は真宗でないことは明白ですね。
宗派についてですが、北陸三県はご存知のように浄土真宗王国です。
現存する戸籍で家系図をおこしましたが、文政9年(1825)年以降の戸主まで
あり、戒名(真宗は法名)は真宗形式になっています。それ以前の戒名がお寺にないのは、
そういうことが理由かもしれません。では、徳川時代の檀家制度以前の宗派はどこで、
古い人たちの系図はどこにあるのか?というのが興味あるところです。
真宗の墓は「南無阿弥陀仏」の為、当地では家紋を墓石に入れないようですので、
家紋の持つ意味が薄れているのも事実です。

しかし、家紋の掟を読んでいたら、跡継ぎのいない家や女子だけ残った家についても
あったので、当時、本当によく考えられていたのも驚きです。

こう史実がわかると、、
伊勢神宮、神明社、新橋烏丸神社、西早稲田にあるお寺も藤原秀郷が関係していたようなので
古いご先祖様達尽力されたところが大きいところで、神頼みできるところがあることは、
この大派閥の「青木氏」グループのいいことですね。

サイトにあるお誕生日な青木さんには入れないので、
青木氏主要五氏のグループもあったらいいなぁ〜と思います。

永島(永嶋)


  [No.894] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/13(Wed) 07:09:13



昨年放送されたNHK「さかのぼり日本史」、平安藤原氏。よくよく考えてみると、
鎌倉幕府も、結局、藤原北家にのっとられたんですね。


永島(永嶋)

P.S. 非公開部分が公開されていましたので、削除しました


  [No.895] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/13(Wed) 08:39:51

永嶋さん 今日は。
早速、お答えを読んで頂きましたか。
何とか ”永嶋さん”を正しくご理解頂く為に、熱が入りました。
又、改めてゆっくりと、お読みください。先祖の深意も読み取れる事になりますので、其処で、先祖の生き様が読み取れます。
青木氏族としても良く似た生き様であった筈ですから、青木氏の論文をお読みください。

矢張り、お答えの通りの検証結果でしたね。

お便りのご推察の通りです。
お家のご先祖の地は間違い無く結城です。ご先祖の結城の歴史は、一度、京平家に奪われますが、平安末期ギリギリに秀郷宗家を荷っていた第5代目朝光と云うご先祖が奪い返します。
その後に出来た頼朝の鎌倉幕府に合力し、この秀郷一門の藤原氏の旧領地を本領安堵して正式に下総結城も戻りました。
ここは秀郷の一門の下総の領地で永嶋氏の故郷です。
ところが、この先祖伝来の旧領の結城に戻った藤原秀郷の一門の「朝光」は、氏名を「結城氏」として名乗りますが、途中の13代目の「行長」の代の間に「酒井氏」を名乗ります。
ところが、何故、この「酒井氏」を名乗ったのか理由が歴史上でこれを物語る記録は無いのです。
更に、ところが、秀郷13代目になって今度は「永嶋氏」を名乗ったのです。

この時、この永嶋氏の主流は次ぎの2流から成っています。
佐野氏族永嶋氏と結城氏族永嶋氏の2つに分流しているのです。
佐野氏族の永嶋氏は下野国の佐野庄の出自です。
結城氏族の永嶋氏は下総国の結城庄と成ります。

そもそも、一門の佐野氏は藤原氏の中でも古く、先ず秀郷一門の末裔は、4代目で2流に分流し「兼光」と「文行」に分かれます。
青木氏族はこの兼光系です。この兼光流は更に「兼行」と「行尊」との2つに分流します。
この「兼行」の秀郷8代目の「成俊」が佐野氏の元祖です。
「行尊ルーツ」の秀郷8代目の朝光が平家より取り戻して先ず結城を名乗ります。
そして、この結城氏の末裔が「兼光」の佐野氏の跡目に入ります。
その後に、その末裔が故郷の結城の永嶋氏の氏名を採って「佐野族永嶋氏」を名乗った事に成ります。
これが後に永嶋−長嶋氏を名乗ったと観られます。
(記録が永嶋氏と長嶋氏とが混乱している様子です。)

次ぎは、結城の本領にいた結城氏はその後に「酒井氏」と名乗り、その後に永嶋氏を名乗りました。
ところが、上記した様にこの結城は京平家に下総全体を奪われましたので、この時、秀郷一門は下総から伝来の結城からも追い出されたます。
この結城氏は、茨城に移動して酒井氏を一時名乗りますが、再び平安末期に朝光が京平家を追い出してこの結城を奪い返したのです。

その後に、結城に戻った秀郷13代目の「行長」が始めて永嶋氏を名乗ったのです。
同じ兼行のルーツで秀郷8代目で「成俊」と「有綱」に分流します。
「有綱流」が永嶋氏の13代目の「行長」です。
「成俊流」で秀郷16代目の「行久」が青木氏の跡目に入ります。
(ここで、相互に同族の跡目血縁する)
参考に「兼行」の子の「考綱」が青木氏族の「長沼氏」を継承します。

ここから、2流の結城永嶋氏が発祥したのです。
然し、何故に永嶋氏なのかは判っていません。
他の主要氏「佐野」と「長沼」は全て地名からですが、「永嶋氏」も地名と考えられるのですが。
「結城−酒井−永嶋」の経緯が解らないのです。この間の一切の資料が不思議に無いのです。
「京平氏」との争いで無くした可能性があり、それだけに戦いが激しかった事が云えます。
従って、結城にある菩提寺も焼失の可能性があります。 
結城を奪われたのですから、結城氏の菩提寺を京平氏が遺す事は無い筈です。

(京平家がこの下総と上総を奪い、更に奪い返される事に特に留意して置いてください。お家の家紋と京平氏の末裔の織田氏の家紋との類似の由来の原因が判るのです。)

つまり、お家の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」の流れは、この本流の結城氏族永嶋氏であるのですが、佐野氏族にはこの家紋はありません。

従って、間違い無く、菩提寺はこの結城付近の浄土宗寺に必ずあります。或いはあった筈です。

(下総結城は現在は茨城県の西域で埼玉東と千葉北域の3県に挟まれた地域で、下総結城と常陸結城がありましたが、下総結城が奪われた時に常陸に一部移したのです。常陸結城は海よりにあった。)

其処で調査しました以前の結果では幾つかあるのですが、その中でも、この経緯と家紋から観て最も古い寺(1185年から1285年)と成る筈です。この寺に該当する寺は2寺になります。
そもそも、浄土宗は「知恩院系」(法然)と「清水寺系」)(坂上田村麻呂)があります。
この内、密教系は知恩院(開祖 法然)系です。
この条件に合致するのは茨城県の現在の「境町」の「西光寺」(全国にある秀郷一門の定住地に多くある寺 各地に菩提寺を建立)と、結城市の隣域東にある「報告寺」です。
然し、情報の当時の確認が取れません。筆者はこの「西光寺」ではと見ています。
これには、根拠があります。
この秀郷一門の定住地の寺「西光寺」(菩提寺らしい)と同じであるのですが、この全国にある「西光寺グループ」のリストの中にこの「結城境町の西光寺」は無いのです。
そしてこの寺にHPも無いのは不思議です。
つまり、「結城−酒井−永嶋」の記録が無い事に原因している事に成ります。
「京平氏」との戦いで「結城の西光寺」は焼失して、暫くの間、リストから末梢されていたと考えられます。
その後に、永嶋氏に依って再び再興されたものではないかと観られます。
この間に結城より東域の離れた地域に1281年に「報告寺」が建立されているのです。
結城の「境町の西光寺」は詳細は解らないのです。
(朝光が結城を奪い返した時期は1180年から1185年)

この「報告寺」の創建年代と寺名が気に成ります。
この結城の現在の「境」と「酒井氏」の酒井は同じではないかと推測されます。
この結城の「境町の西光寺」は、酒井氏の時に建立し、「報告寺」は、結城奪還から約100年後に創建ですから、明らかに永嶋氏が建立した事に成ります。
この永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれる様に大勢力をもったのは、このほぼ100年後でありますから、この「西光寺と報告寺」は酒井氏と永嶋氏の建立と成ります。
「酒井氏が西光寺」、「永嶋氏が報告寺」の使い分けをしていたかは判りませんが、「西光寺−報告寺」との間に、「関東屋形」の呼称に成る前には少し時間(50年程度)が掛かっていますから、この間に「永嶋氏の呼称変更」があった事に成ります。
とすると、何れもが「結城永嶋氏の寺」と成ります。
つまり、1180年から1380年の事と成りますので時代考証は問題ない事に成ります。
(この「西光寺」の呼称は青木氏族のある慣習から来ている事が判るのです。)

実は、この永嶋氏に成った時に2流(10代目−11代目)に分流しているのです。
後に、この分家(祐広)が秀郷一門の旧領の陸奥に移動して勢力を拡大します。(陸奥結城氏)
丁度、中間ですので「本家」(広綱)筋と「分家」筋(結城を護っていた筈)の使い分けをしていた可能性があるのです。
お家の家紋から本家側の流れの永嶋氏です。
本所の結城の境町の「西光寺」は本家流、「報告寺」は分家流と成る筈です。
(その後に、この分家は陸奥に移動して旧来の地である事から陸奥結城氏を名乗ります。)

依って、筆者はこの経緯から最終は何れも、「西光寺」と「報告寺」が永嶋氏本流の管理下に成ったと見られ、何れも正しい事として検証しています。(結城は陸奥に移動したから)

(他氏が永嶋氏の領地の中に勝手に他氏の寺を建てる事は無い。江戸期まで。)

資料が遺されていないので、この「2つの寺」に遺されてあるかは疑問です。
この寺にも無いから資料が無いのでしょうし、「西光寺グループ」にも記載されていないのはこのグループに入れる証拠がこの寺に無い事を意味していると観ます。

(此処までが青木氏からの限界の研究結果でした。これ以後は永嶋氏の詳細履歴の焼失で判りません。)

先ず、その時の為に、文政9年のご先祖の「通名」が何であるかを把握してください。

(この間に追伸が有りましたが、真宗は密教ではありませんので、過去帳はありません。
人別帳ですから、戒名で記載して居る可能性は少ないのです。人別帳はその時の信者の事しか記載が無いのです。文政では最早、お家には永嶋氏の「通名」は無かったようですね)

俗名(戒名に読み込んでいる筈)の前か後ろに付けられた漢字、例えば、行か綱か政か公か秀などの漢字ですが、結城の菩提寺頼みに成りますね。

(今後の確認 参考この漢字のご先祖が居る事で大方は結城地域の浄土宗の菩提寺かの把握出来ます。先ず、密教系かの確認、この寺の創建年代の確認、長嶋氏の過去帳の有無(現在は密教では無く成って居るので他氏のも檀家寺と成っている)で比較的に簡単に判ると思います。
古ければ古いほど良いのですが。最低で取り戻した時に立て直して居る事から1100年から1380年前後の建立期と成ります。)

筆者は、落ちの越前の移動経緯は、この室町期1380年頃に秀郷流青木氏の指示の元に結城永嶋氏に対して越前の浄土宗か神明系社の建設、維持管理に長期出向を依頼したと考えています。
そして、その後に血縁して定住したお家の永嶋氏はこの域の青木氏の寺社の維持管理を務めたと観ています。
この「越前の3県」に青木氏は奈良期から戦乱などで一族が逃げ込む退避地を作って保護していたのです。この為にこの保護する寺社を建立していた地域なのです。
そして、この一族を立ち直る為に商いをさせていたのです。
実は、青木氏は1025年頃から「2足の草鞋策」で紙等を製造から販売をしていた大豪商です。
今で云う「総合商社」です。この商いを通して越前の逃避した青木氏の生活の面倒を観ていたのです。
ここには商いの青木氏が多いのです。
この「総合商社」が武力を使わずに信長に丸山の戦いで勝利します。(信長の唯一の実質敗戦)

”徳川時代の檀家制度以前の宗派はどこで、古い人たちの系図はどこにあるのか?”

上記の通りですが、この疑問は、宗派秀郷一門であるので、宗派は氏家制度の中での決り事ですので、一家が勝手な事は出来ません。浄土宗以外にはありませんし、密教系の浄土宗寺と限定されます。永嶋氏の大系図は筆者が把握していますが菩提寺が見付かれば判ります。
結城の永島氏一族独善の菩提寺にあります。
前回のお答え通りで奈良期からの由緒ある密教の氏である限りは宗家の慣習に従う以外に生きて行く道はありません。依って、地域と浄土宗と密教以外に選択の余地はありません。

一つあるこの様な事件がありました。中部地方のある青木氏族がこの禁令を破り、勝手に曹洞宗に改宗して仕舞ったのです。歴史ある菩提寺まで改宗すると云う破天荒な行動を採った者がいます。
この者は直に本家でありながら一族一門から排斥され潰されて仕舞いました。
「氏家制度」である限りその伝統を本家の者であったとしても潰される仕組みなのです。
宗派の選択の自由はありません。密教系浄土宗で結城に無ければ成らないのです。

依って、古い人達の系図の疑問は、この寺にしかありません。
「氏」である限りは個人が系図系譜を維持管理していません。全て密教のこの寺か守護神の神社かに保管維持管理されて入るのです。
昔は全ての氏の事件性も含む記録は菩提寺の寺が主体として維持管理していたのです。
姓族は菩提寺と密教のこの仕組みがありませんので本来は系譜と系図関係の記録は無いのです。
ですから、系譜を敢えて作ろうとすると自作の搾取の系譜以外には手段が無いのです。
元々、過去に遡ると「姓」を持って居なかったし、その概念も姓族には無かったのです。
独自の寺もなかったのですから原則作れないのです。
況して其処まで情報のある社会ではありませんでした。依って、姓族の系譜類の記録は100%搾取なのです。その「氏か姓」かが判れば直ぐに判断が付きます。

お家は、秀郷一門永嶋氏です。況して、慣習、仕来り、掟に縛られた青木氏族です。勝手な事は出来ません。その氏には膨大な配下を民の段階まで抱えた組織の氏の長であるのです。
勝手な事は出来ません。すれば組織から直に追放です。むしろ、伝統を護らせる立場にあったのです。
況して、五つ木瓜唐花紋です。ゼネコン関係の組織を配下にした日本一の由緒ある大氏なのです。
勝手に、あちらこちらに自分勝手な宗派、寺、神社などを作る事はできる訳が無いのです。
許可がいるのです。、朝廷か幕府の許可が必要です。
そもそも寺社の建設は特定の氏にしか認められていませんでした。
これは江戸時代末期まで護られました。江戸時代は氏の確定では無く、届け出ての認可でしたが、室町期中期までは朝臣族系と宿禰族系の特定の氏にしか認めていませんでした。
青木氏族は朝臣族ですのでこの権利を有していたのです。
ですから、あちらこちらでは無く、誰でも出は無く、結城で、密教系の浄土宗寺であるのです。
故に、「五つ木瓜唐花紋」の氏の菩提寺は必ず結城付近にある筈です。
(第2次大戦で焼失の可能性もある)
結城付近の浄土宗寺と成れば限られてきます。何故ならば、ゼネコンの大組織を配下に治めて居るのです。配下の者が存在した地域になくては成らないのです。
氏上の寺が配下の者の寺でもあるのですから。12家紋/38の組織を率いている五つ木瓜唐花紋族なのです。
前回のお答えにも書きました「結城」の意味からも此処にしかない筈です。

お家の藤原一門の秀郷から13代目の行長が元祖として永嶋氏を名乗りますが、幼名は小四郎で伊予守を拝命していました。
永嶋と長嶋はその各地5地域に分布した末裔永嶋氏の違いで区別しています。おおまかには三重までの西域は長嶋氏、東域は永嶋氏です。どちらも同族です。系譜の区別はありません。
従って、お家は文政期の過去帳をお持ちとすると、間違い無く関東の結城の永嶋氏である事が判ります。兎も角も、”氏家制度の社会で氏族だ”と云う事を認識ください。


後継ぎの件では、お家は絶えると云う前提ではまだありませんよ。
娘に養子を採り養子に一代で子供が生まれれば、その子供が跡目に入り、お家の永嶋氏は元の状態で継承して行く事は可能です。真宗での文政期の過去帳が遺されている事は必ず越前の3県を中心に越後付近にもお家の越後の末裔はある事を意味しています。恐らくは歴史的経緯から越後か越後より付近にあると思います。家紋通りの「大工の棟梁」と「真宗」の事ですので、あると思います。
大元は「結城と浄土宗」(青木氏からの研究結果の情報は下記)と成りますね。

さて、伊勢神宮や神明社のところまでお読みに成ったのですね。
ご先祖を理解する上では、歴史雑学が必要です。特に、我々青木氏族はその慣習や仕来りや掟を以って生きて来ていますので、先祖の生き様は他氏の「姓族」とは大きく異なる処です。
それだけに面白いですよ。信頼できる歴史記録もそれだけに遺されて居ますからね。
本当の「先祖の生き様」が目に映る様に観えるのですからね。
恐らくは、「青木氏の守護神(神明社)」の論文の中で、この神明社の建設には「特別賜姓族青木氏の職能集団」とは、お家の「永嶋氏の五つ木瓜唐花族」とその「配下の集団」とが関わっていた事は明白です。「秀郷流青木氏特別賜姓族の青木氏」にもこの「五つ木瓜唐花紋の青木氏」があります。あると云う事は同族重複血縁していた事を意味します。
これは職能に依る永嶋氏との同族血縁をしていた事を示します。
(同族血縁はこの時代の朝臣族の常識的慣習)
「皇族賜姓族青木氏の職能集団」もはっきりと遺されていますので、この「2つの職能集団」が関っていた事に成るのです。

それだけに、この論文を投稿終了した直後にお家のお便りがあったのは何かの縁です。驚きました。
実は、この事は既にこの論文、「青木氏の守護神(神明社)」にも論じていたのですが、タイミングが良すぎますね。
この論文の越前の3県には奈良期から「青木氏の戦略的退避地」があり、寺と神社を一番多く建設して一族の保護をする組織があったのです。それを構築した建設に関わった青木氏と青木氏族が必ず居ると研究調査で判っていました。
その証拠があるのですが、現存する「青木氏族」の「五つ木瓜唐花紋族の永嶋氏」の確認が出来て居なかったのです。その事が真に偶然にもお便りを頂きました。
お便りを頂いた時は、”もしかして”と思いました。
そして、お家が越前の大工さんの家系である事のお便りを頂きました。
故に、熱が特別に入りました。

さて、その研究論文の内容の一部が、実は織田木瓜とお家の五つ木瓜唐花紋が類似する所以がここにあるのです。

「青木氏の守護神(神明社)」の論文ではこの関係に於いて論文が余り長すぎる事に成り、削除を余儀なくされた部分なのです。
簡単には述べて居るのですが、何の縁か判りませんが投稿完了の1月後にお家のお便りがありました。お家では ”何にかの拍子で繋がった”と書かれていましたが、ヤフーHPサイト側に正式投稿が完了した途端に、偶然にも関係族の今回のお家のお便りを頂きました。
何かの縁ですので、早速その部分をここに一部を戻します。

そもそも、織田氏の経緯とそのルーツに関する事は論文に論じていますが、先ずは概容を述べます。
「織田氏」は「京平氏」、又は、「桓武平氏」、又は「伊勢平氏」と呼ばれる末裔です。その証拠は最近一民家から発見された織田氏の平安期末期までのルーツ資料を辿れば判ります。
この末裔の京平氏は関東の下総、上総、常陸付近を勢力基盤として移動定住していた勢力です。
然し、平安末期ころからこの平氏も衰弱して戦いが弱くなりました。其処で、この下総、上総、常陸を勢力の基盤としていた藤原秀郷一門は奪われた旧来の土地の奪回に掛かります。
そして、次第に取り戻します。この時、結城も京平氏から奪い変えしたのです。
「京平氏」は東関東では結局は堪え切れなくなり、又、争いの事件を各地で起した事から訴えられ朝廷よりこの一体の管理権を剥奪されて、京の地元域に戻る様に命じられて仕舞います。
其処で、この「京平氏」は勢力圏の際端の東域(岐阜・愛知)まで引き上げます。
此処が昔は「勢力の緩衝地帯」として呼ばれ、源氏一門の中央域、藤原秀郷一門の際西域、京平家の東端域で「勢力の坩堝」と呼称されていた地域であります。
非常に一触即発の微妙な緩衝地帯であったのです。其処に「下総の京平氏勢力」が戦略を何とか維持する為に此処に留まったのです。
後の上総や常陸の勢力は関西以西に退きました。
当然に、微妙な勢力のバランスが狂い始め、遂に源平の戦いの口火がここで切られたのです。
初戦と初期の形勢の戦いは「京平氏」が勝利し、この時、近江源氏、美濃源氏、尾張源氏、駿河源氏のこの一帯の源氏は完全に滅亡します。
しかし、未だこの地域には藤原一門が無傷で残っています。
ところが、京平家側の形勢が次第に狂い始め、源平の戦いの初期戦はこの美濃の「富士見川の戦い」と成ります。各地の源平勢力がこの美濃に集結します。そして、京平氏は惨敗します。
この時、この京平氏の敗残兵は美濃の山岳地帯に逃げ延びます。
源平は「以仁王の乱」(1180年)を境に源氏の頼朝側が無傷の関東の藤原勢力を背景に戦いを挑みます。
この「京平氏の敗残兵」は、美濃山岳地帯で「農民」をし、物を造りの「職能民」、時には「農兵」と成り戦いを請け負いながら生き延びます。
其処で、この末裔は、下総にいた平氏の支配下にあった一族の農民や職農民で、元は瀬戸内に居た「職農民」の者達でした。この者達も主家に従って美濃に来ていたのです。
この時、下総でこの「職農民」と「京平家の下級武士」は結城の藤原氏の土木建設等の仕事を通じて技量を高めて土木建設の「物造り」を覚えました。
この糧を通じて美濃の山岳部で生き延びたのです。
ところが、各地にこの者達は時には「農兵」となって「戦いの兵力」として請け負いながら、この京平氏の生き延びた庶流末裔は仕官先を探していたのです。
そして、遂に陸奥斯波氏の足利氏が勢力を得てこの京平氏の庶流末裔を家臣とします。
この時には同時に「浅井氏」と「朝倉氏」なども仕官したのです。

(朝倉氏もこの「朝倉木瓜」と呼ばれる家紋です。 朝倉氏と浅井氏も斯波氏足利氏に織田氏より早く仕官し出世した。)

この斯波氏の家臣仕官と成った「下級武士と職農民」から成る京平氏の所流末裔は出世して家紋を持ちます。
この時に、この京平氏の庶流末裔の織田氏は、2流に分流して勢力争いを起こします。
遂には、「本流側」が負けて「職農民」の武士と成った側が生き残るのです。
そして、上記で書いた様に、下総で世話に成った結城の「五つ木瓜唐花紋」に似せた紋を家紋と定めたのです。

(家紋が定まる経緯は判っているのですが、安土城焼失で家紋決定の正式記録は発見されていない。藤原秀郷一門の永嶋氏の五つ木瓜唐花紋の方が250年程度前 一説では結城永嶋氏の分家筋が本家の足利氏の家臣に成った事があるが、この時の永嶋氏の五つ木瓜唐花紋の類似家紋を織田氏の職能種から斯波氏が与えたとする説で、だから、朝倉氏にも類似木瓜紋を与えたとする説です。)

この家紋決定に及ぶ前に別の家紋を使われていたと観られる形跡があるのですが、出世して尾張守護代に成った直前に定められた形跡があります。
つまり、同じでは藤原氏と成るのでは、苦手な藤原氏と問題が起るので、そこで「唐花の先端部」を変更したのです。
これが更に出世して尾張代官と成り遂に斯波氏を潰し守護代と成って出世します。
これが織田木瓜の家紋の由来なのです。
だから、その後、信長に成った時に配下に元からの優秀な職能武士(職農民)とその配下が居た事から「城造りの名人」と言われた所以となったのです。
これ等の事は発見された記録から判ったのです。
もとより、此処は美濃域伊勢よりには伊勢長嶋氏が定住しているところです。
この永嶋氏の五つ木瓜唐花紋と織田木瓜紋には歴史的にこの様な家紋関係があったのです。

以上の雑学も参考にして下さい。

追伸を頂きましたので、お便りを追記します。
> 昨年放送されたNHK「さかのぼり日本史」、平安藤原氏。よくよく考えてみると、
> 鎌倉幕府も、結局、藤原北家にのっとられたんですね。

現地の神明社の変遷ですね。
ありがとう御座います。
承知しています。
「青木氏の守護神(神明社)」でも詳しく論じています。
青木氏族ですが、秀郷一門のお家は永嶋氏ですので、春日社ですよ。

何はともあれ、主要5氏の内青木氏族の永嶋氏は青木氏と最も同族血縁関係を持っています。
青木氏=永嶋氏とも云っても過言ではありません。家紋類を見れば良く判ります。

それ故に、お家の事は青木氏を理解する事で大方は判る筈ですよ。
残念ながら、永嶋サイトの歴史カテゴリーがありませんが、青木サイトで充分ですね。
記録が多く遺されている筈ですが、研究した論文はありませんね。
不思議ですね。

NHKの放送は承知しています。
秀郷一門361氏とその配下組織は、平安期の朝廷も鎌倉幕府も実権は握っていませんでしたが、この勢力を無視する事は出来なかったのです。幕府も微妙な上に経っていたのです。
足利幕府もこの勢力基盤の上に成り立っていたのです。(庶流を名乗る藤原氏は殆ど未勘氏族です)
そして、信長と豊臣政権は関東に全く手が出ず、徳川氏をその地に送り込んだ事が命とりに成ったのです。
徳川氏はこの秀郷一門を最大家臣団にした事から全国24地方に秀郷一門の勢力を持っている一門を利用して大名の周囲を包囲する戦略を採ったのです。これでは謀反が起こりません。
藤原一門を取り込んだ為政者が安定政権を造り上げられたのです。
夫々の歴史の幕府はこの秀郷一門の勢力との関り具合が弱かったのです。
然し、この事を地元で知って居る家康はこのポイントを見逃さなかったのです。

実は、九州にも永嶋氏と長嶋氏と長島氏の末裔が広がっているのですよ。
大蔵氏系永嶋氏、大蔵氏系肝付氏族永嶋氏と長嶋氏、肝付氏系長島氏があるのです。
掲示板にはお便りも頂いていますよ。一度お読みください。

藤原秀郷一門の中でも青木氏族の歴史を知らないと正しく歴史を観る事は出来ません。
実は筆者はNHKに3度、時代考証が間違って居るので投書して一つは、”その時歴史が動いた”で作家が訂正し直すなどの事がありました。
江戸時代の時代劇の中で、家臣の羽織の家紋を良く観ていてください。お家の家紋が良く出てきますよ。
若干、ドラマの中の家紋などの考証が良く間違っていますが。特に丸付き紋の使い方が間違っていますね。

続けて、追伸がありました。
永島氏の調査は電話帳ではありませんで室町期中期の資料から研究しています。
電話帳は現在ですので、ルーツは辿れません。明治期の苗字令のものしかありません。
歴史的には信頼できません。ルーツは「江戸中期前」で無いと無理です。

浄土真宗に付いても前回に説明していますが過去帳はありませんよ。人別帳のその時点での記録です。
前回のお答えの通り密教系の浄土宗で無ければ無理です。

上記にお家の菩提寺と観られるお寺を紹介しましたので参考にしてください。
浄土真宗は菩提寺ではありません。檀家寺です。菩提寺の定義は前回に詳しくお答えしていますのでもう一度お読みください。

では、又お便りをお待ちしています。


  [No.896] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/13(Wed) 17:21:23

福管理人さん、

菩提寺情報です。


本来の宗派が浄土宗ならば、首都圏であれば、芝の増上寺もあるので、
本来の宗派を戻してもよいと思います。

論文はあたったところをを読んでいるので、実際はつまみぐい状態です。
1冊の本にまとまるとよいのですが。。。

永島(永嶋)

P.S 非公開部分を削除しました。


  [No.897] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:永嶋〇〇   投稿日:2013/02/20(Wed) 05:32:33

福管理人さん、

先日提供した菩提寺についてですが、
本来の七祖の戒名を探したいので、
もし、当該の地で関係する本来の浄土宗をご存知でしたらお知らせ下さい。



永島(永嶋)


  [No.898] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/20(Wed) 09:30:44

永嶋さん 今日は。

さて、早速ですが、お家の永嶋さんの7祖のご先祖、又はルーツと成る方の戒名の件ですが、菩提寺があると云われる地域が何処の事を仰っているのかが判りません。(7祖とは何ですか)
何度も申し上げている様に「菩提寺」の定義が違っている様ですね。
「菩提寺」は結城にしかありませんよ。先日提供されていたお寺は菩提寺ではありません。ただの浄土宗寺です。御家とは何の関係もありませんよ。
何度も云いますが、檀家寺は越前の真宗にしか無く、現在のお住まいの地域の寺は浄土宗にしろ真宗にしろ檀家寺ですよ。
どうも何度もお答えしましたが筆者のお答えを読んで頂いていない様に思います。

越前域を云われるのか、現在の地域を云われるのか、昔の下総結城を云われるのかが良く判りません。そもそもお家の菩提寺(結城)は一つしかありません。結城です。
この菩提寺は永嶋氏の浄土宗の菩提寺にしかありません。それは永嶋氏の発祥地と成るところですが、永嶋氏の本来の菩提寺は現在の茨城県の結城地域にある筈です。
それ以外の浄土宗寺には7祖と云われる人の戒名はありませんよ。

前回のお便りからすると、越前の地域で、その「7祖」と云われる方が江戸時代に住まわれていたとの事ですので、それをベースにお答えします。
その時の宗派は越前の浄土真宗との事ですので、その7祖の戒名は越前域にしかありません。
従って、菩提寺ではありませんし、真宗ですので、「人別帳」の可能性がありますので、果たして戒名の存在はあるかは確かではありません。
真宗の場合は菩提寺ではありませんので、戒名は必ずしもあるとは限りません。
戒名はこれは有料で、より高い布施をすれば、より高い「院殿居士」の付いた戒名に成ります。
真宗では何もしなければ「俗名の上にシャク」のものを附けてくれます。
(先日のお便りの様にあった方の様に俗名の上にシャクが附けられています。)
越前域の真宗寺の檀家寺に無いとすると、それは戒名は無い事に成ります。

現在のお住まいの地域は明治3年以降ですので、そして現在も真宗との事ですが、そこには菩提寺はもとより戒名もありませんが、これも戒名を附けてもらうお布施の如何と思います。
ここでは「7祖」の方のものはありません。

ただ「7祖」より遡った方のルーツは結城と成りますので、そのご先祖の方の菩提寺は前回お答えしたお寺にある可能性があります。然し、記録は焼失している可能性が高いと思います。

越前での「7祖」の方は浄土真宗であったとの事ですから、其処にそのお寺から貰った何らかの形の戒名がある筈です。それ以前のご先祖は恐らくは前回のお答え通り結城地域に成りますが、結城の永嶋氏は当然に38の枝葉に分家と分流をしていますので、これにはお家からの何の情報も有りませんで判りません。
(分家と大工と家紋と真宗と越前と氏名だけの情報で、 戒名は永嶋氏の中で更に個人域の事ですので到底この情報では青木氏族とは言えど青木氏の青木氏サイトでは判りません。永嶋氏の38氏もある中で戒名とその寺の確定はこの情報では個人情報を大変気にしておられるので無理です。38氏の浄土宗の菩提寺があると云う事です。)

その大元のルーツの結城では前回お答えしました。

お答えは、依ってお家の7祖の戒名は越前の浄土宗にはありません。
お家からの何の情報提供も有りませんので、地域の浄土宗のご紹介は不可能ですし、戒名の探求の意味がありません。
何はともあれ、結城以外は浄土宗では無理ですよ。

以上です。

現在の浄土宗寺はインターネットでも判るはずですよ。

では、又、お便りください。