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  [No.910] ルーツが気になるので教えて下さい。
     投稿者:藤岡の青木   投稿日:2013/05/27(Mon) 22:46:07

初投稿させて頂きます。
掲示板を一通り拝見させていただいたのですが、ピンとくるものがなかったので投稿させて頂きます。
もしお分かりでしたら、教えていて頂きたいと思います。

私自身は現在父の仕事の関係で神奈川県に住んでいますが、もともと父の出身は栃木県です。

栃木の藤岡付近の渡良瀬川はすぐそこ、国道4号線からも近い場所に現在でも父の実家はあります。

先祖代々すくなくとも江戸時代からはそこに住んでいたようです。
周辺の家もすべて青木姓なので、明治以降に名乗った可能性が高い様な気もしますが。

家紋は抱き茗荷
宗派は真言宗

です。

母方は武田家家臣の家系る事がはっきりしているので、父方のルーツも気になりますのでよろしくお願いします


  [No.911] Re:ルーツが気になるので教えて下さい。
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/05/28(Tue) 11:15:08

栃木の青木さん 今日は。始めまして。
これからも宜しくお願いします。同じ青木氏族ですが、全国の青木さんが自由に集う青木サイトに今後とも御協力をお願いします。
サイトには青木氏に関する事の情報を研究して、過去の先祖に、未来の子孫に、その伝統を引き継いで、その「生き様」を考えてもらい、ロマンを注ごうとしています。
人は、現在と云う合理的で科学の進んだ中に生きていますが、人には時代がどんなに変化しようとしても、体の中には取りきれない何者かが潜んでいます。それは過去を知ろうとする心と、未来に馳せた心を取り除く事の出来ないものを持っています。それは、人は分身で繋いでいるからです。

さて、ご質問ですが、栃木は下野国です。下野は藤原秀郷一族一門の武蔵と共に領国のひとつです。
当然の下野にも秀郷一門の護衛団の青木氏が武蔵を螺旋状に取り巻く様に守っていました。
下野には秀郷一門の青木氏が特別に氏名を村名として使うことを許された青木村を形成していました。
R4付近とすると、この青木氏である可能性である事も云えますヶ、この秀郷流青木氏の特別四世族青木氏はその家柄から浄土宗或いは特別な場合は真宗に入信を許していました。
家紋は綜紋は下がり藤紋で116氏に広がっています。この中に家紋を抱き茗荷紋とする青木氏がいますが宗派が異なっています。
そこで、どの末裔であるかどうかは、提供頂きました家紋、宗派、地域、祖先の把握の他に、菩提寺、過去帳、維新戸籍簿、伝来品、史実などでも特定できます。
一寸したことでも良いですから当時の慣習で解りますので有りましたらお知らせください。

そこで、家紋は抱き茗荷、宗派は真言宗、江戸の先祖、江戸の定住地で、気に成る情報の母方は武田氏家臣から、考えられる事があります。
その範囲で推理してみます。

この下野国には、武田氏が信長に攻められて滅びましたが、この時、「諏訪族の青木氏」が神奈川の秀郷一門の青木氏を頼って逃亡してきました。その後、その一部が下野に移動定住して秀郷一門青木氏を背景に勢力を盛り返します。この信濃の「諏訪族青木氏」には「諏訪族青木氏」と「武田氏系諏訪族青木氏」と「諏訪氏系武田氏族青木氏」の3氏の流れがあります。この3氏の内の諏訪族系が栃木下野に移動したのです。家紋は「抱き角紋」です。宗派は浄土宗です。

次ぎに、この時、「武田氏系青木氏」が甲斐山梨にいましたが、滅びて、徳川氏から武蔵埼玉の鉢形に一族全員が定住移動の命を受けて移ります。この一族末裔が北に伸張して埼玉北から下野栃木の北東よりに子孫を拡大しました。
この青木氏には支流系の家紋は数多くあります。宗派は最初は浄土宗 後には曹洞宗、最後には真言宗と宗派変えをしました。(戦国時代には信者獲得の為にこの3派の宗教戦争も起こした位です。)

下野栃木では、江戸時代には、この「秀郷流青木氏」と「諏訪族青木氏2氏」と「武田氏系青木氏」の3氏の「青木氏同士の融合血縁族」も起こっています。

そうすると、この「抱き茗荷紋」は最初は天台宗の摩多羅神の神紋でした。この家紋を用いたのは初代の近江二宮氏とその系列の江戸時代大名に成った鳥羽氏や稲垣氏が江戸初期に用いました。
この二宮氏は2流ありまして、近江系と下野系に別れています。
とすると、お家は江戸初期頃に嫡子に恵まれず、近江の流れを汲む下野栃木二宮氏と養子血縁をして、この時にも再び男系に恵まれず女系となり、男系の養子側の二宮氏系列に属する事に成り、「家紋掟」により家紋が「花菱紋」から「抱き茗荷紋」に変紋した事を意味します。

天台宗、浄土宗、真言宗の3派は3大密教系ですので、家紋の変紋の時に、宗派と共に養子の男系側の真言宗に変わった事に成ります。近江二宮氏の天台宗と共に関東で真言宗と曹洞宗との信者獲得合戦をしましたので、栃木二宮氏の真言宗は歴史的に充分に考えられる事です。

さて、この4つの提供して頂いた情報から観て、武田氏系青木氏の可能性が高く成ります。
ここで、母方が武田氏の家臣であったとすると、武蔵埼玉の鉢形に移動してきた武田氏系青木氏に付き従った青木氏の家臣の末裔であった事に成ります。
武田氏の直家臣は甲斐で滅び飛散して、多くは甲斐より北に逃亡し、信長の徹底した掃討作戦で滅亡の憂き目を受けていますので、栃木で過去に武田氏の家臣で生き延びたとすると、この場合しかありませんので、この事からも武田氏系青木氏であった事の可能性が高く成ります。

江戸当時は氏家制度の中で、同じ青木氏でも「住み分け」をしていましたが、”藤岡付近の渡良瀬川とR4”は納得の出来るところです。

この武田氏系青木氏を確定するには、上記した他の情報を御提供ください。

この武田氏系青木氏に関しては論文として、研究室に「甲斐の青木氏の研究」で論じていますので詳しくはそちらをお読みください。
参考として、武田氏系青木氏とは、「皇族青木氏」と呼ばれ、「嵯峨期の詔勅」で皇族の者が下俗する際に名乗る氏名として他に使用を禁じたのです。この「武田氏系青木氏」は、大化期に天智天皇の第6位皇子が臣下して天皇の護衛団となり「青木氏」と云う氏名を賜姓され、「朝臣族」として甲斐に配置された甲斐王の「皇族賜姓青木氏」と成りました。この後、平安期に源源光がこの跡目を引き継ぎますが、兄の時光は武田氏との血縁をし、「武田氏系青木氏」を発祥させたのです。
兄時光は、大化期からの由緒ある「甲斐の皇族賜姓青木氏」を引き継ぐ権利がありませんでしたので、「嵯峨期の詔勅」に従って源氏である事を理由に「青木氏」を名乗りました。

「皇族賜姓源氏」とは、「嵯峨天皇」から始まり11代続いた「第6位皇子の賜姓臣下族」で、大化期の天智天皇から5代続いた「第6位皇子の賜姓臣下族」の「皇族賜姓青木氏」とは同族です。

「諏訪族青木氏」とは、この大化期の「皇族賜姓青木氏の信濃王」が、土地の豪族の諏訪族との血縁をして発祥した「信濃の皇族賜姓諏訪族青木氏」です。「諏訪族」の始祖は、奈良期始め、中国後漢の国が滅びて阿多倍王に率いられて大和国に渡来した200万人の帰化人で、信濃のに配置された「馬部の職能集団の首魁」でした。日本書紀にも出て来る由緒ある諏訪族です。この諏訪族との皇族賜姓血縁族です。

では、ご質問が有りましたら、御遠慮なくお尋ねください。
ルーツ掲示板にお家の専用投稿欄を設けますので、そこからReでお便りください。
お待ちしています。


  [No.912] Re:ルーツが気になるので教えて下さい。
     投稿者:藤野の青木   投稿日:2013/06/01(Sat) 02:09:25

>ご返答ありがとうございます。

1点修正があります。
母と父は同郷ではなく、父の上京により知り合った同士のため、下野の青木とは全く別です。
母の実家は丸山家と言って武田家滅亡後は、甲府を離れ後年の江戸時代は、品川宿の周辺東海道を守る役目をおっていたと聞いています。

紛らわしい表現になってしまい申し訳ありせん。

青木に関する情報であらたに得ることができましたら、また投稿させていただきます。

自分で調べてもなかなかわからないことだらけでしたので。わかりやすく、具体的にしることができ大変ありがたく思います。

色々な可能性があるので、次回親戚に会う時にヒントになるようなストーリー、情報を聞き出してこようかと思います。


  [No.913] Re:ルーツが気になるので教えて下さい。
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/01(Sat) 06:59:21


お便りありがとう御座います。

そうですか、筆者も間違って仕舞いましたね。
ですが、其の他の情報から武田氏系青木氏であると見られます。

母方実家丸山家のご先祖も大変ご苦労した事でしょう。武田氏滅亡後の家臣の難行は武田氏系青木氏に限らず歴史的に大変であった事が判っています。
この武田氏系青木氏には4つの流れがあります。
一つは本家筋、もう一つは分家養子筋の青木氏、もう一つは分家の青木氏、この分家青木氏の同族の柳沢氏があります。この柳沢氏も青木氏族です。 この柳沢氏はかの有名な柳沢吉保です。別名青木吉保とも云われています、お家は武蔵鉢形の青木氏ですので、この柳沢吉保とは母が同じの兄弟でした。
正定と豊定と豊勝の3人で、柳沢氏はこの青木豊定が祖と成ります この豊定が神奈川に出て家康の旗本と成ります。その息子が吉保です。その後の吉保は、兄方の正定家とは仲良く付き合いをしています。
吉保は、後にこの兄弟の一族を集めて自分の家臣団として結束を固めてので強かったのです。
お家の正定は、分家の本家の正定で鉢形に移動したのですが、移動後に生き方を3流に分かれます。
1流は藤原氏に、2流は家康に、3流は農民で庄屋地主に成ります。
お家は、この3流のどの流れに成るのか、それを物語るものが何か出てくるのか、興味が湧きますね。

お話のチョトして事でも、判る事がありますので、親族の集まりがある時にはよく聞かれるとよいですね。

では、又、お便りをお待ちしています。