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  [No.895] Re:「丸に五つ瓜に唐花」の永嶋です
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/02/13(Wed) 08:39:51

永嶋さん 今日は。
早速、お答えを読んで頂きましたか。
何とか ”永嶋さん”を正しくご理解頂く為に、熱が入りました。
又、改めてゆっくりと、お読みください。先祖の深意も読み取れる事になりますので、其処で、先祖の生き様が読み取れます。
青木氏族としても良く似た生き様であった筈ですから、青木氏の論文をお読みください。

矢張り、お答えの通りの検証結果でしたね。

お便りのご推察の通りです。
お家のご先祖の地は間違い無く結城です。ご先祖の結城の歴史は、一度、京平家に奪われますが、平安末期ギリギリに秀郷宗家を荷っていた第5代目朝光と云うご先祖が奪い返します。
その後に出来た頼朝の鎌倉幕府に合力し、この秀郷一門の藤原氏の旧領地を本領安堵して正式に下総結城も戻りました。
ここは秀郷の一門の下総の領地で永嶋氏の故郷です。
ところが、この先祖伝来の旧領の結城に戻った藤原秀郷の一門の「朝光」は、氏名を「結城氏」として名乗りますが、途中の13代目の「行長」の代の間に「酒井氏」を名乗ります。
ところが、何故、この「酒井氏」を名乗ったのか理由が歴史上でこれを物語る記録は無いのです。
更に、ところが、秀郷13代目になって今度は「永嶋氏」を名乗ったのです。

この時、この永嶋氏の主流は次ぎの2流から成っています。
佐野氏族永嶋氏と結城氏族永嶋氏の2つに分流しているのです。
佐野氏族の永嶋氏は下野国の佐野庄の出自です。
結城氏族の永嶋氏は下総国の結城庄と成ります。

そもそも、一門の佐野氏は藤原氏の中でも古く、先ず秀郷一門の末裔は、4代目で2流に分流し「兼光」と「文行」に分かれます。
青木氏族はこの兼光系です。この兼光流は更に「兼行」と「行尊」との2つに分流します。
この「兼行」の秀郷8代目の「成俊」が佐野氏の元祖です。
「行尊ルーツ」の秀郷8代目の朝光が平家より取り戻して先ず結城を名乗ります。
そして、この結城氏の末裔が「兼光」の佐野氏の跡目に入ります。
その後に、その末裔が故郷の結城の永嶋氏の氏名を採って「佐野族永嶋氏」を名乗った事に成ります。
これが後に永嶋−長嶋氏を名乗ったと観られます。
(記録が永嶋氏と長嶋氏とが混乱している様子です。)

次ぎは、結城の本領にいた結城氏はその後に「酒井氏」と名乗り、その後に永嶋氏を名乗りました。
ところが、上記した様にこの結城は京平家に下総全体を奪われましたので、この時、秀郷一門は下総から伝来の結城からも追い出されたます。
この結城氏は、茨城に移動して酒井氏を一時名乗りますが、再び平安末期に朝光が京平家を追い出してこの結城を奪い返したのです。

その後に、結城に戻った秀郷13代目の「行長」が始めて永嶋氏を名乗ったのです。
同じ兼行のルーツで秀郷8代目で「成俊」と「有綱」に分流します。
「有綱流」が永嶋氏の13代目の「行長」です。
「成俊流」で秀郷16代目の「行久」が青木氏の跡目に入ります。
(ここで、相互に同族の跡目血縁する)
参考に「兼行」の子の「考綱」が青木氏族の「長沼氏」を継承します。

ここから、2流の結城永嶋氏が発祥したのです。
然し、何故に永嶋氏なのかは判っていません。
他の主要氏「佐野」と「長沼」は全て地名からですが、「永嶋氏」も地名と考えられるのですが。
「結城−酒井−永嶋」の経緯が解らないのです。この間の一切の資料が不思議に無いのです。
「京平氏」との争いで無くした可能性があり、それだけに戦いが激しかった事が云えます。
従って、結城にある菩提寺も焼失の可能性があります。 
結城を奪われたのですから、結城氏の菩提寺を京平氏が遺す事は無い筈です。

(京平家がこの下総と上総を奪い、更に奪い返される事に特に留意して置いてください。お家の家紋と京平氏の末裔の織田氏の家紋との類似の由来の原因が判るのです。)

つまり、お家の「五つ木瓜唐花紋の永嶋氏」の流れは、この本流の結城氏族永嶋氏であるのですが、佐野氏族にはこの家紋はありません。

従って、間違い無く、菩提寺はこの結城付近の浄土宗寺に必ずあります。或いはあった筈です。

(下総結城は現在は茨城県の西域で埼玉東と千葉北域の3県に挟まれた地域で、下総結城と常陸結城がありましたが、下総結城が奪われた時に常陸に一部移したのです。常陸結城は海よりにあった。)

其処で調査しました以前の結果では幾つかあるのですが、その中でも、この経緯と家紋から観て最も古い寺(1185年から1285年)と成る筈です。この寺に該当する寺は2寺になります。
そもそも、浄土宗は「知恩院系」(法然)と「清水寺系」)(坂上田村麻呂)があります。
この内、密教系は知恩院(開祖 法然)系です。
この条件に合致するのは茨城県の現在の「境町」の「西光寺」(全国にある秀郷一門の定住地に多くある寺 各地に菩提寺を建立)と、結城市の隣域東にある「報告寺」です。
然し、情報の当時の確認が取れません。筆者はこの「西光寺」ではと見ています。
これには、根拠があります。
この秀郷一門の定住地の寺「西光寺」(菩提寺らしい)と同じであるのですが、この全国にある「西光寺グループ」のリストの中にこの「結城境町の西光寺」は無いのです。
そしてこの寺にHPも無いのは不思議です。
つまり、「結城−酒井−永嶋」の記録が無い事に原因している事に成ります。
「京平氏」との戦いで「結城の西光寺」は焼失して、暫くの間、リストから末梢されていたと考えられます。
その後に、永嶋氏に依って再び再興されたものではないかと観られます。
この間に結城より東域の離れた地域に1281年に「報告寺」が建立されているのです。
結城の「境町の西光寺」は詳細は解らないのです。
(朝光が結城を奪い返した時期は1180年から1185年)

この「報告寺」の創建年代と寺名が気に成ります。
この結城の現在の「境」と「酒井氏」の酒井は同じではないかと推測されます。
この結城の「境町の西光寺」は、酒井氏の時に建立し、「報告寺」は、結城奪還から約100年後に創建ですから、明らかに永嶋氏が建立した事に成ります。
この永嶋氏が「関東屋形」と呼ばれる様に大勢力をもったのは、このほぼ100年後でありますから、この「西光寺と報告寺」は酒井氏と永嶋氏の建立と成ります。
「酒井氏が西光寺」、「永嶋氏が報告寺」の使い分けをしていたかは判りませんが、「西光寺−報告寺」との間に、「関東屋形」の呼称に成る前には少し時間(50年程度)が掛かっていますから、この間に「永嶋氏の呼称変更」があった事に成ります。
とすると、何れもが「結城永嶋氏の寺」と成ります。
つまり、1180年から1380年の事と成りますので時代考証は問題ない事に成ります。
(この「西光寺」の呼称は青木氏族のある慣習から来ている事が判るのです。)

実は、この永嶋氏に成った時に2流(10代目−11代目)に分流しているのです。
後に、この分家(祐広)が秀郷一門の旧領の陸奥に移動して勢力を拡大します。(陸奥結城氏)
丁度、中間ですので「本家」(広綱)筋と「分家」筋(結城を護っていた筈)の使い分けをしていた可能性があるのです。
お家の家紋から本家側の流れの永嶋氏です。
本所の結城の境町の「西光寺」は本家流、「報告寺」は分家流と成る筈です。
(その後に、この分家は陸奥に移動して旧来の地である事から陸奥結城氏を名乗ります。)

依って、筆者はこの経緯から最終は何れも、「西光寺」と「報告寺」が永嶋氏本流の管理下に成ったと見られ、何れも正しい事として検証しています。(結城は陸奥に移動したから)

(他氏が永嶋氏の領地の中に勝手に他氏の寺を建てる事は無い。江戸期まで。)

資料が遺されていないので、この「2つの寺」に遺されてあるかは疑問です。
この寺にも無いから資料が無いのでしょうし、「西光寺グループ」にも記載されていないのはこのグループに入れる証拠がこの寺に無い事を意味していると観ます。

(此処までが青木氏からの限界の研究結果でした。これ以後は永嶋氏の詳細履歴の焼失で判りません。)

先ず、その時の為に、文政9年のご先祖の「通名」が何であるかを把握してください。

(この間に追伸が有りましたが、真宗は密教ではありませんので、過去帳はありません。
人別帳ですから、戒名で記載して居る可能性は少ないのです。人別帳はその時の信者の事しか記載が無いのです。文政では最早、お家には永嶋氏の「通名」は無かったようですね)

俗名(戒名に読み込んでいる筈)の前か後ろに付けられた漢字、例えば、行か綱か政か公か秀などの漢字ですが、結城の菩提寺頼みに成りますね。

(今後の確認 参考この漢字のご先祖が居る事で大方は結城地域の浄土宗の菩提寺かの把握出来ます。先ず、密教系かの確認、この寺の創建年代の確認、長嶋氏の過去帳の有無(現在は密教では無く成って居るので他氏のも檀家寺と成っている)で比較的に簡単に判ると思います。
古ければ古いほど良いのですが。最低で取り戻した時に立て直して居る事から1100年から1380年前後の建立期と成ります。)

筆者は、落ちの越前の移動経緯は、この室町期1380年頃に秀郷流青木氏の指示の元に結城永嶋氏に対して越前の浄土宗か神明系社の建設、維持管理に長期出向を依頼したと考えています。
そして、その後に血縁して定住したお家の永嶋氏はこの域の青木氏の寺社の維持管理を務めたと観ています。
この「越前の3県」に青木氏は奈良期から戦乱などで一族が逃げ込む退避地を作って保護していたのです。この為にこの保護する寺社を建立していた地域なのです。
そして、この一族を立ち直る為に商いをさせていたのです。
実は、青木氏は1025年頃から「2足の草鞋策」で紙等を製造から販売をしていた大豪商です。
今で云う「総合商社」です。この商いを通して越前の逃避した青木氏の生活の面倒を観ていたのです。
ここには商いの青木氏が多いのです。
この「総合商社」が武力を使わずに信長に丸山の戦いで勝利します。(信長の唯一の実質敗戦)

”徳川時代の檀家制度以前の宗派はどこで、古い人たちの系図はどこにあるのか?”

上記の通りですが、この疑問は、宗派秀郷一門であるので、宗派は氏家制度の中での決り事ですので、一家が勝手な事は出来ません。浄土宗以外にはありませんし、密教系の浄土宗寺と限定されます。永嶋氏の大系図は筆者が把握していますが菩提寺が見付かれば判ります。
結城の永島氏一族独善の菩提寺にあります。
前回のお答え通りで奈良期からの由緒ある密教の氏である限りは宗家の慣習に従う以外に生きて行く道はありません。依って、地域と浄土宗と密教以外に選択の余地はありません。

一つあるこの様な事件がありました。中部地方のある青木氏族がこの禁令を破り、勝手に曹洞宗に改宗して仕舞ったのです。歴史ある菩提寺まで改宗すると云う破天荒な行動を採った者がいます。
この者は直に本家でありながら一族一門から排斥され潰されて仕舞いました。
「氏家制度」である限りその伝統を本家の者であったとしても潰される仕組みなのです。
宗派の選択の自由はありません。密教系浄土宗で結城に無ければ成らないのです。

依って、古い人達の系図の疑問は、この寺にしかありません。
「氏」である限りは個人が系図系譜を維持管理していません。全て密教のこの寺か守護神の神社かに保管維持管理されて入るのです。
昔は全ての氏の事件性も含む記録は菩提寺の寺が主体として維持管理していたのです。
姓族は菩提寺と密教のこの仕組みがありませんので本来は系譜と系図関係の記録は無いのです。
ですから、系譜を敢えて作ろうとすると自作の搾取の系譜以外には手段が無いのです。
元々、過去に遡ると「姓」を持って居なかったし、その概念も姓族には無かったのです。
独自の寺もなかったのですから原則作れないのです。
況して其処まで情報のある社会ではありませんでした。依って、姓族の系譜類の記録は100%搾取なのです。その「氏か姓」かが判れば直ぐに判断が付きます。

お家は、秀郷一門永嶋氏です。況して、慣習、仕来り、掟に縛られた青木氏族です。勝手な事は出来ません。その氏には膨大な配下を民の段階まで抱えた組織の氏の長であるのです。
勝手な事は出来ません。すれば組織から直に追放です。むしろ、伝統を護らせる立場にあったのです。
況して、五つ木瓜唐花紋です。ゼネコン関係の組織を配下にした日本一の由緒ある大氏なのです。
勝手に、あちらこちらに自分勝手な宗派、寺、神社などを作る事はできる訳が無いのです。
許可がいるのです。、朝廷か幕府の許可が必要です。
そもそも寺社の建設は特定の氏にしか認められていませんでした。
これは江戸時代末期まで護られました。江戸時代は氏の確定では無く、届け出ての認可でしたが、室町期中期までは朝臣族系と宿禰族系の特定の氏にしか認めていませんでした。
青木氏族は朝臣族ですのでこの権利を有していたのです。
ですから、あちらこちらでは無く、誰でも出は無く、結城で、密教系の浄土宗寺であるのです。
故に、「五つ木瓜唐花紋」の氏の菩提寺は必ず結城付近にある筈です。
(第2次大戦で焼失の可能性もある)
結城付近の浄土宗寺と成れば限られてきます。何故ならば、ゼネコンの大組織を配下に治めて居るのです。配下の者が存在した地域になくては成らないのです。
氏上の寺が配下の者の寺でもあるのですから。12家紋/38の組織を率いている五つ木瓜唐花紋族なのです。
前回のお答えにも書きました「結城」の意味からも此処にしかない筈です。

お家の藤原一門の秀郷から13代目の行長が元祖として永嶋氏を名乗りますが、幼名は小四郎で伊予守を拝命していました。
永嶋と長嶋はその各地5地域に分布した末裔永嶋氏の違いで区別しています。おおまかには三重までの西域は長嶋氏、東域は永嶋氏です。どちらも同族です。系譜の区別はありません。
従って、お家は文政期の過去帳をお持ちとすると、間違い無く関東の結城の永嶋氏である事が判ります。兎も角も、”氏家制度の社会で氏族だ”と云う事を認識ください。


後継ぎの件では、お家は絶えると云う前提ではまだありませんよ。
娘に養子を採り養子に一代で子供が生まれれば、その子供が跡目に入り、お家の永嶋氏は元の状態で継承して行く事は可能です。真宗での文政期の過去帳が遺されている事は必ず越前の3県を中心に越後付近にもお家の越後の末裔はある事を意味しています。恐らくは歴史的経緯から越後か越後より付近にあると思います。家紋通りの「大工の棟梁」と「真宗」の事ですので、あると思います。
大元は「結城と浄土宗」(青木氏からの研究結果の情報は下記)と成りますね。

さて、伊勢神宮や神明社のところまでお読みに成ったのですね。
ご先祖を理解する上では、歴史雑学が必要です。特に、我々青木氏族はその慣習や仕来りや掟を以って生きて来ていますので、先祖の生き様は他氏の「姓族」とは大きく異なる処です。
それだけに面白いですよ。信頼できる歴史記録もそれだけに遺されて居ますからね。
本当の「先祖の生き様」が目に映る様に観えるのですからね。
恐らくは、「青木氏の守護神(神明社)」の論文の中で、この神明社の建設には「特別賜姓族青木氏の職能集団」とは、お家の「永嶋氏の五つ木瓜唐花族」とその「配下の集団」とが関わっていた事は明白です。「秀郷流青木氏特別賜姓族の青木氏」にもこの「五つ木瓜唐花紋の青木氏」があります。あると云う事は同族重複血縁していた事を意味します。
これは職能に依る永嶋氏との同族血縁をしていた事を示します。
(同族血縁はこの時代の朝臣族の常識的慣習)
「皇族賜姓族青木氏の職能集団」もはっきりと遺されていますので、この「2つの職能集団」が関っていた事に成るのです。

それだけに、この論文を投稿終了した直後にお家のお便りがあったのは何かの縁です。驚きました。
実は、この事は既にこの論文、「青木氏の守護神(神明社)」にも論じていたのですが、タイミングが良すぎますね。
この論文の越前の3県には奈良期から「青木氏の戦略的退避地」があり、寺と神社を一番多く建設して一族の保護をする組織があったのです。それを構築した建設に関わった青木氏と青木氏族が必ず居ると研究調査で判っていました。
その証拠があるのですが、現存する「青木氏族」の「五つ木瓜唐花紋族の永嶋氏」の確認が出来て居なかったのです。その事が真に偶然にもお便りを頂きました。
お便りを頂いた時は、”もしかして”と思いました。
そして、お家が越前の大工さんの家系である事のお便りを頂きました。
故に、熱が特別に入りました。

さて、その研究論文の内容の一部が、実は織田木瓜とお家の五つ木瓜唐花紋が類似する所以がここにあるのです。

「青木氏の守護神(神明社)」の論文ではこの関係に於いて論文が余り長すぎる事に成り、削除を余儀なくされた部分なのです。
簡単には述べて居るのですが、何の縁か判りませんが投稿完了の1月後にお家のお便りがありました。お家では ”何にかの拍子で繋がった”と書かれていましたが、ヤフーHPサイト側に正式投稿が完了した途端に、偶然にも関係族の今回のお家のお便りを頂きました。
何かの縁ですので、早速その部分をここに一部を戻します。

そもそも、織田氏の経緯とそのルーツに関する事は論文に論じていますが、先ずは概容を述べます。
「織田氏」は「京平氏」、又は、「桓武平氏」、又は「伊勢平氏」と呼ばれる末裔です。その証拠は最近一民家から発見された織田氏の平安期末期までのルーツ資料を辿れば判ります。
この末裔の京平氏は関東の下総、上総、常陸付近を勢力基盤として移動定住していた勢力です。
然し、平安末期ころからこの平氏も衰弱して戦いが弱くなりました。其処で、この下総、上総、常陸を勢力の基盤としていた藤原秀郷一門は奪われた旧来の土地の奪回に掛かります。
そして、次第に取り戻します。この時、結城も京平氏から奪い変えしたのです。
「京平氏」は東関東では結局は堪え切れなくなり、又、争いの事件を各地で起した事から訴えられ朝廷よりこの一体の管理権を剥奪されて、京の地元域に戻る様に命じられて仕舞います。
其処で、この「京平氏」は勢力圏の際端の東域(岐阜・愛知)まで引き上げます。
此処が昔は「勢力の緩衝地帯」として呼ばれ、源氏一門の中央域、藤原秀郷一門の際西域、京平家の東端域で「勢力の坩堝」と呼称されていた地域であります。
非常に一触即発の微妙な緩衝地帯であったのです。其処に「下総の京平氏勢力」が戦略を何とか維持する為に此処に留まったのです。
後の上総や常陸の勢力は関西以西に退きました。
当然に、微妙な勢力のバランスが狂い始め、遂に源平の戦いの口火がここで切られたのです。
初戦と初期の形勢の戦いは「京平氏」が勝利し、この時、近江源氏、美濃源氏、尾張源氏、駿河源氏のこの一帯の源氏は完全に滅亡します。
しかし、未だこの地域には藤原一門が無傷で残っています。
ところが、京平家側の形勢が次第に狂い始め、源平の戦いの初期戦はこの美濃の「富士見川の戦い」と成ります。各地の源平勢力がこの美濃に集結します。そして、京平氏は惨敗します。
この時、この京平氏の敗残兵は美濃の山岳地帯に逃げ延びます。
源平は「以仁王の乱」(1180年)を境に源氏の頼朝側が無傷の関東の藤原勢力を背景に戦いを挑みます。
この「京平氏の敗残兵」は、美濃山岳地帯で「農民」をし、物を造りの「職能民」、時には「農兵」と成り戦いを請け負いながら生き延びます。
其処で、この末裔は、下総にいた平氏の支配下にあった一族の農民や職農民で、元は瀬戸内に居た「職農民」の者達でした。この者達も主家に従って美濃に来ていたのです。
この時、下総でこの「職農民」と「京平家の下級武士」は結城の藤原氏の土木建設等の仕事を通じて技量を高めて土木建設の「物造り」を覚えました。
この糧を通じて美濃の山岳部で生き延びたのです。
ところが、各地にこの者達は時には「農兵」となって「戦いの兵力」として請け負いながら、この京平氏の生き延びた庶流末裔は仕官先を探していたのです。
そして、遂に陸奥斯波氏の足利氏が勢力を得てこの京平氏の庶流末裔を家臣とします。
この時には同時に「浅井氏」と「朝倉氏」なども仕官したのです。

(朝倉氏もこの「朝倉木瓜」と呼ばれる家紋です。 朝倉氏と浅井氏も斯波氏足利氏に織田氏より早く仕官し出世した。)

この斯波氏の家臣仕官と成った「下級武士と職農民」から成る京平氏の所流末裔は出世して家紋を持ちます。
この時に、この京平氏の庶流末裔の織田氏は、2流に分流して勢力争いを起こします。
遂には、「本流側」が負けて「職農民」の武士と成った側が生き残るのです。
そして、上記で書いた様に、下総で世話に成った結城の「五つ木瓜唐花紋」に似せた紋を家紋と定めたのです。

(家紋が定まる経緯は判っているのですが、安土城焼失で家紋決定の正式記録は発見されていない。藤原秀郷一門の永嶋氏の五つ木瓜唐花紋の方が250年程度前 一説では結城永嶋氏の分家筋が本家の足利氏の家臣に成った事があるが、この時の永嶋氏の五つ木瓜唐花紋の類似家紋を織田氏の職能種から斯波氏が与えたとする説で、だから、朝倉氏にも類似木瓜紋を与えたとする説です。)

この家紋決定に及ぶ前に別の家紋を使われていたと観られる形跡があるのですが、出世して尾張守護代に成った直前に定められた形跡があります。
つまり、同じでは藤原氏と成るのでは、苦手な藤原氏と問題が起るので、そこで「唐花の先端部」を変更したのです。
これが更に出世して尾張代官と成り遂に斯波氏を潰し守護代と成って出世します。
これが織田木瓜の家紋の由来なのです。
だから、その後、信長に成った時に配下に元からの優秀な職能武士(職農民)とその配下が居た事から「城造りの名人」と言われた所以となったのです。
これ等の事は発見された記録から判ったのです。
もとより、此処は美濃域伊勢よりには伊勢長嶋氏が定住しているところです。
この永嶋氏の五つ木瓜唐花紋と織田木瓜紋には歴史的にこの様な家紋関係があったのです。

以上の雑学も参考にして下さい。

追伸を頂きましたので、お便りを追記します。
> 昨年放送されたNHK「さかのぼり日本史」、平安藤原氏。よくよく考えてみると、
> 鎌倉幕府も、結局、藤原北家にのっとられたんですね。

現地の神明社の変遷ですね。
ありがとう御座います。
承知しています。
「青木氏の守護神(神明社)」でも詳しく論じています。
青木氏族ですが、秀郷一門のお家は永嶋氏ですので、春日社ですよ。

何はともあれ、主要5氏の内青木氏族の永嶋氏は青木氏と最も同族血縁関係を持っています。
青木氏=永嶋氏とも云っても過言ではありません。家紋類を見れば良く判ります。

それ故に、お家の事は青木氏を理解する事で大方は判る筈ですよ。
残念ながら、永嶋サイトの歴史カテゴリーがありませんが、青木サイトで充分ですね。
記録が多く遺されている筈ですが、研究した論文はありませんね。
不思議ですね。

NHKの放送は承知しています。
秀郷一門361氏とその配下組織は、平安期の朝廷も鎌倉幕府も実権は握っていませんでしたが、この勢力を無視する事は出来なかったのです。幕府も微妙な上に経っていたのです。
足利幕府もこの勢力基盤の上に成り立っていたのです。(庶流を名乗る藤原氏は殆ど未勘氏族です)
そして、信長と豊臣政権は関東に全く手が出ず、徳川氏をその地に送り込んだ事が命とりに成ったのです。
徳川氏はこの秀郷一門を最大家臣団にした事から全国24地方に秀郷一門の勢力を持っている一門を利用して大名の周囲を包囲する戦略を採ったのです。これでは謀反が起こりません。
藤原一門を取り込んだ為政者が安定政権を造り上げられたのです。
夫々の歴史の幕府はこの秀郷一門の勢力との関り具合が弱かったのです。
然し、この事を地元で知って居る家康はこのポイントを見逃さなかったのです。

実は、九州にも永嶋氏と長嶋氏と長島氏の末裔が広がっているのですよ。
大蔵氏系永嶋氏、大蔵氏系肝付氏族永嶋氏と長嶋氏、肝付氏系長島氏があるのです。
掲示板にはお便りも頂いていますよ。一度お読みください。

藤原秀郷一門の中でも青木氏族の歴史を知らないと正しく歴史を観る事は出来ません。
実は筆者はNHKに3度、時代考証が間違って居るので投書して一つは、”その時歴史が動いた”で作家が訂正し直すなどの事がありました。
江戸時代の時代劇の中で、家臣の羽織の家紋を良く観ていてください。お家の家紋が良く出てきますよ。
若干、ドラマの中の家紋などの考証が良く間違っていますが。特に丸付き紋の使い方が間違っていますね。

続けて、追伸がありました。
永島氏の調査は電話帳ではありませんで室町期中期の資料から研究しています。
電話帳は現在ですので、ルーツは辿れません。明治期の苗字令のものしかありません。
歴史的には信頼できません。ルーツは「江戸中期前」で無いと無理です。

浄土真宗に付いても前回に説明していますが過去帳はありませんよ。人別帳のその時点での記録です。
前回のお答えの通り密教系の浄土宗で無ければ無理です。

上記にお家の菩提寺と観られるお寺を紹介しましたので参考にしてください。
浄土真宗は菩提寺ではありません。檀家寺です。菩提寺の定義は前回に詳しくお答えしていますのでもう一度お読みください。

では、又お便りをお待ちしています。



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