青木ルーツ掲示板
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  [No.987] Re:小平の青木です
     投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/18(Fri) 19:41:10

小平の青木さん 今日は。お久しぶりですね。
お元気のご様子で何よりです。
さて ”小平”の小川氏は「姓族」ですので、「氏族」の「青木氏」とは全く関係ありません。
青木氏の場合は、奈良期から唯一氏名を村名に出来る氏族です。
天智天皇は、全国に氏名を村名にする事を禁じました。
この禁令は江戸期まで護られました。
小川・・は村の地名から採った姓名です。
青木氏とは、「氏族」と「姓族」の先ず大きな違いがあります。
次ぎに時代性が違っています。地名からの姓名は殆どは江戸初期頃からの発祥です。
「諏訪族の青木氏」はこの武蔵に移動して来たのは、武田氏が滅んだ室町期末期です。

以前のご返事にも書きましたが、諏訪族青木氏は一度神奈川に、次ぎにその一部が栃木に移動定住しました。
その栃木の一部が仙台の手前まで宇都宮付近に伸長します。
更にその後その一部が、武蔵の八王子付近に戻って移動定住します。
そもそも、江戸期を含む以前は移動定住は法度で、「国抜け」と云って、その一族が連座制で打ち首の斬罪です。
許可制の期間限定です。(何らかの理由、血縁とか開墾とか、の領主が認める理由があって移動出来るもので、その後に定住するにも許可が必要に成るのです。)

従って、室町期末期に、お家は、秀郷流青木氏の背景の下に後押しを得て、その勢力域を拡げて自領とする動きを見せたのです。
ところが、ある事件(下記)があって、この「八王子」に一部移動した「諏訪族青木氏」は、秀郷一門の秀郷流青木氏の定住地の武蔵の国境にも広がりを見せています。

(八王子は開墾と血縁ですが、お家は小川地区の開墾・殖産が条件であり、この一部が定住を認められたルーツです。)

恐らくは、その多くは「秀郷流青木氏」との血縁関係と開墾を通じて広がったと観ています。

「秀郷流青木氏」の定住地の中に「抱き角紋」の「秀郷流青木氏系」の「諏訪族青木氏」が国境付近に観られるのです。
普通は「棲み分け」と云って争いを避ける為に定住地を区分するのですが、血縁族はそのどちらにも属さない事から、国境に住むのが決まりで在ったのです。
依って、八王子の山間部とか秩父の山間部とか、河川の未開地とかを開拓して定住地を作り出すのです。
小川村も岸村も秀郷一門の自領内での当時は未開の地でした。
村山市一帯は「秀郷流青木氏」の入間の根拠地域です。
お家は、秀郷一門の許可を得て、この自領地の未開発部分の開発の殖産を主導した諏訪族の者であったと観られます。

秩父の山間部と荒川との境に出来た湿地帯、即ち、花園ー小川ー松山ー坂戸ー桶川ー熊谷の領域に囲まれた「湿地帯」を埋めて平地を作った領域で、秀郷一門が行った開墾地で有名です。
ここに、この湿地帯に適した物を植える事に成ったのです。
その殖産が、「養蚕」と「和紙」の殖産を試みたのです。
恐らくは、この小川地域の湿地帯の開墾作業には「姓族」の「小川・・・」土豪が替地として関わったのです。
その殖産には経験者を本庄や宇都宮などからこの殖産能力の持った「諏訪族青木氏」を招いて、行わせたのです。
それがお家のご先祖であった事に成ります。

南の八王子ー青梅ー飯能ー越生ー「小川」ー深谷ー本庄ー北の宇都宮までの戦略上のラインを作り上げたのです。
これがかの有名な「小川開拓」ですが、お家のご先祖は殖産のそれを成したのです。
この村山入間に居た郷士を替地としてこの開拓に差し向けたのです。

実は、その状況証拠として、栃木に伸長したお家の諏訪族青木氏の本流は勝ち取った土地の跡に必ずこの殖産を敷いたのです。
ですから、当然に、この「小川開拓」にも専門家を差し向けた事に成ります。
当時、荒川の上流河川域は良く氾濫したのです。
そこで、上記の湿地帯を埋めて護岸工事をし開拓地としたのです。
江戸時代は更に、水量の多いこの荒川の水を分ける開拓工事をしたのです。荒川分水として有名な河川工事の一つであったのです。

次に第二の状況証拠として、次ぎの事があげられます。
この土木工事は秀郷一門の得意中の得意の仕事で平安期から江戸までこの本職なのです。
比較的知られていない事なのですが、秀郷一門は、平安期から「土木工事プロ」なのです。

「藤原秀郷一門」の元の平安初期の氏名は官職から「結城」で在ったのです。
その最初に住んだ地域名が「結城」です。
鎌倉幕府の頼朝は、この結城氏の能力を良く知っていて、平家が奪っていた結城の領地を秀郷一門に本領安堵して戻します。
この幕府が行う土木工事の能力を高めようとしたのです。
朝廷の土木工事を専門に行う官吏で、今で云う設計から施工まで行う「ゼネコン」です。
有名な事として何と現在の「山陽道」の元はこの「結城氏」が行ったのです。
ですから、「結」・「城」なのです。

このライン上に存在する秀郷一門の豪族を「関東屋形」と呼ばれます,
そのラインが小川で切れていてここを開拓する事で一門の勢力は繋がり安定したのです。
荒川下流域の氾濫も少なく成ったのです。
勿論、経済的な流れが起こり生活は向上したのです。
江戸期には、幕府は秀郷一門に命じて、更にこの北域の開拓整備も進めます。
開拓しても、そこに根付く事が出来る産業を作り出してこそ開拓です。
それが、この湿地帯に適したのが、「桑と楮」であって、その殖産能力を信濃の古来から持っていたのが、諏訪族青木氏でした。
そして、そこに殖産を導いたのでした。この事は幕府の記録にも残っているのです。

特に、幕府は、この小川の「養蚕と和紙」には、「幕府の専売制」を強調して、江戸の中期頃にはその利益が莫大で中国に輸出するまでに成って居ます。
この為に、「専売制の利権」を独占する為に、嫌がらせ等をした為に地元の農民や郷士や郷氏や領主が組んで「利益の分配」で事件まで起こしているのです。

殆どはこの様にして、定住地を開墾してそこを住みかとするのですが、お家も宇都宮に帰らずにここに定住してしまった事に成ります。
その為には、他国の土地を奪って開墾するか、秀郷一門の許可を得て未開地を開墾するかの方法を採るのです。
開墾してもそこにどの様な作物を植えるかも開墾の作業秘訣です。
お家はこの後者で在ったのです。
従って、地主に成れているし、郷士にも成れているのです。お家は本来は「郷氏」の家柄です。
「養蚕と和紙」の何らかの跡が遺っている筈です。
幾つかの記録に依れば、”「桑と楮の殖産」を指導した”と観られますので一度お調べください。

お家の本流の「諏訪族青木氏」は、栃木を制覇して更に仙台のところまで勢力を伸ばして行った前者に成ります。
当然に土地を奪取した後には、上記したライン上にこの「桑と楮の殖産」を進めたのです。
北へ北へと伸長する中で、「諏訪族青木氏」の本流一族は、その後にこの勢力地にこの殖産を根付かせる為にお家のご先祖をここに配置して殖産を進めたと観られます。

小川氏の事に付いては「姓族」ですので、詳細は把握していませんが、半兵半農民から立身出世して力を持った者です。
岸村付近から替地で小川地域に入り勢力を以て地名を姓名にした者です。
その者と一緒にこの「付近の東より」を許可を得て隣接した形で殖産開墾をしたお家であろうと観られます。
お家は、小川の西よりは武蔵7党の勢力圏に近づく事から、無かったと観られますので、全体として小川村として扱われた事に成ります。
ライン上の中での役ですから秩父より東に定住していたと観られます。
従って、それほどに大きな氏の末裔を拡げていない事に成ります。

小川氏は「姓族」で「郷士」、お家は「氏族」で「郷氏」で、その違いが出ているので、小川村付近の記録には出ないと観られます。
その理由は、そのお家の主流は栃木方面にあるからです。
お家はこの小川地域に「殖産の専門家」として配置された家であって、そのルーツを辿れば奈良時代からの「氏族」です。
「抱き角紋」は、朝廷から認められた数少ない「氏族」ですので、本来、「丸付き紋」は無いのです。
信濃から栃木に移動定住して来た悠久の歴史を持つ「正規の諏訪族青木氏」です。
「日本書紀」にも出て来る氏族をご先祖に持っているのです。

(参考に、面白い話が日本書紀に載っています。
それは、諏訪族と青木氏が牧畜と絹と和紙の殖産を作り上げて信濃を開墾して豊かにしたので、天智天皇は特別に朝廷に呼び出して褒美と領地を与えます。
この時、諏訪族の首魁(諏訪族青木氏の母方)が青木氏と共に、天皇に直訴したのです。
やってはならない作法なのです。天皇に話が出来るのは正三位以上の高位の者しか出来なかったのです。
ところが、この首魁は皇族賜姓族の青木氏を背景に、天皇に対して、税が高いので、改善してほしいと直訴したのです。
周囲の者は止めに入ったのですが、天皇は直接聞く事を許して、その結果、税が緩く成り更に殖産が進んだ事が書かれています。
この事で、信濃青木氏は立場が良く成って朝廷からほめられたことが掛かれています。



その女系のルーツを辿れば、日本書紀にも書かれているこの人物の「後漢の人」の信濃の「馬部の首魁」に辿り着くのです。

故に蒙古斑の無い理由は、この「ヒト遺伝子」を引き継いでいる「女系の影響」がお家の中に主流と成って引き継がれ、隔世遺伝にて1/4で蒙古斑が出て来る事に成ります。
お家は女性ですので、この「ヒト遺伝子」を今も引き継いでいる事になります。
大変貴重な生き証人と成りますね。
「男子系諏訪族青木氏」には無い「体」が証明するとは実に珍しく驚きです。
遺伝子から観た絶対的な諏訪族の人の証明ですね。
お家のご親戚は栃木に今でもありますし、神奈川にも、信濃に、諏訪にも健在です。
是非、「珍しい女系の青木氏」は「生き証人の青木氏」ですから、是非引き継いで頂きたいものですね。
青木氏から観ればですが、お家が青木氏を引き継いだ事は、善き判断であった事に成りますね。
「ヒト遺伝子の論文」もレポートしていますのでお読みください。
日本書紀の青木氏に関わる事もレポートしていますよ。是非お読みください。

さて、話を下に戻しますと、何故ならば、青木氏だけは、500人程度以上に成ると、「青木村」の命名権が持っているのです。
現に、お家のご先祖の栃木に移動定住した「諏訪族青木氏」は2か所に「青木村」を形成しているのです。
そして、そこに、「諏訪神社」か「神明社」かの何れかを建立しているのです。
お家は、この一般的には「青木氏の「神明社」に関わりを持ったことから、青木氏の神明社や諏訪神社や菩提寺を建立する力と子孫拡大が500人を超えていなかった事が判ります。
臨済宗は浄土宗系列の支流です。これも納得出来る証拠です。
依って、浄土宗系寺を宗派としているこの事から判る事は、お家が信濃皇族賜姓族諏訪族青木氏である事が判ります。

更に、青木氏には一族の者を祭祀する寺(菩提寺)を建てる権利を持っているのです。
江戸末期まで、神社仏閣は誰ても建てる事は出来ず、特別に許可を得た氏族にしか認められていない権利なのです。
一般の「姓族」には、「寺社の建立権」のこの権利は認められていないのです。
青木氏にはこの「三つの権利」が認められているのです。

(小川氏には姓族ですのでこの権利を保有していません。従って、周囲に寺や神明社がある事はその権利を持っている氏族が周囲に居た事を示します。
秀郷流青木氏は勿論に諏訪族青木氏が周囲に居た事を物語ります。)
小川氏が、村山地区の郷士との事ですが、そもそも村山は秀郷一門の宗家の有る根拠地です。
其処に、武蔵7党と呼ばれる連合体が元から在ったのです。
「武蔵7党」とは弱小集団が互いに連合して身を護る集団です。
その中に丹党等が元から村山入間に郷士(地侍)として住んでいたところです。
そこに秀郷一門がここを根拠地とした為に、この地域の「地侍」は「別の土地」を与えられて、そこを開墾して交換地の土地を大きくもった郷士です。記録が遺されています。
サイトに「郷士」や「郷氏」のことをレポートしていますし、「武蔵7党」の事もレポートしていますのでお読みください。
この丹党から「丹党青木氏」が出ています。この事も詳しくレポートしています。

武蔵の地侍の定義が少し間違っていますが、”役人崩れと主張している地侍”のその地域がやや西寄りの地域です。
「武蔵7党」のそのルーツの主張は「家柄誇張」の江戸初期の搾取偏纂です。
ただ、丹党の「丹治氏系青木氏」だけはそのルーツが確認でき、記録もあります。
これもレポートが在りますのでお読みください。
日本書紀にもお家の事が書かれていますので、レポートしていますのでここもお読みください。

さて,その神明宮はお家の諏訪族を含む単独の「青木氏の守護神」です。
依って、お家は諏訪神社と神明社を守護神と成ります。
神明社には伊勢神宮が親神です。
その意味で「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社」は、「伊勢神宮」に替えて朝廷にも命じられて奈良時代から全国に自氏建立の神明社は500社程建立しました。
「青木氏の守護神ー神明社の論文」にもありますので、お家の生き様が良く判りますよ。これも是非お読みください。

>それから、蔵には昔質屋をやっていたらしき看板と、敷地内に昔蚕小屋跡がありました。蚕は紙に結びつきますでしょうか?

このご質問に付いては、時代性が良く判らないので、難しいのですが、古くから絹は使用され養蚕は各地で行われていました。
特に、農民のみならず、武士に於いても副業として養蚕の「殖産」を行っていました。
直接に作業に関わらなくても殖産として関わり、栃木から神奈川までは桑野が多く見られた事が記録されています。
諏訪族は信濃では元々養蚕が盛んで、且つ、古代和紙の生産でも有名でした。
「古代和紙」は、その意味で「諏訪族青木氏」もこの生産能力を持っていて「桑や楮」の「原材料の生産」に積極的に関わっていました。
筆者の伊勢青木氏と信濃青木氏系一族(諏訪族青木氏含む)は、この一族が殖産に関わった和紙と絹の販売を手広く行っていました。
当然に「信濃諏訪族青木氏系」も逃亡先では武士として生きて行くことは難しく「生活の糧」として色々な職業に就きました。
中には信濃での経験を持ち込み殖産を広めたとされるのが神奈川で海岸沿いを開墾して「桑」の殖産を広めた事が判っています。
又、栃木に伸長した諏訪族青木氏は,その土地にも「桑の殖産]と同じ作業を伴う「和紙の楮の殖産」も手掛けています。
この状況証拠からも小川地区に「養蚕と和紙の殖産」を手掛けたと観られます。
秀郷一門にとっても諏訪族青木氏のこの行動は非常に重要な「戦略上の事」であったのです。
奪った土地になにもしないと云う事は治政から許される事ではありません。
武蔵の「秩父の小川村」は「小川和紙」として昔から有名ですね。
因みに青木氏に関わる地域では、全国和紙に関わる地域は、平安期からのものとして20か所に成るのですが、その内、14か所が和紙の生産地なのです。
如何に青木氏が一族が和紙に関わっていたかは良く判ります。

和紙の生産地
紀伊、伊賀、近江、美濃、・信濃、甲斐、ーー皇族賜姓青木氏
上野、下野、・武蔵、上総、越前、越中、越後、美作ーー特別賜姓族の秀郷流青木氏、

養蚕の生産地
・信濃、甲斐、美濃、
上野、下野、・武蔵、上総

この様に室町期からの時代を合わせると、養蚕地も和紙の生産地に類しています。
これには、「人」と「湿地の土壌と気候」と「桑と楮」の生産に適している事です。
湿地の水分を吸い取る能力の強い「桑と楮]が用いられたのです。この殖産には専門知識が必要であったのです。

中でも、最も両方に大昔から盛んであったのが「信濃」と「武蔵」で、その中でも「小川和紙」(秩父和紙)で有名です。
「小川生糸」としても有名でした。
ところが、奈良期からの殖産地であり、信濃も「信濃和紙」で「信濃生糸」有名です。
ここで「信濃と武蔵」は繋がるのです。
その「繋がる要素」は、「諏訪族青木氏」を含む「信濃青木氏」が殖産した「桑と楮」なのです。
「開拓地の小川村」は、この「桑と楮」の殖産に賭けたのです。
その基を持ち込んだのがお家のご先祖なのです。
その殖産をこの小川の開拓地に持ち込んで広めたのです。
武蔵は、室町末期から盛んに成りました。
特に江戸幕府の肩入れが特別に在って、武蔵の秩父小川地区は「桑の木」と「楮の木」の殖産が盛んであったのです。
これは信濃から諏訪族青木氏らが持ち込んだ殖産であったのです。

以上です。

余談として、そもそも、人のミトコンドリアでは、人は先ず「雌」があって、そこから子孫存続を確実にする為に、「雌の部分」から「雄の部分」を抜き出して分身を出して、生き残りを図ったのです。
この間にはミトコンドリアは生き残りの為に「4度の転換」を図りましたが上手く行かずに最終は、雄の部位を分離して生き残りに成功したのです。
元は、雌なのです。だから元の「ヒト遺伝子」は男性には無く女性にあるのです。
その分身の証拠が現在の男性には4か所遺されています。
その二つは一つは「乳首」と「ヘソ」です。全く機能していません。これが証拠です。
後の二つは本論では禁止用語に成りえますので表現できませんので割愛しますが、元は雌であるのです。
とすると、人の継承論からすると、論理的には、蒙古斑の様に、はっきりとする事が出て女系が本筋である筈です。

青木氏の密教論の仕来りでは、女系の青木氏が2代続いてもその家が男系では無く成っても、一代目の女系の嫁ぎ先の男子を養子として迎えてすれば正規の男系後継ぎとする事が出来る事に成って居ます。
お家の子供さんの息子さんが青木氏を継ぐ事で男系にもなりますし、娘さんまでの男子の子供さんが後を継げば世紀の青木氏となる仕来りです。レポート投稿済み
世間の仕来りとは少し違っていますが、兎にも角にも、本来は遺伝子的には女系である事が矛盾の無い継承と成りますね。
ご質問と成る大抵の事は家紋掲示板やルーツ掲示板や研究室やメニュー地名データにもレポートしていますので、ゆっくりとお読みください。
武蔵7党や坂東八平氏等の事などはインターネットよりも正しく大抵詳しくレポートしていますよ。
是非お読みください。
では、又何か判りましたらお尋ねください



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