冨田さん 今日は。始めまして。
さて、困りましたね。
以前お尋ねに成られた方と同じルーツの同文で同内容と成って居ますがお尋ねの方が違っています。
この方にお答えした内容以上には、残念ながら判りません。
ただ、お尋ねの中で、戦国時代には上州には冨田氏は無かったと住職の方が発言されています。
しかし、明治より約20年前の嘉永年間には上州に居たとする事と、時代考証的に墓所の碑文とが一致しません。
そして、明治前に墓所を持っているとすると、武士であった事に成ります。
士農工商の農工商の者は正式な墓所を持つ事は許されていませんでしたので、武士と成りますが、この時代は「国抜け」と云って、自由に定住地を抜けて移動する事は出来ない事に成って居て、これを破ると一族悉く斬罪です。
しかし、江戸期には上州に墓所まで持って定住していますね。
仕官先が変わったと云う事なのですかね。
そこで、そもそも、下り藤門は藤原秀郷一門の総紋で、宗家しか使えない家紋です。
一族であっても本家筋しか使えない家紋群です。
この文様に更に丸付き紋ですね。
秀郷一門は家柄身分から丸付き紋は一族は使いません。
全て副紋方式です。
更に、江戸期では、類似家紋の使用は法度です。
依って、藤紋の丸付き紋は藤原氏では無い事を意味しています。
花数からも違っていますので、藤原氏の家紋群では無い事に成ります。
ただ、一言、お家の大元のルーツは伊豆の大島にあります。
伊豆の大島から、冨田氏、富田氏や富岡氏等が大島から伊豆に、伊豆から駿河に駿河から上州へと移動した事は判っています。伊豆大島には大島水軍と云って源義朝が逃亡してのこした配流孫の末裔です。この水軍の末裔に成ります。その末裔と考えられます。
少し矛盾の持ったルーツと成って居ますね。
青木氏では全く判りません。
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