青木ルーツ掲示板
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  [No.923] Re: 函館の青木
     投稿者:福管理人   投稿日:2013/09/09(Mon) 16:50:30

函館の青木さん 今日は。
何とか秋らしくなってきましたが、今年は異常気象で大変でしたね。

そこで、余談として、筆者が関わった物理学から先ずは次の説を披露したいと思います。
ゆっくりとお読みください。
マスコミでこんな難しい事は云わないですからそのつもりでお聞きください。

300年に一度来る地軸回転による北極側の空気の動きが変化して、その動きを300年に一度修正する時期に来ていることが考えられますね。
丁度、3世紀の”邪馬台国の卑弥呼の時代”にも起こったと観られています。果物などの化石からこの事は判っています。
そもそも、卑弥呼の出現は、この異常気象から卑弥呼の「自然親−鬼道神」がその超能力によりその異常気象の気候の変化を毎日予言して、穀物の収穫を改善した事から、卑弥呼が信頼されて巫女となり、遂には、その飢饉で互いに戦っていた各地の豪族が、あまりにも当たる”卑弥呼の予言やお告げ”があたる為に、互いに争いを止めて「九州の政治連合体」の王と祭り上げられた事が所以と成っています。

そこで元に戻りますが、普通は地球のマッハ2くらい速さの自転に依って、地軸に沿ってその周りの空気が回転しています。この回転が北極側の周囲で本来は3つの空気のウエーブを作るのですが、それが次第に乱れて、そのウエーブは位置連れを起こしながら最終は5つのウエーブを起こします。
このままではその空気のよどみのウエーブは際限なく増えて行こうとしますが、そうすると北極側にある空気の層は破壊します。
そこで、それを元の3つのウエーブに戻そうとして、エネルギー保存の法則に従って、その空気の層の入れ替えが起こるのです。北半球側でそのウエーブの5つになった一つが南側に大きくせり出して空気の回転にブレーキを掛けるのです。
このために押されて南半球側の空気の層がひずみ、亜熱帯の気候が押されて一部北半球側にせり出す事に成ります。
これが海流や亜熱帯の空気層に影響を与えますが日本付近に淀む結果となって異常気象が起こるのです。
当然にこの現象は300年から400年前に比べると、地軸の傾き23.4から23.8に変化していると云われていますので、その影響も大きく受けてこの現象が加速される事に成ります。
この地軸が0.5度傾くと太陽の周りの円運動の公転は楕円形になり、その為に中心の太陽に対して通常の円運動より太陽に近いところが出来、又遠いところが出来ることで、更に暑さと寒さの寒暖差は大きくなる事に成ります。これが夏はAVE32℃から35度へと変化しているのです。
冬も同じで−約3度差の変化が起こっているのです。
この変化は地球が軽くならない限り戻せません。突き詰めると1650年頃から比べると、地球には唯一無から有を生じさせている人間の量が10倍以上に成っていますので、地球は重くなり加速度が大きく働きます。それに見合った地軸が傾いているのです。
この現象は”こまの回転原理”と同じです。
そうする、この地球重量の増加現象から唯一増えるものがあります。それは生物が吐き出す作り出す炭酸ガスです。文明が高くなれば当然にこの炭酸ガスが増える仕組みです。
普通、地球に対して適度の炭酸ガスであれば、地球の8割は海ですから、空気より2倍程度重い炭酸ガスは海に流れ込んで加湿されて吸収されてしまいます。
(空気28.8 炭酸ガス系42程度 Co Co2 Co3 H2Co3 H2Co4と変化して行く)
ところが、この吸収される速度以上に炭酸ガスを這い出すために余ったものは地球の表面に滞留する事になります。空気より重いのですから、人間が作り出す余計な炭酸ガスは傘の形になって太陽の熱を地表にとどめてしまいます。そして、熱は地表と海面を暖めて滞留する事に成ります。
これが、更に、上記の現象に熱の影響を与えて余計に亜熱帯化しているのです。
地軸が0.5度傾くと傾いた分だけ赤道上にある熱気の塊はより北上する事に成りますから、空気中の水分や海水温で蒸発した水分が北側にせり出してくる事になります。
この相乗結果から、夏冬の寒暖さ、季節の地表と上空の寒暖差が大きくなる事に成ります。
普通は、エネルギー計算から35度程度が限界とされていますが、これが40度差と成っているのです。
上記の自然現象のこの3度を修正することは増えた地球重量を減らす事に成りますので無理でしょう。

(計算では85億から95億位までが第1の標準限界値と見られます。ここからは標準を超える値となりますのでいろいろな異常な自然現象が起こる事が予想できるのです。現在はこの第1の標準限界に達しつつあると観られます。異常現象が起こり始めるポイント域と云えます。)

そうすると、炭酸ガスによる熱の影響の2度を減らす事で何とか成るのですが、これが難しいのです。
文明の近代化の為に、その増えた人間の量の食料分を賄える事になっているからです。
しかし、これも人間の重量を減らす事は出来ないことから無理と成ります。結局、無理なのです。
恐らくは、最終は、温度上昇に依って低空気中の”水分の不足”から、最後は人口が減る自然現象が起こると考えられています。そうでなければ地球重量が増え続けると、地球の加速度が増し、その遠心力で地球上の人間を含む物質は、引力<遠心力の関係から地軸の回転で制空圏の方に空気中通してに飛ばされて行く事に成ります。まさに人間ロケットです。
その前に軽いものから飛ばされますので、先ずは地球の一番外側にあるものから飛ばされます。先ず空気や水分です。次第に重いものへと繋がって行きますが、その前に、水分の枯渇から益々地球上は過熱化して行き、ついには生きて行くことは生物にとって不可能となります。
この時点で、再び地球の重量は戻り次第に自然の環境は取り戻されてゆく事に成ります。
この時、海の水分が残っていれば再び地球を冷やす事に成りますし、海水中に含まれる空気が地球の表面に湧き出てきます。しかし、この時には人間が恐竜の様に絶滅する事に成るかもしれません。
恐竜の絶滅原因は隕石と成っていますが、隕石の衝突の影響で直接死んだ訳ではありません。
(火星もそこの経過を辿ったとする説があり、この時に飛び出した水分と火星の生物が地球に届いたとする説があるのです。最近の火星の研究から判明説)
筆者はこの説ではないかと観ています。
隕石が地球に当たる事に依って上記の様な現象が起こったと考えられています。

(そもそも、大隕石が地球に当たると回転している地球には耐えられない大ひずみが起こり、亀裂してそれに地球の加速度の影響が加わり、それが亀裂は走り続け地球を分解させてしまう筈です。
又、この隕石に含まれていたとされる「地球の水分量」が何処から来たのかの説明もつかないのです。
最近の間研究で、この水分量は上記した原理により火星から届いたのではないかとする説が生まれて来たのです。生物が火星から来たとする説はこの事を意味しています。故に隕石に含まれていたとする水分が隕石より多くなると言う原理が成立たないからです)

この様に隕石だけでは説明がつかないことが多いからですが、上記の説では全ての現象が説明できるのです。
兎も角も、後は、地球の気候変動は300年周期の時期を越えるのを待つだけです。
北極には、炭酸ガスの影響は少なく、極点にはエアーポケットが出来るくらいですから、この重い炭酸ガスは集まりません。自然周期300年期の自然上昇熱で北極−南極の氷も解けるのもこの現象から来ています。
付け加えれば、自転の変化で地球に働く遠心力の影響で遠心力が強く、海底の地殻にひずみが大きくなり地震もこの周期に沿っているのです。そして、地震の場合もこの300年の間に矢張り3から5回の大中地震が起こるのです。
そうすると、卑弥呼の3世紀前から起こったとすると、2013年頃は7回目の直前の年を過ぎた時期に入ります。異常気象現象が各地で起こる事に成ります。
この理論から観ると、ウエーブのよどみが修正されはじめてくるのはもう少し期間を見る必要がありますね。

さて、これを論じていると際限がありませんので本題に入ります。
歴史も上記の現象と同じで、小さい周期性を持っています。人間の生き様も同じです。
室町期中期までの事は前回お答えしました様に、大蔵氏の義種の末裔がこの塩飽族の頭に成りますが、この後は、その操船技術を買われ、足利幕府、信長、秀吉、家康の支配下に入ります。
明治期には、日本帝国海軍の操船術は、この末裔が引き継いだ操船術が基本になっているのです。
日露戦争の海戦での讃岐の秋山真之の事でも有名ですね。
瀬戸内海の海流の速さと同じ朝鮮半島との間の海流の早いところでの決戦としたのもこの塩飽族らの操船術があったからなのです。
この様に海洋族の日本の操船術は優れていたために、侮っていたロシアに日露戦争の海戦で大国の海軍術に勝てたのです。この塩飽族や海部族の海族がもたらしたものですが、その後、末裔は幾つかに枝分かれしますが、天正時代から明治初期の時点では、塩飽族は次の「4つの姓氏」によって構成されています。
宮本、吉田、真木、入江氏の4氏です。

(この4つの姓には共通の由来を持っています。それは「神社」です。宮本氏は神社の氏子代表が用いた姓です。吉田氏は朝廷の神職の官職の奈良期からの氏名で神職に大変多い氏です。真木氏は神社が用いる神木の真木の木で神職系の姓です。入江氏は古来より神が好む宿る場所として神社が創建される場所は入り江の丘に建てられたのですが、神職系の姓です。何れも神職系の氏姓名です。
何故この様な神職系の氏姓名を使ったのかは不明ですが、塩飽族は前回のレポートでお答えした様に彼等の首魁であった「藤原純友」を慕って建立した「純友神社」の下に姓を求めたのではないかと推測されます。)

この中でも、宮本氏が最大勢力を持っていたそうで「頭目役」を務めていたとされます。
つまり、「氏子総代」、又は「禰宜」、「権禰宜」を勤めていた事が判ります。奈良期古来からの日本最古の由緒ある神職氏の吉田氏を名乗っている事に注目しています。
その「頭目」となると、この宮本氏が当然に大蔵氏の義種の末裔の”塩頭の弥太郎”の末裔と考えられます。この4氏は全て血縁関係にあった事が判ります。
従って、海部氏と同じく少しあとでの1560年代に姓氏の宮本氏を名乗っています。
この塩飽族の4氏の系譜の末梢族と見られますがその繋がりは判っていません。
これら4氏の枝葉末裔が、その術を買われて最も各地に広げています。その一つが陸奥の国にもあるのです。これは讃岐青木氏の行動範囲からの末裔分布で判るのです。つまり、行動範囲を伴にしていたことを意味します。讃岐青木氏が行くところには彼等の4氏の何れかが同伴した事に成ります。
その都度、4氏の中からその末裔が選ばれて行く掟の様なものがあったと観られます。
讃岐青木氏と4氏から観たものでは、備前備中地域や、越前越中越後陸奥域までの記録があります。
この中でも、記録で観ると、讃岐の筆頭の本家の宮本氏が江戸初期前後に養子を迎えてますが、この頭目と成った養子が一時、東北の方に移動したことが書かれています。
そして、当初3年の予定であったらしく、結局は戻らなかったとされ、”退転”と云う言葉で表現されています。更に、因って、結局、”本家は分家の者が引き継いだ”と記されています。
この”退転”したとされる頭目の跡継ぎの者が、この弘前藩に操船術で召抱えられたのではないかと考えられます。
それがお便りの「塩分町」(塩飽族の宮本氏)で、「青木屋・・左衛門」(讃岐青木氏)となると考えられます。

実は、この事を補足証明する事があるのです。その迎えられた理由に付いては、先ずは、弘前藩の記録には、最北の小藩の津軽氏の弘前藩は、この1648年前後の時期には、2度の「藩政改革」を実行して、その為に利権を争う勢力争いが起こり、その前に家臣がお家乗っ取り事件も2度も起こしています。
これらの一連の有名な事件に加え、この時期に幕府が出てきて裁定を下すほどの更に2度の大事件を起こしています。
この結果、その2度の事件に関わった者は、喧嘩両成敗の裁定で、中心人物は一時、山口の毛利氏や伊予讃岐の松平氏にお預けの身となります。
この藩政改革の中で、その利権争いの原因となったもので、幕府に対して、”弘前藩の廻船業”と、江戸などへの定期航路の”運航許可”を申請し、それが幕府から認可されています。
争いを起こしている北の小藩に対して、況して何度も事件を起こしていながら極めて重要な申請を受け入れているのです。先ず、この時代の幕府は大名を抑え締め付け減らす裁定を下している環境下です。
大いに疑問です。
この時期を挟んで、小国の津軽氏の弘前藩は、この事に依って莫大な利益を上げて、幕府に対する献金も増えるだけでは無く、その為に所領も増えているのです。
この事から莫大な利権争いの事件が続けて起こったのです。何かが藩政改革の中で決定的な事があった筈です。
この時に、お預けの身になっていた津軽氏のこの藩政改革実行派の中心人物が、地元伊予讃岐の松平氏の許可を得て、弘前藩に藩政改革の切り札を送り込んだと観られます。
その一環として上記の弘前藩が「2速の草鞋策」で行った藩政改革の切り札、即ち「廻船操船術」の為に招かれて、塩飽族の宮本氏の上記の退転者が本家の一族を率いて弘前に移住したと考えられます。
当初は3年の計画で基礎を構築して後に戻る計画であった様ですが、結局、何らかの理由で定住してしまった事に成ります。
そもそも、津軽氏はもとより宮本氏だけではこの様な利益を上げる事は当時の社会慣習から不可能です。
大物が率いていた筈です。疑問です。

しかし、その前にここで更に疑問が残ります。
本来、お家騒動は掟として「廃藩の憂き目」にあう筈ですが、”御咎め無し”の喧嘩両成敗で済んでいます。北の小藩で、且つ、大広間にも出られない「家の格式」の低い藩ですが、”廃藩”がなかったのです。
むしろ、後に所領を増やすという事が起こっているのです。
何かそれに見合う利得が幕府側にあり、それを執り成した大物者が居た筈です。
これは、後に判ることなのですが、実はこの”廻船業の利益の献納”があったからなのです。
これは当時の身分制度と社会構造からして、到底に宮本氏の操船術だけでは成しえません。
その操船術には何かの廻船業の莫大な利益を生み出す「ノウハウと組織」が付いていたからこそ成しえた筈です。
その証拠にはこの事件以前にはこの歴史の浅い小藩の弘前藩の経歴の中に、この廻船問屋の履歴はありません。
このことはお預けの身になった藩政改革の中心人物に、伊予讃岐の「松平氏」の仲介を得て、瀬戸内を牛耳っていた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」の廻船問屋の紹介があったのです。
そして、この讃岐青木氏の力を使って、弘前に廻船業とその産物を商う2速の草鞋策を敷いたのです。
そして、問題と成るお家の藩政改革にこの「2足の草鞋策」を改革の中心に据えたのです。
其処から生まれる利益の一部を幕府に献納する事に依ってお家の安泰を図ったのです。
幕府にしてみれば赤子の手を握る程度の小藩ですが、この献納金の魅力が大きく、伊予讃岐の松平氏の口添えもあり、利権争いから来るお家騒動の2度もの事件に目を瞑った事になります。
讃岐青木氏と行動を伴にしていた宮本氏の移動は、この時のこの中の一連の手順の一つであったと観られます。
故に、喧嘩両成敗の裁定で終わったのです。
小藩の津軽氏が単独でこの様な商売で莫大な利益を上げ献納できることはあらゆる面で不可能です。
讃岐青木氏の全体のノウハウと組織があったからこそ成しえたのです。
昔は何度も研究室の投稿で論じている様に、彼等の豪商の支配下にあるシンジケートがなくては物を動かす事はこの時代は無理なのです。
産物の仕入れや梃子の調達などあらゆる商いに伴う準備は塩飽族の宮本氏には無理であります。
これに讃岐青木氏が伊予讃岐の松平氏の2氏の仲介で関わったのです。
讃岐青木氏、伊予讃岐松平氏、津軽氏の3者共にどちらに執っても利のある話であったのです。
其れも、事件後すぐではなく、この裁定の時期が2つの事件終了後の2年後なのです。
津軽氏と讃岐青木氏との廻船業と殖産業と運行業の3つが上手く行くかの様子を幕府は見た事を意味します。

それだけに幕府にとっては献納金は魅力であったのです。恐らくは、この青木氏らの結果を見てからの裁定と成った事に成ります。
治世を司る伊予讃岐の松平氏と、地元瀬戸内を支配する最大豪族讃岐藤氏の讃岐青木氏との関係を保つ事は両者に執っても最大の眼目であり、地元の廻船問屋の北への拡大は伊予讃岐松平氏にも利が大きかったのです。
現存する讃岐青木氏はこの廻船問屋を昭和20年まで続いたとされていますし、この間に陸奥と北海道にも廻船業の支店として移動定住した末裔があったことが判っています。
この時、讃岐青木氏は塩飽族を抱えて廻船問屋を営み、瀬戸内全域はもとより、島根の宍道湖のところまで末裔を移して定住させて、松前船で知られる様に、日本海側周りの海産物も取り扱う廻船問屋をも拡大して手広く北海道までも運航していた事が記録されています。
明治期の北海道開拓には勢力を注いだ事が判っています。
筆者の総合商社を営なんでいた伊勢青木氏とは、明治中期までの商いでの付き合いがあり、その廻船問屋の行動は赤穂浪士の城明け渡しの時にも出てくる2速草鞋の豪商です。
恐らくは、この讃岐青木氏は秀郷流の同族の陸奥青木氏をも頼り、陸奥青木氏ともこの陸奥に伴に移動した宮本氏の塩飽族との関わりをも持っていた事と考えています。
何れしても讃岐青木氏には、その配下にあった塩飽族の宮本氏も本家−分家で讃岐−陸奥で繋がっていたと観られます。恐らくは、この「青木屋・・左衛門」は讃岐藤氏の讃岐青木氏の末裔と見られます。
現在調べていますが人名の確定が出来ません。
左衛門は賜姓族青木氏の奈良期からの官職ですので、この江戸中期からはだれでもが名乗ってしまった名となっしまいましたが、この江戸初期をぎりぎりには未だ何とか嵯峨期の詔勅の禁令を守っていたことが判りますので、「・・部分」のところを見つける事が必要ですので讃岐青木氏の系譜の中で調べています。
恐らくは、陸奥での新たな証拠は見つけるのは難しいと思いますが、判りませんが、陸奥の塩分町には、この讃岐青木氏の末裔と宮本氏や他の3氏の姓がある程度残されているのではないかとも考えられます。その財力から観て菩提寺を建立している筈ですので、お寺や付近の神明社の神社関係で資料が残されているのではと考えます。
恐らくは、付近にあれば陸奥の讃岐青木氏の一族とその一門とその郎党を祭祀する菩提寺名は「西光寺」ではとも考えられます。
其処には宮本氏の塩飽族の郎党も永眠して祭祀されているのではと考えられます。
しかし、ここまでが青木氏から観た塩飽族の由来です。ここからは判りません。

陸奥青木氏は藤原秀郷流青木氏です。青木氏の大変多い地域で、青木の地名もあるくらいです。
現在は弘前には青樹と変化していますが、元は青木です。変化した理由が明確ではありませんが資料から明治期になってからと考えられます。
左メニューの「地名地形データ」にも記載していますのでそちらもお読みください。

陸奥域から北海道に移動した青木さんは4つのルーツがあり、時代も異なっていますが、おそらくはこのひとつでしょうが、函館の青木さんのルーツがある程度読めてきているのではないかとも思っています。
青森県には次の五氏の青木氏があります。

藤原秀郷流の陸奥青木氏(総紋 下がり藤紋)、越後青木氏(総紋 下がり藤紋)、讃岐青木氏(下がり藤に雁金紋)、陸奥青木氏から出た関氏系青木氏

皇族賜姓族の神職の信濃青木氏(柏紋類)、住職の信濃青木氏(笹竜胆紋)、
北海道に渡った青木氏で記録があるのは関氏系青木氏を除く4氏です。

(関政家を祖とする関氏系青木氏は秀郷流一族に与えられた特別賜姓族の特権を使って後に青木氏を名乗った。賜姓青木氏ではない青木氏で、その末裔は関東に移動経路を採っている)

又、ご質問がありましたらお尋ねください。青木氏からの情報でお答えします。



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