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  [No.900] 品川さんルーツのお尋ね
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/09(Thu) 13:09:35


以下の内容で品川さんから雑談掲示板に投稿がありましたので、こちらに代理で移します。
尚、品川さんに付いてはこの投稿欄を専用Reでお使いください。


[3165] 初めましておじゃまします
品川です
2013/05/09 10:56 - パソコン
  初めまして 品川と申します

母方の名前なのですが 今 現在は神奈川県在住ですが 母親の父親 私からするとお爺さんになるのですが お爺さんは青森県の田舎館の十二川原出身 で 北海道で家庭をもち 家庭をもち 母親たち 兄弟が生まれ育ったらしいのですが 品川という名前は今川氏関係の品川なのでしょうか?

家紋は定かでは ないのですが ふじえにほこら? もしくは 上がり藤 藤の葉っぱを使ってのは間違いないとの事なのですが…
そうなると 藤原氏と関係のある品川氏なのでしょうか?


わかる範囲で教えていただけますと嬉しいです

突然 おじゃまして申し訳ありません。


  [No.901] Re:品川さんルーツのお尋ね
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/09(Thu) 20:12:06

ようこそ御越し頂きました。
本サイトは、青木氏に関わるルーツに付いて研究を進めています。

さりとて、お尋ね頂きましたので、出来るだけの事をお応えします。

先ず提供いただきました情報は江戸末期以前の情報でなければルーツを辿る事は出来ません。
明治期以降のことは維新の新戸籍簿がありますので、容易にルーツを辿る事は可能です。

先ず、提供いただきました情報は御尊祖父ですので、明治期ですから、ルーツは戸籍簿で判ります。
維新の戸籍簿には明治3年と8年の苗字令により全国民が苗字を持ちました。
この時、この維新簿にはお家の家柄が書かれています。武士であれば、「士分」と書かれていますのでその出身地が明記されています。
江戸期以前は農工商の場合はルーツを系統的に記録する概念がありませんでした。そもそも苗字を持っていなかったのですから無理です。

家紋は何時の時代からのものでしょうか。藤えにほこら紋は秀郷一門や今川氏にはありません。
そもそも藤は葉ではなく花です。3尺藤の花を家紋としています。ただしこの藤の紋を使える藤原氏には家紋の掟があり、下がり藤の藤紋を使えるのは主要16氏(秀郷9氏)だけで、他の一族一門は家紋としては使えません。まして藤紋は綜紋ですので通常本家筋しか使いません。又秀郷一門は上がり藤紋ではありません。藤紋144紋中にはお家の家紋類はありません。
家紋から観て、藤原秀郷一門では無い事が判ります。
この事から明治期3年と8年の苗字令に基づく九割近い農工商の苗字と観られます。
ただし、上記の祖父以前の方(祖祖父)をみつけ、その方が住んでいた土地を探し出す事が必要です。

明治のころに青森県の田舎館の十二川原出身との事ですが、確かにこの青森は藤原秀郷一門の血筋を引いた土豪が多いところですが、秀郷一門はその土地柄がはっきりしていますので、この土地がらは疑問です。

武士であったとした場合は菩提寺がこの土地にある筈です。そして、そこの寺に品川氏の「過去帳」がある筈です。人別帳ではありません。その過去帳があればルーツを確定できます。

今川氏の件ですが、武士であるのなら遺す事が義務でしたので何がしかの伝統が残っている筈です。
その伝統は多くは宗派に関係して遺されていますので宗派は何宗ですか。宗派で大体の事はわかります。士農工商は身分制度の戒律があって大方はそのかいりつに従っていましたので宗派で判りますよ
念のために、明治前は人の定住移動は禁止ですよ。国抜けで打ち首ですょ。
江戸期前は氏家制度の時代ですからその制度から出ると無宿者に成ります。
祖父の代で移動していると成ると明治期ですので、ルーツが判らなくなっている事は農工商の人であった事に成ります。

兎に角、江戸時代か明治維新簿を見てください。宗派でも判りますよ。


  [No.904] Re:品川さんルーツのお尋ね
     投稿者:品川さん   投稿日:2013/05/11(Sat) 07:15:16

3166] 無題
品川です
2013/05/10 14:49 - パソコン
  申し訳ありません
品川です

専用のReで 何度もエラー がでてしまった為
大変申し訳ありませんが 再度こちらから失礼いたします。

丁寧で解りやすいお答えありがとうございます

母親から聞いた話なのですが 子供の頃 [刀]を飾ってある部屋があったそうです

母親のお爺さんは もとは青森県の出身ではないらしいです その場所は調べてみないとわからないとの事ですが…

あと疑問に思ったのですが [ふじえにほこら紋]というのは あるのですか? 探してもわかりませんでした 実在する家紋なのでしょうか?

これだけでは何もわからないと思いますがよろしくお願いいたします

こちらにおじゃましまして大変申し訳ありませんでした


> 品川さん 今日は。
>
> さて、Reの件ですが、Reで投稿してゆく場合は、前の文をまず消して、そこに次ぎの文を書き込む事と、上のお名前とタイトルと、合言葉の あおきさん を書き込んで、更に自分の削除キーを作って、更に指定する投稿キーを入力してください。最後に 返信投稿する をクリックして下さい。
> そうすると、投稿の待機状態に成ります。
> ここからは、私が投稿許可を出すように成っています。

家紋の件ですが、全国8000以上の家紋がありますが、西関東の付近に希に見る事が出来ます。
「上り藤に祠」の藤の花の形の文様が藤原氏の「上り藤」の文様と成っているかの違いが問題です。
一度藤の花の違いを先ずはお調べください。

藤原氏北家の秀郷一門はもともとの「下がり藤」で、”下がる”を嫌った他の藤原氏はこの「上り藤」に変更したのです。上り藤紋?に祠の文様には、神社系の何かを物語たせています。
其の他の藤紋は藤原氏の藤紋とは違っています。多くは未勘氏族の家紋と成ります。
未勘氏族とは藤原氏を名乗っているが確証が無い氏のことです。室町期末期から江戸初期と明治初期に多く造られました。恐らくは、藤原氏に味方した土豪か、家臣か、遠縁か、全くの偽装搾取か、のことで造ったと見られます。

”母の時代に刀が飾ってあった”とされていますが、明治以降の方と観られますので、法律上、刀剣は許可が必要で、飾る事は管理上出来ません。ミニチュアであった可能性があります。可能なのは江戸末期までです。昭和初期には刀剣は戦争で鉄不足で全て没収ですので、ある事事態が問題です。
見つかれば大変な事に成ります。

では、またご遠慮なくお便りください。


  [No.905] Re:品川さんルーツのお尋ね
     投稿者:品川さん   投稿日:2013/05/11(Sat) 16:15:57

[3167]
> 何度も申し訳ありません
>品川です。
>2013/05/11 14:20 - パソコン
>  何度も申し訳ありません
>消去キー が作れず 何度も申し訳ないと思ったのですが こちらから失礼します。


>書き忘れてしまった事なのですが 宗派は日蓮宗との事です。

>家紋の事なのですが [藤に祠紋]は珍しい家紋なのでしょうか?

>恥ずかしい話ですがまだ家紋の確認ができてないのですが 上がり藤?に祠紋というのは 藤の中に祠が入ってるという感じでしょうか?

>上がり藤といってますが違う [藤に祠紋]もあるのでしょうか?


>こちらからおじゃました事を深くお詫びいたします。

品川さん 今日は。

早速ですが、追伸に対してお応えします。

「藤に祠紋」は大変珍しい家紋です。前のお答え通り、日本には凡そ家紋は8000程度あります中では、極めて珍しい家紋類です。

次ぎのご質問ですが、手を上に向けて丸を作ります。その中に祠を図案化したものを中に入れます。
この方式は、藤原氏が用いた文様方式で、祠紋を家紋とする氏が居て、その氏の血筋の流れを汲む藤紋の一族である事を意味します。
この副紋方式を真似して造った家紋が沢山あります。
本当は藤原氏一族が使う方式なのですが、藤原氏以外の氏も何らかの理由でこの方式を真似したのです。
例えば、血筋は無いのですが、遠縁に当る為に許可を得て用いた等もあります。
中には藤の花では無いものに別の家紋を入れて完全な偽紋を造ったのもあります。
一見して、見分けが着きません。
藤紋144紋中、20紋程度がこの方式を使っています。

さて、お家の家紋が、この藤紋の上がり藤紋の藤原氏の藤の花の紋様かの確認が必要です。
次に、そもそもこの祠紋が珍しいのです。それにこの藤紋?の中にこの祠紋が入る文様と成ると更に極めて珍しい文様です。

この家紋の上がり藤を使う家紋は家紋の中では実は新しいのです。
江戸初期に多くの下級武士も家紋を持つ様になりました。それまでは土地をもつ中級以上の武士階級が家紋を持っていたのですが、この時にこの上り藤紋に似せた家紋を沢山作ったのです。
その上り藤紋の中にこれまた珍しい祠紋を組み込んだ文様と成ったのです。
従って、江戸末期か明治初期の家紋類と成ります。

藤紋の藤原氏は「四家」と呼ばれ、北家、式家、南家、京家がありましたが、同族争いの結果、北家を除き殆どが滅亡しました。
この上がり藤紋は、北家の一部とあとの3家の家紋類です。3家は滅亡していませんので、北家の一部の摂関家が使用する家紋と成ります。摂関家も公家衆となって一部残ります。
元々は藤原氏は下がり藤紋です。
従って、江戸初期と明治初期には類似紋を使っても子孫が居ないので文句が出ない上がり藤紋を使ったのです。
更に元々「下がり藤紋に副紋方式」なのですが、これに似せて「上がり藤紋に副紋方式」を用いたのです。
そもそもの「上かり藤紋」は公家衆で武門ではありませんので、この「副紋方式」そのものがないのです。
「公家」の家紋はそもそも「武家の家紋」では無く、「象徴紋」を前提としているのです。
つまり、文句が出ないように中に更に副紋の文様を入れると云う事が起ったのです。
そもそも、「下がり藤紋」にしろ「上がり藤紋」にしろこの紋は「藤原氏の綜紋」で、個人の家の家紋ではありません。この綜紋を引き継ぐ事ができるのは極めて限られた数の宗家筋一門だけです。
「上がり藤紋」を使う云う事態が搾取なのです。そこに「副紋」を使い、更に、「祠紋」となるとその使用そのものと、時期を限定する事が出来るのです。
本来通常使わない紋を通常紋として使っているのですから、議論の余地はありません。

さて、宗派が日蓮宗との事ですので、家柄も絞られます。
農工商の身分の者と下級武士が入信する宗派です。
この日蓮宗で、家紋を持っている事、新しい家紋類である事、珍しい家紋である事、類似紋である事、から答えは限られてきます。後は「藤の花」が藤原氏の藤の花の文様を使っているか否かで答えは決まります。
然し、更に、問題なのは、藤原氏は日本一最高の身分と家柄を誇る氏です。この氏は同族血縁を主体としながらも、江戸期には高級武士との血縁をしました。「祠紋」は珍しい文様である様に、子孫が少ないことを意味しますので、この藤原氏と血縁できる身分と階級ではありません。

つまり、血縁関係を江戸末期まで結ぶ事はまずありません。従って、藤原氏の正規の「上がり藤に祠紋」はあり得ない事に成ります。更に、秀郷一門の「下がり藤紋に副紋」はありますが、公家衆の「上り藤紋に副紋」は先ずあり得ない事を意味します。そもそも公家衆には自らの氏を武力の護衛軍で守る慣習がありませんでしたので副紋方式は必要ありません。

と成ると、明治期の家紋類と成り得ます。更には、全国家紋8000の中にも無い家紋類ですので、明治の時に財をなして家紋を作った、姓を持ったと云う事に成ります。この搾取偏纂の現象は明治期にブームのように起ったのです。むしろ、明治維新政府が今までになかった苗字などの伝統概念のながで、庶民に苗字を持たす為に積極的に周囲の武士の氏名を使用させるように指導したのです。
一夜にして、郡全体が同じ姓名の家が増えたのです。国民全員が姓名を持つのに約く8年もかかったのです。なかなか諸民は持たなかったのです。そこで政府は強引に持たしたのです。
特に藤原氏の氏名は関東東北北陸では一夜にして県郡に興りました。
藤原氏そのものが宗家以外は藤原の氏名を名乗る習慣がなく、例えは、伊勢の藤原氏であれば伊藤氏の様に名乗る習慣でした。この後ろに「・・藤」が付かない氏名をもつのは秀郷一門主要5氏あるいは8氏しかありません。後は全て「未勘氏族」(藤原氏を装った氏)と呼ばれる姓です。

祖父の段階までしか現在でも解らないと云う事は、この事を意味しています。
何故ならば武士であれば、少なくとも菩提寺があり、「伝統」を守りますので、最低でも4代-5代前くらいまでは完全に判っています。「永代供養」と云う習慣が武士にはありましたので、最低でも先祖の「曼荼羅」がある筈です。
「本家の墓」に行けば法名も書いているし、判らないと云う事はありえません。法名の形でも身分家柄は直ぐに判ります。

藤紋の確認とともに、一度本家や法名もお調べに成ると直ぐに判りますよ。江戸期のご先祖が判るとしてそのお住まいに成っていた村の名前でも判ります。
武士はお城の家臣長屋か与えられた城屋敷で住まいしますので、村名でもわかりますよ。

その前に、先ず日蓮宗ですので、もとより過去帳はありません。人別帳ですので、ご先祖の法名も解らない筈です。先祖も辿れません。(西関東と日蓮宗は地域的にも一致しています。)
つまり、だから解らな無く成っているのです。そうなれば、江戸初期か明治初期かの答えは先に出ます。
万が一のこともありますので、藤紋と本家筋と法名と出自地を確認が必要です。

ではまたお便りを下さい。