青木ルーツ掲示板
このフォームからは投稿できません。
name
e-mail
url
subject
comment

[掲示板トップ(ツリー表示)] [新規順タイトル表示] [新着順記事] [留意事項] [ワード検索] [過去ログ] [管理用]

  [No.892] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/11(Mon) 07:23:45

永嶋さん 今日は。
お答えをお読みいただけましたか。ありがとう御座います。

そうですか、20年も掛かりましたか。それは大変でしたね。
然し、もう大丈夫です。どんな事でも永嶋氏の事は青木氏族ですから、全国の青木さんが集う青木氏のサイトでバックアップしますよ。

”888”は本当にいいですね。

然し、”変な検索ワード”では、何かの奇遇で青木氏が迷う「青木氏族の永嶋さん」をこの親族が集う古巣に呼び寄せたのですね。そう云う事はありますよね。

さて、先ずは、ご先祖は”越前”との事ですが、実はこれはお家のルーツを物語る大変な情報なのです。
越後を基点として越前の北側域までこの秀郷一門がこの地域を勢力圏として抑えていたのです。
特に越後には秀郷流特別賜姓族の青木氏が、根拠地あり、ここで ”おーい 青木さん”と叫んだら、周囲で ”はーい”と一斉に応える程に多いところで青木村があるのです。
(青木氏は「氏名」村名に付けて「青木村」を形成できる特別の権利を有する氏で、 永嶋氏も役職名を村名として着ける事を許された氏です。普通は地名以外に奈良期から村名を付けては成らない慣習令と成っているのです。)
当然にお家も一族ですから越前を江戸期頃の定住地として見ますと、永嶋氏も関東の千葉の「結城」から赴任して来ている事は充分に考えられます。
普通は定着し続けると「国抜けの大罪」に成りますので、2から4年の一定の期間を経ると領国に帰ります。然し、現地の土豪との血縁関係を結んだ場合はその者の末裔はその地に残る事が許されます。
(秀郷一門の戦略として24の赴任地の地域に現地との血縁族を積極的に作り赴任地に末裔を遺して勢力圏を広げる正式な戦略を採っていたのです。中には「戦地妻」と云う高級武家の仕来りで子孫を現地に残す正式な慣習があったのです。)

江戸末期までは「国抜け」と云って許可無く勝手に移動できず、これを犯した場合は一族全員が内首の刑に処せられるのです。武家が赴任地の当地の土豪などと血縁した場合はその血縁した者の末裔は定住を届ける事により許されるシステムであったのです。
恐らくは、お家が江戸期からこの越前地域に定住していたとするならば、この地に残留した永嶋氏である事に成ります。秀郷一門の主要5氏と家紋群主要8氏はこの方式を積極的に採ったのです。
むしろ義務の様な「慣習、仕来り、掟」であったのです。
故に、「永嶋氏の五つ木瓜唐花紋」の永嶋氏(青木氏の「五つ木瓜唐花紋」もある)が越前に存在するのです。ですから、親族である「青木氏族」の「青木氏の五つ木瓜唐花紋」もこの越前より北域越後よりに定住しているのです。現在も多くこれが何よりの証拠です。

ですから、越前には「五つ木瓜唐花紋」の名門中の名門の永嶋さんは少ないのであって、主要5氏の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」が越前に何処でも観られる事そのものの事態がおかしい事なのです。
結城から越前に移動定住した永嶋氏である事が「越前」と云う特定の定住地の地名でも判ります。
秀郷一門の定住地24地域外であれば疑問なのですが、地域としては一致しています。
だから、丸付き紋なのです。
何故ならば、「五つ木瓜唐花紋」では本家筋ですが、現地に残す子孫は主に分家筋の役目であったのです。嫡男が本領の跡目を継ぐ必要から赴任地に残る訳には成らないからです。
従って、現地に末裔を遺す役目は嫡男外の者の積極的な務めであったのです。
この時は、赴任地には仮に「五つ木瓜唐花紋」の本家筋の者であっても、現地に残る者の末裔は「丸付きの家紋」とするのが「家紋掟の仕来り」であったのです。
もし、「丸付き紋」で無かったとすると本家筋の嫡子系の者が残った事を意味しますから、氏家制度の中での「家紋掟」から観ておかしいのです。
氏を絶やさない事が最大の「武家の役目」ですから、よほどの理由が無ければ現地に残すのは嫡子外の嗣子となるのです。
もし、あるとすると、この場合は本家から特別に「五つ木瓜唐花紋」の使用を何らかの理由で許されてた事を意味します。家紋は武家の象徴で氏家制度の家柄身分を物語る最大の手段であったのです。家紋使用は勝手には嗣子であるからと云って本家の許可が必要であったのです。
この「家紋と氏名」を観る事で身分、家柄、官位、官職、上下の事を即座に観て自分と比べて礼儀の作法を即座に採る仕組みであったのです。
”秀郷一門主要5氏の「永嶋氏の五つ木瓜唐花紋」”と成れば、大抵の他氏の武士は即座に礼の儀を尽くします。それだけの名門の家柄でした。当然に勢力も「関東屋形」と呼ばれる筆頭の永嶋氏ですから尚更であります。

次ぎに、織田氏家臣の件ですが、これはあり得ません。
何故ならば、秀郷一門は関東一円から中部地方伊勢地域までその勢力圏を伸ばしていたのです。
織田氏は京平家の名古屋付近の滅亡した平家の僅かに残された末裔末孫です。
「織田氏の勃興の経緯」から、関東を中心に勢力を張っていた藤原一門と対峙していて、その秀郷一紋の主要5氏の永嶋氏が織田氏の家臣に成る可能性は低いと観られます。
そもそも織田氏は室町期の勃興でこの時期は秀郷一門の中でも永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれる位に勢力を張っていたのです。もしこの時期に織田氏の家臣と成ったとして氏名と家紋の使用は一門から剥奪されて武士としての存在は否定されます。絶対的に「大きい氏」が「小さい姓」の家臣に成る根拠がありません。あったとしてもその時点で宗家より一族事如く抹殺で潰されます。それが氏家制度です。
先ず、家臣に成っても一族が食べて生きて行けません。
そして、そもそも、織田氏は史実この関東の主の秀郷一門に手が出せなかったのです。
幾ら織田氏でも先ず無理であったと考えられます。故に、信長に倒された武田氏の諏訪族青木氏や武田氏系青木氏等はこの秀郷一門の青木氏を頼って神奈川に庇護を求めて逃げ込んだのです。
全く信長はこの時も手を出せなかったのです。
その後はこの秀郷一門は徳川氏(松平氏 同じ地域の武士団)と手を組んで終局、徳川氏家臣団の上級家臣団としてそっくりと加わります。
この後は秀吉と徳川氏(背後に秀郷一門の軍団が関東に控えていた)との対抗と成りますが、秀吉が関東に手を出せ無かった理由の一つはこの「藤原氏の家臣団の存在」であったのです。
この中には「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」が控えていたのです。これは全国各地24地域に末孫が勢力を維持していた事から、この秀郷一門を敵に廻す事は全国各地から周囲と背後からの襲撃を食う恐れが強かったからなのです。
鎌倉期の時も、この秀郷一門を頼朝と北条氏は味方に引き入れたから10万の軍に成ったのです。
同じ戦略的な藤原一紋の存在から平家側は周囲からの脅威で動けなかったのです。
まして、越前の永嶋氏は尾張の織田氏では家臣の説は成り立ちません。未だ織田氏はこの時期、越前越後は秀郷一門の勢力下にあり上記の移動慣習からも成立ちません。
越前を制したのは秀吉の時期です。この時は越前域は青木紀伊守の青木伊賀守が秀吉に任されてこの地を抑えていたのです。
故に、家臣説は時代の経緯錯誤の説と成るのです。秀郷一門は徳川氏に味方したのです。だから家康は簡単に秀吉の配置換えの命令を受け入れたのです。むしろ、秀郷一門に護られる事の方が安全で秀吉から攻められる事は無かったからです。

”藤原北家(きたけ?)も歴史的に出てくるメジャーな人たちよりも早い時期の人のようですし”
このお考えかは少し違います。
藤原氏は北家(ほっけ)京家、式家、南家と云う流れがありまして、その中でも北家が他の家を倒して藤原氏を制したのです。その筆頭が秀郷一門です。
その勢力は衰える事無く江戸期末期まで続きます。
メジャーとする定義はどの範囲とするかは判りませんが、江戸末期までメジャー中のメジャーでありました。秀郷は960年代の人物ですが、その後には有名な人物が出てきます。平泉の栄華を誇った藤原氏はこの末裔ですよ。メジャーと呼ばれる歴史上の人物は全て室町期末期からの勃興氏ですから、同じメジャーとしても藤原氏北家筋の末裔は奈良期からの朝廷より氏として認められた1400年程度の悠久の歴史を持つ朝臣族なのです。「勃興氏の姓族」と「朝臣族の氏族」との違いを持っています。表に事件として出るを以ってメジャーとするのか、表に出ないかは何時の時代でも大した差ではありません。”現在は表に出る”がどんな事であろうと、メジャーとする論調には疑問です。
特に室町期末期までは永嶋氏が一門の最大勢力を張り、結局、秀吉との決戦に及び陸奥域から伊勢、愛知域の永嶋氏は滅亡し、関東域だけは一門に護られて残りました。歴史上の人物が永嶋氏からも出ていますよ。ただ外部性を前提として観ているから一般には知られていないだけの事です。

越前を制したのは秀吉ですが、この時に越前は破られましたが、幸い皇族賜姓族(秀郷一門と血縁関係にある青木氏)の青木氏がこの越前を任されましたので越前永嶋氏は無事であったのです。
そもそもこの皇族賜姓青木氏とは母方血縁族で縁者関係にあったからです。
そもそも「皇族賜姓族」とは、累代天皇第6位皇子が臣下して天皇を護る護衛集団で天皇から賜姓を受けた青木氏です。 この青木氏と特別にこの賜姓族と母方血縁族の秀郷一門の青木氏(始祖 千国)は天皇から青木氏の賜姓を受けた青木氏で「特別賜姓族青木氏」と呼ばれます。116氏あります。身分、家柄、官位官職の一切が最高位として同じに扱われました。
この青木氏は秀郷一門の全体を指揮していた「第2の宗家」と呼ばれます。この青木氏の血縁氏が38に氏に拡がった永嶋氏なのです。
「皇族賜姓族青木氏」との繋がりを持った永嶋氏で「青木氏族」と呼ばれる氏名の所以なのです。
その身分は「永代従四位下左衛門上尉」と云う最高身分で、これは公家と相当の身分で貴族に類する家柄身分なのです。
藤原氏は公家身分ですが、公家身分が全ての藤原氏に与えられるものではありません。
主に宗家筋に与えられますから、宗家外の場合は武家で通すしかないのです。秀郷はその意味で最初は「押領使の武家」(警察軍)であったのです。
そして、「平の将門の乱」は5年も続き誰も鎮める事が出来なかった時に、秀郷が乱を鎮める条件として「武蔵国の領国と公家貴族の身分」を条件として朝廷に出したのです。これが認められて後に武蔵と下野が与えられます。この時に貴族に成りましたので、「朝廷の決り」により武力は仕えませんので藤原氏を護る為に一族宗家の第3子がこの役目を担ったのです。
これが千国と云う秀郷の第3子が、天皇より青木氏の特別の賜姓を受けます。
青木氏は「嵯峨期の詔勅」で青木氏を如何なる他氏も使っては成らないとする禁令を発し、この2つの青木氏を犯しては成らないとする「不入不倫の権」を与えたのです。
これが明治初期まで護られます。依って藤原秀郷一門は最初は朝臣族の武家、朝臣族の貴族、朝臣族の公家と武家、この公家が衰退し最終はお家の様な朝臣族の武家が残ったのです。

特にこの永嶋氏は今で云えば、「日本一の総合ゼネコン企業」の職を持った氏で、奈良期からの「工頭」の職位を持っていたのです。その中でも、平安期の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」はこの首魁であったのです。
前回にもお答えしましたが、この家紋は唐の官吏の官位官職を示す紋と説明致しましたが、これが「工頭」(たくみのかみ)の家柄を示す家紋なのです。「五つ木瓜」の物を切り開いて作った形を断面にした文様の”切り開く”の語意から「工」(たくみ)の記しとし、それを司る官吏の「唐花の役職文様」とにしているのです。
そして、その先祖が生き続けた領国の千葉県の「結城地域の村名」の通り、”城を作る(結]”としているのです。これは「結城族」と呼ばれる「工族関係族」の呼称なのです。
そして、朝廷と幕府からその職位を奈良期から村名とする事の許可を得て「結城」と云う歴史ある由緒ある呼称と成っているのです。
もっと云えば、天智天皇と共に始祖の藤原鎌足は九州から飛鳥まで広域の一本直線道路を作り(現在の山陽幹線道路)、その道路に沿って情報信号と防護の城を築城したのがこの鎌足の子孫なのです。
現在この道路の発掘が成され、その技術の高さは現在の土木工学の原理を踏襲する技術の高さであった事が判っています。
それを受け継いだのが藤原氏の中でもその家紋が示す様に「永嶋氏」と成る流れの末裔であったのです。そして、その末裔と成るのが「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」なのです。江戸期までその職を引き継いだとされてます。
因みに、「永嶋氏38氏」の家紋にはこの工事関係族を示す家紋が他の藤原秀郷一門と違って沢山あるのです。12氏/38で全体の1/3に及びます。これらを永嶋氏は束ねていたのです。中でも唐花紋ですのでその総支配の立場にあった事が判ります。12氏は直接その仕事関係を文様にしています。故に、永嶋氏はその氏の仕事の財力で勢力を伸ばし生き残ったのです。
だから、むしろメジャー中のメジャーの氏なのです。
この永嶋氏の職種から観て、越前にはこの仕事で赴任して当地に定住した事が判ります。
何かの城か道路か堤防か池か家かの工事関係者の支配として赴任したと考えられるのです。

次ぎに永嶋氏と永島氏との違いを述べますと、「永嶋氏」の氏名は上記の通りですが、永島氏は明治3年の苗字令と8年の督奨励で国民の一般の8割の者が苗字を持っていませんでしたが、この時に使われた姓です。苗字は江戸末期まで武士階級だけに許された慣習ですが、この時にお家の永嶋氏の村民と成っていた配下の大工や農民や商人などの一般庶民が、領主や庄屋や名主や豪農や郷氏や郷士に肖って、この明治の苗字令の時に付けた姓です。遠慮して主家に憚って永嶋を永島としたのです。
むしろ、その支配者がその様にせよと命じた事も考えられます。
多くはこの様な工事関係者はこの支配の武家(主家・氏上)の指導に基づいて姓としたのです。
従って、秀郷一門の領民の殆どは一夜にして藤原姓や永島姓が出来たのです。特に関東域ではこの現象が起こりました。政府が故意的に指導して苗字促進を図ったのです。
然し、家紋だけはおこがましいので別のものにしたのです。庶民には当然に苗字が無い事から氏の履歴は作れませんので、依って寺の慣習は無かった事から宗派も違うものに成ったのです。
従って、庶民は菩提寺では無く、檀家寺の人別帳となりますが、永嶋氏は氏名がありますので系譜ができますので過去帳と成るのです。
ですから、「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」は「姓名」では無く「氏名」としては「永嶋氏」が正しい事に成ります。
先祖の上記に書いた意味がこれで異なってくる事に成りますね。戸籍が正しい氏の経緯を示しているのです。氏名と家紋はその意味でその「先祖の伝統の概容」を引き継いでいるものなのです。
伝統の無い「姓名」とは違うところです。
だから、現在でも「氏名」と「姓名」との二つの呼称が現在も残っているのです。
そして「庶民の永島」は「氏名」では無く、「姓名」と成りますのでもとより本質が違います。
氏と姓はここに違いがあるのです。もし、永島をお使いに成っている事は先祖の伝統を留めている事を意味します。
平安期からの永嶋氏は、たった全国に認定された40程度/8000しかなかった由緒氏の一つとして朝廷より認められた由緒ある「氏名」ですよ。「姓名」ではありません。

次ぎにこの家紋が余りに見かけないと書かれていますが、逆ですよ。
武家階級の多い地域、特に関東ではこの家紋は大変多い家紋ですよ。
江戸の時代劇をよーく見ていてください。羽織の両袖と背中に武士のこの紋どころが多いのです。

次ぎに家紋は平安末期から始まった習慣でして、もとは公家や高級武家 青木氏や藤原氏等の氏にしか使用は許されていませんでした。この時は家紋では無く象徴紋であったのです。
家紋になったのは、もっと後の鎌倉期から室町期に入って一挙に武士が増えて200程度の氏から室町期には800程度に増えて家紋としての慣習と成ったのです。
この室町期の末期頃から徐々に力の持った庶民が、武士と成って「姓」が増えて家紋が上級武士の間で流行したのです。殆どは江戸初期に家紋と姓を持った武士でした。
お家のこの「五つ木瓜唐花紋」は伝統ある由緒ある「象徴紋」からの物なのです。
だから、越前にはこの様な上級武家の少なかった地域であるから少ないのです。

次ぎは、織田氏と比較しての事ですが、織田氏は「姓氏」ですが、永嶋氏は「氏」です。
織田氏には永代の官位官職は全く先祖からありません。だから、信長はこの様な象徴や官位官職の権威を破壊したのです。
青木氏と青木氏族はその象徴中の象徴ですなので信長に攻められましたが、青木氏は信長の歴史の中でただ一つ戦いで破れたのは歴史上この青木氏だけなのです。
この事件は歴史上有名な事と成っていて、歌舞伎にも成っていますよ。だから関東には攻められなかったのです。信長は永嶋氏を勢力の筆頭とする藤原秀郷一門には。比べられない当時であれば拝謁出来ない位の身分家柄差であったのです。
そして、”旧家”では無く、”名籍・名跡”で意味をもっています。ただ古いだけではありません。

”本来の宗派も浄土宗だとか。(石〇県は真宗:私は納得してませんが)”の件ですが、本来は浄土宗ですがお答えは納得するべきです。
何故ならば、お家は「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」ですから、関東の本家筋に帰参すれば、間違い無く「密教浄土宗」ですが、ただここにも、「お家の仕来り」があったのです。
それは、お家の上記した永嶋氏の歴史から、「浄土宗」ではなく「浄土宗密教」の家柄なのです。
そもそも、「浄土宗」は次ぎの経緯を辿っています。
「原始仏教」−「古代仏教」−「古代密教」−「密教浄土宗」−「浄土宗」−別部派「浄土真宗」の経緯を辿っています。
従って、藤原氏は青木氏とおなじく天智天皇期からの賜姓族ですから、浄土宗でもこの経緯を氏の教義として維持していたのです。
つまり、普通の浄土宗では無く「密教」なのです。
自分の氏だけの自分で建てて、維持管理する氏だけを祭る独善的な寺、即ち、「菩提寺」なのです。従って、一門が少ない越前には江戸期からいたとして、この「密教」とする永嶋氏の菩提寺の寺は越前には原則無い筈なのです。
あるとすると、それだけにお家の永嶋氏菩提寺を作るほどに多かった事を意味します。この様な時には周囲に永嶋さんがオーイと呼べばハーイと応える程長嶋さんが周囲にいて子孫を大きく広がっていた筈である事に成るのです。
秀郷一門の定住地は24地方とはっきりしていますので菩提寺はもとより密教派寺はお家の越前とする所には無いのです。
”そうするとどうするか”と云う事に成ります。
其処で藤原一門は24の地域に赴任していますが、其処には戦略的に子孫を遺しますから、菩提寺が無いと困ります。その為にこの時、別部派の「浄土真宗」に「仮入信」する方式を採ったのです。
この為に各地に藤原氏の一門が定住した地域には浄土真宗の藤原氏が存在するのです。
越前のどの付近かは判りませんが、越後の県境付近ではないとすると、真宗にしか入る事が出来なかったのです。宗家一門はこれを認めたのです。
だから、越前の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」としては先ず間違い無くこの真宗に成る事が考えられのです。むしろ、越前の西域では皇族賜姓族の青木氏が逃避地として定住していましたので浄土宗も考えられますが、永嶋氏の密教の菩提寺は無いと考えられます。
同時に、お住まいに周囲には「守護神の春日社」も無かった筈です。(越後よりにはあるが)
故に、時代考証からして、「浄土宗」では無く「真宗」がむしろ正しいのです。
領国に帰れば結城の浄土宗の密教菩提寺がありますよ。
そもそも、密教で無い「浄土宗」としたのは家康で、「浄土宗督奨令」を発して密教方式を外し、中級武士まで入信出来る浄土宗としたのです。明治以降は庶民も入信する宗派と成ります。

もし元に複するのであれば、浄土宗ですが、真宗でも問題は、別部派ですので、無い事に成ります。
むしろ、お便りの情報がお家の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」を証明する情報と成ります。

次ぎは神社の件ですが、菩提寺の密教と共に、藤原一門は春日神社が藤原氏の独自の守護神です。
越前の周囲に永嶋氏が多く住んでいたとするのであれば、定住していた地域には必ず春日神社がある筈です。そこがお家等の独自の守護神です。
これも藤原氏一門の特長です。多分、無いと思いますがお探しください。
あるとした場合に、周囲に他の秀郷一門の氏がある事に成りますが、事に依ってはその神社にお家の記録がのこっている可能性があります。真宗にはお家の記録がある事には、密教で無かった事からかなり古い人別帳があるとするならば別ですが、年数から焼失している可能性があり無理があると思います。
藤原秀郷一門の氏は全部で庶流を除いて361氏に成りますが、直ぐにその氏名で判ります。
ある一定の決りを付けて氏名を付けているのです。この氏名の決りに従っていた場合の一門の氏名が多ければ春日社はある事に成ります。密教菩提寺が無くてもそこがお家の守護紳の春日社です。

次ぎに、伝統に付いてのご意見ですが、本当にそうですね。これは本サイトの趣旨でもありますが、今やこの伝統には意味を持ちません。
然し、後世に「先祖の生き様」を伝える事には時代とは別に意味を持ちます。
そして、「分身である末裔」が何時かこの伝統の記録を読んでもらえるところにロマンが生まれます。
そのロマンの想起さえあれば、今自分の生きている「立ち所」が判り生きる意味も判ってもらえると考えられます。それが出来れば「先祖の役目」としては「分身の末裔」に伝えられます。
それで良いと私は考えます。時代はこの様に合理化し近代的に成れば成るほどにあらゆる「伝統」は消え去ります。これも必然です。然し、記録は遺すべきです。
青木氏のこのサイトの情報は膨大に成っているのは、奈良期からの先祖の生き様を遺して伝えるために管理人さんと共に運営しているものなのです。問題はこの記録が今までの時代にその努力が無かった事が問題であると考えます。
現在、歴史の少ないアメリカでも”先祖、ルーツの記録運動”が起こっているのです。
管理人さんは更に掘り下げて戦国時代の先祖の生き様をスポットして数サイトの別サイトでも運営して、記録を遺す為に頑張っています。青木氏とともに英語版のHPもあります。
青木氏テーマソングも歌手の青木隆治さんの歌でありますよ。
超アスリートで有名な渡米中の青木さんのそのご家族もこのサイトにお便りを頂きました。
日高青木氏で筆者とは先祖を同じくしています。

以上ですが、先ずはお家のご先祖の基本的なルーツ基盤をお話しました。ルーツを探求するにはこの様な雑学が必ず必要です。何なりとご質問ください。青木氏としてご協力致します。
以上の事の全ての雑学は論じていますので、ゆっくりとお読みください。
幸いに青木氏はその立場から多くの正しい資料が遺されていますので、研究する事でこの様な情報量と成っています。全部をお読みに成れば、最早、青木氏族の歴史マニアです。

此処まで一つ前のご質問のお答えです。
次ぎは本日のご質問のお答えです。
ご質問は次ぎの通りですね。

>質問です!
>綜紋は「下がり藤」とありますが、青木氏としての綜紋はあるのですか?
>当時は、「丸に五つ瓜に唐花」ならば、藤原北家の青木氏の「永嶋」となるのでしょうか?
>正式な紋に変えて、せっかくなので、両方つけてあつらえてしまおうかと。
>家紋のところを読みましたが、織田瓜と唐花との違いは唐花のほうが充填率が高いようで、
>家紋帳も植物等の分類ではなく、戦国時代以降に出来た家紋、鎌倉時代に出来た家紋、平安時代からの存在していて藤原北家のグループ等として分類し、索引に植物等の分類にしておけば分かりやすいと思うのですが

青木氏には、上記しています様に、「皇族賜姓青木氏 25氏」と、この青木氏5家5流の「母方血縁族」で、「特別賜姓族青木氏 116氏」があり「2つの血縁族青木氏」で、この両氏には「2つの絆青木氏」(家臣団と職能集団で宗家がその「家臣の長」や「職能の長や「村民の長」に「青木氏の姓」を特別に名乗る事を許可した集団とその配下)とを持っています。
この「絆青木氏」は上記する様に、ある特殊な主従関係を保持した「青木氏」ですが、これらに付いて詳しくは論文をお読みに成ればその関係が判ります。
これ以外に、「嵯峨期の詔勅」により皇族出身者である場合は、青木氏を名乗れると云う「嵯峨期の詔勅」があり、これに基づいて名乗った「真人族と朝臣族の青木氏」があり、この青木氏を「皇族青木氏 4氏」と云います。
更に、明治初期の苗字令に基づき、これ等の青木氏の「一般の民」が主家の氏名を姓名として名乗った「第3の青木氏」と、室町期末期に青木氏の農兵として青木氏に仕えて後に力を持った者が主家の青木氏を名乗った「第3の青木氏」の6つがあります。

そして、今、お答えしている藤原秀郷一門の青木氏は「特別賜姓族青木氏」の事です。
秀郷一門の青木氏の綜紋は秀郷一門ですので、「下がり藤紋」です。
「皇族賜姓族青木氏」は「近江青木氏、伊勢青木氏、美濃青木氏、信濃青木氏、甲斐青木氏」の5家5流の青木氏があり、累代天皇り第6位皇子の皇族で各々は同族血縁に依る親族関係にあります。
綜紋は「笹竜胆紋」ですが、この青木氏は皇族慣例上、本家分家の仕来りを採っていませんので、全て「笹竜胆紋」です。
ところが、この皇族賜姓族と特別賜姓族の二つの青木氏は上記の5つの国で互いの同族血縁関係を維持しています。母方族との同族血縁です。この「2つの血縁青木氏」の「融合の青木氏」が発祥しています。この青木氏は両方の綜紋を持っている事に成ります。
後の「絆青木氏」と「第3青木氏」の2つの時期の青木氏は家紋は別に成ります。当然にイザ鎌倉と云う時は上下関係にありますので、この綜紋の下に入ります。
「皇族青木氏」は別に家紋を持っています。綜紋はありませんし、「皇族賜姓族」と「特別賜姓族」との血縁関係は全くありません。

依って、ご質問のお答えは、秀郷一門の特別賜姓族の青木氏の綜紋は「下がり藤紋」ですが、その中には上記した様に青木氏同士の同族血縁氏の「笹竜胆紋」を綜紋とする「青木氏」もある事に成ります。


次ぎは、「青木氏族」の永嶋氏の事ですね。
古来より分け方がありまして、「族」と「系」です。
これは江戸時代末期までは「氏家制度」によって社会は全て構成されていました。全ての民はこの「氏家制度」の上下の中に置かれていました。
先ず、「系」はその一族に組み込まれた「氏」を云います。「縦並びの関係」の中にあります。
例えば、「青木氏系永嶋氏」と成れば、青木氏の中にある永嶋氏と成ります。
然し、「族」は「横並びの関係」にあります。当然に血縁関係がありますが、絶対的組織の中の上下関係にはありませんで、「青木氏族永嶋氏」は、血縁関係があるにしても、命令的な上下関係にはありません。
「氏歴、家柄、身分、官位、官職、有品制と賜姓の有無」等が一切上位である「青木氏」がリーダーとして一門の組織を采配している事を意味します。これが「秀郷流青木氏」が「第2の宗家」と呼ばれる所以です。つまり、武蔵国の入間にある「秀郷宗家」の下にある「秀郷流青木氏の特別賜姓族116氏」は、宗家の全ての格式より上位とする逆転現象が起こって入るのです。
青木氏は青木氏 永嶋氏は永嶋氏 一門として動かす時は青木氏族として指揮下に入る事を意味する分け方でした。
ただ、一門としては氏家制度の中にある訳ですから、礼儀は青木氏の方にある事に成ります。116氏と38氏の違いの勢力も左右して来ますから、この同族血縁族であっても格式外にも礼を採る事に成ります。
故に、北家筋の青木氏の永嶋氏ではありません。青木氏族の永嶋氏です。青木氏は所謂、リーダーです。

次ぎは、前回のお答えの中にあります通り、両方の家紋をつける事は「完全な家紋の矛盾」が起こります。少し家紋の事で知る人が居れば、”これはおかしい”とお宅の家紋に対して疑問を持たれます。
何故なら、あり得ない事ですから。つまり、家紋学から観て笑止します。
つまり、矛盾ですから”「第3氏」だ”と観られて仕舞います。織田氏は京平家の末裔の庶流で綜紋は「揚羽蝶紋」です。
「揚羽蝶紋≠下がり藤紋」と成り何事もこの関係にあります。但し、「秀郷流青木氏」の「始祖の千国」の母方が「嶋崎氏」と呼ばれこの京平家の庶流の末裔の娘が千国の母と成ります。
矛盾を敢えて伴なわせるかは先祖の意思に反していると思いますが、どうするかは、お家の選択ですが。
自分の家の家紋を「織田木瓜」と「五つ木瓜唐花紋」とは、そもそも、上記した氏歴、家柄、身分、官位、官職の示す家紋の家柄が違っているのです。家紋=家紋の数式は成立ちません。それかを分けているのが家紋の昔の役目・目的なのですから。

次ぎは、「分類」のご提案ですが、本サイトの目的は「青木氏」にあるのです。「全氏の家紋研究」ではないのですから、分類は不可能です。上記した皇族賜姓族と特別賜姓族の家紋を持っていた「青木氏の家紋」の分類なのです。家紋の持っていなかった明治期の「第3の青木さん」の場合は、8000ものある家紋分類のどれかに成りますのでそんな事は不可能ですし、この青木氏は元は姓を持って無いので家系譜を持っていません。室町期の第3の青木さんも下級武士であったので家紋と宗派等は本来は持っていなく正式に姓とか紋などを持ったのは明治期なのです。一致しませんので追求が出来ないのです。その目的の中にはありません。
下級武士の全てが姓と家紋などを持つのは明治期前後なのです。記録を保存する当時の役目をしていた寺や神社などは正式に持っていなかったのです。墓や家紋などを含めてその様な概念が元々無かったのです。
故に、関係する青木氏族の家紋も論文としては論じていますが、この様な習慣が無い青木さんの家紋は調査する事が出来ないので家紋掲示板の中には入れていません。
従って、家紋掲示板の中にある青木さんは何らかの履歴を持つので第3氏の青木さんでは無い事を意味します。つまり、ルーツなどを明確にする事が出来る青木さんは室町期中期以前の最低でも平安期末期の発祥の青木さんで、青木さんは第3氏以外は発祥していないのです。
上記した様に嵯峨期詔勅にて名乗っては成らない氏名なのであり、明治期まで原則守られました。
この第3の青木さんも江戸中期頃の定住地の地域が何処かでも判ります。殆どは上記する青木氏の村民や支配下にあった職能集団の関係者であったのです。
(同じ様に同じ氏の仕来りを持っていた永嶋氏にもこの第3氏の永嶋さんがいます。直ぐに見分けが付きます。)つまり、はっきり云えば時代毎に分ける必要が無いし出来ないのです。
”青木氏族は姓ではない”と記述しました事でお判りだと思います。

この様な事はサイトの論文をお読みに成れば全てより詳しく網羅しています。
長沼氏や永嶋氏は同じ族として同じ慣習仕来りの中にいましたので青木氏の論文とほぼ同じ考え方して判断が出来ます。

実は、その計画もあって既にそれが検索に依って出来るようにと管理人さんが特別な掲示板を用意してもらっているのですが、未だ其処までの計画と研究には至っていません。
管理人室と云うところにはそのソフトが入っていますが計画途中の段階で終わっています。

その代わりに、既に管理人さんが特別にその様にする為の研究情報を集める為の掲示板(クワンプネット)が用意してくれています。然し、その様なデータのお持ちの訪問者が全く居ないのが現状です。
だから、青木氏の家紋掲示板には他氏が多く訪問があり質問が来るのです。
管理人さんが ”戦国サイト”の幾つかの研究サイトを運営しています。その時はそちらにリンクされると良いのではと考えます。
ヤフーの話だと、1氏がこの様な氏の家紋等を統計的に集めているのは青木氏だけとの事です。
兎も角も、青木氏には伝統としてある慣習がありまして、分ける事は青木氏の教示の別の意味を持つ事に成ります。この事らはお読みに成れば論じていますので次第にお判り頂けると思います。



では、又、お便りをお待ちしています。



- 関連一覧ツリー (◆ をクリックするとツリー全体を一括表示します)

- 以下のフォームから自分の投稿記事を修正・削除することができます -
処理 記事No 削除キー