青木ルーツ掲示板
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  [No.921] Re: 函館の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/08/26(Mon) 17:28:51

函館の青木さん 今日は。お久しぶりです。
京都に行かれたそうですが、静かなイメージの都の印象が与えられるかは疑問ですよね。
当然の事かもしれませんが、人を集めて利益の事ばかり考えて、過去の悠久の歴史の雰囲気を感じさせる努力に欠けていますよね。何処へ行っても同じですね。むしろ、名も無い田舎の探索の方が安らぎを感じられます。

それには、お尋ねの様な事をお調べに成り、その前知識で”塩飽”等の地域を探訪もいいのではないでしょうか。

さて、お尋ねの”塩飽”の件ですが、室町期以降の事は”塩飽水軍 ”でネットでお調べに成る事をお勧めします。何故かと云いいますと、室町期以降の事は資料としてはっきりしていますので、簡単に判ります。
ところが、鎌倉期前の事は概容は判りますが比較的研究されていません。
そこで、奈良期から平安期までの情報に付いて知る範囲でお知らせします。
既に、「青木氏の守護神(神明社)−1−22」でこの部分に付いて論じています。
”青木氏に無関係か”と云いますと、そうではないのです。
そもそも、この「塩飽水軍」のルーツは研究室で何度も論じていますが、「後漢 阿多倍王」が引き連れて来た17県民の200万人の180職能集団が「大化期の前後」から難民として上陸し、瞬く間に九州全域と関西までの32/66国を無戦制圧しました。
この200万人が後に帰化し、在来民の生活向上に大変功績を残しました。
現在の第一産業の基礎はこの進んだ後漢人の技能がもたらしたものですが、孝徳天皇−天智天皇の時にこれらの後漢の帰化人の技能集団を各地に配置しました。
この時、この中国地方に配置されたのが、陶器を作る職能集団の「陶部」と、海の産物を取りそれを水産加工する職能集団の「海部」です。陸は西域の中国地方に「陶部」が勢力を持ちます。
「海部」には、船等を操作する集団、水産物をとる集団、海産物に加工する集団に別れますが、在来民を支配下に入れて技能を養成し、後には室町期中期には日本最古と見られる「姓氏」と成って独立しこの瀬戸内を支配しました。
これらの後漢の帰化人の技能集団の首魁「阿多倍王」は、南九州の隼人大隈に拠点を構えました。
在来民を巻き込んだあまりの勢力であったので、危険を感じた朝廷は「720年代」の頃、この「帰化人の勢力」を排除しようとして、この拠点攻めますがあまりの強さに失敗します。
その後、何度が攻めますが全て失敗します。
朝廷は、結局、攻める事は無理として、今度は、この民に技能を教授して慕われている集団に対して懐柔策に出て、この隼人大隈を半国割譲して「阿多倍王」に正式に領土を与え、拠点として認め与えます。
更に、彼らの渡来人(帰化人)の力に依って政治と経済が安定した事を理由に朝廷は、この「阿多倍王」と父親の「阿智使王」と共に都に呼び出します。
そして、「伊勢北部伊賀地方」を(青木氏が守る伊勢国を)半国割譲して正式に与えます。
次には、この「阿多倍王」に「敏達天皇」の孫の「芽淳王の女」を娶らせます。
そして、最後には、朝廷の官職の「准大臣の官位」と「従五位下の官職」を与えました。
この時の朝廷の官吏の6割は、この「阿多倍王」が率いて来た職能集団の「史部」が占める事に成っていました。この官吏の「史部の集団」の首魁は「阿多倍王」の父親の「阿智使王」が率いていました。
皇族との血縁関係を持ったこの伊勢北部伊賀に住んだ「阿多倍王」には3人の男子が生まれます。
そして、この3人の息子は力を発揮して、奈良−平安期の朝廷の政治機構3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内の「大蔵」と「内蔵」を牛耳ります。(斎蔵は藤原氏)
そして、この3人の子供の長男には、「坂上氏」を賜姓し朝廷の軍隊を任せます。
次男には、「大蔵氏」を賜姓し朝廷の一切の財政を任せます。
三男には「内蔵氏」を賜姓し天皇家の財政を任せます。
更に、「阿多倍王」の他の親族には、阿多倍王の阿と倍をとり阿倍氏を賜姓し、朝廷の学問や総務の職能集団の「阿部」を任せます。
ここまでは日本書紀と遺された歴史上の史実とで経緯は構成されます。
ここから歴史上の遺された有名な史実と繋がって繋がって行きます。
ここからはネット上でも判りますのでそちらをお調べください。

さて、「塩飽水軍」までの経緯を更に続けますと、先ず、上記の長男の坂上氏は彼の有名な征夷大将軍に任じられて「阿多倍王」の軍を率いて「朝廷軍」として日本全土を制圧した坂上田村麻呂(806年)です。
兄弟の様に仲の良かった「桓武天皇」とタッグを組んで平安初期の難しい時代を乗り超えました。
(天皇を守り警護する近衛軍は「青木氏」 「桓武天皇」は「伊勢王施基皇子」の長男の「光仁天皇」と「阿多倍王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供)

次は、次男の大蔵氏は九州全土を任され「宿禰族」に任じられ、9代目の大蔵春実は瀬戸内の支配をも任されて、「藤原純友の乱」を沈めた功績で「錦の御旗」と「国刀」を授かります。
正式に九州全土の支配する別府の「太宰大監」に任じられて、「遠の朝廷」として軍事、政治、経済の自治権を獲得します。これが「春実」−「種光」−「種材」の3代で築き上げます。
(種材は仁王様のモデルにもなった豪傑で大政治家)
薩摩の島津氏を除き九州の豪族の殆どはこの大蔵氏の血筋を引いています。
この「塩飽水軍」には大いに影響のある「大蔵氏」なのです。

最後は内蔵氏ですが、東北地方6県の地域を勢力範囲に治め、その末裔には歴史上に出てくる有名な阿倍氏、安倍氏などが有ります。

1 関西以西32/66国の統括支配権を持ち伊勢北部伊賀に半国過剰の国に住む首魁の阿多倍王の宗家、
2 関西に末裔を広げ高級官僚の首魁と成った阿多倍王の親族の阿倍一族

3 九州全土自治権と中国地方の支配権と瀬戸内海域の警察権を保持し勢力圏として正式に治めた大蔵氏
4 首魁阿多倍王の支配下にあった中国地方の陸族の「陶部」と瀬戸内の海族の「海部」

5 讃岐地方を根拠地として瀬戸内の政治的支配権を保持していた「讃岐藤氏」の藤原氏と青木氏
結局、この5つが「塩飽水軍」に関わってきます。

では、先ずその関わりに付いてこの5つを繋いで概容を説明します。
ここで「阿多倍王」はかなりの高齢で没しますが、「高望王・平望王」等と「平尊王」などと呼ばれその功績から賜姓を受ける事に成ります。
関東には、天皇が変わるたびに出る「皇族の第7世族」が関東に配置されますが、この下族し平に成った「第7世族」に対して、代々平族(ひら族)を賜姓しました。
(「坂東八平氏」と呼びます)
この「第7世族」の「ひら族」に準えて、天皇家の間接的血縁を持った「阿多倍王」の子孫に対しては、同じ「平族」として「たいら族」の賜姓を桓武天皇はしました。
(「青木氏の賜姓」を止めて賜姓した。)
この「たいら族」を「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」と呼ばれました。
朝廷が名づけた「平尊王」の”平”からこの様に呼ばれました。
(阿多倍王の年齢から「後付」と観られている)
その子(孫)に当たる「国香」と云う者が「阿多倍王」の勢力を以って関東に進出して「令外官」の「押領使」(警察軍)として配置されます。
そして、同じ関東に配置された同族の「平将門」は関東に「独立国建国」の乱が起こりますが、この時に説得と鎮圧に出た叔父の「国香」を殺害します。
ところが朝廷は、この乱を鎮圧できません。関東周囲が「たいら族」の一門で抑えていた為に誰も様子を見て手を出しません。群馬付近には清和天皇の孫の「経基」らが国司として居ましたが、乱を鎮圧できなかったのです。むしろ、経基等は将門の行状を天皇に讒言して密告して罪を被せて潰そうとしていました。
結局、関東の同じ押領使で中間にあった「特別賜姓族青木氏」の元祖と成った「藤原秀郷」が、朝廷に対して貴族の身分と武蔵国と下野国を領国とする事の2つの条件を出して鎮圧に当たります。
国香の子、平貞盛は父の仇を打つ為に親族の将門を打つ事にやむなく立ち上がります。
この二人は「平将門」の建国乱を鎮めます。
この「平貞盛」はその功績から朝廷に引き戻されて重く用いられます。そして、その5代後に平清盛が太政大臣に成ります。
この過程を継続して数年の前後して、再び、「阿多倍王」の支配下であった瀬戸内の海の「海族」の「海部」らを上手く統治して勢力を得ていた「讃岐藤氏」の藤原氏の伸張を警戒して、経基や摂関家の藤原氏等は、この「讃岐藤氏」を潰しに掛かります。
(「西の讃岐藤氏 東の武蔵藤氏」と呼ばれた)
つまり、早くから力を持った「西の讃岐藤氏」を潰しに掛かったのです。
東は「将門の乱」後の関東の「たいら族」の衰退で、この事件で勢力を拡大し、逆に「東の武蔵藤氏」が伸張する事に成って、中央の「摂関家」は弱体化して、”元の木阿弥”と成った「2つの事件」であったのです。

(「讃岐藤氏」は中央の「摂関家」の云う事を聞かなかった状況にあった。「藤原氏四家」は、勢力争いで云う事の聞かない式家、南家、京家を、「北家」に依ってこの「三家」は潰された経緯がある。)

”瀬戸内を制する者は国を制する”と呼ばれていたこの海域の「経済力」と「海域軍事力」を得た者が国を制するのです。それを「讃岐藤氏」は獲得したのです。
別に云えば、瀬戸内の民のこの「海族」を得た者が国を支配すると云う事に成ります。
従って、この瀬戸内には国の権力者の利害思惑が渦巻きます。
「阿多倍王」が後漢から引き連れて来た「海部」等の海族の「経済力と海域軍事力(海賊ではない)」を味方に引き入れ得た「讃岐藤氏」(讃岐の藤原氏)を潰しにかかったのです。
同じ様に、関東の陸と海の富と民と周囲の勢力を集めた将門に対し、それを妬まれ難癖を付けられた「平将門の乱」と同じ事が同時に起こったのです。
この「2つの乱」のきっかけを起こした人物は、つまり、両方の乱を讒言で引き起こしたのが、後に、これらの「讒言」を功績と認められて、源氏の賜姓を受けた清和源氏の始祖の源経基なのです。

(元々、経基は、臣下する第6位皇子に与えられる賜姓と朝臣の身分を欲していたが、対象外の権利のない「清和天皇の孫」であって第6位皇子でもなかった。その為に何らかの功績を獲得しなければならない事情下にあった。そこで、二人に対して妬みからの讒言を天皇にした。これを知っていた清和天皇はなかなか賜姓に応じなかったのです。)

然し、ここで、これに危機を感じていた同族の2つの勢力、九州全域と中国地方の陸域を勢力圏に治めていた「大蔵氏」と、それを指揮する朝廷内に藤原氏に並ぶ勢力を保持しかけていた同族の宗家の「平氏」は間に入って邪魔をします。

(経基の讒言を利用した。その様に仕向けたと観られます。大蔵春実の行動がタイミングと準備と処理があまりにも完璧で良過ぎるし、天皇そのものがそのあまりの良さの勲功に驚いていて、その勲功もあまりにも良過ぎる。)

そして、「讃岐藤氏」を弱め、「瀬戸内の警察権」を取り戻し獲得しようと合作します。
これの発端に成ったのが「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」です。
この鎮圧に経基と摂関家も関わりますが、「大蔵春実」は、これらの朝廷派の勢力を封じ込めて、純友と元々支配下にあった「瀬戸内の海族」の切り離しに成功します。
この大蔵氏は「純友の乱」を上手く利用して処理して、朝廷よりその勲功により瀬戸内の全域の海域の警察権を獲得し取り戻します。
純友には、”「海賊」と仲間になった”として、「個人的な罪」として処罰され、「讃岐藤氏」は藤原一門である事から遺し、その経済力と海域軍事力も取り戻します。

(春美は純友個人に罪を着せて全体を救った。そうしなければ元の支配下であった海部の海族を罰しなければ成らなくなり、海族を元の支配に戻しても反発を受けて収まらなくなる事を懸念した。純友も納得した。その証拠が純友神社等の動きである。)

(「海族」の海部等は「海賊」と讒言され決め付けられた。 「海部」は「純友」を慕って後に「純友神社」を瀬戸内の各地に建立した。)
そして「大蔵氏」は歴史上唯一氏に与えられた「錦の御旗」を以って九州から中国地方を正式に、且つ、実質の大領域権とします。
この財産を引き継いで朝廷内に食い込んで行ったのが、伊勢北部伊賀に拠点を置いていた宗家平氏となった「たいら族」の5代目清盛なのです。
この清盛は播磨の国を拠点として、この瀬戸内の経済力と海域軍事力と、更には同族の大蔵氏の「太宰大監」までも上手く獲得します。伊勢の宗家がその後に「大蔵氏の支配権」(太宰大監の上司の形式を採る)を正式に獲得します。
そして、この後漢から引き連れてきた「瀬戸内の海部」らの「海族」を使って清盛は「宋貿易」をするのです。関西以西を政治、経済、軍事の3実権を握ったのです。
この「瀬戸内の海族」は、元の状態に戻して宗家の「清盛の基盤」と成ったのです。
現実に、”瀬戸内を制する者は国を制した”のです。

一方、この時、「讃岐藤氏」は何とか生き延びます。一族の経済力は低下しましたが、この時、「讃岐藤氏」一族を率いていた「讃岐青木氏」は、讃岐宗家に代わって、ここより四国西域と瀬戸内の四国側をまとめて勢力を盛り返しに掛かります。
それは、「純友」は悪者に仕立てられましたが、「純友の善政」に心底から慕っていた「瀬戸内の海族」の南域四国側に住していた一部は、後にこの「讃岐青木氏」に従い「生活の基盤」を取り戻します。

彼等は、軍事力を獲得すると海族同士の争いと成る為に、この四国側域の海族は経済力のみの範囲に留めます。
「讃岐青木氏」の保護の下で「海産物の生産」とそれの販売業をし、海族としての「讃岐青木氏」の「廻船業」を手伝います。
つまり、これが後の中国側の瀬戸内に「海部氏」、四国側の瀬戸内28島に「磯部氏」が室町期中期に発祥します。これが歴史上の日本で庶民から出た「最古の姓氏」の発祥です。
(磯部は一部は駿河沿岸部に移動定住した)
さて、平族は、清盛死後、この「瀬戸内の海族の勢力」を率いて、源平合戦の「壇ノ浦の戦い」と「三浦沖の戦い」に挑んだのです。この結果、敗戦した「瀬戸内の海族」は元の二派に分かれるのです。
これが、中国側に「村上水軍」、四国側に「塩飽水軍」になって分かれたのです。
海部の海族は、敗戦後に「海部族」と「磯部の塩飽族」に分かれるルーツは次ぎの様に成ります

阿多倍王−山本直(大蔵氏初代)−・・・−春実9代目−種光−種材(1020)−光弘−種弘−種輔−種貞−種嗣−義種

種輔−種貞−種有(大蔵姓)−種資  
種輔−種貞−種嗣(大蔵姓)→義種
種輔−種平−種直(原田姓 3人は太宰大監 岩戸少卿の系−種直は清盛の時 原田種成)

(春実より種直までの「岩戸少卿」は瀬戸内全域の警察軍事権者 )
(種貞−種嗣までは「右馬允」で補佐 義種で官職ではなく、実質の「瀬戸内族の首魁-頭」と成る)

義種−第2子−海頭弥太郎→海部族を率いる (第2子の名前不明 大蔵氏から外れて海族の頭に)
義種−第3子−塩頭弥太郎→塩飽族を率いる (第3子の名前不明 大蔵氏から外れて海族の頭に)

義種−義親(九州 長嶋氏の祖 鎌倉時代 「元寇の役」の後に)
(義種が「海族の統括者」であった)

(「左馬允」と「右馬允」は朝廷の官職で、本来は天皇の前の左右を警護する警備役名で、少卿を補佐する役柄 左馬允が上位 後に大蔵氏の呼称姓とした)

この「塩飽水軍」の多くは、その後、室町期後期には「讃岐青木氏」(2足の草鞋策 廻船業)と共に生き、瀬戸内の海産物の殖産業と廻船業で昭和23年まで続きます。
この間、「塩飽族」は、「讃岐青木氏」と共に、信長、秀吉、家康に味方して生き残ったのです。
現代の日本の「造船術」と「操船術」は、この瀬戸内の海族の「塩飽水軍」のものが基礎となっているのです。
第2次大戦の世界に響いていた「日本の海軍力」の操舵法は「讃岐青木氏」に守られたこの「塩飽族の水軍」のものであったのです。
何故ならば、瀬戸内のこの二つの同族の水軍の「村上水軍」と「塩飽水軍」の生き方に左右されたのです。「塩飽水軍」は政治的な勢力に傾かなかった事に有ります。
それは「讃岐青木氏」と繋がって廻船業に純粋に従事した事に依ります。
純粋に操舵技能と造船術に従事した事に因ります。
例え、足利、信長、秀吉、家康に水軍として利用されたとしても、それはあくまでも”雇われの操舵術の範囲”を超えなかった事にあるのです。
だから、鎌倉期から昭和期までその「操舵術」はどの勢力にも採用されたのです。
有名な「鉄砲の雑賀族」の様な「生き方」をしたのです。
これが出来た裏づけは、「讃岐青木氏の経済的な裏づけ」が彼等にあったからなのです。
人は「経済的な背景」が無ければどうしても政治的な背景を求めて安定しようと働くのが条理です。
「讃岐青木氏」と「讃岐塩飽氏」は、この「水軍の力」を使って広島から島根の日本海まで子孫分布を広げています。
「青木氏」から調べた「塩飽水軍」の内容ですが、「塩飽族」は庶民であった事から、磯部氏、海部氏、など海や船にまつわる姓の「姓氏」を名乗っています。
その元は日本最古の姓氏の「海部氏」に辿りつきます。
恐らくは、長い歴史を持つこの「讃岐青木氏」とこの「海部族氏」と「塩飽族」等とには血縁関係を持ったと考えられます。

上記の詳しい事は青木氏の研究室の青木氏の守護神(神明社)」などの論文に詳しく記述していますので、そちらをお読みください。
但し、投稿欄のメモリー容量の制限があって、仕方なく論文が膨大になる為に、”塩飽水軍”の固有名詞は、海族としてのみにして、使用していません。

ご質問ありましたら、知る範囲でお答えします。
然し、青木氏外の事に成りますので、「姓氏の範囲」の奥深くまでは把握できていません。

お家は、確か「三つ柏紋」で信濃であったと記憶していますが、柏紋は「神職の青木氏」で、特に陸奥から後には、更には北海道までも「神明社の神職」として移動していますので、恐らくは「信濃青木氏」と考えられます。そのお家が、何故、「塩飽水軍」に御興味を持たれてお尋ねになったのでしょうか。
観光で知った事のお尋ねですか、
実は、この「讃岐青木氏」は昭和の戦後に一部北海道に渡ったとする記録もあります。
そちらのお尋ねでしょうか。

兎も角も、この様な歴史上の事を知って旅するのも当時の「人の葛藤や生き様」が頭の中に蘇り、楽しい旅となる秘訣ですね。歴史のドラマを見ていても奥が深くなり人より楽しいドラマとなりますよね。あぁあそこは描きが違うな、間違えているなとか、浅いなとか思いながら楽しめます。

では、又、何かありましたらお尋ねください。知る範囲でお答えします。



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