青木ルーツ掲示板
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    また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、
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      [No.1201] Re:瀬戸内海の青木です の返信
         投稿者:副管理人   投稿日:2022/08/05(Fri) 11:18:41  

    青木サイトにようこそお越しいただきました。
    これからも宜しくお願い致します。これからも何なりとお尋ねください。

    さて、早速ですが、お便りから推測いたしますと「讃岐青木氏」であると思います。
    そもそもこの「讃岐」には、平安期に「藤原純友」と云う者がおりました。
    この時、「瀬戸内」に発生した「瀬戸内の数十個の海賊」が幅を利かせ牛耳っておりましたが、そこで困った「朝廷」は、既に「瀬戸内域」に勢力を持っていたこの「藤原純友」にこの「海賊討伐」を命じます。
    然し、討伐した後の「勢力圏」は、寧ろ、逆にこの「瀬戸内の海の勢力族」を配下に置いて使って逆に自己の勢力を伸ばしたのです。
    そもそも「討伐する」と云っても彼等は元々は「純友の支配下」で動いていたのですから、この「討伐」は形式上のものと成ります。
    精々暫くは、“おとなしくしていろ”と云う程度の事に成りました。
    それを知ってこれを嫌った「朝廷」は、この「純友」に「謀反の難癖]を着けて弱めようとします。
    その効果が無いとして「謀反」として「罰する事」にして正式に追放したのです。
    「純友」は罰せられますが、密かにその子孫等は納得せず、秘密裏に「この瀬戸内の海賊ら」を束ねて、「藤原氏の讃岐藤氏」と云う一団を構成しながら、それらを一族に巻き込みながら、「讃岐藤氏」は表に出ずに「格式の高い賜姓讃岐青木氏」で「朝廷の発言を抑えて支配し、挙句は、東は淡路島、西は下関までの「全瀬戸内の海域」を制して「瀬戸内水軍」として活躍します。
    そしてこの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は、南は土佐、北は宍道湖迄を、勢力域下に治め、そこに「子孫」をそれぞれ配置します。
    この「讃岐青木氏」とは、この時、その子孫に「皇子」でもないのに「武蔵の北家藤原秀郷流一門の嗣子の第三子・千國」に「永代賜姓」で「青木氏を名乗る様・賜姓」に「円融天皇」は永代に特別に命じます。
    ところが、この「藤原氏の母方」であった「賜姓臣下族の青木氏」が奈良期には「五家五流」があって、別に一番最初に647年に先ず「天智天皇の第七皇子の施基皇子」に「伊勢」に賜姓臣下し「青木氏」を賜姓して、それらに「天皇家の継承者から外れた皇子ら」を一族内に引き取らせていました。
    この「賜姓臣下族の青木氏」には、「五家五流・近江王と信濃王と美濃王と甲斐王の青木氏」に「配置された王家」にも「皇子皇女ら」を引き取らせていました。
    中でも「伊勢王」と「信濃王」は「約35人の皇女」だけを引き取ったのです。
    この内、「四掟」と云う「厳しい掟の範囲」で「完全な皇族系の純血」を護る為に、母方にこの北家筋の「関東の藤原氏」を選びました。
    この900年前後頃から「藤原秀郷一門」との「母方血縁」を行わせていました。
    この「賜姓族」の「伊勢と信濃の後裔」は、上記の武蔵にいた「賜姓秀郷流青木氏」は上記の「讃岐藤氏・純友子孫」とも血縁を広く進め、その後に「秀郷流賜姓族讃岐青木氏」が生まれたのです。
    この「讃岐藤氏の最高格式の秀郷流賜姓族讃岐青木氏」が「讃岐藤氏の拡大」と共に拡がり、遂には「米子青木氏」とも血縁を拡げてその勢力は関西以西にまで広げました。
    その「武力」は、勿論の事、「海運での経済力」も「数十もある瀬戸内の海賊ら」を取り纏めている事を背景に、主に「海運業」でも「巨万の富」を獲得していました。
    この「讃岐藤氏」と「格式ある背景を持った賜姓族讃岐青木氏」は、これを当時は「武力の持った瀬戸内海運・水軍」と呼ばれて尊敬され、その武力も恐れられていました。

    ご質問の様に、恐らくは、「室町期末期に勢力」を興した土豪の一部が「村上水軍」と呼ばれる小さい水軍」をつくり居たのは確かですが、彼等も「讃岐藤氏の讃岐青木氏」で統制されていましたし、そもそもお話の「村上水軍の話」は、江戸期に面白おかしく「物語風に仕立てた小説」であって、それが真実かの様に語り継がれた事が原因していて、有名になっただけで、現実は「灘の水先案内人」をしていて、「毛利氏の媒臣」と成っていたのですから、「海賊まがいの等の事は出来る訳は全く無く、「物語風に仕立てた小説」であったのです。

    「瀬戸内水軍」はその主家が、お家らの「讃岐藤氏の讃岐青木氏」です。
    お家はその「讃岐青木氏の分家に当たる一族」と観られ、それはお便りの「家紋」で判ります。

    お便り
    互い違いにひし形に組まれた枠の中に三枚の葉っぱがあるものです
    隅立て組み井筒?井桁?に、縦長で葉脈がはっきりとある葉が三枚です

    以上とお便りがありますが、恐らくはこれは、「組合わせ角に三つ柏葉紋」では無いかと思います。

    又は、安芸の国付近にある「益田三葉紋の組み合わせ紋」かも知れませんが、
    だとしますと、この周辺の豪族との血縁族の秀郷流讃岐青木氏では無いかと推測されます。
    然し、「讃岐藤氏の秀郷流賜姓讃岐青木氏」は、「賜姓族」である以上は「貴族」が最低でも護らなけばならないものがあって、それが「四掟と云う貴族が護らなければならない血縁規則」です。
    これに縛られていましたので、「周囲との土豪との血縁」は正式には出来ません。
    この様に従って「家紋知識」で判別できるのです。

    「秀郷流賜姓讃岐青木氏の総紋」は「下り藤紋」で、その「宗家の家」はこの「総紋の藤の花の間に自分の家紋」を書き入れて、本来は一族が集まる場合の正式なもので「副紋」としました。
    これで「一族性」を明確に記したのです。
    そうすると、お家はこの方式に従うと、お家の分家筋の位置で主家筋に近い場合は、「下がり藤紋」に「組合わせ角」を挿入するか、或いは、より宗家筋に近ければ「三つ葉柏紋」を副紋として挿入します。

    そこでこの「柏紋」は、そもそも「尊い神木」で、この「神木の柏紋の使用」を許されたのは、「賜姓を授かった格式高い二つの青木氏」だけに対しであって、その職を「神職とする場合」に於いて許されて来たのです。
    つまり、最早、これを使えるのは「最上級の格式高いの紋類」と成ります。
    この「神木の柏紋」は、「神明社の神職の青木氏」か「春日社の神職の青木氏」である事を示す「最高級ステイタス」と成っていたのです。

    これを「副紋」とするのですが、一族性を特に示す必要のない場合は「組合わせ角に三つ葉柏紋」とします。

    だとしますと「讃岐青木氏の分家筋」かその「血縁分家族」と成ります。
    恐らくは支流族や縁者族とはならないと思います。

    広島県佐伯郡沖村大字是長150番屋敷⇒ 能美島になります
     (現在は広島県江田島市沖美町)

    以上の情報からしますと、「組合わせ角に三つ葉柏紋」だと推測できます。
    瀬戸内に存在する数多くの海賊らを取り纏めた「瀬戸内水軍」を根本構築していたこの“「江田島」は、その当に「水軍の拠点」であり、そこの「村主」”であったと考えられますので、「家紋」が「組合わせ角に三つ葉柏紋」であるとしても「相当な分家筋」であった事は確かですね。
    「江田島の村主秀郷流賜姓讃岐青木氏」の「瀬戸内一帯を取り締まる神職を兼ねた村主一族」であった事を物語っています。

    そこでこの「家紋の主軸」に成っている「組合わせ角紋」も、「職能紋類種」の一つで、その「職能」とは「水軍の操船術等」の「職能」を示している事に成ります。
    「副紋」は、「下がり藤紋に三つ柏紋」が正式な氏紋であった事に成ります。
    「讃岐藤氏の一族が集まった会合」の中でも「最高格式の云う筋」であった事になります。

    「村上水軍」に関しての「海賊のご質問」は、「瀬戸内」のその東の一部に過ぎず、取り分け「勢力」を見せたとする「能島村上氏」は、「逸れ者」とされていて「能島城の範囲」だけです。

    「毛利氏の媒臣」であった「因島村上氏」は、江戸期物語では「 長崎城」 から「 余崎城」、その後 に「青木城」 へと移ったと誇張されていますが、これは全くの搾取です。
    故に、「長崎城」と「青木城」の「因島」、「余崎城」の「向島」、「来島城」の来島は、抑々「瀬戸内水軍の拠点」としていた讃岐青木氏の活動拠点の拠です。

    「瀬戸内水軍」を物語に上手く取り入れて物語小説に使われたものです。
    「瀬戸内水軍の枠組み」から外れて「戦乱の室町期末期」に活動したとされるだけのものです。
    この「青木城」は「讃岐青木氏の拠点」でしたので相当な江戸期の脚色ですね。
    江戸期には無秩序に搾取のこのような事は横行しました。

    然し、この情報は「江戸期の搾取」で「瀬戸内水軍」が存在する中では物語の様な勝手な行動は出来なかったのです。
    此れでは物語風では瀬戸内は村上氏と成って仕舞いますがこの矛盾承知で小説を造って売ったのです.。
    そももそも、おとなしくしていた「因島村上氏」は、「毛利家の家臣・媒臣」となっていましたので、世間で騒がれ程の「村上氏」ではそもそもいてられませんよね。


    さて、ところが、この「瀬戸内水軍」を再び弱める為に1588年に豊臣秀吉が彼等を強引に海賊として認定し、「海賊停止令」を出します。
    と、この「小さい域の村上水軍」らは従来のような清浄な活動が不可能となり、「海族衆としての活動」から撤退を余儀なくされ衰退してしまいます。

    残ったのは「瀬戸内水軍」です。
    その活動期には村上氏は「灘の水先案内人」として生き残り「灘西部」など「芸予諸島近辺」に限られていたのです。
    従って、そもそもお家の先祖との関係は全くありません。
    そもそも、世間で有名に成っている「村上水軍」と云うのは江戸期に物語として誇張されたもので、実際は「瀬戸内の水の流れが厳しい因島付近」を通行する際に「水先案内人」として活躍していた程度の「水軍」で、「瀬戸内水軍」が存在する限りは「海賊」として活躍できる環境下ではありませんでした。

    さて、そこで知識として「水軍」には「海賊」と「海族」とがあります。
    「瀬戸内水軍」は海で活躍する「海族」です。
    この「瀬戸内全域」を「昭和20年」まで「瀬戸内水軍」として活躍し、主に「廻船業」を営んでいたのです。
    江戸期には、「北海道から東周りの廻船の許可」が下りて「瀬戸内まで廻る東周りの廻船業」も昭和20年まで営んでいました。

    この「瀬戸内の水軍」は、元はと云えば「讃岐青木氏」が、瀬戸内に無秩序に活躍していた「海賊」を取り纏めて「正規の水軍」にしたのですが、これが最後には「廻船業」と成ります。

    この平安期には「瀬戸内水軍」と関係したのが、「摂津水軍」、「紀伊水軍」、「熊野水軍」、「伊勢水軍」、「駿河水軍」らとの深い血縁関係で維持され「廻船組合」を運営されていて「小さい水軍」もこの「組合規則」で縛られていたのです。
    実際はこの規則を[護らなかった者」はこの「廻船組合」を敵に廻す事に成り殆どは潰されてしまいました。
    「時の政権のお墨付き」もあって、この「廻船組合」をバックアップしていましたので、この「瀬戸内」で「逆らう馬鹿者」は居ませせんでした。
    それが、「摂津水軍」は「伊勢青木氏の摂津青木氏」、「伊勢水軍は伊勢青木氏」、「駿河水軍は駿河秀郷流青木氏」、そして「瀬戸内水軍」は「讃岐青木氏」、の「日本一の格式高い伝統のある一族血縁関係」を維持していたのです。
    血縁族ではない「紀伊水軍や熊野水軍」は、時には「海賊」と「海族」の両方を演じていました。

    「瀬戸内水軍の事」や「讃岐青木氏の詳しい事」は「サイトの二つの掲示板」の「問い合わせ欄のワード検索」から「讃岐青木氏」や「讃岐藤氏」や「瀬戸内水軍」等のワードを入れて全てをゆっくりとお読みください。
    相当な情報量ですので調べて根気よくお読みください。
    それで「讃岐青木氏の全体像」はご理解いただけると思います。
    出来ましたら他の血縁族の青木氏の事も合わせてお調べ頂けると青木氏の全体像が掴めると思いますよ。

    さて、「お家の系譜」をお調べになるとすると、「上記の家紋」では大筋はお判りに成ると思いますが、それとは別にお寺からの情報ですね。
    ところが、「讃岐青木氏の宗派」は、本来伝統として「貴族系の一族」が帰依する事になりますので「浄土宗白旗派」であり、「讃岐青木氏を含む秀郷流青木氏のお寺」は「浄土宗」の「西光寺」が「一族一門の青木氏の菩提寺」となります。

    そもそも「菩提寺」とは、自らの一族一門が自費で寺を建立し一族の中から僧侶を出して一族先祖の菩提を祭祀するお寺の事で、その教義も一族の中でさだめます。
    そして一族が分布する処に建立します。
    つまり、「密教」の「氏寺」です。
    恐らくは、その後、子孫拡大で大きく成った事でこの「西光寺」は「知恩院系の浄土宗」に帰依していた筈です。
    ところが、お家はお便りでは、次の様に成っています。

    菩提寺/宗派   浄土真宗本願寺派 照高山 長徳寺

    本来は、「藤原秀郷流讃岐青木氏」であれば貴族や公家などの限られた氏族が許されて帰依する「浄土宗白旗派」なのです。
    最も格式を証明する宗派であってそこが違いますね。
    これは当時としては大変な意味を持っているのです。
    それは、「讃岐藤氏の讃岐青木氏一族から追放された事」を意味しています。

    実は、ところがこんな事があってはまず地元にはいられませんし、現在まででも19代も続けられていますところからこれには別の意味があるのです。

    それは「浄土宗白旗派」は「密教」である為に何処にでもあるお寺では無く、地方の「秀郷流青木氏」は困った結果、この事に対して「讃岐藤氏の総家」から特例を出したのです。
    それが「浄土宗白旗派」で無くても、その宗派に近い「浄土真宗」に一時的に入信しても良いとする特例でしたのです。
    この「江田島」には現在では13の浄土宗真宗の寺がありますが、この江田島には全く当時は「浄土宗寺」は在りませんでした。
    そこで、「浄土宗真宗の寺に帰依」が条件付きで許されたのです。
    取り分け、「讃岐青木氏」は瀬戸内全体を統治する「瀬戸内水軍」を率いる現地に定住する一族一門でしたので、「讃岐青木氏の宗家」と「讃岐青木氏の分家筋」は「密教」ではない「顕教」である「浄土真宗」に一次的に入信したのです。
    ですから「密教の菩提寺・西光寺」ではなく、「顕教の檀家寺」と云う位置づけになります。
    然し、これには条件があって、必ず1年に一度は西光寺の近くにある本寺に挨拶をしなければ成りません。
    「氏が建立経営する菩提寺」には、「氏の系譜が遺る過去帳」、「一般に建立された檀家寺」には「人別帳の一代限りの税徴収用の台帳」と成ります。
    従って、檀家寺では系譜をたどる事は出来ません。

    お家は本来は「讃岐藤氏の北家藤原秀郷流讃岐青木氏」の「氏族」です。

    「顕教」は身分家柄関係なく誰でもが入信できる「庶民の宗派」でそのお寺という事になります。

    従って、浄土真宗本願寺派 照高山 長徳寺では「檀家寺」ですので、お家の先祖を辿る事は出来ませんね。
    「浄土真宗の檀家寺」として長い間付き合いをしていた以上は、「過去帳」に依る系譜は、兎も角も「先祖位牌」と云うものがありますが、この「先祖位牌」の中に「木札」があって「過去10代程度の先祖の位牌札」が入っていますので、其処までは遡る事は出来ますね。
    そもそも「浄土真宗」ですので「戒名」は違い戒名から先祖を辿る事はできません。
    「浄土宗」では「院殿居士」ですので先祖がどの様な人であったかは判り辿れます。

    そこで「系譜的な事」は「下記の西光寺」にあるかも知れませんね。
    「先祖の氏墓」も見つかる事もあり得ますね。
    そうだとしたら、ここから「讃岐青木氏の宗家」に辿り着く事もあるでしょう。

    そこでお家は、どこかの「宗家の菩提寺・氏寺」の「浄土宗 西光寺」にも届ける事をしていた筈です。
    もう一つは「氏の守護神」ですが、「秀郷流讃岐青木氏」も「諡号の定める氏族」ですのでこの付近にあった筈です。
    「秀郷流青木氏の守護神」は「春日社」と決められています。
    平安期末期以降は、ある事件があって「春日社」を地方では続ける事が難しく成り、「春日神社」となりました。
    「賜姓臣下族青木氏の守護神」は、「祖先神の神明社」、「賜姓臣下族青木氏の密教菩提寺」は「清光寺」です。

    そこが、お便りの本籍地の広島県佐伯郡沖村大字是長150番屋敷であるとすると、この事からすると「氏寺の西光寺の菩提寺」は次の処のお寺では無いかと思います。

    広島県広島市佐伯区湯来町大字伏谷25−1
    以上の「西光寺」では無いかと推測します。

    「沖村と湯来との間」は約三里弱・11Kですので、ここを「宗家の菩提寺・氏寺」の「浄土宗西光寺」としていた事は確実でしょう。
    当時の生活圏の範囲は2から3里が基準ですから、まずここがお家らの宗家の「氏寺」だと思います。

    此処でお家の御先祖の何かを掴む事が出来るかも知れませんね。

    実は、「讃岐青木氏」は「瀬戸内水軍」として活躍していた以上は「浄土宗の掟」に反している事に成ります。
    これは「浄土宗白旗派」は、「貴族の格式を有する者」のみが帰依する宗派ですので、「表向き」は「瀬戸内水軍」として活躍する以上は、「隠れ蓑」が必要で、「浄土真宗」として、此処を「一族の正式な檀家寺」としていたと考えられます。
    つまり、「宗家本家の菩提寺・氏寺」で、「讃岐青木氏の総家」から観て「お家」が「讃岐藤氏の系譜上」どの位置に居たかです。

    「瀬戸内水軍の中心の江田島」にいた事は、「活動する実働する水軍の指揮の位置」にいた事に成りますので、判って来るかと考えます。
    「家紋」からもこれを証明しています。
    「三葉柏紋」として観れば、恐らくは「倉橋春日神社」の「宮司」も兼ねていた事も考えられます。
    本来は「春日社」、若しくは「春日神社」がお家の守護神です。
    「武蔵入間の総宗本家の秀郷流青木氏」は「春日社」です。
    だとすると、「讃岐青木氏」の中で「瀬戸内水軍」を実際に指揮して動かしいたのは、お家である可能性があります。
    だから、「讃岐藤氏の総紋」を「下り藤紋」として「讃岐青木氏の副紋」をこの「家紋」にしていたのです。
    その「伝統」が何時しか消えて仕舞ったのかも知れませんね。
    この副紋存在を知る事でもお家の御先祖により近づく事が出来るのではないでしょうか。

    兎も角もサイトの「検索ワード」を使ってお読みください。
    個人情報などで今や確かな事はこの方法しか無いと思います。
    お家の親族の倉庫などにも何か遺っている事もありますね。

    念の為に、「香川の讃岐青木氏の総家」は、 香川県木田郡三木町小蓑にある「春日社」が守護神と成ります。
    又、讃岐青木氏の宗家の菩提寺の西光寺は、香川に13の西光寺が有りますが、中でも 香川県綾歌郡宇多津町2198の西光寺が「最も古い浄土宗寺」と観られます。
    ここが従って「総家の菩提寺」としていた処だと思います。

    ある意味でお尋ねに成る事も意味があるのではないかと思います。


        


      [No.1200] 瀬戸内海の青木です
         投稿者:   投稿日:2022/07/16(Sat) 08:45:55  

    > はじめまして。
    青木家のルーツを調べていて
    こちらのサイトにたどり着きました。
    (最終投稿日から時間が経っていますが読んでいただけるかな)

    父が青木家の19代目ということを聞いて以来
    そんな長い歴史のある家がどのようなものだったのか
    どうしても知りたくなりました。
    父は現在88歳です。

    私は長女で弟がふたりいますが、弟の子供は女子ばかりのため
    今後、血統は父の弟の家系に移ることになります。
    青木家の歴史をわかる範囲で残したいと思っています。

    ここまでわかっているのは

    (この春、本籍地を訪れ、原戸籍は取得済)

    本籍地  広島県佐伯郡沖村大字是長150番屋敷⇒ 能美島になります
           (現在は広島県江田島市沖美町)
    菩提寺/宗派   浄土真宗本願寺派 照高山 長徳寺

    父の祖父の代まで総代を50年務めていたらしい
    沖村で一番旧い家で
    能美島では、幅を利かせる家柄で
    青木の親戚というだけで威張れたとの話を聞いてます(笑)
     (青木から嫁にもらった親戚から聞いた話)

    家紋   うまく説明できませんが
            互い違いにひし形に組まれた枠の中に三枚の葉っぱがあるものです
            (隅立て組み井筒?井桁?に、縦長で葉脈がはっきりとある葉が三枚です)
          家紋のサイトで検索しましたが、同じものはありませんでした。

    父の弟の妻(私のおば)が、同じ沖村のやはり旧い家出身で
    このおばは、青木に嫁げてとてもうれしくて自慢だった、と何度も語っていましたので
    旧い家なのは確かだと思います。

    おととし亡くなりましたが、亡くなる前にいろいろ話を聞いていればよかったと
    今になって後悔しています。
    父の弟であるおじも三年前に亡くなりました。

    先日、この家の嫁(私のいとこの妻)と話していた時
    このおばが、青木の家は海賊だった、と語っていたと聞きました。

    本籍にあった家は、父のおじ(父の父の兄)の代に売ってしまって
    もうありませんが
    その元の家には、ほら貝があり
    村の衆を呼び集める際には(父の祖父が村長だった)そのほら貝を
    吹いていたという話は何度も聞きました。
    父もそのほら貝を見たことがあるそうです。

    ですが父は、海賊だった話は聞いたことがないとのこと。

    瀬戸内海の海賊といえば村上水軍。
    そこをヒントに検索をしていてこちらのサイトにたどり着いた次第です。

    ふるくから能美島に住んでいたとなりますと
    こちらのサイトを読んだ限りで
    讃岐青木氏につながるのでしょうか。
    村上水軍は関係なさそうですよね。

    戸籍をさかのぼりましたが、父の曽祖父の代までしか
    わからなかったので
    この先どのように辿っていけばよいのか、
    ご教示いただければ幸いです。
       
    よろしくお願いいたします。


      [No.1198] Re:三重の青木です
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/10/07(Thu) 10:00:31  

    員弁の青木さん 今日は。
    お久しぶりです。
    そうですか、いろいろ歴史を研究されている様で楽しいですね。
    私も若い時は各地に出向き資料などや事情聴取した事等沢山ありました。
    行く前は相当研究して疑問点を整理しての事でした。
    始めは、家に遺された資料から読み解く事から始めました。

    さてお便りは次の様でしたので順次進めます。

    “青木佐右衛門から九代さかのぼった九郎助(生年不詳、1752/8/25没)という人物が初代であり、最初に茂福に入植している”

    先ず以上の件ですが、筆者にも四家の資料が遺されていて、これを「伊勢四家の時系列」で追って観ると、「伝統シリーズ」でも論じています様に、この時期は「紀州藩」に代わって一手に「伊勢」を発展させる為に「殖産興業」を盛んに展開させていた時期でもあります。
    中でも「伊勢秀郷流青木氏」を含む「伊勢藤氏の全一族一門」が「紀州藩の家臣」として活動し「伊勢青木氏・伊勢屋の力・四家青木」を総じて親族一族でこの「大殖産事業」を進めていました。
    然し、江戸幕府から派遣されていた「紀州藩の3人の目付家老」との間で、この「殖産興業の発展」に文句を着けられて「争い」を起こしていた時期でもあります。
    「殖産に依って紀州藩の発展」を目論んでいた事に「幕府」は警戒していたのです。
    吉宗の側用人の「地元の伊勢郷士50衆の一つの加納氏の子孫・家老」を味方にしてこの3人の追い落としを図っていて、「幕府から派遣されていた目付家老」は身の安全と不利と見て手を引き、「新宮の水野家」と「田辺の安藤家」が配されていて、それぞれ支藩を形成していましたが幕府に戻ると叱責されるので引き込んで出仕しなくなった時期でした。
    従って、この時から「伊勢の殖産・開発事業」は一挙に発展する様になりました。
    又、従って、その時より「伊勢青木氏の四家」は「紀州藩の勘定奉行の相談役」としても活躍し、「殖産資金」の為に「紀州藩」に「2万両の貸付」をした時期でもあります。
    伊勢全般、取り分け「員弁の圷開発」を任されていた当時四家の「員弁殿」 (お便りでは「九郎助」)が、「四家」から差配されて「福家の代表」として「茂福等付近一帯」に開拓開墾の為に入植したのです。
    これには北隣の「桑名の圷開墾開発」も合わせて行われていたと記されています。

    この開墾には奈良期より仲の良かった桑名の「額田部氏の土木開拓業者の専門家」が関わっていた事も判っています。
    中でも肥沃であったこの「四日市の開墾」は有名です。

    実は、この域は「四家青木氏」とは別に、“「四日市殿」”と呼ばれる「青木氏」が定住していた場所でもありました。
    江戸の徳川氏から「家康の孫の勝姫の子孫の娘」を娶り、「伊勢秀郷流青木氏」と「四家の青木氏」との「3者の血縁混合族の青木氏」を四家とは別に発祥させていた場所でもあります。
    此処には紀州藩の記録に依れば、「伊勢」の「一般郷士」(「茂福氏等」)が定住していたと添書されていて単に“在所換え”と記されています。

    然し、これが「伊勢」から提出された「大殖産計画書」に伴い「紀州藩差配」に依って「茂福氏等の郷士」が員弁側の隣の員弁川を境に西に員弁郡大安町鍋坂村に移し、東に東員町真慶寺には、員弁殿が入り開墾してそこに大殖産事業を興したとあります。
    お家のお便りはこの時の事を指していると思います。

    さてこれには特別に下記の歴史的経緯がありました。
    その事を把握しておく必要があります。

    先ず、「青木紀伊守一矩」(従五位左衛門佐 越前北庄八万石 1598年)に列せられた者と、「青木伊賀守忠元・四万石」と、これ等の二人は共に「信長に仕えた者」で、その結果で江戸初期に徳川氏から叙封されて「福井」に逃げ伸びて「伊勢の支援」を受けて「酒造業」を営みました。
    その後に越後にも出向き「越後秀郷流青木氏」を頼って「本場の酒造業」を身に着け更に福井で拡大させました。
    ここには、従って、「伊勢と信濃の青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」と当時の「四家の員弁殿の青木氏」も移住しいて、「ある出来事」に関わって「伊勢」に彼等は居られなく成り、これに依って「青木氏の出直し」を手助けする「伊勢青木氏・四家の財政支援制度」を受けられる「国処の福井」に移動したのでした。
    「全国488社から成る神明社の質の制度」によって「伊勢信濃の支援」で共に主に「商いや匠職」や中でも「酒造業」等を盛んに営んで自立させていました。
    ところが其の後、江戸期の「福井の地震・1662年」と「宝暦2年・1752年の若狭地震」の「二度の大地震」が続けて起こりました。
    此れの影響で、結局、「酒造業」を諦めて潰れて、再び服に移動していた「四家員弁の者」は「四家」から呼び寄せられて「員弁」に戻って、「員弁開発などの殖産」に再び携わりました。

    「ある出来事」とは、確か「別の員弁の方からのお便り」と「伊勢の資料」を突き合わせると、「紀州征伐」で当時、「員弁」を担当していた「四家の先祖」と「員弁郡の村の郷士等を含む者等」が、信長に「敵対行為」、つまり「命令に従順に従わなかった事」、「青木の記録」では、「戦費の年貢米の供出と仮城造りに駆り出された事とある」を示した為に攻められて追われ逃げ、この「四家の導き」で「福井」に逃げ延びたとあります。
    再び、「江戸期の地震」で「員弁」に戻ったとする同じ「先祖から口伝の情報」で知っていたとする「お便り」もありました。
    このお家も員弁に住んでいた方の四家一族です。

    本来は員弁単独で家を構成するのではなく、「女系制度」に基づく「四家の中で生まれた男子」の誰が適齢期になると「福家の差配」で「員弁等」に入ると云う「四家制度」を敷いて引き継いで行きますので、ですから「四家全体」が“員弁殿は員弁の子孫”という事には成りません。
    この制度は、一代限りの交代に成る事が殆どであったとされ、別の四家から若い優秀な者が員弁に回ってくると云う制度です。
    当時に員弁を差配していた青木佐右衛門から九代遡る・・の事は、必ず員弁の子孫と云う事では無く、その間には四家から何人もの若者が廻されて代替わりして行くのです。
    従って「九郎助」が必ずしも「青木佐右衛門の祖」とは限りません。
    「員弁殿」を務めていた時に産んだ「子孫の子供」という事もありますが、「女系制度」であり、必ずしも「員弁」は「員弁」の「直系孫尊属」とは限りません。
    間には何度も「四家」の中で「四掟」に基づき「秀郷流青木氏等」と血縁して再びその裔の娘が「四家」に戻り嫁入りし子を成し、その成人した男子が「四家」を成すと云う「嫁家制度」で構成されていたのです。
    その為に「女(むすめ)」を一族内で統一して養育する妻嫁制度を敷いてました。
    この為に「伊勢四家」は殖産に於いても「員弁」に差配した「四家の裔・九郎助」の「東員町真慶寺の開発殖産」は、この時の事をお便りは言っているのです。

    さて次は、上記の「青木紀伊守一矩」の者と、「青木伊賀守忠元」の者と、これ等の「1570年から1598年頃の二人」は共に「信長に仕えた者」ですが、その結果で、江戸初期に徳川氏から叙封されて「福井」に逃げ伸びて「伊勢の支援・四家」を受けて「酒造業」を営みました。
    この「二人の人物」は織田氏に仕官していますので「四家の者」では無く、要するに「四掟に基づく血縁族」ではありますが、「もう一つの伊勢秀郷流青木氏の裔」という事に成ります。
    従って「織田氏の宿老の滝川一益」に侵略落城されたとする「1571年の青木駿河之守・伊勢秀郷流青木氏」は、「四家の者の前提」としていますが違います。

    「賜姓臣下族の四家の青木氏・氏族の青木氏」はその「氏族の出自」より武器を持たず、且つ、仕官をしません。
    従って、この「青木駿河之守」は「賜姓臣下族の四家の青木氏・氏族の青木氏」では無く、「伊勢」のもう一つの平安期から存在した「母方血縁関係の青木氏」の「伊勢秀郷流青木氏の事」になります。

    そうすると、一方の「紀伊守」と「伊賀守」は同じ主君は「信長」であり、一方の「駿河守」は、「信長」に侵略された者であります。
    時系列では同年代の上記の二人とは繋がり難いですが、ところが繋がるのです。
    これには下記の訳があるのです。

    つまり「二つの血縁族の伊勢青木氏」を混同されている様ですが間違ってはいけないのは、確かに古く「平安期からの母方縁者関係族」にある「伊勢二つの青木氏の事」です。

    「信長 秀吉」に敵対した「伊勢」には、「伊勢藤氏」として古く「平安時代・始祖は藤成」から「関東の秀郷流一族」の「伊勢秀郷流青木氏・賜姓族」が定住していて、室町期には一時跡目が絶えて衰退をしました。
    ところがこれを室町期に再興した者があって、この人物は、そもそも「伊勢を制覇した信長の腹心」の「蒲生氏郷の叔父」に当たりながら、「織田氏」に敵対し味方せずに、その後、寧ろ逆に「秀吉奥羽攻め」の「秀郷流一族の陸奥結城氏」を救い出す為に軍を出して「秀吉背後」を突き成功し「一族の陸奥結城一族」を救い出します。有名な事件です。
    この為に「伊勢」から軍を廻し軍師であった近江の「蒲生氏郷の叔父・伊勢秀郷流青木氏を再興した人物」は、有名な「秀吉陸奥逃避行劇」を興させた「主人公・有名に成る」と成るのです。
    「近江秀郷流一門の近江蒲生氏郷の叔父・伊勢秀郷流青木氏を継承し再興」でありながらも、「信長 秀吉」に味方しなかった「惣国者の唯一の人物」で、この者は元の笹尾城跡に「庵・後に笹尾城と呼ばれた」を造営した人物でもあります。

    然し、上記の「駿河守」に対して「紀伊守と伊賀守の子孫の二人・叔父の子孫」は、今度は「蒲生氏郷の仲介」で敵対した上記の「信長の家臣」となりました。
    結局は、「伊勢攻め」で「信雄の指揮」の下で滝川一益に「駿河守」の「庵」は潰されますが、「秀郷流一門一族と伊勢青木氏の支援」で直ぐに息を吹き返しました。
    「元の城跡の庵」を潰されたところで「伊勢秀郷流青木氏・116氏にも成る大武力集団」に執っては、歴史に遺る程の何の被害もありませんでした。
    この事で「信雄と滝川一益」は信長から叱責を受け、「伊勢の統治」は甥でもある「一族の蒲生氏郷」に全面的に任すという事が興りました。
    そこで、叔父一族を救いに入ったという事です。
    恐らくはお便りの情報は、この時期にありこの事に関わった事であると思います。

    この時期では、「親族の信濃」で教わった養蚕知識を「伊勢」に持ち込み「絹殖産の生産の一貫作業」での「殖産生産」を更に広げる為に開拓者を引き連れて入植したと記されています。
    当に、「四日市茂福地方の海蔵川沿いの開墾をした後の事」が判っています。
    筆者の資料では、「員弁川全域の圷]を大開墾した後は「養蚕殖産を広げた事」に成ります。
    以上の事が時系列で判ります。

    ・1574年、青木駿河守の子、大木兼能が織田信長の庶兄津田信広を討ち取るも敗北し、肥後へ(のち熊本で三千石を所領。加藤清正の臣下で活躍)
    ・その後の熊本大木氏は茂福青木氏と同族である(熊本大木氏については動向不詳とのこと)

    以上の情報に付いては、江戸期の後付けの資料だと思います。
    上記のこの「伊勢秀郷流青木氏」の「子孫・大木兼能」とされるの一部が織田氏の家臣を討ち取り秀吉の家臣であった加藤清正の家臣に成ると云う事は考え難いですね。
    ですから、「熊本大木氏」は、「茂福青木氏が同族とする前提」は「茂福青木氏」が「青木九郎助」と「茂福氏」が血縁しての結果を前提としての事ですが、これは上記した様な掟で考え難いです。
    可能性は無いとは言えないですが、婚姻に関しては「氏族」である以上、「二つの伊勢の青木氏」には「奈良期からの四掟」と云う掟に明治期まで縛られていましたので、出来ないと思います。
    仮に出来たとしても「茂福氏」は「伊勢郷士」(伊勢青木氏と血縁関係を持っていた伊勢郷士衆50とは別)の一つであったので無いと思います。
    「青木氏の氏族」は飽く迄も「氏族」であるので「姓」は持ちません。
    「姓」は全て「氏人の伊勢郷士衆50衆」の何れかの姓名を名乗ります。
    つまり、「伊勢郷士衆50衆」は「青木氏の氏人族」で「女系の縁者関係」にあると云う事です。

    そこで因みに判り易い例として、唯、「秀郷流一門・361氏」も「藤原北家の氏族」ですが、「姓」を持ちその為に「佐藤氏」とか「遠藤氏」とか「進藤氏」とか「工藤氏」とか「藤の前に姓」を着けて名乗る仕組みとしていました。
    秀郷流主要五氏は青木氏、永嶋氏、長沢氏、進藤氏、長谷川氏で全体で361氏存在し姓とし、更に血縁族の郷士衆も持ちます。

    「青木氏の氏人の伊勢郷氏50衆」はこの藤原氏の様な「姓方式」は採用しませんでしたが、「青木氏を構成する氏人である事」には変わりはありません。
    つまり、「秀郷流の藤原氏の場合」は、「青木氏の氏名」と同様に「藤原氏の氏名」を名乗れるのは「武蔵入間の宗家本家・現存」だけです。
    「北家秀郷流藤原氏」にはこの姓方式とは別に「大郷士衆団」が別にあり、違う処は「姓名」をルールに従って名乗る事です。
    「秀郷流青木氏116氏」の場合は、賜姓族である為に「氏名の青木氏」だけです。

    従って、仮に血縁しても「郷士の茂福氏」は「茂福氏を名乗る事」に成ります。
    伝統を守る為に「茂福青木氏」を名乗る事は「四掟」で絶対に無かったのです。これは明治期まで護られました。
    「伊勢青木氏四家」は姓を持ちませんので「四家員弁青木氏」と云う事だけに成ります。

    当然に上記の事から、「大木と云う姓名」は江戸初期に勝手に庶民から身を興して無秩序に「青木を名乗った事」から幕府は禁令を出して、「大木や青樹や仰木や葵木などの姓名」に換える様に禁令を発したのです。
    この結果からです。
    ですから、「熊本の大木」は「青木氏の末裔」と云うのは大いに疑問で江戸期初期・8割程度」か明治初期の苗字令・9割程度」に合わせて都合よくしたのではとも思います。江戸期初期には国民の9割強が武士ではありませんでした。
    これは江戸初期には武士の身分に成るには、上記した様に「江戸初期の事・国印状取得・黒印状・搾取偏纂」必要としたためのものでは無いかと思います。
    この現象は江戸や福岡県や山口県や甲斐で大木等の姓名は起こりました。

    又、「伊勢青木氏の四家の者」は奈良期から「氏族で伝統で一切仕官しません」。
    この掟で歴史的にしていませんので、そもそも「大名の家臣」などに成る事は無いのです。
    ですから・歴史を考える場合は、それと「伊勢秀郷流青木氏の存在」との「二つの事」を分けて認識ください。
    熊本より北部の長崎と大分には「秀郷流青木氏の子孫」が大きく広がっています。
    上記の一切の事は「伝統シリーズ」で詳細に論じています。

    重ねて「伊勢」には、もう平安期中程から一つ縁者の「伊勢秀郷流青木氏」があり、「伊勢」を制覇して統治した「蒲生氏郷」の「近江」にいた「叔父に当たる者」がこの「伊勢秀郷流青木氏」を引きつぎ再興しています。

    彼等を「伊勢藤氏」と云い、これらが「信長秀吉に仕えた者ら」です。
    ところが後には、江戸初期には家康の子供の最も信頼していた元水戸の藩主だった者の「家臣の居なかった頼宜」を、紀州に引き戻し「初代紀州藩」の「初代藩主」に据えたのです。
    そこで上記の「秀郷流青木氏」を、幕府に疑われながらも「優秀な伊勢藤氏」を丸ごと家臣にします。
    同じ縁者の「伊勢青木氏・伊勢屋の財力」を利用しながら彼等は共に「伊勢殖産」を始めたのです。
    「伊勢青木氏・伊勢屋」はこの為に「全国の秀郷流青木氏を含む藤氏361氏」に呼びかけて「15の商業組合」を結成し、「殖産」で資産運用をします。
    この結果、「伊勢」は「殖産」で20万石も石高を増やし続けたのです。
    この時の「員弁川沿いの圷干拓開墾事業」もその一つでした。
    お便りはこの時の記録に遺る史実話の一つです。

    “北方一揆の構成者として大木氏の名前が何度も挙がっている”

    以上の件ですが、これは「第一次伊勢騒動」の件ですね。
    「秀吉の長島の戦い」に伴って「氏人の伊勢郷士衆50衆」と「他の伊勢郷士・48衆・室町期の地侍」等が結束して興した「秀吉」を牽制した戦いでした。
    大木氏は地侍ですので自由に動く事は出来たと思いますが、「氏人の伊勢郷士衆50衆」は「四家の差配」の中で動き、且つ「伊勢シンジケート」を使っての忍者的な行動でした。
    この時、幾つかの資料には、“摂津の大阪商人”と云ういう言葉が記録に数多く出てきますが、これが「影の商人・摂津の伊勢屋」で「軍事物資や仮城を築く木材」の値を吊り上げて「秀吉」と戦い「伊勢シンジケート」を使って「山伝いの勢力・葛城山」で補給を脅かし、飢えさせ「武力の持たない伊勢青木氏」は「強大な抑止力」で戦った事件でした。
    「信長」が背後を恐れて戦いの途中で大阪に逃げ延びると云う事件がおこりました。

    「青木氏」は独自の「氏人の伊勢衆50衆」を使って背後から牽制した事件でもあります。
    「戦い」は、結局、頃合いを観て「影の商人・摂津の伊勢屋」と「伊勢シンジケート」は引き上げた事件です。
    「背後の伊勢青木氏」は疑われて、秀郷流一門も巻き込んでの「全面戦争」を避ける為に、双方が引き一時、伊勢も形式上で「旧領地の尾鷲」に逃げ延びます。
    この形を伊勢は其のままにし「福家」は3年後に戻りました。

    「伊勢」にはもう一つ「第二次伊勢騒動」と云うものが江戸末期から明治初期・9年に掛けて「維新政府」に対して、何と「約9年半間」も興し続けた事件で、「信濃青木氏」も背後で経済援護しましたし、有名な「伊勢シンジケート」を影から使って牽制しました。
    「維新政府・天皇」は「伊勢青木氏の事・過去の献納」を配慮し「お咎めなし」として罰を受けたのは「役人の首謀者一人」(伊勢の郷士侍・5人の役人首謀者の一人・自ら名乗り出る)だけにして終了しました。
    この時も第一次と同じでした。
    この時、「江戸末期の幕府」は「伊勢と仲の良かった紀州藩の圧力・勘定方指導」もあって「知らぬ事」としてこの事件を黙認したのです。
    一次にしても二次にしても背後には「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」が、直接武力は無いが、「伊勢シンジケートの抑止力」と「巨万の富の経済的支援・伊勢と摂津」をして煽っていた事は記録からも知られていて、結果は黙認しています。
    「伊勢郷士50衆も潰される事」は無く「伊勢」でそのままに無く生き延びています。

    これ等の史実事は記録として遺され、且つ江戸期に物語風にして複数で記録として語られています。

    因みに、これ等は青木氏の歴史観として知って置く必要があります。
    多くの記録から「伊勢の伊勢屋の青木氏」の当主・福家は、「摂津の大阪商人」として名を隠し、顔を隠し、店名も隠し、全ての事に「影の行為」とし当たっています。
    時には記録には必ず出て来る「大阪大豪商」も、全て「影の商人」「影の実業家」「影の商人」「影の庄屋」「影の大名」「影の茶人」「影の匠人」「影の組合長」「影の水運主」「影の公家貴族」として時には振る舞っていたのです。
    記録には多く遺っています。
    そもそも「当時の大豪商」はそもそも室町期から全て危険であった為に「影の人間」として振る舞ってこの様にしていたのです。
    「二足の草鞋の大豪商である事」のそのものを隠します。

    決して表に出るような「テレビドラマの様な事」は一切ありませんでした。
    誰が店主か番頭か、将又、何人も忍者の様にして判らない様にしていたのです。
    「伊勢屋の大店」も主に全国に店の名を変えて50店もあり、江戸には200店舗があって判らない様にしていたのです。
    それにこの「連絡・情報」も「香具師と云う忍者・伊賀者・伊賀青木氏」が「伊勢シンジケート・影の武力」と連動して形を変えて全国に連絡を取り合うシステムで、「全国秀郷流一族一門」とも連動していた事が判っています。
    明治期まで続きました。
    この中継点が「全国488の神明社」が使われたとされています。

    「青木氏」を正しく考える場合、上記の「伊勢の二つの青木氏の存在」と「シンジケートの様な事」と「二足の草鞋策」も合わせてご判断下さい。
    取り分け、「江戸初期の国印状・黒印状」など歴史を大きく歪めている事等も知る事が必要です。
    今回のお答えも「青木氏の歴史」を正しく理解する上で大切です。
    つまり、「青木氏の歴史観」を正しく知る事です。
    判りにくい処は遠慮なくお尋ねください。
    ではまた何か見つかりましたら是非又お便りを下さい。
    お待ちしています。


      [No.1196] Re:三重の青木です
         投稿者:青木佑太朗   投稿日:2021/10/02(Sat) 15:27:26  

    こんにちは。お世話になっております。
    先日、祖父が他界したため帰省しておったのですが、
    私の祖父の従兄弟がご先祖のルーツを調べた史料を受け取り
    いくつか新たに分かったことがあったので共有いたします。

    もちろん内容として全て正しいとは限りませんが、
    基本的に記録として残されているものを参考にして記述されているため
    今後の青木氏に関する研究の進展のためにも要点を簡単に記します。

    また伊勢青木氏との関係性について何かお判りになることがあればご教示いただけますと幸いです。


    ・員弁郡 大木村 真慶寺に繋がる茂福青木氏
    ・青木佐右衛門から九代さかのぼった九郎助(生年不詳、1752/8/25没)という人物が初代であり、最初に茂福に入植している
    ・そのプロセスや理由は不明であるが、下記の歴史的事実が付記されていた
    ┗茂福青木一族の南隣家は、茂福氏の末裔が住んでいた場所である
    ┗1746年、茂福家三十代五佐衛門盈盛が茂福村から員弁郡鍋坂村に移籍(大木村の真慶寺とは員弁川を挟んだ隣村)

    ・真慶寺の青木は、青木駿河之守の末裔である(?)
    (1571年、滝川一益による侵略に屈して笹尾城城主青木駿河守平安豊戦死という記録がある)
    ・中世室町期の史料には、北方一揆の構成者として大木氏の名前が何度も挙がっている
    ・さらにさかのぼると山田城(笹尾城)を築城した青木紀伊守安定に行きつくと思われる
    ・1574年、青木駿河守の子、大木兼能が織田信長の庶兄津田信広を討ち取るも敗北し、肥後へ(のち熊本で三千石を所領。加藤清正の臣下で活躍)
    ・その後の熊本大木氏は茂福青木氏と同族である(熊本大木氏については動向不詳とのこと)


      [No.1195] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/09/29(Wed) 11:56:12  

    山梨の青木さん 今日は。
    早速のお便り感謝します。

    さて、今回のお便りから読み解く事が出来ることが幾つかあります。
    「青木氏」には「伝統と云う情報の足跡」を残していますので、それから読み込めばちょっとした情報から判る事が実は多いのです。
    「調査項目の1356」から凡その事で「二つの武田氏系青木氏」が持つその「経緯と歴史観」から読み取れます。
    兎も角も、「信長の長篠の戦い前後の戦いの掃討作戦・記録」は歴史に遺る激しいものがあり、甲斐に遺る一族郎党を悉く調べ上げ全てを抹殺する程のものでした。
    取り分け、特別の立場にいた「二つの武田氏系青木氏」は伝統がある為に隠す事が出来ず生き残る事は先ず無理であったと考えられます。
    「家康」もこれには驚き密かに救い出した「青木氏」を含む優秀な武田氏家臣を隠すのに必死となり、それが三つの記録にも詳細に遺されています。

    「二つの武田氏系青木氏」に付いては「青木氏」と云う「特殊な氏名姓名とその伝統」を持っていた事で、芋づる的に発見されていまして、近江の領域まで歴史に遺る広範囲に掃討を受けた事が判っていて、中には、妾と成っていた甲賀者の娘までも掃討を受けた資料も遺っていますが、幸いにこれも唯一に甲賀者が救い出した事が判っています。
    ですから、甲斐には「二つの武田氏系青木氏」は全滅とされている事は先ず間違いは無いと思います。
    恐らくは、甲斐に青木さんがいるとすれば、「第三青木氏」は別として「前のお便り」にも書きました通り明治維新後に女系で繋いできた者の内に「青木氏」を別に興して「甲斐」に戻した事が殆どと成るのです。
    維新期前は「国抜け」で移動移住は出来ない掟なのです。
    ですから、「前提の根拠の部分」が途切れますので異なる事に成るのです。
    取り分け、この事で「宗教」が先ず異なる事に成るでしょう。

    そこで1の「曹洞宗」ですが、この宗派は1365年以後の鎌倉期の事で、本格的には江戸期初期の1615年に寺院法度により永平寺と總持寺が大本山と成った遅い経緯を持っていて、これ故にこれ以前には「青木氏の歴史観」には一致しません。
    確かに、禅宗派であり「浄土宗の大日如来からの悟り」を前提とする点では一致する事から「室町期末期」には浄土宗でありながらも得度を受ける「青木氏」も出ましたので否定できません。
    本来、「時宗」は「武田氏系青木氏全氏」に執っては重要で「時宗の常光寺・元浄土宗」を本山とし、一遍上人を開祖としてその教えを基に、「南無阿弥陀仏」を前提とする浄土宗一門の流派です。
    然し、この「甲斐」では信長に占領され、これを前提にして見つけ出されて掃討されたので、甲斐では明治以降で無いとされます。故に「時宗」はあり得ません。
    結論としては、「曹洞宗」はその教えから庶民の信仰の対象とは成り得ませんでしたので、「曹洞宗」とすると「男系からの青木氏」ではなく、上記の明治以後の甲斐に移動した青木氏で無くてはあり得ない事に成ります。

    3の過去帳の件ですが、曹洞宗寺の廃寺と成っているとの事ですが、この時期と場所を教えてください。
    そもそも「過去帳」は「氏族」だけのもので、氏が「存続維持管理運営される独善の氏寺での事」です。
    故に「過去の青木氏の先祖の履歴」が「系譜」の様に遺されているのです。
    つまり其れだけの「氏の財力」を持っていた事に成ります。
    この「曹洞宗」だとすると、禅宗であり、氏寺ではあり得ませんね。
    「甲斐の青木氏」ははっきりとしていて「常光寺」が「氏寺」です。
    確かに甲斐には「5つの常光寺」があり、一時は「主寺」は戦国期には廃寺には成りましたが宗派は「時宗」です。
    元は浄土宗であったのですが、一族内で勢力争いの揉め事が起こり宗派替えをしました。
    その後に甲斐の領主と成った「家康」に依って再建されていて、仮にお家が「甲斐武田氏系青木氏2氏」の一つの子孫であるとすると、この「5つの内の氏寺」の内にある筈で、其の内、「韮崎市清哲町青木」の「分寺の常光寺」が「分家支流祖卑属の族の氏寺」と成っていた筈です。
    「宋宗本家」は「甲府の本山常光寺」です。
    現在は氏寺は「江戸期初期の顕教令」で無くなりましたが墓所はそのままです。
    ですから、「高遠にあるとする墓」は、5の「高遠の戦い」での戦死1545年と成るとしていると、この墓は「氏墓の菩提寺」の墓では無く、戦死者を合祀する「統一墓の合祀墓の事」で、ルーツを確定する墓所とはならないでしょう。
    戦死した場合はその骨などの遺品を「韮崎の常光寺の氏寺」に葬ってもらうのが習わしですが、江戸期にはまだ流石に常光寺に戻す事は出来なかったでしょう。
    ですから、高遠の此処は「氏寺の菩提寺」では無く、「武田氏系青木氏」はそもそも甲斐に「菩提寺」を持つ氏であって、高遠は「氏寺」ではありませんので、高遠には青木氏の先祖を物語るものは無い筈です。
    但し、下記説の「娘の嫁ぎ先の家筋から青木氏を興した」とする場合の墓氏とすれば別です。
    「曹洞宗」とする前提と「丸付き紋の前提」ではあり得るかもしれません。

    “一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。”とありますが

    次はこの6の件ですが、“一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。”ですが、何処の墓を以て言っているのかが良く判りません。
    教えて下さい。
    又、江戸末期の「慶長」とすると、「菩提寺」では無く、顕教寺である事に成ります。
    それ故に青木氏とする場合は「韮崎の氏寺」では無いと考えますが、仮に「韮崎の常光寺の氏寺」であったとして、この情報には、庶民は墓を持つ事を許可なく一般にはできませんでした。
    精々に木の「卒塔婆」でした。
    従って、江戸期以前の墓は、そこで「武士の墓」は「砂岩」を前提として掟が定められていました。
    それは土に帰るを「仏教の前提」としていた為で、明治以降に使われ始めた大理石の墓はまだ在りませんでした。
    当然に刻まれた戒名などは消えて行く事に成ります。
    「江戸末期の慶長」とすれば、1545年からすれば320年程度後に成りますので読めなく成る事は当然です。
    この時は「曹洞宗」でした筈ですが、「江戸期前の伝統ある武士の墓」は,通常は「3つの段階」に分かれていて、先ず50年毎に隣の墓に移され最後150年後には最終は「先祖墓」と云う「三段構えの墓」に移されて葬られて行くシステムです。
    中には累代の先祖の戒名を書き並べた先祖墓がある筈てす。
    ですから「伝統」としては「墓の字」では読み取れないので「過去帳」を造り記録し「氏寺の菩提寺」に保管し、家では「曼陀羅帳」を掲げて祀ります。
    「浄土宗系一門の宗派」ではこの「過去帳」を「氏寺」で持ちますが、浄土真宗などの「顕教」は「過去帳」は無く顕教なので持ちません。
    「氏寺」では無く顕教寺の場合は「人別帳・税などに利用する一種の戸籍簿」です。
    「顕教」とは誰でもが帰依する事が出来る寺の事で独善性はありません。
    これを「菩提寺」では無く「檀家寺」と云います。
    「曹洞宗」も禅宗ですが「浄土系」ですので「過去帳」も「墓所」も「永代供養の願い込み」をすれば持ち得る事は可能ですが、代々に於いて「財力」が無いと出来ない事に成ります。
    取り分け「曹洞宗」はその傾向にあります。
    従って、「曹洞宗」であり、且つ、「高遠の戦い」でお家の先祖とする当主が戦死したと成れば、先祖の履歴を追い求める事は出来ないのでは無いかと思います。
    つまり、仮に「韮崎の常光寺」で無いとすると、先祖を追い求める事は無理では無いかと思えます。
    従って、「二つの武田氏系青木氏」の「男系子孫」であるかは「曹洞宗」である限り難しいものと考えます。

    筆者は、そこでこれらの事から次の様に考えます。
    上記した「高遠で戦死した事」で、「女系の出自の者・嫁に行っていた娘の家筋」が、その家の「男子の子供に青木氏を興させて継がせた事」に成ったのでは無いかと思います。
    お家が云う墓の事は、この「女系の出自の者・嫁に行っていた娘の家筋」のものか、「男子の子供に青木氏を興させて継がせた事」の墓ではないでしょうか。
    だから、「曹洞宗」であって、その後の「別の国」に住んでいて「信長の厳しい執拗で徹底した長期間の掃討作戦」でも生き延びられたのではないでしょうか。
    この「織田氏の勢力の及ぶ範囲」に掃討作戦は長期間に専門隊を編成して、期間は「信長甲府凱旋」まで続いたとされています。
    だから、伝統の最たる「家紋」でも掃討される筈ですが、「別の国説・娘らの嫁ぎ先の国」で「分家筋や支流族が使う丸付き紋」の「二つの武田氏系青木氏」の「三階菱紋」であったのでは無いかと思います。
    然し、何処にいても「丸に三階菱紋」は信長の勢力の届くところでは無理で会った筈です。
    少なくとも室町末期間での青木氏と曹洞宗と三階菱紋の使用は無理であったでしょう。
    当主が高遠での戦士と成れば、「戦い」では一族の大きさに課せられた人数を集めなくてはならないので、治めている領地の村の農民の次男三男も駆り出し、当時は男子15歳で戦士として当主と共に戦いに出ます。
    当時は「1騎2将50兵100傭兵の原則」であったので、恐らくは最低で300から400の数に成っていたので村ごと戦いに出た筈です。
    甲斐武田氏系青木氏であれば「1騎」と云う事はあり得ないので「2騎」であればこの倍はあり当主と共に戦死した事に成ります。
    「甲斐の「青木氏の領地」では、「山梨郡、八代郡、南北巨摩郡、南北都留郡の4郡」が設置されていて、最大時は南北の巨摩郡と甲府の中央と等5郡が領地であったとされていますので、最大でも「二つの武田氏系青木氏」では2騎の1000には成っていたと考えられます。軍議にも参加できる資格を持ちます。
    従って、当主が戦死するとなると「跡目を継がせる男子」は全く無くなり遺された幼い子供の者も掃討作戦で無くなっている筈ですから、「嫁の嫁ぎ先からも男子を建てる事」は相当無理で、出来る限りは別の国に嫁がせるのは戦国時代は通常でした。
    そうすれば「曹洞宗との矛盾」は解けます。

    “また私の家の屋号は門口村と呼ばれております。現在の家の場所が一条氏館跡の正門があった場所に家を作ったからだそうです。”の件ですが、
    つまり「一条信龍」は「武田信虎の八男」で「信玄」とは異母兄弟の事ですね。
    この屋号は何時からの事でしょうか。
    恐らくは「明治後の事」に成ると思いますが、こんな良い場所に家を建てられたとすると「青木氏」を興せるくらいの財が在った事に成りますね。
    つまりは、上記の説も含めて「商人の可能性」がありますし、だとすれば「掃討作戦」から逃れられます。
    だとすると、何故に「5つの常光寺」に、取り分け「韮崎の常光寺」か「甲府の常光寺」に「甲斐の青木氏」として辿り着かなかったのでしょうか。大いなる疑問です。
    「時光系の武田氏系青木氏」であれば判っていた筈ですよね。
    これは「丸付き紋」を使った「嫁の嫁ぎ先筋の曹洞宗の青木氏・女系族・支流卑属」を興したからではなかったとも考えられますが。
    故に「氏寺」では無いとしていたからでしょう。
    そうでなければ、普通は先祖が祭られている「韮崎の常光寺」に行くでしょうし、忘れると云う事には成らないでしょう。

    さて「甲斐」は別にして、奈良期より「筆者等の伊勢と信濃の賜姓青木氏」は発祥の元来より「直系女系族で繋ぐ青木氏」です。
    「女系族」を主流としてその中から代々跡目の男子を4人選び、四家を構成し、「四掟」と云う決められた範囲で「娘の嫁ぎ先」から「別の血筋」を入れて再び血で繋がる娘を取る「戻し方式」です。
    仮に、「甲斐」でもこの上記の説が正しければ、この「女系方式」を一部で執っていた事が裏付けられます。
    まだ記録は見つかっていませんがあり得る事です。
    「甲斐の賜姓源光系青木氏」はこの女系制度を採っていた可能性が強いのですが、何せ嵯峨期よりほかの「四家の賜姓青木氏」との付き合いが全く無かった事から記録が見つからないのです。

    それは「室町期の戦国時代」と「武田氏の壊滅的滅亡」で男子が壊滅的に無くなった事にあり、取り分け「二つの武田氏系青木氏」は上記の「掃討作戦」もあって男子のみならず子孫全体が壊滅しました。
    ですから必然的に戦いに参加しなかった「娘の嫁ぎ先子孫の男子・出来るだけ遠くで、商人など」に密かに「青木氏」をほとぼりを覚めてから興させるしかなかったのです。
    他の徳川氏等に味方したり「秀郷流青木氏」を頼って助かった「武田氏の血筋」を持つ「青木氏からの養子跡目の件」は、「賜姓源光系青木氏」を含み記録から観て犬猿の仲であった様で無かった様です。

    因みに、生態学からこの「女系制度」は遺伝的に叶っていて、「人間の種の遺伝情報」は全て女性に依って引き継がれるのです。
    娘から娘へと引き継いで行くのです。
    つまり、人間は女性から生まれ男性を目的に応じて変化させたものなのです。ミミズやカタツムリの様にです。
    その証拠が元女性であった事の証拠が男性に不必要な4つの器官が遺されています。
    故に女系で繋ぐ制度は理にかなっている事に成ります。
    5家5流は古来より記録に遺る長寿派で長寿にもなる理屈と成ります。
    最後まで生き遺った「皇族臣下族の賜姓族の伊勢と信濃の青木氏」は古来よりこの「女系制度」を敷いて生き残りました。

    因みに、「源光系青木氏」は甲斐の北巨摩郡の山奥で小さい村で生き延びていたのですが、信長甲府凱旋のおりに道端に皇族賜姓族として朝廷礼儀を正し白馬に載り白服の正装で出迎えたのですが、これを観た信長が怒り自ら馬から降りて心頭し引きづりおろしてまだ掃討したのに子孫遺していたとして死ぬほどに打ちのめしたのですが、家臣が何とか制して一難を得てた事が信頼できる記録として遺されています。
    其の後は徳川氏に匿われて北巨摩郡の山奥に逃げ延びて隠れ住んでいて、明治まで子孫が生き延びた事が判っています。

    この様な歴史観の1356から「上記の女系説」が生まれますが、247が判れば当時の戦国時代の武士の家では殆どであった「上記の女系説」が確定する筈です。
    殆どは明治初期ですが、その後に安定した時点、つまり江戸期と明治初期の2期で「時光系青木氏」の正式な「青木氏の家紋や宗派や伝統」などは戻せませんが系統としては何時か男子に戻せばよい訳です。

    抑々、「菱紋」は100紋あり、この内、主な青木氏を含む「武田氏系列の菱紋」は10紋あり、「三階菱紋」とその「分家支流族と卑属」が使うとされる「丸付き紋」もこの中にあります。
    この上記の歴史観と家紋分析などの資料と江戸期に出された「国抜け」などの「当時の禁令」から明治初期では無いかと考えます。
    そうでないとすると、甲斐でどの藩に仕えていたのかです。

    つまり、「二つの武田氏系青木氏」が仮に生き抜けていたとして「甲斐」でどの様に生き抜いたのかですか、無理であった事が歴史的に判っています。
    長篠等の戦いで信長の3000丁の弾幕で無力の武田家臣は試し撃ちの様に戦死者の原を造ったとされ15000人中の内500人程度を勝頼の護衛兵で生き残ったと云われ最終信濃に着いた時には50人程度と成っていたと両軍の記録が一致する様に複数遺されています。
    全滅覚悟の「重臣全てが別れの盃の宴」を躱した事が残されています。
    武田氏家臣は元よりその一族郎党は捕まり斬罪を受けた事が記録に在ります。
    生き残る事は銃弾の弾幕の前と掃討作戦では少なくとも「二つの武田氏系青木氏の子孫」は絶対に無理で会ったでしょう。

    前回のお便りの通り「家康の家臣と成って救われた甲斐の青木氏」では無くては生き抜けられなかったのです。
    恐らくはこれ以外には可能なのは他国での武士出身の商人であったと観ています。
    江戸期初期までは殆どと云っていい程は「武士出の商人」でした.
    これらは「維新戸籍簿」で判りますよ。
    江戸初期であれば、「家臣、媒臣、陪臣」などを問わず全武士は「国印状」を幕府や藩主から受けねばなりませんから難しい事だと思います。
    国印状は伝わっていますか。無いと思います
    勝手な移住も「国抜け制度」で禁令ですので藩に届けでないと無宿者の犯罪者になります。

    今回のお便りから歴史観として少なくとも上記の事が読み取れます。

    新しいちょっとした情報でも結構ですがお便りください。
    意外と判る事が多いのでお待ちしています。


      [No.1194] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
         投稿者:山梨の青木   投稿日:2021/09/27(Mon) 14:27:48  

    大変中身の濃い情報のレポートを頂きありがとうございました。
    文中の最後の「根拠の前提」について、今分かっている事を少し返答させて頂きます。
    1.宗派(江戸期以前は浄土宗です。時宗の場合もあります。)
     ⇒曹洞宗です。
    2.維新戸籍簿(甲府の出自地にあります 士分と書いています)
     ⇒まだ調べてありません。
    3.江戸期前・1866年前の過去帳有無(人別帳ではありません)
     ⇒家の過去帳があったお寺は廃寺になっていまはありません。
    4.江戸期前・1866年前の菩提寺有無(檀家寺ではありません。はっきりしています)
     ⇒まだ調べてありません。
    5.江戸期前の系譜の有無
     ⇒武川村以前がわかりません。青木與兵衛忠秀が高遠城の戦いでなくなって、高遠にお墓があるときいていますがまだ見つかっていません。
      家の言い伝えで高遠にお墓があることは伝えられています。
    6.墓所の墓石状況と建立の年代 又は本家の墓所の状況
     ⇒一番古い墓石は殆ど読めませんが、かすかに慶長と読めます。
    7.家紋の有無(青木氏の家紋にあるが), 縁戚族に丸に三階菱紋の確認
     ⇒まだ調べてありません。
    現段階では少ないですが以上です。
    今後、新しい事がわかり次第報告します。
    また私の家の屋号は門口村と呼ばれております。現在の家の場所が一条氏館跡の正門があった場所に家を作ったからだそうです。
    お蔵に古い証文等がまだあるかもしれませんから、これから調べていくつもりです。


      [No.1193] Re:峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/09/21(Tue) 09:05:35  

    山梨の青木さん 今日は。始めまして。
    本サイトは全国の青木さんが集うサイトです。これからも宜しくお願いします。
    さて、山梨の青木さんに付いては青木氏の中である事情があって信頼できる情報としては判らない事が多いのです。
    「山梨の青木さん」の始祖の出自は判っていて、「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に「五家五流の皇族真人族」から「賜姓臣下族」として「青木氏」が「天智天皇」から「嵯峨天皇期」までの間に出自しました。
    「伊勢」を始めとして「美濃、信濃、近江、甲斐」と広がりました。
    「伊勢」は、「天智天皇の第七位皇子の真人族の施基皇子」が臣下して「伊勢王」となって遙任し後に赴任と成りました。
    そして、朝廷の造部が作った全ての物品に必要量を取り、残りを市場に放出して金品に換える役目を負っていました。
    そしてその「院号」を与えられて一切の専有権利を持つ事と成りました。
    この伊勢松阪の施基皇子の一族は「歴史的な商人の始り」でした。
    これに「信濃王の青木氏」が手伝いました。
    この時、「天智天皇」はこれらの「賜姓真人族の臣下族」に「青木氏」を与え、それにともない「賜姓五役」と云う役目を与え、「賜姓物」をその証の象徴としての「賜姓三物」を与えました。
    現在でも引き継いでいます。
    この「賜姓五役」の一つには「天皇家の皇子皇女」の王位継承で外れ増えて行く場のない者を引き取る役目を与えたのです。
    これを護つたのは「伊勢と信濃と近江と美濃」でした。
    「甲斐」にはこの役目を護ったとする記録はありませんし、経緯から無かったと考えられます。
    それは「甲斐青木氏」は「他の青木氏」と違って出自が遅かった事が考えられます。
    それは「嵯峨期」に成って「伊勢青木氏出自の曾孫」でもあった「嵯峨天皇」はこの「賜姓臣下族の青木氏の制度」を強引に中止して仕舞ったのです。
    その為に「青木氏」からの「財政的支援」を無くし、困った「嵯峨天皇」はその為にその代わりに財政の枷と成っていた「皇子皇女の殆ど」を「源氏」として、朝廷の財政難から皇子皇女の数が多く成った事から、賜姓し財政的裏付けを無くし放り出したのです。
    当然に「伊勢と信濃の青木氏」は彼等を引き取りませんでしたので生きて行く事は出来ませんでした。
    生き残ったのが「11家11流」あった源氏は遂には武器を持った「清和源氏」だけ遺りました。
    然し、「商い」で得た財力で「殖産起業」を興して「巨万の財力」を蓄えていた「伊勢と信濃・商人の始り」は、この対抗策として皇女皇子を引き取る事等一切の支援をしなくなりました。
    困った「嵯峨天皇」は反対派の「平城上皇・伊勢青木氏の孫施基皇子の曾孫」は乱の末に困って妥協して仲介策を執り、「皇族賜姓族である事・第4世族」の「王位」を証明するものがあれば「青木氏」を名乗っても良い事を詔勅を発して認めました。
    この時に、初めて「甲斐に正規の皇族真人族の青木氏」を送り発祥しました。
    これが先ず、「甲斐蔵人青木氏」として格式を与えて「嵯峨天皇の皇子」を派遣しますが、自ら賜姓臣下族の青木氏を否定した以上は「賜姓臣下族の格式」で派遣できず、一段下げた状態で派遣したのです。
    つまり、甲斐の税金を管理監督する上級役人として派遣したのです。
    他の4家とはその「賜姓五役の目的」は異なりました。
    これをその蔵人役の二代後に「嵯峨天皇」が自らが賜姓したとして「源源光」に「甲斐青木氏」としてこの跡目を継がせ甲斐に派遣しました。
    これが先ず「甲斐の賜姓青木氏」です。
    ところが、この「源源光」の腹違いの下位の立場の兄が「嵯峨期の詔勅」を使って「賜姓青木氏」ではないこの「禁令」を破って「格式が無い兄の源時光」が「青木氏」を名乗ってしまったのです。
    この「二つの青木氏の流れ」が甲斐には有ります。
    ところが、この格式が無い「兄の源時光の甲斐青木氏」が武力を甲斐で勢力を持ち、「正規の弟の源源光」はその財力を武力で強引に兄に奪われて衰退をします。
    然し、「兄の源時光の甲斐青木氏・信長に滅ぼされる」と違って室町時代末期までほそぼそと生き延びましたが、記録で明治まで子孫が生き延びた事が判っています。
    この甲斐には「二つの流れの青木氏」が甲斐にはあって、他の四家四流とは異なります。
    お家は、この「源時光の甲斐青木氏」です。
    この「兄の源時光の甲斐青木氏」」には、大まかには「本家筋」は「二流」と、「分家筋」も「二流」に分かれ合わせて四流と成ります。
    お家は、「本家筋の分流」に成ります。
    この「本家筋」は、結局は武田氏の台頭で血縁して組み込まれます。
    上記のこれ等は伝統の本論に詳しく論じていますのでそれを参照してください。
    「時光系青木氏」や「甲斐青木氏」等のモードで伝統シリーズの検索で読んでください。
    お家の事も詳しく書かれていますし、甲斐青木氏家紋なども記載されています。
    さて、この武田氏に組み込まれた「本家の時光系青木氏」は三つの派系に分かれます。
    大まかに「四つの流れ」があり、「武田氏系時光系青木氏」、「武田氏系諏訪族青木氏」、「諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」です。
    但し、「武田氏系時光系青木氏」は更に「二つに分流」しています。

    さて、結論は、「時光系の分家」の「二流」ともは「武田氏」に味方せず、「徳川家康」に救われて密かに「武蔵の埼玉の鉢形」に一族郎党全て移されて生き延びましたし、一つは「安芸」に逃げ延びて「安芸松平氏」に救われて家臣と成り助かりました。
    因みに、「武蔵の埼玉の鉢形」の「時光系分家青木氏」には極めて有名な人物がいます。
    それは、柳沢に住んでいた「青木吉保」です。
    つまり、将軍綱吉の側用人の「柳沢吉保」です。
    鉢形に移住して三代目の「青木吉保」とし、妾子であった事から出自地の「柳沢吉保」と名乗りました。
    この吉保が850石から最終は三郡を獲得し72000石に、そして15万石までに主世しますが出世し、一時この甲斐の守護と成り甲斐に赴任した時に家臣が無かった吉保は生き残った一族を呼び集めて大大名の家臣団を形成した経緯を持っていて、最終は謀叛の疑いが掛からない様にこの根拠として武田氏子孫の後継者をも認めさせています。
    その後、奈良大和郡山に移封してこの周辺から岸和田までに甲斐の時光系青木氏の青木氏の多く子孫を遺しています。角界には有名な人もいますよ。
    この大和郡山から他国に勝手に移動する事は「江戸時代」では「国抜け」と云って一族郎党斬罪と成ります。
    ですから「生き遺り」は甲斐には支流まで含めての子孫は明治初期までは殆ど無い筈なのです。
    徳川氏に味方した内の分家筋は勿論の事本家筋の生き残りの者を一切呼び集めこの家臣団と成りましたので甲斐には本来は居ない筈なのです。この事は正式な記録も遺されています。
    ですから上記の経緯が生まれているのですが、この史実を打ち消すには相当に難しい事だと思います。
    それにはまずは下記の条件をクリヤーする事が必要でしょう。

    ところが、本家筋の4家の内、武田氏系時光系青木氏、武田氏系諏訪族青木氏は「信長」に完全に銃で滅ぼされて滅亡します。死者記録もあるのです。
    [諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」は、徳川氏とは強く戦わずに「信濃青木氏の縁戚筋の母方藤原秀郷流青木氏」を頼り「神奈川と横浜」に逃げ延びる事が出来ました。
    「藤原秀郷流青木氏」は「徳川氏の御家人衆の家臣」でしたので「諏訪族流武田氏系青木氏」、「武田氏流諏訪族系青木氏」も家臣に成りました。
    「時光系の分家」の二流と合わせて「三つ流れ」が家臣に成ります。
    この事ははっきりとしています。

    そうすると、お便りの明治の中頃に出版された「峡中家歴鑑」での「青木氏」は、本家筋の4家の内、「武田氏系時光系青木氏」、「武田氏系諏訪族青木氏」の二つに成ります。
    恐らくは、前者です。
    後者のその後の事は明確に成っていて現存します。
    前者は「長篠の戦い」等で「信長の3千の銃隊」に依って完全滅亡した事も資料からもはっきりしています。
    「信長側からの記録」と「武田氏からの記録」の死者名簿も幾つもあり、これを突き合わせると「甲斐の青木氏」に付いては実に正しい事が判ります。
    然し、お便りから「峡中家歴鑑」ではこれらを根拠に私観を交えて纏めたものと考えられます。
    そこで、武田氏の家臣であった事を前提とすると、一つは死者記録資料に載らない漏れた家臣が居た事か、将又、「三つの流れ系の青木氏」かに成りますが、この歴鑑にある以上は前者と成りますがお家で家系が繋がれていると云う前提では矛盾がうまれます。

    「お問い合わせ]では「家系の伝統]が引き継がれていない事が考えられます。

    そこで、お家がこの「歴鑑の青木氏である」と云うお家に引き継がれた根拠の様なものが何かあるでしょうか。
    在れば教えて頂ければと思います。
    実は、上記しました「他の四家四流」と違って「大日本史」にも明記されている様に、この青木氏外に「第三青木氏」と云う「青木氏」が存在します。
    本来は、歴史的経緯より「甲斐」には滅んだ事により「時光系青木氏」がない筈でありながら、実は現実に多いのは「第三青木氏」という事が在るのです。

    これは江戸期初期に農民等の庶民から武士に成る為にある条件を満たした「国印状」と云う証明書が必要でした。
    武士から身を興した農民等には、この条件を満たす事は出来ませんので、虚偽で「姓名」を名乗ったのです。
    それが甲斐では「青木氏」だったのです。
    幕府は黙認しましたが、これが「第三青木氏」と云うものです。
    幕府は一応は禁令を出しましたが守られず、葵木氏等にして一時逃げて偲び又再び戻すという事が興ったのです。

    次に「明治維新」に「3年の苗字令」と「8年の督促令」で「90%の民が苗字・姓名」を持っていませんでしたので、何とか「姓名」を持ちましたが、この時、周囲の有名な「氏名」を勝手に「姓名」にして名乗る事を維新政府は推奨し一晩の内に強制的に強引に名乗らせたのです。
    「五家五流の青木氏」は「皇族賜姓臣下族」であった事から「嵯峨期の9つの縛り」に従って「氏名」であって「姓名」では無く、「青木氏」は唯一、「姓名」を持たず名乗らなかった氏です。
    例えば、四掟に基づく母方縁戚関係にある「北家藤原氏」は「氏名」で「姓名」は「佐藤氏」や「遠藤氏」や「進藤氏」等の「361の姓名」を持ちます。
    つまり、「藤原氏」は「姓名」ではなく「氏名」です。藤原氏を名乗れるのは宗家だです。
    因みに、「藤原氏の秀郷流青木氏」は「116の姓名」を持ちます。

    これらを選別するには「青木氏の格式を物語る条件」を満たしているかではっきりと判ります。
    その為に限られた特別な条件を持っています。

    次の判別条件がありますので「根拠の前提」として照らし合わせてください。
    宗派(江戸期以前は浄土宗です。時宗の場合もあります。)
    維新戸籍簿(甲府の出自地にあります 士分と書いています)
    江戸期前・1866年前の過去帳有無(人別帳ではありません)
    江戸期前・1866年前の菩提寺有無(檀家寺ではありません。はっきりしています)
    江戸期前の系譜の有無
    墓所の墓石状況と建立の年代 又は本家の墓所の状況
    家紋の有無(青木氏の家紋にあるが), 縁戚族に丸に三階菱紋の確認
    戒名の形式(独特の形式をもっています)
    等が判れば疑問は解決できます。
    甲斐の「峡中家歴鑑の青木氏」であるかは、将又、甲斐の青木氏であるかもこれで決まります。

    確かに「丸に三階菱紋」は「武田氏系青木氏の支流族」に当たる事は本論でも論じていますので間違いは無いと思いますが、これも江戸初期と明治初期に利用されていますので何か江戸期前のものとして証明するものがあるでしょうか。

    実は、お家がこの明治24年編成のものの「青木氏さん」が「甲斐」には他にも多いので情報が少なく確定は出来ずに判らないのです。
    子孫であるとするならばそれなりのしっかりした「伝統」があって、上記の条件を先ず最低限お判りに成っているはずですのでお調べください。
    お知らせ頂ければお答えいたします。

    ではお便りをお待ちしています。


      [No.1192] 峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀
         投稿者:山梨の青木   投稿日:2021/09/14(Tue) 14:49:35  

    私の先祖は峡中家歴鑑 続(巻の三)青木與兵衛忠秀と聞いております。
    この峡中家歴鑑の青木與兵衛忠秀と関連のある書物をさがしておりますが、今のところみつかりません。
    参考になる書物等ありましたら教えてください。
    家の家紋は丸に三階菱です。現住所も上の書物にある住所です。
    よろしくお願いします。

    山梨の青木です。家紋は丸に三階菱。
    私の先祖は峡中家歴鑑の青木與兵衛と聞いておりますが
    他の資料その前後の資料が見つけ出せず困っております。
    どなたかしっている方は教えてください。


      [No.1191] Re:続 豪商長島屋
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/05/26(Wed) 08:29:48  

    返信 5・25 副管理人より

    お便り有難う御座います。
    大変興味深く読ましていただきました。
    長島屋の件に付いて良くお調べに成っていられる様ですね。
    こちらからは筆者も「伊勢」に関わる何かを掴もうとして推理を巡らし、その証拠建てをしようとしますが、何せ関東と云う事もあって発掘は難しい様です。

    その「秀郷流一族」はその「青木氏族に関わる信頼できる記録関係」が少なく苦労しています。
    「長島屋のとの関係」が掴めれば、「秀郷流一族一門とその青木氏との繋がり」が更に深く解明できて、その「糸口・突破口」とも成りますが未だ「歴史的な経緯」が良く判りません。

    つまり、「長島屋と秀郷流一族一門との関係」ですね。
    「長島屋」と云う「伊勢」に関わるキーワードから調べているのですが、「享保期」に大きく係わった事だけは「商記録」からも確かに読み取れます。
    「享保の改革」では「吉宗」と共に進めましたので、関わっていた事は判っていますが、どうしても「その横の関係」が広がりません。
    取り分け、「享保の改革」は「秀郷流一族一門」が「家人衆の官僚」として幕府改革を主軸に成り進めていましたので、「長島屋との関係」も物語の様に成っている筈なのですが。
    「青木氏貞治とその子孫」の様に「幕府との関わり」は裏ではあった筈です。
    「伊勢」から観ても江戸で「200店舗の伊勢屋の店」を構え「伊勢青木氏の江戸家敷」を二つ与えられ、その隣には「近江佐々木氏の邸」もあった事までも詳しく判っているし、「吉宗」が良く出入りしていた事も「青木氏と佐々木氏の資料」からの一致でも判っています。

    これは昔、平安時代に両者の縁戚関係が途絶え「付き合い」が無く成ったその「近江佐々木氏・源平戦で完全衰退」と、「伊勢青木氏との付き合い」が「江戸期」には戻っていた事も立証付けられていますし、衰退したとは言えその後の関係も繋がりを戻しつつあった事も判っています。
    「滅亡寸前の近江佐々木氏」が「伊勢青木氏の幕府との関わり・仲介」に依って江戸期に隣に「屋敷」を構えられるに至った経緯も判っています。
    ですから、前回でもお便りしています様に「秀郷一門とする長島屋」も「繋がり」を持ち得ていた筈と観ているのですが。
    実はその行動を証明する実績があるのです。
    それはこの「隣り」に「近江佐々木氏の邸を設けた事」には訳があって、「近江商人」を「江戸に呼び寄せる幕府との仲介役」をしていたのです。
    ところが、ここには「一つの問題経緯」があって、「近江商人」が独自に進んだ江戸に出て「商い」をしても成功せずに、不況の中で悉く失敗をして倒産が殆どであったのです。
    それ程に進んだ「江戸の商い」だけは甘くはなく、そこで「伊勢」では先ず「商い人」を育ててその後に「江戸」に出して、酷くこの「近江佐々木」が「幕府や民間への仲介」で「商い」をさせて成功させると云う手立てを採ったのです。
    近江人の惣国者の反発を受けた様です
    それを「解決し後押し」したのが「隣の伊勢屋・伊勢青木氏」であったのです。
    歴史でこの経緯が詳しくは語られていませんが、そんな甘いものでは無かったのです。
    「幕府」は「青木氏の衣布の立場・直言できる立場」から「助言」を「吉宗」にし、「商いの統制制度・大阪米相場」の様な制度を伊勢で行っていた「西洋式の新しい市場経済」を敷きました。
    その為にも「組合制度と持合株制度と保証人制度」の「三つ経済制度」を敷いたのです。
    この「三つ」に加わり条件が揃っていなければ「大商い」は出来なかったのです。
    この「三つ」を獲得するには「相当な財と繋がりを持つ事」が必要で、これを「後押し」したのが「近江佐々木氏」と「伊勢屋・青木伊勢青木氏」であったのです。
    この「伊勢屋」の後ろには同体の「衣布の伊勢青木氏」がいたのです。
    そこで、「伊勢屋」は「近江商人」を、一度、「伊勢」で「新しい商い」を経験させて覚えさせ「伊勢」で「近江商人の互助の組合組織」を作らせました。
    現在でもこの「伊勢松阪」に「近江商店街」は残っていますよ。
    それでも「伊勢」でも「西洋式の競合に馴染めずに失敗する者」も多く居たのです。
    この詳しい記録が遺されていて、例えば「母親」が商いの中で病に倒れ、息子も「江戸の商い」に失敗し、「伊勢」に戻って極貧の生活をします。
    この時、この「伊勢屋」が「後盾」に成っていた「伊勢の近江人の互助商業組合の組織」は、この「失敗者」を引き興し「商い」を「近江商人」でありながらも要するに進んだ「江戸の商い」を基礎から「伊勢屋」に教えられ覚えました。
    その「失敗者」は「近江」に帰らず「伊勢」に戻り、「伊勢屋の保護」を受けて再び「江戸にでる優れた者」を育てました。
    そして、育てられた多くの「伊勢の近江商人」を、再び、「江戸の佐々木氏の仲介組織」の中に入り「伊勢屋」を頼って成功に導かれたのです。
    何故、「近江」から「江戸」では無く、一度、「伊勢」に来たのかの疑問なのですが、これには理由があったのです。
    それは、信長の家臣だった「秀郷流近江の北家藤原蒲生氏郷」は、「伊勢」を平定し「秀吉」に依って「伊勢」を任されます。
    この「蒲生氏郷」とは「伊勢青木氏」とはきわめて近い縁戚関係にあり、且つ、「伊勢秀郷流青木氏の里」でもあります。
    この時、信長の西洋式の楽市楽座を実行し、松阪に進んだ「西洋式の商いの座」を設けたのです。
    この座に「里の近江」から「小商いの者」を一か所に集めてこの座で育てます。
    然し、「氏郷」は1590年に会津52万石に「転付」と成ってしまったのです。
    結局、その後、「保証人」を失った「伊勢の近江商人」は強引に江戸に出て仕舞ったのですが、有名な江戸の不景気で全て失敗し悉く「伊勢」に戻りました。
    ここから「吉宗の出番」と「青木氏の出番」と成って行くのです。
    そして、二度と失敗を起こさせない為にも「幕府・吉宗」に掛け合い「近江佐々木氏の末裔・嫁先」を「江戸に呼び出し」、この「幕府と近江商人の繋役」としての働かせようとして、それも「隣邸」に住まわせ連携を良くして行ったのです。
    「伊勢屋」も同然に経済的活性化に繋がる話として「西洋式の江戸経済」を造り上げて行くのです。
    「江戸」にとっては「近江商人が来る事」には「江戸経済」がより活発になり「地方産物」も入り、「伊勢青木氏の申出」を容易に認めたのです。

    それには「幕府」は「直接商人との繋がり」を持つ事は出来ませんので、「商人との仲介役」としての「近江の格式を持つ過去の縁者の近江佐々木氏を据える事」で「大儀の決着」が着いたのです。
    江戸享保期に成ってやっとこれで「近江佐々木氏との長い仲違い」が解けたのです。
    この事で沢山の逸話が遺されています。
    この時にも「近習の駿河青木氏貞治の子孫・近習の御側衆旗本」も大いに影で働いた事が逸話の歴史として遺されています。
    何故ならば、「伊勢青木氏」は、何と云っても「衣布の立場」にいたのですから毎日の様に顔を合わせて居た筈です。
    この程度の事は何の動作も無かったと考えられます。

    さて、そうすると「商祖の吉兵衛さん」が「享保17年頃・1733年頃没」で「日光街道の宿場」で「店を営む商いを立ち上げた」という事に成りますので、仮に筆者の考えている「秀郷一門を背景に一族が立ち上げたとする事の説」はこの度の「お便り」からこれでは成り立ちませんね。

    そこで、この説を別にして、ですからお便りをもう一度検証して観ます。

    享保改革を1716年から1735年として「吉兵衛さんの商い」は享保期の少し前頃が「商い」を始めていた事が推定出来ます。
    「善右衛門さん」が1673年没として、「吉兵衛さん」は仮に70歳で没とすると、この時には1663年に生まれ「10歳の子供」であって、「商祖」は「善右衛門さん」と成ります。
    仮に80歳前後とすると「20歳前後の青年期」に入っていたとすると、「善右衛門さん」と共に「商いの立上期の説」が成り立ちます。
    そして、「店」を大きくしたのは「享保期の吉兵衛さん」と成ります。
    だとすると、上記した「近江佐々木氏の様な吉宗との関係性」を保っていた事に成りますが、「青木氏貞治の子孫の近習衆」や「衣布の青木氏と伊勢屋」と「秀郷流青木氏等の秀郷流一族の官僚集団の家人衆旗本」の力が働いていなかった事にも成り、「彼の近江佐々木氏の近江商人」でも「影役」として動いていたのに何故か筆者の仮説は立ちません。
    そこで、然し、「伊勢の商記録」には「長島屋取引名」が出て来ますので、これは何なのかですね。
    「今回のお便り」で更に疑問が膨らみましたが「別の有力な仮説」が立ちました。
    「今回のお便り」で「時期」は上記の通り完全に一致しましたが、「商いの場所・日光宿場町」と「秀郷一門の関わり」と「駿河青木氏の青木氏貞治一門の関わり」の「予測できる歴史的要素」が出て来ません。
    「氏家制度」の中ですので、「駿河の青木氏さん」が独自で動く事は無かった筈です。
    単独で商いをする場合は、「武士と青木・武士株」を捨て一族一門からも出ない限りは「氏の中」では「商い」は認められていませんから、「青木氏を名乗って商い」をしているのは「最大の矛盾」と云う事になります。
    「青木氏を名乗っている事」を前提にする以上は、「上記の関わり」が「潜り」で無い限りは重要で生まれる筈なのですが。

    「お便り」の「郷土史・是非は別々として」に記載される程に「商い」を大きくしたとすれば、上記の「株や組合や決められた商習慣」を護らないと出来ない筈なのですが、そうでは無いようですね。

    そこで、余りにも「普通の歴史観」が繋がらないので、「商記録」にある「長島屋」は、“「伊勢の伊勢藤氏」の「長嶋氏の屋号」では無いか”と云う推定で考えて考察を進めて観ました。
    「屋号としての答え」は取り敢えずは出ました。
    「商い」とは限らない要するに「屋号」では無いかという事です。
    「伊勢藤氏の一つの伊勢長嶋氏」が「色々な事業」に資金を出していた「資本家」で、その敬称の総合総称の事の様でした。
    これは史実で明治15年に事業に失敗し確かに倒産しています。
    同然に、例えば紀州藩の藩主であった人も明治末期に文化事業に手を出して倒産していて伊豆に引きこもり子孫も遺さずに絶えています。
    取引として「屋号」であった事が考えられます。
    恐らくは、紀州殿と同様にそれは青木氏側の記録としては「貸付の債権」であったと観られます。

    さて、そうすると「今回のお便り」から多くの疑問がうまれます。
    それを次に記載して観ます。

    次はそこで、「お便り」の「長島屋や長嶋屋」に付いては、この「使い分け」をしていたのではないでしょうか。
    江戸期の元禄期以降には「超豪商や大富豪」などは当時、民間にも広がったこの「屋号の習慣」を使い分けしました。
    「平安時代の朝廷」からその役目に功績のった者に称号として「院」や「号」を与えられたのですが、これに匹敵する「商い人の号」です。
    「伊勢」で云えば、「紙屋院」、「絵画院」、「繪所院」、「戦略処院」等多くの院号を授かっています。
    これを持つと、「専売権などの特権」が与えられたのです。
    この「習慣」が江戸期に「一般の民衆」にも広がり、江戸時代には自らに称号を着ける目的で勝手に“「屋号」”と云うものを使ったのです。
    簡単に云えば、その幕府から与えられた“「企業家や資産家の専売特権」を商家の格式として誇示したもの”ですね。

    仮に「長島屋」と「長嶋屋」を「使い分け」をしていたとすると、先ず、「江戸時代の習慣」として、一つはこの「企業家や資産家の専売特権」を誇示する事に「使い分け」していた事に成ります。
    二つ目は、「格式ある相手」には、前のお便りでも書きました様に、「長島」よりも「長嶋」が上位で、「長嶋」よりも「永嶋」が更に上位あった事から、「長嶋」とした事もあり得ますね。
    三つ目は、「商い」では「商号」での「長島屋」、「付き合い」では「長嶋屋」と「使い分け」をしていたのではないでしょうか。
    そこで、江戸では無く「日光街道での商い」と成れば、「一つ目」と「二つ目」は「秀郷一門との関わり」が無い事から到底無理な事で消えますので「三つ目」と成りますね。

    例えば「家康」は付き合いの大きかった為に、この手段を十幾つかに大いに使い分けしていた事が資料から判っています。
    この様に、「江戸時代」はこれを真似て各大名はこれを習慣として頻繁に行いました。
    その前提は相手に応じて「格式と役務と家柄」の「上下」で振り分けていたのです。
    恐らくは以上の三つ目に当たるでしょう。
    それだけにこの三つの何れかで「商いの程度」が分りますからね。

    次に、“始祖として「青木将監」であった”とする資料があったとしますが、これも少し疑問ですね。
    そもそも“「将監」”は奈良期から平安期に掛けての「朝廷の近衛軍の官位の階級」を示すもので、判り易く云うと、この「将監」は、「戦前の軍」では上から6番目の「少尉」、自衛隊では「2尉」で上から4番目、平安時代初期では上から「6番目の階級の者」と成り、「近衛府第四等三等位官」で、通称ではよく知られる「源義経」が任じられたのが「判官尉の事」ですね。
    因みに「伊勢と信濃の青木氏と藤原秀郷流青木氏」は「上佐左衛門位の永代最高階級・大佐」を任じられていました。
    この中から命令を受けると「軍の指揮官」の「将」に任じられたので、「将としての大監」として出陣したのです。
    故に、「将監」なのですが、所謂、「将軍」ですね。

    従って、これは人名では無く「軍位の職位」で、これは同時に「皇位等にいる特別の者」だけが任じられたので、要するに「格式」として扱われたものです。
    ところが江戸時代は、最早、この「将軍」は「徳川氏」なので、この前提は崩れ誰でもが勝手に使える官位と成って仕舞ったのです。
    「人の名」は、勿論の事、挙って挙句はその「土地が格式」があるとして各地の「地名」までにも使われる始末のものと成りました。
    「長島屋の始祖」がこの人だとすると、時代が合わず人名でも無く「江戸の普通の人」という事に成りますね。
    その人がこの「青木」の「将監」を名としていたという事は先ず「第一の?」ですね。
    普通は、「第二の姓の青木姓」で無い限りは、この様な事はしない筈なので一族から疎外を受ける筈です。
    「江戸初期」に名の持たない農民等の者が「武士」と成った事で、この「第二の姓の立場の者」が、「姓名」を持ちました。
    そして「武士である事」を証明してもらう為にする「黒の国印状」の取得の為に勝手に実は「青木氏を名乗った者」が多く居ました。
    然し、この者ら青木を名乗りましたが、中には「黒の国印状」が発行されず名乗る事をも禁じられ、別の「葵木や青樹」の類似姓で取得しました。

    この「青木氏」が余りにも多く出た事で幕府は格式を護る為に「水戸光圀が編纂したと云われる大日本史」を参考にして、使用に関する禁令を発して、これを「第三の青木氏」として、この者らを「別枠」でこの様に区別したのです。
    それでも一時は類似姓にしても直さなかった者も居て、「明治3年の苗字令」では元に戻すと云う事が起こったのです。
    この「青木さん」は、そうするとこの「第三の青木氏」か「一族逸者」かと云う事に成りますね。

    次は、それを「決定的に証明する事」の一つとして「第二の?」は、お便りの「五三の桐紋」の事ですね。
    この「五三の桐紋」は、そもそも「天皇家の象徴紋の菊紋」に次ぐ「天皇家」の“「最重要な式紋」"ですよ。
    これを「青木家の家紋」であったとする事は前代未聞の事です。
    彼の秀吉でさえもこの「式紋の五三の桐紋」を使えず、類似する「五七の桐紋」をつくり、それを「豊臣家の式紋」として定めて、勲功のあった各大名に与え使う事を許しました。
    各大名は更に家臣にと与えたのです。
    「黒田藩」などはこれを頻繁に使い、「黒田藩の傭兵であった薩摩と日向に住む日向青木氏」にも与えましたが、この事は詳しく記録に遺っていますよ。
    其の後、「明治期」に入り、「屋号を持つなどの格式ある家の婚礼」の際に「嫁に持たす礼服の留袖」に「式紋として入れる事」を明治政府は許しました。
    それ以外は禁じたのですが、時代が進みこの事から昭和初期には誰でもが使う様に成って仕舞ったのです。
    本来は家紋を墓紋に使わないのが慣例で、それは自然に削れて土に帰る前提に墓石は砂岩でしたのでつかいません。ところが明治期に入り砂岩から大理石に替える習慣が起こりました。
    そこで中には民衆は明治期に墓紋にまで使う始末でした。

    「青木氏」は男子は勿論の事で「女系であった事」から全て「笹竜胆紋」を「嫁や嫁ぐ娘の留袖」にも使用しましたし、「箸椀の一つまで」の「家財」全てにも「象徴紋」が塗り込まれています。
    周囲はこれを観て「格式の高さ」を確認したのです。
    同然に、「秀郷流青木氏」と「秀郷一門主要五氏」でも「式紋」も「下り藤紋」でした。
    お便りのこの伝統の情報が何か?ですね。

    次は、「過去帳」に記されている「初代の人」は「青木将監」という人で「天正4年(1576)」に亡くなっていますが、此処に大疑問が残ります。
    「顕教令」は、江戸初期に出されましたので、「密教」を禁じ「菩提寺」を無くして、全て“「顕教寺」の「檀家寺」”としましたので、確かに秀郷一門に入っていたとして、「長島屋の始祖」の「青木将監」さんは「浄土宗の菩提寺」に祭司されていた可能性は否定できない事に成りますね。
    従って、このお寺が当時の慣習から変わる事は有りませんでしたので、「青木将監」さんの「裔系の菩提寺」として「習慣仕来り」では成ります。
    そうすると、ここが「一族の祖先の墓所」になる筈ですが、それを「初代」としているのは疑問ですね。
    この「菩提寺とする広い寺」にたった一人だけ祀られていた事に成りますのでそんな事はあり得ませんね。
    先ず、「一族の独善の寺」、即ち、「菩提寺」であれば「初代という事」はあり得ませんね。
    まず、何故、「菩提寺」で、「初代」で無いのに況してや先祖の無いのに「過去帳」とするのには無理がありますし、且つ、何故、「初代」なのですかね。
    「平安期までの過去」がある筈ですよね。だから「菩提寺」なのですから。
    更に、“「菩提寺」”で、且つ「知恩院派の浄土宗」あれば、「特別の伝統」に依る“「戒名」”で記録されていて、「青木将監」の「俗名」では無い筈ですね。

    “一族の菩提寺”とする以上は、“「青木将監さん一人」”と云う事は論理的に絶対にあり得ませんね。
    尚且つ、「青木将監」さん一人で、この寺を建て管理維持していた事に成りますが,そんな事はあり得ませんね。
    ではそんな「莫大な財」は何処から出たのでしょうかね。
    そもそも、そんな「財」があれば「商い」は「青木将監」さんが始めていた事に成りますよね。
    当時、「寺を建立できる能力」は「知行地領5000石程度」が限界とされていましたので、「青木将監」さんはどこの所領を持っていたのでしょうかね。
    因みに「青木貞治の死後」の「裔」は、「3200石の知行と駿河水軍の稼ぎと一門の補助」でやっと「一族の駿河の菩提寺の西光寺・盤田見附」を維持管理をしていた事を論じましたが、この「青木将監」さんがこの「駿河青木氏の裔系」であるとすると、「盤田見附の西光寺」の此処に「菩提寺」はちゃんとある筈ですし、史実とは全く違いますね。

    仮に「財」が在ったとしても要するに「菩提寺の論説」から来る論調は無理ですね。
    そもそも、「知恩院の許可」が出なければ「僧」も廻して貰えないし、当然に僧の無い寺は維持できませんね。
    「寺名」も名乗れず、況してや「幕府の許可」が無くては勝手には建てられるものではありませんからね。
    当時、幕府から「大きくて数の多い寺社」は統制下に入り「宗教力の低下」を狙って許可は出ず荒廃させて潰して行ったのです。
    「神明社や春日社」と「清光寺も西光寺」も同じ仕打ちを受けましたが、密かに献納と賂などで護ったのです。
    もっと云えば、「秀郷流青木氏の西光寺と春日社」は「一対の律宗」の中に在りましたので、「駿河の青木貞治の論」で論じた通り、その「寺の傍」には必ず「春日社が存在」し、その周囲には「青木氏の定住地」と成っていた筈ですよね。

    この論調で行けば疑問が多すぎて結論は、「青木将監」さんと「駿河青木氏」のみならず「秀郷流青木氏の裔系」と、完全に繋がらない事に成ります。
    つまり、「長島屋の青木さん」は「江戸初期頃」に出た「大日本史に記載する第三の青木氏」と云う事に成って仕舞いますね。

    仮に「秀郷流青木氏」であるとしても、統一して「西光寺」ですが、「寺名」は違う様でそもそも疑問です。
    仮に「駿河青木氏」であるとすると、「周囲の秀郷流青木氏」は何をしていたのでしょうか。ボーと観ていたと云う事になりますね。

    「知恩院派」には「清光寺や西光寺」以外は「僧」を出すなどの協力をして貰えたのでしょうかね。
    「当時の仕来り」では「浄土宗以外の檀家寺の顕教寺以外」は無理ですよね
    「青木氏族」は自らの一族の中から「柏紋の青木氏族の僧」を送り出していました。
    つまり、これ等の今回の情報に従いますと、「氏家制度の慣習仕来り掟」の中では完全に矛盾していますよね。
    何かこの矛盾を解き明かす事が在るのでしょうか。思い浮かびあがりません。

    「日光街道中の宿場町」で「長嶋屋」として「商い」を始めた人は「青木吉兵衛」という方で、この方が「長嶋屋始祖」となります。
    吉兵衛さんは享保17年(1732)に亡くなっています。・・

    と以上のお便りでは、

    「長嶋屋の菩提寺」にある「墓所」にはこの吉兵衛さんの一代前の「善右衛門さん(1673年没)」から代々の墓があり善右衛門さんより先代のお墓はこの「菩提寺」にはないそうです。・・

    以上とお便りとありますが、

    先ず、「菩提寺」には“「戒名」”では無く“「俗名」”と成っている様ですがこれも変です。
    「秀郷流青木氏の菩提寺」は一族統一して「西光寺」で、「守護神」は「春日社」でこれは変わる事は有りません。
    そもそも「菩提寺」とは「氏族が経営する一族の専属の密教寺」の事です。
    「一般の人の信仰対象」と成る“「檀家寺の顕教寺」”とは違いますので、上記の「お便り」では“「檀家寺の顕教寺」”と成る事に成ります。
    況して、「檀家寺」には、「氏人の系譜」に当たる「過去帳」では無く、その時だけの「人別帳・税の為の帳面」で「戒名」と系譜は持ちません。
    「檀家寺の顕教寺」は「過去とその系図とその記録」は無く管理されず一世代の「俗名」で管理されていますよ。

    代々の墓があり善右衛門さんより先代のお墓はこの菩提寺にはないそうです。長嶋屋の家紋は「五三の桐紋」の様です。・・

    田舎の宿場に現金掛け値なしの商法があったとしても大商人が育つかどうか疑問が残る」と・・

    「過去帳」や「戸籍謄本」、「墓碑」などか・・

    以上の「三つのお便り」に付いて、
    私もこの方の疑問の意味する処には賛成です。

    「慣習仕来り掟等の歴史の歴史観」を無視した事の「美化や誇張や搾取や間違い」がそもそも良く検証されていず多い「郷土史」には多く良くある現象で、一概に直ぐに判断材料とするのには問題が多いのです。

    上記のお便りでは、間違いなく“「檀家寺」”と成りますね。

    従って、江戸期でも墓所は武士でも相当上位の者で無くては持てませんし、墓石は「砂岩」で造られるのが普通で、墓石や墓碑では判りませんし、この習慣は明治期以降のものですし、「大理石の墓所」は明治期のものです。
    江戸期に於いて「墓石や墓碑を持つ事」が出来た者は「3千数百石以上の知行地を持てる程度の者」と限られていたのです。
    昔は、「庶民・百の姓で百姓と呼ばれていた」や「無位格式財の無い者」は、“河原者"と呼ばれ、河原や海岸に先ず簡単な仮の墓所を設けて、河原の石を持ってきては墓石の代わりにし、「目印」にもしたものなので、その後にお骨を取り出し、寺に「木の塔婆」を建てるか「無縁仏の納骨堂」に納める様な習慣でした。
    そもそも勝手に寺等をそもそも持つ事等は統制の下では出来ませんでした。

    依然は「庄屋や名主や村主」が中心に成って税の為に「檀家寺」などで「人別帳」で管理されていて、江戸に成って「菩提寺」が「顕教令」に依って禁止された事で「系譜管理」はそもそも無くなり、「特別の者」が独自に必要に応じて「戒名」に読み込んで「系譜」を作っていました。
    ですからこの系譜には殆どと云ってよい程に搾取や間違いが多いのです。
    大金を払って系譜を作ってもらえる専門業者が横行したのですよ。
    従って、当然にこの「人別帳」に代わって「戸籍謄本」は明治初期以降のもので、「明治3年と督促令8年の苗字令以降」は、「9割以上の姓を持たない者」に姓を持たしたとするもので、この事で「維新戸籍簿」と呼ばれるものが出来ました。
    この「歴史観」を使うとすれば、この「維新戸籍簿」と「浄土宗や天台宗の密教寺の菩提寺の過去帳」を使う必要があり、「特別の知識」で「戒名を読み解くの事の力」が必要で、この「戒名に読み込んだ事」でその過去の格式系譜やその真偽を把握する必要がある事に成るのです。

    「真言宗」は平安時代に密教論争で最も頑固に「密教」を説きながら、江戸期に成ってお便りの様な事が信者獲得の為に起こりました。
    高野山の墓所を観れば宗派に関係が無かった事が「顕教令の影響」を受けて良し悪しは別としても「緩やかな説法」を唱えていた事が良く判りますよ。
    唯、「浄土宗14派」の中で「弱小の白旗派・格式の持つ高位族・清光寺と西光寺」だけは「顕教令」の中でも密かに「隠れ蓑」を使い「密教」を護り通したのですが、その実態は「献納金」と「冥加金」で朝廷と幕府から黙認されていた事が記録で遺っています。
    ですから、「朝廷と室町幕府の律宗族認定」で、これを追認して江戸期でも「清光寺と西光寺」と「神明社と春日社」は「隠れて遺す事」ができたのです。

    故に、お便りには「顕教令下」であっても「西光寺」が、表向きは[顕教寺」ですが、実態は特別に密かに「青木氏菩提寺として遺す事」が出来ていたのです。
    これは「財と格式」があったからの所以ですね。

    故に「長島屋の青木さん」は秀郷一門である限りはこの「菩提寺の西光寺」で無くてはならないのです。
    そうでないという事はこの「青木さんと長島屋」に付いては「上記の二つの青木さん」という事に歴史観から成るのです。

    最後に、大昔から「桁紋」は「商標紋類」、「桝紋」は「職能紋類」と定められていましたし、他にも「神社紋類」とか「寺社紋類」とかありましたよ。
    届制の程度の緩い管理下に置いて混乱を避ける為に許可制にしていたのです。

    以上の様に史実を知り遺す為にも「青木氏等に係る歴史観」を使ったところが多いので、返信で判らない処が有りましたら、ご遠慮なくお便りください。
    お待ちしています。


      [No.1189] Re:続 豪商長島屋
         投稿者:静岡の青木です   投稿日:2021/05/16(Sun) 10:34:33  

    富士宮の青木です。たびたび失礼します。
    長嶋屋のことで一つ訂正がありました。
    長嶋屋の言い伝えに「元禄時代が全盛期だった」という、言い伝えがあるとお知らせしましたが、よく本を見ていましたら、この日光道中の宿場町の元禄八年の検地帳に「長嶋屋」がでているとのことでした。
    その時は間口五間程度の店であったようですが、その後五十年ほどの間に急成長し、間口二十間、奥行き三十三間、屋敷地六百六十坪の大店に成長しているとのことでした。
    これによりますと長嶋屋は元禄年間にはこの宿場町で商いをしていたことになります。この宿場町以外で商いをしていたのではないかと私見を書きましたが、訂正してお詫び申し上げます。

    ついでに長嶋屋の家系について、過去帳にある初代は青木将監で、次に名前がわかる方が「勘右衛門」さんで寛永元年(1624)に亡くなっていて、その後が善右衛門さん(1673没)となり、長嶋屋始祖の吉兵衛さんへと続きます。


      [No.1190] Re:続 豪商長島屋
         投稿者:静岡の青木です   投稿日:2021/05/15(Sat) 15:11:29  

    お世話になっております。富士宮の青木です。いつも丁寧なお返事を頂き、お忙しい中お時間をさいて頂きまして厚くお礼申し上げます。管理人様ならではの緻密な分析や青木氏のことを詳しく教えていただき興味が尽きることがありません。 
    長島屋のことで正確にお伝えしていなかったこと等お知らせします。長島屋のことを調べるのに何冊かの郷土史の本を参考にしました。地元の方で過去に長島屋のことを詳しく調べた方がいて昭和49年刊行の小冊子を出されています。この方も「長島屋がいつ頃どこから来たのか、武士なのかどうかもわからない」と書いていて、また「長島屋が豪商であったことは確かであるが、このような田舎の宿場に現金掛け値なしの商法があったとしても大商人が育つかどうか疑問が残る」と書かれています。
    この方の調査によると長島屋の御子孫の方から過去帳を見せていただくことができたそうで、その過去帳や戸籍謄本、墓碑などから長島屋の家系を調べています。過去帳に記されている初代の人は「青木将監」という人で天正4年(1576)に亡くなっています。
    日光道中の宿場町で「長嶋屋」として商いを始めた人は「青木吉兵衛」という方でこの方が長嶋屋始祖となります。吉兵衛さんは享保17年(1732)に亡くなっています。
    長嶋屋の菩提寺にある墓所にはこの吉兵衛さんの一代前の「善右衛門さん(1673年没)」から代々の墓があり善右衛門さんより先代のお墓はこの菩提寺にはないそうです。長嶋屋の家紋は五三の桐紋のようです。
    「長島」の字についてですが本によって「長島」とするもの、「長嶋」とするものがあり、私もよく考えずにお便りで「長島屋」と書いてしまい正確でなかったかもしれません。菩提寺に残っている長島屋の看板(池大雅筆)には長島ではなく、「長嶋屋」となっています。この看板は三越の前身の越後屋の看板によく似ているものだそうです。三越の商標は桁に三の字が書かれていますが長嶋屋の商標は桁に吉の字で商祖の吉兵衛からとったのではないかとされています。
    またもう一枚の長嶋屋の看板は徳川将軍の日光社参のときに将軍の休憩所となっていた浄土宗(知恩院末寺)の寺にも残っているそうです。この浄土宗の寺のすぐ近くには真言宗のお寺があり、こちらは4代将軍が宿泊したお寺でこの寺はもともと京都の醍醐寺と関係があったらしく歴代住職の中には九条家の人や六波羅蜜寺の住職を務めた方がいるそうです。この寺は昔の資料によると真言宗でありながら本尊は阿弥陀如来なのだそうです。長嶋屋の菩提寺とこれら二つの寺はわりと近接して建っていて、この3つの寺すべてに長嶋屋の痕跡があります。
    4代将軍宿泊の寺には天明の飢饉のときの石碑があります。歴史上最悪の飢饉と言われ、浅間山の大噴火に起因し、この宿場町のあたりも6センチくらいの灰が降り、稲田はすべてダメになり、7月だというのに寒くなってまた河川も降灰の影響で川底が上がり、川の氾濫につながったようです。このときこの宿場町の善意ある商人たちがお金や米を出し合って75日間にわたり粥の炊き出しを続け周辺農村の難民や宿場の難民も含め餓死者を出さずに済んだそうで、そのときの商人たちの名がこの石碑に刻まれています。その中に「長島屋善六」という名があります。(長島の字で彫られています)
    長嶋屋の墓所は市の指定文化財になっているそうで近いのでお参りにいかせていただきました。墓石の裏に代々の方の為した功績が墓碑として彫られているそうです。摩滅して読み取りずらいですが、いくつかの墓石に「長嶋」、「長島」,「長嶌」の3パターンの字が読み取れました。
    長嶋屋の幕府への献金ですが江戸城本丸再建時やぺりー来航時の品川砲台資金、長州征伐資金にも使われたようです。
    長嶋屋の生き方が伊勢のお家とよく似ているようにも思います。享保の改革後の長嶋屋の大きな事件としては天保の飢饉のときに打ちこわしにあっています。この宿場町に住んだ橘守部(伊勢出身)という国学者が門人に宛てた手紙にその時の長嶋屋の被害状況が書かれているそうです。長嶋屋はこの橘守部の門人であったそうです。
    また前回のお便りで書きました明治13年の大火は長嶋屋があった日光道中の宿場町の大火のことで言葉が足らず失礼しました。この宿場町の大火で長嶋屋の店も焼失したようです。この火事のことも伊勢のお家と状況が似ているように感じました。
    長嶋屋の言い伝えに「元禄期が全盛期だった」とあるそうですが元禄期にはまだ長嶋屋はこの宿場町で商いをしていないころかと思われ、この宿場町以外のところで商いをしていたのだろうかとおもいました。
    一方的に情報を書き連ね,、読みずらくて申し訳ありません。長島の字のパターンも色々あったり難しく私では判断する能力がありませんので管理人様に情報をお伝えし,考察の一助としていただければ幸いです。管理人様の仮説が成り立つとうれしいのですが、なかなか一筋縄にはいかないでしょうか。
    今回、管理人様と長嶋屋のことでお話しさせていただき、大変有意義でした。またサイトの論文をよませていただき青木氏の勉強を続けて行きたいと思います。またお便りさせていただきます。この度は有難うございました。


      [No.1188] Re:続 豪商長島屋
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/23(Fri) 16:21:04  

    イ 富士宮の件です。
    ロ 高島屋の事です。
    ハ 一色の件です
    ニ 神光寺の件です。
    ホ 神仏習合の件です。
    へ 斎宮の件です。
    ト 伊勢治の件です。
    チ 明治13年の大火の件です。
    リ 平将門の乱の件です。

    さて、次はハの一色に付いてですが、伝統でも論じている様に一色は天皇から「施基皇子」が与えられた「天智天武持統」の3天皇から「伊勢の土地」の「大字名」です。
    日本書紀の記載では、「合計5つの大字名と人民」を賜った様に成っています。
    然し、その記載の表現から解釈すると未だ確認されない「小字名の土地」があった様です。
    この面積を計算すると、伊勢の当時の有効耕作面積の8割を占めています。
    要するに、当に「二代目伊勢王としての実績」を持っていた事に成ります。
    これ等に、字の名を着けて呼んでいた一つが「一色」で、他に確認できる「大字名」には「4つの字名」が確認できます。
    然し、「施基皇子」が「功績」を立てるたびに賜った可能性のある「小字名」では「数十の小字名」の数に及んでいます。
    「施基皇子」は、「日本書紀」にも記載の通り、伝統で論じている様に、ある事件をきっかけに「額田部氏」とのタグを組み「員弁や桑名」等の当時沼地であった「不毛の地」を「干拓灌漑開墾」を施し、「肥沃な土地」にした事が記載されています。
    この事で「額田部氏」も「罪」を許されて、「真人」、「朝臣」、「宿禰」、「忌寸」、「道師」、「臣」、「連」、の「連」であった官位が「宿禰」に成る破格も特別破格の「3階級特進の出世」をしました。
    その「罪」とは、「桓武天皇」の行った「長岡京から平安京」の「遷都」に同行しなかった事に在ります。
    「遷都」に最も重要な者は、「土木工事の専門集団」ですが、当時は「額田部氏と結城氏と和気氏」の特徴を以て三つがその役を「技能集団の官僚族」として務め、中でも「額田部氏」が「職種技量共」に郡を抜いていました。
    頼りにしていた「倭人で技能集団と成った額田部氏一族」の「故郷の斑鳩」より離れる事を嫌い拒絶し、「斑鳩追放の罰」を受けたのです。
    これを「天智―天武―持統」の葬儀一切と「墳墓築造」に共に携わった「施基皇子と伊勢青木氏の裔」が救い、長い間、「額田部社」と共に「伊勢の桑名」に隠します。
    流石に、「出自元である伊勢青木氏」が隠している事を知っていても黙認していたのです。
    其の後に「伊勢一帯や近江などの干拓灌漑開墾」に成功し、「伊勢と共に殖産」にも貢献します。
    これが遂に評価されて上記の様に「額田」に土地を与えられ「額田部社・朝臣族では無い一氏では無い」も戻されて明治初期まで定住を許されたのです。
    この員弁や桑田と額田も施基皇子の大字名でそれ地名と成ったものです。
    この「賜姓臣下朝臣族の施基皇子・伊勢青木氏」の「大字名とその民」がその「格式を表す一つの呼び名・好字」と成って平安期には使われる様に成ったのです。
    記録に遺る通りこれをある事情で悪用したのが「鎌倉幕府の源頼朝」です。
    そのある事情とは「頼朝の鎌倉幕府」は、「地方政治」を「朝廷の守護職の政治」では無く幕府「幕府の地頭職政治」に置き換えて権力を掌握しようとしましたが「西の朝廷」はこれを認めませんでした。
    そこで、先ず承認の得られ無い侭に強引に手始めに「伊賀」と「西尾」に地頭を置いたのです。
    頼朝の格式も低く、その為に周囲から政治的に無視され「統治」は上手く行きませんでした。
    そこで一計を案じたのです。
    それがこの「施基皇子の格式」を匂わす「大字名の一色」を利用して恰も「施基皇子の伊勢の大字」と成ったかの様に見せる事で「朝廷の許可」を得たかの様に「格式」を持たしたのです。
    この一計は先ず「伊賀」と「西尾」とで効を奏しました。
    これを頼朝は盛んに各地で使ったのです。
    時には家臣に姓として褒美に好字名として与えると云う事をします。
    これが関西各地に広がりました。
    同じ「河内源氏の関東の足利氏」の「室町幕府」も「格式」は「9つの縛り」を護らなかった為に世間から低く見られ、家臣等もこの「格式のある大字名」を「第二の姓名」にするという事が起こり、「足利幕府」も「家臣」に「諱号」として与えると云う習慣が起こりました。
    「足利氏の家臣」の「一色氏」は当にこれです。
    「足利泰氏の子」の「一色公深」は、「三河国吉良荘一色・現在の愛知県西尾市一色町」を出自として、「大字名の一色」を「好字名の姓」として名乗ったのも上記の「西尾の一色」です。
    伊賀の足利氏の地頭の一色は出自元である事から無視され遺る事はありませんでしたし、結局、この地頭で赴任した「足利氏」は流石に居られずに「伊賀」から引き上げます。
    既に、「西尾の一色」の前には直ぐ東の「美濃額田の一色」には「浄橋や飽浪」が「四家の桑名青木氏」から「三野王家・後の土岐氏」に嫁ぎ、「出自元の大字名の一色」を「地名」として平安期から着けていましたので、二番煎じでした。
    この「好字名」は奈良期から平安期には「好字の統制をする為に「好字令」が出る始末で、結局はそれには「三つの目的」を含ませていて、続けても三代目までとする「仕来り」と変わりましたが、鎌倉期―室町期以降は全くこれを護られませんでした。
    中でも酷かったのは、「格式の無かった徳川家康」などは無理に格式を高めようとして、「朝臣族」と搾称して、「源氏、藤原氏、平氏、橘氏等」を「時、場所、人」に依って使い分けて「背伸びの好字名と諱号」を使い分けましたし、それに習って重臣旗本までも使いました。
    流石に徳川氏は「青木氏の氏名」だけは使った形跡はありませんでした。
    「施基皇子の一色等の六つ大字名」は、当初は、資料から観ると「しきのみこ」の「色・しき」から発したものであった様で、この「色・しき」は「八色の姓」、即ち「八つの色」は「八つの草」であって、故に「やくさのかばね」であり、この「草」は「土地」を意味し、資料の語りでは「色」としたものであるとしています。
    そして、それが何時しか「一色」と成ったとされ、その「一」は「八色の姓」の「最上位の真人」に位置していた事とされ、天皇が持つ冠位に継ぐ「浄大一位」の「一」に由来する事で「一色」とされたと「資料の流れ」から読み取れます。
    故に、この「一色の大字名等」は「青木氏の格式」を「大字名」で表現し、その「土地」で最大限に表現したものであったのでしょう。
    その論理で検証すれば他の遺る「五つの大字名」もこれに係わる近い表現から外れていません。
    この様に、「諡号の姓族」と違って“「氏族の格式表現の手段」”として「大字名・好字名・ 諱号名」として並行して使われた事が判ります。
    「近江の佐々木氏の始祖」の「川島皇子の大字名」も「4つの大字名」が「日本書紀」にも記載がありますが、上記の様に「格式表現」としては全く使われていませんし、他の姓族も「近江佐々木氏の大字名」を「一色」の様にして使われた形跡は遺されていません。
    つまり、云わんとする処は、ここには「同族の重血縁族」にありながらも、「伊勢青木氏との違いの格式概念」が特別に奈良期からも世間にはあったと観られその「証拠」と成り得ます。

    ニの「神光寺の件」です。

    伊勢松阪の駅前の広場先の右側一帯は、「寺町」として「蒲生氏郷」に依って城郭の区画整理された地域です。

    「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「伊勢」を蒲生氏郷が統一して松阪城を建設して「城町」を造りました。

    この時の名残として「青木氏族の菩提寺の清光寺」の周りには室町期の当時は「4つの寺」が隣接していたとされます。
    ところが、度々の火災で焼失して「江戸期」に入って「顕教令」に基づき「密教の菩提寺」の「氏寺の清光寺」は実質無く成り、江戸初期の火災でこの清光寺も焼失して、ここに「伊勢支藩の紀州徳川氏の菩提寺」として新たに建設される事に成り、元あった場所より「東2m横」に建設されたものです。
    ここにそして寺名も「青木氏氏族の菩提寺名の清光寺」として名付けられた事が記録として遺されています。
    この時に元の位置にあった「焼け跡の一切の青木氏の墓所」をこの位置に移動を許されたと伝わっていて、その元のその寺の名は「神光寺」であったとされ、移された事で「青木氏の菩提寺名」の「1000年以上の由緒ある清光寺」に着け直されたと伝わっています。
    現在も「青木氏の主家の墓妾と共に四家の墓所」が女墓と共にここに多く存在します。
    この時に一区画内に4つの宗派の違う寺が隣接していた事が記されていて現在もその様ですし、周囲には「光」の着く寺名が「伊勢秀郷流青木氏の菩提寺」であった「西光寺」を始めとして周囲には「光」の着く「6つの寺」があります。これは「伊勢郷士衆50氏の家人青木氏の菩提寺」であった事が伝えられています。
    「平成10年10月」まで「伊勢松阪の主家・祖父の妹に継がせた松阪殿の家」は遂に「男女の跡目一切」が途絶え、「旧領地の尾鷲」に移住していた元々の主家の我家に主家が戻りました。
    その為に、奈良期からの先祖伝来の賜仏の仏像はこの清光寺に移して祭司させてもらう事に成りました。
    当家ではお仏像様と呼ばれていて当家の一室に1000年位上も祭司されていた「伝来の護り本尊とされる仏像・鞍作止利作・司馬達等の孫 作家の司馬遼太郎の祖先」の写真を本文に添付します。
    当家に仏像の見学に訪れた歴史があります。

    伊勢松阪の駅前の広場先の右側一帯は、この様に「寺町」として「蒲生氏郷」に依って城郭の区画整理された地域です。
    「信長の楽市楽座の思想」を受け継ぎ「伊勢」を蒲生氏郷が統一して松阪城を建設して「城町」を造りました。
    この時の名残として「青木氏族の菩提寺の清光寺」の周りには室町期の当時は「4つの寺」が隣接していたとされます。
    ところが、度々の火災で焼失して「江戸期」に入って「顕教令」に基づき「密教の菩提寺」の「氏寺の清光寺」は実質無く成り、江戸初期の火災でこの清光寺も焼失して、ここに「伊勢支藩の紀州徳川氏の菩提寺」として新たに建設される事に成り、元あった場所より「東2m横」に建設されたものです。
    ここにそして寺名も「青木氏氏族の菩提寺名の清光寺」として名付けられた事が記録として遺されています。
    この時に元の位置にあった「焼け跡の一切の青木氏の墓所」をこの位置に移動を許されたと伝わっていて、その元のその寺の名は「神光寺」であったとされ、移された事で「青木氏の菩提寺名」の「1000年以上の由緒ある清光寺」に着け直されたと伝わっています。
    現在も「青木氏墓所」がここに多く存在します。
    この時に位置区画内に4つの宗派の違う寺が隣接していた事が記されていて現在もその様ですし、周囲には「光」の着く寺名が「伊勢秀郷流青木氏の菩提寺」であった「西光寺」を始めとして周囲には「6つの寺」があります。
    「平成10年10月15日まで「伊勢松阪の主家・祖父の妹に継がせた松阪殿の家」は遂に「男女の跡目一切」が途絶え、「旧領地の尾鷲」に移住していた元々の主家の我家に主家が戻りました。
    その為に、奈良期からの先祖伝来の「賜仏の仏像」はこの清光寺に移して祭司させてもらう事に成りました。
    当家ではお仏像様と呼ばれていて当家の仏像部屋に安置され1000年位上も代々受け継ぎ祭司を続けていた「伝来の護り本尊とされる仏像・鞍作止利作」です。
    写真館に記載しています。

    次はホの件です。
    実は、神明社と清光寺は奈良期からの歴史に於いて「守護神の神明社」を主体とした氏族で、清光寺は、表向きは「聖武、孝謙天皇」が「天皇家の守護神の皇祖神」を主体としながらも、「仏教」を取り入れて国の安寧を護るとする概念を取り入れました。
    この時、「皇親族の賜姓臣下朝臣族」であった伊勢の青木氏もこのが五年に従い、これに従って清光寺を建立したのです。
    この仏教とする処は、伝えられたばかりの「後漢の渡来人」の「造の部人」等に依って「古代密教浄土の古式概念」の独特の伝統を持つ仏教でした。
    現在の浄土宗の原型と成るもので、「皇親族の賜姓臣下朝臣族」の立場を保たんが為に飛鳥より引き継ぐ「神道の神明社の古来概念」と「独特の古代密教浄土の古式概念」とを“融合”させて立場の保全を図ったのです。
    当然に、この“「融合」”とは、“二つを一体とする概念”を確立させたのです。
    習合とは、つまり、“ノリで接着した概念”では無く、どちらともない「宗教体」を「融合」として造り上げたのです。
    従って、「青木氏」にしか通じない「青木氏の独特の密教」という事に成ります。
    最初の「神明社の概念」の中に「古代密教浄土の古式概念」を溶け込した概念と成ったのです。
    嵯峨期から賜姓された「源氏」が創り上げたのは「八幡社の概念」と「八幡菩薩の仏教概念」を「二つ貼り合わせ」とする「習合」とは異なる事に成ります。
    それは「青木氏の融合」とは違い「賜姓の状況」が異なる事から来ています。
    「源氏の場合」は「習合の構造」であって「密教・・・」とはならないのはここにあります。
    従って、「天皇・朝廷」は「賜姓源氏」に対して嵯峨天皇が「皇位族系朝臣族」に求めた「格式」の「9つの縛り」を守らなかった事も合わせてあり、
    その密教とするグループの「白旗」の「密教の仏教の旗印」を与えなかったのです。
    頼朝は勝手にこの「白旗」とその「格式の印の笹竜胆紋の象徴紋」とその氏の「神木の青木の賜樹木」と前に論じた「賜姓仏」を与えなかったのです。
    唯、「頼政の以仁王の乱」を引き継ぎ勝利した頼朝はこの頼政が持つ摂津源氏の「9つの縛りの格式」をある程度護った「摂津源氏」には象徴紋と白旗の御印」を朝廷の許可が下りなかったので、勝手に「頼政引き継ぎの政権」としてこれを以て「河内源氏」が無断使用したものです。
    一切、この事からも「河内源氏」にはこの「三つの賜姓物」を賜った記録は有りません。
    当然に、「釈迦八幡の習合の概念」と成るのです。
    「青木氏族」は「密教」であって、「顕教を広めた釈迦」では無く、「密教の大日如来」なのです。
    「釈迦」が「仏」に代わって「釈迦」がその「意」を「民に直接伝える」とする顕教とする、つまりは「習合」と、「大日如来の教え」を「悟りに依って伝える」とする「融合」とすると云う「概念の差」があるのです。
    「顕教の習合」は当然に「伝達の間」があり、それが釈迦であり、悟りで大日如来の教えを直接伝える一体化した「密教の融合」とは「伝達の間」が在るのです。
    お陰で、江戸初期では、この「密教」を解体するために顕教令を出し、その「神道の神明社」を幕府管轄にして荒廃させて解体しました。
    「柳沢吉保」は「甲斐青木氏の出自」であった事から、密かに武蔵の神明社4社を修復して何とか遺しました。故に甲斐あって現在でも神官は青木氏です。
    又、「伊勢と信濃の青木氏」では明治維新に「密教である事」に酷い迫害を受けたのです。

    次はヘの斎宮の件です。
    伝統で論じている通り、伊勢と信濃の青木氏は皇位から外れた皇子皇女の皇女だけを「生き延びる先」として「平安期中期頃・嵯峨期の賜姓族外し」までは引き取りましたが、これを機に天皇家との関係性は一切決別しました。
    女系制度もその一つです。
    「青木氏」の「女(むすめ)」として匿いましたが、それ以降は天智期の大火の改新で皇族より排除され第四世族外の皇子皇女等は坂東に配置されて生き残った「坂東八平氏・ひら族」を頼った様ですが危険な道中で殆どは行き着く事は無かった様です。
    伊勢ではこれが「多気郡の斎王乃館」と云う場所です。
    他には「青木氏の菩提寺の清光寺や来迎寺」等の寺にも「尼皇女」として匿いましたし、伊勢の数多くある「神明社」にも「斎宮」としても匿いました。
    「若い皇女」は「青木氏」の「女(むすめ)」として「妻嫁制度」で養育されて「四掟」で「嫁家制度」に基づいて「秀郷一門等」に嫁ぎました。
    「嫁いだ先の家娘」も「伊勢と信濃の青木氏の四家の嫁」として再び嫁いでくる「嫁家制度」の中で生きていたのです。
    寧ろ、「皇族の中」よりも「伊勢や信濃の青木氏」に逃げて来る多くの皇女も居た様で、「青木氏」そのものが「女系族であった事」も左右したと考えられます。
    中には、福家から「女系で繋がる伊勢郷士衆や信濃郷士衆」に嫁ぐ事もあった様です。
    正式な記録には平安期中期まで32人ですが、これは「皇女とされる者」だけの数で、妾までの子供や王位を受けられなかった者や、後家とするとした「女(むすめ)」も含めると数百人と成るでしょう。
    「伊勢青木氏で遺されている資料」では記録の表現として“数百”との書き方をしています。
    恐らくは「正式な記録」があったと考えられますが、何度も起こった「伊勢大火」で「記録保存カ所の神明社や清光寺」などが焼けて消失しているのです。
    中には一度は「伊勢屋から失火・放火」もあって、又、「伊勢騒動」に係わる明治維新頃の薩摩藩などからの「資料や記録の元」を消そうとして「打ち壊しや着け火」もあって消失している事もあります。
    「伝統」も詳しく論じています。
    トの江戸伊勢屋の件です。
    最終は伊勢青木氏と吉宗の関係は信濃青木氏の聖域の約半分を没収しそれを四人の家臣に分け与え新藩を造り、殖産と職人の人を奪い幕府領として財源にしてしまいます。
    裏切られた江戸の伊勢青木氏は危ないとして3日の内に200店舗もあった伊勢屋を無償譲渡して店子に渡し伊勢に船で帰り着き後は紀州藩に守られます。
    全国と江戸に多く伊勢屋が広がった原因はこの事が原因です。
    現在の「質屋」もこの時の事に成ります。
    現在の「質屋」とは、「市民金融」を江戸に活発化させて「享保の改革」を推し進めた手段として少し違う形で営まれていました。
    当初の「江戸の伊勢屋」が始めたのは、中国で古くから仏教メッカの金山寺が“市民を救う為の布施行”として行われていたもので、これを古くから「質・しち」と呼ばれていました。
    これを「伊勢青木氏」が「令外官」として「仏教の寺」では無く、「神道の神明社500社の全国組織」を使って救済処置としました、人生過程で失敗し、いろいろな意味で失敗した「青木氏族」を救う為に「越前」に集めてこの「質」を「5か所」にして配置し救ったのが始まりで、明治初期まで続けられた「金融組織」です。
    その大財源は、「伊勢青木氏の伊勢屋」から出ていましたが、「能力のある者」に「仕事」を与えて成功すると、「人」を雇い「職」を与えて「布施に当たる寄付」を受け付けて、それを「質」で回転させて、「一般の青木氏とその家人等に賃料として支払う「生活システム」を構築していたのです。
    江戸でも伊勢屋は、「ハローワーク」と「銀行」と「賃貸業」と「物々交換業」の「四つの窓口」を持ち、これを一体化したものであったとしています。
    それがその後に享保の末期に「伊勢屋と青木氏」が伊勢に引き上げた後に、四つがばらばらに成って独立した「伊勢屋」が出来て営まれたとされます。
    これが初めての「日本の経済システムの始りの始り」であった事に成ります。

    チの東京に12年と13年と続けて起こった「神田日本橋の商家の大火」ですね。
    これが元でお家がお調べに成った「長島屋が引いたとする説」と成ると、前述した「仮説」では享保期からですから「90年間の衰退期間と時期」が長すぎる事も考えられますね。
    「持ち堪えた事」もありますが、それにしても「幕府の享保期の影響」が無かった事に成りますね。
    仮説が正しいとすると、それ程に「商いの上」では「伊勢屋との関係」が目立つものでは無かったとも成りますね。
    「青木氏と伊勢屋」が身の危険を江戸と伊勢で史実として受けていた事は
    から考えると「伊勢屋」との関係から間違いなく受ける筈ですが、矢張り、長島屋の「莫大な冥加金」が働いて失いたく無かった事もありますし、秀郷一門とすれば「官僚」として内部で抑え込まれた事もあり得ます。
    では「衰退」は何であったのかという疑問が湧きます。
    江戸でも貢献しているのに衰退させた要因は何かです。
    「長島屋に代わる御用商人」が出て来たのかですね。
    何時の世も「大火」があると「総合商社」は潤う筈ですね。
    それが衰退したとなると何かが在った事に成りますね。
    矢張り、普通は「御用商人」が入れ替わったと、当時に「長島屋を支えていた上級官僚」の「一門の者」がその座から去った事に成ります。
    明治13年ですから秀郷一門では無く薩長の御用商人との入れ替わりの維新政府と成りますね。
    仮説では、「享保期」とその後の「90年間」は何も無かった事に成りますね。
    「伊勢」では、幕府との「戦いに似た軋轢」が以後も続いていて「山田奉行所との戦い寸前・伊勢シンジケートを動かして」の大変な事が起こっていたのですが、この「救い」は「紀州藩との付き合い・莫大な債権」と「朝廷への献納金」でした。
    「秀郷流一門の歴史観」から来る「長島屋の屋号の件」とその「システム構築の財」は解決できませんが、お説の通りに「江戸期のその後の長島屋の貢献」にそもそも在ったのかも知れませんね。
    豪商として総合商社として成りあがるには、荷駄を運ぶ事や物品を買い占める場合は、その“「組合持合株」”を買い取らなければならず不可能で許可は降りません。
    この“「組合持合株」”は、「株を売る人」が無ければ買い取る事は出来ませんので大変な超高額になり、「売り」が無ければ結果としては殆どは「その株の持つ店」をそっくりと買い取る事に成ります。
    「その財」が何処から出たのかであり「秀郷一門の長島氏」が出せたのかですが無理だと思います。
    武士でも「武士株」と云う「格式」に従ってあって、上に成るにはこの株を買い取る必要があったのです。
    それにしては「長島屋のお寺」が「西尾の足利氏一色」の「曹洞宗の寺」と同じという事は「顕教」であった事に成り、「秀郷一門の慣習仕来り掟の歴史観」とは少し肝心な事で外れていますね。
    解決するかは別として「伊勢」から観れば「長島」は疑問が遺ります。

    リの平の将門の件です。
    この乱を沈めたのは一族の本家の「伊賀のたいら族の貞盛」と押領関東押領使の藤原秀郷・俵源太」でしたが、お便りの通り、貞盛だけの軍勢では一族が興した反乱を鎮める力はありませんでした。
    念の為に良く間違われるのは、「坂東八平氏」の場合は「ひら族」です。
    大化の改新で第4世族外で更に第7世族以上は坂東に配置され、これが「坂東八平氏」と呼ばれるひらに成った事からな名付けられた「ひら族」です。
    これに対して「桓武天皇」が「後漢の渡来人の阿多倍王」の伊賀の子孫に与えたのが「たいら族」と呼ばれるその裔系が異なる族です。
    そこで、「紀州と伊勢の惣国衆」を集めて臨んだのです。
    その中に、紀州一帯の豪族で「傭兵衆の紀族」を集めました。
    紀族には「飛鳥5大政権」の「紀族と巨勢族・葛飾族」の三つが存在していましたが、取り分け「紀族」は朝廷の要請で乱が起こると積極的に傭兵軍団として参戦したのです。
    この「紀族」には特徴があって戦乱が終わってもその赴任先に子孫を遺して来る戦略を採っていたのです。
    「紀の姓」を名乗るとか、「紀」に土地の名を着けて名乗るとかして子孫を遺してきました。
    江戸初期や明治初期には「紀族の由来」も消えて別の姓名に変更した経緯を持っています。
    お便りの通りこの「紀の族の子孫」が討伐軍を引いた後でもこの土地にも遺っている筈なのです。
    恐らくはこの族の裔と考えられますね。

    「研究中の仮設の長島屋の件」では伊勢だけの資料であり疑問が残りますが今後の資料発見に期待する以外に在りませんね。

    以上お便りに参考の歴史観として記述しました。
    大変に参考と成りました。
    ではまた何か判りましたらお便りください。
    お待ちしています。


      [No.1187] Re:應仁の乱までは青木だったようです。
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/22(Thu) 10:26:41  

    副管理人から返信

    サイト事情で正規な方法で返信投稿できませんでしたので、今回はお便りから返信する事にします。
    お許し下さい。


    今日は。始めまして。
    ようこそ全国の青木氏が集うサイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。
    随分とサイト情報で青木氏の事をお知りに成っている様ですね。
    何でもお聞きください。

    さて、今回のお尋ねは先ずは、
    1 伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとする「青木紀伊守の件」とそして、何時から青木氏であったのかと云う事ですね。
    2 1のルーツとする「青木紀伊守と駿河守安豊の3代目の青木駿河守安豊」が信長に滅ぼされ「岩田」に隠れ住んで、「岩田」を名乗つたとし、その後に「北畠氏に仕えたとする事」ですね。
    3 江戸時代に員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋務めたとする事ですね。

    さて、要するにこの3つが「伊勢青木氏の史実」に合致するかですね。

    お答えは青木氏の遺された史実に大まかに合致しています。
    唯、一部に矛盾の疑問が残ります。
    では、但し、それには「一つの流れ・経緯」があります。
    それをご説明いたします。

    1に付いて、この人物は記録的に実在した事は判っていますし、江戸初期の記録にも「伊勢青木氏」で記載されていますし「青木氏の記録」にもあります。> その前に、では何時、青木氏であったのか?ですが、お答えは、お家は「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」で、「奈良期末期」からです。
    この「伊勢青木氏の発祥」は、「大化の改新期の647年」の伊勢松阪からです。
    その「始祖」は、「天智天皇の第7位皇子の施基皇子」で、改新に依って「第4世族内の第6位皇子以上・5位も含む」は「真人族」から「賜姓・氏族青木氏」を授かり、臣下して朝臣族に降下して「二代目の伊勢王」と成りました。
    その「子孫」は「ある目的」から「青木の氏族」の「氏名」だけを名乗り「伊勢」に発祥する事に成ります。
    これが先ず五家五流の「全国の青木氏の始まり」です。
    その記載の詳しくは「伊勢青木氏の記録資料」や「日本書紀や累代三大格式録等」にも詳細に記載されていますし、「伊勢の記録」にも遺ります。

    そこで、さてそもそも当時の奈良期に付いては、“「部経済」”と云って「全ての民」、即ちこれを現在の全く違う意味の当時は「百姓」といいました。
    この「百姓」は、「職人・部人」として扱われ、彼等が作った「全ての物品」を先ず「朝廷」に納められて、朝廷で使われる以外の余った「全ての物資」は市場に放出して売り裁き、その「利」を獲得して、「朝廷の副財源」とする「経済システム」でした。
    これを「施基皇子」が臣下して生まれたその「子孫等・この時は「約30人程度」が、賜姓時に天皇から命じられた「役・賜姓五役」を務め、その一つとしての「役目」の「永代令外官・天皇から勅命・密命」を果たす特「特別官職」としての役を担ったのです。
    つまり、朝廷を潤すためらは朝廷自らが「商い」は出来ませんので、「皇子」を一般に臣下させて「諡号の特別氏名の諡号姓の身分格式」を与え、これに「特別権限」を与えて、「朝廷や天皇家の財を潤す役目」を与えたのです。
    これを「施基皇子」が担いその子孫が実行すると云う組織を造り上げたのです。
    そして彼等に「賜姓五役と云う特別な最高格式・青木氏以外に無い」を与えます。
    これが所謂、現在で云う「身内の者」が果たす「特別御用商人の役目」の最初で「大商いの始まり」です。
    昔は、この「天皇」が「特命」を与え実行するのがこの「令外官の仕事」でした。
    中には大臣や官僚などに云えない「命令」を「秘密裏」に行う事も多くあったのです。
    そして、その為にその仕事をやり易くする為に、「伊勢青木氏」に「特別権限」を与えます。
    其れが「賜姓五役」と云うもので「皇族」を始めとして全ての官僚も、この「賜姓五役の持つ者」に従う事しかなく、その立場も「天皇に継ぐ格式・官位官職・浄大一位」を持っていましたので、従って、大臣であろうがこれに従うしかなかったのです。
    故に常に「天皇の傍・寝所の隣の部屋」に居ました。
    それは「身内の者であった事」で安心して「正しい情報」が入手できるからです。
    元々、それは「伊勢青木氏」は「近衛軍団の最上位」の「永代の上佐の階級」を持っていました。
    更には、それらの朝廷が持つ「全職人」を束ねる「国造」の「差配頭・伴造」を「令外官」として務めました。
    つまり、この「天皇」に代わって全権を握る族である為に特別に「氏族」とし、これを「政治の全権」を握る「皇親族」と云われました。

    さて、戻して、お話の様にこの時の職人の殆どが進んだ技能を持つ「渡来人・後漢」であったのです。
    「日本書紀」にも記述されている事ですが、「天武天皇」はこの事に憂い、「青木氏等」に命じて“「倭人の職人」を育てる様に”と命じます。
    これを「賜姓臣下族の施基皇子」が受けその裔の「伊勢青木氏」が実行したのです。
    「天武天皇」がこの「兄の天智天皇の施基皇子」を「川島皇子」よりも、又、自らの全ての皇子よりも「上位・浄大一位」に置いて可愛がった理由はここにあったのです。
    日本書紀にも記されている通り、更には自らの葬儀や后の持統天皇の葬儀も事前にこの「施基皇子とその子孫」の能力を買って任す様に命じたのです。

    「中国の後漢」と云う国が隋に618年に滅ぼされて「200万人の職人集団」が九州北部に渡来族として上陸し瞬く間に九州全土を「無戦・3日」で制圧します。
    そして、その「勢い」は関西の手前の兵庫県域まで無戦占領し、遂に33/66国まで占領する事に到ります。
    これは占領と云うよりは、「倭人」は積極的にこの「進んだ技術技能」を習得する為にこの渡来人の支配に入って戦わなかったのです。
    此処で、渡来人側は「戦い」を止めて大和朝廷と講和して九州南部の「隼人」と「阿知・現在の地名として遺っている」に戻って行ったのです。
    ところが、その後、713年頃に朝廷は薩摩に船で攻めますが完敗し負けてその時の王の「阿多倍王」と父の「阿知使王」を飛鳥に呼び寄せて、特例で「准王位」を授け、「伊勢」を「半国割譲」して「伊賀」と「隼人と阿知」を正式に半国譲渡して与えます。
    この「伊勢の半国割譲」に係わったのは、命を受けていた「始祖の施基皇子」であり、「倭人の技術者技能者の実現」の為にも阿多倍一族と血縁して係わります。
    これが「伊賀の青木氏の発祥」なのです。
    この時に「阿多倍王の渡来人」が「伊勢伊賀」に住み着いたのです。
    そこで、この「渡来人の子孫」が拡大し、その一族が興した「平の将門の反乱」を沈めた一族の「父の始祖の平国香」と「子の貞盛」が、「敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘」を娶り、先ずその子が「大蔵氏・次男・北九州」で「内蔵氏・三男・奥羽」と「坂上氏・長男・飛鳥・京都」を発祥させます。
    この「朝廷の軍」を担った「坂上の田村麻呂」が日本全国を制圧した「桓武天皇の義理の弟」として活躍した有名な人物で、「朝廷の財源」を担った役の「大蔵氏」は「九州探題の大監」として九州を任された人物で、仏像の仁王様のモデルに成った超有名な人物・種材」で、「阿蘇神社の神官祖の菊池氏や筑紫氏等」の始祖と成ります。
    「天皇家の財源」を担った「内蔵氏」は「奥羽の大豪族の安倍氏の祖・秀吉に滅ぼされる」と成ります。

    当時は、「三蔵・斎蔵の藤原氏」と云い、朝廷はこの「三つの官僚形態」を採用していました。
    これに「天皇を護る近衛軍・青木氏と藤原氏」を加えて四つの政治形態」をとっていたのです。
    この「令外官」の「近衛の氏族」が上記した様に「賜姓五役と令外官の役」を担ったのです。

    要するにこの経緯で「伊賀の阿多倍王・清盛の祖」と上記の「賜姓五役の伊勢の青木氏」と血縁して「伊賀青木氏・桓武期」が発祥したのです。
    その「伊勢青木氏の裔系の伊賀青木氏」が「お家の青木氏」です。
    この「伊賀青木氏」は「永代賜姓五役の令外官役」の「情報機関と秘密警察と秘密武力集団」として江戸時代末期まで大活躍したのです。
    当時は秘密裏に、これを当時は「お家」を含む「伊勢青木氏」の「伊賀の香具師・忍者はこの一部役・伊賀青木氏」と呼びました。
    江戸期にも「伊勢青木氏」と共に表舞台に出てきますよ。
    「伝統」をお読みに成っているとこの言葉に出会います。

    このそれに繋がる「桓武天皇」の所以は次の通りです。
    そこで「伊勢青木氏」の「施基皇子の四男」で「白壁」と呼ばれる子がいて、「孝謙天皇」の時に皇族に皇位継承者が完全に絶えた為に、この200年弱前に「皇族」であった「施基皇子の伊勢青木氏」に「白羽の矢」を立て、一般化して上記の令外官として勤しんでいたのてすが、嫌がる奇人を装っていた「青木氏の白壁・54歳」に、無理やり「孝謙天皇の姉の井上内親王」を嫁がせて「皇族に戻す策」を執り、既に「商い」をしていた「54歳の白壁」は、結局は、「光仁天皇」と成って「天智天皇系に戻した形」としたのです。
    この「光仁天皇の子の山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。
    「光仁天皇の妃」が「伊賀の平貞盛」の「孫女の高野新笠」で「桓武天皇の母・妃」と成ります。
    つまり、「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」の血筋を引く「高野新笠」と同族血縁した事に成ります。
    そして、伊賀に居た「平族・たいら族・清盛の祖」は其の後に播磨国に一族が全て移住します。
    元から伊賀に居た原住民の者や渡来人の者や平族の一部の遺った者等の融合族は、「伊勢青木氏」と血縁した「伊賀衆の族等の18氏」として生き延びます。


    時代は飛ばしますが、室町期末期にこの「生き残り」の為に「伊賀青木氏」が「信長の配下・合力」に入り、その為に「紀伊守」を名乗ったのです。
    ここに「大きな経緯」があるのです。
    そもそもこの伊賀国とは、北には山を挟んで現在の甲賀域までを室町期中期頃までは“「伊賀・伊勢の賀州」”とよばれていました。
    ところが室町期の戦乱でその「生き遺る為の生き方」を巡ってこの「伊賀」の中で「激しい争い」が起こりました。
    一つは、生き方を縛られたくないとする一派は、「大豪族・主君」に仕官せずに「味方・合力」して生きて行く「味方合力論・傭兵形態」
    二つは、逆に主君に仕官して家臣と成って契約して安定して生きて行く「家臣論・契約形態」でした。
    「伊勢の影響」を色濃く受けている近い「南域の伊賀」は、「味方・合力」を採りました。これが現在域の伊賀です。
    「伊勢の影響」を余り受けていない小山を一つ越えた近江に近い北側域は「家臣論」を採ったのです。これが北側に存在する甲賀です。
    この二つに分かれて仕舞ったのです。
    何れにもこの「伊賀域の青木氏」は「桓武期」に発祥していますので「伊賀青木氏」と「甲賀青木氏」は存在します。

    さて、当時はだれでも「‥守」を勝手に名乗ったのですが、この信長に与力・合力する以上は、「名目の官位」が必要で一国の頭としての格式名として「紀伊守」と名乗ったのですが、これが自由の効く当然に合力派でした。
    家臣化したので「甲賀青木氏」にはこれは有りません。
    故に、最初は「応仁の乱」を境の戦乱期では、「伊賀守」を名乗って「信長」に味方し「伊賀」を任された形で「二万石の豪族の形」となります。
    但し、「4万石・10万石の説」がありますが「室町期の時期」に依って石高は違うのです。
    「甲賀域を含めた伊賀域」では石高は4万石はあり得ますが、10万石説は無いでしょう。

    「家臣論の形態」と違って「自らの力の二万石の豪族」として「合力・俸禄」は無く「身分だけを保証される形態」を採りながら生きて行く事に成ります。
    これが「伊賀青木氏の紀伊守」でした。

    そこで「小さい疑問」です。
    そもそもお便りの「天皇が城を与えるという事」は100%先ずありません。
    あるとするならば「武士」ですので、それ統括するその時の「幕府の管轄下」にありますので幕府と成ります。
    ここに先ず間違いがありますね。

    故に、「後醍醐天皇の件」は絶対に無いし、且つ上記の「青木氏」であり、且つ、「伊賀の生き方」である限りにも無いと考えますし、“「氏家制度」”の中では「青木氏の宗家・福家」の「伊勢青木氏の松阪殿の了解」の無しには絶対にできません。
    勝手にすれば「青木氏」から排除され生きて行く事さえも出来ません。
    従って、“先祖が津の岩田を横領して姓も岩田”の件も、“横領”とする事は元より「員弁」は「日本書紀等の歴史書」に記載にある通り、「青木氏の旧領地」で、且つ、この地域の「地権」も持っていますし、自らの土地を自らが奪うと云う事は有り得ません。
    これも間違いです。

    そもそも、「室町幕府」からも「青木氏族」は「律宗族」として「本領安堵」されていますのであり得ませんし、これは記録にも遺ります。
    そもそも「氏家制度」の中で一族が固く結束して生きている限りは一人はみ出して勝手な事は100%無く、“「青木氏の氏名」”が在るのに態々「岩田姓」も勝手にはできない筈です。これも100%無いです。
    そんな事をすれば「伊勢」にはいられませんし、生きて行く事も100%出来ないでしょう。
    況してや、「伊賀青木氏」ですので「掟破り」で厳しい伊賀の中でも尚無理です。
    そう云う「一大事の事」に成れば「伊勢の福家」か「清光寺の菩提寺」か「守護神の神明社の祐筆記録」の青木氏に遺り、一切の出来事、つまり歴史を「祐筆」は遺す制度と成っていましたので、これに関する「記録」は遺りますが資料や記録は有りません。

    つまり、何か変ですね。ここで、お家にその様な記録がある事に「錯語の問題」が生まれるのです。
    恐らくは、途中で「恣意的な伝統の伝承の忘却消失」が起こった可能性がありますが、これ等の歴史観の無い錯誤の事を伝え遺した者がこれさえも「菩提寺か神明社」に行けば直ぐに解る事ですので理解が出来ません。
    そもそも「青木氏」とはそういう上記した組織で、奈良期より伊勢全体を全ゆる制度で固めていましたから、何故その様な記録が遺ったのかは先ず解明する必要がありますね。

    どうもその錯語内容から観て、その「伝えられた事の全体」が「明治期以降のお家の誰か」の様ですね。

    「岩田の庄屋」であったとすれば、寧ろこれ等を護り取り締まる立場にあり、「氏家制度の上位」で「伝統を監視し、精査し、記録しする庄屋と云う立場」での記録もあるのに、何か変ですね。
    一度、越前に移動時にこの「伝統」を失ったのか、一族の中に勝手に調べずに明らかに矛盾している処が多いのは、「史実」に基づかずに繫ぎ合せた様な事ばかりを言い遺したか、当時の歴史習慣に基づかずに無理に書き遺したかにありますね。
    其れ等の事が良く起こったのは「江戸初期か江戸期の末期前後」ですね。
    「青木氏の中」で生きていればこれらの事は無い様に考えますが。



    考えられる事は末期頃に何かが在って、又は起こって、「お家」と「青木氏の四家」とが疎遠に成ったかですね。
    だとすれば、然し、「疎遠」に成れば「地権」も亡くし、「庄屋」も失うので「庄屋」も失った程の出来事が起こった事に成りますね。

    そこで、一般的に考えられる「仮定の話」ですが、「青木氏」から外れ「岩田に成った事」に起因していた可能性があるのではないでしょうか。
    つまり、「青木氏を名乗れない事」が起こった。だから「岩田姓」として「青木氏」から外れたと云う仮説です。それで許して貰ったとする筋書きです。

    「氏家制度の社会」の中では、「姓を持つ者」が「当時、姓を変える事」は「無宿者・裏切り者」に成り、「一族を養って行くだけの糧を得られず死活問題・命問題」で簡単では有りませんでしたからね。

    「打ち首に成る国抜け等の重罪」はしていない様なので、軽犯罪を犯したか、>婚姻に従わなかったか、>伝統に従わなかったか、要は興ったとすれば「青木氏の中で処置できた事」に成るでしょう。

    この仮定を証明するには、「宗派、家紋、墓所、菩提寺、過去帳」などの「情報」で「決・掟・歴史観」がありますので判りますよ。
    普通は下記に記している様な事が考えられるのですが、疑問が残ります「岩田姓」と成った時期の前後の情報です。

    次に、「2の問」の通り「信長のやり方」は、「光秀」や「銃の傭兵軍の雑賀族」らの「織田氏歴史」が物語る様に、「青木氏」にも仕掛けられた事があって、“必要が無く成ると切る”と云うのが「信長の合理主義」です。

    お説の通り、“岩田に隠れ住んで?、「岩田」を名乗つたとし、その後も「北畠氏に仕えた”と成るこの「疑問の経緯」を辿って「北畠氏」が滅び、最後に目的の価値が無く成った時に切られたのです。と成るところなのですが、“岩田に隠れ住んで”?が疑問なのです。
    北畠氏に味方・合力したとするのはあり得ますが、隠れ住む事には「伊勢の歴史」と全く一致しません。
    そのその「名張松阪員弁桑名域」は、「日本書紀」にも記載の通り奈良期より「四家の永代の大字名の領地」です。
    故に、「疑問のあり得ない経緯」と成ります。
    つまり、北畠氏の侵入に限らず歴史に遺る有名な「伊賀の戦い」や「長島の戦い」や「松島の戦い」等がそれらでも侵されてはいません。

    其の後、「伊賀青木氏」は「伊賀の者の了解」と「福家の了解」の中で「秀吉の時代」に、再び「味方・合力」して「一定時期」は史実として記録に遺る様に保証されます。
    唯、その後の秀吉の裏返しの「伊勢攻め」では、その総指揮官が「伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏の縁者」の「蒲生氏郷」でしたので、難を逃れます。
    然し、この時、「伊勢」を護る為に「伊賀青木氏」がこの「豊臣側に味方・合力した事」で「関ケ原の戦い」で負け、江戸初期前頃に叙封されて仕舞います。
    結局、「叙封」で危険と成り、「伊勢青木氏」は「伊賀青木氏」を「青木氏の逃避地」の「青木氏の神明社の救済地・質制度」と云う「青木氏だけの古来の救済制度」に従い「福井」に逃げ込んだのです。
    ここまでは、上記の疑問の経緯では無く祐筆が遺した「紀伊守の記録に遺る史実」です。
    「近江佐々木氏・川島の皇子の裔」の「青木氏族の研究論」の中でも伊勢と同様に詳細に記されています。

    注意書きとして、「室町期末期の官職」のこの頃は「‥守」は誰でも勝手に肩書として名乗ったもので、余り意味がありませんで、要は「伊賀青木氏」です。
    「甲賀」にも「甲賀青木氏の歴史」がありますが、今回は「伊賀青木氏」に限定します。
    当時は大きな一族を抱えて合力する場合は、この「肩書」を持つのが一般で造る必要があって、要するに「‥守」は誰かに味方・合力した証拠なのです。

    この唯一斯くの如しで動くのは「伊賀の青木氏」だけで、江戸期直前に成って叙封され、結局は「伊賀」に居られずに、「青木氏の逃避地域の越前・福井」に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「全国の500社」に成る「青木氏の守護神の神明社組織」を利用して「一族の者ら」を保護して「生活の糧」を与えて独立させる仕組みです。
    この越前国に逃げ込み「伊勢の伊勢屋」の「絶大な経済的な支援」を受けて、越後の秀郷一門の支援を受けて、遂に「造酒屋」を営み大成功して生き延びたのです。これも史実です。
    但し、この「分家の一部」は、「越前」に行かずに「福家の差配」の元に「伊勢青木氏の四家の員弁殿」に頼り、「肥沃な土地」の「員弁桑名域」を「開墾・開拓」に従事して生き延びたのです。
    そこに越前に行きそこで「造酒屋」で成功して地震で倒産した「伊賀青木氏」が、「福家の差配」でこの「員弁」の開墾を手伝っていた「伊賀青木氏の親族の所」に戻り「開墾」を手伝います。
    この「二つの伊賀青木氏」と同族の「員弁殿の青木氏」の更に融合した伊賀香具師の性質を秘めた「員弁青木氏」が発祥し直した事に成るのです。

    ところが、この肥沃な地域の「員弁殿と桑名殿」も「秀吉の紀州征伐」の際に「秀吉」に一時は攻められますが、背後で「松阪殿の保護・伊賀等の伊勢シンジケートを動かす事・忍者」で再び直ぐに勢力を持ち返します。
    「商い」をしていた「四家」より自由の効くこの「伊賀青木氏」は、上記の通りですが、「秀吉」は「名張殿と松阪殿」は「賜姓時」に「天智天皇」が与えた「朝廷の不可侵の永代格式」を持っていた事から、「攻める事」は社会からバッシングを受ける危険性があって出来なかったのです。
    「名張殿と伊賀殿」は有名な戦いの史実として「信長や秀吉」が攻めても落ちなかったのです。これは超有名な史実です。
    唯、「伊賀攻め」を数度に受けますが、「伊勢青木氏等と伊賀者18氏」は絶滅滅亡寸前で「城並みの清蓮寺」と「堅固な清蓮寺城」にその内の「伊賀11衆」を何とか直前で救い出します。
    それは「清蓮寺城の平城館」を持ち、且つ、「伊賀勢力」を後ろに控えていた事と、「伊勢青木氏」が「秀吉の軍需物資」を背後で「伊賀の伊勢シンジケートのゲリラ戦」を使い、且つ、「商い・食料」で「秀吉軍」を「枯渇作戦」で追い込んで抑えていた為に攻められなかったのです。
    これも江戸期に有名な小説に成った史実です。

    「北畠氏の件」は、元は「朝廷の学問処の官僚」でしたが、「天智天皇の伊勢不可侵の命」を破って「伊勢」に侵入して来たのです。
    故に、瞬く間に「直接的な武力」を持たない「賜姓五役の伊勢青木氏」はこの北畠に占領されますが、すかさず「信長」がこの北畠氏を更に潰して伊勢を乗っ取ったのです。

    お説の「応仁の乱」は1467年に発生して、1477年までの約11年間の「室町期中期の内乱」ですが、廃城後と事と考えますが、上記の通り再び「津」で興し「秀吉」に味方して、「子孫の青木駿河守」は「4万石、又は10万石」を領したとしたとする事は、それは上記の通りですが、その子孫は江戸初期に叙封されて「福井」に逃げ込んだ記録も、「江戸叙封録」にありますし「伊勢」にも遺されています。

    その逃避地の「質」の地域が次の通りです。
    現在名 「質」を行っていた神明社
    1 坂井市三国
    2 敦賀市松島
    3 鯖江市新町
    4 池田町松ケ谷
    5 越前町小曽原
    以上で「越前」では「五つの地域で質」を行い「青木氏」を救助し自立させたのです。
    これは「中国の仏教の地の金山寺」で行っていた「民を救うやり方」を唯一、「伊勢青木氏」が、平安期には仏教では無く「青木氏の守護神の神明社」を使って採導入し用したのです。
    これが「現在の質屋」の始りですが、その広めた最初は「吉宗の育ての親」であった「伊勢青木氏」が、江戸に同行して「吉宗の享保の改革」を「江戸の経済の改革」を手伝ったのです。
    この時、「伊賀青木氏」が伊賀を差配しながら「伊勢青木氏の福家」の警護の為に、影に成り同行したのですし、改革中は敵も多く「香具師」と成って諜報活動し、「幕府の甲賀忍者」と火花を散らした「有名な伊賀と甲賀の戦い」です。元は一族で会った者同士の熾烈な戦いでした。
    最終は、「伊賀」は「紀州藩」に味方し、「甲賀」は幕府に仕官と成って戦います。
    枯渇していた幕府の蔵埋金300両が、瞬く間に400万両で一杯に成りました。
    この時に、江戸市中に自己資金で「200店舗」に成る「江戸伊勢屋」としてこの「質制度の質屋」を営んで「金融の経済改革」を行いました。
    これが全国に広がった現在の質屋です。
    この時、「伊勢屋の青木氏」は、「布衣着用の身分・将軍に直接に意見を述べられる最高位の身分」で、最大大名に相当する「二つの屋敷」を与えられ改革を進めたのです。
    この時に「影」で働いたのが「伊賀青木氏・伊賀者・香具師・諜報人」を全国に配置した「伊賀青木氏」です。
    「有名な忍者の伊賀者・香具師」はここから呼ばれる様に成ったのです。
    今でも子孫が各地に定住され、自らも「香具師」をし「差配頭」としても働き、「伊勢」や「紀州」や「近江」や「江戸」や「桑名」や「三河」の各地に子孫を多く遺していて「お便り」も多いのですよ。
    一度、ルーツ掲示板の検索で香具師と入力すれば出てきますよ。そこで読みください。

    この「香具師の伊賀青木氏」はお家の血の分けた「伊勢青木氏」の「裔系の一族」ですよ。
    「松阪の差配」で必要に応じて「伊賀」は勿論の事、「桑名や員弁や名張」などからもこの身分を換えてこの「諜報機関」に参加していたのです。
    これらの事は「伝統」にも論じていますよ。

    さて、問題はこの「岩田」に関する「姓名」に変えたとする事には問題があります。
    「青木氏」は奈良期から「皇位族・皇親族」であって「姓を持たない氏族」ですので、「氏名の青木氏」の場合は、“室町期中期には「氏族の青木氏」であったとする事”から本来はあり得ず「青木氏」です。
    恐らくは、「歴史的な経緯」としては唯一つ考えられる事がありました。
    それは「青木氏」は上記した様に「女系」で何重にも1200年もかけて血縁した「伊勢郷士50衆・伊勢氏人衆とも云う」の「氏人で構成される氏族」です。
    その上記した「四家」が「氏族の氏上」で、又は「御師様・郷氏様」と「伊勢氏人衆50衆」から呼ばれていました。
    その一つに「員弁郷士の岩田氏」が確かにあります。
    この「郷士」の「一つの女系支流氏族」の「岩田氏」では無いかと考えます。

    では何故、「伊賀青木氏」が「郷士衆の岩田氏」に成ったかと云う疑問ですね。
    普通は「氏族」ですから無い筈です。
    「応仁の乱」まで「伊勢青木氏の血筋」を持つ「伊賀青木氏」である以上は「氏族」ですので、現在でもほって於いても「青木氏」である筈ですし、態々、「姓族に替わる事」は「氏族」である限り100%ありません。

    唯、それには、一つ起こり得る事件がありました。
    「伊勢青木氏系一族」は、確かに平安期から「女系」で「皇位族の干渉」から逃れましたが、それは「明治維新」に「考え方・観方」に依れば現在の「天皇家の始祖」に当たる「格式」を江戸期末期でも持ち続け、「光仁天皇の出自元」である限り歴史を手繰れば一部女系であるにしても一部は有している事にも成ります。
    鎌倉幕府では「日本書紀」に基づいて「土地の本領安堵策」や、室町期の「律宗族の指定」や、「正親町天皇等」の「追認指定」が「伊勢と信濃」にあり、それに基づいてそれ故に、江戸初期には特別に「家康のお墨付き・お定め書」もあり保持していました。
    従って、この史実を消したい「明治維新政府」をリードしていた「維新改革をした「薩摩藩」などは、「天系一途の原則」を貫こうとし、江戸末期まで献納金で経済的に天皇家を支えて来た「伊勢と信濃の二つの青木氏」が邪魔に成って消して抹殺しようとしたのです。
    そこで、「薩摩藩の意を汲んだ民衆等」を動かし、「伊勢青木氏」に「焼き討ち」や「打ち壊し」や「嫌がらせ」を掛け続けました。
    これに対抗して「伊勢や信濃青木氏」が背後に成って有名な江戸末期から「氏人衆等の伊勢騒動」が9年間も起こりました。
    幕末の江戸幕府はこれを黙認し、遂には明治9年まで続きました。
    結局は、「明治政府」はこれらを罰する事が出来ずにこれに応じて伊勢側も引きさがり、そこで「薩摩藩の攻撃等」も無く成りました。
    この時に、既にお家らはその「岩田に住んでいた事」から「女系」で深く関係していた「郷士50の氏人衆の岩田姓」を名乗ってこれを避けた事が考えられます。
    ところが、それが「名字帯刀?の岩田の庄屋」で会った事から明治3年の苗字令の時に「岩田とした事」が「一般的な経緯」として充分に考えられます。
    それらを確定させるには「上記の疑問点の情報」を獲得する必要がありますね。
    これであれば「氏家制度の縛り」は無く成り自由と成り上記の矛盾点は消えます。
    又、維新政府の政策は、地租改正や土地解放や農地解放や家廃仏毀釈や債権放棄等の政策や氏族開放令で一族を固めていた「一切の縛り」は無く成り自由と成りました。
    「伊勢青木氏の財産」も「伊勢郷士50人衆の氏人」に全て分配しました。
    ですから、この時にしか簡単に「姓の岩田氏に替える時期」は無かった筈です。
    恐らくはこの時に間違った由来を書き残した事が考えられます。

    「筆者の松阪殿」は、「支店の摂津」と「旧領地の尾鷲」に、「名張殿」は「伊賀」に、「桑名殿」は「額田」に、この様に他では「松阪の福家の指揮」で一時的に「分散の策」で「生きる地域」を移して躱しました。
    取り分け、他の四家に比べ上記の様に「波乱の多かった員弁」は記録にもある様に大きく直接に攻撃の影響を受けた事が判っています。

    其れは、「員弁」には「越前・福井」の「伊賀青木氏・紀伊守の青木氏」が移住していた「伊賀青木氏の一部」が、連続して起こった「天正等の大地震等」で多くの「青木氏の酒蔵」が倒産し、越前に残った者や越後の青木氏に移住した者、又その一部が「伊勢の肥沃な土地・員弁」に「伊勢松阪の福家の差配」で「四家の員弁」に移住して移り住んだのです。
    従って、江戸初期前にこの「員弁」には「四家の員弁殿の裔」とお家の「伊賀青木氏の裔」が融合して、「肥沃な員弁」を「桑名の額田部氏」に頼んで開拓して定住した事に成っています。
    お家がその後に「開拓した土地の員弁の庄屋であった事」がこれを証明しています。
    この時、「伊勢青木氏の殖産業の開発・額田部氏」と共に沼地であった桑名員弁域の干拓灌漑開墾で、「紀州藩の離藩領・支藩」と成っていた「伊勢」は40万石から55万石に成ったのです。
    「15万石」を紀州藩の赤字体質の為に私財を投入して伊勢を干拓灌漑開墾と数多い殖産で増やしたのです。

    「伊勢」は奈良期から「日本書紀等の歴史書」にも記載されている様に「氏族」であった事もあり、その「日本書紀等」の通りに「伊勢大半」と云っても良い程に「福家の伊勢青木氏」が「旧領地と各地に大地権」を持つ事に成ります。
    唯一遺る朝廷が認める「48氏」あった内の唯一の生き残った「氏族」であったのです。
    ですから、「伊勢郷士衆50の氏人衆」を抱えられる程の「超大地権者」でした。
    これには奈良期から「朝廷の命」を受けての「和紙などの幾つもの殖産業」を営み、江戸初期には「紀州藩の藩主」等に「2万両以上10万両の債権」を持つと共に、「紀州伊勢の殖産」を手掛け助け、「紀州藩の勘定方指導の立場」で「窮地の紀州藩」を立て直し、「巨万の富」を獲得していた「大氏族の大豪商・伊勢屋・名を隠して摂津商人に」でした。
    従って、「松阪、名張、員弁、桑名、四日市、尾鷲等」の地主と伊勢郷士の庄屋を務めましたが、これ等は「伊勢氏人衆50の郷士の家・1200年の5重以上の婚血縁族・殆ど親族」が「庄屋」を務めたのです。
    ですから、「員弁の岩田の庄屋であった事」は上記の矛盾を無くせば充分に考えられ矛盾は消えます。
    つまり、「青木氏の氏族」の中で「岩田」に「苗字が替えられた事」に付いては、この説からは一般論として一応は納得が行きます。

    但し、ここで問題です。
    先に「中国の古銭の件」は、「伊勢青木氏」は平安期の初期頃から「令外官」として「朝廷の命」を受けて唯一「南宋貿易・中国貿易」をしていましたので何の不思議もありません。
    「室町期の銃の件」でも、この貿易で「西洋の新式銃」を日本用に改良して「額田青木氏」に与えて「戦乱期の抑止力」を高めました。

    それは全ては「松阪殿の福家の了解」を得ていなければなりません。
    その時期が何時かという事ですが、「信長の山田城攻めの時」か、「秀吉の時」の「伊勢紀州征伐の時」は未だ合力していた事もあり無いと思いますが、その後の江戸初期直前の「越前の大地震」で員弁に一部が戻った経緯から、この「岩田の庄屋」をしていた時か、将又、「明治維新の薩摩藩の攻撃時」かの3つです。
    筆者は「青木氏の経緯」から上記したのは「明治維新の薩摩藩等の時」であると考え、「岩田の庄屋」の時には正式にでは無く、正式は明治3年の苗字令の時期と観ています。
    何故ならば「青木氏」は、明治35年の頃までそれでも「伊勢北部の地権者・地主」そのものですし、「庄屋」は「氏上や御師」であって出来ませんので、従って「青木氏の氏名」から外れて「庄屋」とする以上は郷士であってこの時であった可能性が高いでしょう。
    「名字帯刀の庄屋の件」と成る以上は、その「出自の格式」が問われます。
    つまり、「青木氏の格式」を有した事を物語るものです。
    又、同時、何かの手柄を立てなければ「名字帯刀」は無い筈で「員弁や桑名の干拓灌漑の農地開拓した事」を意味します。
    然し、「青木氏」は元より「郷氏族」で「近衛軍」の当に「真の侍の武士」で、その階級は永代に「上佐位」の「侍の最上位の格式」を有している「唯一の武士」です。
    従って、「名字帯刀の件」は、苗字は「氏族の青木氏」、「帯刀」は刀では無く逆反りの「平安剣・貴族剣」であり、これ等は元よりの事で、「名字帯刀」とする事は必要が無く疑問です。
    「岩田氏」を含む「伊勢郷士氏人50衆」は奈良期からの格式ある「侍の武士」で「伊勢青木氏の女系の血筋」が何重にも流れている、所謂、准青木氏です。
    この「名字帯刀の件」が史実とするにはお家は「郷士の下にいる百姓」であった事に成り矛盾です。
    そもそも、「伊勢の民」は「他の国の民」と違って、「日本書紀」に明記されている様に、「伊勢青木氏と一体と成った民」なのです。
    つまり、「民と郷士と青木氏」の要するに「氏族」なのですよ。
    「下俗の民」ではないのです。
    況してや、「名字帯刀」は「紀伊守」との「整合性」が「真逆」でもう一つの解決出来ない「大疑問点」です。
    そもそも「応仁期で青木氏」であれば「永代に青木氏」ですからね。
    この「真逆の矛盾の事」を解決する必要があります。
    これには、上記の情報で何方かは解決します。

    参考に「岩田にある筈の明治維新戸籍簿」にこの事が判る決定づける「情報」が記載されていますよ。
    その前にお家にこの「出自元の岩田」に「明治維新戸籍簿」があるかどうかですね。
    又はお家の「浄土宗の菩提寺」が在るかどうか、有ったとして先ず「伊勢の清光寺か来迎寺」であって、其処に「過去帳」があるかどうかです。
    「顕教の檀家寺」ではありませんし、「人別帳」ではありませんよ。
    「青木氏」は「密教浄土宗知恩院系流白旗派」です。
    「青木氏」は「神道」でもあり「守護神を持つ社」はお家の場合は「員弁」にある「11ある神明社」の何処かです。

    同時にこの時期には明治3年に全国一斉に改めて「苗字令」、8年に「督促令」が政府から発せられていますので、現在も「岩田」を名乗っている限りは、一時、「越前等の経緯」があり、「伊賀青木氏」の「故郷の祖の紀伊守所縁」の「岩田」でこの時に正式に届け出たと考えられます。
    それまでは「岩田郷郷士の庄屋さん」で通したと考えられます。
    「伊賀」を除く「名張や員弁や桑名」での「青木氏での庄屋」は、「伊勢」では明治初期まで「氏族名の郷氏」の「地主・御師様・氏上様」です。
    従って「庄屋」ではあり得ません。
    つまり、「姓族」では無く日本では唯一生き遺った「氏族」でした前提が「青木氏一族」にはあります。
    この点も錯語していますね

    又、唯、その「647年の氏の発祥以来」、「中立を保つ事」が「青木氏の施基皇子からの氏是」でしたので、「青木氏四家」の中では「員弁の場合」だけは、調べると最も時代に翻弄された経緯を持ちます。
    それ故に上記した様に、一時期に「北畠氏」に「属した事等の経緯」は否めませんし、又、史実として記録に遺り「福家・四家」も合力しています。

    唯、次にそこでお便りでは“属した”としていますが、これは間違いです。
    上記した様に「味方する事」は「氏是」ですので、「松阪・名張・桑名・四日市」も同じで、「秀吉の長島の戦い」の時も「合力」はしていますよ。
    この様に上記から疑問は、「青木氏の歴史観」の必要とする間違いを起こすのはお家の明治後の人が「錯語」で「余計な事」を残した証ですね。
    だから「不必要な矛盾」を引き興してしまったと観ています。

    改めて五家から「伊勢と信濃の二家」に最終的に成った「青木氏族」は、「女系の一族」で「四家・松阪殿・名張殿・員弁殿・桑名殿」と「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合族の四日市殿」で構成して、これを「四掟・家柄格式を限定して血縁する制度」と云う制度で「氏族」を維持して行きます。
    お家の伝統の詳しい制度に付いては「伝統シリーズ」をお読みください。
    兎も角も政治に巻き込まれない様に、「光仁天皇期の様な事」が二度と起こらない様にする為に徹底した「女系の血縁性・妻嫁制度と嫁家制度」を守って、「商いと氏族」の「二足の草鞋策」で独立して防護したのです。
    尚、上記の「越前・福井」で「酒屋」を営んでいましたが、江戸直前の天明等の数回に及ぶ大地震で「家業」が傾き続けられず、一部は越前に定住する者や再び一族の居る「伊賀の故郷」や「員弁に開拓移住する事」が史実として起こりました。お家はその後者ですね
    これが1〜3の大筋の経緯の答えでした。
    これがお家のルーツでしょうが、「上記の疑問の情報」がありましたお便りください。

    「青木氏の歴史観」を詳しく獲得するには「伝統シリーズ」を引き続いてお読みください。
    上記の情報が得られましたら「元の正しい歴史観」にこの際に戻す必要がありますね。

    正規手段から返信が出来ませんでしたので、お便りから返信します。

    今日は。始めまして。
    ようこそ全国の青木氏が集うサイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。
    随分とサイト情報で青木氏の事をお知りに成っている様ですね。
    何でもお聞きください。

    さて、今回のお尋ねは先ずは、
    1 伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとする「青木紀伊守の件」とそして、何時から青木氏であったのかと云う事ですね。
    2 1のルーツとする「青木紀伊守と駿河守安豊の3代目の青木駿河守安豊」が信長に滅ぼされ「岩田」に隠れ住んで、「岩田」を名乗つたとし、その後に「北畠氏に仕えたとする事」ですね。
    3 江戸時代に員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋務めたとする事ですね。

    さて、要するにこの3つが「伊勢青木氏の史実」に合致するかですね。

    お答えは青木氏の遺された史実に大まかに合致しています。
    唯、一部に矛盾の疑問が残ります。
    では、但し、それには「一つの流れ・経緯」があります。
    それをご説明いたします。

    1に付いて、この人物は記録的に実在した事は判っていますし、江戸初期の記録にも「伊勢青木氏」で記載されていますし「青木氏の記録」にもあります。
    その前に、では何時、青木氏であったのか?ですが、お答えは、お家は「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」で、「奈良期末期」からです。
    この「伊勢青木氏の発祥」は、「大化の改新期の647年」の伊勢松阪からです。
    その「始祖」は、「天智天皇の第7位皇子の施基皇子」で、改新に依って「第4世族内の第6位皇子以上・5位も含む」は「真人族」から「賜姓・氏族青木氏」を授かり、臣下して朝臣族に降下して「二代目の伊勢王」と成りました。
    その「子孫」は「ある目的」から「青木の氏族」の「氏名」だけを名乗り「伊勢」に発祥する事に成ります。
    これが先ず五家五流の「全国の青木氏の始まり」です。
    その記載の詳しくは「伊勢青木氏の記録資料」や「日本書紀や累代三大格式録等」にも詳細に記載されていますし、「伊勢の記録」にも遺ります。

    そこで、さてそもそも当時の奈良期に付いては、“「部経済」”と云って「全ての民」、即ちこれを現在の全く違う意味の当時は「百姓」といいました。
    この「百姓」は、「職人・部人」として扱われ、彼等が作った「全ての物品」を先ず「朝廷」に納められて、朝廷で使われる以外の余った「全ての物資」は市場に放出して売り裁き、その「利」を獲得して、「朝廷の副財源」とする「経済システム」でした。
    これを「施基皇子」が臣下して生まれたその「子孫等・この時は「約30人程度」が、賜姓時に天皇から命じられた「役・賜姓五役」を務め、その一つとしての「役目」の「永代令外官・天皇から勅命・密命」を果たす特「特別官職」としての役を担ったのです。
    つまり、朝廷を潤すためらは朝廷自らが「商い」は出来ませんので、「皇子」を一般に臣下させて「諡号の特別氏名の諡号姓の身分格式」を与え、これに「特別権限」を与えて、「朝廷や天皇家の財を潤す役目」を与えたのです。
    これを「施基皇子」が担いその子孫が実行すると云う組織を造り上げたのです。
    そして彼等に「賜姓五役と云う特別な最高格式・青木氏以外に無い」を与えます。
    これが所謂、現在で云う「身内の者」が果たす「特別御用商人の役目」の最初で「大商いの始まり」です。
    昔は、この「天皇」が「特命」を与え実行するのがこの「令外官の仕事」でした。
    中には大臣や官僚などに云えない「命令」を「秘密裏」に行う事も多くあったのです。
    そして、その為にその仕事をやり易くする為に、「伊勢青木氏」に「特別権限」を与えます。
    其れが「賜姓五役」と云うもので「皇族」を始めとして全ての官僚も、この「賜姓五役の持つ者」に従う事しかなく、その立場も「天皇に継ぐ格式・官位官職・浄大一位」を持っていましたので、従って、大臣であろうがこれに従うしかなかったのです。
    故に常に「天皇の傍・寝所の隣の部屋」に居ました。
    それは「身内の者であった事」で安心して「正しい情報」が入手できるからです。
    元々、それは「伊勢青木氏」は「近衛軍団の最上位」の「永代の上佐の階級」を持っていました。
    更には、それらの朝廷が持つ「全職人」を束ねる「国造」の「差配頭・伴造」を「令外官」として務めました。
    つまり、この「天皇」に代わって全権を握る族である為に特別に「氏族」とし、これを「政治の全権」を握る「皇親族」と云われました。

    さて、戻して、お話の様にこの時の職人の殆どが進んだ技能を持つ「渡来人・後漢」であったのです。
    「日本書紀」にも記述されている事ですが、「天武天皇」はこの事に憂い、「青木氏等」に命じて“「倭人の職人」を育てる様に”と命じます。
    これを「賜姓臣下族の施基皇子」が受けその裔の「伊勢青木氏」が実行したのです。
    「天武天皇」がこの「兄の天智天皇の施基皇子」を「川島皇子」よりも、又、自らの全ての皇子よりも「上位・浄大一位」に置いて可愛がった理由はここにあったのです。
    日本書紀にも記されている通り、更には自らの葬儀や后の持統天皇の葬儀も事前にこの「施基皇子とその子孫」の能力を買って任す様に命じたのです。

    「中国の後漢」と云う国が隋に618年に滅ぼされて「200万人の職人集団」が九州北部に渡来族として上陸し瞬く間に九州全土を「無戦・3日」で制圧します。
    そして、その「勢い」は関西の手前の兵庫県域まで無戦占領し、遂に33/66国まで占領する事に到ります。
    これは占領と云うよりは、「倭人」は積極的にこの「進んだ技術技能」を習得する為にこの渡来人の支配に入って戦わなかったのです。
    此処で、渡来人側は「戦い」を止めて大和朝廷と講和して九州南部の「隼人」と「阿知・現在の地名として遺っている」に戻って行ったのです。
    ところが、その後、713年頃に朝廷は薩摩に船で攻めますが完敗し負けてその時の王の「阿多倍王」と父の「阿知使王」を飛鳥に呼び寄せて、特例で「准王位」を授け、「伊勢」を「半国割譲」して「伊賀」と「隼人と阿知」を正式に半国譲渡して与えます。
    この「伊勢の半国割譲」に係わったのは、命を受けていた「始祖の施基皇子」であり、「倭人の技術者技能者の実現」の為にも阿多倍一族と血縁して係わります。
    これが「伊賀の青木氏の発祥」なのです。
    この時に「阿多倍王の渡来人」が「伊勢伊賀」に住み着いたのです。
    そこで、この「渡来人の子孫」が拡大し、その一族が興した「平の将門の反乱」を沈めた一族の「父の始祖の平国香」と「子の貞盛」が、「敏達天皇の孫の芽淳王の孫娘」を娶り、先ずその子が「大蔵氏・次男・北九州」で「内蔵氏・三男・奥羽」と「坂上氏・長男・飛鳥・京都」を発祥させます。
    この「朝廷の軍」を担った「坂上の田村麻呂」が日本全国を制圧した「桓武天皇の義理の弟」として活躍した有名な人物で、「朝廷の財源」を担った役の「大蔵氏」は「九州探題の大監」として九州を任された人物で、仏像の仁王様のモデルに成った超有名な人物・種材」で、「阿蘇神社の神官祖の菊池氏や筑紫氏等」の始祖と成ります。
    「天皇家の財源」を担った「内蔵氏」は「奥羽の大豪族の安倍氏の祖・秀吉に滅ぼされる」と成ります。

    当時は、「三蔵・斎蔵の藤原氏」と云い、朝廷はこの「三つの官僚形態」を採用していました。
    これに「天皇を護る近衛軍・青木氏と藤原氏」を加えて四つの政治形態」をとっていたのです。
    この「令外官」の「近衛の氏族」が上記した様に「賜姓五役と令外官の役」を担ったのです。

    要するにこの経緯で「伊賀の阿多倍王・清盛の祖」と上記の「賜姓五役の伊勢の青木氏」と血縁して「伊賀青木氏・桓武期」が発祥したのです。
    その「伊勢青木氏の裔系の伊賀青木氏」が「お家の青木氏」です。
    この「伊賀青木氏」は「永代賜姓五役の令外官役」の「情報機関と秘密警察と秘密武力集団」として江戸時代末期まで大活躍したのです。
    当時は秘密裏に、これを当時は「お家」を含む「伊勢青木氏」の「伊賀の香具師・忍者はこの一部役・伊賀青木氏」と呼びました。
    江戸期にも「伊勢青木氏」と共に表舞台に出てきますよ。
    「伝統」をお読みに成っているとこの言葉に出会います。

    このそれに繋がる「桓武天皇」の所以は次の通りです。
    そこで「伊勢青木氏」の「施基皇子の四男」で「白壁」と呼ばれる子がいて、「孝謙天皇」の時に皇族に皇位継承者が完全に絶えた為に、この200年弱前に「皇族」であった「施基皇子の伊勢青木氏」に「白羽の矢」を立て、一般化して上記の令外官として勤しんでいたのてすが、嫌がる奇人を装っていた「青木氏の白壁・54歳」に、無理やり「孝謙天皇の姉の井上内親王」を嫁がせて「皇族に戻す策」を執り、既に「商い」をしていた「54歳の白壁」は、結局は、「光仁天皇」と成って「天智天皇系に戻した形」としたのです。
    この「光仁天皇の子の山部王」が「桓武天皇」と成ったのです。
    「光仁天皇の妃」が「伊賀の平貞盛」の「孫女の高野新笠」で「桓武天皇の母・妃」と成ります。
    つまり、「伊勢青木氏系の伊賀青木氏」の血筋を引く「高野新笠」と同族血縁した事に成ります。
    そして、伊賀に居た「平族・たいら族・清盛の祖」は其の後に播磨国に一族が全て移住します。
    元から伊賀に居た原住民の者や渡来人の者や平族の一部の遺った者等の融合族は、「伊勢青木氏」と血縁した「伊賀衆の族等の18氏」として生き延びます。

    時代は飛ばしますが、室町期末期にこの「生き残り」の為に「伊賀青木氏」が「信長の配下・合力」に入り、その為に「紀伊守」を名乗ったのです。
    ここに「大きな経緯」があるのです。
    そもそもこの伊賀国とは、北には山を挟んで現在の甲賀域までを室町期中期頃までは“「伊賀・伊勢の賀州」”とよばれていました。
    ところが室町期の戦乱でその「生き遺る為の生き方」を巡ってこの「伊賀」の中で「激しい争い」が起こりました。
    一つは、生き方を縛られたくないとする一派は、「大豪族・主君」に仕官せずに「味方・合力」して生きて行く「味方合力論・傭兵形態」
    二つは、逆に主君に仕官して家臣と成って契約して安定して生きて行く「家臣論・契約形態」でした。
    「伊勢の影響」を色濃く受けている近い「南域の伊賀」は、「味方・合力」を採りました。これが現在域の伊賀です。
    「伊勢の影響」を余り受けていない小山を一つ越えた近江に近い北側域は「家臣論」を採ったのです。これが北側に存在する甲賀です。
    この二つに分かれて仕舞ったのです。
    何れにもこの「伊賀域の青木氏」は「桓武期」に発祥していますので「伊賀青木氏」と「甲賀青木氏」は存在します。

    さて、当時はだれでも「‥守」を勝手に名乗ったのですが、この信長に与力・合力する以上は、「名目の官位」が必要で一国の頭としての格式名として「紀伊守」と名乗ったのですが、これが自由の効く当然に合力派でした。
    家臣化したので「甲賀青木氏」にはこれは有りません。
    故に、最初は「応仁の乱」を境の戦乱期では、「伊賀守」を名乗って「信長」に味方し「伊賀」を任された形で「二万石の豪族の形」となります。
    但し、「4万石・10万石の説」がありますが「室町期の時期」に依って石高は違うのです。
    「甲賀域を含めた伊賀域」では石高は4万石はあり得ますが、10万石説は無いでしょう。

    「家臣論の形態」と違って「自らの力の二万石の豪族」として「合力・俸禄」は無く「身分だけを保証される形態」を採りながら生きて行く事に成ります。
    これが「伊賀青木氏の紀伊守」でした。

    そこで「小さい疑問」です。
    そもそもお便りの「天皇が城を与えるという事」は100%先ずありません。
    あるとするならば「武士」ですので、それ統括するその時の「幕府の管轄下」にありますので幕府と成ります。
    ここに先ず間違いがありますね。

    故に、「後醍醐天皇の件」は絶対に無いし、且つ上記の「青木氏」であり、且つ、「伊賀の生き方」である限りにも無いと考えますし、“「氏家制度」”の中では「青木氏の宗家・福家」の「伊勢青木氏の松阪殿の了解」の無しには絶対にできません。
    勝手にすれば「青木氏」から排除され生きて行く事さえも出来ません。
    従って、“先祖が津の岩田を横領して姓も岩田”の件も、“横領”とする事は元より「員弁」は「日本書紀等の歴史書」に記載にある通り、「青木氏の旧領地」で、且つ、この地域の「地権」も持っていますし、自らの土地を自らが奪うと云う事は有り得ません。
    これも間違いです。

    そもそも、「室町幕府」からも「青木氏族」は「律宗族」として「本領安堵」されていますのであり得ませんし、これは記録にも遺ります。
    そもそも「氏家制度」の中で一族が固く結束して生きている限りは一人はみ出して勝手な事は100%無く、“「青木氏の氏名」”が在るのに態々「岩田姓」も勝手にはできない筈です。これも100%無いです。
    そんな事をすれば「伊勢」にはいられませんし、生きて行く事も100%出来ないでしょう。
    況してや、「伊賀青木氏」ですので「掟破り」で厳しい伊賀の中でも尚無理です。
    そう云う「一大事の事」に成れば「伊勢の福家」か「清光寺の菩提寺」か「守護神の神明社の祐筆記録」の青木氏に遺り、一切の出来事、つまり歴史を「祐筆」は遺す制度と成っていましたので、これに関する「記録」は遺りますが資料や記録は有りません。

    つまり、何か変ですね。ここで、お家にその様な記録がある事に「錯語の問題」が生まれるのです。
    恐らくは、途中で「恣意的な伝統の伝承の忘却消失」が起こった可能性がありますが、これ等の歴史観の無い錯誤の事を伝え遺した者がこれさえも「菩提寺か神明社」に行けば直ぐに解る事ですので理解が出来ません。
    そもそも「青木氏」とはそういう上記した組織で、奈良期より伊勢全体を全ゆる制度で固めていましたから、何故その様な記録が遺ったのかは先ず解明する必要がありますね。

    どうもその錯語内容から観て、その「伝えられた事の全体」が「明治期以降のお家の誰か」の様ですね。

    「岩田の庄屋」であったとすれば、寧ろこれ等を護り取り締まる立場にあり、「氏家制度の上位」で「伝統を監視し、精査し、記録しする庄屋と云う立場」での記録もあるのに、何か変ですね。
    一度、越前に移動時にこの「伝統」を失ったのか、一族の中に勝手に調べずに明らかに矛盾している処が多いのは、「史実」に基づかずに繫ぎ合せた様な事ばかりを言い遺したか、当時の歴史習慣に基づかずに無理に書き遺したかにありますね。
    其れ等の事が良く起こったのは「江戸初期か江戸期の末期前後」ですね。
    「青木氏の中」で生きていればこれらの事は無い様に考えますが。

    続く。

    考えられる事は末期頃に何かが在って、又は起こって、「お家」と「青木氏の四家」とが疎遠に成ったかですね。
    だとすれば、然し、「疎遠」に成れば「地権」も亡くし、「庄屋」も失うので「庄屋」も失った程の出来事が起こった事に成りますね。

    そこで、一般的に考えられる「仮定の話」ですが、「青木氏」から外れ「岩田に成った事」に起因していた可能性があるのではないでしょうか。
    つまり、「青木氏を名乗れない事」が起こった。だから「岩田姓」として「青木氏」から外れたと云う仮説です。それで許して貰ったとする筋書きです。

    「氏家制度の社会」の中では、「姓を持つ者」が「当時、姓を変える事」は「無宿者・裏切り者」に成り、「一族を養って行くだけの糧を得られず死活問題・命問題」で簡単では有りませんでしたからね。

    「打ち首に成る国抜け等の重罪」はしていない様なので、軽犯罪を犯したか、>婚姻に従わなかったか、>伝統に従わなかったか、要は興ったとすれば「青木氏の中で処置できた事」に成るでしょう。

    この仮定を証明するには、「宗派、家紋、墓所、菩提寺、過去帳」などの「情報」で「決・掟・歴史観」がありますので判りますよ。
    普通は下記に記している様な事が考えられるのですが、疑問が残ります「岩田姓」と成った時期の前後の情報です。

    次に、「2の問」の通り「信長のやり方」は、「光秀」や「銃の傭兵軍の雑賀族」らの「織田氏歴史」が物語る様に、「青木氏」にも仕掛けられた事があって、“必要が無く成ると切る”と云うのが「信長の合理主義」です。

    お説の通り、“岩田に隠れ住んで?、「岩田」を名乗つたとし、その後も「北畠氏に仕えた”と成るこの「疑問の経緯」を辿って「北畠氏」が滅び、最後に目的の価値が無く成った時に切られたのです。と成るところなのですが、“岩田に隠れ住んで”?が疑問なのです。
    北畠氏に味方・合力したとするのはあり得ますが、隠れ住む事には「伊勢の歴史」と全く一致しません。
    そのその「名張松阪員弁桑名域」は、「日本書紀」にも記載の通り奈良期より「四家の永代の大字名の領地」です。
    故に、「疑問のあり得ない経緯」と成ります。
    つまり、北畠氏の侵入に限らず歴史に遺る有名な「伊賀の戦い」や「長島の戦い」や「松島の戦い」等がそれらでも侵されてはいません。

    其の後、「伊賀青木氏」は「伊賀の者の了解」と「福家の了解」の中で「秀吉の時代」に、再び「味方・合力」して「一定時期」は史実として記録に遺る様に保証されます。
    唯、その後の秀吉の裏返しの「伊勢攻め」では、その総指揮官が「伊勢青木氏と伊勢秀郷流青木氏の縁者」の「蒲生氏郷」でしたので、難を逃れます。
    然し、この時、「伊勢」を護る為に「伊賀青木氏」がこの「豊臣側に味方・合力した事」で「関ケ原の戦い」で負け、江戸初期前頃に叙封されて仕舞います。
    結局、「叙封」で危険と成り、「伊勢青木氏」は「伊賀青木氏」を「青木氏の逃避地」の「青木氏の神明社の救済地・質制度」と云う「青木氏だけの古来の救済制度」に従い「福井」に逃げ込んだのです。
    ここまでは、上記の疑問の経緯では無く祐筆が遺した「紀伊守の記録に遺る史実」です。
    「近江佐々木氏・川島の皇子の裔」の「青木氏族の研究論」の中でも伊勢と同様に詳細に記されています。

    注意書きとして、「室町期末期の官職」のこの頃は「‥守」は誰でも勝手に肩書として名乗ったもので、余り意味がありませんで、要は「伊賀青木氏」です。
    「甲賀」にも「甲賀青木氏の歴史」がありますが、今回は「伊賀青木氏」に限定します。
    当時は大きな一族を抱えて合力する場合は、この「肩書」を持つのが一般で造る必要があって、要するに「‥守」は誰かに味方・合力した証拠なのです。

    この唯一斯くの如しで動くのは「伊賀の青木氏」だけで、江戸期直前に成って叙封され、結局は「伊賀」に居られずに、「青木氏の逃避地域の越前・福井」に「伊勢青木氏・伊勢屋」が「全国の500社」に成る「青木氏の守護神の神明社組織」を利用して「一族の者ら」を保護して「生活の糧」を与えて独立させる仕組みです。
    この越前国に逃げ込み「伊勢の伊勢屋」の「絶大な経済的な支援」を受けて、越後の秀郷一門の支援を受けて、遂に「造酒屋」を営み大成功して生き延びたのです。これも史実です。
    但し、この「分家の一部」は、「越前」に行かずに「福家の差配」の元に「伊勢青木氏の四家の員弁殿」に頼り、「肥沃な土地」の「員弁桑名域」を「開墾・開拓」に従事して生き延びたのです。
    そこに越前に行きそこで「造酒屋」で成功して地震で倒産した「伊賀青木氏」が、「福家の差配」でこの「員弁」の開墾を手伝っていた「伊賀青木氏の親族の所」に戻り「開墾」を手伝います。
    この「二つの伊賀青木氏」と同族の「員弁殿の青木氏」の更に融合した伊賀香具師の性質を秘めた「員弁青木氏」が発祥し直した事に成るのです。

    ところが、この肥沃な地域の「員弁殿と桑名殿」も「秀吉の紀州征伐」の際に「秀吉」に一時は攻められますが、背後で「松阪殿の保護・伊賀等の伊勢シンジケートを動かす事・忍者」で再び直ぐに勢力を持ち返します。
    「商い」をしていた「四家」より自由の効くこの「伊賀青木氏」は、上記の通りですが、「秀吉」は「名張殿と松阪殿」は「賜姓時」に「天智天皇」が与えた「朝廷の不可侵の永代格式」を持っていた事から、「攻める事」は社会からバッシングを受ける危険性があって出来なかったのです。
    「名張殿と伊賀殿」は有名な戦いの史実として「信長や秀吉」が攻めても落ちなかったのです。これは超有名な史実です。
    唯、「伊賀攻め」を数度に受けますが、「伊勢青木氏等と伊賀者18氏」は絶滅滅亡寸前で「城並みの清蓮寺」と「堅固な清蓮寺城」にその内の「伊賀11衆」を何とか直前で救い出します。
    それは「清蓮寺城の平城館」を持ち、且つ、「伊賀勢力」を後ろに控えていた事と、「伊勢青木氏」が「秀吉の軍需物資」を背後で「伊賀の伊勢シンジケートのゲリラ戦」を使い、且つ、「商い・食料」で「秀吉軍」を「枯渇作戦」で追い込んで抑えていた為に攻められなかったのです。
    これも江戸期に有名な小説に成った史実です。

    「北畠氏の件」は、元は「朝廷の学問処の官僚」でしたが、「天智天皇の伊勢不可侵の命」を破って「伊勢」に侵入して来たのです。
    故に、瞬く間に「直接的な武力」を持たない「賜姓五役の伊勢青木氏」はこの北畠に占領されますが、すかさず「信長」がこの北畠氏を更に潰して伊勢を乗っ取ったのです。

    お説の「応仁の乱」は1467年に発生して、1477年までの約11年間の「室町期中期の内乱」ですが、廃城後と事と考えますが、上記の通り再び「津」で興し「秀吉」に味方して、「子孫の青木駿河守」は「4万石、又は10万石」を領したとしたとする事は、それは上記の通りですが、その子孫は江戸初期に叙封されて「福井」に逃げ込んだ記録も、「江戸叙封録」にありますし「伊勢」にも遺されています。

    その逃避地の「質」の地域が次の通りです。
    現在名 「質」を行っていた神明社
    1 坂井市三国
    2 敦賀市松島
    3 鯖江市新町
    4 池田町松ケ谷
    5 越前町小曽原
    以上で「越前」では「五つの地域で質」を行い「青木氏」を救助し自立させたのです。
    これは「中国の仏教の地の金山寺」で行っていた「民を救うやり方」を唯一、「伊勢青木氏」が、平安期には仏教では無く「青木氏の守護神の神明社」を使って採導入し用したのです。
    これが「現在の質屋」の始りですが、その広めた最初は「吉宗の育ての親」であった「伊勢青木氏」が、江戸に同行して「吉宗の享保の改革」を「江戸の経済の改革」を手伝ったのです。
    この時、「伊賀青木氏」が伊賀を差配しながら「伊勢青木氏の福家」の警護の為に、影に成り同行したのですし、改革中は敵も多く「香具師」と成って諜報活動し、「幕府の甲賀忍者」と火花を散らした「有名な伊賀と甲賀の戦い」です。元は一族で会った者同士の熾烈な戦いでした。
    最終は、「伊賀」は「紀州藩」に味方し、「甲賀」は幕府に仕官と成って戦います。
    枯渇していた幕府の蔵埋金300両が、瞬く間に400万両で一杯に成りました。
    この時に、江戸市中に自己資金で「200店舗」に成る「江戸伊勢屋」としてこの「質制度の質屋」を営んで「金融の経済改革」を行いました。
    これが全国に広がった現在の質屋です。
    この時、「伊勢屋の青木氏」は、「布衣着用の身分・将軍に直接に意見を述べられる最高位の身分」で、最大大名に相当する「二つの屋敷」を与えられ改革を進めたのです。
    この時に「影」で働いたのが「伊賀青木氏・伊賀者・香具師・諜報人」を全国に配置した「伊賀青木氏」です。
    「有名な忍者の伊賀者・香具師」はここから呼ばれる様に成ったのです。
    今でも子孫が各地に定住され、自らも「香具師」をし「差配頭」としても働き、「伊勢」や「紀州」や「近江」や「江戸」や「桑名」や「三河」の各地に子孫を多く遺していて「お便り」も多いのですよ。
    一度、ルーツ掲示板の検索で香具師と入力すれば出てきますよ。そこで読みください。

    この「香具師の伊賀青木氏」はお家の血の分けた「伊勢青木氏」の「裔系の一族」ですよ。
    「松阪の差配」で必要に応じて「伊賀」は勿論の事、「桑名や員弁や名張」などからもこの身分を換えてこの「諜報機関」に参加していたのです。
    これらの事は「伝統」にも論じていますよ。

    さて、問題はこの「岩田」に関する「姓名」に変えたとする事には問題があります。
    「青木氏」は奈良期から「皇位族・皇親族」であって「姓を持たない氏族」ですので、「氏名の青木氏」の場合は、“室町期中期には「氏族の青木氏」であったとする事”から本来はあり得ず「青木氏」です。
    恐らくは、「歴史的な経緯」としては唯一つ考えられる事がありました。
    それは「青木氏」は上記した様に「女系」で何重にも1200年もかけて血縁した「伊勢郷士50衆・伊勢氏人衆とも云う」の「氏人で構成される氏族」です。
    その上記した「四家」が「氏族の氏上」で、又は「御師様・郷氏様」と「伊勢氏人衆50衆」から呼ばれていました。
    その一つに「員弁郷士の岩田氏」が確かにあります。
    この「郷士」の「一つの女系支流氏族」の「岩田氏」では無いかと考えます。

    では何故、「伊賀青木氏」が「郷士衆の岩田氏」に成ったかと云う疑問ですね。
    普通は「氏族」ですから無い筈です。
    「応仁の乱」まで「伊勢青木氏の血筋」を持つ「伊賀青木氏」である以上は「氏族」ですので、現在でもほって於いても「青木氏」である筈ですし、態々、「姓族に替わる事」は「氏族」である限り100%ありません。

    唯、それには、一つ起こり得る事件がありました。
    「伊勢青木氏系一族」は、確かに平安期から「女系」で「皇位族の干渉」から逃れましたが、それは「明治維新」に「考え方・観方」に依れば現在の「天皇家の始祖」に当たる「格式」を江戸期末期でも持ち続け、「光仁天皇の出自元」である限り歴史を手繰れば一部女系であるにしても一部は有している事にも成ります。
    鎌倉幕府では「日本書紀」に基づいて「土地の本領安堵策」や、室町期の「律宗族の指定」や、「正親町天皇等」の「追認指定」が「伊勢と信濃」にあり、それに基づいてそれ故に、江戸初期には特別に「家康のお墨付き・お定め書」もあり保持していました。
    従って、この史実を消したい「明治維新政府」をリードしていた「維新改革をした「薩摩藩」などは、「天系一途の原則」を貫こうとし、江戸末期まで献納金で経済的に天皇家を支えて来た「伊勢と信濃の二つの青木氏」が邪魔に成って消して抹殺しようとしたのです。
    そこで、「薩摩藩の意を汲んだ民衆等」を動かし、「伊勢青木氏」に「焼き討ち」や「打ち壊し」や「嫌がらせ」を掛け続けました。
    これに対抗して「伊勢や信濃青木氏」が背後に成って有名な江戸末期から「氏人衆等の伊勢騒動」が9年間も起こりました。
    幕末の江戸幕府はこれを黙認し、遂には明治9年まで続きました。
    結局は、「明治政府」はこれらを罰する事が出来ずにこれに応じて伊勢側も引きさがり、そこで「薩摩藩の攻撃等」も無く成りました。
    この時に、既にお家らはその「岩田に住んでいた事」から「女系」で深く関係していた「郷士50の氏人衆の岩田姓」を名乗ってこれを避けた事が考えられます。
    ところが、それが「名字帯刀?の岩田の庄屋」で会った事から明治3年の苗字令の時に「岩田とした事」が「一般的な経緯」として充分に考えられます。
    それらを確定させるには「上記の疑問点の情報」を獲得する必要がありますね。
    これであれば「氏家制度の縛り」は無く成り自由と成り上記の矛盾点は消えます。
    又、維新政府の政策は、地租改正や土地解放や農地解放や家廃仏毀釈や債権放棄等の政策や氏族開放令で一族を固めていた「一切の縛り」は無く成り自由と成りました。
    「伊勢青木氏の財産」も「伊勢郷士50人衆の氏人」に全て分配しました。
    ですから、この時にしか簡単に「姓の岩田氏に替える時期」は無かった筈です。
    恐らくはこの時に間違った由来を書き残した事が考えられます。

    「筆者の松阪殿」は、「支店の摂津」と「旧領地の尾鷲」に、「名張殿」は「伊賀」に、「桑名殿」は「額田」に、この様に他では「松阪の福家の指揮」で一時的に「分散の策」で「生きる地域」を移して躱しました。
    取り分け、他の四家に比べ上記の様に「波乱の多かった員弁」は記録にもある様に大きく直接に攻撃の影響を受けた事が判っています。

    其れは、「員弁」には「越前・福井」の「伊賀青木氏・紀伊守の青木氏」が移住していた「伊賀青木氏の一部」が、連続して起こった「天正等の大地震等」で多くの「青木氏の酒蔵」が倒産し、越前に残った者や越後の青木氏に移住した者、又その一部が「伊勢の肥沃な土地・員弁」に「伊勢松阪の福家の差配」で「四家の員弁」に移住して移り住んだのです。
    従って、江戸初期前にこの「員弁」には「四家の員弁殿の裔」とお家の「伊賀青木氏の裔」が融合して、「肥沃な員弁」を「桑名の額田部氏」に頼んで開拓して定住した事に成っています。
    お家がその後に「開拓した土地の員弁の庄屋であった事」がこれを証明しています。
    この時、「伊勢青木氏の殖産業の開発・額田部氏」と共に沼地であった桑名員弁域の干拓灌漑開墾で、「紀州藩の離藩領・支藩」と成っていた「伊勢」は40万石から55万石に成ったのです。
    「15万石」を紀州藩の赤字体質の為に私財を投入して伊勢を干拓灌漑開墾と数多い殖産で増やしたのです。

    「伊勢」は奈良期から「日本書紀等の歴史書」にも記載されている様に「氏族」であった事もあり、その「日本書紀等」の通りに「伊勢大半」と云っても良い程に「福家の伊勢青木氏」が「旧領地と各地に大地権」を持つ事に成ります。
    唯一遺る朝廷が認める「48氏」あった内の唯一の生き残った「氏族」であったのです。
    ですから、「伊勢郷士衆50の氏人衆」を抱えられる程の「超大地権者」でした。
    これには奈良期から「朝廷の命」を受けての「和紙などの幾つもの殖産業」を営み、江戸初期には「紀州藩の藩主」等に「2万両以上10万両の債権」を持つと共に、「紀州伊勢の殖産」を手掛け助け、「紀州藩の勘定方指導の立場」で「窮地の紀州藩」を立て直し、「巨万の富」を獲得していた「大氏族の大豪商・伊勢屋・名を隠して摂津商人に」でした。
    従って、「松阪、名張、員弁、桑名、四日市、尾鷲等」の地主と伊勢郷士の庄屋を務めましたが、これ等は「伊勢氏人衆50の郷士の家・1200年の5重以上の婚血縁族・殆ど親族」が「庄屋」を務めたのです。
    ですから、「員弁の岩田の庄屋であった事」は上記の矛盾を無くせば充分に考えられ矛盾は消えます。
    つまり、「青木氏の氏族」の中で「岩田」に「苗字が替えられた事」に付いては、この説からは一般論として一応は納得が行きます。

    但し、ここで問題です。
    先に「中国の古銭の件」は、「伊勢青木氏」は平安期の初期頃から「令外官」として「朝廷の命」を受けて唯一「南宋貿易・中国貿易」をしていましたので何の不思議もありません。
    「室町期の銃の件」でも、この貿易で「西洋の新式銃」を日本用に改良して「額田青木氏」に与えて「戦乱期の抑止力」を高めました。

    それは全ては「松阪殿の福家の了解」を得ていなければなりません。
    その時期が何時かという事ですが、「信長の山田城攻めの時」か、「秀吉の時」の「伊勢紀州征伐の時」は未だ合力していた事もあり無いと思いますが、その後の江戸初期直前の「越前の大地震」で員弁に一部が戻った経緯から、この「岩田の庄屋」をしていた時か、将又、「明治維新の薩摩藩の攻撃時」かの3つです。
    筆者は「青木氏の経緯」から上記したのは「明治維新の薩摩藩等の時」であると考え、「岩田の庄屋」の時には正式にでは無く、正式は明治3年の苗字令の時期と観ています。
    何故ならば「青木氏」は、明治35年の頃までそれでも「伊勢北部の地権者・地主」そのものですし、「庄屋」は「氏上や御師」であって出来ませんので、従って「青木氏の氏名」から外れて「庄屋」とする以上は郷士であってこの時であった可能性が高いでしょう。
    「名字帯刀の庄屋の件」と成る以上は、その「出自の格式」が問われます。
    つまり、「青木氏の格式」を有した事を物語るものです。
    又、同時、何かの手柄を立てなければ「名字帯刀」は無い筈で「員弁や桑名の干拓灌漑の農地開拓した事」を意味します。
    然し、「青木氏」は元より「郷氏族」で「近衛軍」の当に「真の侍の武士」で、その階級は永代に「上佐位」の「侍の最上位の格式」を有している「唯一の武士」です。
    従って、「名字帯刀の件」は、苗字は「氏族の青木氏」、「帯刀」は刀では無く逆反りの「平安剣・貴族剣」であり、これ等は元よりの事で、「名字帯刀」とする事は必要が無く疑問です。
    「岩田氏」を含む「伊勢郷士氏人50衆」は奈良期からの格式ある「侍の武士」で「伊勢青木氏の女系の血筋」が何重にも流れている、所謂、准青木氏です。
    この「名字帯刀の件」が史実とするにはお家は「郷士の下にいる百姓」であった事に成り矛盾です。
    そもそも、「伊勢の民」は「他の国の民」と違って、「日本書紀」に明記されている様に、「伊勢青木氏と一体と成った民」なのです。
    つまり、「民と郷士と青木氏」の要するに「氏族」なのですよ。
    「下俗の民」ではないのです。
    況してや、「名字帯刀」は「紀伊守」との「整合性」が「真逆」でもう一つの解決出来ない「大疑問点」です。
    そもそも「応仁期で青木氏」であれば「永代に青木氏」ですからね。
    この「真逆の矛盾の事」を解決する必要があります。
    これには、上記の情報で何方かは解決します。

    参考に「岩田にある筈の明治維新戸籍簿」にこの事が判る決定づける「情報」が記載されていますよ。
    その前にお家にこの「出自元の岩田」に「明治維新戸籍簿」があるかどうかですね。
    又はお家の「浄土宗の菩提寺」が在るかどうか、有ったとして先ず「伊勢の清光寺か来迎寺」であって、其処に「過去帳」があるかどうかです。
    「顕教の檀家寺」ではありませんし、「人別帳」ではありませんよ。
    「青木氏」は「密教浄土宗知恩院系流白旗派」です。
    「青木氏」は「神道」でもあり「守護神を持つ社」はお家の場合は「員弁」にある「11ある神明社」の何処かです。

    同時にこの時期には明治3年に全国一斉に改めて「苗字令」、8年に「督促令」が政府から発せられていますので、現在も「岩田」を名乗っている限りは、一時、「越前等の経緯」があり、「伊賀青木氏」の「故郷の祖の紀伊守所縁」の「岩田」でこの時に正式に届け出たと考えられます。
    それまでは「岩田郷郷士の庄屋さん」で通したと考えられます。
    「伊賀」を除く「名張や員弁や桑名」での「青木氏での庄屋」は、「伊勢」では明治初期まで「氏族名の郷氏」の「地主・御師様・氏上様」です。
    従って「庄屋」ではあり得ません。
    つまり、「姓族」では無く日本では唯一生き遺った「氏族」でした前提が「青木氏一族」にはあります。
    この点も錯語していますね

    又、唯、その「647年の氏の発祥以来」、「中立を保つ事」が「青木氏の施基皇子からの氏是」でしたので、「青木氏四家」の中では「員弁の場合」だけは、調べると最も時代に翻弄された経緯を持ちます。
    それ故に上記した様に、一時期に「北畠氏」に「属した事等の経緯」は否めませんし、又、史実として記録に遺り「福家・四家」も合力しています。

    唯、次にそこでお便りでは“属した”としていますが、これは間違いです。
    上記した様に「味方する事」は「氏是」ですので、「松阪・名張・桑名・四日市」も同じで、「秀吉の長島の戦い」の時も「合力」はしていますよ。
    この様に上記から疑問は、伊勢には歴史記録があったのに、「青木氏の歴史観」の必要とする間違いを起こすのはお家の明治後の人が「錯語」で「余計な事」を残した証ですね。
    だから「不必要な矛盾」を引き興してしまったと観ています。

    改めて五家から「伊勢と信濃の二家」に最終的に成った「青木氏族」は、「女系の一族」で「四家・松阪殿・名張殿・員弁殿・桑名殿」と「伊賀青木氏」と「伊勢秀郷流青木氏」との「融合族の四日市殿」で構成して、これを「四掟・家柄格式を限定して血縁する制度」と云う制度で「氏族」を維持して行きます。
    お家の伝統の詳しい制度に付いては「伝統シリーズ」をお読みください。
    兎も角も政治に巻き込まれない様に、「光仁天皇期の様な事」が二度と起こらない様にする為に徹底した「女系の血縁性・妻嫁制度と嫁家制度」を守って、「商いと氏族」の「二足の草鞋策」で独立して防護したのです。
    尚、上記の「越前・福井」で「酒屋」を営んでいましたが、江戸直前の天明等の数回に及ぶ大地震で「家業」が傾き続けられず、一部は越前に定住する者や再び一族の居る「伊賀の故郷」や「員弁に開拓移住する事」が史実として起こりました。お家はその後者ですね
    これが1〜3の大筋の経緯の答えでした。
    これがお家のルーツでしょうが、「上記の疑問の情報」がありましたお便りください。

    「青木氏の歴史観」を詳しく獲得するには「伝統シリーズ」を引き続いてお読みください。
    上記の情報が得られましたら「元の正しい歴史観」にこの際に戻す必要がありますね。


      [No.1186] Re:続 豪商長島屋
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/22(Thu) 10:18:23  

    今日は。お久しぶりです。
    お元気でしか?
    コロナ禍で大変ですがお気をつけください。

    お便り楽しんで読ませていただきました。
    より深い興味のある疑問点をご指摘頂きました。
    これ等のご指摘の疑問点はルーツの発祥源にあると考えられ、それで筆者のルーツの考え方を先ず論じて観ます。

    お便りには、順不同でシリーズで論じてお便りします。

    イ 富士宮の件です。
    ロ 高島屋の事です。
    ハ 一色の件です
    ニ 神光寺の件です。
    ホ 神仏習合の件です。
    へ 斎宮の件です。
    ト 伊勢治の件です。
    チ 明治13年の大火の件です。
    リ 平将門の乱の件です。

    先ずイの件です。

    「伊豆青木氏」か「秀郷流青木氏」かですが、先ずその前に筆者はこの「二つの血縁族の区分け」に付いて次の様に考えています。
    それは「円融天皇の賜姓」に依って「960年頃」から「秀郷流青木氏」が「三男の千國」を以て永代に正式な形で発祥しましたが、その前から「秀郷流一族一門」とは「母系族」として、それまで「313年間」に於いて「中国の四掟制度」を持ち込み、これを基準に「皇親族」、又は「賜姓族臣下族」として「伊勢青木氏と信濃青木氏」では、先ずこの範囲で「重相互血縁」を繰り返し純血性を保ってきたものです。
    そして、それは相互に「妻嫁制度」と「嫁家制度」と云う「掟と仕来りと慣習」で他から新しい血を徐々に入れながら「血縁被害」も防いで来ました。
    それは現在の遺伝学で解明されている様に「女系」であってこそ成せる事でした。
    「人類の種の系列遺伝」は「母親」から「娘」にだけ引き継がれると云う特徴を人は持っています。
    「日本人」は「7つ民族の融合」の中で、更には、様い範囲では、且つ、「青木氏」、「秀郷流一門」の中で、「基幹遺伝子」は引き継がれていると云う事ですから、「四掟」を限定し「妻嫁制度」と「嫁家制度」を敷けば「特定の範囲の純血性」は保たれると云う事を奈良期から「経験則」で悟っていた事に成ります。
    それが偶然にも「遺伝子的」に証明されているのですから、相当な経験則でした。
    これが「秀郷流青木氏」が発祥して、その範囲を狭め更にこの「女系での純血性」が保たれ、何と明治初期までの「1200年程度の期間」を女系で繰り返されて来たのです。
    遺った「伊勢と信濃の青木氏」は「伊勢と信濃の郷士衆」から新しい血を女系で入れ、「伊勢と信濃の青木氏」は、又、相互に血を入れ、「秀郷流一族一門裔系」から「秀郷流青木氏の裔系」に入り、又、直接に秀郷一門からも新しい血を入れ、これを更に「伊勢と信濃の青木氏裔系」に「女系」で戻すと云う「青木氏族の形態」を構築していたのです。
    これは二つ池の水の流れに相似していますね。
    これを考えれば、要するにそもそも、“二つの流れに分ける必要は無い”と考えているのです。
    その証拠に「近江佐々木氏の研究論文」に於いても、この考えに沿って「研究タイトル」は「青木氏族」と括っていますが、筆者も賛成です。
    この「近江佐々木氏の研究論文」は、「近江佐々木氏系と近江青木氏系」も含んだ「奈良期」からの範囲で「青木氏族」を論じています。
    間違いなくこの「近江の二つの裔系の血筋」は所謂、「青木氏族」に流れている事は否めません。
    唯、「近江佐々木氏の場合」は、「平安末期までの範囲」に限定される為に、「450年程度の期間」とその1200年間の約1/3と成りますので、どう扱うかはそれぞれの考え方に左右されますね。
    従って、この「富士宮の件」は、結論から「伊豆青木氏」か「秀郷流駿河青木氏」か「秀郷流相模青木氏」かに成りますが、上記の「括りの考え方」では同じとし、敢えて分けるとすると成ると、「秀郷流相模青木氏」であると成るでしょう。
    それには、血縁はその族の大きな決定事項ですから、その「差配」が何処かに依る事に成りますね。
    当然に両者の計画的な事前協議に基づく事に成りますが、「伊豆」が勝手に決める訳では無く、「氏家制度」の中では「伊勢の福家」に届け出て裁可を受けての事に成り、その上で綿密に協議して決まりにますので、伊豆の生活圏から横の東に広げる力は無かった筈で元より「伊勢と信濃の融合族」です。
    「秀郷流駿河青木氏」は、一度、源平戦で滅亡して「伊勢の助け」と「血縁」で興して再び「秀郷流一門に戻せた経緯」を持っていて、西の「伊勢」や「三河」に生き方を向いていますので、室町期では元の東に広げる勢いは未だ無かった筈です。
    だとすると、「神奈川横浜圏」の「秀郷流相模青木氏」の「西外れの生活圏」に矢張り入ると成るでしょう。
    当然に一時「伊勢」まで張り出していた「秀郷流一門の青木氏族系の永嶋氏系」が、「源平戦後の鎌倉期」と「室町期中期」から「700年にもなる期間」では、「甲斐武田氏系の青木一族」が救済を求めて逃げて来た歴史的経緯からや過去帳等を観ると、一度や二度の血縁は充分にあったと読み取れますが、これはさておき、「本流の裔の定住地」としての結論は「伊豆青木氏」であったと考えます。
    要するにここは「伊豆青木氏」は東は「真鶴」。西は「藤枝」までの域が「伊豆青木氏の住み分けの生活圏」でありました。
    確かに「際どい領域と成る事」は間違いなく、「定住地」とは「氏族の戦略的な要素」の中でありますので、「氏族」を固める為にもこの「血縁」もこの中で行われます。
    従って、この「富士宮」は「戦略的な意味合い」からも、「西の駿河青木氏」の血縁から観ると「伊勢青木氏系」に成った事を意味し、これに「勢力」を復興させ、南に「伊豆青木氏・伊勢信濃融合族」、東に「秀郷流相模の青木氏」と「三角形の中」で固めていますので、流石に時の勢力の信長も秀吉も家康も手の出す事は出来なかった地域です。

    其処を北が弱いとして流石に北から「武田氏」が浸食して来ても結局は左右からこの圧迫を受けて失敗します。
    故に、一族を「血縁」で固く固めていた事は否めませんが、「南の伊豆と西の駿河を「要」として「伊勢の財と抑止力」を背景に「経済力」で南海を制し、東は「相模の秀郷一門の勢力」で固めていたので、「伊豆・伊勢信濃系」と「駿河・伊勢系」と血縁で充分に固める前に「伊勢との重血縁で固める事」で「青木氏一族」は護れたと考えます。
    矢張りそれには、「伝統」で論じている様に、「伊勢」が動いたのは「伊勢との血縁」で「駿河青木氏の復興」を先ず果たさせ、同時に信長に破壊された「伊豆青木氏とのパイプライン・神明社等」を復興させ、構築する事が「喫緊の課題」であったと成ったのでしょう。
    その為には「衰退していた美濃の額田青木氏」に「20倍の即戦力となる近代銃(300・20=6000兵力以上)」を渡し、これを美濃の山奥から引き出して来る事であった事に成ります。
    当に「血縁・重婚」よりは、先ずは「歩」を「金」にするよりは「将棋の駒の動かし方」にあったと観ています。
    従って、この「周囲で護れる三角形の中心」の「血縁」には余り必要性はなかったと観ています。
    恐らくは「祖先」もその様に観ていたのでしょう。
    ですから、「伊勢から観た歴史観」からすると「融合族」までに至らずに、「富士宮」の「東・真鶴」からは、主に「秀郷流相模の青木氏」であったと考えます。
    「ルーツ掲示板」でもお便りがありましたが、この方の場合はその経緯から「伊豆青木氏」でした。
    「伊豆青木氏」が、何故、武力の持たない伊豆青木氏が「半島より北の幹線域」に出て来たかは、それは飽く迄も「商いの伊豆」であったからです。
    其れで「伊勢の海運の力」で護ろうとしたのです。

    次はロの「長島屋」を追論します。
    「長島屋の件」に付いて良くお調べになりましたね。
    依然は、この長島屋は、通説から次の様にお答えしています。
    それは、この「結城永嶋氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢長嶋氏」とは、取り分け「血縁関係」が深く、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」は一族関係であった事から、「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」の協力を得て、「二足の草鞋策」を「江戸」で財源確保の為に始めたのが始まりです。
    そして、「主要五氏」の中でも「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」は「青木氏一族」と呼ばれる一族で、「永嶋氏の中」からも「永嶋氏系青木氏」が出ていたのです。
    これが、後の「長島屋の呉服商」なのです。

    然し、筆者は別の論を持っていて次の様に成ります。
    その理由は、「普通の商い」とは別として、「総合商社の大商い」は「システム」と云うか「背景」と云うか簡単には出来ないと云う事です。
    この点に注目して以前から「次の仮設」を立てて、その「証拠集め」をしていますが、「二つの事の記録の証拠」が採れません。
    それは一つ目は、“吉宗に同行して伊勢から江戸向行した”と云う記録です。
    二つ目は、“江戸での「秀郷流永嶋氏の長島屋の確実な記録」が無い事です。
    その大元の疑問は、“長島の名”の確実な記録の事です。
    実は第一に秀郷流一門と青木氏に関する記録が何故か消失して実に実に少ないと云う事です。
    筆者では、「伊勢の情報」だけのもので、「商記録」に遺された記載でしたが当初は「取引相手」と観ていたのです。
    ところが、「長島屋」が「永嶋氏」に通ずる事から関係性があるとして調べる事にしていたのですが、問題は「長島」とするには、「伊勢の長島・古資料には長嶋」か「薩摩の長島」か「静岡の長島」かの範囲で調べていました。
    「秀郷流青木氏族5氏の永嶋氏」はその子孫の広がった土地に依って書き方を変えていました。
    これは「秀郷流一門の仕来り」ですから、ある経緯から薩摩では無い事は判ります。
    とすると、「静岡の長島氏」は「薩摩藩の商人」として移動してこの長島氏の裔が商い」で「静岡」に定着した「長島氏」である事は判っています。
    従って、「伊勢長島」と成ります。
    とすると、何故、「長島屋の屋号」にしたのかの疑問が解決しますし、そこで何故、江戸なのかです。
    そこで、これを仮設に仕立てて、「伊勢青木氏と伊勢秀郷理由青木氏」の影響を受けて「享保の改革」に向けて「吉宗」に同行して「伊勢青木氏の伊勢屋」と共に「江戸」に向かったと観ています。
    そして、「伊勢秀郷流青木氏の意向」から幕府の官僚族と成った「武蔵の秀郷流青木氏」を“「商い」で「後押し」”をする為に出向いたとしました。
    何故、「後押し」をするかですが、「武蔵の秀郷流青木氏」と共に秀郷一門はそっくりそのままに「江戸幕府の官僚族・家人衆」の名で全て抱えられ史実があり彼等を補完する必要に迫られたのです。
    ところが、歴史でも良く知られる様に「三河旗本の旗本衆」との「大きな軋轢」が発生していました。
    そこで彼等に「力」を着ける為に、それには「吉宗の改革」に乗じて「武力」では無く「経済的な後押し」をした事は史実として遺っています。
    この事は、当に同時期として「駿河青木氏」にも論じた通りです。
    それが「長島屋」であったのではないかとして、その史実を集め始めたのです。
    判って来た事には「矛盾する処」は有りませんでしたが、問題の「吉宗の江戸向行の史実」が掴めません。
    この「江戸向行の史実」の記録が無いのは、“江戸に着いてからの「立上策」であつた”とする仮設も成り立ちます。
    つまり、“「表の伊勢屋」の「影の長島屋」の「商社」を策して作った”とする仮説です。
    吉宗と繋がる「伊勢屋」が表立って出来ない事をこの「長島屋」がしたと云う仮説です。
    それは一族の「3000石の出世近習衆の駿河青木氏」と共に「家人衆の幕府官僚族」と成っていた「秀郷一門族」を裏で力を持たせるために「経済的」に支える役目です。
    これに相乗的に「衣布着用の伊勢青木氏の発言力」も伴ってそれでこそ煩い旗本や大名を抑えて「享保の改革」は進む筈です。
    「お便り」の通りに間違いなく「長島屋」はこの役割を果たしその様に動いていた事は判っていたのですが、又、「伊勢屋」の「商いでの後押し」であるからこそ「お便り」の通りに「総合商社としての動き」を見せていた事も納得が行きます。
    唯、この「総合商社」とする以上は、それを運搬する手段等の総合のシステムが必要で、其処までの「能力・大船やシンジケートなどの保有」が「結城永嶋氏」には勿論の事、「秀郷一門」にも無かったと観られます。
    だから、「伊勢青木氏の伊勢屋」なのであって「無数の船籍を持つ伊勢水軍」と「自らも4艘の大船保有」を有し、「伝統の所」で論じた様に「復興した駿河青木氏の水軍」があり、これにも矛盾していません。
    後は、その「船の行動範囲」は自由航行権は無く「幕府の伊勢山田奉行所」で規制されていましたので、最高でも「伊勢」は「駿河」まで、後は、「駿河青木氏」がこれを繋ぐシステムで「江戸」に運べば可能です。
    それには、どうしても上記した「側衆の家人衆の力の政治の力」と「秀郷一門に経済的な力」で「政治」を動かせば「長島屋の商い」は無理なく成り立ち「システムの構築」は現実に動きます。
    筆者は、「青木貞治の裔の家人近習衆」を「出世させた経緯」の一つに繋がつていたと観ているのです。
    この「長島屋」が「武蔵の秀郷流青木氏の裔」とする説も確かに成り立ちますが、「総合商社の商い」と云う観点からは説得力は低いと考えています。
    これは絶対に「伊勢」と繋がって無ければ成り立つ話ではない筈です。
    その「伊勢青木氏と伊勢屋」が「吉宗の享保の改革」を裏から支えていたのは何よりの証拠に成ります。
    研究では、其れが「富士宮の伊豆の青木氏論」に繋がっているのです。
    「美濃の額田青木氏」と「駿河青木氏と伊豆青木氏」を復興する論の事で此の“「長島」”は成り立つ話でしょう。
    この「一連の戦略」の中にあったと考えています。
    その証拠に、「享保の改革」の末期に「吉宗」が「伊勢青木氏との約束」を破って「信濃青木氏の領地と養蚕等の殖産」をそっくり幕府に奪い取った史実の事から、「伊勢との関係性」が最悪に悪化して「200店もあった伊勢屋の店」を3日以内に「店子に無償譲渡」し、「船」で「伊勢」に逃げ戻り、その「伊勢」では「伊勢紀州の殖産・勘定方指導の立場」を一手に引き受けていた「紀州藩の保護」で守られて、「幕府からの激しい追討の難」を逃れた史実があるのです。
    この「吉宗の行動」は、「力の持ちすぎた伊勢青木氏と伊勢屋と長島屋と秀郷流青木氏と秀郷一門一族のタッグ」を警戒したと解釈できます。
    「紀州藩」は、この時に幕府から「謀反の嫌疑」を掛けられる始末でしたが、護り通したのです。
    この時は、既に「紀州藩」は「吉宗系保科氏の系列」から外れ「安芸松平氏」から「養子」を迎えていました。
    ですから、「吉宗の幕府」に対して「伊勢の秀郷流青木氏を始めとする伊勢藤氏族」が「紀州藩の全官僚」と成っていた事から、故に「明治維新」の「財政改革と近代的軍革の明治維新」を推し進めた「紀州藩士の陸奥宗光等」が代表される様に維新まで続いた「独立性の強い紀州藩・惣国藩と呼ばれていた・慶喜に従わなかった」が出来ていたのです。

    江戸から引いた後は引き続き「伊勢紀州の殖産」で、幕府から「毎年紐付き2万両の借財」をしていた「10万両以上」を5年で返却していて、“紀州藩は云う事が聞かなく成った”と云われるまでにして警戒視されていたのです。
    「低い経済力の無い伊勢加納氏」に代わって「親代わり」と成っていた「伊勢の青木氏・伊勢屋」が、その「紀州藩を救う原因」を作ったとして何との「吉宗」に睨まれて、その「親族の信濃の弱い処・聖地の半分の3000石分と養蚕の殖産剥奪」で突いて来たのです。
    恐らくは、この時の史実の事件から、この疑問の“「長島屋」”も上記の「システム」が壊れて衰退して行く事に成って、「危険な伊勢」に戻らずに、遂には「女系の縁者の多く居る武蔵」に逃げて隠れた事に成ったと現在の研究では観ています。
    実は、この「長島」には当時は「次の仕来り」が在ったのです。
    それは各地に拡がった「永嶋氏の家柄」を姓名の漢字で表現して「何処の永嶋氏」かを当時は判別する様に成っていました。
    これは「賜姓の青木氏」を除き、秀郷一門361氏全てに適用されていました。
    それは「関東屋形」として最高に永嶋氏が勢力を張った「定住地域」に依って変えられていて、永嶋氏>長嶋氏>永島氏>長島氏>永嶌氏>長嶌氏でした。
    つまり、その「長島屋」なのです。
    その意味からすると、果たして「結城永嶋氏の長島屋の通定説」には筆者は実は未だ「疑問」を持っているのです。
    最もしっくり行くのは、完全に「上記の二つの記録」が無い為に確定は出来ませんが、通説とは異なり本説の「伊勢秀郷流青木氏の伊勢長島」ではと観ているのです。

    サイトのメモリーの関係から今回は此処までとし、引き続き3の一色論を披露し


      [No.1185] 続 豪商長島屋
         投稿者:静岡の青木です   投稿日:2021/04/18(Sun) 16:32:46  

    お世話になっております。富士宮の青木です。前回ご教示願いました律宗族や密教浄土宗ということについて丁寧に解説していただき、お礼申し上げます。仏教の律宗と思い込んでしまいましたが正確には律令の律宗であると知り、そうだったかと思いました。志貴皇子の時代はまさにまさに律令政治の時代であり、そのことから青木のお家が背負ったものの重みを改めて感じました。
    青木のお家は神仏習合の密教浄土宗ということでありますが若い頃聖徳太子や比叡山の天台教学を勉強していたので日本の初期の仏教が神仏習合であることはよくわかります。かねてより青木のお家は古い形をよく残していると感じておりました。
    昨年、伊勢神宮へ行ったのですがあえて奈良から入り名張を通過し松阪で清光寺のことが気になって降りてみました。門前の説明版に今は清光寺だがもとは「神光寺」であったとあり阿弥陀三尊や行基菩薩のことが書いてあり、うなりました。やはり神仏習合なのだなと実感しました。そのほか伊勢では慶光院や斎宮が気になりました。富士宮の浅間大社も明治以前は境内に大日堂や護摩堂があり、社僧がいたそうです。
    前回お便りしました長島屋のことですが図書館で本を借りてよく読んでみました。長島屋は日光道中、屈指の豪商で、長島屋のいた地は水運と宿場町で豊かな商人が多く、長島屋のほかに「伊勢治」などの大店もあったようです。管理人様が指摘されましたように江戸幕府からたびたびの献金の強要があり、記録に残っているそうで一回当たり数百両の献納を何度もしています。利根川や江戸川が近いのでその堤防は「御府内お囲み堤」といわれ、御府内とは江戸のことで「江戸を水害から守る堤」であったそうで何度か堤が切れたときは実際に江戸まで水が行ったそうです。長島屋はこの利根川水系の改修工事に多額の拠出をしていることがわかっています。長島屋の看板が菩提寺に残っており、長島屋の主人が池大雅と親交があり、池大雅が描いたもので「現金安売りかけねなし」と書かれています。長島屋は多角経営していて呉服のほかに金物、漆器、家具、材木、両替商もしていたそうです。干拓事業も多く手掛けて今でも「長島堀り」という水路が残っており、田畑を潤しているそうです。長島屋の墓所は一色氏と同じ寺にあり曹洞宗でした。また長島屋は結城郡にも田畑を所有していたそうで管理人様の指摘とよく一致するものでした。長島屋は前回書きました、様々な不幸により家運が傾きましたが、明治13年の大火がとどめになり、明治20年ごろ、この地を去ったそうです。江戸時代は青木氏にとって安定した時代であったのかと思っていましたがそうでもなかったのだなと思いました。
    この地には平将門の供養塔もあり赤木大明神として祀られています。天慶の乱のとき藤原秀郷が陣を置いたという所もあり、そこには弘法大師ゆかりの光明院という大寺があったそうでそこで秀郷は戦勝の祈祷をしてもらったそうです。近隣にはご先祖が天慶の乱の時、紀州熊野から官軍に参陣したという旧家もあるそうです
    いつも管理人様の連載を楽しみに読んでおります。祖父が富士宮の出身なので駿河青木氏の青木貞治のことも興味深く読みました。富士宮ですと駿河青木氏と伊豆青木氏のどちらに入りますでしょうか。
    父の記憶によりますと祖父の実家は棚のようなものを作っていて職人さんが何人かいて、一階が店であったそうです。
    コロナが収まる気配がありません。お体くれぐれも大切になさってください。どなたかも書いておられましたがこのサイトでご先祖様の生き様を勉強させていただき、感謝の思いです。


      [No.1184] 應仁の乱までは青木だったようです。
         投稿者:岩田京子   投稿日:2021/04/14(Wed) 22:35:06  

    3週間ほど前に投稿させて頂きました岩田です。

    投稿後、青木氏をもっと知りたいと思い、青木氏のレポートを『青木氏の伝統』を中心に約1000枚(500枚の両面)をプリントアウトして勉強しています。
    まだまだ、続きをプリントアウトして勉強を続けていくのを楽しみにしています。

    今まで全く知らなかった内容ばかりで読み込むところまではまだ出来ませんが、桓武平氏の流れであることは分かりました。

    桓武平氏が渡来系であることを初めて知り、一つ納得できたことがあります。
    それは、三重県の東員町にある後醍醐天皇より青木紀伊守安定が賜った山田城(笹尾城ともいう)の発掘調査で鉄製品や陶器などの出土品の中に中国銭があったことを今まで不思議に思っていました。
    渡来系の流れならば、あっても不思議でないと納得しました。

    今、一番知りたいことは、青木紀伊守安定の青木のルーツです。

    伊勢平氏の平忠盛の末葉であるとは家系図に書かれていますが、後醍醐天皇から山田城と共に青木を賜ったのか?いつから青木であったのかが分かりません。

    そして應仁の乱で青木駿河守安豊の3代目で山田城が織田信長に滅ぼされ廃城となったと伝えられます。
    落城後逃げた?先祖が津市の岩田を横領して姓も岩田に変えたとあります。
    その後、北畠顕家公秀秋公に属すともあります。

    曽祖父の代までは、員弁郡東員町鳥取で名字帯刀を許された庄屋をしていたと聞いています。

    青木のルーツを知るためにお力をお貸しください。


      [No.1183] 真鶴町の青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/04/08(Thu) 16:15:04  

    代理投稿
    エラーと成っていましたので副管理人が代理投稿します。

    投稿内容の文面
    真鶴町の青木です。1180年8月に源頼朝が石橋山の戦いに敗れて真鶴へ逃げて来て隠れている時真鶴三苗字(青木、五味、御守)と呼ばれている三人が面倒を見たので、頼朝は喜び苗字を与えたと言われています。

    真鶴町の青木さん 今日は。
    始めまして、ようこそ青木さんが集うサイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。
    本サイトには青木氏に関する資料が満載していますので、それを少しづつでもいいですからお読みに成って下さい。
    大方のお家のルーツも判って来ると思います。

    伊勢や信濃などの青木氏では、「伊豆の青木氏」の事に付いては正しく記録が遺されていたのです。

    お家は「五家五流皇族賜姓臣下朝臣族」の「伊勢と信濃青木氏の融合青木氏」です。
    青木氏には二つの青木氏があってその二つは母方で繋がっています。
    女系族の青木氏です。
    皇族賜姓朝臣族の近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の五つの青木氏の5氏
    同じく賜姓朝臣族の藤原氏北家流秀郷流青木氏の116氏 全国24の地域に分布し主にその宗家は埼玉入間に現在も存在しています。

    この二つが血縁して青木氏一族を形成していたのです。
    現在でも日本で唯一遺る氏族です。

    伊豆は勿論の事、神奈川の周囲には青木氏の地名も遺り真鶴より西域の藤沢あたりまでこの青木氏が現在も多く存在していますよ。
    お家の親族です。
    神奈川の東域から千葉茨木までは女系、母方で繋がる賜姓朝臣族の藤原氏北家流秀郷流青木氏も現在も多く存在します。


    1185年に以仁王の乱を源の頼政が令旨を以て全国の河内系の源氏に呼びかけます。
    この時の少し前に、摂津源氏の頼政の領地は平の清盛から正三位の冠位の立場を与えら1159年に伊豆の国を領する事に成り、自ら軍を持たない摂津源氏の頼政は、困って女系血縁族の皇族系賜姓朝臣族の青木氏を頼って護って貰うように頼みました。
    困った伊勢の青木氏は親族の信濃の青木氏と共に一族の者を出して大きな武力を持たない為に「商い」と、近くにいる秀郷流青木氏の武力と共に護る事にしたのです。
    当然に二つは親族でありましたが更に男系も融合して女系と男系の完全同系融合族を作ったのです。
    これが笹竜胆紋を総紋とする「皇族系臣下朝臣族の融合族」の「伊豆青木氏」なのです。
    大まかに云えばこの様に成ります。

    唯、この河内源氏の頼朝が助けてもらった礼として名を授けたとする事には詳しくは論じていません。
    それには理由があって、これは飽く迄も後の「逸話」であって、その「逸話」には大きい齟齬があって、本当の史実とは違うのです。
    従って、その逸話に沿っての論文は有りません。
    恐らくは長い時代の間に「伊豆青木氏のルーツ」が分岐し伊豆の本家筋とは違い分家尊属族にそのルーツが忘れ去られて行った事から興った事でしょう。
    元々、青木氏とはその様な系列の格式を持っていた事を知っていたのだと思います。
    だから頼朝と青木氏とを結びつけた逸話が作られたのだと思います。
    この逸話には、摂津源氏の頼朝を伊豆の洞窟の祠に匿い、その入り口に天智天皇が賜姓を受けた時に青木氏の「氏木」に指定されていた「神木の青木の賜姓樹木」を置いて隠したとする事から青木を名乗らせたとする物語風の逸話が出来ていたのでます。

    そもそもの始まりは、「全青木氏族の始祖」は「天智天皇の第七位皇子の施基皇子」が「大火の改新の定め」により第四世族内の第四位皇子以下は臣下して青木氏の氏の賜姓を賜り、真人族から朝臣族となる事に成りましたが、その最初が伊勢王の施基皇子でした。
    続けて、「天智天皇の第六位皇子の川島皇子」が「佐々木氏」を賜姓され、「近江王」に配置され、そこで伊勢と同族血縁して、「近江の青木氏」が生まれ、続いて美濃には三野王が守護王として「美濃青木氏」が発祥、信濃には「信濃王」が守護王として配置され、「伊勢青木氏」と血縁して「信濃青木氏」を発祥、甲斐には甲斐王が守護王として配置され青木氏を名乗ります。この内、皇子皇女を多く受け入れて青木氏を名乗っていますが、その意味で美濃と甲斐は独自の行動をとります。
    この様に、「大化の改新」で皇位継承の出来ない「皇族の皇子」が多く発生し、この皇子皇女等をこの五家に受け入れさせて血縁させ財源を軽減させて、「皇族の周囲」をこの「五家五流の賜姓青木氏族」で固めたのです。
    この時、伊勢と信濃の青木氏は斎王として皇女だけしか受け入れませんでした。
    この制度は、嵯峨天皇が自らも「伊勢青木氏の出自」でありながらも、この「青木氏の賜姓制度」は皇親族から除き廃止します。
    この青木氏による「賜姓制度」は「嵯峨天皇期直前期」まで続きますが「嵯峨天皇」はこれを廃止します。
    その後、「青木氏の賜姓」を源氏に替えたのですが、この賜姓制度には、皇子皇女を受け入れる制度は全くありませんでしたし、皇族の財政ひっ迫から「源氏の経済的裏付け」もありませんでした。源氏は皇子皇女を受け入れる能力は全く無く史実もありません。
    従って、源氏は花山天皇まで11家賜姓されましたが、生き残れたのは主に清和源氏でした。

    この清和源氏の頼信系は河内で、朝廷が定める賜姓族に課せられた「9つの縛り」を守らずに、「賜姓族の禁じ手」の「武器」を持ち周囲を制圧し領地を奪い生き延びたのです。
    賜姓族から外された青木氏は、奈良期から朝廷の仕事を一手に引き受けて「二足の草鞋策」で「商い」を手広く営み、その「儲け」を天皇に献納する族として生きて行く事に成ったのです。
    その「最初の商いをした始祖」が「施基皇子のとその子等と孫子の青木氏・四家と云います」であったのです。
    信濃も伊勢と行動を共にして同祖族血縁して同じでした。
    故に、経済的に「巨万の富」を獲得し「天皇家と朝廷の経済的基礎」を築き潤した唯一つの姓を出さない「氏族・青木の氏」でした。
    ところが、「近江と美濃と甲斐の青木氏」と「近江佐々木氏」はこれに従わずこの河内源氏の清和源氏と共に平家と戦い敗退し「完全滅亡・1221年」しました。
    それが「以仁王の乱・頼政」からです。
    「伊勢と信濃の青木氏」は同族血縁して、この戦いに参加せず、寧ろ、「平清盛の故郷」の「平家の里の伊賀」では「伊勢青木氏と血縁して伊賀青木氏、甲賀青木氏」を発祥させた一族であった事から中立を保ったのです。
    その最初が、聖武天皇と孝謙天皇には皇位継承者が絶えて、そこで約200年弱前の昔の「天智天皇系の施基皇子の子孫」の「青木氏の出自」の「四男の白壁王・光仁天皇」に「孝謙天皇の姉の井上内親王」を后として嫁がせて皇族に再び引き込みます。
    その妃と成ったのは、「清盛の祖母の高野新笠」であり、その実子が「桓武天皇・山部王」であり、その孫が゜平城天皇」であり、問題の「嵯峨天皇」なのです。

    この時の少し前に「以仁王の乱を起こした摂津源氏の頼政」は、清盛から領土として藤原氏から山岳地の不毛の伊豆を獲得したのです。
    この源平戦の前に頼政はこの伊豆を何とか別の形で残す事を策し、清盛から奪われない様に平家と縁の深い親族と成っていた「桓武派の伊勢と信濃の青木氏」に頼んで伊豆に移住配置してもらって此処を残そうとしたのです。
    親族である「伊勢信濃青木氏」を潰す訳には平家は行かなかったのです。ここが狙いでした。
    そして、「摂津源氏の子孫」を絶やさない為にも血縁していた伊勢には頼政の孫の四男の京綱を、信濃には国友を入れて血縁して、摂津源氏の子孫を遺したのです。
    信濃の国友はこの後に伊豆に密かに移り住み同化します。
    この前に、嵯峨天皇の仕打ちで苦しんでいた伊勢と信濃の青木氏を観て憂いて960年頃に「円融天皇」は伊勢信濃の母方の関東に勢力を張っていた「北家藤原秀郷」に「青木氏」を賜姓し、代々永代に第三男に青木氏を名乗らせる事を命じたのです。
    その初代が千國でしたが後にこの子孫は116家に広がります。
    秀郷流一族一門は361氏に広がりますが、その1/3がこの「第二の宗家」と呼ばれた青木氏が占め武力の持たない伊勢と信濃の青木氏の抑止力と成ります。
    その勢力は武蔵入間を中心として半径を西は神奈川横浜域東として円を描くようにこの青木氏は分布していました。現在でも同じです。
    この二つの親族の青木氏で朝廷に貢献する青木氏を守ったのです。
    この流れの中で関東にも秀郷流青木氏のいる関東の近くにも拠点を置く事で頼政の説得に応じます。
    それがお家の「伊豆青木氏」なのです。

    お家の伊豆青木氏の融合宗家は伊豆の「浄蓮の滝」の東近くに北条氏から追われた頼朝子孫の実朝が隠れ住んだ隠家のところから直ぐ近くに今でも「宗家跡」や「一族墓所」などがあり、宗家跡や守護神の神明社も遺っていますし、その一族の形跡は色濃く遺されていますし、周囲は笹竜胆紋を総門とする「伊豆青木氏」で今でもいっぱいですよ。
    故に伊豆の青木さんには現在も商いを営む子孫が多いのです。
    以上が概要ですが、伊豆に移って伊勢と共に「和紙の商い・紙屋院の伊勢屋」を天皇から称号を与えられて占有権を持ち全国的に商いを行います。
    この和紙の元の「良質な伊豆楮」を生産し伊勢と船で大商いして成長します。
    ですから移り住んでから「昔からの伊豆の楮和紙」と呼ばれた「産業」を発展させました。
    伊豆青木さんの真鶴の青木さんとなると、分家に当たると思います。
    検索で先ず伊豆青木氏をお読みください。
    正しくはお家のルーツを本サイトから獲得してください。

    筆者は「親族の伊勢の青木氏」の福家です。

    先ず青木氏のルーツ掲示板か研究室の掲示板の「サイト検索」で「伊豆青木氏」と記入すると読み切れない程の論文が投稿していますので、先ずそれをお読みに成ってください。
    お家のルーツの大方は判ると思いますよ。
    其の上で判らない処が沢山出てきますのでなんでも結構ですので遠慮なく都度お尋ねください。

    では先ずはお便りをお待ちしています。


      [No.1182] Re:三重の青木です
         投稿者:副管理人   投稿日:2021/01/01(Fri) 09:15:28  

    今日は 伊勢員弁の青木さん 今日は。
    有難う御座います。

    東京はコロナで大変ですね。充分に注意されてお過ごしください。

    そうですか、お訪ね頂きましたか。
    仏像は、本殿の中に入り奥のガラス保管棚の左側の仏像の木像の大日如来坐像で約一メートル以上は有ります。
    台座を加えると1.5mもありますよ。
    その右横にも木像はありますが、これは紀州徳川氏の仏像です。
    この寺は過去三度の類焼を受けました。
    江戸期に入り、この清光寺は紀州藩に接収されました。
    「青木氏の密教の菩提寺」であった室町期までは現在地より2m西側の位置にありました。
    江戸期に顕教令が出され密教が禁止された為に紀州徳川氏に接収されましたが、「青木氏の福家の総墓」は残されました。
    墓所に右から入ってほぼ中程手前にあり、更に突き当たる場所の右側に青木家の夫々の墓があり、その隣には女の戒名を並べて刻まれた女墓所がありますよ。
    残念ながら筆者の墓所も移住して遠く成り歳をとった事から別の住まいの近くの処の知恩院派浄土宗寺に移しました。
    現在では本殿で青木氏の仏像を観るにはお寺に見せてもらう為には恐らくは御布施がいりますよ。
    筆者がその後に訪れても僧侶は年毎に知恩院から派遣されている為に記憶があやふやに成って仕舞っている様です。
    仏像は平成10年10月まで伊勢松阪の青木氏で保管していましたが、伊勢の松阪青木は父の妹が継ぎましたが絶え、「商い」と摂津に本家を移したので、松阪清光寺に保管をお願いしました。

    お仏像の写真は本サイトに掲載していますよ。
    他の伊勢青木さんの墓所は「清光寺の本寺」の他に青木氏所縁の分寺が四か所ありますのでそちらでも墓所がありますよ。

    不思議ですね 筆者の孫の長男も青木佑太ですよ。

    ではまたお便りください。


      [No.1181] Re:三重の青木です
         投稿者:青木佑太朗   投稿日:2020/12/30(Wed) 12:29:52  

    こんにちは。お返事が遅くなってしまい申し訳ございません。

    先日、教えていただいた松阪の清光寺に行ってきました。境内にアオキがいくつも植えてあり、不思議な感覚でした。恥ずかしながら仏像と墓所がどれなのか分からなかったですが。。。

    今年はこちらのサイトに出会えてよかったです。
    管理人さんも良いお年をお迎えください。


      [No.1178] 広島の青木望さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/08/28(Fri) 07:08:23  

    お便り内容

    来場記帳欄より代理投稿します。

    投稿名は出生時の名前で現在地は結婚して氏が変わり他県に住んでおります
    青木の墓は浄土真宗で白島にあり 墓石には二重菱というのでしょうか大きい菱形の中に小さい菱形が入っている家紋が掘られています
    15年程前に現在はお亡くなりになっている前住職から青木についてたまたまお話を聞く機会があり 本当のことを知りました
    私の母は亡くなった父から士族で他県から広島に来た本家であると聞いていたそうですが 実際は200-300年前から(過去帳が実家にあるためうろ覚え)ずっと同じお寺でお世話になっていたようでした
    4代前からりょうもらいだということで やっと私が生まれたのかと思った記憶があります
    母が父から聞いた話なので本当かどうか定かではありませんが他の青木は東京にいるといったような話もあったようです
    残念ながら私には兄弟もおりませんのでうちもこれで終わりなのだと思っております。



    広島の青木さん

    副管理人より投稿

    お便りが遅れました。
    記帳欄にお便りを頂きましたので見落としました。
    誠に済みませんでした。

    さて、お便りより判断し御返答いたしますと、お家は「甲斐国の青木氏」と考えられます。
    間違いは無いと考えられます。

    お家の墓所は「広島県白島」にある事
    家紋が「いりこ菱紋」と云うものである事
    明治維新の戸籍簿で士族と書かれている事
    縁者関係者が江戸にいた事
    広島に過去帳と云うものが存在する事
    浄土真宗である事

    以上でお家の経緯が歴史と一致します。

    では、そのお話をします。
    ご先祖の「ロマン」として子孫の方に伝えられれば、それは「終わり」ではないと思います。
    「人間の務め」は、“自分を含めた先祖の生き様を伝える事”に究極はあると思います。
    「青木氏の密教」はその様に説いています。

    現在までもお家の「ルーツの活躍具合」が詳細に遺されていますよ。
    これを是非、「生き様の伝統」として繋いで行って下さい。
    其れも「広島の地名」までの移動に関する歴史が遺っているのです。
    筆者も、これ等の事に付いてのは歴史は充分に承知し、お家の事を「研究室の伝統シリーズ」や「ルーツ掲示板」でも論じていますよ。

    さて、判り易く「青木氏」は次の「二つの青木氏」から成り立っています。
    共に、「親族」でした。

    先ず、一つ目は「皇位族」の「賜姓臣下朝臣族青木氏」です。
    「伊勢青木氏」、「近江青木氏」、「美濃青木氏」、「信濃青木氏」、「甲斐青木氏」です。
    これを「賜姓臣下族の五家五流青木氏」と云います。
    「天智天皇」より「大化の改新」で、「天皇家の皇子」は「第四位皇子」までを「皇位継承権」を持ち、「真人族」と呼ばれ「天皇家」に遺ります。
    「第六位皇子」からは「天皇家」を外れ、「臣下」して「賜姓」の「青木氏」を賜り、「氏族の朝臣族と云う立場」に成ります。
    これらの族が「賜姓五家五流青木氏」です。

    初代の「賜姓臣下朝臣族」は、「天智天皇代七位」の「施基皇子」が「伊勢青木氏の始祖」と成り、「平城天皇」までの臣下した「皇子の王」は、「近江王」であり、「美濃王」であり、「信濃王」であり、「甲斐王」なのです。
    これは「天皇」が代替わりする度に、「天皇継承権」の持たない「皇子皇女」は起こりますが、全てこの「五家」に入る事に成り、「青木氏」を名乗る事に成ります。
    この「第七世族以上と成った者」は「坂東」に「配置・流される」します。

    此処からお家の歴史に入ります。
    ところが、「甲斐の家」には余り「皇子皇女」は、当時としては「山奥」と云う印象があり、行かず避けたのです。
    そこで、「桓武天皇」の子の「嵯峨天皇」は、この「賜姓の仕来り」を「詔勅宣言」で破って、父である「桓武天皇」との「親子争い」が起こったのです。
    「桓武派の平城天皇」と「親子争い」の「薬子の変」です。
    有名な「桓武天皇」は、「光仁天皇の子・山部王」で、その「光仁天皇」は「施基皇子」の「四男・白壁王・青木氏」で、「伊勢青木氏の出自」です。
    ところが、「女系の孝謙天皇」は、「天皇家」に絶えた男系を元皇子であった「施基皇子の子」の「伊勢青木氏の四男」に無理やり「天皇」に成る様に「白羽の矢」を立てて「天皇・光仁天皇」に仕立て上げ、それに自分の姉の「井上内親王」を「后」として送り出し「天皇家の筋目」を建てます。
    当然に、この「嵯峨天皇」も「光仁天皇の孫」に当たります。
    この「孫」が、何と「自らの実家」の「青木氏」を仕来りの「賜姓する事」を止めたのです。
    これで「青木氏の子孫」である者等が「二派」に分かれて「親子喧嘩」が起こったのです。
    「嵯峨天皇」は「青木氏」に替えて「源氏」を今後賜姓すると「詔勅」を出して宣言をしたのです。
    そして、この「賜姓源氏」に「嵯峨天皇」は「皇位族朝臣族の格式」である事を義務付けたのです。
    ところが、この「賜姓源氏」は「嵯峨天皇」が提示したこの「9つの縛り」を全く護らず勝手な行動を採る様に成ったのです。
    賜姓を受けられなかった「皇子皇女」は、「賜姓青木氏に入れる事」が出来なくなった為に、賜姓の無い源氏を名乗り生活力の殆どの無い者は滅亡しました。

    そこで「周囲の立場」を失った「嵯峨天皇」は、自らの「出自元の青木氏」に対して、「代替わり」で出て来る「皇子皇女」に、「青木氏の伝統ある一切の慣習仕来り掟」を真似ては成らないと明記して宣言します。
    兎も角も、「折衷案」として失敗を隠すために「賜姓青木氏」を保全したのです。
    但し、此処に条件を付けました。
    それは、「9つの縛り」をある程度に護った「源氏族」か「皇子皇女族・真人族」である事を「証明する物」があれば、「賜姓」はしないが“「青木氏」を名乗っても良い”としたのです。
    更に、「新撰姓氏禄」と云うものを定めて勝手に名乗れなくしたのです。
    これで全国の豪族の格式を定めたので名乗る事は難しくなりました。

    そのトップに「青木氏」を置き「収拾案」を提示し納めます。

    そこで、「皇子皇女」が行かなかったこの「甲斐」には、止む無く「嵯峨天皇の子供」を賜姓は出来ませんし、護らない賜姓源氏にしたくない為に、賜姓に継ぐ役柄の「冠者蔵人の役名」を着けて「甲斐」に配置したのです。
    これが「甲斐の賜姓青木氏・嵯峨の甲斐青木氏」と云うものです。
    これが、「賜姓」では無く「嵯峨氏の源光・冠者蔵人」と云うものでした。
    ところが、この「冠者蔵人」であるが同格として無理に「青木」を名乗り、この「青木源光の兄」の「時光」は、「弟」が出世している事に納得せず、「9つの縛り」も護らなかったのに、勝手に許可なく「源氏である事・支流」を理由に「条件付きの嵯峨詔勅の青木」を名乗ったのです。

    これが「お家の始祖・甲斐時光系青木氏」に当たります。

    さて、これでは終わらなかったのです。

    此処からびっくりするような「お家の大きな歴史」が始まるのです。

    この「甲斐」では、伝統ある正統な「源光系青木氏・冠者蔵人」の「青木氏」より、上記の「条件付きの嵯峨詔勅の青木」の「時光系青木氏」の方が子孫を大きく拡大させたのです。

    此処で「時光系青木氏」の中で複雑な「一族争い」が起こったのです。
    甲斐全土に大拡大した「時光系青木氏の分家」に「お家騒動の争い」が起こります。
    時光より「七代目分家」の「信正の子供」の「信定」が、その「信定」の子との「親子の仲」が悪く、「分家跡取り」を巡って子の「正定と弟の豊定」とが組んで「親・信定」と対立します。
    結局は「親の信定」はこの子供の二人を甲斐の山奥に飛ばします。
    「正定」は北巨摩郡、「豊定」は柳沢に飛ばして親子の縁を切ったのです。

    「信定」はそこで、「安芸」に「時光系青木氏分家」より「一族の者」を「養子」を出していました。
    そこからこの「縁」を通じて子供一人を「養子・信之」としてもらい受け「分家の跡取り」とします。

    そこで、千葉から流れ着いた「武田氏」が「甲斐」で勢力を拡大させ、現地の豪族の「時光系青木氏」は飲み込まれ、この「武田氏」と縁組をし益々拡大します。
    この「武田氏」とは血縁をして「武田氏系青木氏」を始めとして「時光系武田氏族青木氏」、の二つとで「時光系」の「三つの青木氏」が誕生します。

    ここで、「長篠の戦い」が起こり、敗戦しこの三つは完全に滅亡します。
    ところが、戦い途中で、「信定の養子」と成った「安芸の養子の信之」は負ける寸前で、早々と「安芸の故郷」に逃げ帰ったのです。

    ところが、「北巨摩郡の正定」と、「柳沢の豊定」は「武田氏」に参戦をしませんでした。

    「甲斐の戦後処理」は「家康」に任されますが、この時、「北巨摩郡の正定」の一族と「柳沢の豊定」の一族の「兄弟の族」は、「家康」によって「武蔵の鉢形」に一切移住させられ、「家臣団」に加えられます。

    その三代目が賢く「将軍綱吉」に取り立てられて「御側用人」と成って有名な大名と成った「柳沢吉保・青木吉保」なのです。
    この時、兄の一族は吉保の家臣と成ります。
    「吉保」は、故郷の甲斐3郡を「知行地の扶持」として与えられます。
    最後は、「奈良・郡山」に転封されますが、此処でも「青木氏の子孫」を拡大させます。

    さて、お家はこの「養子の信之」の裔系と成ります。
    それは、記録では、安芸の高尾伝九朗の三男 母は多田次郎右衛門昌繁の女と成っています。

    その「安芸」に戻った後の、「延宝五年・1678年」に「安芸の家・高尾家」を再び継ぎ、「安芸松平家の家臣」と成り、「元禄七年・1689年」に「大番役」に成り、「200俵の録」と成る。とあります。
    最初に「安芸」に「甲斐」から「養子」に行ったの者は、記録では「某」とされ誰か判っていません。
    解っている事は,名は「三十郎」か「清左衛門」と成っていて、”養子先家督継ぐ”とあり、安芸では「宝蔵書」を務むとあります。
    恐らくは、「清左衛門」は「世襲名」であり、分家の「跡継ぎの名」ですので、「三十郎」が安芸に養子に行った事に成ります。

    以上が記録されています。

    その養子が戻った安芸では、「大番役」であつた為に警護役として「安芸松平家の江戸詰め」として損が江戸に定住する事に成りました。
    その後に「正定と豊定の一族甲斐青木」とも同じ「甲斐者の青木氏」として血縁を持つ事に成ったのです。

    奈良に転封後もお家には、義理ではありますが、「正定と豊定の一族甲斐青木氏」の多くは江戸にも子孫を残しました。

    以上がお家のルーツとして判っている事です。

    この事を「最低限の先祖の情報」としてお家のお子さんの「青木氏の子孫に遺す事」もロマンではありませんか。

    では、又、お便りを下さい。


      [No.1177] Re:三重の青木です
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/08/25(Tue) 10:17:17  

    今日は。
    ようこそ全国の青木さんが集う「青木サイト」にお越しいただきました。
    これからも宜しく是非にお願いします。

    そうですか、次第に年齢を重ねると自分自身を知りたくなるのは、人間が脳に持っている過去への憧れで、それが無意識に出て来るものです。
    何時か自然に引き付けられて行くものだと思います。
    これが「遺伝子」の中に組み込まれているのだと思います。


    お聞きしたいこと、の件に付いて。
    自分のご先祖様がどんな人たちだったか(仕事や生き様、社会の中で果たした役割、後世に遺したものなど)

    「青木氏」には、「伝統的な密教の考え方」があって、“自分は曾孫までは自分の未来の自分とし、それを見ているのだ”と云う考え方があって、“孫や曾孫が無条件にかわいい”と成るのは、この事に由来する事だとしているです。
    今の科学から観て、これが遺伝子に組み込まれたものから来ていると云われています。
    そういう場面に遭遇すると、何となく親しみを感じたり落ち着いたりするのはこの事から来ていると云われています。
    筆者も小さい頃から「歴史好き」で、取り分け「青木の事」に付いて興味を持ち父の旅に付いて行って昔の親族や関係者に会って話を聞くのが好きでした。
    他の兄弟とは全く行動が違っていました。
    当時は、“松阪の主家・福家の御坊様”と呼ばれた記憶があり、何の事か良く判りませんでした。
    一族関係者に遺された資料等を読み漁り其れを纏めて行ったもので年月と大部足を運びました。
    それが現在に至っているのです。

    さて、故に、お家には筆者は実に親しみを不思議に感じました。
    それは、この事から来ていると思います。
    何故ならば、「血のつながり」のある当に”「親戚・家族」”だからです。
    筆者は「伊勢松阪の青木」です。
    この「伊勢」には、”「四家」”と云って、「松阪」と「名張」と「員弁」と「桑名」の四つに分けて構成され「氏族の主家」を構成していました。
    これは「皇位族」に課せられた掟でした。
    この「氏族」は「伊勢衆50氏」から成る「氏人」で、全て「女系」で何重にも繋がる族を構築しているのです。

    「天智天皇の第七皇子」の「施基皇子」は、647年に皇族から「臣下」して「朝臣族」として「賜姓」を「天智天皇」から授かり、「伊勢王の臣下族」として「賜姓の青木氏」を名乗ったのです。
    そして「天皇」が認める初めての正式な「唯一の氏族」を構築したのです。
    この時、「天智天皇」から「皇位族の象徴紋」として「笹竜胆紋」、「仏師の鞍作止利作の大日如来坐像」、「神木で象徴木のあおきの木」と「旗印の白旗」と「祖先神の神明社」を守護神とし、「神職の象徴紋の柏紋・神木」を与えられました。
    「仏師の鞍作止利作の大日如来坐像」は平成10年まで青木で保管していましたが、「青木氏の氏の菩提寺」である「松阪の清光寺に移しました。
    JR松阪駅前の道路を渡った右手の角の裏手にありますよ。
    そこには、青木氏の氏族の大きな墓所もありますので、この仏像と共に観てください。
    「神職」と書かれていましたが、その「皇祖神」の「子神」の「祖先神の神明社」の守護神も付近にあります。
    これが「柏紋の青木氏の神職」で、全国に「488社」もあります。
    ここの神職全ては「青木氏の神職」ですよ。
    全国の神明社を5年程度の交代制で回っていたのです。
    お家は、元はこの「総紋・氏族紋の笹竜胆紋」を「総紋」として、唯一、天智天皇から与えられた「神木の副紋」を持つ「柏紋の神職の青木氏」なのです。
    員弁から桑名に掛けて9社ありますので、恐らくはこの内のどれかの神明社の神職をしていたと思います。
    交代制ですから全て廻っていたと思いますので「菩提寺の清光寺」と「神明社訪問」も良いかもしれませんよ。

    さて、話を基に戻して、お問い合わせの話に戻ります。
    それをすべて、「男系」で繋がるのでは無く、「女系で繋がる氏族」を先ず「伊勢」を始めとして形成したのです。
    これが伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の五家五流に広がります。
    伊勢王の「施基皇子」の青木氏には「7人の嗣子」と「9人の女子」が生まれました。
    この「七人の嗣子」の内、「松阪と名張と員弁と桑名」と、別に後に「四日市」に配置して、要するに「四家」と云う制度を敷き「皇親族の家」を造ったのです。
    そして、「天皇」よりこの「朝臣族」としての「賜姓氏族青木氏」に課せられたのが、永代の「賜姓五役と令外官」でした。
    この役目を「四家の青木氏」で熟したのです。
    其れの内、お家は「員弁殿」と呼称された「青木氏」なのです。
    この制度の仕来りは江戸末期まで続きました。
    つまり、お家がその「員弁殿の末裔」という事で、筆者とは非常に濃い血が流れているのです。
    最後は明治35年に「伊勢屋・青木氏」が「維新政府・薩摩藩」から攻撃されて一度倒産の形を執り摂津に本家を移して難を逃れました。
    この時、正式には伊勢は「解散の形」をとり「四家」は、名張家、松坂家、員弁家、桑名家として独立して生きて行くことに成ります。その少し前から難を逃れる為に開始していました。
    それがお家です。
    天皇家より余計な格式のある家・青木氏の存在を薩摩は否定したのです。

    「織田信長」に攻められて(当時神主?)、その後農業に携わった の件ですが、
    この事は「伝統シリーズの論文」で詳しく論じています。
    室町幕府は青木氏を律宗族として認めましたが、信長は青木氏の力が大きいので認めませんでした。
    この間、農業・庄屋に関わりながらも四家は護っていたのです。
    江戸期で再び青木氏を認められ四家・伊勢屋は続けます。
    実は全くおっしやる通りで、その通り「信長」と「伊勢青木氏」との「戦い」でした。
    「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」は、そもそも、「施基皇子の皇位族」であって、賜姓時に当たって「朝廷・天皇」から「永代の賜姓五役と永代の令外官」の役目を与えられ、その「伝統ある格式」を護るために、「信長」に対抗する直接する「武力を持つ事」を禁じられていました。
    その変わりに、「皇位族」でありながら「影の令外官」として「紙屋院」と云う「格式ある称号」を初めて与えられ、この「称号」に基づいて「商い」を認められたのです。
    この時期は、全ての職人の造った物は、一度、朝廷に納められ、「余った物」を市場に放出して、「利益」を獲得して「朝廷の財源・内蔵」としていたのです。
    これを「部経済」と云います。
    「部」とは、「職人」の全てを以て「部人」と云う身分を与え、「朝廷の国造」か「青木氏の造」に所属させました。
    これを「青木氏部」と古来より呼ばれていました。
    そして、この「青木氏」は同時に、「国造」をも含むすべてを「管理支配する役目も令外官」としても役目を担っていました。
    この「市場に放出する役目」から、先ずは「紙の放出権」を与えられて「商いの役目」を司ったのです。
    この時は未だ、「木簡や竹簡」と云ったものに記録する文化で、「紙」は全て中国から輸入する状況で、高価で中々普及しませんでした。
    そこで、天皇は“これを解決せよ”と命じられ、特権を与え此の「貿易の務め」も果たしていたのです。
    そこで「悪質な中国製の紙」ではなく、「日本製の良質な紙」を開発する様に天皇より命じられます。
    これに楮を使った紙に見事成功します。
    此の「紙の独占権を持った青木氏」は、室町期末期には「紙文化」が起こり、「日本一の巨万の富」を獲得します。
    これが「伊勢屋と青木氏」です。
    つまり、「二足の草鞋策」です

    さて、時代が進み、この「青木氏・伊勢屋」は「信長」にとって「目障り」でした。
    「伊勢と信濃の青木氏」には「抑止力」と云う「信長の武力財力」の数倍以上を凌ぐ力を持っていたのです。
    海には「伊勢水軍」を配下にし、自らも千石船3艘をも持つ「大勢力」で関西と瀬戸内の支配権を持っていたのです。
    「信長」はとてもかなう勢力の抑止力では無かったのです。
    そして、更には、「日本一の豪族」の「藤原北家秀郷流青木氏・116氏」と「秀郷一門361氏」とは「女系」による長い歴史の親族関係にあって、「信長」も中々に手が出せなかったのです。
    そして、その「財力」と「50の伊勢衆の氏族の氏人・伊賀青木氏を含む」が構成する「伊勢シンジケート」があったのです。
    南北朝時代に「10万の足利氏の軍・2万餓死」をこの「伊勢シンジケート」で餓死させる戦績を持っているのです。
    この事を知っていた「信長」はこれ等の「武力」そのもので背後を突かれるからです。
    この事を恐れていたのですが其処を「信長」は「伊勢攻め」を無理に実行したのです。
    そして「5つの出城」を築いて「伊勢」を攻め落とそうとします。
    ところが、「伊勢シンジケート」と「秀郷一門の武力」の「動向」等も加えて、この城を「火付け火災」で能力低下させ、「搬送の食料」を襲い、関東から迫る秀郷軍を恐れて、遂には、先に信長軍は大阪に引き上げて仕舞い「北畠氏」は潰されましたが、其の後に「信雄・責任者」を罰して取り敢えずは治まりました。
    この時、「四家」は犠牲を負いますが、お家の「員弁殿」は地理的により大きな犠牲を負ったのです。
    「松阪」も寺や蔵などに焼き討ちを受けましたし、尾張に近い「桑名殿」も犠牲を負いましたが、財力で直ぐに元に戻りました。
    「伊勢攻め」は2度あり、「秀吉の長島攻め」もありましたが何れも「強力な抑止力」で勝ちました。

    “私の曽祖父の祖父が青木佐右衛門(天保十三年生まれのようです)”

    この件ですが、当にお家が「員弁殿の裔」である事にはこの事で間違いはありません。
    其れは「賜姓の青木氏」には「天皇」から認められた「氏族であった事」から、その呼称には「5つの名前」を持っているのです。
    その内、「家柄を示す世襲名」と云うものがあったのです。
    「伊勢の松阪」の「松阪殿・福家」は「・・兵衛」、「員弁殿」は「・・右衛門」として呼称し、桑名は「・・左衛門」とその前にその「立場・役柄」を表現する事で「格式」が判る様にしたのです。
    お家は「佐」が付いていますが、この「佐」とは「朝廷の役職」の「佐官」と云う「最高級の立場」を示しているのです。
    天皇を直接護る「近衛兵軍団」の佐官、つまり、「軍団の最高クラス」の指揮官を意味します。
    現在の「自衛隊の一佐・将軍の直下で上から3つ目」の事です。
    「伊勢王」の「施基皇子」は、「天智天皇の第七位皇子」で「大化の改新」で「第四位皇子以外」は、「天皇の継承権」が無く、「皇位継承族・真人族」から外れ、臣下して、天皇より直接に「賜姓・氏名」を授かり「朝臣族」と成ります。
    この「朝臣族」には2種類あり、我々の「賜姓青木氏」は「皇位族の朝臣族」で、血筋の繋がる「天皇を身内で護る近衛兵軍団」を造って、「宮廷の門、寝室の隣」で侍って護っていたのです。
    この事から、「侍らう人。はべらうひと」、つまり、「侍人」、つまり、「侍の始まり・さむらい」の言葉が生まれたのです。
    宮廷門には「右門と左門」があって、左門が上位なのです。
    これに最初に成ったのが、「伊勢青木氏」と「近江佐々木氏」と「北家藤原氏」なのです。
    ですから、伝統よりお家の「員弁殿」は「佐右衛門」なのです。
    因みに、松阪は「長兵衛」は「左の門」、「右の門」と「寝室の隣室」でこれらの「兵衛軍」の全体の「長・頭・指揮者・責任者」の事で、務めは「寝処警護役」です。
    この「慣習」が後に世間に真似されて庶民誰でもが使う呼称と成って仕舞ったのですが、「四家の呼称」は元々の本物なのです。
    現在でも「伊勢神宮の常夜灯」に「伊勢青木氏の四家」が寄付したものが遺っていますよ。
    其処に、長兵衛や右衛門等の四家の名が刻まれていますよ。

    さて、筆者は「四家の松阪殿」と呼ばれた「福家」です。
    「施基皇子の賜姓の青木氏」とは「氏族名」ですが、「皇位族」であり「賜姓五役の立場」である為に、「姓」を発祥させません。
    従って、「氏名の青木」のみを「四家の末裔」は名乗る掟に成っています。
    他氏とは異なり唯一「姓名」を持たない氏族」なのです。
    その代わりに「女系族」であり「嫁ぎ先の氏人」の「50の伊勢衆・郷士」は夫々独自の「姓名」を持って名乗ります。つまり、「氏人」としての「50の姓名」が女系の縁者があるという事です。
    故に、「四家」の裔は「姓名」を持たなくて「氏名の青木」を名乗るのです。
    もし、ところが「青木氏の子孫」として「姓名」として名乗っているのは偽で、江戸初期にこの搾取の現象が起こつたのです。
    江戸初期に「武士としての証明書・国印状」を貰う為に、「良い家柄の偽の系譜」を造らなくては貰えない事からこれを幕府はこの偽行為を黙認したのです。
    格式ある江戸の幕府を造り上げる為に行いました。
    ところが、幕府は其の後に反省して「偽の青木氏」を名乗つた武士に対して別の名にする様に命じました。
    そこで、生まれたのが、葵木や青樹や仰木等のあおきで、偽の系譜を作った「春原」や「美海」等の「偽の姓名」も「別の名」に改めました。

    故に、この独特の氏族としての「四家」にはその差が無く、独特の跡目継承をして引き継いで行きました。
    他氏から絶対に男子が入ってこないし、「男系継承」を絶対にしない「女系での継承族」です。
    お家はその「四家の青木氏の員弁殿」のお家です。
    四家は殆どは家族なのです。
    全て「女系、即ち、母方族」で其れで「血」を濃く成るのを防いでいるのです。
    後に論じますが、「遺伝子学的」には最も合理的な継承方式なのです。
    「女子から生まれた子供の男子・嗣子」を「四家の仕事」を図る為に据えるのです。
    この為に、「四掟」と云う「血縁に関する掟」を定め、「妻嫁制度」と云う「仕来り」で、「女(むすめ)」を養育して「50の伊勢衆の血縁族の氏人」に嫁がせ、そこで生まれた女子を「福家」に再び集めて、「玄孫」までを一か所で集めて「青木氏の娘・「女(むすめ)」」として養育するのです。
    ここで統一して養育された玄孫迄は「青木氏族」の差別のない「女(むすめ)」として育てます。
    そして、そこから「秀郷流青木氏」や「四掟」と云う「皇位族」に特別に課せられた「掟に叶う家」に「青木氏」の「女(むすめ)」として嫁がせます。
    当然に、その嫁ぎ先の「女(むすめ)」で生まれたその「娘」は、「嫁家制度」と云う「仕来り」で、「伊勢の四家の青木氏」に再び「嫁」として戻る事に成る仕組みです。
    嫁家先は、伊勢で教育を受けた統一した慣習仕来りを嫁家先に敷きます。
    これを繰り返すと、その家は代々に「青木氏の仕来り」が敷かれますのでそこで育つた娘が又、再び青木に入る仕組みですので、「慣習仕来り掟」は同じものを持った「娘・嫁」で繋がって行きますので円滑に「青木氏の伝統を繋げて行ける仕組み」に成るのです。
    この「繰り返し」で「青木氏の氏族」を守っていたのです。

    お家が「四家」の一つの「員弁殿」であるので、この内の「氏人の50の伊勢衆」からと、「秀郷流青木氏」や、四掟に叶う「公家一門」から嫁いで来た娘との間に出来た「嗣子」が、「員弁殿」に関わらず何処かの四家の当主と成ります。
    この場合、その母から離れて嗣子の中で優秀な嗣子から「四家」の何処かの当主と成って行くのです。
    況や、「員弁殿の血縁族」は「伊勢青木氏全体の血縁族」と成るのです。
    つまり、「松阪殿も員弁殿も同じ血を持つ家の子」なのです。
    「松阪の筆者」も「員弁殿」のお家も「親戚」ではなく要するに「家族」なのです。
    全く同じ血を分け合った「四家と云う大きな家族」が出来ているのです。
    これが「青木氏の女系族」です。

    当然に、「嫁家先」の例えば、「秀郷流青木氏116氏」の「家の慣習仕来り掟」は、「伊勢・四家」から入った「女(むすめ)」が持ち込んだ「慣習仕来り掟」で育ってて、それを身に着けた中で、「育った娘の娘」が再び「伊勢」の四家の何処かに戻ってくると云う事に成るのです。
    そして、その「娘」が伊勢で産んだ娘は、再び「女(むすめ)」として赤子の時から一か所に集められて、「女(むすめ)」としての知識や素養で教育され、一人前の「女(むすめ)」として「妻嫁制度」と云う「教育制度」で養育されるのです。
    一人前の「女(むすめ)・8〜15歳」に成るまでの、丁度、「青木氏族保育園・学校」ですね。

    「青木氏の研究室」の「検索」で、「伊勢青木氏」や「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟」や「秀郷流青木氏」や「松阪殿」や「名張殿」や「員弁殿」や「桑名殿」や「施基皇子」や「春日王」や「榎井王」や「湯原王」や「白壁王」や「桑名王」等を検索して出て来る論文を“かたぱし”から読み漁る事で理解が進みますよ。
    「歴史的な青木氏の専門用語」がありますので、それを覚えて行って下さい。
    先ずは、メモリ容量の事もありますので今回は此処までとします。

    そこで判らないことは直ぐにご遠慮なく質問やお便りください。
    そして、先ずは徐々に深めて行きましょう。
    ある程度が出来れば更に論文を読んで行くと理解が出来ますし、遂には「歴史マニアー」に成りますよ。

    では、先ずはお便りを


      [No.1176] Re豪商 長島屋
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/08/24(Mon) 08:38:26  

    早速、お便り頂きました。
    有難う御座います。
    お役に立てた事を喜びの至りです。

    サイトの伝統の本論を良くお読みいただいている事に感謝します。

    今後ともご遠慮なくお尋ねください。

    さて、余りにも大きいテーマですので、概要を「青木氏に関わる事」として論じて見たいと思います。

    「鑑真」が日本に伝えたとされる「仏教の概念」ですが、実はこの「考え方・概念」は仏教伝来時よりの「古代浄土密教の阿弥陀仏概念・浄土宗の基源」の「考え方」で、既に「青木氏」だけは持っていました。
    それが、「青木氏の氏族」等が説く「古代密教」なのですが、その「青木氏が説く密教」としては、「律と令」に基づいて「伊勢の民と伊勢の国を統治する」と云う概念でした。

    つまり、そもそも「律」とは「刑法の事」で、「令」とは「民法の事」として位置付けています。
    「青木氏」は前の投稿にも書きましたが、「日本書紀」にも記載されている様に、多くの「土地と民」を与えられ、「天智・天武期の五都計画」に基づいて「伊勢の国の守護王」でもありました。
    そこで、未だ充分な法の無い時代でしたので、この「土地と民」をどんな方法で統治するかに悩みました。
    「土地と民」だけでは無く、「皇親族・皇位族」としても、「日本全体の政治」もその「皇親族の双肩」に掛かっていました。
    その「双肩」には“「賜姓五役と令外官」”と云うとんでも無い役目を永代に命じられ担います。
    この時、「青木氏」は「古代浄土密教の阿弥陀仏概念」を以て「土地と民」は勿論の事、「政治の事」も治めようとしたのです。
    況や、この事は「祖先神の神明社」の「神の概念」だけでは統治は難しいと考えていた事に成ります。
    それが、「職能人の渡来人等」が持ち込んだ「古代仏教」に基づき、これは“「律」と「令」だ”と悟り研究に取り組んだのです。

    この事は、「鑑真和尚・754年伝達」が日本に正式に伝えたとされる「四分律仏教」の前の“「約90年前」”には、その為にこの「律と令」を以てして「青木氏独自の密教」を作り上げている過程でした。
    これが完全に完成したのが、「天智天皇」―「天武天皇」から始まり「持統天皇期」までには、「施基皇子」は全国隈なく歩き周り、“全国に存在する習慣や仕来りや掟“を調べ上げました。
    それを「撰善言司の役目」として役務を与えられ、且つ、「皇親族・賜姓五役と令外官」として「国を統治する方法」として整理し、具体的に「天皇」に奏上したのです。
    これが「青木氏の密教とする律と令に基づく体系」であったのです。
    この結果が、少し後の“「大宝律令・701年」”と成って完成していたのです。
    「施基皇子の没・716年」の「15年前の仕事」でした。

    つまり、「鑑真和尚・四分律戒」が伝える前の「約40年前」には、「青木氏の古代浄土密教」の中で既に出来上がっていたのです。
    「鑑真和尚」が仏教として伝えた「754年」の「2年後」には、この「仏教の影響」を受けて多少の見直しがされますが、それが“「養老律令」”であって見直され制定されたのです。
    殆ど中味は同じです。
    この「撰善言集」から齎した「律と令」に基づいた「阿弥陀密教の概念」が「青木氏の密教」として確立していたのです。
    これには、「青木氏」は「皇親族・嵯峨期まで」として、本来は「祖先神の考え方」を概念とする「神明社の神道族」です。
    この「神道の概念」が「青木氏の密教とする律と令」に基づく体系に大きく影響を与えたのです。

    因みに、「伝統の本論」でも論じていますが、「密教」として面白い考え方があります。
    其れは、“個人が「神」から与えられた「善と悪」は「相対の理」にある”とし、“「悪」を積むと必然的にその分の「善」は減る。”とします。
    結果として、この「悪」が増え、「善」がある程度に積み重なり減ると、その結果として「神」は「罰」を与えるとして、逆の事も此れあるとしています。
    「罰」を与えるのは「阿弥陀様の仏」では無く「神」なのあります。
    要するに、「神仏」を融合させた「律と令」なのです。

    他にも沢山、「密教としての考え方」があり、これが「青木氏家訓10訓」と成っています。
    殆どの「伝統」がこの「密教概念」に従っています。
    つまり、「青木氏の密教の律宗族」は、「鑑真和上の90前」には、既に「密教」として「氏族」には浸透していたのです。
    故に、日本の「四分律前」の所謂、「律宗族」なのであって、「青木氏自ら」がその自ら定めた戒律をまもったのです。

    前論で記しました「皇位族」としての「9つの縛り」や「賜姓五役」や「特別令外官」を護り、「民の模範」として「律」し、「令」したのです。
    これが、「氏族の民から氏人の郷士」から、当に「氏上様、御師様」と呼ばれた所以なのです。
    つまりは、これが「律宗族様」であった事に成るでしょう。

    これが伝統の本論に論じている内容と成ります。
    唯、何れも「賜姓族」であり、「五家五流青木氏」や「秀郷流青木氏」の中には、この「縛りや律や令」に耐えられず、「五家五流青木氏」の中でも、「近江、美濃、甲斐の青木氏の3家」は所謂、「源氏化」して、「律宗族の枠」から自ら外れて、最後は「源平戦」に持ち込み1221年に完全に滅亡して仕舞います。

    「秀郷流青木氏」には、「円融天皇の賜姓時・960年頃」に、「伊勢青木氏」と「信濃青木氏」の「女系族での格式族」であった事から、この「強い縛り」を緩めて「最低限の縛り」を求めます。
    其れを「秀郷の三男の千國」に与え、「千國の裔」が絶えたる場合は、「本流の嗣子の三男」に担わし、これを「主要五氏の青木氏族」から継がせて「律し令する役目」を与えました。
    「秀郷流青木氏族」にはこの「原理主義」を保全さしたのです。

    此れの代表するものが「神明社」に代わる「春日社」であって、「清光寺」に代わる「西光寺」であるのです。
    注釈として、「春日神社」ではなく、「社」は「神社」とは「神の概念」が異なり、「社」は「古代飛鳥期からの神に対する原理の概念」のみを保持しています。
    同然に、「神明社」も元より「神明神社」ではありません。
    故にそもそも、「社と神社の社格」が異なり、「社」は「最上位の社格」を有し、「神社」の中には「最下位の村各社」が多くそもそも社格は低いのです。

    では何故、改めて「室町幕府と朝廷」に改めて“「律宗族」”とされたかと云う事に成ります。
    それには、国を揺るがす大きな事件が宗教界に起こっていたのです。
    それは、この仏教伝来後に、これらの「古代密教の浄土概念」を引き継いだ「法然」は、これを「浄土宗」と名付け、その後に「密教論争・密教の有様」が3宗派で起こります。
    その「法然の死後」、何とこの「浄土宗」は14派にも「浄土宗」は分裂したのです。

    これ等の「宗派」に対しては、「朝廷」は“「伝統」を破壊される”とし、「幕府」に執っては、「律と令」で治めるには、先導性が政治に口を挟むほどに強く好ましくありませんでした。
    これに困った「朝廷と幕府」は、双方の「利害に共通する概念」の持つ「古代密教の原理主義」の「最小派の白旗派・過去の高位族帰依」を「律と令での伝統」を頑なに保持していた「白旗派」を、「浄土宗」とすると定めたのです。
    この「浄土宗の決定」には、「祖先神の神明社の青木氏」である事も配慮されている事が判っています。

    この「古来の純真無垢な古代浄土密教」の「白旗派の伝統」を護っていた「律宗族」には、更に加えて「祖先神の神明社・神木の柏紋の神職」で「律宗である事」も最大に評価された事と成っているのです。
    律宗族としては日本の神文化と仏の文化とを有する「文句のない族である」としたのです。
    「律宗と云う事」よりは、寧ろ「国幣社格式の祖先神の神明社」に繋がる「浄土宗」を格式として追認された事が考えられます。

    これには「室町期の紙文化」に依って「伊勢と信濃の青木氏」は、「巨万の富・朝廷の紙屋院の称号」を持ち、これを基に築いていたのです。
    「朝廷の献納・継続」と「室町幕府の冥加金・追認」を納めていたとする「青木氏の資料・商記録」があるところから考察すると、「伊勢青木氏・紙屋院の伊勢屋」はこの時を逃さず安定を求めて「政治的行動」を採ったと考えられます。
    それ故に、「最小派の白旗派」が「浄土宗」と正式に認定されたのだと考えられます。
    先ず間違いは無いと観がられます。

    そして、改めて「青木氏族」は、「律宗族であるという事」を世間から忘れられていた時期もありましたが、“「律宗族」”と認められ、呼称する事を追認され、公然と世間も含めて再び追認される事と成ったのです。
    これを以て、“最も由緒ある浄土宗である”と「幕府国政の為」にも追認したのです。

    「朝廷」は元より「神道である事」から直接は、表向いて「関わり」を持ちませんでしたが、「白旗派浄土宗」は「皇位族・臣下族・賜姓族・氏族・朝臣族」の帰依する派であった事から、「幕府の追認」に異議を唱えず追認をしたのです。

    この時、他の13派による「大騒動が起こった事」が記録されています。
    然し、この「大騒動」は以外にも比較的に早く「治まり」を見せたのです。
    「最小派の白旗派」が「浄土宗」とした以上は、対策として「幕府」はその「総本山」を建立する事を許し、「朝廷」もこれを追認したのです。
    その「建立費用」を誰が担保したかと云う疑問が湧きますが、「時期」を同じくする「伊勢の伊勢屋」の「商記録の規模」から見て、「伊勢青木氏」が出費したと考えられ、その宮建築も「青木氏部」に依るものであったと考えられます。
    それが「知恩院派」です。

    結局、これを以て他の派は異議を唱える事は出来無くなり、これに次第に従う事に成って行き、現在でも完全ではありませんが、「騒動」は「治まり」を見せました。
    「国幣社格式の祖先神の神明社」に繋がる「浄土宗」と成ると、長く「異議」を唱える事は、「幕府」には兎も角も「朝廷」には「朝敵」と見做され出来なかったと観ています。

    この“「律宗族」”には、他に意味があって、前記で論じた「皇位族」としての「9つの縛り」と「永代賜姓五役」と「影の永代の令外官」で、その「伝統」を護り通していた事も追認され、「律」で「神・宗」と「族」を室町期の今でも構築している「日本唯一」に遺った「氏族」をも意味しています。
    ですから、「律宗」では無く「律宗族」と追認されたのです
    この「呼称」は、江戸期から明治期までにも追認され呼称されました。

    ところが明治期では、前論でも書きましたが、寧ろ、この「律宗族」が逆に働いたのです。
    「明治の政治体制」に執つては「律宗族・密教・青木氏」が未だ存在している事そのものが好ましくなかったのです。
    当然に「前論の長島屋」も同然で、「春日社・神明社」も攻撃を受けていて「鎮守神社」に逃げ込んで身を隠しました。
    今でも「春日社・神明社」は、此れが故に「村格の鎮守神社の裏手」に「祠」を構えているところが多いのです。
    この時も、「青木氏族」は「施基皇子」の遺した「青木氏の氏是」で逃げ切りました。

    以上の様に、「鑑真和尚の律宗族」ではありませんで、「日本独自の律宗の行動」です。
    「鑑真和尚の四戒律や中国の律宗」は、飽く迄も「僧侶」に課せられた戒律です。
    それが「日本の仏教」に影響を与えたという事ですが、「二つの青木氏族」は飽く迄も「古代浄土密教の概念・後に白旗派と呼ばれる」を確立した「独自の密教」です。
    この「密教」に「施基皇子の時代」よりの「厳しい律と令」に基づく概念に縛られた「唯一の高位族」としての考え方をまとめ上げたものです。

    「律」は、「刑法的な慣習仕来り掟の伝統」の「青木氏の氏是」や「家訓10訓」等と、「令」は「妻嫁制度」や「嫁家制度」や「四掟」や「後家制度」や「賜姓五役」や「令外官」や「9つの縛り」と主に「慣習仕来り」等と云ったものに当たります。
    「神明社・春日社」や「菩提寺の清光寺・西光寺」に於ける「刑法的な慣習仕来り掟の伝統」もありました。
    「浄土宗系の曹洞宗・禅宗」などはこれを当に概念として表に出した形ですね。

    これを本論の「伝統シリーズ」で論じている訳ですね。

    「仏門の律宗の事」に付いては論外と成りますので、恐れ入りますが他のサイトで勉学をして下さい。

    又、お便りをお待ちしています。


      [No.1175] 三重の青木です
         投稿者:青木佑太朗   投稿日:2020/08/23(Sun) 00:48:47  

    福管理人さま

    お世話になっております。
    ルーツが三重県四日市市で(出生地は別)、現在は東京に住んでいる青木です。

    ◆お聞きしたいこと
    自分のご先祖様がどんな人たちだったか(仕事や生き様、社会の中で果たした役割、後世に遺したものなど)
    ※膨大な数のご先祖様がいるのは承知の上ですが、一旦浅くてもよいので全体感を把握したい

    ◆自己紹介兼導入
    昔から自分のルーツ・ご先祖様に興味があり、おじいやおばあに昔のことをよく聞くような子供でした。
    長男でもあり、家を守ることに対し少し責任感を感じていたのもあるかもしれません。

    この夏、興味関心が高じ、ネットをあさっていたところ本掲示板にたどり着きました。
    率直に驚き、また興奮しました。膨大な情報量があり、裏には地道で大変な作業があったと思います。感謝申し上げます。おじいやおばあから断片的に聞いていたことが、掲載されていることにもとても驚きました。少しずつ読み解いているところです。
    個人的には、「青木家の家訓」のシリーズが好きです。私自身はそういったものは聞いたことがありませんでしたが…
    また、戸籍情報を遡って取得したので、そちらの情報も参考になればと思います。

    ◆おじい・おばあから聞いていたこと
    ・三重県員弁郡東員町大木のあたりがルーツである
    ・先祖は織田信長に攻められて(当時神主?)、その後農業に携わった

    ◆戸籍情報
    ・私の曽祖父の祖父が青木佐右衛門(天保十三年生まれのようです)

    どうぞよろしくお願いいたします。


      [No.1174] Re豪商 長島屋
         投稿者:静岡の青木です   投稿日:2020/08/18(Tue) 07:21:21  

    この度も詳細なお返事をいただきまして有難うございます。

    豪商長島屋が奈良時代以来の結城長嶋氏に由来する、長嶋氏系青木氏であることを教えていただき、納得しました。結城長嶋氏系青木氏は土木建築業に由来するとのことでしたが、長島屋が建てた浅間神社には見事な彫刻もあるそうで、このような彫刻を作るにはお金がかかったろうと思っていましたが青木氏部の匠の技能集団を抱えていたと考えると納得できます。
    江戸幕府と青木氏の関係も興味深いです。青木のお家はいつの時代も仕事をしているなと思いました。

    一色氏の件では「正しい歴史観」をもつことの重要性ということに今後気を付けたいと思います。
    「一色」という名は青木氏の祖である志貴皇子が朝廷から頂いた大切な名で、伊勢のお家だけが使えるものだったのですね。下剋上の様子がよくわかりました。
    昔は格式のあるお家は名前をいくつも持っていたということも勉強になりました。

    以前から気になっていたことに「律宗族の青木氏」ということがあります。律宗族とは仏教の宗派の四分律宗や真言律宗のことでしょうか。なぜ律宗なのか、密教浄土宗との関係などご教示いただけないでしょうか。急ぎませんのでお暇のある時でけっこうです。

    副管理人様は草加に長く住んでいられたと伺いまして、私の実家も草加に近いので親近感を感じます。
    埼玉の神明社につきましても是非参拝してみたいと思います。
    最近は気になるところには出かけて見に行ってみたりしていますが1,2年前に栃木県の博物館で「藤原秀郷展」があったのですが、まったく知識がなっかたので大変勉強になり、2度もいってしまいました。伊勢神宮が所蔵しているという、ゆかりの刀なども展示されていました。

    コロナは本当に困りものですがご先祖様の時代もこういうことがあったのだろうと気ずかされました。今後どうなっていくのか、気になります。

    いつも丁寧な対応をしていただき、ありがとうございます。私ごときには到底知りえない知識を勉強させていただき、有り難いです。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。


      [No.1173] Re:豪商 長島屋
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/08/17(Mon) 09:03:47  

    静岡の青木さん 今日は。
    ご返事遅れてすみません。

    お久しぶりですね。
    お気遣いありがとうございます。
    最近は、若い頃に書き上げた「青木氏の伝統の論文」の「原稿の見直し」の毎日です。
    「青木氏の歴史」には判らない事が多いのですが、最近は歴史はどんどんと拍車をかけて消えゆく運命にありますし、美化され脚色されて行きますので不安ですね。
    そこで、何とか「青木氏」に関してだけは「後世のロマン」として「真実の歴史観」を遺そうとしています。

    最近はテレビにも青木さんが多く出て来る様になりましたね。

    さて、以前のお便りを再確認さしていただきました。
    そうですか。青木氏のメッカの埼玉に引っ越しされた様ですね。
    実は、筆者も若い時に「草加」に約25年以上近く住んでいました。
    この時も会社にも大勢の青木さんが居られて古来血縁関係にあって何か古を感じる思いでした。
    恐らくは、お尋ねした処では殆どの方が「秀郷流青木氏」でしたね。

    「伊勢の青木氏」とは、長く母方、つまり、「女系の血縁関係・嫁家制度の下で」にあり、「伊勢」にも「秀郷流青木氏」や「秀郷流長嶋氏」が定住し、「氏家制度」の中で「血縁性」を保つ為に、「四掟」を護り繋がっていました。
    ですから、相手の方は兎も角も、当方としては何か懐かしいと云うか変な気がしていました。
    お家も、少なくとも繋がりのある事で余計に歴史に魅かれるのだと思います。

    さて、これを機に、少し「埼玉」の「青木氏の歴史観」をもう一度展開してみたいと思います。

    “呉服などを商っていた豪商、長島屋という商人”の事ですが、江戸初期前に成って「秀吉」に依って「家康」がこの地に「転封」と成って、周囲の「藤原一門・主要5氏」の「助け」を借りて、逆に勢力を築きます。
    そして、自らも「藤原姓」を名乗る程の事と成ります。
    この「秀郷流一門361氏」をそっくりと家臣として「徳川氏の官僚族」に据え「官僚機構」を築いたのです。
    そもそも、「秀吉の転封目的」は、「秀郷流361氏の反抗」を受けて「徳川氏」は衰退すると観ていた「秀吉の思惑」を見事に外したのです。
    ところが、この時、江戸の地の沼地や氾濫の多かった地域に「河川干拓工事等」をして「米の収穫量」などを高め様としましたが、余りにも莫大な「財政的な問題」が生まれたのです。
    「御蔵金」には300両しか無かった時期がありました。

    「河川工事等」は「奈良期・天智期」からその名の通り「結城氏の土木専門職」で、何と「山陽道」を築いたのはこの字名の通り「賜姓結城氏」でした。
    この「山陽道」は殆ど現在の地と変わっていませんが、調査によると現在でも考えられない様な「近代的な技術」で造成されているのです。
    「天智天皇の白村江の戦い」の失敗で、中国が攻めて来るのでは無いかとしてその為の「軍の通行路」として、又、「情報の連絡道・狼煙制度」として築造されたものです。
    朝廷には、「結城氏」、「額田部氏」、「和気氏」の三氏の土木建築官僚がいたのです。
    前2氏とは「青木氏」は「朝廷の造を統括する立場」から「関係性・血縁含む」を保っていました。
    それは明治9年までです。
    ですから、「荒川の治水工事」などは「専門中の専門分野」でした。
    「賜姓結城氏・賜姓青木氏族の永嶋氏一族」は此処で「財源の捻出」に動いたのです。
    この「結城永嶋氏」は、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢長嶋氏」とは、取り分け「血縁関係」が深く、「伊勢秀郷流青木氏」と「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」は一族関係であった事から、「伊勢青木氏の二足の草鞋・伊勢屋」の協力を得て、「二足の草鞋策」を「江戸」で財源確保の為に始めたのが始まりです。
    そして、「主要五氏」の中でも「秀郷流青木氏」と「秀郷流永嶋氏」は「青木氏一族」と呼ばれる一族で、「永嶋氏の中」からも「永嶋氏系青木氏」が出ていたのです。
    これが、後の「長島屋の呉服商」なのです。

    「伝統の論文」では論じる事は詳しくは外していましたが、「江戸幕府」に入り、「長島屋の呉服商」は、故に「御用商人」として働き、「江戸幕府の財源」を支えていたのです。
    「関ヶ原の戦い」の戦費等もここから捻出されていたとされています。
    「伊勢青木氏の伊勢屋」との「連係プレー」で「徳川氏」を「土木干拓工事」や「幕府官僚組織」や「幕府財源確保」の面で支えたのです。
    これが「有名な秀吉の大誤算」でした。
    結果として、「秀郷流主要5氏」は、幕府に“「御家人」”として取り立てられ「1000石以上の官僚族」と成ったのです。
    そもそも、元々は、“「御家人」”と云うのは「朝廷の官僚の役名・天皇家の仕事をする人」で、「秀郷流藤原氏」には、「結城氏」をはじめとして「斎藤氏」、「工藤氏」、「佐藤氏」、「進藤氏」、「左藤氏」、等、その「朝廷の官僚の役名」を「藤原氏」の「藤」の前に着けてその「役職名」を明確にしていました。
    つまり、平安期では「天皇家の家人」として「格式ある役人」の「御家人」と呼ばれていたのです。
    この「平安期の格式ある官僚人」の呼称を用いて再び「徳川家の家人」として特別に与え優遇したのです。

    「江戸期の御家人」は、「低い意味・身分」で捉えられているのは、この様に当初は「別の意味」を持っていました。
    ところがそもそも、その低い理由とされたのには理由があって、「三河旗本」が「官僚族の御株」を奪われた「腹癒せ」に「彼等」を低く表現して、「自らの権威」を高めようとして吹聴した結果なのです。
    ところが逆に、取り分け、その中でも活躍したのが「永嶋氏系青木一族」で、「関東屋形」と呼ばれ程に特別に優遇されました。
    又、「享保期」は「伊勢」から「吉宗の親代わり」であった「伊勢青木氏と伊勢屋・伊勢屋青木氏」を江戸に引き連れて「享保の改革」を成した時も、「関東一円」では「豪商・長島屋の青木氏」も連携プレーとして歴史上では実は働いていたのです。
    「伊勢屋・伊勢屋青木氏」の影に隠れて表には知られていませんが、”「関東屋形」の呼称」”の通りで「直参御用商人」として働いていたのです。

    江戸享保期以降には「200以上の伊勢屋・主に金融業と質屋」と「長島屋青木氏」があるのはこの事から来ています。
    上記した様に、実際は「青木氏の歴史観」を物語る様に「伊勢屋青木氏と長島屋青木氏」が活躍していたのです。
    「歴史」では、「伊勢屋青木氏」の中に「長島屋青木氏」が埋もれていますが、「伊勢」では「伊勢長嶋氏」と共に情報は把握しています。
    ところが「享保末期」に「伊勢屋青木氏」と「吉宗」とが「信濃青木氏の処遇の事」で仲違いし、3日の内に「伊勢」に引き上げました。
    この時、「江戸の伊勢屋青木氏」は全ての店を店子に無償で譲りました。
    この時に、話では「長島屋青木氏」も「吉宗の追及」を逃れる為に「幕府」から離れ「武蔵の豪商」で生きたとされています。

    その「一族」はその時の「古来の本領の地権」と「財力で得た地権」を生かして、「子孫」は「地権先の結城や上総や下総」で「名主や庄屋や村長や豪農」にも成っていたとされています。

    そもそも、「千葉青木氏」には「3つ流れ」があって、一つは「秀郷流永嶋系青木氏」、「秀郷流青木氏」、そして血縁性の無い「未勘氏」の滋賀から流れて来た「上田氏系青木氏」です。

    “「干拓事業に失敗」”の件は、「商い」とは別に上記しました様に奈良期からの「結城永嶋氏一族の本来の本領」です。
    「伊勢」も同様に明治9年に「維新政府・薩摩藩」から「焼き討ち・打ちこわし」を酷くうけました。
    「表向き」は「青木氏の口伝」では、火の出る事の無い蔵からの「全て失火」として記録していますが、「菩提寺」も焼かれると云う憂き目を受けました。
    更には「伊勢と信濃の青木氏」は「密教族」であるとしても攻撃されました。
    遂には、耐えかねて「明治35」には「伊勢屋」を「摂津」に移して「倒産の形」を執って逃れました。
    「天皇家以外」に「青木氏と云う家」が存在する事を嫌った結果の攻撃でした。
    全国的に青木氏一族は攻撃されたのです。
    幕末から明治9年まで続いた「有名な伊勢騒動」は伊勢と信濃が興した氏族の氏人たちが興した大一揆の様な物です。
    宗教に絡んだものでは無かった事から「伊勢騒動」と呼ばれています。
    幕府も実体を知っていた事から特別に取り締まる事はせず、無関心を装います。
    結局、維新政府は約11年間続いた結果、「首謀者の武士・郷士」だけを罰して一切の者を無罪として処理して納めたのです。
    これが不満のはけ口でした。
    この「明治9年」は遣り過ぎた西郷が失脚して薩摩に逃げ帰った年でもあります。

    “名前に「善」の字”の件は、「世襲名」と云うもので、「格式ある家」は「5つの名」を「一人」が持ちますが、「世襲名」も「商い」や「事業」を営む「家の慣習」のその一つです。
    これで、その家が「5つの名」を持つ事で、“どの程度の家であるか”を観る事が出来るのです。
    中には、「神明社」に関わる「彦名」等二つも持っています。
    他には「院号、諡号 諱号、大字名」と云った朝廷から与えられた「号」もあります。

    “浅間神社も長島屋が建てた”の件ですが、恐らくは「伊勢」と同じく「結城永嶋氏の由来」より、{平安期末期の朝廷」まで独自に「技能職人集団・部」を持つ事を義務付けられていました。
    この為に、“「青木氏部・匠の技能集団」”と云うものをそのままに明治初期まで持っていたと考えられます。
    「伊勢」も「明治期35年」まで「青木氏部」を持っていたのです。
    その後、「彼等の家人・青木氏」を独立させ会社を創立させました。
    現在も二社の宮大工の会社が遺っている様です。

    この「青木氏族の諡号」は、元々、「国造・くにつくり」と「事務官僚伴氏・とも」を束ねていた事から「造・みやつこ」や「とも」の「諡号」を持っ事を許されてその伝統を明治期まで引き継いでいます。
    つまり、当然にこれは「青木氏部」を持つ事を許された「氏族」にだけです。
    ですから、これを以て「皇位族」でありながらも、特別に「商い」をも許された唯一の氏族と成っているのです。
    当然に、これがこの「青木氏部の家人」として「女系で興した青木氏」が生まれる所以なのです。
    本件の下記に論じる「長島屋青木氏」もこの「延長線上」に先ずあったのです。

    「秀郷流青木氏」は「円融天皇の賜姓・始祖千國」に基づく「北家藤原氏・下がり藤紋」です。
    この裔系の「結城永嶋氏系青木氏」は、故に「宮大工」から始まり全ゆる「職人・部・匠・造」を持つ「青木氏族」である以上は、間違いなく「明治期」まで抱えていたと考えられます。
    だから、この事で「家人で職人の青木氏・女系青木氏」が多く生まれているのです。

    “一色氏の館跡の近くには神明社”の件ですが、この「一色公深」の件は実は詐称なのです。
    歴史観としては重要な事なので敢えて詳しく論じて置きます。
    実は、“「一色」”とは「施基皇子の大字名」で、「日本書紀」にも記載がある通り「天皇」から与えられた「土地と人民」に着けた呼称の事です。
    「青木氏の始祖の施基皇子」に関わる「伊勢」にはこの与えられた「大字名」は他に4つもあります。
    これを「天皇」から特別に与えられ「土地」に纏わる「施基皇子の号」と云います。
    従って、「一色」と云えば、「施基皇子の事」を指し、その「皇族の格式」は「天皇に次ぐ冠位浄大一位」を表している事に成ります。
    何人も使う事を禁じられているのです。
    これをその「施基皇子の裔」の「青木氏の子孫」が、自分の住んでいる処に「地名」として付ける事が出来る「仕来り」です。

    ところが、室町期にこの「仕来り」の締め付けが緩み、これを破って勝手に「源氏族系・河内源氏」としての「足利氏」等が「格式」を誇張する為に、「地名」では無く遂には「姓名」に使ったのです。
    その「最初の人物」が「地名」だけにするべきところを「姓名」にして「一色公深」と名乗って、いかにも「格式ある家柄」と周囲に誇張したのが始まりです。
    この為に、後世では偽である為に特別に分けて「西尾一色」と云います。

    ところが、この「青木氏族の慣習仕来り掟」は、「嵯峨天皇」が「嵯峨天皇詔勅の禁令事項」に、“使用してはならない”と明記されているのです。
    更に、「嵯峨天皇」は、「天皇家の血筋格式」を護るために「皇位族系朝臣族」に”「9つの縛り」”を与え、これを護れない者は「皇位族系朝臣族」と名乗っては成らないとしたのです。
    「河内源氏系」は全くこれを守っていなかったのです。
    それどころか、全くの「禁じ手」の「武力集団」を形成したのです。
    この為に、その祖である「満仲」は朝廷を無視したとして追放され蟄居を命じられて仕舞います。
    つまり、“朝臣族では無い”としていたにも関わらず世間を欺いたのです。
    然し、その「裔の頼朝」は、これを押し切って「鎌倉幕府」を開き強引に「大儀」を引き寄せたのです。
    況してや、「支流卑属の足利氏」がこの「掟」を破り「一色」を「姓名」にしてしまったと云う事です。

    ところが「11家の源氏」の中でも「摂津源氏・頼光系」は何とかこの「9つの縛り」の幾つかを護ったのです。
    故に、「以仁王の乱」を起こせる「格式・令旨」を有していたとして起こしたのが「摂津源氏の源頼政」です。
    「河内源氏系の頼朝」には、「皇位族」としての「9つの縛り」を全く守らなかった事から、つまり、この「資格」は無かった事から、従って、この「資格」のある先に起こした「頼政の乱の延長」として、これを“「頼朝が引き継いだ」”として、この“「大儀」”を作り上げて「鎌倉幕府」を樹立に持ち込んだのです。

    当然に「朝廷の反対」にあいますが、此の「大義」で朝廷は止む無く引いたと云う経緯を持っています。
    この事で、「河内源氏系・頼朝」には、「天皇」から「一色・施基皇子」を象徴する「皇位族の青木氏」に「賜姓」を授かった際に与えられた「笹竜胆紋と白旗・天智系」を使う事を許された記録は一切無いのです。
    「天皇系の裔系」も異なる事でもあるし与える訳は無いのです。

    現に、「白旗」とは「14ある浄土宗派」の中の「皇位族」が帰依する「弱小の密教原理主義の白旗派」から「白旗・律宗族」としているものです。
    「青木氏」だけが「律宗族の号」を与えたその「足利氏の室町幕府」も改めてこの呼称と格式を追認しました。
    然し、「河内源氏系」は、そもそも、全くその条件に合わない“「八幡大菩薩」”の「顕教の仏教」を帰依し、且つ、「八幡社」を守護神とする“「寺社同源の立場」”を一族として執っています。
    全く「笹竜胆紋と白旗」の条件とは異なっているのです。
    そして、更には、朝廷と幕府が認めた族の“「律宗族・青木氏」”では抑々ありません。

    又、「朝廷」が編集して定めた「新撰姓氏禄」の中に、「源氏」は「朝臣族・48氏」ですが、「皇位族の朝臣族・18氏・氏族」の中にも選出されていないのです。
    そもそも、更には「朝廷の認可を受けた氏族」の中には、この記載が無く、且つ、「正規の氏族」を現実に構成していません。
    要するに、「笹竜胆紋と白旗」を象徴する「一色」はそもそも使えないのです。
    つまり、この「頼政の乱」の引き継ぎの「大儀」による事から強引に使っている事に成ったのです。

    「一色」とは、これらの事を一括して「象徴する名・号」であるのです。
    「一色」は「伊勢と美濃」の「一色・施基皇子の裔系存在・女系含む」が有って、「鎌倉期」に「地頭制度」を朝廷の反対を受けて敷いた「守護制度」ですが、この最初に「地頭・西尾」として派遣したのが始まりです。
    この為に、「自らの家柄」を誇張する為に搾取して着けたのが「愛知県西尾の一色」です。
    その後に、「一色の足利氏」と地名を使って名乗った事から、その後、「一色氏」として「姓名」としてまで名乗る様に成ったのです。
    一色を名乗ったのは、その東に「端浪一色・施基皇子の美濃裔系」が奈良期よりあり、これに乗じてその裔であるかのように振る舞った事に依ります。

    室町期には、「嵯峨詔勅の永代禁令」を破って、この様に「格式のある字名」を名乗る習慣が出来たのです。
    この様に「場所場所で使い分ける習慣」が起こり、江戸期まで引き継がれました。
    例えば、「家康」は何れの裔系でも無いのに、「藤原氏の家康」、「源氏の家康」、「橘氏の家康」、「平氏の家康」等を使い分けたのと同じです。
    「一色」がその例の最初の人物です。

    その他に、愛知県には「青木氏」に関わる「岡崎一色」、「刈谷一色」、「知多一色」、「豊田一色」の以上の5ケ所があります。
    本命は、岐阜県には「伊勢の裔系」の「青木氏」に関わる「最初の端浪一色」、「養老一色」、「恵那一色」の以上の3カ所があります。
    この全ての元は、「伊勢桑名」から「美濃の三野王」に嫁いだ「浄橋王、飽浪王」の裔系で、この「端浪一色」が「故郷の伊勢の施基皇子」を偲んで「一色」と名付けたのが「最初」です。

    「足利の一色・西尾一色」は、「遙任」では無く、そもそも「干拓地」であった処を埋め立てた「西尾」に一時期住んだところから「一色」と呼称する事に成ったのです。
    近くにある由緒ある一色を名乗る事で地元を統治する為の格式の搾取でした。

    古跡の「神明社」の件ですが、埼玉には5カ所の神明社があります。
    江戸初期に、神明社は、全て幕府に接収されますが、荒廃してしまいます。
    この「4つ神明社の付近」には、「伊勢の裔系の柏紋の青木氏の神官族」が今でも多く住んでいますよ。
    この「荒廃した4つの神明社」に、綱吉の側用人の「柳沢吉保・青木吉保・甲斐」が「私財」を投げ打って修理をしたのです。
    それが現在に至っています。
    本社の入間市、古跡の所沢市の2社、川越市、さいたま市の5カ所です。

    一度、参拝されると良いかと思います。

    「江戸期の歴史」は、“「国印状獲得」”の為に「搾取」が公然と横行していて、「系譜を造る専門家・神職や住職」が出て来る始末でした。
    これを前提とする「歴史の論調」には気を付けなければなりません。
    格式の無い江戸幕府に執っては「格式」を着ける為に、「搾取」でも良いから「系譜偏纂」を強引に義務付けて「武士の証明である国印状」を発行したのです。
    それは「江戸期の武士」は殆どが「第二の姓」で、「格式」を有する「諡号の第一の姓族」ではありませんので、強引に「由来・格式」を持つ為にも「系譜偏纂」をするしかなかったのです。
    歴史では、室町期前後頃からこの現象が徐々に始まり「下克上」が起こり、これが「一色に代表される現象」担ったのです。

    最後に、「永嶋氏、長嶋氏、長島氏」がありますが、これには「秀郷流青木一族の掟」がありました。
    「永嶋氏」は由緒ある「諡号の族」であり、家筋目で云えば、本家筋は永嶋氏、分家筋は長嶋氏、支流族は長島氏と、尊属系は永嶋氏、長嶋氏、卑属系は長島や永島と云う風に分けられ、役目、職業、商い等の場合は「長島」と使い分けしていたのです。
    「一族一門の361氏と、青木氏116氏」ともなると判らなくなるので「姓名の格式・家紋も含む」を尊重して観分けていたのです。
    ですから、「商いの屋号」は「長島」と云う事に成るのです。

    まだまだ続く「コロナ」には充分に気を付けられてお過ごしください。
    「ウイルス」は「人間の祖」が陸に上がり、其処にこのウイルスが襲いました。
    殆ど絶えましたが中に遺った裔がこの「ウイルス・RNA」を遺伝子の中に取り込んでDNAに繋がり、この事で「人間」は猿等と違って、ウイルスに対抗する為に「言葉」と云うものを獲得する進化を遂げたと云う事があります。
    コロナ禍以外に今度の「RNAウイルス」は「人間の進化」に何をもたらすでしょうか。


    以上、又、お便りを下さい。お待ちしています。


      [No.1172] 豪商 長島屋
         投稿者:静岡の青木です   投稿日:2020/08/11(Tue) 17:36:20  

    ご無沙汰しております。二年前くらいにお便りしました、富士宮の青木です。少しずつ研究室の論文を読ませていただいておりますが「青木氏と守護神」や「藤原秀郷主要5氏の研究」など圧巻でありました。
    大変な労力をついやされ、このように公開して下さっていることに感謝いたします。学校で習う歴史や一般の歴史には出てこないものを勉強させていただいていると思います。
    先日、偶然にも現在私が住んでいる埼玉県の地元の郷土の歴史の本を見る機会がありました。
    江戸時代からの日光街道に近く、徳川将軍が日光に向かう際に宿泊したお寺などがあります。そこには呉服などを商っていた豪商、長島屋という商人がいたそうで、姓は「青木」とのことでした。家系図ものっていましたが代々、名前に「善」の字がつく人が多かったです。
    大地主で、治水や飢饉のときに私財を使って対応し、地元に貢献したそうです。近くにある浅間神社も
    長島屋が建てたそうです。長島屋は江戸時代末期の戊辰戦争の敗残兵の略奪にあったり、干拓事業に失敗して家勢が傾いてしまったとのことです。
    長島というのは青木氏の主要5氏のひとつであることから興味深くおもいました。
    また近隣には一色氏の館跡や一色氏が建てたお稲荷さんの社があります。この一色氏は足利宗家4代当主の足利泰氏の子供である、一色公深という人です。一色氏の館跡の近くには神明社があり、聖徳太子堂もあります。
    思いがけず、自分の住む所に青木氏に関係のあることが多くあって、驚きました。
    伊勢青木氏宗家のブログ主様におかれましては、博学であられるので、すでにご存じかと思われましたが、とても興味深くおもわれ、お便りさせていただきました。日々、いろいろ悩みもありますが、ご先祖様の生き様を支えとして、どうにもならないことは青木氏のお仏像様の写真を見て、お仏像様におまかせしようと思って日々すごしております。
    コロナがなかなかおさまらず、猛暑でもありますので、お体大切になさってくださいませ。


      [No.1171] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/19(Fri) 14:37:07  

    今日は。早速のお便り有難う御座います。

    さて、途中の話としては、江戸末期の事に成りますね。
    そうすると、当時の武士の慣習として、「家柄の吊り合い」を前提としていましたので、「諏訪族の青木氏」とすれば、尚の事、この「吊り合い」を「女系」で採ったと考えられます。
    「青木氏族」は奈良期から基本的には「四掟」で定められた「女系氏族」です。

    室町幕府から「伊勢と信濃の青木氏」には、“「律宗族」”と云う立場が認められていましたので、幕末でも相当に「浄位・上位」の「武士の家」からで無くては婚姻はしないと思います。
    取り分け、その中でも、これは「諏訪族全体に云える事」ですが、可成り、この「考え方・伝統」では「厳格な家柄・下記」でした。
    武田氏に略奪婚で嫁いだ「夕姫」の如く、その「家柄」から「武田氏」を低く見ていた事が伝えられていますよね。
    この様に、そもそも、「諏訪族」のその家柄を論じますと、奈良期の初期に中国の「後漢の国」が隋に潰され、その後漢の「阿多倍王」に引き入れられた「渡来人」が、「200万人」と成って「北九州」に上陸します。
    九州全土を無戦で制圧し、その勢いは関西手前の兵庫まで制圧してきました。
    66国中33国を無戦で制圧されたのです。
    この無戦は、彼等の持つ進んだ技能を倭人に快く伝えた事の結果なのです。

    そこで、この時、朝廷は「薩摩・隼人」に軍を向けますが、朝廷はこの「阿多倍王」と和議し「薩摩隼人と伊賀の国」を半国割譲して与え、「敏達天皇の孫」の「芽淳王の娘」を娶らせ「三人の男子」を作ります。
    そして、「准大臣の立場」を王族を与えたのです。
    この時、「阿多倍王」が引き連れて来た「馬部の技能集団」を「信濃」に配置し荒れていた「信濃国」を放牧で豊かな国にします。
    その「功績」が認められ、「信濃王の青木氏」と共に「天皇」に謁見し、初めて「相撲」と云う競技を「天皇の前・銀杏の木」の下で見せます。
    そこで、この「信濃の馬部の頭」に“望を述べさせる”と云う特例を許します。
    そこで、この「馬部の頭」は“「税」を軽くしてくれ”と申出たのです。
    「天皇」は「優秀な渡来人の頭」と認め「破格の位・臣族」を与えたのです。
    そして、この「馬部の頭」の家と「信濃王の青木氏」のとの血縁が決まり、ここで「信濃諏訪族青木氏・朝臣族」が誕生したのです。
    これが、「信濃諏訪族青木氏」です。

    前のお便りの通りに明治期まで続きます。
    それだけに、「信濃青木氏」と共に、その「信濃王の流れ」を持つ「諏訪族系の一族一門・立ち葵門と抱き角紋」は伝統的に歴史のある家柄意識が高いのです。
    伊勢と信濃の「青木氏の血縁」には、この様に奈良期より“「四掟」”と云う「血縁の鉄則」があって、この範囲で血縁を余儀なくされていました。
    この「女系の血縁の伝統」は明治期まで続きました。
    遺伝子学的に「四掟の女系で一族内を何度も繋ぐ事」は「血縁障害を少なくする事」が出来る唯一の合理的な方法なのです。
    従って、「明治期の血縁」に於いても、この「伝統の掟」に縛られていたのです。

    故に、鎌倉期までは皇位族の純血性を保つた氏族であった事から「賜姓族・臣下族」と呼ばれ、時には桓武期には「公尊族」、室町期から幕府認定で追称され、且つ、江戸期でも世間は依然として「伊勢と信濃の青木氏一族」だけには、“「律宗族」”としても呼称され「別扱い」を受けていたのです。
    明治期には、更に「得宗家の称号」でも呼ばれました。
    故に、斯くの如しでお便りの通り、充分に有り得た血縁だと思います。

    仮に、お家の家紋が「諏訪社」の「立ち葵紋」だとすると、「諏訪族」の中でも上位の「神官族の宗家筋の家柄」と云えます。
    長篠後、「秀吉」に諏訪社の神域を犯されここに高島城を築かれ、其の後に徳川氏の藩城と成ります。
    「一部・頼忠」は徳川氏家臣として諏訪の神官を務めま繋ぎ留めます。
    ところが「神域・聖域」も犯され、神奈川の「秀郷流青木氏」を頼っていましたが、そこからの支援も滞り糧を無くし困り果てていました。
    それが「伊勢秀郷流青木氏の誘い」に従い紀州藩の媒臣と成ったと考えられますので、その後のお家は、「諏訪族神官族の裔・青木氏」であったからこそ、「お家の格式」を利用して高める為に「真田藩の重臣との血縁」が進んだ事と考えられます。

    唯、当時の「女系の慣習」は、「一族の中の娘・孫か曾孫か玄孫」を「「女(むすめ)」と観て嫁がせ、その見返りに「相手の一族」からも娘を貰うと云う「家柄を引き上げる伝統的な習慣」があったのです。
    当然にこの逆もありました。
    これを伊勢と信濃の青木氏一族だけが持つ「伝統」の「妻嫁制度と嫁家制度」と云いました。
    ですから、お調べに成ると一族の中にその銃身の一族に嫁いだとするこの逆の慣習があったと思います。

    此処で、気に成る一点があります。
    それは「松代藩の相手の重臣のお家」というのは「信濃青木氏の一族」では無かったかと云う推測が成り立ちます。
    何故ならば、「吉宗」が「信濃青木氏の聖域」を「殖産」で奪いますが、この時、「信濃青木氏」の一部が「真田藩」と「上田藩」には、この「殖産の技術」を維持させる為に高い身分で、「幕府の命」で多くを強制的にでも仕官させました。
    「青木氏の四掟」からこの「信濃青木氏の末裔」では無いかと考えられます。

    この様に、一寸した「伝統の情報」でも「ルーツ」が判って来るのです。

    「信濃青木氏系の諏訪族系青木氏」である可能性は高まりましたね。
    「諏訪族の地」から真北90kの所に「松代藩・真田」があり、そのすぐ南には「信濃青木村」が現在もあります。
    「青木村」から北に「20kの位置」に「松代」があります。

    この「千曲川の南北の領域」と「東は佐久域まで」は「信濃青木氏の神明社聖域・国幣社」と「諏訪族青木氏」の「諏訪社聖域・国幣社格」として奈良期から永代に「不入不倫の領域」として認められていた「聖域」です。
    ここは「養蚕の殖産の地」でもあったし、「二つの領域の大半」は「幕領地・殖産地」として没収されます。
    これを吉宗が奪い取ったのです。

    「武田氏滅亡」とその後の江戸期に成っても「信濃青木氏」と「諏訪族青木氏」は既存の大きな糧を失い、更に飛散する事に成ったのです。

    恐らくは、経緯は「武田氏の事件」でも諏訪を失い、其の後の支援の元と成っていた聖域からの糧も失い、その後、紀州藩の陪臣と成っていた「吉宗の事件」でも失いました。
    この二つが覆い被り、遂には支援の元と成っていたこの「信濃の諏訪社の聖域の糧」をも失う窮地から逃れる為に頼っていた「神奈川の秀郷流青木氏の助言」もあり、「伊勢の秀郷流青木氏の媒臣案の誘い」に従って江戸初期に「紀州藩の媒臣」と成ったと考えられます。
    その幕末に、上記の近い故郷の縁続きの「信濃」から嫁を「青木氏だけに課せられた四掟」に基づき貰ったと云う「流れ」と成ったという事に成りますね。

    これ等の事は本論の「伝統シリーズ」で詳しく論じておりますし、「日本書紀」を始めとして「3つの歴史古書」でも記されていますよ。

    では何か判りましたらお便りください。


      [No.1170] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/18(Thu) 09:43:48  

    今日は。お便りを読ましていただきました。
    大部、「ルーツの探求」が進んでいますね。
    驚きました。最近では探求はなかなか難しいのですが、よく頑張っておられるようですね。

    さて、では早速ですが、良い処に気が着かれましたね。
    お尋ねは「ルーツの生き様」を解明する大きく拡大する「青木氏の歴史観」ですね。

    では、ご説明いたします。
    実は、今から観ても驚くべき事が起こっていたのです。
    それは、何と奈良期からなのです。

    その「史実の経緯」を先ず論じます。
    「サイトの伝統シリーズ」には論じている事ですが、奈良期、天智天皇の「第六位皇子」であった「施基皇子」は、「賜姓臣下族」として「朝臣族」に成り、「氏」を構成する事を許されます。
    これ等の事は「日本書紀」などにも記されている事ですが、この時、「伊勢王」として経済的にも「伊勢で自立する事」に成ります。
    そこで、「天皇の内意」を受けて「施基皇子」は次の事をします。
    それが、「天武天皇」に先ず、「賜姓五役」の一つの「令外官」として「和紙を国内で造る事」を命じられたのです。
    それまでは、高値で中国から輸入していました。
    それは「苦参人・人参の繊維」で造った悪質な紙でした。
    これを「令外官」として「国内で造る事」を命じられました。
    そこで、「一族一門」を挙げて色々試した結果、苦労して開発したのが「楮の繊維の和紙」でした。
    これを、「伊勢」と「信濃、甲斐、美濃」、そして少し遅れて「近江」の「五カ所」と、平安末期には「伊豆」でもその土壌から良質な楮を生産する事に成功しました。
    ところが平安末期に「美濃」は途中で源氏化が起こり「和紙の楮の生産」を止めます。

    此処で、先ず「生産態勢」として「楮」を生産し、「生産技術」を開発した「伊勢・伊賀域」で地形を利用して「和紙」にすると云う「態勢・水車の機械化」を確立したのです。
    其の後、「信濃」と「甲斐」にもこの「和紙技術」を移したのです。
    平安期中期には、「土壌が悪い近江」と「独立性の強い美濃」は、「生産技術の移転」を受け付ける事をしなかったのです。
    然し、「天皇の意」もあって何とか「土木業の額田部氏の協力」を得て「真砂の土壌」に「土壌改良」を施し、「原料の植え付け」に成功します。
    この為に、「和紙の生産技術」も受け入れたのです。
    これは、当初より「施基皇子」として「全ての物を造る部制度・国造・職人」を統括する「令外官の役目」を持っていたのです。
    その為に天皇から「諱号」として、代々「造・みやつこ」を着けた号を名乗る事を許されます。
    その「独占権」を以て、これを「伊勢」に一括して集めて、そこから一度、朝廷に納め、残ったものを「市場に放出する権利」を一括して獲得したのです。
    要するに「生産と商いの開始」です。
    これを「部制度」といい、平安期までは「市場経済」では無く、全ての利権を朝廷が受け持つ「部制度による部経済」でした。
    つまり、「売上を朝廷に先ず納める」と云う「財政形態・商業形態」を日本で初めて「伊勢王の青木氏」が確立させたのです。
    その結果、朝廷より“「令外官・天皇の密命を及びた役人」”として「朝廷」の「紙屋院の特別称号」を獲得します。
    全国の「国造」を統括する事から「青木氏」の中に「青木氏部」を持つ事を許されます。
    この「称号」を元に「天皇」は次から次へと「開発と商い」を命じたのです。
    「和紙」に関連する「墨や硯や絵具の開発」を命じられ、平安中期の「925年頃」にはこの功績により一切の朝廷の「正式な商いの権利」を獲得したのです。
    「部制度」の中で日本で「企業化」は初めての事であり「伊勢青木氏」は「起業人・商い人」と成りました。
    其れも、そもそも「賜姓族」で「朝臣族」に執っては「商い等」は「禁じ手」の「象徴族」でしたので、「賜姓臣下族の朝臣族」、つまり「令外官」としてであった事から、「青木氏」とは別に“「伊勢屋」”を名乗る事として「伊勢青木氏」と別離する事を命じられるます。
    つまり、「二足の草鞋策」を命じられたのです。
    つまり「影の令外官」として、この「紙屋院の商い」を拡大させて行きます。
    遂には、拡大した「総合商社」として「1025年」に初めて「宋貿易」をも初めて許されます。
    「国の経済」を担う初めての「企業統括省・経済産業省」と成ります。
    「賜姓五役」と「紙屋院」の他に「四つの院の称号」を持つ事に成ったのです。
    この間、「朝廷の大蔵」は元より「天皇家」の「内蔵財政」は大いに潤ったのです。
    「市場」にその需要を喚起する「経済システム」を構築したのです。
    この「務め」は明治9年まで続きます。
    「伊勢青木氏・伊勢屋」は日本で「最初の企業家で殖産家」と成りました。
    この為、「平安期初期・925年」に「永代の影の令外官」を務める事に成ったのです。
    この「流れ」は変わらず室町期には、「紙文化」で「巨万の富」を獲得し、「衰弱する朝廷」を「影」から「献納」で支えたのです。
    そして、徳川幕府時代と成り、締め付けられる天皇家を裏で支えますが、幕府はこれを黙認します。
    「紀州藩の吉宗」を伊勢松阪で「親代わり」と成り警護して育て商いの基礎を教えました。
    そして、「紀州藩主」にして支え「体質的な赤字財政」を改善したのです。
    この功績もあって幕府には評判が良く、「吉宗」を将軍にすべく幕府に多額の賂を蒔き「将軍」を仕立てあげます。
    この長い経済知識を利用して「享保改革」を「伊勢屋の主導」で手助けします。
    「吉宗」が将軍と成った時、この時、「幕府金蔵・金庫」には300両程度しかなかった事が「青木氏の資料」にも記されています。
    そこで、「市場」を活発化させる「経済改革」を発案し吉宗に建議します。
    この時、「伊勢屋の青木氏」は「布衣着用の格式・直接将軍に意見を述べられる身分・老中格」を獲得していました。
    そこで「青木氏と伊勢屋の両輪」で「政治・経済改革・享保改革」を実施します。

    「青木氏の資料」と「幕府の資料」などを総合すると、次の様な改革を施したのです。
    それを「青木氏の資料」では、これを奈良期から「影の務め・令外官・賜姓五役」として、この「役務」を「質・しつ」と呼んでいました。
    「伊勢」では「古来」から「中国仏教」に用いられていた「質・金山寺」と云う“「施し行為」”を真似て、これを「神明社の役目」としての行い、「越前の神明社」にこの役目を広く与えていたのです。

    其の「質の考え方」を「享保の改革」に用いたのです。
    先ず行ったのが、それが、「吉宗」に建議して停滞していた「市場の経済活性化」の為に、「一切の商い」に“「競争入札」”を義務付けました。
    更に、これに伴って江戸に“「金融システム」”を導入します。
    これ等の改革は「命の身の危険」に及ぶ程の「大きな抵抗」があった事が書かれています。
    これが、江戸の“「伊勢屋の質屋」”です。
    「江戸」に「青木氏の邸・中核」を設けて、江戸市中に「本店」を「5店舗」を構え、市中に「200店舗」を「伊勢屋」として展開したのです。
    その為に、「江戸の伊勢屋・質屋」と云えば「質屋の呼称」の様に思われていた様です。
    「質屋」とは「現在の質屋」とはすごし違っています。

    さて、この「質屋」には、「一商目」では無く「種類別の金融」の「色々な範囲の質屋」を作ります。
    例えば、資料に基づけば次の様な改革が書かれています。
    「商記録と添書」と「幕府の資料」から読み出すと次の様に成ります。

    物を預けて金を借りる。「小口金融」
    金を借りて利子を払う。「大口金融」
    建物などの建設費用を貸して完成すると利子と共に返す「建設国債」を造る。
    大店を小分けして「グループ化」して夫々の店毎に一定の利益を認める「組合株金融」。
    職種を「殖産、開発、陸運」等と区分けして「商い」とは切り離し「企業化金融」を有利な金融で促す。
    「陸運業」には「特別融資」を促し、「物流と金融の流れ・物流金融」を良くする。
    独占化していた「水運業の認可」を広く広げ、「人と物の流れ」の「期間短縮を促す金融」
    特定した殖産・布の生産業等を個人では無く「起業化を促す金融」。
    土地農地の有効活用の為の融資、農家、庶民の次男三男の「就業支援策金融」。
    大店には組合を構築する事を支援し、組合株の発行と組合の中で使える御師券の発行の裏付け支援。

    以上これの質を営む夫々の店舗に違う役目を与えたのです。

    この事は「吉宗の政治政策」にも「青木氏の建議」に基づき反映さしています。(サイト本論参照)
    これを「伊勢の青木氏の伊勢屋」が「吉宗」を「市場・金融」から補完したのです。
    この「金融と云う面」からの「経済対策・都市政策」は明治期にも引き継がれて行きます。
    「江戸の伊勢屋」はこれをこれまで培ってきた「質としたツール」を使って江戸経済を活性化させたのです。
    一方で、幕府は民衆には「質素倹約」を奨励し、合理的でない生産性の低い”「華美な無駄」”を省く様に督励したのです。

    (注釈 1716年に開始した「江戸改革・享保改革」はこの様に成功しますが、「享保期末期の青木氏の建議」に従って「吉宗」は全国に「殖産」にも金融を施し奨励します。
    処がここで「非常事態」が起こります。
    「信濃」に於いて「信濃青木氏」の「殖産域・神明社聖域」の大半を奪い、其処に「四つの新親藩」を設けて、これを管理させて「莫大な幕府の利益」として奪い取ったのです。
    「親族の信濃青木氏」の「聖域で行っていた民の殖産」を奪った事を怒って「吉宗」に抗議しますが聞き入れませんでした。
    そこで、“最早、これまで”として「吉宗の仕返し」を恐れて、直ちにこの「江戸の伊勢屋」と「二屋敷」と「200質屋」を「店子」に無償で譲渡して、「伊勢からの迎船」で早くも「三日後」には「伊勢松阪」に引き上げたのです。
    そして、「江戸の青木氏」は「親と息子の死亡届」を出してお家が断絶した形を採ったのです。
    そして、「吉宗御側用人の加納氏」とは「伊勢」に於いて何度も血縁関係にあり、紀州加納家は「紀州藩城代家老」であった事から、これを頼り「紀州藩の保護下」に入り難を逃れます。
    其の後の「2年後・1745年」に「吉宗」は脳溢血で死亡します。
    「危機を逃れた事」で「紀州藩」には、「伊勢の伊勢屋」は「2万両の債権」を持っていた事からも、且つ、「勘定方指導と云う立場」を幕末まで保持していましたので、今度は「紀州藩改革」に本格的に乗り出したのです。
    「紀州と伊勢の殖産」を「紀州藩」に替わって進めます。
    これで幕府は「伊勢屋」に手を出せなくなりました。
    江戸初期から進めていた「15の商組合」も強化し、「御師制度・紙幣制度・信用通貨」を敷いて「紀州と伊勢の経済の活性化」を促します。
    「紀州藩」は「幕府・6万両」と「青木氏・4万両」から合わせて「10万両の借財」を抱えていましたが、その後、この「借財体質」は「2万両」まで「減額・伊勢屋の債権」して改革は成功します。
    幕府は紀州藩に「密命」を持って「主席家老」を「二人」も送り込み、二つの支藩の城を持たせ、この紀州藩を支配しようとしますが、「二人」とも強い抵抗を受けて逃げ出します。)

    この1716年からはじまった「享保改革」は、「江戸伊勢屋の引き上げ」で、実質はその「財源の裏打ち」が無くなり終わり、「小口金融の伊勢屋」だけが残ったのです。
    「享保の改革」の「終わり・終焉」はこの引き上げで頓挫したので終了期は歴史的に判らなくなりました。
    その後、江戸では「70〜90年間弱」はこの「経済システム」は続きますが、再び崩れ始め、“一切の商いに税を掛けないと云う”「享保期までの商慣習」は崩れ、次第にこれに代わる「悪弊」の“「冥加金や運上金等」”を要求し、これが横行し、癒着し、この為に「一族性の強い財閥」が生まれます。
    更には、「小店」までも「財閥」に飲み込まれる結果と成って行ったのです。
    これが明治初期まで続きます。
    これが、次の通りの「財閥」が日本全国に生まれました原因です。

    三井、三菱、住友、安田、鴻池、渋沢、浅野、大倉、古河、川端、藤田
    以上の「11の一族性財閥」で「市場」は握られて仕舞います。

    寧ろ、幕府より「経済的な強力な勢力」が生まれ、政治は「冥加金漬け」で動かなく成ったのです。
    ところが、明治初期に、この「財閥解体の令」が発せられて、「享保期に近い経済システム」が、「伊勢青木氏と関係性・幕末の勘定方指導」を持っていた「陸奥宗光・紀州藩藩士の建議」で再構築されたのです。
    「陸奥宗光の父」は「伊勢青木氏」から教育を受けた「幕末紀州藩の勘定奉行」であったので、この「宗光」もこの上記の「享保改革の知識」で「維新政府」を改革します。
    この手始めとして”「11財閥の勢力」”を抑え込もうとしたのです。
    この時、西洋に追いつく為に、「基幹産業の財閥」を遺し乍らも、「一族性の経営形態」を否定し、「冥加金制度」も否定し、且つ、「腐敗の元」と成っている「税体系」を新たに確立させたのです。

    この様な「経済経緯」が享保期以降90年程度の間は構築されていました。

    さて、お尋ねの件ですが、歴史的に「氏発祥」より既に「伊勢青木氏の出自の氏族」には、この様な現在と余り変わらない「進んだ概念」が「奈良期」から構築されていました。

    「伊賀青木氏の香具師の働き」から室町期に「近江」に移動して「近江」に於いて活動していた「伊勢の伊賀青木氏の裔系」としては、この進んだ影響を受け、且つ、「伊勢屋の支援」を獲得し、「近江」に於いての「香具師の商い」も明治35年頃までは間違いなく手広く広げていたと考えられます。

    従って、お尋ねの “半径200メートル以内に「香具屋の店」が11軒(内屋号山上の店は9軒)あるのは、現在の経済構造からは、信じられません。” に付いては、「伊勢の裔系」の「青木氏」である限りは全くその懸念には及びません。
    ご指摘の事は充分に有り得た事です。
    寧ろ、自然では無いかと云えます。

    125600平方メートルの中で、約11400平方メートル/1店舗ですから3450坪/1店舗
    つまり、余り広くも無く、且つ、狭くも無い範囲に於いて「販売」には「合理的な範囲」と考えられます。
    江戸期から明治にかけて「香具師の店」として「扱う商品」としては、「1店舗」で全ての関係する商品を販売する事よりは、「香具師の内容別」に「店」を分けていた事の方が、「買う側」も「売る側」にも利便性が生まれ、取り分け、「仕入れ」には便利と成り、「夫々の店」には「仕入れ」などの経営をある程度に任す事で大きい店を経営する方がよい筈です。

    上記しました様に、享保期ではこの事を積極的に推奨させました。
    「大店一つ」で全ての物で販売経営するシステムは何時か「店」そのものが動かなくなるのです。
    そこに「紀州藩士の陸奥宗光」に依る「明治期の改革」が起こったのです。

    尚、「昭和の高度成長期」からは、再び享保期の改革に見習い、日本もこの昔の「一族性財閥」から、この「グループ化方式」を採用して転換させ、三段階までの「グループ化」を促し、その企業一つ一つに「10%程度の利益」を許可する「税制方式」を採用したのです。

    この事と同じで、古くから「伊勢の伊勢屋」でも「殖産業等」に分けて経営を分散化していたのです。
    恐らくは「近江」も「物品の仕入れ先」は「伊勢屋」であったと考えられますので、大いにあり得た事です。

    「財閥解体・一族式所有」の政策は、明治初期と昭和20年の時の二度行われました。
    先ず「明治初期の解体」は、「商業態」を中心とした”「組合株制度」”を推し進め、“「規模を中心とした分散型」”を目的として奨励しました。
    これは「享保の改革の目的」の通りで、「都市政策金融」が進まない事を危惧した政策でした。
    明治期では、“「享保期の金融・商業」には「商い」を発展させるために「税は掛けなかった」”ですが、「明治維新」からはこれを廃止し、それを「政府の税制」で優遇したのです。
    ですから、「伊勢の伊勢屋」も同様にしていますので、「近江」のお家でも「店」はより「組合株の分散化」を施したと考えられます。
    つまり、そうする事で「伊勢」や「伊賀」が一枚絡んで「経営」を安定化させたのだと思います。

    明治維新の「地租改正策」や「農地解放」などの一連の政策で「大店が持つ不動産」にも無償放出を義務付けられたのです。
    「日本書紀」にも記されている奈良期から持つ伊勢の「五つの大字や小字」の「広大な地権」の「旧領地・本領地」を「共生共存共栄の概念」の許で「青木氏の氏人」に無償で分け与えました。
    従って、受けた氏人の「ある程度の規模の店」は、必然的に「所有財産」を「組合株」で分散化させたのです。
    つまり、お家もこの流れの中に必然的に分散化に追い込まれていたのです。
    然し、この時、「基幹産業」はその侭としましたが、寧ろ「西洋」に追いつけとして、国も参加する程で奨励したのです。

    昭和の解体策は、「一族性」を完全に無くした「株式制とした分離型・アメリカ式」でした。

    従って、「明治期のお家」はこの政策に従って規模を分散した状態で伊勢屋等の“「組合株」”とした「経営」に移したと考えられます。
    其の後は、「跡継ぎの事情」や「経営上の理由」などで、これが何時しか「組合株・理事株」が他人に譲渡され疎遠化したと考えられます。
    故に、上記した「合理的な狭い範囲」に於いてでも、19店舗、11の店舗、9店舗、1店舗の「山上の屋号」と成ったと考えられます。
    この現象は何処でも起こっていたのです。

    以上でお家の範囲には、故に「本家筋の店」と観られる「香具師の香具屋」も発見できているのだと考えられます。

    (注釈 伊勢の記録や公の記録には、「伊勢」から始まったこの「組合株・御師制度」は全国的に有名で、明治35年まで続き「摂津域・近江兵庫・越前・越後・武蔵・駿河・三河」まで広がっていた事が判っています。
    尚、「伊勢屋の店」は「全国500弱」に及ぶとし、西は摂津店、東は松阪店を「核」とし、それぞれを統括し、「各店主」は「伊勢の氏人」が務めていたと記されています。
    従って、「伊勢屋」は、この「家族構成」では無く、元より「奈良期」から「伊賀衆」を含む「伊勢衆50」との形態で構築していたのです。
    「伊勢衆50」とは「重婚の女系の血縁関係」を繰り返した例の無い生き遺りの「唯一の朝廷が認めた純粋で正式な氏人での構成」であったのです。
    故に、氏の主家頭として「伊勢の松阪青木氏」は「御師様・おしさま」や「氏上さま」と呼称され、それを以て、この「組合株制度」は「御師・おんしせいど」と呼ばれたのです。
    明治期にこの「伊勢衆50の氏人」が「氏名の青木氏」を「姓」として名乗る事には何も問題は無かったのです。
    又、「摂津店」と「松阪店」を経営主体とし、他の「500の店」は「組合株の店」として系列化を避け、「明治期の税体制」に対応したのです。
    そうする事で、「摂津店と松阪店以外」は、「組合株」を持ちながら「税の納税対象範囲の基準規模以下」にして「税の優遇」を受けたのです。
    恐らくは、その「流れ」の中にお家もあった事が考えられます。

    この事で「維新政府・薩摩」から「松阪」では不正と見做され「焼き討ち」や「打ち壊し」を受けた事が判っています。
    然し、奈良期より「伊勢青木氏の一族・伊勢衆・氏人」での「一族性の無い経営形態・氏形態」であった事からこれが理解されなかったのです。
    それは、「信濃青木氏」と共に日本に唯一遺る「正統で純粋な氏族」であったからです。
    これは「伊勢の青木氏」だけではなく「信濃や美濃や信濃の青木氏」でも「焼き討ち」や「打ち壊し」があった様です。

    この「組合株」は、全国では初めて「伊勢」から始めた「御師制度の組合株」ですが、江戸初期に組んだ越後までの15組合」にも及んでいたものまでも含み、「紙幣としての価値」は高かったのです。
    お家の「伊賀青木氏の営む香具師の香具屋」も含む「全国500以上の店」とその関連店に流通していました。

    故に、江戸期から、その形態は「財閥としての位置づけ」は本来から無かったのです。
    尚、念のために、お家の「伊賀青木氏」の一族は、「伊勢屋」と関わりながらも他にも、「絹に関わる産物の商い」や「機械・器具の生産販売」や「紙箱や小物の生産と販売」の「店」も各地に持っていたのです。

    又、何か判りましたらお便りをお待ちしています。


      [No.1169] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
         投稿者:青木 豊   投稿日:2020/06/16(Tue) 14:24:19  

    早速のご丁寧なお返事に大変感謝しております。
    年長者が存命のうちにご教唆いただきました情報の収集に努めます。


    曽祖父の配偶者は「信州松代藩の上級武士の娘」(大叔父の回顧録表記による)でした。
    何か信州との縁は感じております。


      [No.1167] Re:高祖父以前のルーツにつきまして
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/06/16(Tue) 10:19:25  

    今日は。始めまして、これからも同じ「青木氏」として宜しくお願いします。
    お尋ねを拝見いたしました。
    早速ですが、凡その所は下記の様にルーツは成ります。

    唯、“「明治後の情報」”は「江戸期前の氏家制度」に基づいていませんので、余り役には立ちません。
    「明治3年と8年に苗字令」と云うものが出され、社会は「江戸期前との慣習」が一変しました。
    つまり、「自由な社会」と成りましたので、その「情報の意味合い」が替わりました。

    さて、頂きました情報により次の事から大枠のルーツを導き出せると思います。
    先ず、「青木氏」には大別すると次の様に成ります。
    詳細は、サイトの情報の関係する処をゆっくりとお読みください。

    1 皇位 賜姓臣下族五家五流青木氏
    奈良期・天智天武期から平安期・嵯峨期まで、「皇位の第四世族内」の「第6位皇子」が天皇から特別に「賜姓」を授かり臣下して「朝臣族」と成り、「天皇」を身内で護る「近衛兵の集団」を構築しました。
    これが「賜姓青木氏」です。
    そして、その「青木氏」は次の国の「守護王」として遙任として配置されたのです。
    自らは「近衛兵の役目」を果たし、「守護の国」には「国司・国司代・役人」を向かわせて守護しました。
    これが、「近江王、伊勢王、美濃王、信濃王、甲斐王」の「五都・五都計画」です。
    これが「五家五流青木氏」です。
    以後、「皇位・皇位第四位」にあり乍らも「皇位継承」の出来なかった「皇子皇女」は、この「五家五流の青木氏」に全て入り保護を受けました。
    この「賜姓システム」は「嵯峨期前」まで続けられました。
    処が、自らもこの「伊勢青木氏の出自の嵯峨天皇」が、つまり、「青木氏」より天皇に成った「光仁天皇の孫」は、この「賜姓システム」を変更して「賜姓」を「源氏」として変更しまったのです。
    ところが「皇位継承外」と成った「皇女皇子」は「生きる場」を失い各地に散りました。
    多くは、「美濃青木氏と甲斐青木氏」に引き取られたのです。

    2 嵯峨天皇の賜姓後の青木氏
    この「賜姓源氏」には「経済的な裏付け」は在りませんでした。
    そこで、「甲斐青木氏」では「源氏」の「賜姓」を受けられなかった「皇子の者」がこの「青木氏」を引き継ぎました。
    「賜姓の受けられなかった者」も「源氏」を勝手に名乗りました。
    これが、「賜姓甲斐青木氏の跡目」にはいった「源の源光」と云う者でした。
    ところが、「嵯峨天皇の賜姓の詔勅」には「源氏」と成れなかった多くの皇子皇女は、「元の賜姓の青木氏」を名乗っても良いと云う「詔勅禁令の中」で書かれていました。
    そこで、「源光の兄の時光・妾腹」はこの令に基づいて「青木氏」を「甲斐」で名乗ったのです。
    それが「二つ目の甲斐青木氏の源流」と成り、これが「嵯峨期の甲斐青木氏」です。
    これを「甲斐時光系青木氏」と云います。

    次に、この「甲斐」では弱小と成った「賜姓族」の「源光系青木氏」と、勢力を拡大した「時光系青木氏」は、室町期に入り武田氏が勢力を持ち初めて、これと血縁して、「三つ目の傍系支流」の「武田氏系青木氏」が生まれます。
    更に、「四つ目の卑属支流」の「青木氏系武田氏族青木氏」が生まれます。
    何れも「時光系」で、「源光系青木氏」は血筋を護るために「厳しい皇位族の伝統」を護り「武田氏」とは血縁をしませんでした。

    この「姓族の武田氏」は、更に「信濃」を獲得し、「信濃の諏訪族青木氏」と血縁をして「諏訪族本家」から正妻を迎えます。
    「信濃諏訪族青木氏」は奈良期から「信濃青木氏との血縁族」です。
    この「諏訪族青木氏」は、武田氏との間に一つ目の「諏訪族武田氏系青木氏」を、更に、二つ目の「武田氏系諏訪族青木氏」と、三つ目の「武田氏族諏訪族系青木氏」の「三つの青木氏」を誕生させたのです。

    従って、「甲斐」には、「青木氏」は系流として、以上のこの「7つの青木氏」があるのです。
    この「7つ」が「武田氏の家臣」に成りました。
    この「7つの青木氏」の内、「武田氏」が「長篠」で滅び「家臣」の殆どが「織田氏の傭兵雑賀根来」の「火縄銃」に依って「戦死・12000人」したのです。
    然し、生き残った「甲斐の青木氏」がいるのです。
    それが「武田氏系」を除く「諏訪族系青木氏」と、もう一つは「時光系青木氏の分家族」です。
    「諏訪族系青木氏の2流」は勝負が決まる瞬間に長篠から逃亡し「神奈川の秀郷流青木氏」を頼ったのです。
    其の後、神奈川に定住組と栃木と越後に移動した組に成ります。
    もう一つの「時光系青木氏の分家族」は「武田氏」に味方せずに「徳川氏」に味方して生き延びたのです。
    この「時光系青木氏の分家族」は「本家族」と「分家族の主家」との間に「考え方の争い・相続争い」が起こり、この「分家の主家の嫡子」でありながらも「嫡子」として扱われなかった「兄弟二人」は徳川氏に着いたのです。
    長篠の戦後、「武蔵・埼玉の鉢形」にこの一族は移住させられて「北の護り」として任務を与えられ家臣となりました。
    その一人が「柳沢」に住んでいた「弟・豊定」と、二人は「北巨摩郡」に住んでいた「兄・正定」は、共に「200石から250石」での「徳川氏の下級家臣」と成りました。
    この「柳沢の弟・豊定」の「青木氏の二代目」が彼の有名な「柳沢吉保・青木吉保」です。
    其の後、「兄の一族」は出世した「弟・吉保の家臣」と成ります。
    この「兄の青木氏」は「弟の移封」と共に「奈良郡山」に移り、そこで「郡山青木氏」を興しました。

    さて、結論は流れからすると、この「二組の青木氏」と成りますが、お家は、江戸に先ず定住しているようですので、情報からすると「諏訪族の系の青木氏」では無い様なのです。
    そうすると、生き残った「時光系青木氏の分家筋の兄弟の青木氏」と成ります。
    然し、「郡山」に移っていますので違っています。

    そこで、残る情報の「家紋」です。
    明治期に「丸に蔦紋」としていますが、これは全くおかしいです。
    この紋はそもそも「松平氏一族」の文様で、使うと打ち首ですのであり得ません。
    この「蔦紋」には85紋あり、多くは各地の「支流の松平氏の家紋類」で他氏が使う事を禁じていました。
    そもそも、「葵紋類系」でも「御三家以外」は使用を禁じていたのです。
    この家紋は全くあり得ません。

    ではそこで、この「家紋」によく似た「青木氏に関わる家紋」があります。
    それは「立ち葵紋」です。
    これは「信濃諏訪族一統の守護神」の「諏訪神社の神紋」です。

    この「神社の神官族」は「諏訪族青木氏」で、彼等がこの「神紋」を奈良期から護っていたのです。
    戦いに不得手とする彼ら神官族は、「長篠の戦い」で逸早く逃れて「神奈川の秀郷流青木氏一門」を頼ったのです。

    但し、ここで一つ参考として。
    戸籍も家紋も明治期中頃の情報で、姓や家紋の持っていなかった9割の全国民が明治3年の「苗字令」で持つと云う事が起こり、それでもこの令は全く進みませんでした。
    そこで、明治8年後に「督促令」が出され、強制的に苗字を持つ事が起こりました。
    この時、「青木氏」に関わっていた農民や庶民は主家の元の姓を名乗らせたのです。
    当然に慣習や伝統に矛盾が生まれるこの「青木姓」を「第三の青木氏」と云います。
    一斉に一夜明けると村が「青木姓」に成っていたとする事が起こりました。
    当然に、主家に似せる為にそれに伴って「偽の系譜」と「家紋」と「墓所」も持つと云う事が起こったのです。
    最早、一切の「慣習の縛り」は解け、この時は「葵紋」であろうが、「蔦紋」であろうが、「下り藤紋」であろうが、「笹竜胆紋」であろうが、「姓」と同じ様に自由に何でも使ってよかったのです。
    これを武士が持てる墓所を持ち、「大理石の墓石」に刻むと云う事の庶民の習慣も生まれたのです。
    江戸期前では「仏教の戒め」で「武家の主家・本家」を構える家しか「墓石」を持つ事が許されなかったのです。
    この時の墓石はそもそも「砂岩」でした。
    又、「家紋」も「特別な者」しか刻む事は許されませんでした。

    従って、これ等の事から「明治以降の習慣・口伝」は使えません。
    これがお家が行っている「士分」では無い「青木姓」だと思います。
    「出自元の維新戸籍簿」には「士分か平民かの分別」をしていて、何処の出身かも明記しています。
    江戸期は「国抜け」と云って出自元から勝手に移動する事は許されていませんでした。
    無宿者と成る以外は移住する事は許可なく出来なかったのです。

    次は、「紀州藩の家臣」の件ですが、これにも「縛り」がありまして、「紀州藩の初代頼信」は石高に応じた家臣を持っていませんでした。
    そこで、「紀州藩」を造る為に急いで「紀州の土着の土豪」と「伊勢の伊勢藤氏・伊勢秀郷流青木氏を含む」を全てごっそり「家臣」にしたのです。
    ところが、これを「謀反」として「幕府」から疑われる程に各地から広く採用せずに、「地元優先の策」を執った事で疑われる事に成ったのです。
    実は幕府も同じ事をしたのです。
    「関東の秀郷一門一統・361氏」をごっそりと「御家人」として「官僚」にしたのです。

    そもそも「紀州藩の家臣」に成る事等、実際には出来なかったのです。
    それも関東に於いてであるとし、「5000石位以上の旗本」で無い限りは「知行地・土地」も与えられるという事は全くあり得ませんでした。
    紀州藩は関東に与えられる領地を持っていません。
    紀州徳川氏は、維新後、大正14年まで紀州にいました。

    次は、「学者の件」ですが、仮に「諏訪族神官族青木氏」とすると歴史的にあり得ます。
    この「諏訪族の神官族」から江戸期に史実で「神学者」が多く輩出されたとされています。

    これ等の事を組み合わせると、ある「一つの説」が生まれます。
    それは、「諏訪族系の二つの青木氏」のどちらかが、「頼信の家臣集め」の際に、「伊勢藤氏・秀郷流青木氏主体」は「一族・116氏」から「人集め」をしました。
    この際に「関東の秀郷流青木氏」から「一族」を集め「媒臣」にし、「紀州藩の家臣・媒臣」と成ったのです。
    この時に、「神奈川の秀郷流青木氏」に世話に成っていた「お家の主家」はこの「誘い」に乗ったという事に成れば、「紀州藩の家臣、又は媒臣か陪臣に成り得ます。
    恐らくは、「媒臣」であったと考えられます。
    この説であれば、「大きな矛盾」が無くなります。

    そこでお家では、江戸期の末期頃から「伝統」が錯綜した可能性がありますね。

    以上、寄せられました情報を元に「青木氏等の史実」と照らし合わして考えますと、確定が出来ませんが以上の結論に至ると思います。

    そこで、確定するには「武士の家柄」は、お家の「江戸期の宗派」や「維新の戸籍簿」や「菩提寺か檀家寺」か「過去帳か人別帳」や「仏壇の形式」等で連動していますのでお調べください。
    普通は錯綜しないのですが、場合に依っては、「錯綜の原因」に成っているのは、この「第三の青木氏」と云う事にも成り得ます。
    身近な事として木魚は無く金であったとか、仏壇が違ったとかいう事が決め手にも成ります。

    上記の事をお調べに成ればこれで確定は出来ますよ。

    では、お便りをお待ちしています。


      [No.1168] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:青木 正明   投稿日:2020/06/15(Mon) 21:10:36  

    梅雨に入ったとはいえ、夏のような今日この頃です。

     「新撰京都叢書」を調査結果、香具屋は19軒。
    主は蝋燭・油、他は喫煙具、小物、雑貨、呉服等でした。

    そのうち、【山上】の屋号があるのは、10軒。蝋燭・油を扱っている屋号山上の店は6軒。
     副支配人様が前回、副紋は蝋燭紋とご指摘されましたが、全くその通りでした。

     父の言葉から『烏丸通に面していた』との事で、我が家の直系は香具屋利助(五十嵐香所 根元)
    と推測します。現在は警察署です。
     香具屋伊兵衛(常磐練油所 本家)とあるのが、本家筋と思われ、現在の【青木玉初堂】です。 

     しかし、半径200メートル以内に香具屋の店が11軒(内屋号山上の店は9軒)あるのは、現在の
    経済構造からは、信じられません。
      
     伊勢屋の経済構造を色々研究されているようですので、江戸時代のこの疑問を解決頂けるような物が
    が有れば、ご教授の程、お願いいたします。

    参考までに、鑑札と香具屋の一覧表を添付します。


      [No.1166] 高祖父以前のルーツにつきまして
         投稿者:青木 豊   投稿日:2020/06/14(Sun) 10:39:56  

    貴HPを拝見し内容の深さに感銘いたしました。
    もしよろしかったらルーツについてご助言いただけると幸いです。


    亡父より多磨霊園の青木家墓所を継承しました。

    曽祖父が昭和初期に用意したものですが
    高祖父以前のルーツははっきりしておりません。

    何らかのヒントをいただけたら幸いです。


    従叔父に伝わる口伝では「武田家の家来であった」です。

    大叔父(故人)の回顧録では 「学者、医者、僧侶神官は士族扱いであり紀州徳川家に仕え、市ヶ谷に居宅を藤沢付近に土地を与えられた父の家は当然士族であったが明治の徴兵逃れのため同じ名字の青木家に養子に入り士族から平民に下げられた」とあります。


    私自身のかすかな記憶では祖父が学者の家だったと言っていた覚えがあります。


    以上がすべて正しいとすると次の解釈となります。

    武田氏家来の青木が、武田氏滅亡後の紆余曲折を経て江戸時代に学者となる。紀州徳川家に仕え市ヶ谷居住、藤沢付近に知行地(旗本と同じ処遇?)があった。
    (その後曽祖父の時代に明治維新があり、必要に迫られ曽祖父は戸主となるための手段を講じた。)

    これはあり得たのでしょうか?



    関連情報は以下の通りです。

    −家紋

    蔦です。祖父から聞きました。大叔父(回顧録の大叔父の弟)の墓石には丸に蔦の紋が入っています。何世代に渡り蔦紋を使っていたかは不明です。


    −戸籍

    入手できた一番古い戸籍(明治19年式戸籍)では曽祖父は現神奈川県藤沢市の青木家二男となっております。明治22年(26歳)に他家の養子となり2年で養子解消して青木家に戻り同年に生家隣地番に分家しています。(分家後は北海道、ウラジオストック、東京と移り住みました。戸籍の生家とは殆ど交流がありませんでした。)

    戸籍通りとすると回顧録の「紀州徳川家に仕え市ヶ谷に居宅を」の部分は否定され、学者でもなく、口伝のみ正しければ武田氏滅亡後、現藤沢市に代々住み、明治地代になり藤沢を出たと推定されます。

    戸籍生家地番の青木家を訪問しましたが曽祖父の時代の事はわからないとのことでした。一方、その折にお教えくださった一族墓所には戸籍に記載された方のお名前をいくつか拝見いたしましたが墓石の家紋は貴HPでお見受けするもの以外でした。


      [No.1165] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:   投稿日:2020/06/03(Wed) 20:39:19  

    >進捗状況の報告です。

    京都歴史資料館に壬申戸籍簿より前の「京都府戸籍簿」があるようです。
    「函谷鉾町戸籍簿」「塩亀町戸籍簿」等はあるようですが、我が家のすぐ近くです。
    全て、下京区で我が本籍の戸籍簿が有るかは不明です。
    緊急事態宣言の影響で県外者の入館は断っているからです。
    早く、全て解除してほしいです。

    これは近況報告ですので、ご返事は不要です。


      [No.1164] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/21(Thu) 11:18:16  

    今日は。
    大変な社会情勢と成りましたね。
    {日本社会}はこれで変わるかも知れませんね。
    人々は反省して「新しいAIの社会」と「昭和時代の良い慣習」とが強化された「不思議な融合社会」が生まれると観ています。
    歴史は繰り返す例えの通り、日本は「新と旧の融合社会」です。
    「日本民族」も「7つの民族」から融合して「単一融合民族」を構成した世界唯一の民族です。
    社会も融合性が強いのです。
    「日本人の顔」も「丸みの帯びた顔」にどんどん変わって行くでしょう。
    70年以上前とは随分と変わっていますよね。
    これが「日本」と思います。

    さて、確かに個人情報で調査が全く進まない事が起こります。

    お家が云う「江戸末期から明治維新の頃の事」でも個人情報で行き詰まります。

    檀家寺と菩提寺でも起こるのですから前に進みません。
    去年にも墓参りの為に伺いましたが住職との間ではピンと来ないものがありました。
    筆者も平安期から伊勢の青木氏の菩提寺さえこれからも「無理な状況」に成りつつあります。
    多少は伊勢が一族の墓所を菩提寺にあることを理由に何とかなると云う始末です。
    住職の本山から赴任する時代に成った為に「青木の話」が通らないと云う事もしばしばです。

    お家の研究に何か関わって来るかと考えて次の事を述べます。
    「面白い事」がこの江戸期末期から明治初期に掛けて「油に関わる事件」が起こったのです。
    其れも、紀州と近江地域に架けて起こりました。
    遂にそれが関西地区にまで広がりました。

    それは、その時期、田畑に虫と菌との大被害が発生していたのです。
    この時、その対策が無くて困っていました。
    そこで、この「油絞りの粕」を紀州では捨てるのはもったいないとして「みかん畑」に捨てていたのです。
    処が、紀州のみかん畑だけが全くこの被害を受けていなかったのです。
    そこで、この油に何か被害を防ぐ効果があるのだとして、油の薄めたものをまいたと処、この被害が抑えられ肥料にも成るという事が起こったのです。
    そこで、各地で盛んに菜種などの油を栽培して絞り、殺虫剤と肥料として使う様になりました。

    然し、事はこれでは終わらず近江では、料理にこの油を使って、関西人の性格からテンプラと云うものを造り出すと云う挑戦をしたのです。
    これに依り関西地区では「油の生産」が急激に増産される事に成りました。
    ところが、この被害が東にも広がりましたが、「江戸の人」は油料理を意地を張って使わなかつたとして、約15年程も経ってやっと「テンプラ」まで広まりました。

    当時の油は高く中々江戸の庶民には手が届かなかった事もありましたが、「京の油屋」と「京料理屋」が江戸に進出してその効果を知りテンプラまで爆発的に辿り着いたのです。

    恐らくは、「灯明の油」のみならずこの効能の「油の販売」も広がった時期でもありました。

    お家のご先祖の「山上の香具屋さん」も何らかな形でこの件に関わっていたと観られます。
    或いは、関わらずに明治中期に流れに乗れずに倒産したとも考えられる一つかなとも思えます。
    関西の多くの油屋さんはこの事で大儲けしたのです。

    筆者の伊勢の伊勢屋の商記録の資料にも「油の事」が記載されています。

    神明社等の事も含めて当時の歴史観も加えて研究を進められる事も面白いですね。
    私は、現地調査などは前もってこの様な事を調べて行うと幅広く成り面白いと思っています。
    因みに、昔の人は現在と違い地形や方角の事の関わり具合の意識が強く、歴史に大きく関わっていると考えていたらしく、私も地形や方角の事も歴史に大きく影響していると観て勉強して調べて観ています。
    「NHKのブラタモリ番組」の”たもりさん”もよくいっていますよね。
    同じ意見です。

    何故、「近江」で菜種油の生産かです。
    上記の通り、紀州をはじめ関西地区、主にその「近江」に「油の消費が高まった事」から来ているのです。
    これには、青木氏の理論でも論じている様に、「地形・地質上の事」があった事があります。
    又、そして、何故、「鳥羽屋」かです。
    これには、実は伊勢にも「鳥羽」は在って「近江」と関わっているのです。
    そしてこれに「稲垣」も関わってきます。
    御説の通りで、お家の香具屋さんの山上さんはこれらの事と関わっていた事が考えられるのです。



    では、またお便りください。


      [No.1163] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:青木 正明   投稿日:2020/05/19(Tue) 17:22:13  

    > コロナウイルスも下火になりつつある今日この頃ですが、
    お変わりありませんか?
     
    扨て、新しい事実が探索されました。

    『社会経済史学』67−4(2001年11月) 【近代移行期における山城地方の製油業】
     −鳥羽屋の事例分析を中心にー  辻  義浩
     
     このレポートで山城地方(京都の西南部)鳥羽屋は菜種油を製造、大阪・京都に販売しておりました。
    植物油の販売先名に香具屋がありました。
     1840年 香具屋嘉兵衛 [京・仲買]  1樽  159(銀)匁
     1871年 香具屋嘉兵衛 [京・仲買]  3樽   25(金)両
    取引先 13店程で京都・伏見の[京・仲買]とか[伏・絞]が書かれております。
    全体的にほかの店と比べて取引額は小さく、下部の方に位置します。
     香具屋嘉兵衛は【山上】で間違いないと思われます。
     
    ただ、残念な事に我が家の戒名のメモは1810年頃から1870年頃まで丁落または鼠に齧られており
    完全な名前の突き合せは出来ておりません。
    又、あるお寺さんに過去帳を調べさせてほしいと頼みましたところ、本山が人権保護の立場から、
    対応を禁止されているとの事。
    色々な壁・壬申戸籍の壁を超えるには、緊急解除になれば、まず、山上を捉え、近江へと進もうと考えて
    おります。


      [No.1162] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/05/13(Wed) 07:36:35  

    今日は。お久しぶりですね。
    ルーツ研究を続けられていて同じ研究者がいる事は心強いです。
    今後も頑張って続けましょう。


    「瀧埜貞良」の件ですね。
    余談と成りますが、次の事を説明して置きます。

    確かにこの姓は研究者の間でお家の云われる通り「三重県伊賀の人」と知られています。
    そのルーツは私の知る範囲では滝の多い地域に根付いた姓で、その伊賀の北西部に住していた事が私どもの資料の中に記されています。
    そして、そのルーツは「伊勢青木氏一族・伊勢衆」の「天智天皇の孫」の「光仁天皇」の「子」の「山部王・桓武天皇」の「四人の子供・平城天皇・嵯峨天皇・仁明天皇・淳仁天皇」の内の長男の「平城天皇のルーツの子孫・裔」と成っています。
    「平城天皇」と「嵯峨天皇」との戦いで、この「平城天皇側の裔」は減少したと成っています。

    要するに、「伊賀青木氏」には、ルーツ的に大まかに何とか分けるとすると「四つの地域」に分けられ、その「伊賀青木氏」の中でも「元ルーツ」が少し異なる「伊賀青木氏裔系」と成っています。
    その中の「伊賀青木氏」の一つが明治期に地域名を採って「瀧埜」とも名乗ったと成っています。
    ところで、では何故に「青木氏」を名乗らなかったかと云えば、それにはある歴史的経緯がありました。
    「平城天皇の子供・皇子」までには、つまり「天皇」に成れなかった皇子には、「賜姓」をして「青木氏」と成らせました。
    この「天皇」に成れず「賜姓の青木氏・皇親族」にも外れた者等は、「皇族」を離れ「朝臣族」と成りますが、その時、諡号の姓をその「裔の出自の地名」を採って名乗る仕来りに成っていました。

    恐らくは、「当時の仕来り」から観て、この「瀧埜」は出自元を名乗った元は「皇位族の裔の者」で、且つ、この「尊属」では無く「卑属」の「分家族」では無いかと云えます。
    つまり、「伊賀青木氏」から観れば「縁者族」であったかと考えられるのです。
    故に、「伊勢王」の「施基皇子の曾孫」の「平城天皇の裔」としてその系を世間に示したと考えられます。

    「伊賀青木氏」は「施基皇子の子の春日王の裔系」との「子と孫の裔系の差」と云う事に成ります。
    「平城天皇と嵯峨天皇との路線争い」で「平城天皇の裔系」は敗退し殆ど滅びたと云われています。
    要するに「桓武路線派」と「嵯峨路線派」の争いです。
    「伊勢と信濃の青木氏」は「桓武路線派」で、源氏が嵯峨路線派と成りました。

    この「青木氏の賜姓」の「奈良期から続いた伝統ある青木氏の賜姓仕来り」を、「戦い」に勝った次男の「嵯峨天皇」が表向き「財政難」を理由に「詔勅」に依ってこれを中止し、その代わりに争いを避ける為に中和策を執り「天皇家」が「財力・内蔵」を保証しない「名ばかりの権威の無い賜姓」を”「源氏」”として「仕来り」を替えました。
    「青木氏」は「皇親族」で、「源氏」は単なる「朝臣族」と成ります。

    この事は「日本書紀と新撰姓氏禄と三つの歴史書」に詳細に区分けて記載されています。
    その代わり、「詔勅」とは別に「嵯峨天皇」は「新撰姓氏禄」を発して「全ての族・910」を三段階に分け、更に、「上位の朝臣族」には「青木氏を最高として高位族・5氏」とし、「通常の上位の朝臣族・48氏」にして、その他の族と分けて、この「源氏の朝臣族」には「9つの縛り・掟」を命じました。
    ところが、全くこの「9つの縛り・掟」は全く護られなかったのです。
    この「9つの縛り・掟」を護ったのは他でもない「高位族五氏」の内の「伊勢青木氏・伊勢王」と「信濃青木氏・信濃王」の二氏でした。
    「11家の源氏・1221年滅ぶ」も「高位族の3氏・近江美濃甲斐・1192年滅ぶ」も護らず源氏化して「源氏」と共に滅びます。

    以後、平安末期までは「嵯峨天皇系の11代の天皇」に依ってこの「源氏の象徴仕来り・源氏」が引き継がれました。
    本来の「皇親族の賜姓青木氏・五家五流」に対しては、保護の為に詔勅に合わせて「禁令」を発して「青木氏の名乗り」とその「一切の習慣と類似習慣」をしては成らないとし全国民に対して発しました。
    原則、「明治3年・名字令」まで護られました。

    従って、我々、「桓武期までの青木氏」と「瀧埜氏」との間には、「伊賀青木氏等を含む伊勢青木氏族」とは、「施基皇子の四男の光仁天皇の裔」と、「長男と次男と三男と五男と六男の直裔」とは裔系が異なりました。
    そして、この子孫の半数が「伊勢青木氏」の「伊賀青木氏の子孫」の一部と成っていると云われています。
    この「瀧埜」の姓は、他に二か所に分布し、一つは「近江」で、もう一つは「関東・伊豆北部域の限られた一部」と成っています。

    この様に「瀧埜氏」とは「伊賀青木氏」の一部とその裔系の出自元は奈良期で系が合う事に成る可能性を持っている理窟と成ります。

    では、又、お便りください。


      [No.1161] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:青木 正明   投稿日:2020/05/10(Sun) 15:26:31  

    前回メールしました瀧埜貞良の戸籍の件で【屋敷とあるのは武家屋敷である】 とあるのは
    間違いでした。 明治戸籍は番地を屋敷と表記して多様で、私の推論は間違いでした。
    訂正させていただきます。


      [No.1160] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/19(Thu) 12:12:48  

    今日は。早速のお便り有難う御座いました。

    いえいえ、驚いたのは私の方ですよ。
    この様な過去の史実が、400年頃の後に突然に、又出て来ると云う事は稀な事で、由緒ある「青木氏の歴史」を研究している者としてはこの上ない喜びです。

    恐らくは、サイト本論の「伊賀の処」を論じた部分からお読みに成って、次第に他の論に入って行くと「伊賀の青木さんの事」が更にご理解が深まって行くものと考えます。
    例えば、「伝統シリーズ」の論の所に「検索メニュー」が有りますので、「伊賀の内容」で出て来ます。
    それに、この「伊賀」がどの様に絡んで行くのかを想像して行くと、「お家の御先祖の生き様」が具に見えてきます。
    その時は今回の様に「想像を膨らました事」への疑問等やご意見などをお便りくださればありがたい事で、筆者の知る限り情報を吐き出す事が出来ます。
    それが、また本サイトの目的です。

    ”この史実と今の青木家との明確な接点がありません。”・・・の御意見のお答えに成る事では無いかと思います。
    ここが欠けているからですね。当然の事かと思います。
    明治3年、又は8年以降は、社会の全ての「政治体制」が全く替わり、「家の格式等の伝統の事」が霧消した事も大きく影響している事でしょう。
    「お家の伊賀青木氏」を含む「伊勢青木氏の氏族」が源と成って広がった「二つの青木氏・秀郷流青木氏」のこれの「伝統の事」をロマンとして、サイトは後世に遺そうとしている所以でもあります。

    ”屋号【山上】と明神社の接点を見つけ出せるよう努力します”・・・のお話は、先ず、「神明社と云う事」を知る必要がありますね。
    サイトに、この「神明社」は、そもそも「奈良期の事」からの事ですので、大変に経緯を持っていて、その意味する処も大きいです。
    先ず、本サイトの検索から情報を集められて、その上で「神明社」を訪れると何か引き付けられるものが有りますよ。
    何せ、「伊勢青木氏の氏族」を構成する一族の「伊賀青木氏」です。
    歴史は奈良期に遡るのです。
    サイトから得られたお家の情報を後世に遺す事のロマンも良いのではと考えます。
    「伝統の形」は違いますが、人は過去に対する興味を持つ動物であると考えます。
    従って、「皇祖神の子神の祖先神」の「神明社」は、「皇位族の青木氏の守護神・国幣社」であった事が大きく関わっていると考えます。

    ご質問ですが、”(香具屋)という字は歴史書に”・・・と云う事ですが、「香具師か香具屋」で明確に記載されていますし、遺された「青木氏の資料」にもありますし、その「活動具合」も明確に遺されています。

    室町期では、「伊賀だけの活動」でしたが、従って、余り社会に知られていなかったのですが、前の説明で記述しましたが、江戸時代では「享保期の江戸の活動」で一変に有名に成りました。
    「甲賀との熾烈な競い合い」も歴史研究家の中では有名な事なのです。
    其の後、「伊賀の活動」のみならず、「享保期の活動」でも有名に成り、江戸中期以降は一般的な呼称に成りました。

    “明治時代の京都の戸籍の住所が仏具屋町(文字通り佛具の町)で東本願寺のすぐ前で油問屋 を営んでいたか疑問で、”・・・の件ですが、前述しました様に、「屋号」が「山上」とすれば「大津山上」が妥当な事かと思います。
    唯、明治期の移動定住は「自由の原則」にあり、お答えを導き出すには問題が有り無理だと思います。
    然し、唯、「檀家寺」が遠いと云う事には、生活上の問題が生まれますので、“檀家寺の近く”と云う事に成るでしょうし、「香具屋と云う事」に成れば、商売をする以上は「仏具屋町」と云う事にもなりますね。
    又、「油問屋」も「燭台の油と云う事」であれば、「仏具屋町」もあり得ますね。
    「真宗大谷派」であるとしても、室町期末期の「西の門徒潰しの戦い」では無い限りは、「東本願寺」は無いと思いますね。
    「大津山上」から西に9.5kに「東本願寺」、其処から同線上に0.5kの位置に「仏具屋町」があり、少し西に逸れて10kの位置に「厳龍寺・火縄銃」があるとすると、当時の「1日の動線距離」としては全て四里内にあり、「約2里」ですので、この距離は戸籍の云々の範囲内に充分にあります。
    明治の頃の当時は、「戸籍の在所」は「居住地と云う概念」では必ずしもなかったのです。
    江戸時代と異なり「移動」は自由で、大きく離れる事はありませんでしたが、“「所縁の地」”や『方位・方角」や「檀家寺の宗教」などにも左右されて全然違う処に戸籍位置を置く事もありました。

    況して、当時は大きいスペースを一か所に採る事は無く、商人とも成れば「店や住まい」とは異なる事も慣習としてあったのです。
    慣習が異なる社会なので「戸籍と云う事に拘る事」は間違いを起こします。
    大まかな判断には有効ですが、その前に「当時の慣習仕来り」を知る事です。
    それには、「江戸期の歴史観」と「室町期の歴史観」と「平安期の歴史観」と「奈良期の歴史観」が異なつていて、ルーツを正しく探る場合はこの「歴史観を把握する事」が必要なのです。
    それには本論をお読みいただける事が必要と成り、明治期以降はその意味で社会体制が異なりましたので、ルーツには何の意味も持ちません。
    何せ「青木氏一族」は「奈良期からの歴史」を持っているのです。
    その意味でこの歴史観から総合的に「大津山上」は納得できる位置でしょう。

    それには「江戸期末期頃」の「伊賀青木氏」の「香具師・香具屋」の「活動内容」に依るのではないかと思います。
    前述しました様に、「江戸末期の伊賀青木氏」は「伊勢」に於いて「殖産」に邁進していて、其れなのにお家が何故に「伊賀」に戻らずに「近江」でどの様な役割を果たしていたかの問題に成るのではと考えます。
    それには「近江」での「歴史の絡み」が「決めて」と成るでしょう。

    前述しました様に、「伊賀青木氏」は江戸期中期以降は、その「伊賀の役割・香具師・忍者組織」を生かして「伊勢屋の運搬業」にも従事していたのです。
    それ故に、お家は「伊賀」に戻らずに「近江の支店」として活躍をしていたと考えます。
    それは何故かと云うと、「伊勢屋」には「摂津にも大きな支店」を持っていたのです。
    そして、平安期と室町期に二度滅亡した「近江青木氏」を摂津域に匿い、「兵庫、京都域の商い」を大船三艘を持ち、また、「貿易」もして「青木一族」を統括していました。

    恐らくは、この事から考察すれば、「江戸期の近江」のお家は「伊勢屋の商いの拠点」と成っていた可能性が有ります。
    何故ならば、「日本海の物産」をこの「摂津」まで先ず運びする拠点が必要であったのです。
    そこには、日本海側に定住していた「信濃青木氏の裔系」の「鳥取の米子・八頭青木氏」が定住していたのです。
    又、「敦賀」にも「越前青木氏」が西に延びて「伊勢との深い関係・本論参照」を持っていましたので、「大津山上」は「琵琶湖」を通じて丁度よい位置関係にありました。
    約2時間程度で荷を運び込む事が出来る良い位置にあったのです。
    従って、「米子や越前との連携」には欠かす事の出来ない拠点と成り得ていたのです。
    要するに、此処との「中継点」が必要で、明治35年までこの関係が続いたとされていますし、瀬戸内水軍の「讃岐青木氏」が日本海と瀬戸内を繋いでいました。
    この関係も昭和20年まで続いていたのです。

    ですからこの関係からこの「近江」には現実に「拠点」が必要であった筈なのです。
    唯、この「近江」を誰が務めていたかは判っていなかったのです。
    この事は、「商記録」にもありますがそれが判らななかったのです。
    「近江」に“伊勢系の伊賀青木氏が存在していた”とは考えもつかなかったのです。
    考えれば、成るほどという事なのですが、「殖産の伊賀意識」が強かったのです。
    「伊賀の運搬業」と「日本海物産」と「敦賀青木氏(越前青木氏系)」と「米子青木氏」や「讃岐青木氏」を考え合わせれば、「近江の事」は正しく導き出せる筈なのですが、「摂津青木氏」が務めていたであろうと云う「固定観念」があった事が否定できません。
    その点でも上記した様に「歴史的な成り行き」が符号一致して驚いているのです。
    確かに、この「近江」や「京の皇居」に「献納品や殖産品」の一般の運搬も含めては行っていた事は資料より充分に判っていたのですが、「伊賀青木氏」が遺っていた事は驚きなのです。

    この「殖産の事」は本論でも詳しく論じていますが、「近江」に具体的に繋がる「青木氏の発見」でした。
    先ず間違いは無いと思います。

    ところが、「明治35年」に「松阪の伊勢屋本店」が「火元」で消失して「四家の福家」は財産を全てはたいて賠償し敢えて倒産させて、この「摂津」に本店を移しました。
    「伊勢松阪・伊賀含む」は米と酒と和紙の殖産のみとしたのです。
    この時は「伊賀青木氏」は運輸と和紙殖産に従事しました。

    恐らくは、お家はこの時期に、お便りの通りに通称油屋を閉店した可能性が有ります。

    お便りから、この様に「青木氏の事」が本論に説明されていますが、読み取る事が出来るのです。
    何せ、歴史は長い経緯を持つ「唯一の氏族の青木氏」である事をご理解ください。
    お便りに、全てをお答えするには物理的に問題が有りますので、本論をお読みに成りながらご質問にお答えして行くしかありません。

    では又、お便りを楽しみにお待ちしています。


      [No.1159] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:青木 正明   投稿日:2020/03/18(Wed) 19:19:30  

     今回の質問は今回頂いた書面を熟読すると愚問だったことにきずきました 。
    誠に申し訳ございません。
    大きな歴史を感じています。
      驚愕のあまり、なかなか眠れません。
    ただ、この史実と今の青木家との明確な接点がありません。
    屋号【山上】と明神社の接点を見つけ出せるよう努力します

      有難うございます。
    益々、興奮してきております。

    源流が伊賀にある事、疑問だった、交通の便が悪い明治時代に何故、離れた伊賀上野から
    嫁をもらった意味が解りました。父方と母方の曾祖父代の戸籍を取り寄せておりますので、新しい情報が得られ
    ましたら
    おしらせします。

    疑問1  お答えの文章の中で(香具屋)という字は歴史書に出ているのですか?
     
    また、 明治時代の京都の戸籍の住所が仏具屋町(文字通り佛具の町)で東本願寺のすぐ前で油問屋
    を営んでいたか疑問で、【山上】をキーワードに近江への繋がりを探訪します。
      
     なお、母方の住所は現在の伊賀市上野福居町にあたり、伊賀上野城のすぐちかくです。


      [No.1158] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/18(Wed) 11:03:12  

    早速の御返事有難う御座います。

    さて、御納得いただいた事は何よりです。
    筆者も先ず間違いは無いと考えています。

    先ず、次の「追伸」からご説明します。

    追伸1
    父は母方は藤堂高虎の家臣といっていました。
    又、記憶は定かでないのですが母方は藤堂家の側室に仕えていたと言っていたような気がします。

    追伸2
    京都の油問屋の屋号が分りました。
    屋号は【山上】です。

    大津市山上 清光寺に繋がりませんか?

    追伸3
    疑問2の母方の住所解決しました。Googleマップの検索ミスでした。
    阿山郡上野町は現在の伊賀市の伊賀上野でした

    追伸4
    疑問が二つほど発生しました。、
    1 祖父の戸籍から母方の住所がgoogle mapで調べると、三重県阿山郡上野町で伊賀上野でない
    伊賀上野の忍者は父の勘違いか?

    2、ご指摘の大津市山上町の清光寺は浄土宗です。
    是も父親の勘違いですか?
    それとも大津市の真宗大谷派の寺を検索したらよいですか?

    尚、私の作成した系図を送付したいのですが、添付ファイルではうまく送れません。
    FAX で送付したいのですが、FAXはありますか?

    先ず、お便り全て届いていますよ。
    個人情報等の方に触れるかどうかをチェツクするシステムがあり、一度、サイトで確認後に投稿欄に記載するシステムに成っています。
    そして、筆者の投稿の準備の時間がかかり遅れる事はあります。
    取り分け、お家の事を論じるには「歴史的背景」を理解する必要があり、それを纏める時間がかかっています。
    従って、少し遅れる事が起こりますので、御了承ください。

    「追伸1と2」は、これを御説明するには「下記の歴史的経緯」を知る必要があり、お家のルーツは明確に成ります。

    追伸3です。
    三重県阿山郡上野町で伊賀上野でない
    伊賀上野の忍者は父の勘違いか?

    以上の件ですが、追伸1と2で詳しく論じますが、「勘違い」では有りません。
    昔と現在の位置関係は何度も過去に違っています。
    昔の伊賀は戦国時代でその線引きは異なっていると同時に定住地はその勢力分布で跨る事は当たり前の事で、阿山郡の上野は伊賀の勢力域でしたので問題は在りません。
    次に、御父の勘違いの件は、下記でも論じますが間違っていません。
    伊賀域とその周辺は要するに伊賀なのです。
    そして、伊賀の者全ては要するに“何らかの忍者”なのであって、お家が考えている「忍者認識」は間違えています。
    要するに、「忍者」と呼称されるものには「多くの種類」で成り立っていたのです。
    テレビでも活躍する忍者姿もあれば「普通の人の忍者」もあるのです。
    当に、この事が「下記の論点」に成ります。
    お家が想像している「忍者」は、傾向として主に「甲賀忍者の事」でして、ここに「伊賀者と甲賀者」との根本的な違いがあったのです。
    この「考え方」が元で「伊賀」から分かれて「甲賀」に移動したのです。

    次に、追伸4の2です。
    指摘の大津市山上町の清光寺は浄土宗です。
    是も父親の勘違いですか?

    この件は下記で論じますが、「青木氏」はそもそも平安期より日本最古の「古代密教浄土宗」です。
    「青木氏」は、本来は「皇祖神の子神」の「祖先神の神明社の神道」です。
    「神明社」を「守護神」とした「皇親族の青木氏」です。
    この「青木氏」には、「五家五流の青木氏・近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」が先ずあって、960年頃にこの「青木氏の母方」であった「武蔵の藤原北家秀郷流青木氏」を「円融天皇」に依って賜姓され、「24地域の116氏」に広がります。

    ところが、「天皇」は、形式上は「浄土宗」を容認しましたが、「神道の天皇家」である為に帰依する事が出来ない事があって、その為にこの「皇親族の青木氏」に対して伝来時の「原理主義の古代密教浄土宗」の「伝統」を護る為に「継続」を命じたのです。

    ところが、平安期末期に「近江と美濃と甲斐」は「源氏化」して此の定められた皇族としての「縛り、掟」の「伝統」を護らず「平家」に名古屋で二度の戦いの末に潰され滅亡します。
    この本来の「原理主義的な伝統」を護った「天智天皇系の皇親族」の「伊勢と信濃の青木氏」はこの「清光寺」を護ったのです。

    ところが、「伊勢の青木氏の裔系の伊賀青木氏」は、この「清光寺の伝統」を護ったのですが、「江戸期初期に顕教令」が出され、「清光寺の密教性」を禁止され、「顕教の寺・庶民誰でもが信心できる共通の概念」として運営せざるを得なく成ったのです。

    そもそも「密教」とは、「青木氏」だけの「浄土概念」を持つ教えの事で、この「青木氏の氏族だけの教え」を禁止されたのです。
    そこで、やむなく、「本家筋・秘密裏に密教を護る」は別として、それに近かった「浄土真宗」に分家筋が入信したのです。

    その必要性は下記で論説しますが、従って、家紋から分家筋とみられるお家の「伊賀の青木氏」は、「真宗大谷派」をもお調べに成る事は必要なのです。
    「時代の時系列」が根本的に異なっていますので、矢張り、「お家の歴史」を知るのであれば、その前に先ずは本来の「清光寺」だと思います。
    でなければ以下のご説明の論の必要性が成り立ちません。

    つまり、大きく歴史にまたがつた経緯を持つご質問なので、「詳しい事」は下記に説明しますが、尚、詳しい事はサイトに論じていますのでお読みください。
    又、追伸のご質問も全てサイトに論じていますのでお読み下さい。
    ここでは概要をご説明します。

    先ずは「下記の説明」をお読みに成れば大まかに御理解できますよ。
    尚、FAXは個人情報で運営上有りません。

    更に投稿時下の所に「添付ファイル」のところが有りますので、一度、パソコンに登録した後、そこから添付してください。
    唯、個人情報に大きく関わる内容ですのでお勧めできません。
    確認したらすぐに削除する事に成ります。
    但し、現在の所では明治以後は政治体制が変わりましたので参考にはなりません。
    現在の明治維新までの「情報」を頂ける範囲で大筋は判りますよ。

    さて、本説論に入ります。

    実は、最初にお便りを頂いた時に、「香具屋の情報」と「二回目の享保期・戒名の情報」が100%史実に一致していた事なのです。
    これで大方は判りました。

    その前に追伸から説明に入りますので、今回は重要な「二つの情報」を頂きました。

    先ず、最初の追伸の件から。
    それは、「藤堂高虎」で室町期末期に活躍した武将ですが、多くの武将の家臣と成り、「寝返り」をして伸し上がった者です。
    遂には、「伊勢の津藩の初代藩主」と成り、「伊賀上野」に城を築き、「伊賀者」を支配下に治めた時期が有りました。

    従って、「側室に仕えていたと云う件」に付いては、「伊賀上野城」を造る以上は「伊賀者」を配下にするには充分に有り得る事かと当時の慣習から考えられます。
    唯、「伊賀者」は、「甲賀者」と違って「主従契約を拒んだ組織」です。
    これが基で「伊賀者の一部」が山一つ越えた「甲賀地域」に逃れて「甲賀忍者と成った組織」です。
    故に、「男子」では無く、「地元の伊賀の女子」が「側室の下働き」をする事は「当時の慣習」としては日常的に充分に有り得た事です。
    事例があって、この「慣習」に依って「伊賀の女子」が「信長の子供」を産み「妾」と成り、その事で「伊賀掟」を破った事で「甲賀」に逃れ、其の後、「信長死後」に「伊賀者」から狙われ襲われ「近江」に逃れたのです。
    これは有名な記録に遺る史実です。

    殆どは、「地元の娘」が藩に勤める慣習がありました。
    従って、「情報」としてはルーツに関わる物ではないでしょう。
    この慣習は江戸時代の大奥でも採用されていた仕来りです。
    全て「仕える下働き」は「家臣の娘」と云う事に成りませんでした。

    追伸の2
    「大津山上の清光寺の件」は、下記に論じる「青木氏のルーツの経緯」をお読み頂ければ納得されると思います。
    「清光寺」とは、つまり、そもそも「お寺と云う役目」は「仏」を祀るだけでは無く、「一族の者」が集まり「情報」を集め「衆義」し会う処でもありました。
    又、「一族の者」が使う「宿」でもあり、「食事」も得られる場所でもありました。
    その「菩提寺」を「運営する氏・青木氏」が財政的な裏付けで行われていたのです。
    これが字が示す通り「菩提寺」なのです。
    「顕教寺」は氏姓に依らず一般の大勢の信者の寄付によって賄われていた寺であり、その様な宗教概念を持った寺と云う事に成ります。
    従って、「清光寺」は「青木氏だけ宗教概念を持つの寺の事」で、要するに「密教の菩提寺」なのです。
    つまり、此処が「青木氏の活動の拠点」でもあったのです。

    当に、この「清光寺」が目的の通り「香具屋・忍者」では、「絶対に必要とする情報拠点」でした。
    敢えて、それを誇示して「香具屋・忍者」に「屋号・山上」で示したと考えられます。
    先ず、そうでなければ「香具屋・香具師」の組織は成り立つ事では無く間違いは無いと観られます。
    とすると、「清光寺」は、元より「お家」でもこの「拠点の役目」を果たしていた事が充分に考えられます。
    「伊賀青木氏」を確定するにこの上ない情報ですね。

    これが後に、「伊賀別れの甲賀者」は「幕府・徳川氏との主従契約」を結び「情報活動を主体とした組織」に成ります。
    ところが、この「考え方」を持たない「伊賀者」は、「主従契約」を結ばずに「甲賀」に対抗して、「紀州藩の情報活動」に「伊勢青木氏」を通じて参加し協力したのです。
    構図としては、互いに「伊賀者同士」が対抗して「情報活動」をし合ったのです。
    激しい争いであった事が史実として遺されています。
    唯、そこで「伊賀と甲賀」は「活動の仕方」が異なったのです。
    「紀州藩」は「幕府の動向」を、「幕府」は「紀州藩の動向」を探りあうと云う構図が出来上がったのです。
    初代藩主の家康から信頼されていた「頼宣」は、幕府から謀反の嫌疑をかけら潰そうとされますが、「伊賀青木氏」の「香具屋・香具師」を通じて「幕府の諜報活動」をしていた「甲賀者の殲滅」に動いて潰しました。
    「頼宣」はこれで救われると云う大事件が起こったのです。

    もう一つの「香具屋が絡む事件」として、この構図が、何故、起こったかと云う事ですが、「湯殿女」に産して生まれた「三男の吉宗・頼方」は兄の二人に危険に晒されたのです。
    そこで、「二代目の藩主」は、この「三男の吉宗・頼方」を「伊勢青木氏」に預けて隠し、「香具屋」に警護を依頼し「親代わり」を頼みます。
    これに「付き添い」として「身分の低い伊勢の加納氏」を密かに付けて面倒を看させたのです。
    これが後の「吉宗の御側用人の加納五郎左衛門」です。
    「加納家」は「伊勢の出自」で「伊勢」では「加納屋」と云う「商い」を「伊勢屋」と共に行い、青木氏とは深い血縁関係を結んでいます。
    筆者の「曾祖母」は「尾鷲」に居て「加納氏の長女の御勝殿」ですが、何代にも渡り血縁しています。

    「伊勢青木氏」には「伊賀青木氏」が「血縁族」として居て、彼らの配下の「伊賀者の組織・香具屋」に警護を委ねて護ります。
    これが「紀州藩との間接的な繋がり」と成っていました。
    これが何と明治初期まで続きました。

    そして、話を戻して、「香具師の伊賀者の経緯」に付いて。
    紀州藩の二人の兄と父親が三か月以内に全て死亡し、そこで優秀に育った吉宗を伊勢から帰し、「紀州の藩主」に押し出した「吉宗」を、今度は「将軍に仕立てる為」に「伊勢青木氏・伊勢屋」が幕府に金品を贈り働きかけて「将軍工作」をしました。
    結局、「吉宗」は「将軍」と成りますが、この時、「吉宗」が江戸に向かう時、「伊勢青木氏」は「親代わり」として同行し、「吉宗の経済対策の支援・享保の改革」を行う事に成ります。

    この「江戸動向・向行」に伴い道中も「伊賀青木氏の支配下にある伊賀者等」は、「伊勢青木氏の警護」をも担当し、「江戸の町」でも「伊勢青木氏」を「影」で警護したのです。
    これが「伊賀青木氏・香具師」です。

    さて、此処で「お家の先祖」が「青木氏」として出て来るのです。
    つまり、「影で護り情報を集める事」の為に、「伊賀青木氏の者等」は、「一つの姿」に身を替えたのです。
    それが、「香具師」、又は「香具屋」なのです。

    「薬や油や線香等の生活雑貨」の「露天商・出店」として「各地」から「情報」を集めて来て、「伊勢青木氏の伊勢屋」に集める仕事をしていたのです。
    当然に「甲賀者」に襲われない様に厳重な警護も影でしていました。
    この事は、室町期中期頃から始めていて、これが表に出たのが「吉宗の江戸・享保」でした。
    「伊賀者」は、「香具師」、又は「香具屋」と呼ばれて有名に成ったのです。
    歴史的には、「甲賀者」と比較して忍者ドラマでも描かれますが、この様に「伊賀者の実体」はもっと「広範囲な仕事」をしていたのです。
    余り知られていない事ですが、江戸では甲賀と伊賀が火花を散らしていたのです。
    取り分け、「伊賀青木氏」の「香具屋・香具師」は諜報活動を専門にした集団で、「甲賀」と戦う時は、「配下組織の伊賀者」が影で動いたのです。

    「室町期の紙文化」で獲得した「巨万の富・500万両」を下に、「青木氏の伊勢屋」は、江戸に「200店舗以上の伊勢屋店舗」を展開しました。
    中には、「質屋の伊勢屋」も営みましたが、これ等の情報を集める為にもこの「質の仕事」にも「伊賀青木氏の者」は「店主・店子」として務めました。
    ここから、「江戸伊勢屋」から「薬や油や線香等の生活雑貨」を受け取り「情報活動」をしていたのです。
    全国に散り情報を集め「江戸の伊勢屋」は「伊勢との連携」を執りながらこれを進めました。
    この各地の拠点が、「神明社の組織」であり、「清光寺の組織」であったのです。
    そして、「伊勢青木氏」は「江戸屋敷」を「吉宗」より二つ与えられており、「江戸の伊勢屋」の「伊勢青木氏」は、“「吉宗」に直接に意見を述べられる「立場」”の“「布衣の位」”を持っていました。
    この“「布衣の位」”は「大名」でも、「御三家程度の立場」しかいませんでした。
    その為にも、「香具屋・忍者」は、「紀州藩出の吉宗」には、密かに「江戸伊勢屋の青木氏」を通じて欠かせない「情報源」が絶対に必要で、「甲賀忍者」に翻弄されない態勢を造り上げていたのです。
    従って、江戸では火花が散る様に、「甲賀忍者」との駆け引きが起こっていたのです。
    この事は、つまり、「伊勢青木氏・伊勢屋」の「伊賀青木氏」に率いられた「香具屋・忍者」は公的にも有名な史実であったのです。

    其の後、「江戸の青木氏・江戸の伊勢屋」と「吉宗との間」で「大事件・1769年」が起こったのです。
    それは、「同族」であった「信濃青木氏の領地・新聖地」を「吉宗」は強引に奪ったのです。
    「幕府財政の立て直し」の為に「殖産」で「利益」を上げていた「信濃青木氏の信濃佐久地域」に、「四つの新藩」を造り、それを与えて財源を造り上げようとしたのです。
    「甲賀忍者」に依って「情報」を抑えられていたこの「裏切り行為」を、「伊勢の伊賀青木氏」の「香具屋・忍者」は、「江戸の青木氏の江戸の伊勢屋」に事前に詳しく持ち込んだのです。

    「吉宗」に確かめる事は危険と察知したのです。
    「吉宗の親代わり」だった「伊勢青木氏・伊勢屋」に対しての「裏切り行為」が発覚し、これが「表向き」に成って「吉宗の圧力」が掛からない内に「1769年」に一切の財産を「店子」に無償で渡して、数日で「香具屋・忍者の警護」で伊勢に帰ったのです。
    この時、「店子」には「伊賀」の「香具屋・忍者」が務めていたと記されているのです。

    (注釈 上記の経緯から、実は、現在も東京には「伊賀青木氏・香具屋・忍者」が存在していると観ていたのです。
    数件の伊賀青木さんと観られるお家が見つかっています。
    又、勿論、「伊勢」の「伊賀」か、その近隣にもこの「伊賀」の「香具屋・忍者の青木さん」の御子孫が存在しているとして研究していました。
    「伊賀」には殖産で関わっていまでも定住されている事は判っていますが、歴史的に関連する各地では未だ見つかっていませんでした。
    当然にお家の近江・滋賀もです。)

    さて、其の後、「伊勢」に「吉宗の圧力」は陰日向で掛かり、“「香具屋・忍者」”は「甲賀忍者」と戦い、これを護り通したのです。
    結局は、「信濃青木氏の聖地」は何と1/4と成り、現在の「信濃の青木村」の広さと成ったのです。

    この事は「伊勢と信濃」に執って有名な史実なのです。
    つまり、「香具屋・忍者、即ち、伊賀青木氏」に依って救われたのです。
    これは、「享保期の香具屋・忍者」の欠かせない史実としての「伊賀青木氏の活躍」の歴史なのです。

    此処で、これが「お家の事」に繋がるのです。
    ところが、「香具屋・忍者」が活躍したもう一つの歴史的な「有名な事件」が「近江」で起こっていたのです。

    それが、次の事件です。
    「室町期末期・1543年」に「火縄銃」が種子島に入ります。
    そして、其れよりかなり前に、既に「伊勢屋の貿易」で入手した新しい欧州で開発された「銃の見本」を「伊勢青木氏」は入手し、皇位族として武力の持てない立場であった為に、戦国の世を生き残るために、これを「青木氏の抑止力」にする為に、試作して改良して堺で密かに作ろうとしていました。
    また、木曽の山に逃げ込んでいた美濃の青木氏を救う戦略として、そして、それを生き残った「美濃の伊勢の裔系の額田青木氏」に渡して「戦国の乱世」を「国衆」として生き抜かせようとしました。

    そこで、「堺・伊勢屋の支店・摂津」で先ず作り始め、それを「近江と日野」でも部品を造らせて組み立てていました。
    ところが、「種子島」から入った「火縄銃」を直接島に渡り、学んだ後に「紀州の雑賀衆と根来衆」が独自に「火縄銃」を作り始めたのです。
    そして、これが「近江と日野」でも密かに「火縄銃」が造られる様に成ったのです。
    そして、この「近江・日野の銃」が「掟」に従わず「高額・1000両〜2000両」で各地の大名に密かに売り渡していたのです。
    これの情報が「香具師・香具屋」によってもたらされました。

    慌てた「伊勢青木氏」は、この「火縄銃」が世間に多く渡れば、“国は乱れ「殺戮の世界」が生まれる”として「伊勢青木氏」は危惧していました。

    そこで、全国を情報収集していた「伊賀青木氏」の「香具屋・忍者・伊賀青木氏」から得た詳細な情報で「掟を破った事」を知ります。
    「堺」は「組合」を通じて、「近江・日野」に「資材や財源」の供給していたのですが、対策としてこれを停止しますが未だ続きます。
    そこで、これを何とか抑え込もうとして、武力の持たない「組合の差配頭の伊勢青木氏」は、大勢の「香具屋・忍者・伊賀青木氏」を近江に送り込んで抑え込もうとしました。
    そして、次第に秘密裏に各地から流れる資材などを探り抑え込みに成功します。
    結果、真面目に働いていた殆どの「近江鍛冶職人」は「香具屋・忍者」に誘導され保護されて「伊勢」に逃れてきます。
    そして、これらの「職人」は「伊勢の殖産」に従事する事に成ったのです。

    中でも「伊賀」では、「伊勢青木氏」の主家と共に「伊賀青木氏」が中心に成って「綿花の織物などの殖産」や「和紙の殖産」等を手掛けていて、「近江の職人」の彼等をこの為の「機械」を造る様にさせたのです。

    実は、「織機や水車や和紙機」などの「機械を造る職人」の事を古来から「服部・はっとりべ」と云うのです。
    これが「伊賀の服部」さんです。
    その裔が、「伊賀忍者・香具屋」で有名な「服部半蔵の香具屋と機械造りと忍者の家筋」の小頭でした。
    これらが、「伊勢青木氏の青木氏部」の「伊賀青木氏の差配頭・大頭」に所属していました。

    「青木氏部」とは「奈良期から青木氏に所属する職人集団の事」です。
    「伊勢青木氏」は、奈良期から「守護神の神明社・500社と清光寺」を独自に持つ為に「宮大工や全ゆる職人」を大勢抱えていて、これを差配するのが「升目紋の家人の青木氏」です。
    その「家人の一人の差配頭」が「伊賀青木氏」なのです。

    室町期に「信長」に「伊賀」が攻められる「前・1578年(1581年)」には、「伊賀原士は18士、又は21士」も居ました。
    ところが、この内の「下山氏等三士の原士」が「裏切り」をして「織田方」に情報が洩れ、この事が事前に、結局、「香具屋・忍者」から齎された情報でありました。
    慌てた「伊賀青木氏と伊勢青木氏の「郷士衆全員・50衆」は軍を、編成して「総攻撃の前夜」に「名張の清蓮寺館・青木氏の平城」より「伊勢青木氏」が、「伊賀青木氏等」の「伊勢シンジケート」を使って「伊賀青木氏等の配下の仲間」を「伊賀城」から救い出したのです。
    結局は救出できたのは「11士」でした。
    名張城で密かに匿います。
    この「11氏の原士・郷士」が「伊賀青木氏の支配下」にあったのです。
    残りの「1〜3氏」は打ち取られたとされていて、他は全国に散っていた者を「香具屋・忍者」は各地を廻って呼び寄せます。

    そして、「1581年の戦い」には、「11士」の「香具屋・忍者系の組織」は参加せず、今度は、「伊賀青木氏」の許で生きて活躍する事に成ったのです。
    歴史的に残る大きな史実では、「江戸初期の殖産の活躍」と、「享保期の活躍」と、伊勢に戻った時の「甲賀との活躍」と、「室町末期の近江の活躍」と、「信長との戦いの活躍」があります。

    其の後、享保期以後、「伊勢青木氏の殖産」を中心に活躍し、その各地に配置していた「香具屋・忍者・伊賀青木氏」の「情報集め」にも大いに活躍します。
    中には殖産物を摂津に警護しながら「運搬」もした事が書かれています。
    要するに、お家の「伊賀青木氏」は「香具屋」を務め、「伊賀の郷」では「服部等」を差配下にした「差配頭・家人・氏人」なのです。

    この上記の史実から、導かれる事は、お家の父方の「香具屋・忍者」は、そもそも「享保期の活躍」からも本筋の「伊賀青木氏・家人」で、同時に「祖母方の青木氏」も「伊賀青木氏の一族系列・11士」の「青木氏」であった事を意味します。

    それが、「近江」での「火縄銃の事件」で配置された「青木氏の縁」で再び血縁した事に成ります。
    「二つの伊賀青木氏」が「近江」で血縁出来ていた事は、情報として未だ伊勢青木氏の郷士衆の中では知られていた事を物語ります。
    「伊賀青木氏」は「伊勢青木氏の氏族」の「伊勢衆の氏人衆」の「氏人衆・伊勢衆50衆」の一つです。
    「伊賀衆11士」を支配下に置いた「伊賀青木氏」なのです。
    これで「青木氏と云う氏族」を奈良期から形成していた朝廷が唯一認める「正規の氏族」で、現在に遺った「唯一の諡号の氏族・正規」です。
    「伊勢と信濃の青木氏」以外に「正規の氏族」は現在ありません。

    実は、筆者は初回のお便りで驚いたのです。
    筆者とは、「伊勢青木氏の裔系」として「親族のお家」が「近江」に「お住まいであった事」に成りますので、驚きました。
    「香具屋・忍者・伊賀青木氏」が、矢張り「近江」に居りましたか。
    「享保期の事」が蘇る様でした。

    「近江の清光寺の件」は「浄土宗」で良いのです。
    元は、そもそも、「祖先神の神明社」を守護神とする「神道族」で、更に、平安期で「密教浄土宗」であった事に成り、恐らくは、「近江」に入った時か、「江戸初期の顕教令」かで、「隠れ蓑」として「武士の真宗大谷派」に入信した事が考えられます。
    恐らくは、「近江」であると考えます。
    「香具屋・忍者」の「商い」であった以上は、表向きには「浄土宗」はあり得ません。

    「三つの清光寺」ですが、「甲賀の所縁」から「甲賀にある清光寺」かと推理していましたが、「屋号の山上」から「大津山上の清光寺」と成りますね。
    これで納得できますが、「甲賀青木氏」を除く他の一つは、滅亡した「元近江青木氏三氏」の「清光寺の浄土宗」で滅亡した「近江青木氏の菩提寺」でした。
    「近江青木氏の支流傍系」が「摂津支店の援護」を受けて摂津に定住しまして子孫を増やしました。

    何故、お家が「近江」なのかと云う事ですが、上記の事と合わせて。次の事で証明できるのです。
    「大津山上の清光寺」は、「真西10kの所」に「厳龍寺」と云う寺が有りますが、これが上記した「近江銃」、即ち、「厳龍寺銃」と呼ばれる「火縄銃の生産根拠地」でした。
    つまり、故に「お家の浄土宗の清光寺」は「大津の山上」が正しいのです。
    近くに居て監視し「情報」を集めていた事を物語っています。

    「神明社」は全ての「青木氏の守護神」です。
    「清光寺以上」に「情報の拠点」でした。


    詳しくは、これ等の事は全て研究室に論じていますのでお読み頂けると、上記の詳しい事が判ります。
    ヤフーが認める段突の膨大な資料で、他にないとの事です。
    「伊賀の事」も広範囲に詳しく論じています。ゆっくりとお読みください。
    青木氏に関わらず「歴史マニア」にきっと成りますよ。

    長い御説明でしたがご質問が有りましたらお便りください。
    サイトをお読みに成ってわからないときはお尋ねください。

    長い御説明でしたが


      [No.1157] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:青木 正明   投稿日:2020/03/15(Sun) 20:21:05  

    ご返事ありがとうございます。
    益々、ワクワクしてきます。
     
    武士で商人であった先祖は京都で油問屋を営んでいたこと【日足】が蝋燭の紋と油が繋がり
    納得できます。母方の【抱き角】と父方の【日足】を組み合わせ抱き角の副紋となったことも納得できる。


    追伸 父は母方は藤堂高虎の家臣といっていました。
    又、記憶は定かでないのですが母方は藤堂家の側室に仕えていたと言っていたような気がします。

    追伸
     京都の油問屋の屋号が分りました。
     屋号は【山上】です。

     大津市山上 清光寺に繋がりませんか?

    3月は多忙なのですが4月に入れば 三つの清光寺の探訪と明治維新戸籍簿の調査を致します。


      [No.1156] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/15(Sun) 08:24:17  

    近江の青木さん 今日は。
    早速のお便り有難う御座います。

    お便りの情報は個人情報に関わる内容ですので一部を削除させて頂きました。
    ご了承ください。

    この度のお便りの情報で、判る事が沢山出てきました。

    先ず、「商人」で在り乍らも、「享保期」に戒名を持つ事は先ず普通の商人ではあり得ません。
    江戸期の仕来り掟がそう成っていました。

    つまり、元は武士であった事で無ければ、享保期、戒名、堀家等の姓を持つ事は、士農工商の身分制度許の中では許されていませんでした。
    ハッキリと「武士」であって「商人」を営んでいた事に成ります。
    故に、戒名を遺す事、菩提寺並みの檀家寺であった事に成ります。

    そして、これを更に証明する事として、戒名が「釈」を使っている事に有ります。
    この戒名の付け方は浄土真宗の付け方です。
    浄土真宗は武士か郷士か庄屋や豪農や名主等の武士並みの格式を有する者が主に入信する宗派でした。
    中に農民庶民であってもそれなりの扱いを受けた家筋を持つ者が帰依筋としていました。

    更に、「浄土真宗」ではこの戒名は最高格式の戒名ではありませんが、普通の格式での戒名で、庶民は俗名を戒名としていたのです。
    従って、先ず「戒名」を持ち、享保期では俗名外に「敬眞」の格式名が着けられている事はそこそこの立場を有していた事に成ります。

    享保期には「商人」や「名主」で在り乍らも「武家」を未だ持つ、つまり「姓・青木」を持つ家筋をはっきりさせていた事を意味します。
    これは「堀家」と云う姓を持つ事の繋がりを持つていた事でも証明できます。

    その後、普通に使われる浄土真宗で使われる「浄の戒名の字」が宛がわれていますので、少し格式が下がった事に成ります。

    上記の武士などの格式が時代の変化に伴い家柄を示す伝統が忘れ去られて行った事を意味します。
    文化期には、格式が「普通の商人」に切り替わった家筋と成っていたのでしよう。
    然し、依然として戒名は持ち続けていますので、元は「武士の出」の言い伝えが密かにあったのでしょう。

    そして、明治期3年か8年に成り、「所縁」により「青木氏」を再び呼び興したのでしょう。
    その「所縁」が祖母方の伊賀かは確定は出来ませんが、「所縁」の示す「家紋」からはお家の結び付く情報は今の所は「抱き角の日足の副紋の家紋」と成ります。
    これが、「明治3年」の「誉・・・善」の祖母の戒名に表れています。
    これには「宗派性」が無く、「伊賀者の原士の慣習」に良く使われた戒名です。
    「祖母の系」は宗派に関わらない原士の様な系の戒名的な物です。
    「現世と彼世の概念」の無い「神道」もこの様な名を使うのです。
    「四つの世代」に分けて男女に分けての「神に導かれる概念」が強いのです。
    「原士」もこの概念に導かれたのです。
    宗派によってその宗教観から「戒名」にその特徴を持たしています。

    「浄土真宗」は浄土宗より分かれ庶民に焦点を合わせて「親鸞」が新たに「宗教観」を創立したもので、大まかには「武士階級」と「庶民階級」に分けられ、お家は「商人」で在り乍ら「武士階級」に分けられた宗派と成ります。
    これが、江戸末期に顕在化して、「明治維新」にこの「揉め事」を解決する為に「武士階級の浄土真宗」を「真宗」と改名して分けたのです。
    これが現在では、「西と東の派」とよばれているのです。
    「西本願寺」と「東本願寺」の事です。
    お便りは、「浄土真宗大谷派」と記述していますが、正しくは「真宗大谷派」です。
    この真宗はその後に「9つの派」に分かれますが。大谷派が本流です。
    お家はこの「真宗」の「東本願寺派」に成りますので、「伊賀の青木氏の血筋」も持つ間違いの無い「近江の青木氏」であった事に成ります。

    従って、滋賀には過去には次の「青木氏の菩提寺・清光寺」が有ります。
    お家も祖母方も武士であった事に成りますので、次の清光寺をお尋ねください。

    大津市山上町
    甲賀市信楽町
    京都市左京区

    此処の三つの内の一つに遠いご先祖が祭られている筈ですのでお尋ねに成る事をお勧めします。
    「伊賀青木氏」から分かれた「甲賀の御寺・青木氏の清光寺」かと考えます。

    「大津の山上」と成ると少し意味が違ってきます。
    又、京都市と成れば更に意味が違います。
    当然に、甲賀に成れば推論が進みます。

    武士であった事の出自が違就て来る事に成ります。

    尚、参考に、
    滋賀県多賀町大字 神明社
    長浜市宮部     神明社
    長浜勝町      神明社
    東近江市三津屋町 神明社

    これが江戸期直前まで「青木氏の守護神」でありました。  
    此処も訪れる価値はあります。

    これを更に超える情報が次の作業かと考えられます。

    先ず元は「武士・郷氏」であつた事からは外れる事は最早ありませんので、この家紋の「時、場所、人」の要素でお調べに成る事でしょう。

    必ず、郷土史等の記録に何処かに遺されている筈です。
    筆者も更に伊賀の中での情報を調べてみます。 


      [No.1155] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:青木 正明   投稿日:2020/03/14(Sat) 22:59:30  

    色々、ありがとうございます。
    五里霧中から光がみえてきました。

    過去帳から
     文化6年  釋浄栄   俗名 新兵衛 (青木家先祖)
     安政6年  釋浄教   俗名 新五郎 (新五郎 父)
     享保20年 釋敬眞   俗名 半兵衛 (堀家先祖)
     明治3年  霊誉澚善  俗名 ひさ   (新五郎妻 春ノ母)
     ・・・
     ・・・


     父は浄土真宗大谷派と言ってた
     信玄袋の中に封筒の端切れに安楽寺幼稚園の文字があり、小生 
     安楽寺を訪ねたが寺の過去帳には青木家はなかった。

     以上、解る限りの情報です。


     
     


      [No.1154] Re:福井県の青木家
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/11(Wed) 07:58:54  

    福井の青木さん 今日は。
    ようこそ、「青木氏氏サイト」にお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。

    さて、お尋ねですが、その前に概要の経緯を先に述べます。

    サイトにも論じています通り、「福井」は越前を中心に越後境にも定住していました。
    ここは、元来の「青木氏の定住地」ではなく、奈良期に「皇位族」より臣下した「五家五流の賜姓青木氏(近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域)」が住んでいまして、「源平争いと戦乱と下克上」で、考え方の違いで「二つ」に分かれました。
    そして、「近江と美濃と甲斐」は源氏に味方して「滅亡の憂き目」を受けます。
    遺った「伊勢と信濃の青木氏」は、”「質」”と云う組織を立ち上げ、これを立場が「皇位賜姓族・賜姓五役」であった為に、「青木氏の守護神」の「神明社」で運営します。
    この「神明社」は「天皇家の皇祖神の子神」として全国に「500弱の社」を建立してました。
    この組織に「伊勢と信濃」は「一つの役目」を与えます。
    これに滅亡して各地に散った「青木氏族」を救う為に集めてこの「神明社組織」を使ったのです。
    それは、戦乱で追われた「各地の一族」を「各地の神明社」が先ず寄せ集めて、それを「越前の神明社」の一か所に更に集めて、「伊勢と信濃」が「経済的支援」をして護ります。

    「伊勢と信濃」は、天皇から命じられて「和紙の開発」とそれに「関連する諸具」を開発して、朝廷の名で「余剰品の販売」を一手に引き受けたのです。
    これが「紙屋院」の称号であって日本で初めての「商社」と成ります。
    その事によって「膨大な利益」を獲得し、それを「神明社の経営」などに注ぎ込み残りを「献納」として「利権益」を朝廷に納めていたのです。

    従って、ここには主に「近江、美濃、信濃・諏訪」から逃亡してきた「青木氏」と、それを支援する「神明社」を運営する「伊勢や信濃」の「青木氏の神職族」が平安期末期から次々と定住する事に成ったのです。

    この「質」とは、本来は「現在の質・質屋」の意味ではなく、「中国の仏教」で生まれた定期的に行われる「救済行事」で、飢餓に苦しむ者等に食事を与え、職を与えて救済していたのです。
    これを日本にも取り入れて、それを「伊勢と信濃」が「神明社・柏紋の青木氏」にやらしたのです。

    そして、「越前の福井」がこの拠点だったのです。
    この時、「神明社」で匿った「青木氏」に、「土地の利」を生かして「無償の資金」を出して「酒造業」を中心に先ずやらせます。
    これが成功して、この「神明社」から一人達する者には、この「酒造業に関わる職業」に従事させ、「一連のマニファクチュウア組織」を形成させたのです。

    これが、大成功を治め、「伊勢と信濃」はこの酒等を販売する役割を担ったのです。
    「伊勢」は、上記した様に奈良期から「紙屋院・伊勢屋」と云う「称号」を「天皇」から特別に得て「皇位族」で在り乍らも「商い」が出来る立場を特別に獲得していたのです。
    これが「日本の最初の商い」となり、先ず、「和紙の開発や硯、墨などの開発」に成功して「巨万の富」を得て、925年に、そして1025年には総合商の「貿易商」を営みます。
    この利益の一部は朝廷に「献納金」として納められ、「皇位族としての令外官」として勤めます。

    江戸期直前まで、この「財力」を以て「越前福井」で一族子孫繁栄のために「質」を営み、主に酒造業を継続し、その繁栄で越後までこれが広がります。

    概要は上記の通りの経緯を持っています。
    従って、「福井・越前」には「近江、美濃、伊勢、信濃」の「賜姓青木氏」が存在し、当時の婚姻の「慣習・四掟制度」で、これらの「皇位融合族」が住んでいた事に成ります。

    この「青木氏」は「嵯峨天皇の勅令・伊勢青木氏の出自元」で「青木氏」を「五家五流の青木氏」以外は名乗っては成らないと「詔勅と禁令」を発し、その「慣習仕来り掟」も使っては成らないと禁止されました。
    この禁令は明治3年まで護られました。

    上記の経緯で、この「福井越前の青木氏」は、間違いなく「近江、美濃、伊勢、信濃」の「融合族」である事には間違いは無く、恐らくはどの「青木氏」かは分別する事は出来無いと考えます。

    お答えは、「1の青木氏である事」には間違いはありません。
    何処かで血筋が繋がっています。
    それも、「皇位族」に課せられた掟の「四掟制度」で一族内で婚姻する事に成りますので、結果として長い時間の中では「一つの青木氏融合族」なのです。

    ところが、2はちょつと経緯が異なっています。
    「青木氏」には、もう一つの「円融天皇」により賜姓された「藤原秀郷流青木氏」と云う氏族があり、この族は「伊勢と信濃の青木氏の母方族」で、元から「女系で繋がる血縁族」です。
    「武蔵」に本拠地を置き、全国24地域に116氏の一族が分布しています。
    その中の一つの「越後の秀郷流青木氏」です。

    藤原秀郷とは平の将門の乱を沈めた有名な人物です。
    この子供の「三男の千國」がこのこの初代の青木氏を名乗ります。
    永嶋氏や長沼氏や長谷川氏や進藤氏は臣籍族で「青木一族」と呼ばれます。

    実は、この越後の「秀郷流青木氏」を頼って、「信濃青木氏」の系列の「諏訪族青木氏の三氏」が武田氏の家臣と成り、「長篠の戦い」で敗退し、この「秀郷流青木氏」を頼って神奈川と栃木に逃げてきます。
    この「諏訪族青木氏」の一部が、更に「越後の秀郷流青木氏」を頼って更に逃亡したのです。
    これ等の「秀郷流青木氏」と「諏訪族青木氏」は更に血縁し、「酒造業一族」が「絆」で結束して「越前の助け」を受けて始めて成功します。

    「青木氏の記録」や多くの記録に遺る様に、関ヶ原の敗戦で室町の大名であった「青木一矩・八万石」や「青木忠元・四万石」等の多くの一族を含め逃げ延びて、融合し、この「越前の融合族」が越後境に伸び、越後も越前境に伸びて行きます。
    そして、この二つは「四掟制度」で更に融合したのです。

    お家は、「1の青木氏系の融合族」です。
    そして、間接的に「2の青木氏とも血縁族」なのです。

    但し、「前田家の家臣と成った青木氏」は、「越後の大郷氏」であった「秀郷流青木氏」の一部が「酒造業」で富を得て、その経緯より「前田家の戦略(地元の勢力を固める為)」で「家臣と成つた事」は知られています。
    多くは、「大庄屋・郷氏」です。

    来場記帳の件に付いては、当時、江戸期の商人の多くは元は武士か郷士が殆どで、従って、明治維新では、「身分」として書き込まれるところは「商人・平民」と書き込まれます。
    「武士の場合」は「士分」として記入されます。

    ところが、「平民」と記入されても江戸期末期までは「商人」で在り乍らも姓も持ち、且つ、死んだときの「戒名」は「武士の戒名」が着けられ、「大きな郷士や郷氏」であれば「特定の先祖の寺(菩提寺・檀家寺)」を持っていたのです。
    「庄屋」は、殆どは、「武士」の一段上の格式を持つ「郷氏・大きな土豪」で大きな「土地の地権者」でもあったのです。
    「農民。庶民」には、上記の戒名や寺や庄屋などに成るこの慣習を認められていませんでした。

    お家は維新時には既に、この慣習の中で持っていた事に成ります。
    「戒名」の詳しい名が判りませんが、「庄屋」などを務めたとしている「武士出の商人」であったとすれば、「院殿居士」の着いた「格式のある戒名」が出来た筈です。
    そして、それには「通名」を読み込んでいる「戒名」に成ります。
    その「戒名」で宗派も家柄も族性も判るのです。
    「武士」でない「戒名」としていますが、「明治期の戒名」より江戸期の少なくとも享保期位まで遡った戒名が確実です。

    江戸期は「密教」は無く、全て「顕教」に統一されましたので、「菩提寺」は無く、且つ、氏族で無ければ「菩提寺」は持てませんし、大名並みの相当な財力で無ければ許されませんでした。
    「顕教寺」ですよ。
    「庄屋や商人」であれば尚の事です。
    「全青木氏」は、奈良期から平安期中頃までは元より「越前の青木」は「神明社の神道」が多いのです。
    その後、平安期初期頃に朝廷より「皇親族」として「菩提寺」も持つ事を許されて五家五流の定住地に「清光寺」として各地に創建しています。
    従って、平安期初期からの「越前の全青木さんの菩提寺」は、この「鯖江の清光寺」と成り、現在の「鯖江市本町三丁目にある寺」が「菩提寺」と成ります。
    これがお家らの昔のご先祖の「菩提寺」なのです。
    現在は、江戸期の「顕教令で密教」では無く成り、「顕教の檀家寺」と成っています。

    尚、「越前」の「青木氏の守護神・神道」は、次の所にありますので清光寺と共にお尋ねに成ると良いでしょう。
    現在名 「質」を行っていた神明社
    1 坂井市三国
    2 敦賀市松島
    3 鯖江市新町
    4 池田町松ケ谷
    5 越前町小曽原

    以上です。

    此処がご先祖たちを導いた「神明社」の在った所です。
    「清光寺」や「神明社」がお家の「ルーツの源元」と成つた所です。

    次に家紋ですが。この「家紋」とするのが、「丸に木瓜紋」は江戸期からの家紋とされるものでしょうか。
    庶民は明治期以降で無ければ家紋を持つ事は許されず在りません。
    この「木瓜紋類」は、そもそも「青木氏族」には余りない家紋類なので、これを先ず確認する必要があります。

    更に、寺の宗派は「天台宗」としていますが、何時の時に入信されたのかが問題です。
    それは江戸期の戒名を追い一番古い人の戒名から確定されます。
    何故ならば、青木氏族の裔系は、原則、「密教浄土宗の白旗派・原理主義」でした。
    室町幕は、法然の浄土宗の中の14派の中でも「極小派の白旗派」を「浄土宗の本筋」として決め、これを「知恩院派」として認定したのです。
    この「皇位族の清光寺」の「白旗派の貫主の青木氏」を「律宗族」と定め特別に擁護しました。
    従って、越前では「鯖江の清光寺」の「浄土宗」で統一されている筈です。

    恐らくは、江戸期の「250年間の間」に、この伝統を失った「何らかの事」が興り、天台宗に帰依した事に成ります。
    天台宗は平安期の初期では「密教」でしたが、平安期中期頃から「顕教の姿勢」も取り、これが宗の中の派によっても強弱が異なります。
    お家の派は顕教性が強くした派です。

    普通は伝統は捨てませんが、多分、武士や郷士の立場を捨て、「酒造の商い」に邁進した事に成りますね。
    上記の「越前の青木氏」との「伝統慣習仕来り掟」の違いがあるので、「越前の酒造業」を続ける中で、「一族との立場を変える事」が興ったのではないかと考えます。
    ルーツの唯一の密教菩提寺の「鯖江の清光寺」が全く忘れ去られている事が気に成りますし、更に「神明社の伝統」も失われていますね。

    「越前」には江戸期に幾つかあった村は消えましたが、未だ「沢山の青木氏」が定住していますが、少ないとしているのは江戸期に「言い伝え」などのこの「繋がり」が切れている事に成ります。
    この事が明治期まで引き継がれ、「明治期の入信」と成ったのではと考えられます。
    「村」も消えている事ですので、その原因は「繋がり」が薄く認識され「融合族と云う宿命」であった可能性が有ります
    従って、「明治期の宗派」は「ルーツ」には関係が有りません。

    兎も角も、上記の通りで、「越前青木氏」は「融合族」で有りますので、「完全な系譜」を造り上げる事や「系列を追い求める事」は難しかと思います。
    実は、「越前青木氏」には「神明社の神道の家筋の人」が多かったのです。

    「越前の青木氏」は、上記の「四掟制度・ある一定の身分格式の中で血縁する掟」により過去に於いては“「融合族」”で、何れにしても間接的には「青木氏一族」です。
    尚、サイトでは「個人の系譜の特定」は個人情報を公的に公開する事に成りますので出来ません。

    詳しい内容はサイトの論文をお読みください。
    尚、質問や判らないときは遠慮なくお尋ね頂きご先祖のルーツの経緯を深めて行ってください。
    では、お便りをお待ちしています。

    お便りの仕方は、この「ご自分の専用欄」の下に投稿欄が有ります。
    この投稿欄にお便りをお書き成り、前の文章を削除して、お名前の所に「福井の青木家」を、”あおきさん”と合言葉を書き、タイトルをお書きになり、下の削除キーと指定ナンバーを小文字で書き、投稿キーをクリックオンすると出来ます。


      [No.1153] Re:ご先祖の探求 近江青木さん
         投稿者:副管理人   投稿日:2020/03/09(Mon) 12:22:24  

    ようこそ青木氏氏サイトにお越し頂きました。
    これからも宜しくお願いします。

    サイトには膨大な青木さんに関する情報が入っています。
    それを先ずゆっくりとお読みください。

    さて、お尋ねですが、お便りから推測する範囲では次の経緯が成り立ちます。
    近江には、奈良期より「近江青木氏の三氏」が定住していました。
    この「青木氏」は「賜姓近江青木氏と近江佐々木氏系青木氏と佐々木氏系青木氏」の三氏です。
    ところが、この三氏系は何れも「皇位臣下族」で、同じく「皇位臣下族佐々木氏・川島の皇子・天智天皇の皇子」と血縁をして発祥します。
    同じ伊勢の「施基皇子の賜姓臣下族の青木氏」とは血筋を有する一族でした。
    ところが、源平戦でこの「近江一族三氏」は二つの戦いで滅亡します。

    ところが、滅亡した「支流末裔の近江青木氏」が「滋賀・琵琶湖東」でその後に子孫を増やしますが、これも再び室町期の戦乱で滅亡します。
    僅かに遺された「支流族近江青木氏」が近江西に戻ったのです。
    ところが、これも戦乱で支流族を伊勢の「伊賀の上田郷の出身の盗賊」に乗っ取られて秀吉の面前で決着を着ける為に「戦い」を挑みますが、これまた敗退し潰されてしまいます。

    この傍系の分家の跡目を無くした家を乗っ取った「上田郷の盗賊」はこの「青木氏」を名乗ったのです。
    この「上田の青木氏」も江戸期には内紛で潰れて滋賀より江戸と下総に移動します。

    次に、明治3年に苗字の持たない国民9割に苗字を持つ事を命じますが、進みませんでした。
    止む無く、維新政府は明治8年に督促令を発して絶対命令を発します。
    そして、「青木氏」に”「所縁」”のあった農民・庶民にその「青木氏」を一夜のうちに名乗る事を一郷の民に命じたのです。


    さて、ここで、上記の経緯で「明治期以降の事」は参考に成りませんので、お家のルーツを辿る事が実は難しいのです。

    先ず、そこでそもそも「過去帳」とは、「武士以上の身分の者」が「寺」で系譜を元に造られるもので、武士で無ければ「人別帳・税に対する戸籍簿」と成ります。
    武士でないと成れば、その「人別帳」を造られるのは「顕教寺」と云って、「菩提寺」では無く、「檀家寺」と云う事に成ります。

    これらの在所等の事が何方かであったかをお調べに成るには、お家の江戸末期の在所のあつた処に「明治維新戸籍簿」と云うものが役所に有りますから、それを観れば一目瞭然に判ります。

    次に、家紋に関しては推測として、「抱き角に日足」かも知れないと云う事ですが、そもそも「抱き角紋系」は「信濃諏訪族青木氏」の家紋類と成ります。

    これに「副紋の日足」が組み込まれている事ですが、「信濃諏訪族青木氏」は皇位族系であった事から「副紋形式」を採用していませんでした。
    つまり、この「信濃諏訪族青木氏」の本当の系では無い事を意味します。
    そこで仮にあるとしたら、上記の”「所縁」”と成ります。
    つまり、「明治期の苗字令」の「所縁」に関わつている事が考えられます。

    それを観るには、次の事が必要です。
    更に、その寺の「享保期前後の頃の御先祖の戒名」を観てください。
    この「戒名」で、本当の「御先祖の宗派と身分とお家の格式」が判ります。
    当時の事を示すお墓がありますか。

    何故ならば江戸期の「大きい商人」の多くは元は「武士」であったのです。
    それ故に「戒名」にそれが現れます。
    当然に、「宗派」も判り、その宗派で身分格式も判ります。

    最後に気に成ることが一点あります。
    それは「御祖母の出」が「伊賀上野」であったと云う事です。
    上記の”「所縁」”を物語る事として、”明治期に「青木氏」を名乗った”と云う事ですが、上記した様に3年の苗字と8年の督促令で、この「所縁」のあった者を優先的に名乗らせたと云う事を書きましたが、問題は“どの様な所縁であったか”という事です。
    勝手に、他の姓を名乗る事は、武士株券を買う事以外は、江戸期末期まで禁じられていた事から進まなかったのです。

    そこで、「所縁」で納得させて無償で庶民が名乗る事が出来る様に成つたのです。
    有名な「坂本龍馬の実家」もこの「坂本の武士株券」を高額で買い取り武士に成ったのです。

    これを示すのが実は「伊賀上野」なのです。

    「伊賀」は奈良期より「伊勢青木氏」と血縁も含めて「郷士・氏人」として深い繋がりを持っていたのです。
    この「伊賀」には「伊勢青木氏」の系列の「伊賀青木氏」があります。
    「伊勢青木氏」は「天智天皇施基皇子」の「賜姓臣下族」ですが、奈良期より同じ「賜姓臣下族信濃青木氏」と「四掟制度・一定の身分内で血縁する掟」に基づき「同族」として「氏人の伊賀郷士」と女系で血縁をして、其の後その嫁ぎ先から「優秀な男子」を選び、「福家の許可」を得て「青木氏の家人」として「青木氏」を立てたのです。
    つまり「女系の親戚族」で血縁し、当然にこの「信濃青木氏」とも上記した血縁した同族の「信濃諏訪族青木氏」があります。
    史実的に、更にこの奈良期からの「信濃青木氏裔系」の「信濃諏訪族青木氏」が上記の「伊賀青木氏」と血縁をしている事に成ります。
    従って、「伊賀青木氏」の中に「抱き角紋」が有り得るのです。

    そこで、お家の事ですが、そして、お家は明治期にこの「所縁」から「祖母系の母方の所縁・直接に青木氏では無くても青木氏に関わっている家」であったことから、「青木氏」を名乗つた事になり、「分流の傍系族」であったこと成り、その事から、直接、この「抱き角紋」を使えず、ここに「副紋」として「日足」を組み込んだとする説が成り立ちます。
    「副紋」はそのような時に使います。

    そこで、それは、「日足の意味」は、言葉の「意味」から「商人であった証拠」であって、本流が明治期に「母方系の伊賀青木氏」を名乗る以上は、この「商人の商号・商標」の「蝋燭の紋」の「日足紋」を「抱き角紋」に組み込んで「青木氏」を名乗ったとすれば「所縁」は成立し全て間尺に一致します。

    「蝋燭の紋」の「日足紋」は、元の語意は「太陽の移り行く様」を云うもので、江戸期には「商いの相場の動き」を表したものです。
    恐らくは、お家の父方の元の「家紋・商標」はこの「日足」であったと考えられます。
    これであれば「江戸期の慣習」とも一致します。
    この様な「所縁での事」が「明治維新」にこの慣習が全国的に起こったのです。
    それを家紋類に表現して遺そうとしたと考えられます。

    この説が正しいとすると、「伊勢青木氏、伊賀青木氏、信濃青木氏、諏訪青木氏」の「融合族傍系族・女系」として成り立ちます。
    これが「お家の所縁の根拠」と成ります。

    そこで、では何故、「近江」であったのかでありますが、これもこの説で行くと成り立ちます。
    何故ならば、「伊賀青木氏」が江戸期末頃に、幕府の弱体から糧を得る為に「近江に多く出た事」が知られているからなのです。
    又、「近江商人」も伊勢に入ってきました。

    滋賀・昔の近江には、「近江青木氏、近江佐々木氏系青木氏、佐々木氏系青木氏」の三氏が定住していましたが、源平戦で滅亡し、その後、支流族の一部が摂津で生き延びました。
    「伊賀青木氏系の甲賀青木氏」もあり、信長の妾と成り子供と共に滋賀に移動します。

    お家の御祖母のお家のご先祖は、明治期前後に、この「伊賀青木氏」が、この「近江滋賀」に出て来ていたのではないかと考えられます。

    最後に「明治天皇の墓守」をしていたとする事は、更にこの事を証明しています。
    「青木氏」は上記した様に、「天智天皇の施基皇子」を始祖とする「伊勢松阪の青木氏」が賜姓を賜り名乗つた皇位族です。
    「光仁天皇と桓武天皇と平城天皇と嵯峨天皇と斉明天皇」の5人は、この「伊勢青木氏の直接の出自元」で、古来より元、「天皇家の天智天皇天武天皇の墓」の「造営管理の役目」を「賜姓五役」として負っていたのです。
    その意味からも、「伊勢青木氏の裔系」の“「伊賀青木氏」として「繋がり」がある”として雇われたことも考えられます。

    そのその、「伊勢王の施基皇子」は日本書紀にも書かれている様に「天智天皇と天武天皇と持統天皇の墓」を三つを造った責任者です。
    実際に工事をしたのは「伊勢桑名の額田部氏」です。
    この様な謂れもありますので、推論の確率は高いと考えられます。

    この説論は、明治3年と8年の令より「青木氏の所縁論」より導き出した説と成ります。
    情報が現在では少なく成っているので、これ以上の事は無理と考えます。
    後は、これ等を証明するのは「維新戸籍簿と檀家寺の戒名」だと思います。
    もし判る範囲でいいですから判りましたお知らせください。
    それでほぼ上記の推論を何とか証明できると思います。

    以上、何かご質問や情報が有りましたら又お便りください。


      [No.1151] ご先祖の探求
         投稿者:青木正明   投稿日:2020/03/09(Mon) 08:57:37  

    初めまして、約30年前妻を亡くし、その時に過去帳やお寺を色々調べましたが、以降そのままにしておりました。
     最近、年も取り再び、研究したくなったしだいです。
    過去帳には 江州の字や 安政 享保 香具屋半兵衛とか甚兵衛とあり、
     曾祖父は京都で油問屋を営んでいたと聞いております。
    油問屋はつぶれ、京都で明治天皇の墓守をしていたと聞いております。
     何か情報があれば教えてください。

    江州出身と思われる青木です。
    過去帳には江州・香具屋・安政・享保の字があります。
    江戸時代は香具屋を名乗っていた。
    明治時代になり青木を名乗ったようです。
    明治時代は京都に住んでいて、油問屋を営んでいたと聞いております。
    家紋は【抱き角に日足】ですが推測である
      但し、親父の描い当た家紋は角の根元の間に日足を書いていた。
    祖父は戦前神戸駅の助役をしていた。
    祖母は伊賀上野の出身と聞いております。
    何か情報があれば教えてください。


      [No.1152] 福井県の青木家
         投稿者:青木秀元   投稿日:2020/03/08(Sun) 13:59:32  

    >自分自身のルーツを辿っていてこのサイトにたどり着きました。
    >福井県の青木さんが、私の他には1名しか記帳されていないのは、少し意外でした。
    >私自身の祖先が福井県越前町で代々青木與右衛門を名乗っていたことや、その他の情報についてはご来場記帳に記載した通りですが、気になっているのは以下の2点です。
    >1.越前府中城、北ノ庄城主だった青木一矩とはなんらかの関係があるのか?
    > →青木一矩の孫が荘左衛門と名乗り武生で酒造業を営んでいたとのことだが、越前町の家には>大きな酒樽があって酒屋を営んでいたとの話を聞いたことがある。
    >2.前田家の家臣団の1人の青木與右衛門とはなんらかの関係があるのか?

    来場投稿
    自分自身のルーツを辿っていて、このサイトに辿り着きました。
    東京在住ですが、両親は福井県出身で、私自身の本籍も結婚時に東京に移すまで福井県越前町にありました。
    家紋:丸に木瓜
    菩提寺:天台真盛宗 西徳寺
    代々青木與右衛門と名乗る庄屋だったようですが、地域にはそれほど青木姓は多くありません。
    菩提寺にある墓は昭和初期に建てられたもののようですが、墓石に先祖代々の没年月と戒名が刻まれています。それによれば少なくとも天和ニ年二月(1682年)までは遡れます。代々の祖先の戒名は「上座」を使っているので武士ではなかったようです。代々の戒名では「心」という字と「山」「峯」「岳」などの山にまつわる字が多く使われているのが気になります。
    なお、以前越前町の家から見つかった古文書が、福井県文書館のデジタルアーカイブに「青木与右衛門家文書」として記録されている事を、最近知りました。

    >よろしくお願いします。


      [No.1150] Re:青木です よろしくお願いいたします
         投稿者:青木昌彦   投稿日:2019/10/30(Wed) 13:10:54  

    この度は御多忙の折、詳細な歴史について、御教示いただき有難うございます。
    また、返信に関して、お手間をとらせてしまい、申し訳ありません。

     さて、戴きました内容について、史実・事実・真実とはこのようなものか!と感嘆しつつ読ませて頂き
    ました。
     殊に維新の折に、青木氏氏族に降りかかった災難に想いをはせると、何とも複雑な気がいたします。

     青木氏氏族研究室、有難く読ませて頂きます。
     本当に膨大ですね。
     これからも質問をさせて頂きたいと考えています。

     今後とも宜しくお願い申し上げます。


      [No.1149] Re:青木です よろしくお願いいたします
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/10/30(Wed) 08:34:05  

    投稿欄のReを試みようとして失敗したようですが、次の要領で試みてください。

    私の投稿欄をクリックします。
    その「投稿の末尾」の下の所に「返信フォーム」があります。

    「おなまえ」の所に、お名前を記入してください。
    次に、「合い言葉」の所に、ひらがなで あおきさん と書いてください。

    タイトルは 「Re;・・・」 と出ていますので、其の侭に。

    前の文面が書かれていますので、それを 必要な最低限のところで ”「切り取り」”して下さい。
    出来るだけ多く「切り取り」を、「返信のメモリー」が足りなくなるので。

    そして、「返信文」を書いてください。

    「削除キー」と「投稿キー」を記入して「返信投稿する」をクリックすると、終わりです。
    「削除キー」は「バスワード」です。
    「投稿キー」は右横に「赤字」で書いていますので、それを小文字で記入してください。

    以上で、「投稿待ち」の状態と成ります。

    「投稿待ち」は管理人が確認して投稿します。

    以上で投稿は完了し、ルーツ掲示板に記載されます。

    再度、試してください。


      [No.1148] 佐賀唐津の青木さんの事
         投稿者:副管理人   投稿日:2019/10/25(Fri) 09:51:09  

    管理人の代理投稿

    雑談掲示板より移動

    ご質問

    >10年前にこのサイトを見ました。つい昨日まだあるのか気になり見ました。
    >その際、以前と違う佐賀県唐津市青木さんコメントがありましたので気になり送らせて頂きます。
    >唐津市本籍、丸に剣方喰、曹洞宗、以前、全否定された感じでした。
    >当家も以前のお寺さんは別のお寺、宗派と言われました。
    >なんなんでしょうか?この10年で変わったのですか。?


    さて、お答えします。

    尚、他の「佐賀の青木さんの件」では投稿は次の通りです。

    投稿番号 1114 1131 にあります。

    ご指摘の投稿文は次のものかと考えます。
    {雑談掲示板}より今回も移動させます。

    以前の投稿の内容は以下に復元します。

    投稿番号 571 です。

    以前の投稿のお答えです。

    ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    同じ青木氏としてこれからもよろしくお願いします。
    このサイトには膨大な青木氏に関する資料が用意されています。
    時間を掛けてゆっくりと楽しんで少しづつお読み下さい。
    ご質問や不明な点が有りましたら都度お尋ねください。
    「青木ル-ツ掲示板」に貴方様の投稿欄を専用に設けましたので、Re(返信)でお使いください。

    さて、お尋ねの件の系図の件ですが、サイトは営利を目的としていませんので、残念ですが、判りませんとお答えするしか有りません。
    閲覧は地元の史料館などで確認されては如何と思います。

    次に、お家のル-ツの件ですが、情報が大変少なく、時代性に於いても新しい物ですので、検証は無理です。
    ただ、提供されましたのを前提にしますと、佐賀、剣片喰紋、曹洞宗の3つです。
    (佐賀は江戸中期以前に居たとしまして。)
    この情報からの結論からは、皇族賜姓青木氏5家5流24氏と皇族青木氏5氏、藤原秀郷流青木氏116氏ではなく、明治期に発祥しました青木氏(第3氏、又は未勘氏)と観られます。よって、ル-ツの検証は無理と考えます。
    付きましては、「青木氏氏 研究室」1Pの末端に「明治期発祥の第3青木氏』のレポ-トを先ずお読み頂き、その「検証条件」を照合して一つでもかける事があれば、この第3青木氏か未勘氏であります。宗派が曹洞宗であると云う事は既に条件から外れています。

    浄土宗は氏家制度の中では高位の特定の氏(賜姓青木氏、藤原氏北家、賜姓源氏等)が入信できる宗派でした。藤原氏などは赴任等で24地方に移動していますので、その特定の宗派の浄土宗がありません。そこで、止む無く、浄土真宗に入信しました。(帰還後戻す)
    しかし、曹洞宗は一揆などを起こした事などその教義も含め全く反対の階級を信徒とする宗派でした。
    先ず特別な事情がない限り上記2氏の青木氏がこの宗派の信徒となる事はあり得ません。
    現在、史実として、ある国の1氏だけがある事情でこの曹洞宗に入信しています。
    しかし、この1氏も江戸寛政の歴史書には「青木氏第三の系図」(第3氏の青木氏)として記載されています。

    そこで、ル-ツ条件を、宗派を除いたところで、全てが適合していればの事として、ただ一つ、剣片喰紋の家紋から観た場合の検証ですが、福岡、長崎に赴任した藤原秀郷一門の護衛としての藤原秀郷流青木氏が現地子孫を遺したとされています。ただしこれも未勘氏でその確証は取れていません。
    この青木氏の可能性があります。
    剣片喰族は中部域に多く分布する藤原一門の氏です。この家紋を持つ藤原秀郷一門の青木氏が、この内の一つであるとするならば、佐賀に古くから定住していたとすると、地理的に間に挟まれているためにその可能性もあります。
    (皇族賜姓青木氏と皇族青木氏はと限定した特定の地域に分布していますので、検証外です。)

    しかし、逆に”何故、曹洞宗”と成ります。
    藤原秀郷一門は大変伝統を重んじる氏です。特に青木氏は「第2の宗家」と呼ばれていましたので、宗派を変えることなどは先ずあり得ません。現在まで、曹洞宗の氏が藤原秀郷流青木氏116氏の中にある事は確認出来ません。

    まして、曹洞宗は藤原秀郷流青木氏116氏が発祥してのかなり後の宗派です。
    これ等2氏にはその家柄上最低でもそれなりの「伝統」(氏家制度の習慣)を維持しています。
    お家にこれ等の伝統がない事は既に条件に適合しない事を意味しますので、一度良く確認されて検証ください。(明治期以降は氏家制度の社会ではありません。)

    先ずは条件のお家の菩提寺の有無確認と過去帳の存在、役所の明治初期の戸籍簿の身分の項のところが、平民か士分かを確認する事で素早く確定します。第3氏と未勘氏にはこの条件がどんなにカモフラ-ジュしても出来ません。
    先ずは、一度、ご確認ください。

    最後に、明治の近衛隊は明治期から農民を主体とした政治信条を含む「屈強な者」を主体とした編成です。長州と薩摩の軍隊が徳川幕府を攻める時に農民を兵として「ちんらいさん」と呼称されて京に入り、その後、徳川幕府を倒しました。これ等の軍が近衛兵になったのです。
    元は、奈良期平安期は宮殿の三門を護るこの親衛隊の役目は皇族賜姓青木氏が担ったのです。(後に藤原氏も)
    天智天皇の第6位皇子にその役目を命じて、皇族から臣下した氏でその最初が伊勢の皇族賜姓青木氏で伊勢王(施基皇子)でした。この氏は現存します。
    このことから観ても、明治の近衛兵とすると、「第3の青木氏」と成りますが、少ない情報での検証とご確認ください。

    先ずは、研究室の条件をご確認ください。

    ご質問有りましたら、お便りください。お待ちしています。


    以上が以前のご質問にお答えしました文面です。

    そこで、今回のお尋ねが、投稿番号 1114 1131 のお答えとに差があるのではとのお尋ねです。

    上記のお答えの通り、情報提供が判断するに無理があり、それを敢えてお答えする成ると上記の通りと成るとしていますお答えです。

    念の為に、たの氏と決定的な違いがあり、それはその「高位の出自」からある一定の慣習仕来り掟が定められ、これから逃れられない「宿命」を負っていたのです。
    その位を汚す事の無いように「氏の自由性」が無かったとも言えます。

    その為に、ある「一定の慣習仕来り」の中に無ければ二つの青木氏の範囲には無いという答えが出て仕舞います。
    この厳しい「慣習仕来り掟」は「嵯峨期の詔勅の禁令」で明治期まで原則まもられました。

    その範囲で生きて来たのです。
    これを「四掟」と云います。
    この「四掟の範囲」で血縁をして「子孫拡大」を図らねば成らなかったのです。
    この他に嵯峨天皇が定めた皇族の者に課せられた「9つの縛り」と云うものがあってこれにも縛られていたのです。
    更に、皇族の臣下賜姓族であった事から「賜姓五役と云う役目」を負っていたのです。

    それらのことから「子孫拡大」には自由が無かったのです。
    その中で「青木氏」は生き残ったと云う事です。

    これ等の事は多くの歴史書・三大格式や日本書紀、日本続記や水戸藩が編纂した大日本史等にも書かれていて、その範囲に入る青木氏がその条件に外れるものを「第三の青木氏」と記載されています。
    「四掟」の一つの宗派は「絶対的条件」なのです。
    これを外す事は青木氏から外れる事に成るのです。
    これは氏家制度の社会の中では生きて行けない事を意味します。
    当然にその定住地も四掟の一つで、「自由な場所」の限られた場所以外には住めなかったのです。
    勝手に宗派等の「習慣や仕来り掟」等を替えるなどした場合は一族から抹殺されるのです。

    曹洞宗に成った時期が何時であるかでも変わりますし、「菩提寺」か「檀家寺」かでも変わります。
    明治以降ではあり得ますが、江戸期前では無理です。
    兎も角も「明治維新の戸籍簿」に書いていますよ。

    次に、佐賀の唐津もこの四掟に関わる副的条件です。
    従って、この地域は現地孫と云う立場に成るのです。
    現実に、佐賀は赴任地の一つでしたのであり得ますが、「現地孫の扱い」と成ります。
    直系族では無く「第三の青木氏」を含む「支流縁戚族」となります。

    情報が多ければ、確定させる条件の範囲をクリヤーさせる歴史観もあるので、変わる事もあり得ます。
    とりわけ、「秀郷流青木氏」に関してはあるのです。

    そこが、投稿番号 1114 1131と異なって来る事に成るのです。

    この「青木氏と関わり方」で変わる事に成るのです。
    それが「第三の青木氏」と成るかならないかの差に成ります。
    禁令を破って江戸初期と、明治期・苗字令にこの現象が起こりました。

    「苗字令」では「青木氏に関わった庶民」が「政府の指導」で村全体がある日一斉に青木氏に成ったとする事が各地でおこりました。

    江戸初期は農民から武士に成った者が「国印状」を獲得する為に系譜を搾取して武士である事を証明する認定証を貰うと云う事が起こったのです。
    その為に、「幕府の勧め」で由緒ある青木氏等の姓と系譜を搾取して名乗りました。

    この為に「四掟等の条件」に合わない青木氏が生まれたのです。
    これを「大日本史」は「第三の青木氏」と呼称して区分けしたのです。

    これが情報の提供が大きく左右する所以です。


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