青木ルーツ掲示板
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    ※この掲示板では「青木」という氏についての「ルーツ」などのまじめな話や、青木氏にまつわる情報などを集めています。
    みなさんからの貴重な情報をお待ちしております。
    また、ご自分のルーツ等を調べたいが、どうしてよいか分からないという方や、さらに詳しく知りたいと言う方は、わかる範囲で結構ですので、
    下記の情報を添えて書き込んでください。
    福管理人さんをはじめ、サポーターの方々がヒントをくれます。

    必要情報 [分かる範囲でこれらの情報をお知らせください。情報が詳しければ詳しいほどルーツの解明につながります。]
    ■家紋(例 : 御父上の袴の袖に書いた紋や、仏前の道具に書いた紋など)
    ■ルーツ[ご先祖が住んでいた]の昔の国、例えば「武蔵の国」や「下野の国」..わかれば「郡」「村」など。
    ■お墓のある菩提寺の土地。現在の地名。宗派等。
    ■その他、些細なことで結構ですので分かっている事をなんでも書き込んでください。
    現代では何の価値もない情報がルーツ解明の重要な糸口になる場合があります。

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    青木氏氏 研究室」や「青木氏氏ブログ」には、長年研究した青木と言う氏の情報を多くの後世に遺したいと言う事で「史料と研究結果」を掲載しています。
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      [No.981] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/09(Wed) 11:24:33  

    今日は。 元愛媛の青木さん
    お便りありがとうございます。
    筆者のお答えご理解いただきましてありがとうございます。
    ルーツ探究は、現在は伝統が消えて仕舞って、青木氏に関わる資料が無く成って居ますので、なかなか進みません。
    これは昭和の時代の欠陥であったと観ています。
    社会が、可成り社会主義化して、「伝統」に関わるような事等を云うと周囲から排斥されるなどがあって、伝統品なども持っていることなども大変な時代でした。
    その為に伝統と伝統品が消えて仕舞いました。
    現在で、「歴史観」が見直されて来て、若者の中でも「伝統」に懐かしさを感じる人が増えました。
    しかし、反面、「個人情報保護」が見直され、情報を獲得する事や、情報を公開する事も、最早、不可能に近い状況に成って居ます。
    情報が在っても、その裏にはある種の思惑が込められ、搾取情報が横行していて、歴史専門家の様に検証して真偽を確認して、公に情報を提供しているネットサイトは全く少なく成りました。
    全国に歴史マニアの色々なグループが互いに連携して情報獲得交換をして何とか、正しい情報を提供できるように協力し合っています。
    青木氏は、その中でも、ヤフーサイトでは段突の公認サイトです。
    伝統を何とか遺した氏だと思います。

    さて、今回のお便りは、3つありましたね。
    この何気ない一寸した生活に根付いた情報が役に立つのです。世間の思惑に左右されていないからです。
    それは、青木氏が持つ「過去の慣習」に照らしてみると「ダイヤモンド」の原石の様に大きな情報になる事があるのです。

    1 「紋付」と「伝統品」(鎧やなぎなた)
    2 「青木の庄屋さん」
    3 「村長」と『結城家』


    この「3つの情報」と、前回のお答えの「お家の情報」の未だ論じていなかった重要な「次の検証課題の2点」を組み合わせると、前回のA又はBの答えが導き出されます。

    前回でも、お答えいたしましたが、筆者はAであると観ています。
    つまり、「龍神説」から「讃岐藤氏の讃岐青木氏」に、南北朝事件で、本流に合流せずに、一切を捨てて頼った秀郷流佐野氏族の「脩行系の青木氏」であると観ています。
    それには、前回のお答えに加えて未だ論じていないある根拠があるのです。

    それは、次ぎの二つです。
    1 「軍則規定」
    これは平安期から決められていたもので、「時の政権」が適時に修正しながら、「武家」と「武士」に課せられた義務があったのです。今で云う社員などの服務規程の様なものです。
    これは、互いに「石高」に合してそれに匹敵する「義務と責任」を与える制度で、これを護らせる事で、互いの力関係を維持し、偏りの無い様に厳しく取り締まった制度です。
    多くも無く、少なくも無く、丁度良いレベルに保たなければならない制度です。
    色々な面に対して詳細に決められていました。(江戸幕府も修正が加えられ維持された。)
    さて、そうすると、お家の件でこの事に付いて検証しますと、次ぎの様に成ります。

    お家は、「龍神説」から「讃岐青木氏」を頼ったことは判っていて間違いありません。
    この時、「讃岐青木氏」と「お家の青木氏」は、果たしてどの様な立場に置かれたかの問題が残されていますね。其れに依って、「宇都宮説」が変わります。
    前回でも落人やよそ者の末路を論じましたが、実はこの検証課題が最大の決め手に成るのです。

    では、先ず、「讃岐青木氏」から論じます。
    (南北朝 1331年から1392年)
    南北朝の終わった直後の1397年頃には、ここは「西園寺氏の荘園」で、藤原氏北家筋の「西園寺氏」(藤原氏)が慌てて強引に荘園を自分の領地の様にしてしまった有名な事件が起こりました。
    この時、この地域は「讃岐藤氏(秀郷一門)」の支配地域でありました。
    「西園寺氏」は、この平安期から居た地元の勢力の秀郷一門の「讃岐青木氏」を「家臣」にしました。この「家臣」に問題があるのです。
    しかし、この時、この「軍則規定」で「地元の武士」を家臣にする場合は、「家臣の家臣」、つまり「陪臣」か、更に家臣の家臣の家臣の「倍陪臣」にする事が義務付けられています。
    これを身分的には、この昔から定住していた「地元の豪族」は「郷氏」と呼ばれていました。
    それと、豪族では無く、「地侍」と呼ばれる武士等は「郷士」と呼ばれていました。
    これらは、封入して来た新しい領主の「陪臣」か、殆どは「郷氏」か「郷士」は「倍陪臣」にする様に決められていました。
    軍則に従えば、藩主からすると「陪臣」までを家臣として扱われます。

    中には、地元のこれらの勢力との折り合いが悪く、この「家臣」にしない事も多く起こりました。
    有名な事件があります。
    例えば、「山内氏」は「土佐の藩主」として封入しますが、地元のこの郷士や郷氏勢力との折り合いが悪く、結局、戦いの末に、これらの全ての勢力と和睦するとの事で、”藩主と話し合う”を理由に全員もれなく城に入れます。
    ところが、突然に城門を占めて、騙し討ちをし、壮絶な戦いをして全員これらの勢力を皆殺しにした事件がありました。
    この様に、この勢力をどの様に取り込むかは重要な判断が必要であったのです。
    取り込むと、逆にこれらの勢力の発言力が大きく成り、転入藩主側の勢力が小さく成ってしまいます。
    この「郷氏」はある程度の私有地を認められた勢力です。
    新しい藩主は、この勢力を無視する事が出来ませんでした。
    特に、「郷氏」の中でも、最大とされ、且つ、実際に無視できない勢力を持っていて、全国的な秀郷一門の動きに依っては、封入して来た藩主よりも数倍もする勢力も現実に持っていたのです。
    その秀郷一門に依って潰された藩主もいるのです。

    有名な事では徳川家康が秀吉に依って関東に転封されます。
    家康は、関東全体を仕切っていた秀郷一門の勢力を取り込む事に成功して、むしろ三河よりも数倍に成る勢力を取り込んだのです。
    家臣と旗本と御家人として全ての秀郷一門の勢力を直参として取り込んだのです。
    「軍則規定」を無視して、敢えて逆手に取ったのです。
    秀吉は殆どは全国の秀郷一門には反発を受けていたので、この勢力に家康は反発を受けると観ていたのです。ところが、旗本にと御家人にしてしまった事のみならず、秀郷一門を家臣として「直接の政治の場」に用いたのです。
    更に、家康は「松平氏」から「権威付け」の為に自らも「藤原氏の系譜」と繋いで「藤原朝臣の氏」を名乗ったのです。

    そもそも、伊予と讃岐に入った西園寺氏も宇都宮氏も同じ藤原一門です。
    そこで、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は、最大勢力の郷氏勢力を使って、両氏の「陪臣」、或は、「倍陪臣の立場」を確保していたのです。

    其処に、お家の佐野氏族の脩行系青木氏の一切を捨てた者等が逃げ込んで来た事に成ります。
    公然とは扱えないにしても、お家を「讃岐青木氏」は「身内の者並扱い」にしてたのです。
    つまりは、お家は「軍則規定」からは「倍陪臣の形」と成ります。

    お家は”「家臣」”と伝えられていますが、「軍則規定」から、まして「逃亡者」ですから、「家臣」の既定の領域には入らないのです。入る事が無いのです。
    ここでも正しく伝えられずに「搾取の口伝」が起こっていますね。

    何故、「家臣」にしない様に軍則は決めているかと云うと、石高に合わず陪臣以上を雇うと、「謀反」と観られるし、財政が「人件費」で圧迫して藩財政が逼迫しますし、それだけの雇う余裕があるのであれば、石高を下げられる等の理由にもなります。また犯罪者を無暗に匿う事にも成ってしまう事も起こり、「軍則規定」は、厳しくこの点を定めていたのです。
    何よりも、藩主は陪臣を雇いすぎると自分の「謀反の嫌疑」を恐れたのです。
    藩主は、勝手に家臣の陪臣や倍陪臣などが増える事を嫌い、むしろ減らさせようとして難癖を着けて減らす方向にあったのです。

    従って、お家が、西園寺氏や宇都宮氏と直接に付き合える環境には、先ず100%無かったのです。
    「よそ者」のお家の前には「讃岐青木氏」が在って、それを飛び越えて直接家臣に成る事は「軍則規定」では起こる事は無いのです。
    「上下関係」をはっきりとさせる目的もあったこの「軍則規定」はお家が主張する様な事は、最大の禁じ手でした。
    まして、「よそ者」だけでは無く「敗残兵」で「お尋ね者」です。
    よそ者が、テレビドラマの様に仕官すると云う事は、先ずこの「軍則規定」があって、あり得ない事なのです。相当に何かの強力な「伝手・縁故」が無い限りは無理でした。
    お家の場合は、”讃岐青木氏の影に隠れて生きる事”以外に無理であったのです。
    同じ「青木氏」を利用して、身内の様に見せかけて、生きる以外にはなかったのです。
    より安全を守る社会の慣習を作らせて護らせる「軍則規定」の縛られていたのです。
    現代の様に自由社会の慣習では無かったのです。
    武士道はこの「軍則規定の慣習」から生まれたとも言われています。

    それには、「石高」に応じて家臣数は決められていたのですから、欠員でも出ない限りは先ず無理な事なのです。

    お家の場合は前回で述べました様に、その様な都合の良い条件はありませんでしたから、「軍則規定」から矛盾しているのです。
    養子や縁組なども良く調べられる必要があります。
    軍則規定のみならず、当時の社会慣習から先ずお家が云う様な血縁は起こりにくいと観られます。
    尚且つ、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」を飛び越える事は先ずありません。
    家臣説も血縁説も何もかも軍則規定で護られた社会の慣習を遥かに超えています。
    お家の立場から、”つくり上げたもの”である事は100%判ります。
    家柄をよく見せようとした「搾取偏纂の結果」だと思います。

    次ぎに、更にこの搾取偏纂を超えていると観られる事が他にも在ります。
    それはお家のお墓の年代が1667年と成って居る事です。
    西園寺氏は、長曾我部氏に1584に完全に滅ぼされています。有名な戦いです。
    宇都宮氏は毛利氏に伊予攻めで1585年に完全に滅ぼされて完全滅亡しています。
    長曾我部氏は秀吉に負けています。
    1590年頃には四国は安定し、江戸期には大洲は加藤氏が入っています。
    もし、仮に、西園寺氏や宇都宮氏と血縁をしていたとする説にすると、お家は1585年には滅亡しています。
    1667年のお墓は無い筈です。お家のお墓は1585年で終わって居る筈です。
    そうすると、お家が滅亡して讃岐青木氏は滅亡しないのも理屈に合いません。
    「讃岐青木氏」の宗家筋の方からは、本サイトのルーツ掲示板にもお便りをいただいていますが、滅亡せずにむしろ勢力を拡大させています。
    次に、兎も角も「軍則規定と社会慣習」から先ずあり得ませんが、仮に血縁した説として、185年間の間に成りますが、四国の戦国時代は1500年の頃からです。
    四国は主に宇都宮市の場合は、1519年から1585年ですから、65年の間の婚姻できるとしてもせいぜい30年間程度と成ります。

    この間に、「倍陪臣のお家」が「大名の家」とどの様に血縁で出来るかの問題もあります。
    「青木氏一門」から青木氏を消されたお家が、何故、「倍陪臣の家」との血縁が成り立つのでしょうか。
    それも養子と成りますとあり得ないと云えます。
    まして、「宗家の意」に反発をした家が一門の宇都宮氏との血縁は極めて考え難いものです。
    お家の宇都宮氏の説は根本からあり得ないのです。
    つまり、家柄をよく見せる為に「家紋も家柄も宗派」も何もかも宇都宮氏に「作り上げた説」と成ります。
    ところが、「軍則規定」では、この説も成り立たないのです。

    次に、今回のお便りのこの「庄屋の件」は、恐らくは伊予の東と讃岐と土佐の東側に勢力を持っていた「讃岐青木氏」だと思います。お家の青木氏では無いと思います。
    庄屋は土地の郷氏が成るものです。家紋と宗派を確認ください。
    お家が100年程度で「郷氏」に成れる事は100%あり得ません。
    お家は「郷氏」では無かったのです。依って「庄屋」に成る事は出来ません。
    67年の間には無理です。もちろん「軍則規定」とその「社会慣習」からもあり得ません。

    同じく、「村長の結城氏」は「関東屋形の結城氏」ですが、この「結城氏」は秀郷一門の先祖・元祖の氏名に当たり、奈良期から「名家の結城氏」で在った”「古氏」の氏族”です。
    京平家にこの「結城」を奪われて追われて武蔵に逃れたのです。
    鎌倉初期に、この結城に付いては、頼朝はこの事を知っていて、開幕後、すぐに特別に「本領安堵」と奈良期の名家の「氏名」が復活させた位なのです。
    そして、藤原の宗家の「朝光」がこの「結城氏」を引き継ぎます。

    結城氏は、「土木工事の官僚の専門家」の氏族で、現在の山口から飛鳥までの「山陽道」はこの氏が設計し建設したのです。
    現在でも、その「土木工事の技術」は、何ら劣っている事が無いくらいの極めて進んだ理論的に一致する道路を建設したのです。現在もその道路を使っています。
    「土盛り工法の見本」でもあります。

    この氏が「関東屋形の首魁」として勢力を持ち関東以北を抑えていました。
    その配下には、宇都宮氏や”「赤羽氏」”や九州から来て勢力を持った佐竹氏等があるのです。

    ところが、遂にはこの「結城氏」は秀吉と対立します。秀吉にとっては最早無視できない勢力と成ったのです。
    秀吉は関東の本拠地は攻める事は出来ないとして、陸奥の結城氏を先ず攻め落とします。
    秀吉一番の犠牲を負って超激戦の末に落とします。有名な戦いです。
    この時全国から助けに一門が駆けつけます。
    背後を攻められる様に成った秀吉は危ないとして無理にせめて一応戦いに勝って一目散に大阪に逃げ帰ります。
    本拠地の結城秀郷一門が動いたからです。
    勝つ見込みは全く無かったのです。
    そこで秀吉はここを家康に押し付けたのですが、上記で書いたとおりの結果と成ってしまったのです。
    名門中の名門の結城氏で、秀郷一門の24地域にはこの名門が「名門の家柄」として必ず存在させているのです。秀郷一門のステイタスとして意識させる為にも各地に置いていたのです

    さて、この”結城氏は何を意味するか”と云う事なのですが、この地域一帯が「讃岐藤氏 讃岐青木氏」の「勢力領域」であった事を物語っている事です。
    云い換えれば、お家は「讃岐藤氏の讃岐青木氏の支配下」にあった事を意味します。
    秀郷一門の「讃岐藤氏の讃岐青木氏」の「庄屋」があった事は、お家が更にこの「庄屋の支配下」にあった事に成ります。
    (前回に説明しました様に「龍神説」を採るとお家は100%と「庄屋」に成れる事は無い。)

    云い換えれば、決して、西園寺氏や宇都宮氏との血縁族で無い事に成ります。
    その様な行為は無かった事を意味します。つまり、家柄をよく見せる為の搾取偏纂であった事を意味します。
    「庄屋」や「結城氏」が在る中での生活で、「宇都宮氏」と血縁する事は、「結城氏」や「庄屋」を超える立場である事に成り、「結城氏」や「庄屋」や、はたまた「讃岐青木氏」の中にいる事との矛盾を生み出しています。
    筆者は、これは、「江戸初期の権威付の行為」の所謂「後付行為」であった事の説を採っている。

    (この時に家紋まで変えたのです。 前の本来の家紋は和歌山の6家の家紋に成る筈です。
    明恵地域で、藤原氏の影響を受けていた土地を代表する土豪の家紋の可能性があります。
    且つ、それが秀郷流青木氏の家紋の中にあって、秀郷一門の佐野氏族の家紋の中にある事に成ります。「三つ巴紋」では和歌山に繋がらない。故に「元の家紋」は把握できている。)

    (「三つ巴紋」にした理由には、この「元家紋」が大きく影響したと観られます。
    むしろ、”間違えた”と観ています。そして、極めて良く似た家紋が傍にあった。その為に、その家紋の繋ぎて搾取偏纂し戯曲して合わせたとすれば、上記の矛盾は解けます。”思い込んだ”と云ってよいのではと思います。先ずは「元の家紋」は1400年頃の何かの資料にあると思います。
    それ以後はこの三つ巴に全て合していると思います。
    先ず、家紋に繋がる情報をお調べください。その後にお教えします。

    もし、このBの「宇都宮氏説」を採った場合は、Bの「第三の青木氏」と云う事に成ります。
    前回に論じましたこれでは矛盾が解決できません。

    村長の時代が何時であったのか、
    お家の宗派は浄土真宗の何派であったのか、
    庄屋の家紋と宗派は何であったのか、
    家紋、苗字帯刀 家紋使用 登城権 墓所 墓形式 仏壇形式、永代供養のお寺 菩提寺の有無
    結城氏の家紋と宗派は何であったのか
    以上のどれかかが判れば、「結城氏」や「庄屋」との繋がりが判りますよ。

    お家のご先祖の青木氏のお墓の刻みが1667年です。
    お家は1585年に、既に「倍陪臣の立場」が無く成って居る。
    その前に、家臣の範囲であった場合は、お家は滅亡している筈で、生き残ったとすれば、「倍倍陪臣」、つまり、「秀郷一門の郷氏の支配下」に入っていて戦責を逃れられた事に成ります。
    普通は「倍陪臣」から武器放棄すれば「掃討難」を逃れられます。
    戦いには必ず「敗残兵」の「掃討作戦」が行われます。
    織田氏や武田氏等は厳しさで有名で、歴史上に遺っていて、織田氏は「皆殺し」、武田氏は「奴婢売却」であった。戦国時代は奴婢売却が多かった。
    この地にそのままに住んで1585年までに生き残った事を意味しますから、生き残ったとして「家臣と陪臣」ではこの地から逃亡しなければならないし、激戦であったし、逃亡は四国と云う島の土地柄から困難で、掃討作戦では逃げ切るのは難しいし、当地に定住する事は到底困難です。
    そのこの時の証拠があって、宇都宮氏と西園寺は南に逃亡したが掃討されて完全に根絶やしの滅亡した記録があります。
    長曾我部氏は北側は秀吉に依って一切掃討されたが、南の土佐は許されたのです。

    何か変だと思いませんか。
    そもそもこの両者は藤原一門のど真ん中での伊予讃岐と云う真ん中で負けて滅んだのです
    この意味は大きいです。
    普通は秀郷一門の勢力圏の中で起こった一門の戦いでは、「一門の抑止力」が働いて勝負には成らないし、滅亡となる様なところまで行きません。
    しかし、瀬戸内を背景に「秀郷一門の第二の勢力」を誇り、東域全域には「阿波の青木氏」が勢力を誇っていた中で、「二つの藤原氏」が一度に何の助けも無く完全に滅んだのです。
    滅ぶことは先ず無い筈なのですが滅んだのです。
    匿う事、助ける事は絶対に出来た筈です。
    また、そうしないと身内を見殺しにしたとして「讃岐青木氏の立場」はない事に成ります。

    それでも、二つの氏は完全に亡びたのです。
    何故なのかです。何か一門の協力を得られなかったと云う事です。
    それも、讃岐藤氏や讃岐青木氏が助けないと知っていたから、長曾我部氏も、毛利氏も知っていた有名な事であったから安心して攻めたのです。
    この事は前回にもこの二つの氏が宗家側と上手く行ってていなかった事だからです。
    今回も、郷氏の讃岐藤氏の讃岐青木氏との関係が悪かった事から来る事だったのです。
    これは有名な事だったのです。
    仲が良かったとお家が述べていますが、仲が良ければこの様な事は起こりません。

    つまり、もうお判りと思いますが、お家は生き残った事は、この「讃岐青木氏の配下」にあったからなのです。つまり、「倍倍陪臣の位置」に居たからそのままに定住地にいて生き残っているのです。
    西園寺氏や宇都宮氏の中に無かった証拠です。

    そもそも、「倍倍陪臣の位置」とは「半農民」の者が多く、家臣で生活できる石高は250石程度で、「倍陪臣位」からは石高100石以下程度ですから生活できないで、農業もして生き延びたのです。
    「農兵」とも云う事もあるが、実態は苗字も家紋も鎧兜も持っていて、戦いが起こると、契約して戦いに出る形を採っていたのです。
    この場合は登録して置いて「讃岐青木氏の組支配」が必要な人数を集める等支度を整えて、契約金を渡す仕組みで総支配の指揮の下で出陣するのです。
    その土地の藩主から「割り当て」を軍則規定から強制的に与えられるのです。
    藩主とこれらの集団と上手く行かなかった場合には、人も集まらないし、戦いも積極的でないし、
    直ぐに逃げる等の事が起こったし、元は武士の人が集まらない場合は、農民も駆り出されたのです。

    何で、「江戸初期の権威付の行為」の所謂「後付行為」をしたかは、生き残った一人が、鎧兜などから200年前はれっきとした”青木氏を名乗る武士”であった事が伝わっていた事から、江戸初期に武勇伝を作り、和歌山からの逃亡の汚名を消したかった事から起こった事です。
    しかし、その後にその生き残りの人物の青木氏はその人物で絶えた事に成ります。

    その後、讃岐青木氏の環境の中で、農民に成って200年間、明治期まで過ごして、「江戸初期の後付」の言い伝えもあり、そこで、苗字令によって所縁のある匿名の「関東屋形」の姓の匿名「・・・」を名乗った事に成ります。

    農民に成って居た頃の青木氏から、別の関東屋形の武士の「・・・」氏名を名乗りたかったと観られます。

    「讃岐青木氏」に関わった「瀬戸内の青木氏」には、農民では無く、船頭に成って居た者も多かったのです。
    1582年に甲斐から逃亡して来た甲斐の武田氏系青木氏は、同じように土佐で讃岐青木氏の勢力を借りて土地を奪い、最終「土地の郷氏」に成った青木氏もあったのです。
    丁度、四国も戦国の嵐が吹き、西園寺氏や宇都宮氏が危うく成った時期に「甲斐武田氏系青木氏」が、「讃岐青木氏」を頼って逃げて来て、長曾我部氏が勢力を張っていた地域の東域を讃岐青木氏と共に奪い取ったのです。お家と武田氏系青木氏の違いは、敗残兵であったが、武田氏系青木氏の場合は讃岐伊予の本領地に留まらずに土佐の生きるチャンスを求めたと云う事に成ります。
    恐らくは、その規模が違ったのではないかと思われます。
    讃岐伊予の讃岐藤氏の勢力圏では生きていける規模の軍団ではなかった事に成ります。
    そこで、南下して土佐の国境を攻めて生きる場所を作った事に成ります。

    (最後には転封して来た山内氏と争いを起こした勢力。甲斐でも山内氏と戦っている。)

    この事でもお家は西園寺氏や宇都宮氏に、云々して・・・出来る勢力のレベルでは無かった事が判ります。
     

    以上の事がお便りからは判りますが、歴史には、武士の行動規範の基にも成り、服務規程の様なこの様な「軍則規定」の様な事の知識での判断も大事です。
    ネット情報はこの様な考証や検証をして投稿していないのです。

    では、また、ご遠慮なくお尋ね頂き、またお便りをください。


      [No.980] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:元・青木   投稿日:2014/07/07(Mon) 17:08:32  

     詳細なアドバイスをありがとうございます。
     とりあえずネットでの検索はやめ、当家や我が家の情報収集に努めたいと思いますが、なかなか時間も取れず、長期戦になりそうです。
     ただ、地元の身内がいくつかの情報を集めてくれましたので、断片的ではありますがご報告します。

     1.当家の近所に聞き込んだところ、当家には『紋付と武具(鎧と薙刀らしい)があった。明治期まではあったはず。それは青木姓と共に、吉田伊達藩から認められたものであったと聞いた』そうです。
     もちろん、現物は存在しません。残っておれば物証になったのですが。

     2.伝承では当家の本家があったとされるのは三間町ですが、その隣町(伝承の場所と地理的には遠くない)である広見町に、かつて通称『青木庄屋』とよばれる庄屋があり、その末裔を名乗る『青木さん』が昭和30年代、近くで学校の先生をされていたそうです。
     これはその青木さん本人から聞いた方の情報ですので、伝承の場所の近くに青木さんという庄屋があったことは確実と思われます。
     おそらくはまだ血縁の方がいらっしゃると思われますので、お会いできればもう少し詳しいお話が聞ける可能性が出てきました。
     ですので、家紋のことなどはあえて今はうかがわず、いつか『答え合わせ』をしていただければ、と思います。

     3.これは新しい情報ではないのですが、三間町には『結城家』があり(具体的な年数は確認しておりませんが、かなり古くからのお墓を守っていらっしゃいます)、かつては当地の村長を複数回務めたほど勢いのある家でした。そして明治期から当家と縁組が、これも複数回行われています。
     明治に入ってからの話ですので、当家の左三つ巴紋と直接の関係はないと思われますが、副管理人様の文章を読み直していて、あらためて気づきましたのでご報告しておきます。
     


      [No.979] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/07/03(Thu) 11:11:44  

    >  最初の書き込みで、当家が『藤原氏・藤原兼隆の子孫』との伝承があると書き、副管理人様から「問題がある」とのご指摘を受けましたが、
    ネット等で調べてみたところ、宇都宮氏がこの『兼隆』をルーツとして伝承されているようです。
    >  伊予宇都宮氏、さらに『左三つ巴』の家紋から、当家との養子関係が指摘される宇都宮氏だけに、『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。


    愛媛の元青木さん
    今日は。
    色々お調べに成って居られるようですが、青木氏の事では無く宇都宮氏の事の様ですね。

    色々情報を集めるとしても、その「情報の根源」がどの様に成っているかを先ず知る必要があります。
    ネット情報は、特に、室町期中期以降から末期の情報では、ある特定の情報源がベースに成っているのです。
    それを租借しないと正しい答えは出ません。
    租借、つまり、検証が必要なのです。この事は前回にも何度も申しています


    室町期末期から江戸初期に掛けて、立身出世したものが「姓族」に成りました。
    殆どの武士はこの「姓族」なのです。
    その「姓族」が民衆の支配者に成りました。
    ここで困った事が社会の中に起こりました。
    それは、全ての事に対する「権威」が無く成った事です。
    そこで、秀吉や家康の江戸幕府はこの権威づくりに躍起と成ったのです。
    先ず、大名に対して「権威づくり」を命じます。
    当然に大名は家臣に対してもこの「権威づくり」を命じます。
    最終は、足軽までこの「権威づくり」に懸命に成りました。
    当然に、「姓族」である為にルーツを持ち合わせていませんでした。
    そこで、ある権威を過去に持った「氏族」に繋げる以外には「家の権威」は出来上がりません。
    ある権威のあったルーツの系譜と別に権威の在った系譜を繋ぎ合わせて一つの系譜を作りました。
    その系譜の真偽如何は別で、先ず作る事が求められました。
    この作り方には色々あって、そのような系譜や文面などの「物的証拠」を作り上げる職業が現れました。
    主に古い神職や住職が請け負いました。
    この「権威付け」は時代が進めば、真偽は真実になる事に成ります。
    そして、これを「正しい資料」として「ネット上の情報」として提供されているのです。
    多くは「地域的で恣意的な宣伝」を込めて提供しているものもあるのです。
    明治初期に成ると、何時しか、武士のみならず「農民」までもが行いました。
    「家柄」をよく見せる為に搾取偏纂を多額の金品を使って作り上げたのです。

    当然にこれには無理が伴います。慣習仕来り掟等が、「氏族」や「姓族」等では違っているのです。
    これは相当歴史を知らないと見抜けない事なのです。
    今回のお問い合わせもこの事の明確な現象です。


    初期ご質問
    さて、そこで、今回のお尋ねはこの典型的なものです。
    従って、先ず、”伝承が混じった”とすることには異論はありません。
    「氏族」には問題はなく、この時に「全ての姓族」にこの「継承の混濁現象」が起こったのです。
    特に、この時期の情報は特に注意しなければならないのです。
    摂関家の「藤原兼隆流」と、「藤原秀郷流」の支流血筋として持つ「本家」の宇都宮氏とでは違いすぎます。
    この「関東屋形」と呼ばれる一氏の「宇都宮氏」とは、同じ藤原氏北家でも身分家柄官位官職支流族等一切比べものに成らないほどに違っています。
    江戸初期によくあった典型的な現象ですが、自分の家柄をよく見せる様に作り上げた事から起こった現象です。
    氏家制度では、この様な事は実際にはあり得ません。明らかに搾取偏纂の見本のようなものです。
    兼隆流を名乗る者は山ほどあるのです。
    家柄をよく見せる為の「権威づくり」に使われた見本のような藤原氏なのです。

    ”搾取偏纂をしましたよ”と云っている様なものです。
    つまり、「兼隆と青木氏」を結び付けたご先祖は ”、私は「第三の青木氏」ですよ” と云っているに等しいのです。
    一方で、殆どの人が知り得ない情報の”「龍神村の青木氏」”の事を知っていた事。
    他方で、「龍神村の青木氏」を知っているのに、”「脩行系の事」は知らない”と云う大矛盾があります。
    明らかに「権威づくりの貼り付け」であった事を物語っているのです。
    >どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。
    このご指摘を証明する事に成ります。
    お墓は1667年の刻みですから、江戸初期の時期のもので、兼隆説ではこの事で「第三の青木氏」の説に成ってしまいます。
    この論調には、鎌倉期から時の政権が発する「軍則規定」と「西園寺と宇都宮氏の時代性」に矛盾が出るのです。

    幕府は、戦乱で伸し上がった家柄の無い者が殆どであった為に、社会に権威を作り上げて「権威社会」を作り上げようとしました。
    全ての家に対して搾取偏纂でも良いから作る様に命じたのです。

    その為に、家柄のはっきりしない殆どの「姓族」の者は、平安期の良い家柄を繋ぎ合わせる作業をしたのです。
    これをしないと、「黒印状」が交付されない事に成り、家臣としての筋目が定まらない為に俸禄を受けられない事が全ての武士に起こったのです。

    特に、元は陸奥域の小豪族であった者が、秀郷一門が陸奥に赴任した時に、現地の土豪との間に出来た血縁族が、秀郷一門が任期切れで関東から戻ってくる時に付き従ってきた一族です。
    特に、「関東屋形」と呼ばれる4氏(結城氏等は除く)の3氏はこの末裔です。
    お家が拘る「宇都宮氏」の出自は、宇都宮域を秀郷一門の背景で奪い取って勢力を拡大させた陸奥の小土豪からの立身出世の豪族なのです。
    この為には、結城氏等を除いた「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」、・「赤松氏」等は、その系譜を藤原氏に求めたのです。
    この他にも、足利氏の前身の「花房氏」、「小田氏」などは陸奥から来て大豪族に成った「姓族」です。
    例外なく、これらの立身出世して大豪族の系譜には矛盾の持った「権威づくり」を100%しています。
    それを見抜けるかはその人の歴史力に関わります。

    況して、分家の「伊予の宇都宮氏」は、分家の宿命でより家柄を見せる為に時には、本家以上の「権威づくり」をしたのです。
    この宇都宮氏も同様ですし、地域性の宣伝も垣間見れます。見抜けるかどうかに関わります。
    本家が秀郷流一門支流族であるのに、それよりもより家柄をよく見せる為に、摂関家の藤原兼隆との系譜と繋いだのです。

    恐らくは、「伊予の宇都宮氏」は「氏家制度」の社会でしたから、本家の許可が降りなかった等の何らかの問題があったと考えられます。
    ”本家の云う事を聞かない”や”献納金を納めない”や”血筋が違う”などのいざこざが当時、分家との間で起こったのです。その為に無理に兼隆と繋いだのです。

    更に、お家も、紀州からの落人で地元の武士で無かった事から、全く系譜が在りません。
    そこで、どこかで繋がりを創る必要があって、”「伊予宇都宮氏」との間で養子縁組の繋がり”があった様に作り上げたのです。
    周りも例外なくが行っているのです。
    「呉越同舟」です。観て観ぬ振りをする等の事が横行しました。

    お家のご本家筋は伊勢か静岡に逃亡したのですから、到底、系譜を作る事が出来ません。
    況して、南北朝では「武蔵の本家」の方針に従わなかったのですから、搾取以外には無かった筈です。
    >『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。
    このご質問には、答えは、つまり、極めて自然な考え方です。
    この室町期中期から起こって、江戸期初期に爆発的に起こった事以外には歴史的に無いのです。
    この時に、「伝承の混濁」が起こった事に成ります。
    全ての「姓族」はこの時に「搾取の伝承」を公に作ったのです。
    「姓族」は元より系統的な先祖の情報を持っていなかったのです。

    上記に記した「関東屋形」で ”結城氏等は除く”と書いたのは、彼らの系譜にはこの現象が無かったのです。
    宇都宮氏等と違って「氏族」ですから、「伝統的な継承」は持っていたのです。
    丁度良い事例があります。

    参考として、実は、鎌倉幕府を作った頼朝は、この関東の藤原秀郷一門を味方に引き入れる為にある行動を採りました。
    敢えて消えていた由緒ある「結城氏」等の「氏族」らの「氏名」を復活させ、所領を与えて「権威づくり」をしたのです。
    この「本領安堵策の復活劇」を二度も反対を押し切って強引に行いました。
    有名な事で、この為に、頼朝の「政治的背景」と成っていた「坂東八平氏」に反発されて、トリカブトで暗殺されたのです。
    頼朝の源氏子孫は全て暗殺された有名な事件がありました。

    日本には、青木氏の様に、ルーツを持つ「氏族」と、室町期中期から発祥したルーツの持たない「姓族」とに別れます。
    日本で最初に「姓族」に成ったのは「海部姓」です。
    「姓族」には、元々ルーツを系統的に継承する概念が元々無かったのです。
    この「姓族」が武士に立身出世して、幕府の命にて江戸初期には、「姓」と「家紋」と「ルーツ」を新たに作ったのです。

    その江戸初期のルーツを持つ「氏族」には、正規には「48氏」があります。
    それの流れを持つ氏流族が「200程度」でした。
    鎌倉幕府と室町幕府はこの氏族を認証しました。
    これを「家紋200選」と呼ばれていて有名です。
    この248氏の「氏族」には正規の歴史と系譜はあるのです。
    この「48氏」のトップに、滅亡せずに「青木氏」が在ったのです。
    故に、この青木氏のサイトに過去の歴史などの情報が提供できているのです。
    日本には「氏名」と「姓名」を合わせると約8000程度あります。
    この10%程度が江戸期には武士であったのです。
    その一割の20%程度が平安期から「歴史と系譜」などの情報を継承している事に成ります。
    お家が拘る「宇都宮氏」は、この系譜を作らなければならない「姓族」なのです。
    この「姓族」はこの一割の20%の「氏族」に歴史を何らかの形を作り上げて繋げようとしたのです。
    この「氏族」の更に50%程度は滅亡しています。
    この「50%の氏族」に歴史を繋いで置けば問題には成りません。
    100%で「姓族」は、この「50%の氏族」の歴史と繋いでいます。
    この事を知った上で「ネットのサイト情報」を使うべきなのです。
    「ネットでの情報」を使うのであれば、先ずは、この「氏族」か「姓族」の判別が必要なのです。
    (更に詳しく判別するには「第三の姓」と「未勘氏」との判別が必要です。「専門の歴史書」が在ります。)

    ですから、お家は平安期から「脩行系の歴史と系譜」を正規に持つこの青木氏なのです。
    しかし、「氏」と「家紋」と「ルーツ」を持てない事態が、お家に起こってしまったと云う事なのです。
    「姓族」と全く同じ条件に成ってしまったのです。
    それが「南北朝の結末」です。更に、お家は伊勢等の本流に従わなかったのです。
    従っていれば、本流と同じに「氏名」と「家紋」と「ルーツ」などの象徴する事柄は、宗家より許されて元に戻す事が出来た筈なのです。
    ところが、お家は、尚も、この本流との行動にも従わなかったのです。
    お家にはこの様な「三つの絶対的なハンディ」があるのです。
    だから、このネットに描いている事の”繋がりの物的証明”が必要なのです。
    「青木氏」と云う「氏族」でありながら、「別の歴史と系譜」を作る以外には無かったのです。

    ネット情報を使うのであるのなら、当時の”婚姻関係の仕来り”や「歴史の史実」をもっと先ず知る必要があります。
    前回にも書きましたが、「ネット情報」はこの様な検証が出来ていないのです。
    この様に「江戸期の搾取偏纂の系譜」を信じての「ネット情報」なのです。
    この事を知っていて、敢えて、ある思惑を込めて描いているものもあるのです。
    また、お家もその論理の中に入っている様です。

    紀州から落ちて来た者に課せられた当時の江戸期の社会の条件をまず客観的に考えてみる事が必要です。

    ”よそ者、落ち武者、落人”を当時の社会がどの様に受け入れたかの史実を知るべきです。
    簡単な例として、あの有名な名家の「平家滅亡」、「清和源氏衰退と滅亡」の逃亡時の生活をお知りに成ると判ります。
    お家が主張する”「伊予宇都宮氏」との関係が果たしてあり得るのか”と云う事に気づく筈です。


    青木氏には、お家の様な”青木氏の落人を救うシステム”が各地に構築して在ったのです。
    先ず一つは、福井県に歴史からはみ出されたこの青木氏を集めて、保護し庇護する組織を持っていました。
    次ぎに、近江ー伊勢ー信濃ー美濃ー甲斐には影の3つの「シンジケート」を持っていました。
    落人を集めて「影の武力集団」を構築していました。
    筆者の「伊勢ー信濃シンジケート」は青木氏等が「二足の草鞋」で営む「商いの運搬」などの保護などを担当していました。
    このシンジケートには経済的な支援をしていました。
    信長が「伊勢丸山城攻め」の時に、この「青木シンジケート」が「ゲリラ戦」で戦って勝ったのです。
    歴史上極めて有名な事件です。歌舞伎にも成った位です。
    何度も云っていますが、詳しくは、「青木氏の守護神ー祖先神の神明社」の論文をお読みください。
    全国に500社に及ぶ「神明社」がこの「中核の役割」を果たしていたのです。


    「江戸初期の系譜偏纂」の令に対して「よそ者」がどの様に証明する「物的証拠」を見つけ出す事が出来るかです。
    お家には絶対に無かった筈です。恐らくこれからも全く無い筈です。
    在ったとしても、「姓族」が採った「贋作手段」だけです。
    江戸社会は、この現象事が特別な行為では無かった為に、当たり前に捉えられていたのです。

    筆者はお家が「青木氏」は「青木氏」ではあるが、「家紋」や「氏名」やルーツさえも真面に継承出来なかったと観ています。
    だから、その流れの中で匿名としている「・・」の姓名に成ったと観ています。

    「氏家制度」の中で、”本家に反した行動を採った者の末路”が、「本家青木氏」と「宇都宮氏」と「秀郷宗家」とその一門がどの様な反撃を加えるかを考えるべきです。
    ゜秀郷一門の「第二の宗家」の云う事を聞かなかった者の末路は一族の「示し」から決まっています。
    それも前回ご忠告した現在感覚では無く、江戸初期の「氏家制度の封建社会の感覚」でお考えください。

    次ぎのご質問
    >またこれもネットの知識ですが、当家のルーツとされる紀州明恵村の青木氏が居住地を追われることになった南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王が宇都宮氏を頼って伊予、さらに九州へと渡られた、ということがあったようです。
    >あるいは当家の先祖は、讃岐青木氏を頼って四国へ移動したあと、この南朝方の動きに従って愛媛南部へ移動した、というのは飛躍しすぎでしょうか。

    先ず、上記した様に、「落人の移動」に付いて、簡単ではありませんでした。
    飛躍しすぎです。無いと考えます
    当時には、「氏家制度の社会慣習」が在ったのです。
    上記した様に、お家は先ず”生きる事の問題”が発生していた筈です。
    「南北朝の問題」に対して、”氏家制度”の中で”「武蔵宗家の意」”に反して行動したのです。
    この事は当時は”どの様な扱いを受けるか”です。
    宗家側が”下手な扱い”をすると、今度は自分の立場は無く成る事に成り、一門の統制が採れなくなります。
    「氏家制度の統制」も採れません。
    まして、逃亡先が讃岐も秀郷一門の中でも二番目に大きい土地柄ですよ。
    ”「讃岐藤氏」”と呼ばれた土地柄です。
    伊予を頼った南朝の「懐良親王」ことは承知しています。
    だから、始めから「紀州の青木氏」が讃岐−伊予間に逃亡した事が判っていたのです。

    このお家が主張する「伊予の宇都宮氏」がこれを保護したとすれば、次ぎの様な事が起こります。
    「宇都宮の本家」は「伊予の宇都宮氏」を容認する事が出来ませんよ。
    本家筋は、「秀郷宗家」から、「第二の宗家の青木氏」から睨まれます。
    当然に、”何とかせよ”と圧力が掛かります。
    「宇都宮の本家の圧力」があったから、親王は止む無く九州に逃亡したのです。
    圧力が無ければ伊予に留まっていた筈です。
    九州は大蔵氏族の土地柄です。
    南朝方の親王が逃れるには四国より尚厳しい環境下ですよ。
    ここまでは判っていました。
    従って、お家の「青木氏」も、「武蔵の宗家の意」に反したのですから、「伊予の宇都宮氏」にお家が云うその様な扱いを受けるかは疑問ですね。
    ”先ず無い”と考えます。
    秀郷一門の「第二の宗家」の「青木氏の意」に反しての行動をしたのです。
    宇都宮だろうが伊予だろうが、「第二の宗家」に逆らって匿う様な事は出来なかった筈です。
    匿う事の利益を宇都宮氏に与えるものはお家には何もなかった筈ですし、むしろマイナスの物しかなかった筈です。
    従って、良い扱いを受けなかった事は100%確実です。
    親王自身さえも九州に逃げているのですよ。
    ”お家が云う様な扱い”は宇都宮氏側には無かった筈です。
    「伊予の宇都宮氏」に取っては何の利益もありませんよ。迷惑だけです。
    ここでも「お家の言い分」は作り上げたものである事は間違いありません。
    「江戸期の厳令」でしたから、何らかの贋作の物的証拠の書類等を用意しているかも知れませんが。

    ただ、助けられる環境・方法が一つ有史来、「青木氏」に在ったのです。
    ですから、前回に、「何故、”讃岐青木氏」が助けた”と筆者が書いたかです。
    「青木氏のシンジケート」が、この讃岐にもあって、影で働いていたのです。
    この事は青木氏であれば全て知っていた筈です。
    しかし、お家は強力に「宇都宮氏」説を採っている事は、この事を知らなかったと云う事になります。
    つまり、「紀州の青木氏」では無かった事を意味するのです。
    「第三の青木」と云う事に成ります。

    お家は宇都宮氏に「物的な根拠」のみならず「状況証拠」もない中で拘っています。
    筆者は何度も「讃岐青木氏」だと云っています。
    実はこれには、助けた明確な理由があったのです。
    「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」は、平安期から「武蔵の宗家」に匹敵する以上に歴史的に長く経済的に恵まれていたのです。
    その為に、宗家に対して独自の行動を採って来たのは有名なのです。
    その有名な事件が瀬戸内で起こった「藤原純友の乱」です。
    この前から、「讃岐藤氏の讃岐青木氏」は「瀬戸内の経済力」を独占していたのです。
    昔から、”瀬戸内を制する者は国を制する”と云われていました。
    絶大な勢力を瀬戸内で持った「讃岐藤氏の純友」はこの事に巻き込まれたのです。
    秀郷宗家の云う事を聞かなかったし、摂関家の云う事も聞かなかったのです。

    その勢力を以てしたことから、「甲斐の武田氏系青木氏」が逃亡した時も、「讃岐青木氏」は高知で勝手に保護したのです。
    ですから、前の回答に記しました様に、「青木氏の歴史」の中で、「紀州の藤原脩行系の青木氏」が「讃岐青木氏」を頼った事が判っているのです。
    ここがお家の言い分とは違う所です。
    「伊予宇都宮氏」と結び付けての根拠が成り立つのかをお考えください。
    陸奥から出て来て豪族に成った「宇都宮氏」は、秀郷一門の「関東屋形」との繋がりの持つ豪族で、「第二の宗家の青木氏」の支配下にありました。
    だから、お家は、可能性が有るかのように見えるところを系譜に「繋がり」を持たしたのです。

    しかし、もっと直接的に繋がりがある「讃岐藤氏の讃岐青木氏」では無くて、何で間接的な「宇都宮氏」が出て来るのでしょうか。
    紀州から逃亡時はこの「讃岐青木氏」を頼ったのですよ。
    お家は「伊予の宇都宮氏」と繋げていますが、氏家制度では、「お家の青木氏と伊予宇都宮氏」ではどの様な関係なのでしょうか。
    もし、その論調で行くのであれば、下記にも論じていますが、青木氏である事の疑問の方が大きいのです。

    他の二つの本流の逃亡グループも「伊勢青木氏」と「愛知静岡の青木氏」を頼っているのですよ。
    「伊予宇都宮氏」であって、何故に「讃岐青木氏」では無いのでしょうか。
    この南北朝から江戸初期まで、「落人のお家」が生き残るには「相当な武力」と「経済力」の背景と、「近親関係」が無ければ無理な事です。
    何より、落人ですから大義はありません。
    何時の時代も、況して、「氏家制度」で成り立っている社会のなかで、「大義の無い者」を助けるには相当なそれを跳ね除ける力を有して居なければなりません。

    どの様に信じるかは自由ですが、どの様な「物的根拠」があるのかは判りませんが。

    「讃岐青木氏」の勢力圏は愛媛と香川の南部と高知まででした。
    ”南朝方に従って・・”のところは賛成できません。逃亡者に対しては描きすぎています。
    ここにしか「讃岐青木氏」は移せなかったのです。
    「高知青木氏」の定住地は、武田氏が滅んだ際に「讃岐青木氏の背景」を借りて奪い取った地域です。
    南北朝期には未だ香川と愛媛の国境にしか移動定住する地域は出来なかったのです。
    自由に住み着ける時代ではありません。
    戦いに負けて逃亡する者は殆どは山奥の山賊に成るしかなかった時代ですよ。
    平家の落人も、龍神村の山奥に逃げ延びたのですし。四国の山奥に山賊として逃げ延びたのですよ。
    お家の論調には、この普通あり得る状況や環境の配慮が欠落しています。
    直ぐに普通に生活して血縁しての論調の中にあります。
    「家柄身分」の「つり合い」を重視する社会の中で、直ぐに「宇都宮氏」との血縁であるとする、論調には着いて行けません。

    前回にも書きましたが、お家には「国抜けの罪」(打ち首)が働くのですよ。つまり、罪人なのです。
    「よそ者」が生きるには、それなりの「保護者」が無ければ生きて行けないのですよ。
    そう云う物的証拠が見っかっていますか。


    況して、「よそ者」が定住するには、この地域では「伊予の宇都宮氏の背景」では無い筈です。
    「讃岐青木氏の背景」があってこそ「定住地」を奪い取れるものでした。
    其処からの先ずスタートです。其れが無くしてはそれこそ「山賊」となるしかなかった筈です。
    果たして、この背景に「伊予の宇都宮氏」が出来た事でしょうか。その様な史実はありませんよ。
    筆者は、「伊予の宇都宮氏」の説には信用出来ません。「江戸期の搾取偏纂」の典型的な結果と観られます。

    「讃岐青木氏」は氏名を村名と出来る許された氏で、讃岐には「青木村」を形成してました。
    「讃岐藤氏」と呼ばれて、昭和20年まで廻船問屋を手広く営んだ氏です。
    東には徳島青木氏の青木村を形成していた定住地です。
    四国では讃岐青木氏の援護が無ければ身動き取れなかった筈です。
    それには讃岐青木氏にも何らかの特典が無ければ無暗に保護してもらえる事はありません。
    そういう証拠や史実を見つけて検証する事が大事なのです。
    ネットの情報や郷土史は筆者の経験から青木氏には無理ですよ。
    筆者は全く信用していません。
    「讃岐藤氏」は「純友のルーツ」です。「藤原純友の乱」の論文を投稿していますので参照してください。

    前回のお応えの「関東屋形」の結城氏を除いた4氏の一つが、お家の「現在の姓」に成っている事に付いてもう一度お考えください。
    匿名とされているので論じる事が出来ませんが。

    第四のご質問
    >実は郷土史を調べると、当地には懐良親王がこられた、との伝説が複数残っており(宇都宮氏が居城とした大洲喜多よりはだいぶ南になりますが)、かつては後醍醐天皇の勅願寺もあった、という話もあります。
    >当地宇和島市は、かの海賊・藤原純友が根城とした日振島を擁する土地ですが、後には『倭寇』の一派が基地とした地域でもあったそうで(懐良親王も倭寇海賊とはご縁の深い方のようです)、今でも『我が家は白ふんどし(倭寇のことだそうです)の子孫』と名乗る家があったり、古い寺からは東南アジア由来の文物が発見されることがあるそうです。

    「藤原純友」は「海賊」では無く、「海部族や塩飽族」等を擁する「海族」です。
    「讃岐藤氏」と呼ばれる瀬戸内の利権を制していた大豪族です。
    朝廷にその勢力を睨まれて「経基王」に讒言されて、九州に勢力圏を持っていた「大蔵春実」に攻められて潰された讃岐藤氏を率いていた人物です。
    大蔵氏は平家とは同族で、平家はこの「瀬戸内の利権」を狙っていたのです。
    それを先に同族の大蔵氏が獲得しますが、この利権を最終は平家に渡します。
    この為に、貞盛より5代目が清盛が勢力をもったのです。
    「経基王」も「瀬戸内の利権」を獲得しようとして讒言してまで働きましたが大蔵氏に奪われてしまいます。

    丁度、この時、関東では「平の将門の乱」が起こり、「藤原秀郷」と「平貞盛」が沈めます。

    南北朝の「逃亡する親王」と「お家のルーツ」を結び付けようとする考えには無理があると思います。
    それに「伊予宇都宮氏」を介在させる論調には上記した様に無理が在ります。
    もし、お家がこの論調とすると、そもそも「青木氏」であるとする論処は無く成ります。
    室町期の「第三の青木氏」の可能性の方が強く成ります。
    江戸の中期に出た「姓の歴史書」に記載されている「第三の青木氏」とすれば矛盾は無い事に成ります。
    「落人の青木氏」が辿る経緯ではありません。


    >また、海側には宇都宮氏の伝承も残り、西予市明浜町には「城主・宇都宮修理大夫正綱のカッパ退治」という伝承があります。「宇都宮正綱」は、下野の宇都宮本家の当主であった、とネットにありますので不思議ですが、伊予宇都宮氏と宇都宮本家との関係の近さを示すのかもしれません。

    「第一の根拠」
    お家は、紀州に藤原修行一族の護衛に同行した「秀郷流青木氏」で、「明恵村」の付近の青木村に住んでいた青木氏であると観られます。
    しかし、この根拠は、「広域の龍神村」に青木氏が住んでいたとする極めて局所の「青木氏の情報」を持っていた事です。
    これは、”口伝でしか伝わらないものである”と観られることからの根拠です。
    当地でも知られていない位の消えた「青木氏の情報」です。これが「第一の根拠」と成っているのです。
    この根拠が消えれば全ては消えます。
    つまり、嵯峨期の詔勅と禁令を破った「第三の青木氏」と成ります。

    「第二の根拠」
    そもそも家紋も青木氏には無い家紋です。
    「左三つ巴紋」では ただ、「関東屋形」と呼ばれる秀郷一門の4氏の内の2氏がこの家紋を持っています。
    この4氏とは「秀郷流青木氏」は「第二の宗家」として関わっていた事が繋がりです。
    これが「第二の根拠」です。

    「第三の根拠」
    この家紋が、丁度、紀州の「脩行系の青木氏」が、南北朝で「讃岐青木氏」を頼って讃岐伊予方向に落ち延びたとする情報があった。
    そこに、「左三つ巴」紋の伊予宇都宮氏が居た。
    「関東屋形」の「宇都宮の宇都宮氏」と「匿名」とする氏の家紋と繋がった。
    しかし、この根拠は「左三つ巴紋」が前提と成っています。
    だから、これが「後付の家紋」であるとすると「消える家紋」です。

    では、「後付の家紋」でないとするためには、次ぎの前提が成り立たねばなりません。
    「第一の根拠の明恵村」の付近に「三つ巴紋の青木氏」があるかと云うことが大前提と成ります。
    これが崩れれば、「三つの根拠」は全て崩れます。
    つまり、別にお家の「青木氏の家紋」があった筈である事に成ります。
    この事を前回にご忠告したのです。
    この「左三つ巴紋」は「青木氏」には無い事は判っています。
    「明恵村の青木氏」のルーツとみられる和歌山の末裔の「6家の青木氏」の「家紋」にはこの家紋はありません。

    ですから、上記の経緯から「本来の家紋」も「氏名」も継承出来なくなった事を物語っているのです。
    つまり、お家の「左三つ巴」の家紋は明らかに「後付」です。
    「宇都宮氏」に繋げるための「後付の家紋」と成ります。
    そうすると、「後付の家紋」をベースにすると成れば、「青木氏」では無く、匿名「・・」の姓名にする必要があります。
    では、匿名の姓名「・・・」を名乗らずに、その時に、何故、「宇都宮氏」を名乗らなかったのですかね。
    何故もう一つの左三つ巴紋の「・・」の方の姓名を態々名乗ったのでしょうか。
    もっと云えば、青木氏と元の家紋を名乗らなかったのでしょうか。

    宇都宮氏や親王の様に間接的な方向での証明できない疑問の前に、青木氏の疑問の方の解決の方が信頼性は高まると思いますが。

    家紋掟によって変紋した可能性は、宗家がお家のご先祖の行動を許したとする前提で成り立つ話です。
    然し、許してはいませんね。「青木氏116氏」の中に「三つ巴紋」がないのですから。
    上記した様に、伊勢方向に移動した別の本流が居る限り許されたとする前提は成り立ちません。
    その証拠に伊勢方向に移動した青木氏には「左三つ巴紋の青木氏」が無いのです。
    青木氏全体にも無いのです。
    「後付」の家紋で氏名も何代かで継承する事も出来なかった筈です。
    「匿名の姓名」に現在も成っている事もその状況証拠です。



    お家のご先祖のお一人が伊予に居て「紀州の龍神村」の「青木氏」を何故知り得たのでしょうか。
    これが「最大の謎」です。

    A お家の先祖の聞き絶えた口伝
    B 周囲の讃岐青木氏から聞き伝えの情報

    紀州では、讃岐青木氏に庇護を求めて逃亡した情報がある事。
    本流と分流の2流で逃亡した事。
    青木村は誰もいなくなった事。

    Aであれば、本論
    Bであれば、江戸期の歴史書の「第三の青木氏」

    兼隆説に結び付けた事では「第三の青木氏」に成ります。
    有名な佐野氏系の藤原脩行系であった事が知らない事、
    有名な摂関家の藤原氏の兼隆に結び付けた事
    以上ではBに成ります。

    何か、Aに関してのお家の””「お墓の状況」””が何かを物語っている気がします。

    兎も角もこれ以外に証拠に成る情報がないかをお調べに成る事をおすすします。

    (不確定な「ネット情報」に頼るのではなく、「身の回りの情報」を推理して検証して行く「ルーツ探し」をお勧めします。
    それには持っている情報をフルに提供いたします。
    何度も云いますが、「ネット情報」は「氏族のトップの青木氏」には無理なのです。
    ですから、「青木氏サイト情報」を提供しているのです。)


    匿名「・・・」の根拠からも検討して観てください。。
    匿名「・・・」関連はBになる要件ですね。
    AかBになる重要な要素です。

    筆者はAと観ていますが、出て来る情報はBに成っています。

    上記の ””「3つのハンディの立場」”” から、更には、””「伊予の地」での行動”” 即ち、”「讃岐シンジケート」をも受け入れられなくなった事情”
    この「Aの情報」をもっと探される事を期待します。

    ”宇都宮情報”は、青木氏に取っては間接の更に間接情報ですし、更には、上記の「江戸期の混濁問題」があり、Aは無理だと思います。
    故に、完全にBに陥ってしまったと観ています。

    では、ご質問が在れば、お尋ねください。 


      [No.978] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:元・青木   投稿日:2014/07/02(Wed) 17:35:18  

     ご無沙汰して申し訳ありません。
     詳細なご教授に重ねて感謝いたします。
     その後、歴史音痴ながらも自分でネットなど巡ったりしております。
     その中で、またいくつかの疑問といいますか、ポイントが浮かびましたので投稿させていただきます。

     最初の書き込みで、当家が『藤原氏・藤原兼隆の子孫』との伝承があると書き、副管理人様から「問題がある」とのご指摘を受けましたが、ネット等で調べてみたところ、宇都宮氏がこの『兼隆』をルーツとして伝承されているようです。
     伊予宇都宮氏、さらに『左三つ巴』の家紋から、当家との養子関係が指摘される宇都宮氏だけに、『歴史のどこかの段階で伝承が混じった』と考えるのは不自然でしょうか。

     またこれもネットの知識ですが、当家のルーツとされる紀州明恵村の青木氏が居住地を追われることになった南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子・懐良親王が宇都宮氏を頼って伊予、さらに九州へと渡られた、ということがあったようです。
     あるいは当家の先祖は、讃岐青木氏を頼って四国へ移動したあと、この南朝方の動きに従って愛媛南部へ移動した、というのは飛躍しすぎでしょうか。
     実は郷土史を調べると、当地には懐良親王がこられた、との伝説が複数残っており(宇都宮氏が居城とした大洲喜多よりはだいぶ南になりますが)、かつては後醍醐天皇の勅願寺もあった、という話もあります。
     当地宇和島市は、かの海賊・藤原純友が根城とした日振島を擁する土地ですが、後には『倭寇』の一派が基地とした地域でもあったそうで(懐良親王も倭寇海賊とはご縁の深い方のようです)、今でも『我が家は白ふんどし(倭寇のことだそうです)の子孫』と名乗る家があったり、古い寺からは東南アジア由来の文物が発見されることがあるそうです。

     また、海側には宇都宮氏の伝承も残り、西予市明浜町には「城主・宇都宮修理大夫正綱のカッパ退治」という伝承があります。「宇都宮正綱」は、下野の宇都宮本家の当主であった、とネットにありますので不思議ですが、伊予宇都宮氏と宇都宮本家との関係の近さを示すのかもしれません。

     素人考えではありますが、今更ながらロマンの尽きぬ話と実感しております。


      [No.977] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/22(Sun) 11:15:32  

    元青木さん 今日は。お読み頂けましたか。ありがとうございます。

    お家のルーツに付いて、驚かれた事と思います。
    当然の事と思いますが、現在は、完全に殆どの青木氏は先祖のルーツを失っています。
    従って、過去の先祖の生き様が判れば、その格差の差で整理がつかないのは当然の事です。
    多少なりとも、その伝承が生活の中に遺されているのであれば、系統的に想像もつくので、矢張りと云う印象も持つ事に成ります。
    しかし、幸いにも偶然にも、お家は肝心な先祖の情報を持ち得ていたと云う事が、ルーツの解明につながったのです。
    前回のお便りに頂いた情報、紀州龍神村、墓、家紋、宗派、菩提寺、伊予南部地名、庄屋、宇都宮、農家、「・・氏」、西園寺氏、そして、今回のお便りのお墓の詳細な情報、これだけの情報を持ち得ている青木さんはすくないのです。

    そして、この情報が、遺されている「青木氏の歴史史実の資料」に全て合致するものです。
    普通は、この様に矛盾なく合致する事は先ずありません。
    どれか一つ搾取の情報があると他との矛盾が出てきます。
    それは、江戸時代を含む前の時代は、氏家制度の中にありましたので、その社会慣習の取り決めで矛盾が出て来るのです。
    例えば、浄土真宗とありますと、この宗派は浄土宗から分派した親鸞の真宗で、3派に分かれていますが、その一派は武家の藤原秀郷流青木氏が入信した宗派で法然の浄土宗の概念を頑なに引き継いだ派に成ります。秀郷一門の宇都宮氏の寺はこれを証明しています。

    農民とありますが、農民はルーツと墓の概念が元々無かったのです。
    明治以降の自由社会で初めて持った概念です。

    そもそも、ルーツを系統的に維持しようとすると、その為の系統の要素が必要ですね。
    つまり、先ずは、「氏か姓」が必要ですね。そうでなければ、「・・氏の・・太郎」として記録して行くことは出来ませんね。
    でも、農民は、この「氏と姓」を持つ事を許されていませんでした。
    次に、この「氏や姓」を整理してルーツの譜を作らねばなりませんね。
    当然に、これをするのは、お寺ですね。
    しかし、このお寺はこの武士以外の者のルーツを管理していませんでしたし、認められていませんでした。
    つまり、武士の「過去帳」の様なものを作る事は出来なかったのです。
    「人別帳」と云う1代限りの戸籍簿です。

    「過去帳」は「特定の氏」(上級武士)が「自らの氏の寺」、即ち「菩提寺」でしか作りません。
    その他の宗派は全て、「檀家寺」です。不特定多数の人によって維持される寺の事です。
    しかし、特定の農民を除いてすべての農民はこの檀家寺にさえ入れなかったのです。
    明治初期までこの状態が続きました。
    明治3年の苗字令8年の督促令によってはじめて苗字を持つ事が出来ました。
    やっとルーツをたどる基本要素を持ったのです。
    そこから、初めて墓を持ち、家紋を持ち、檀家寺を持ちする様に成ったのです。
    それまでは、農民などは「河原の石」(砂岩)を積み上げる程度の墓を持つ程度の事でした。
    自然風化が原則です。
    「ルーツ」と云う”「概念」”そのものが無かったのです。

    お家の疑問の前提は、この「概念の有無」と「士農工商の身分制度」とそれを支える「社会慣習」(慣習、仕来り、掟)の知恵知識が欠落していた事に成りますね。
    明治期以降と江戸期以前は社会がまるで違ったのですよ。
    この二つの期を境にして常識を含む事柄一切が違っているのですよ。

    以上典型的な違いを例として挙げました。
    今回のお尋ねを全てご納得出来る様にするには、歴史の全ての知識をご説明しなければ無理かと思います。
    その為に、青木氏の本サイトは全国の青木氏の皆さんにこの江戸期以前の歴史の知識を網羅して正しく判断して頂く為に運営しています。

    「ルーツ掲示板」や「ルーツ研究室」や「家紋掲示板」や「地名地形データベース」「家紋掲示板」等に区分けして”判断に必要とする情報”を提供しています。
    これでも、お家の様に疑問を解消できない難しい特別な領域の不明な歴史の部分もあって、それを研究して情報を提供しているのです。

    ですから、恐らくはこのご質問が来ると観ていましたから、研究室やルーツ掲示板をお読みくださいと書き記したところです。

    お家のご疑問の解消はこの「サイトの情報」を絶対に読んで頂く必要があります。

    本サイトは営利団体ではありませんので、「全国の青木氏族」が自由に集うサイトです。
    全世界的なサイトに成っています。
    ヤフーHPに審査合格で認可されたサイトでは情報量は段突のトップの歴史のサイトです。
    現在では、青木氏外の方のご質問が多いサイトに成っています。

    兎も角も、今回のご質問は、納得していただくには、膨大過ぎてお応えしきれませんので、是非サイトの情報をお読みいただきます様に、其の上での個々の質問に何度でもお答えします。


    さて、今回の提供して頂いた情報にも極めて重要な情報があります。
    それに付いてお応えします。

    >当地は中央から遠く離れた四国の田舎ですし、どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。

    サイトの情報を読んで頂ければ直ぐに判ることですが、
    簡単に、お応えするとして、そんなことは出来ません。
    田舎云々は無関係です。
    武士以外の者が、明治以前にこの様な事は出来ません。
    それに、明治後の農民は花崗岩の墓で作りましたが、武士であった家筋は、仏教の仕来りで”土に帰る”を前提に、風化して消えて行く様に「砂岩」で作られているのです。
    お家の墓は明治前のもので朽ちていたと記されていますので明治期前のものです。
    「砂岩墓」は、武士の家柄が行う墓形式です。
    明治後に風化を嫌って武士も花崗岩の墓にしました。
    この時に明治期に、一族が一つにした総合墓と云うものを作りました。
    元々上記した様に武士以外が概念が無いのですから持つ事はありません。
    明治期の前に農民が持ったとしても、それをお寺が祭祀してもらえませんし、周囲から異常に観られます。
    異端児扱いされて先ず生きて行けませんね。
    農民の「国抜け」は「斬罪」で村から勝手に出る事は出来ませんので、異端児に成れば終わりです。
    「慣習仕来り掟」は絶対に護らないと生きて行けないのです。

    明治前であれば、墓を作る事さえも受け付けてくれませんよ。
    現在の自由感覚に何でも出来る社会では無かったのですよ。
    周囲で社会慣習や掟や仕来りや禁令で出来ない堅ぐるしい社会でした。

    明治後ではお話の事は確かに起こりました。
    明治かそれ以前かの判定をすれば、直ぐに判ります。
    この度の墓の情報がある事はそれを証明しています。
    こんなことを勝手には出来ません。お寺が応じてくれませんし、社会慣習や決まりの禁令を破るとして先ず捕まりますよ。

    先ずはルーツは過去の感覚の事ですよ。現代感覚では無理、だから歴史を知って過去の事を知ろうとしているのではありませんか。お家はこの判断が欠けています。

    >『なぜそのように判定できるのか』

    このお答えの前に、決定的な事を申し上げます。
    勘違いをされている様ですが、「青木氏」は誰でも使える名乗れる氏名ではありません。
    日本全国数ある氏姓の名の中で唯一特別な氏名なのです。
    この前提が説明不足でした。
    先ず、「青木氏」は「天智天皇」の大化改新での「第4世族」内の「第6位皇子」が名乗れる氏名として決められたもので、天皇から直接「青木」と云う氏名を賜姓される仕組みを作りました
    この最初に賜姓されて臣下したのが「施基皇子」で、それが最初の青木氏です。
    この時に、「青木氏」は色々な役目を与えられて下族します。
    天智天皇は、青木氏を一切の他氏が名乗ってはならないと禁令を出します。
    この「青木氏の賜姓制度」は「5人の天皇」によって継承されました。
    従って、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の守護王と成って赴任します。
    青木氏は皇子であった者が武家として天皇を警護する役目の近衛軍を創設しました。
    その青木氏は桓武天皇に依って一時廃止されますが、その子の嵯峨天皇が再びこの制度を再興します。
    この時、青木氏を源氏に変更します。そして、「青木氏」は皇族の者が下族する際に名乗る氏名としました。

    改めて、「嵯峨天皇」は最高の命令の「詔勅」を発して、一切他の者は「青木氏」を名乗っては成らないとし、その「青木氏」が行う「慣習仕来り掟」を使ってはならないとする禁令を発したのです。
    この詔勅と禁令は明治3年まで護られました。

    ところが、平安期に青木氏は役目が大変になり、藤原秀郷の第3子の千国にこの青木氏を補佐する様に命じて、青木氏を名乗って良いとしたのです。
    この秀郷一門とは母方で血縁しているのです。
    身分家柄官位官職職位全て同じのものを与えて「秀郷流青木氏」が別に発祥したのです。
    従って、この青木氏を名乗る事は絶対に出来ない氏名なのです。
    日本では詔勅と禁令の出た氏は「青木氏」だけです。
    農民が青木氏を名乗る等は直ちに斬罪に成ります。
    この「青木氏」には、「不入不倫の権」の特権を与えられました。
    つまり、保護命令です。

    これが青木氏なのです。
    筆者は伊勢青木氏です。第40代目の宗家跡目です。
    お家が秀郷流青木氏116氏の流れの青木氏です。
    この青木氏には4氏の血縁氏があり、その内の一つの佐野氏系の流れの「・・氏」の血筋を引く青木氏です。


    今回の提供して頂いた戒名の情報からも判ります。
    武士以外は、ルーツや墓の概念が無かったのですから、戒名を持っている事自体が武士なのです。
    それも明治前のものである事です。更には、それも8代前の者である事です。
    戒名がある事そのものは、檀家寺のお寺があった事を示します。
    それをある程度系統的に維持されている事に成り、それは更に苗字か氏を持っていた事にも成ります。
    従って、その宗家のお寺には何らかのものがあったからお墓の戒名に成ったのです。
    農民は概念すら無く戒名も先ず無かったのです。
    お家の宗家の仏壇には戒名帳又は過去帳成る物がある筈ですし、仏壇には、代々の戒名の書いた位牌がある筈です。
    8代目の戒名ですので、これは武士であった証拠です。
    戒名から観て、普通の武士では無い事が判ります。当然に農民でも無い事に成ります。

    そこで、今回の戒名から、ある事が判ります。
    武士の戒名でありますが、農民の武士の戒名でもあります。
    「院殿居士」がつく戒名が最高ですが、人物や身分や財力などで戒名が変わります。
    「居士」「信士」が付いていますので、これらから観ますと、武士で農民程度であった事に成りますね。
    つまり、庄屋、名主、豪農、郷士の何れかの身分の者であった戒名です。
    この四つの身分の者は先祖は全て武士であるのです。
    土地の土豪で地主であった者が村の長に成り指名される立場なのです。

    殆どは、郷士です。農民の長であって武士であるのです。
    この様な戒名に成ります。戒名の有無の問題です。戒名の内容如何の問題ではありません。
    明治を超えた戒名がある事は「武士」である事なのです。
    ”庄屋”と前回にありました通り、当に庄屋が持つ戒名の程度と成ります。
    庄屋であれば、お家の宗家には人別帳の写しや庄屋を示す何かのものがある筈です。
    「地主」で「屋号」や刀や紋付や農民に無いものが沢山あった筈です。
    それをお探しください。

    最も古い戒名の有るご先祖から遡って龍神村に辿り着ける時代考証が必要ですね。
    筆者はあくまでもお家のより確かな状況証拠を提示するもので、それを何とか証明するのはお家の作業であり、筆者には不可能です。
    その証明物を筆者が過去の歴史知識観から検証するのが務めですから、今回の様に戒名と墓所の証明物の様に検証すれば、後は信じるか信じないかはお家の酌量の範囲です。
    その為にも、サイトの基礎知識をまずはお読みくださいと申しています。

    今回のご質問の大きな答えは、農民には明治期までその概念とその先祖の作法は無かったものである事が全てを応えていると考えます。
    この判断で全ては判る筈です。明治期を中心に江戸期に入る情報が在るかの判断で決まります。
    お家の情報はこの江戸期の中にしっかりと入っているのですと云っています。
    お家が想像する農民の搾取偏纂は、慣習仕来り掟禁令で、江戸期には罪と成り行われていないのです。
    ある時期の下級武士以外を除いては。

    最早、お家に確定するには「物的証拠」が無く成っている様ですから、後は「状況証拠」の積み重ねでしかありません。


    >『当家の先祖が武士であったこと』、それが『秀郷流青木氏』の末裔であったことは、本当に『確かと認められること』

    前回のお応えは先ず100%に近い状態で間違っていないと思います。

    ご親族に示されるのであれば、必要な処の青木氏の資料をコピーして参考資料として先ずお見せして、其の上でご説明するのが適切と思います。
    或は、本サイトの存在を示し、観て頂くかの工夫が必要ですね。


    前回のお家の現代のお名前を日本全国の名前の中から、お家の現在の「・・氏」(匿名部)を状況証拠から当てました。
    その後で、「・・氏」の匿名の情報提供がありました。

    紀州からこの青木氏が讃岐を含む三か所に逃避した事も史実として掴んでいました。
    紀州からこの青木さんがそっくり無く成って地名だけが遺されているのです。

    「地名地形データベース」や「青木と云う地名の地図」をお読みください。
    そこに記載していますよ。

    ルーツ掲示板にもお家と同じルーツの人の尾張と伊勢に逃げた方のお便りが在りますし、研究室にも記載しています。
    (藤原明恵や藤原脩行や藤原脩種で検索してください。)

    讃岐へ逃亡した青木さんのお便りが無かったのです。

    この”龍神村の藤原系の青木氏”のその史実をお家のご先祖が知っていた事が先ず大変に珍しい事です。
    昔であれば青木氏のまとめられた資料発見はありませんでしたから、この史実を掴んでいた事は、それは、お家のご先祖に何がしかの口伝が遺されていたからです。
    それ以外には、全く無い事に成ります。
    現在でも、先ず、この情報の古来の資料を持っていて知っている人は殆どありません。
    地元でも、現在消えている史実です。平家の事は知られていますが、紀州に青木村もあった事さえ消えています。
    お家のご先祖の何らの口伝が在った事以外には有りません。
    これは何よりの証拠です。筆者も驚きました。讃岐に移動した史実は掴んでいましたが、讃岐青木氏の中に埋もれて判らなかった事が正直な事です。
    好い史実を掴みました。記録に遺します。ありがとうございました。

    更には、そして「・・氏」を2度目お便りの前に掲示板にお答えしています。
    こんなことは適格な情報が無ければ、「・・氏」は出来ませんよ。
    これだけでも確かな事を示しています。

    先ず、サイトの情報をお読みください。
    そこで都度、お家の内容との絡みから内容にご質問があればご遠慮なくお尋ねください。

    では、お便りをお待ちしています。


      [No.976] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:元・青木   投稿日:2014/06/22(Sun) 00:51:24  

     迅速かつ詳細、しかも明快なお答えをいただき、心から感謝申し上げます。また当方が歴史にさっぱり疎く、意図せず肝心な情報が小出しになってしまったことをお詫び申し上げます。

     ですがその一方、あまりに気宇壮大なお話を前にして混乱していることも事実であり、失礼を承知の上で馬鹿正直に言わせていただくならば、『どうにも信じられない』という気持ちです。
     親切に教えていただいておいて誠に失礼とは存じますが、無知な田舎者の戯言とお笑いくだされば幸いです。

     当家は本当に典型的な田舎の農家であり、先祖が武士、しかも歴史ある名門の出などと想像したこともありません。家紋が巴紋なのは知っていても、それが右か左かもよく知らなかった、という有り様です(苦笑) 今回、親族の遺した資料が見つかり(実はこれも廃棄する寸前でした)、あらためて古い墓を調べたところ『寛文7年』という古い年号と、風化しかけた左三つ巴の紋があることに気づき、質問をさし上げた、という次第です。
     それがこのような話に発展するとは全く想像せず、目を白黒させております。
     正直、親族にこの話をしても、信じるものはいないことは確実です。

     大変失礼な質問であることは承知の上でお尋ねしますが、『当家の先祖が武士であったこと』、それが『秀郷流青木氏』の末裔であったことは、本当に『確かと認められること』なのでしょうか?
     当地は中央から遠く離れた四国の田舎ですし、どこかで小耳に挟んだ適当な伝承をくっつけ、青木姓と紋を墓に刻んだだけ、という可能性もあるのではないでしょうか。
     いえ、こんなことを書くのはご先祖にも失礼とは思うのですが、正直なところ『我が家が武家の家系だなんて、そんなことが本当に起きるのか』という疑問のほうが大きい、という当方の困惑をどうかお汲み取り下さり、『なぜそのように判定できるのか』をいま少しご教授願えれば幸いです。

      
     どうか忌憚のない意見をお聞かせ願えれば幸いです。


      [No.975] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/21(Sat) 15:03:03  

    元青木さん 今日は。
    早速のご返事ありがとうございました。

    最早、何をか況やですね。
    一つの残された疑問も解明しましたね。

    菩提寺の宗派の真宗、創建年代、それに宇都宮氏の開基
    長曾我部氏に討たれた事等から筆者が持つ資料に一致します。

    間違いなく紀州から落ち延びた脩行系の脩種族の秀郷流青木氏である事と、その「左三つ巴の家紋」の疑問も完璧に一致しましたね。
    三つ巴の家紋が秀郷一門の6氏の家紋であり西園寺氏の家紋では無かったようですね。
    菩提寺の宇都宮氏は全国に大きく分布させた一族であり、この九州豊後に分布した理由も判っています。
    更に、筆者に直接お便り頂きました核心に成る情報から、最初にお答えしました6氏の内の一つの流れを組む青木氏である事も一致しました。
    この6氏は互いに血縁関係を持っておりました。その系譜の流れも掌握しています。
    お家は、明治期の3年の苗字令、8年の督促令の何れかに、絶えた青木氏の代わりに、血筋の受け入た氏名を名乗ったと云う事に成ります。
    この事例は秀郷流青木氏が絶えた時に取った良くある事例です。
    それは、浄土真宗で判ります。
    地方に分布した一族には、秀郷一門の宗派浄土宗が密教であった事から、その流れを組む顕教の浄土真宗に宗派を求めたのです。
    上記した、2氏も同じ宗派を他の地で子孫を拡大させた時に採った宗派であるからです。
    この事から、元は佐野氏系「・・族」秀郷流青木氏です。「・・氏族」は(匿名)
    当然に、宇都宮氏との血縁をも秀郷一門の「関東屋形」として持っている事に成ります。

    「藤原兼隆」を除いて完全に問題点は無く成りました。
    尚、藤原兼隆の藤原氏は前回にもお答えした通り、あり得ない事で、今回の菩提寺の情報の宇都宮氏と浄土真宗の宗派から絶対に無い事に成ります。
    この兼隆の関白右大臣家の藤原一族は、浄土宗です。恐らく、家紋も「上り藤紋」である筈です。
    秀郷一門の総紋は「下がり藤紋」です。この家紋は藤原氏では9氏しか使っていません。
    従って、お家は、「総紋」を「下り藤門」とし、家紋を「左巴紋」とする一族で「関東屋形族」と呼ばれる青木一族です。場合に依ってはもう一つ副紋として「・・家」と「青木家」との共通する家紋を持っている事もあり得ます。一度お調べに成ってください。
    お家は名門中の名門と成りますので、どなたか絶えた青木氏を継承しては如何ですか。
    お家の領国の武蔵国の青木氏の菩提寺は「西光寺」と云う浄土宗のお寺が一族の菩提寺に成ります。
    現在は、埼玉には戦禍で無く成っているようですが、茨木にはまだ一寺が残っている様です。

    >寺としての格が高く、江戸時代にこの地を領有した吉田藩・伊達家(宇和島伊達家の分家)の殿様も、この寺の前を通る時には乗り物を降りなければならなかったが、寺の住職と歴代仲が悪く、降りはするが罵声を残した、という変なお話も聞いたことがあります。

    以上の情報からも、良くお家の関係族の立場を物語る事柄です。
    一度、本サイトの秀郷流青木氏とその関係族の家柄身分等をお読みに成れば、この事が納得されます。
    因みに、徳川家康かその一族の大名と青木氏宗家が在ったとしますと、どちらが土下座すると思いますか。家康です。筆者の家は大正14年まで紀州徳川氏と長い付き合いをしていましたが、会う時は筆者の先祖が上座に座る事に成っていたのです。
    徳川氏の方が座るまで頭を下げて置く作法であったと聞かされています。
    宇都宮氏でそうであればお家の先祖と宇都宮氏が会うとすればお家が上座に座る事に成ります。

    ”変な話”では無く、封建社会の中では、当たり前の作法のです。
    この情報一つでもルーツの検証は進むのです。
    庄屋であったとしていますから、そのような作法が村中でもあったと思いますよ。

    ご不明な点がありましたら、ご遠慮なくご質問ください。
    では、又お便りください。


      [No.973] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/06/21(Sat) 11:58:42  


    元青木さん 今日は 初めまして。
    これからもよろしくお願いします
    お便りを読ましていただきました。

    お便りの中に疑問点がありますので、それを先ず列記して観ます。

    先ず元が青木氏であったものが何故変わったのでしょうかね。
    農民であった。庄屋であったとしていますが、この辺の変化の事由が気に成りますね。
    ”西園寺の家来”と云う事なのですが、これには一つ目の問題がありますね。
    次ぎに、「藤原兼隆」の子孫と云う事にも問題があります。
    青木氏に左三つ巴紋はありませんので、疑問です。

    さて、先にこの問題点を検証してみます。
    「藤原兼隆」は公家で、関白家で右大臣を司った人物で、紀州には来ていません。
    次ぎに、公家から兼隆から青木氏は出ていません。
    「左三つ巴紋」の家紋には青木氏は出ていません。

    西園寺氏の象徴紋が巴紋である事はその通りですが、巴紋にも91の文様があります。
    公家であるので家紋ではありません。象徴紋です。

    西園寺氏は公家中の公家ですが、この家来と云うのは疑問です。
    公家は武力集団を抱えない事が原則です。従って、家人は居ても武士の家来は無いのが原則です。
    源氏や平家を味方に引き入れて身を護る仕組みです。直接の武士の家来を持つ事は禁じられています。もし、持ては公家は認められなくなります。てすから、直接の家来であったとする事には問題があります。
    西園寺に直接味方した武家の家来と成った事に成ります。
    「西園寺十五将」とは、直接の家来の十五将と云う事では無く、影響力を強く受けた味方した武士と云う事に成ります。
    従って、そこらの先祖の表現が誇張されています。


    そうすると、「西園寺氏・・云々」と「左三つ巴」は信用できないです。
    ここからは絶対にお家の青木氏に辿り着けません。

    ところが、氏では無く、地域から観てみると、今度は逆に、お便りは正しいのです。
    「紀州国の龍神村」の「付近」は正しいのです。
    更に、南北朝時代に南朝方に味方して統治を追われ・・・までは正しい事です。

    そこで、この地理からルーツを観てみますと、次ぎの様に成ります。

    この龍神村付近に住んだとされる藤原氏は、「藤原秀郷流主要五氏」の一つで「青木氏族」の「進藤氏」の祖と成る人物で、(藤原鎌足より8代目北家の藤原秀郷)この秀郷より4代目の行景はなる者がいました。
    この「行景」には、この子孫に藤原脩種−脩俊−好治−治卿−秀世−・・と続きますが、
    この脩俊は隠岐国の八嶋冠者の役職を司っていましたが、1185年の源の頼朝が平家討伐のために隠岐から屋島にいち早く同行し、平家を滅ぼすに勲功を挙げました。
    この勲功で、紀州若山庄(和歌山)の3千余町を賜り、従五位下に任じられます。
    以後2代の将軍の近臣として仕えて出世します。
    この一族に同行した護衛役の秀郷流青木氏の分家の一部が龍神村から有田地域に定住しました。
    この青木氏が現在の和歌山市と隣りの有田郡湯浅に定住しています。
    この子孫が村を形成しましたが、現在はこの地名の青木には青木氏はありません。、北部の和歌山周囲に存在する少ない青木氏はこの末裔とも見られます。

    現在、「龍神温泉」に近い所に「明恵温泉」と云うところが、和歌山有田市にあり、その辺一帯は昔、「明恵村」と呼ばれ、「藤原明恵」が定住赴任していた地域で、和歌山でも良く知られた”明恵さん”で、周囲の村民たちに大変に慕われた僧侶でもあったのです。
    その近くに青木村が在りました。お家はここに住んでいた事に成ります。
    現在は地名だけでありません。
    龍神村の地域は平家落人が住んでいたところですから、この龍神村よりやや山を降りた明恵村がその定住地と成ります。

    昔の地名では、龍神村でも通りますが、正確には明恵村が正しいのです。
    一度、お家のルーツの下に成るこの「明恵温泉」を訪れては如何ですか。
    有田市が運営しています。宿泊もできる様に成っています。静かな小さな温泉村です
    山郷の風景です。

    この「秀郷流青木氏」は、「藤原脩行ー脩種・・」が赴任役務が終わり引き揚げた事に伴い、大半は「武蔵国の領国」に帰りました。
    この青木氏の一部が地元に残り、後に紀州の土豪と成り、「南北朝の争い」で近くにいた「楠正成」等と共に戦い敗退し滅亡したと成っていますが、近隣の秀郷一門の青木氏の縁故を頼り、「伊勢の秀郷流青木氏」や「讃岐の藤原秀郷流青木氏」や、「美濃尾張の秀郷流青木氏」などを頼り逃げ延びました。
    この事からすると、お家の”龍神説”の部分は正しい時代考証に成っていますので納得出来ます。

    お家は、この「讃岐青木氏」を頼った「秀郷流青木氏」である事に成ります。
    その後、讃岐付近に定着し土豪と成り、戦乱で、伊予西園寺氏の味方をした土豪である事に成ります。西園寺氏の滅亡で、逃亡せずに「農民」と成って生き延びた「秀郷流青木氏」と云う事に成ります。

    「秀郷流讃岐青木氏」は、瀬戸内の経済を背景に宗家の関東一円に勢力を張った秀郷流青木氏と同じくらいの大勢力を張っていました。
    同じ一族としてこの勢力の庇護を受けて滅亡せずに生き延びられたと考えられます。
    お家は伊予南部と成っていますから、讃岐青木氏の庇護を受けながらも、土豪として独自の動きをした事に成ります。西園寺氏の護衛団の土井氏の家臣と成った事に成ります。
    土豪として地盤を宇和島三間町に築いたと観られ、そこで讃岐藤氏の讃岐青木氏の庇護の下に庄屋を務めたと考えられます。

    藤原秀郷の宗家一門は公家貴族になりましたので、武力集団を持つ事が出来ずに、一門から秀郷の子の第3子の千国なるものが、護衛団を形成して独立して一門を護りました。
    この末裔が、秀郷流青木氏116氏あります。お家はその1氏です。
    そもそも、この「青木氏」とは、天皇より「特別賜姓」を受けて由緒ある天皇を直接警護する近衛軍団を編成しました。
    この青木氏には、もう一つ天皇皇子の第6位皇子が臣下して青木氏の賜姓を天皇より受けた青木氏があり、この「皇族賜姓青木氏」5家5流と、「秀郷流青木氏」116氏とは母方の血縁氏です。
    この為に、共に天皇を護る役目を負い各地に赴任する宗家の守護地の護衛に当たっていました。
    お家は、脩種の宗家一門として同行して紀州の護衛に当たっていたのです。
    お家はその一つですが、但し、家紋の「三つ巴」には問題があります。
    この地域から讃岐東部にかけて青木氏の大変多い地域です。
    「藤原秀郷流青木氏」に付いては、研究室に長編の論文を掲載していますので、詳細はそちらをお読みください。
    また、昔ご親族の青木さんのお便りが、ルーツ掲示板に沢山寄せられていますので、掲示板に検索が在りますのでそれを使ってお読みください。
    膨大な資料ですから、慌てず少しずつお読みになる事をお勧めします。何年もかかりますよ。

    兼隆の件は100%間違いです。
    但し家紋の「左三つ巴紋」には一つの可能性があります。
    お墓を室町期末期頃に据えられていますので、武士には従わなくてはならない家系に関する掟がありまして、それが「家紋掟」いうものですが、これに依って、お家は伊予にて二度の男系継承が出来ずに、二度の養子を迎えた為に、女系と成ってしまった家柄となりました。
    従って、男系を主流としている「氏家制度の時代」(江戸期前)には「養子先の血筋」と成りますので、家紋は一番目の養子先の家紋に変わったと考えられ、その養子先が西園寺の支流族であった事に成ります。
    元の家紋が何であったかは何らかの情報があれば判ります。
    ご宗家の本家にその答えがあるかも知れませんね。

    元々の秀郷流青木氏の総紋は「下がり藤紋」です。これが上記の家紋掟の仕来りで116の家紋に広がった事に成ります。
    ところが、「左巴紋」が青木氏の家紋群に出て来ないのは、明らかに、本来の正規の定住地では無い事から家紋群に出て来ない事に成ります。

    この家紋は、実は、秀郷流一門の中の主流族の「結城氏」、「佐野氏」「関東屋形」と呼ばれた大豪族の「小山氏」「宇都宮氏」豪族の支流族の「赤松氏」も使っているのです。

    ですから、「西園寺氏からの養子」なのか、上記の一門の六氏の流れを持つ青木氏なのかに成ります。
    「脩種の始祖」は「脩行」ですから、佐野氏系青木氏の可能性もあります。
    「西園寺氏」か「佐野氏」かの兎も角も今は決定する情報がありません。
    「家紋掟」よる「養子縁組」が宗家に無かったかの事に関わります。
    無ければ「佐野氏系青木氏」で「本流青木氏」と成ります。

    この事で、和歌山から伊予に逃亡した青木氏の証明である事に成ります。
    和歌山には、元お家のご親族が少ないですがまだ遺っていますよ。

    兼隆は明らかな間違いで、秀郷流青木氏の脩種の系列の血筋を引く青木氏です。



    判らない時は、ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.974] Re:愛媛県南部の青木について
         投稿者:元・青木   投稿日:2014/06/21(Sat) 11:50:18  

     掲示板等を読ませていただき、菩提寺や宗派の情報も役立つと知りましたので、追加させていただきます。
     地元郷土誌からの転載で失礼します。

     大楽寺(だいらくじ)【宇和島市吉田町河内中】

    ・山号は金仙山
    ・宗派は浄土真宗
    ・創建年代 は1591年
    ・元々は天台宗大楽院として建てられた。宇都宮堂房(いえふさ)によって開基された。堂房は、豊前国の宇都宮鎮房の第3子。堂房は、萩森城主・宇都宮房綱を頼って九州より敗走してきたが、房綱は天正13年(1585)に長曽我部氏に討たれてしまっていた。そこで、房綱の姉婿である菊池武国を頼って、この地に落ち延びた。

     寺としての格が高く、江戸時代にこの地を領有した吉田藩・伊達家(宇和島伊達家の分家)の殿様も、この寺の前を通る時には乗り物を降りなければならなかったが、寺の住職と歴代仲が悪く、降りはするが罵声を残した、という変なお話も聞いたことがあります。


      [No.972] 愛媛県南部の青木について
         投稿者:元・青木   投稿日:2014/06/20(Fri) 23:53:50  

     愛媛県南部(現宇和島市と現西予市の境界付近)で農業を営む一族です。ルーツの一端を知りたく、投稿させていただきます。

     現在は別の姓を名乗っていますが、墓地に残る明治以前の古い墓には『青木』姓と、『左三つ巴』の家紋が刻まれています。
     最も古い墓は寛文7年(1667年)の年号があります。
     客観的に確認できる事実はそれだけです。

     先年、既に亡くなった一族の歴史好きが遺したと思われる文書が見つかり、断片的ではありますが彼が調べたと思われる内容と、一族に伝わる伝承が記されていました。(ただ正式な教育を受けた歴史研究家ではなく、素人の域を出ないものであることは先に記しておきます)。

     内容は以下のようなものです。

     青木家の先祖は藤原氏・藤原兼隆の子孫で、紀伊国龍神村の付近に暮らす一族であったが、南北朝時代に南朝方に味方したことで当地を追われ、同じ南朝の伊予西園寺氏が勢力を持っていた愛媛県南部(南予地方と表現します)に移った。

     戦国時代になると青木兼近なる者が、西園寺公広の配下で『西園寺十五将』の一角・土井清良の家来となった。その名は現在の宇和島市三間町兼近の地名に残るとされる。
     西園寺氏滅亡後は当地で庄屋となり、そこから分家したのが我が家である。

     以上です。
     が、どこまでが本当なのか当方では判然としませんし、調べますと『左三つ巴』の家紋は西園寺氏が使ったもの、ということが広く知られているようです。
     
     知る限り、当家はずっと『田舎の農家』として生きてきたようなのですが、青木姓を名乗り、西園寺氏の家紋を墓に刻んだのは何故でしょうか?

     何かお分かりのことがありましたら、ご教示願えれば幸いです。


      [No.969] Re:品川さんの代理投稿
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/05/17(Sat) 20:22:12  

    「雑談掲示板」に投稿がありましたので、こちらに移しました。


    > 私は品川と申しますが 家の家紋は 五三の桐 です
    > 品川の五三の桐紋となると 旗本とでてきます 家系図はみせてもらってはいないのですが
    > 庶民でも 旗本と同じ苗字 同じ家紋を使用できるのでしょうか?
    >
    > 親は北海道生まれ 私の祖父は 青森生まれと聞いておりますが もし旗本となると 今川氏系の品川氏となってますが 何か関係あるのでしょうか?
    >

    品川さん 今日は。はじめまして。 
    ようこそ、青木氏サイトにお越し頂きました。
    これからもよろしくお付き合いください。

    さて、「青木氏」ですので、「品川姓」の事は良く判りません。
    折角お尋ね頂きましたので、判る範囲でお答えします。

    先ず、情報は「家紋」と「旗本」とご祖父は「青森」云う事ですが、明治初期前でなくてはルーツは判りませんので、情報は2つと成ります。
    何れの情報にしても「5代前位のご先祖」の「情報」が必要です。

    ”何故か”と云いますと、「庶民の9割」は、「苗字」を持っていませんでした。
    そこで、「明治維新の政府」は、「明治3年の苗字令」と「8年の督促令」を出して、「9割の国民(平民)」に苗字を強引に持たせました。
    この時、この「9割の平民」は”周囲の武士の苗字”を使って、一夜の内に苗字を持ちました。
    「維新政府」は、強引に指導したのです。
    郡全体が一夜で同じ苗字に成った事が各地で起こりました。
    そして、その時に、「家紋」も「系譜」も周囲の地主などの苗字や家紋等を真似たのです。

    さて、その「家紋」ですが、「五三の桐紋」は、実は、この家紋は「天皇家の式紋」と云うもので、「権威紋」と云うものです。
    「藤原氏」などで、その中でも”特別な家筋”が使う事を許可されました。
    ところが、豊臣秀吉が、家柄が無い為に、強引に家柄を作る為に、朝廷に経済的な圧力を掛けて、この「式紋の使用」を許されたのです。
    ところが、今度は、秀吉は、この「五三の桐紋」を変紋して「五七の桐紋」(天皇家権威紋)を作って、”勲功のあった「特別な大名」(黒田氏 前田氏等)” に、この「五七の桐紋」の「秀吉権威紋」として使用を許したのです。
    更に、ところが、この大名は、今度はその勲功のあった家臣にも使用を「副紋」として許したのです。

    ところが、更に更に、上記した様に、明治期には、この「五七の家紋」を一般の庶民も使う様に成ったのです。
    明治後、その内に、「五七の桐紋」なのに、「五三の桐紋」も勝手に使う様に成ってしまって、「平民の6割」は、この「2つの桐紋」を使う事に成ってしまったのです。

    当然に、お家がこの家紋とすると、藤原氏か豊臣氏か前田氏かの末裔に成りますが、ところが、「副紋」ですので、これらの「特別の氏」は、先祖からの「代々の家紋」を持っています。
    ですから、もう一つ「主紋」を持っている事に成ります。

    さて、お家は「主紋」をお持ちですか。無ければ、「明治期の9割の平民」と成ります。
    更に、明治維新の戸籍簿に「武士」か「平民」かが書かれています。
    何処から来たかも書いています。先ずはお調べください。

    次ぎに、お家が「武士」であれば、お寺に、ご先祖の「5代前のご先祖の名前」以上が「曼荼羅」に書かれています。
    無ければ、「明治期の平民」と成ります。この事もお調べください。

    「旗本」と云うのであれば、「宗派」は、「浄土真宗」である筈です。
    違っていれば、「明治期の姓」です。お調べください。

    明治期に、上記の様な事が起こりました。
    この時に、「9割」の多くは、「家柄」をよく見せる為に、「搾取偏纂」しました。
    いろいろな「偽の系譜」などや「書類の贋作」を「寺や神社」などに金品を払って作って貰ったのです。
    「系譜」などはその典型的な贋作です。
    贋作ですと、矛盾が出てきます。
    江戸期前は寺が「特定の氏」のその家のルーツを管理していたのですが、”「菩提寺」”がなく”「過去帳」”も無いのに、”「系譜」がある”と云う現象です。
    作れない矛盾です。
    「3つの宗派」以外はこの管理をしていなかったのですが、違う宗派なのに系譜があると云う現象です。
    典型的なものは、”「系譜」があって、「過去帳」が無い”と云う矛盾です。
    「特定の氏」でもないのに、”「系譜」がある”と云う矛盾です。
    そもそも。「下級武士」では、”「系譜」を作ると云う概念”そのものが無かったのです。
    ルーツを管理して行く事の「莫大な経済力」も無かったのに”「系譜」がある”と云う矛盾です。
    「系譜」を作った人が居る筈ですが、その人は「歴史家」でしたか。
    「系譜」があるのに「家の情報」が判らないと云う矛盾です。

    従って、「品川姓」は上記の事で直ぐに判りますよ。

    「今川氏」の事も、明治期の家柄の搾取を目的としている可能性があります。
    何故ならば、「今川氏」は、宗派は「密教浄土宗」です。
    顕教の浄土宗(普通の浄土宗)ではありません。
    違っていれば、「明治期の平民」である事に成ります。

    兎に角、幕末の先祖の住んでいた地域をお調べください。
    もし、青森や北海道であれば、9割の「明治期の平民」である事に成ります。
    判らなければ、武士では無かった事を意味します。家臣としての証拠があるので。

    そこで、「今川氏」は、そもそも根こそぎ滅亡しています。
    掃討作戦で根こそぎ掃討されてしまいましたから、「今川氏の品川氏」である可能性は低い事に成ります。

    仮に、逃げ延びたとしても、その氏が江戸末期までは「静岡付近」であった筈です。
    昔は、「国抜け」と云って、他の国に住所を移すと云う事を勝手にすると、「一族斬罪の打ち首」です。
    他国に逃げれば、見知らぬ者(無宿者)として、許可書が無い為に捕まってしまいます。
    逃げたとしても「山奥」です。到底「武士」に成る事等できません。先ず、その前に生きられません。
    逃げ延びたとすると、「山奥の農民」であった筈で、「徳川氏の旗本」と云う事は絶対にあり得ません。
    そもそも、もし、「旗本」であった場合は、「五三の桐紋」は使えません。
    徳川幕府(松平氏)が、類似家紋の使用を一切禁じて厳罰にしたのです。一族の者でも罰したのです。
    江戸幕府はこれを認めませんでしたし、況して、勝手な「五三の桐紋」の使用は、嵯峨期より「禁令」ですから捕まります。
    認めないと云う事は、「俸禄」をもらえない事を意味しますから生きて行けません。
    「特定の氏」しか使えないのに矛盾しています。
    先ず、周囲の者が認める事はありませんね。捕まります。
    使えたとのですから、明治期と云う事に成りますし、「主紋」も無い様ですから、明治期と成ります。

    昔は、封建社会で、”「氏家制度」”ですから、現在と違い、主家も一族も使っていない家紋を自分の家だけが勝手に禁令の「五三の桐紋」を使ったとする事等できません。
    出来たする事は、禁令が解けた明治期だと云う事に成ります。
    周囲との関係を断ち切って生きて行くことはできませんでした。
    これは農民も同じです。「流れ者」は、江戸以外は受け入れませんでした。
    北海道や青森となると、更に矛盾していますね。

    そもそも、「家紋」以外に情報が無い事は、1割の中に無かった事を意味していますね。

    当時の「9割の平民」には、江戸期以前には、上級武士以外に、「ルーツの概念」そのものが無かったのです。
    税を対象とするために用いる「人別帳」しかなかったのです。
    依って、「系統性」がなかったのです。

    以上の事を覆すのには、そもそも、”情報が無い”と云う事そのものから考えると、無理がある様に観られます。
    ルーツを持つ「武士」であれば、現在でも本家筋では、何らかのものを持ち得ているものです。

    兎も角も、上記の事を確認してください。

    平民は、「墓の概念」も無く、「路傍の石」の「砂岩」を「河原」に積み上げたものであったのです。
    今の様な墓は、平民の場合は、明治期からなのです。

    恐らくは、ルーツの持たない”「明治期の平民」の搾取偏纂と贋作”である可能性が高い事を物語っています。

    明治期の中ごろに、”「五七の桐紋」”であるのに、”「五三の桐紋」”に取り変えた可能性が高いとおもいます。
    ”「五三の桐紋」にした為に、「偽の系譜」を恣意的に無理に作った”と観る方が正しいと思います。

    兎も角も、以上の事を調べてください。
    以上ですが、何か、ご質問ありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.968] 品川さんの代理投稿
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/05/17(Sat) 18:30:25  

    雑談掲示板から移行



    苗字と家紋について
    品川です
    2014/05/17 14:46 - パソコン
      突然おじゃまして申し訳ありません
    苗字が違い失礼かとおもいますがお許しください。
    ルーツ掲示板への投稿ができなかったもので度々 申し訳ありません。

    苗字と家紋について気になりわかる範囲で教えていただけますととても嬉しくおもいます。

    私は品川と申しますが 家の家紋は 五三の桐 です
    品川の五三の桐紋となると 旗本とでてきます 家系図はみせてもらってはいないのですが
    庶民でも 旗本と同じ苗字 同じ家紋を使用できるのでしょうか?

    親は北海道生まれ 私の祖父は 青森生まれと聞いておりますが もし旗本となると 今川氏系の品川氏となってますが 何か関係あるのでしょうか?

    今 現在 わかってるのは これだけです。これだけではわからないとおもいますが わかる範囲で宜しくお願いします 。


      [No.967] Re:大田原市中野内字青木の青木氏について
         投稿者:はかまだひなた   投稿日:2014/05/15(Thu) 22:42:54  

    お答えいただき、ありがとうございます。

    日本の中世期についての知識、深い洞察力に圧倒されました。青木氏についてもう少し調べようと思います。また機会を見て、投稿させていただきます。


      [No.966] Re:無題
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/05/15(Thu) 20:01:20  

    > 青森で青木が減るのは、青木が青樹 に?なってるからでは?
    > 青森には青樹町 あります。
    > ルーツ調べてて ここにカキコです。
    >
    > 昔し 偉い人の娘を嫁にして 青木を青樹に っと聞いてたが… 青樹で調べて解らず、ならば 青木で調べるかで来ました。
    >
    > 家紋は ゴサンノスギ 東京です。
    > _(._.)_何か情報 無いですか?

    青森の青樹さん 今日は。はじめまして。
    ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからもよろしくお願いします。

    さて、お尋ねですが、そうですね。青森には、”青木さん”が少なく成りましたね。
    弘前市には”青樹”地名がありますね。
    ところが、青木の地名が不思議に遺されていませんよね。
    この陸奥域には、本当であれば、日本全国の中で、最も多い地域である筈なのです。
    何故かと云いますと、この地域には、平安中期から、「藤原秀郷流青木氏」が、藤原秀郷宗家が赴任するに伴い、一門の「第二の宗家」と呼ばれる「秀郷流青木氏」が、「宗家の護衛団」として同行して居た地域なのです。
    室町期までもこの秀郷一門の支配地であったのです。
    江戸時代も一門の末裔が定住していた地域であったのです。
    東北北陸地域(昔は東北6県を陸奥と呼んだ)を納める「鎮守府将軍」として12代も続いた土地柄です。
    ですから、他の赴任地と同様に、「青木村」を形成して、遺って居なければならない土地柄なのです。
    ここに赴任して来た「秀郷流青木氏」は、土地の豪族と血縁して、花房氏、小山氏、小田氏等多くの血縁族を作りました。
    ところが、これらの血縁族は、「秀郷青木氏」が、「故郷の武蔵国」に赴任が終わる度に、この「現地の血縁族」を伴って、関東に連れて帰ったのです。

    この「秀郷流青木氏」は、交代制で武蔵に帰る制度を採っていたのです。
    関東に連れて来られた、これらの「現地の血縁族」は、後には、関東では超大豪族に成って、栃木や群馬や千葉や茨木等で「関東屋形」と呼ばれ程に大勢力を持っていました。

    ところが、実は、これには理由があったのです。
    1 ここには、「秀郷流青木氏」は赴任が終わると帰りますが、現地の土豪との間に生まれた末裔も、赴任の度に大きく成った末裔の殆ど連れて帰ったのです。
    2 僅かに遺った子孫も、その後には増えましたが、江戸初期頃から始まった「蝦夷地開拓」で、北海道に移動定住ししてしまったのです。
    3 鎌倉期頃までは、未だ多く遺されていたのですが、戦乱の世と成った時、ここには、福島や山形地域から押し上げて来た「安倍氏一族一門」等の勢力に取って代わられたのです。
      その為に「秀郷流青木氏の末裔」は一時関東に逃れたのです。
    4 この「安倍氏一族一門」もこの土地を失います。
      この陸奥の「秀郷流青木氏等」は押し戻して取り戻したのです。
    5 室町期には再び、取り戻して「秀郷流青木氏」の末裔は増えます。
    6 ところが、末期には、今度は秀吉に依って潰されてしまいます。
    7 その為に、今度は関東に逃げずに、北海道に逃げ延びたのです。

    この様な、歴史的経緯があって、この青森だけは殆ど定住が遂には無く成ったのです。

    江戸初期と、室町中期と、それに明治初期の苗字令で、お家の「青樹氏」の様に、青城氏、青城氏、仰木氏、葵木氏等の「あおき」さんが発祥しました。
    多くは「明治期初期のあおきさん」です。
    実は、お家の「青樹氏」には、発祥の次の様な「特別な経緯」があるのです。

    その「特別な経緯」とは、上記した様に、「藤原秀郷流青木氏」は116氏あるのですが、この「秀郷流青木氏」は、特別に「円融天皇」から賜姓を受けた青木氏なのです。
    「賜姓」とは、天皇から特別に「氏名」を与えられる事を云います。この氏を「賜姓族」といいます。
    主に、天皇の皇子で、第4世族内の皇子で、皇位継承権は第4位皇子までとし、第6番目に位置する皇子が、この皇子が賜姓を受けて皇子から臣下して侍の武家と成る事なのです。

    この制度は、「天智天皇」が最初に採用した制度で、第6位皇子の「施基皇子」が最初に賜姓を受けて名乗ったのが、これが「青木氏」なのです。
    「5代の天皇」が、この方式にて皇子を臣下させます。
    「光仁天皇」まで「5家5流の青木氏」が発祥します。
    そして、天皇を直接警護する役目等の数々の役目を与えます。

    ところが、この役目が大変であった為に、母方で繋がっていた藤原秀郷の第3子に、この”青木氏の賜姓族の役目”を補佐する為に、皇子では無かった「藤原秀郷」の子に、特別に賜姓をします。
    これが、「藤原秀郷流青木氏」なのです。
    全国24地域に赴任して、現地孫を遺して、116氏に子孫が拡大しました。
    埼玉武蔵、群馬下野、栃木上野等の関東域を領国としていました。
    24地域の一つが上記の「青森の陸奥域」なのです。

    では、お家の「青樹氏」なのですが、この「藤原秀郷」の祖祖父が兄弟であり、秀郷と従兄弟に当たる「藤原利仁一門」がありました。
    この一門は山形や福島などを拠点として、勢力を持っていました。
    ところが、この従兄弟の「藤原利仁一門」には、「秀郷一門」と違って「青木氏」を名乗る権利が認められていませんでした。
    当然に賜姓も受けられていませんでした。
    皇族外の以外の者が、「青木氏」を名乗る事を「嵯峨天皇の詔勅と禁令」で禁止されていました。
    明治期まで護られました。

    ところが、この「藤原利仁一門」は、「鎮守府将軍」に成って、秀郷一門と同じく陸奥域に赴任していました。
    しかし、護衛する軍団には名乗る氏名がありませんでした。
    そこで、この「利仁の護衛軍団」は、後に、秀郷一門の「賜姓青木氏」に準えて、「青樹氏」と名乗ったのです。
    そして、「利仁」とその父の「時長」が、「鎮守府将軍」に成った時に、陸奥に、「利仁一族の護衛団」が現地に末裔を遺して、その末裔が「青樹氏」を遺したのです。
    これが、お家のご先祖なのです。

    この時に住んだ地域が、「青森の弘前」なのです。
    「青木氏」とは住んでいた地域が違っていたのです。
    お家の親族に成る「青樹氏」は、「福岡筑前」と「徳島阿波」にも存在しますよ。
    ところで、この「青樹氏」は、「あおき」と名乗る事を禁止されていたのです。
    平安初期に「嵯峨天皇」が、命令を発して禁止していたのです。
    そこで、江戸期前までは「うおーき」と名乗っていたのです。
    江戸初期に、全ての「青樹」(うおーき)等は、「あおき」(青木)と名乗る様に命令を発したのです。

    ところが、明治初期に、苗字令を出しました。
    そこで、武士以外の庶民が苗字を持っていなかったので、その弘前に住んでいて「青樹氏」の弘前村にいた農民が、明治維新政府の指導で、一斉に「青樹氏」を名乗ったのです。
    だから、「青森の弘前」には、「武士の青樹氏」と、「農民の青樹氏」があるのです。

    実は、「武士の青樹氏」は、江戸幕府初期に「令」に依って、「武士の青樹氏」は「青木氏」に変更しているのです。

    ただ、長い間、使ってきていたので、命令に従わなかった「武士の青樹氏」もいたのです。
    お家は、この何れかに成ります。
    これは、どちらかはお家の「家紋」と「宗派」とで判りますよ。

    そこで、家紋が”五三のすぎもん”としていますが、これは間違いで、「五三の桐紋」ですよね。

    「五三の杉紋」は家紋8000の中にありませんので、「農民の青樹氏」となります。
    そこで、「五三の桐紋」として考えます。
    この「家紋」は、「天皇家の式紋」と云う「権威紋」で、天皇家より、「藤原氏」の中でも、「特別の氏」が使う事を許された紋でなのです。
    秀吉も使う事を許されました。(秀吉はこれを「五七の桐紋」に変紋して勲功のあった大名に使用を許可)
    使用禁止されている「天皇家式紋」を、一般の「家紋」としたのは、正式には「北家藤原氏」だけです。
    「藤原利仁一門」の「五紋」の内の紋で、「権威紋」ですので「宗家筋」が使えたのです。
    つまり、お家は「武士の青樹氏」である事になるのです。

    ご質問やご不明な事がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


      [No.965] 無題
         投稿者:青樹りょういち   投稿日:2014/05/15(Thu) 15:13:29  

    青森で青木が減るのは、青木が青樹 に?なってるからでは?
    青森には青樹町 あります。
    ルーツ調べてて ここにカキコです。

    昔し 偉い人の娘を嫁にして 青木を青樹に っと聞いてたが… 青樹で調べて解らず、ならば 青木で調べるかで来ました。

    家紋は ゴサンノスギ 東京です。
    _(._.)_何か情報 無いですか?


      [No.964] Re:静岡の長嶋です。
         投稿者:長嶋です   投稿日:2014/05/13(Tue) 21:53:46  

    杉浦道生さん、はじめまして。

    貴重な情報ありがとうございます。
    岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』
    については、幕末は、一般に黒船来航の1853年7月8日(嘉永6年旧暦6月3日)辺りからと考え、杉浦家
    から長嶋家(当時は長嶌)に養嗣子となった源吉は、弘化元(1844)年12月20日生で大正2年に亡くなっ
    ています。このことから、20歳ぐらいで寄合格になったのかなと思っていました。
    妻は長嶌太吉の長女:とめとなります。

    道生さんの御先祖様の源吉様とは年齢的に親子の関係となるため、仰るとおり別人のようですね。
    また、岡崎市史の杉浦源吉とは違うことが分かっただけでも収穫です。


    自分で岡崎市鍛埜町を訪れ、源吉さんが親のために建てたお墓にたどり着きました。
    その墓石には杉浦源吉の銘が側面にあり、両親の戒名が書かれ、父親は明治9年、母親は明治13年に亡くなったことが記録されていました。
    もし、事実であれば、長嶋家の養嗣子となった長嶋源吉が杉浦源吉と記したのは杉浦家の墓石だから旧姓としたのでは、と推測しました。
    ここを立証できればと思っています。
    また地元の方にそのお墓の持ち主について伺った所、『お墓の横の家の者で、そこの方は医者をしていた。先代は東京から養子できて医者をしていたが、昨年(2010)
    亡くなった。現在孫が一人で住んでいる。』そしてもともと家は『昔は、現在木が生えているところに家があったが、下に建て直した』との事でした。
    お墓については、その方(昭和初期生まれ)が子供の頃から今の位置に在ったと話して下さいました。
    こちらも、ここで情報が切れています。これも何かの縁ですね。
    今後とも何か良い情報がありましたら宜しくお願いします。


      [No.963] Re:静岡の長嶋です
         投稿者:杉浦 道生   投稿日:2014/05/13(Tue) 15:07:16  

    源吉については岡崎市史に『幕末額田郡鍛冶屋村(現在の岡崎市鍛埜町)に杉浦源吉がいて、寄合格を与えられた。』との記載がありました。また、明治9年鍛埜村に杉浦源兵衛がいて源吉の兄と推測しています。子孫らしき方も定住しているような様子です。       投稿日:2011/12/27(Tue) 00:48:33

    上記の子孫らしき方 は私の事のようです。 杉浦源吉は私の四代前の先祖になります。除籍などで分かっている事は、源吉の父親は杉浦右ェ門、母親は りた。源吉の妻は たい。源吉の命日は明治9年7月21日。杉浦源兵衛は源吉の長女(きい)の入り婿です。西尾の牧野金兵衛の次男であります。除籍では養嗣子と記載されています。3年前に私の父親が亡くなり(15年前より旧額田町の老人福祉施設に入居しておりましたので実家は長らく空家状態でした。)長男は横浜に、次男の私は岡崎市牧御堂町に在住
    しており、実家は週に2〜3日猫と鯉の餌やりに訪れています。我が家のお墓は一番右に源吉の銘の墓があり、源吉以降の3代もその墓に入っています。源吉の墓というより先祖代々の墓となっています。
    前後の文面から察するにどうも長嶋様のお探しの杉浦源吉さんではないような気が致しますが、ご質問下されば分かる範囲でお答え致します。牧野家の事が記載されていましたが西尾の牧野家と関係があれば何らかの繋がりがあるか・・ですね。
     私も先祖の事は色々調べてはおりますが非常に難航しています。
    杉浦源兵衛の義理の息子の実父が日周上人という日蓮宗の僧侶で、後に身延線の内船寺の住職になられた方のようですが、戸籍上は父親は春日井の長谷川勘四郎となっておりますが 全く確認が取れません。知っていそうな方は全員お亡くなりになっていて遅々として進まずです。


      [No.962] Re:大田原市中野内字青木の青木氏について
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/05/13(Tue) 10:04:17  

    > 追記情報
    >
    > 字青木の浄土真宗本願寺派龍念寺の本尊阿弥陀如来は那須家臣とも佐竹家臣ともいう青木三河守義勝の守本尊と伝える。時点では義勝の後裔大山次郎秀勝が文明年間に堂宇を建立したのが始まりで、文禄頃火災で絶えた。宝永三年百姓源十郎が仏堂を再建、のち現在地に堂宇が建立されたという。
    >
    > 原文のまま、掲載しました。

    今日は。初めまして。
    青木氏さんでは無いようですが、「青木氏氏サイト」にようこそお越し頂きました。
    これからもよろしくお願いします。
    いろいろとお調べに成って居られるようですね。頑張ってください。
    早速ですが、お名前が良く判りませんが、袴田さんですか、兎も角もお尋ねの件でお答えいたします。

    さて、お尋ねは、「浄土真宗」の「門徒衆」で「龍念寺」を”菩提寺”としている「青木さん」がどのルーツの青木氏であるかのお尋ねですね。

    では、ご説明致します。
    日本全国の青木氏に付いては、そのルーツは判っています。
    関東に分布して、ご指摘の地域に住した大元のルーツの青木氏は次ぎの通りです。(234)

    この下記の(1)が最初に「天智天皇の賜姓」に依って「第6位皇子」が臣下して、発祥した「賜姓族青木氏」です。
    これに習って以下に平安中期頃に発祥した(2)の「特別賜姓族の青木氏」(116氏)があります。
    (1)は「5代の天皇」によって引き継がれて、皇子が臣下して賜姓する制度は光仁天皇まで受け継ぎます。
    この後、この「賜姓制度」を「嵯峨天皇」が一部変更します。
    「賜姓青木氏」から「賜姓源氏」に「賜姓名」を変更します。11代花山天皇まで続きます。
    この時、元の「青木氏の氏名」は、「皇族の皇子」が還俗、下族する場合に名乗る「氏名」として定められて、「嵯峨期詔勅と禁令」を発します。
    一切他氏がこの「青木氏の氏名」の使用を永代で禁じました。明治初期まで護られました。
    この「嵯峨期の詔勅と禁令」を使って、「皇族関係の下族した末裔」が名乗ったのが、(3)の「丹治氏系青木氏」です。
    (1)の「信濃賜姓青木氏」が、土地の「信濃豪族の諏訪族」と血縁して発祥したのが、(4)の「賜姓族の諏訪族青木氏」です。
    この氏から「3つの氏」が発祥します。

    (1) 「皇族賜姓族青木氏」 「5家5流青木氏」 「近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐」に奈良期から定住しています。「大化期」の「青木氏の発祥源の氏」と成ります。

    ・(2) 「特別賜姓族藤原秀郷流青木氏」116氏は、 (1)の青木氏とは母方で繋がる「青木氏」で、「嵯峨期の詔勅」で、特別に「青木氏の賜姓」を受けた「北家藤原秀郷流青木氏」です。
    「平将門の乱」で、「藤原秀郷」は、「平貞盛」と共に、鎮圧して勲功を挙げ、「貴族の身分」と「武蔵の国」を領国とする事に成りました。
    この為に、貴族は武力を持てない事から、「秀郷第3子の千国」が「始祖」として「青木氏」の賜姓を受け、以後、この「青木氏」が「一族の護衛」を受け持ち、軍団を創設します。
    この「千国」を始祖とする「青木氏」は、「(1)の青木氏」を補佐する事を役として、「家柄、身分、官職、官位」の一切を「(1)の青木氏」と同じとして発祥します。
    そして、天皇を警護する役目等を朝廷から受けます。
    その後、この「秀郷流青木氏」の「特別賜姓族」は、下野、上野、下総、常陸、陸奥、越後等に広範囲に子孫を拡げて、全国24地域に分布する様に成っています。
    武蔵入間を中心に神奈川横浜を半径として、円状に116氏の本家筋が護っていました。

    ・(3) 武蔵守を務めた「丹治彦王」の「武蔵の配流孫」の「峯時」が、秩父牧の「別当」と成りますが、この者が後に「武蔵7党」の「丹党」を結成します。
    この「丹党」から、「丹治氏」を名乗ります。
    その後に、上記した「嵯峨期の詔勅」を使って、「皇族配流孫」であるとして、この「丹治氏」から「青木氏」を名乗ります。
    主にこの族は、宇都宮南の武蔵の国の児玉、秩父、比企、入間に分布しています。
    この一族は「丹治氏系青木氏」と云います。

    この大田原に住した時期は、「諏訪族青木氏」が、この地に勢力を張った少し前の時期で、「丹治氏系青木氏」が、各地に「国衆」として転戦した時期の少し前が開基の期と成ります。
    更に、戦国時代に入って、「武蔵7党」が守りに入った時期で、その時に、「館、要塞、寺」を兼ねた「戦国様式」として建立した城のころの「戦国期始めの時期」となります。
    戦国時代は、1467年頃からで、「諏訪族青木氏」が、この地域に入った時期は、1586年頃の間で、「武蔵7党」が守りに入った時期の1485年頃と、「丹治氏系青木氏」が転戦した時期の1500年頃の間に開基したと考えられます。
    従って、1500年前頃と考えられます。

    以下の(4)には、(1)の「信濃の賜姓族青木氏」と、奈良末期に血縁した「賜姓族の諏訪族青木氏」で、この「賜姓族系の諏訪族青木氏」「諏訪族系青木氏」と、武田氏とが血縁した「武田氏系諏訪族青木氏」「諏訪族系武田氏族青木氏」との以上の4氏があります。

    ・(4) 武田氏が滅んだ際に、(2)の神奈川に定住していた「秀郷流青木氏」を頼り、「武田氏」に味方した「諏訪族系青木氏」等(4氏から成り立つ)の一部が、この神奈川に逃げ込んで定住します。
    しかし、その後、この「諏訪族系青木氏」の一部は、秀郷一門を背景に栃木に移ります。
    そこで、「宇都宮以北」に勢力を拡大させ、「岩代の国境」まで勢力を拡大させます。
    ここで、子孫を大きく拡大させ、「守護神の諏訪神社」をこの地域に建立してする程に大きく子孫を拡げました。
    この一族の家紋は「抱き角紋」です。

    以上、この栃木地域に分布する「青木氏」にはこの「3氏」と成ります。(1)は除く。

    この小さい地域の下野北部に、「3つもの青木氏」が定住していた地域なのです。

    そこで、お便りの情報が少ないので、この3氏の内のどの青木氏であるかは確定させることは困難ですが、可能性から判断します。

    先ず、「浄土真宗」からで検証しますと、次ぎの事が云えます。
    当時は、「家柄身分」等の事から、その入信する宗派は決まっていましたが、上記(2)と(4)の2氏は本来は、「密教浄土宗」です。
    但し、(2)は領国以外の赴任地の24地域、特に、関西以西の地域では、赴任中、その地に「密教浄土宗」の寺が無い場合が多く、一時的に、「浄土真宗」に入信する場合もありました。
    しかし、赴任後、領国に戻りますと、武蔵と下野の栃木には、一門の領国域ですので、氏自らが住職を役て、創建し氏の人だけを祭祀し、運営する「氏の菩提寺」があり、これが本来の「密教浄土宗」です。
    従って、ご質問の青木氏は、(2)と(4)では無い事が明らかに判ります。

    「氏家制度」の社会では、「宗派」は、その「氏のステイタス」と成ります。大きな重要な判定要素と成っていました。

    宗派では、(3)の一族の宗派は、当に”「門徒衆」”の「浄土真宗」でした。
    小土豪集団が入信する宗派でした。
    従って、お尋ねは、「丹治氏系青木氏」である事に成ります。(詳細は研究室などで)

    次ぎは、地域からの検証ですが、当時は、同じ「青木氏」でも「出自」が違う事では、”「棲み分け」”をしていました。
    その為に、(2)と(4)は「賜姓族」である事から、「青木村」を形成する事が許可されていました。
    上記した「嵯峨期の詔勅」で、”「氏名」”を使った「村の形成」は、(2)と(4)の「賜姓族青木氏」にしか認められていませんでした。
    従って、”「青木村」を形成していたか”では、重要な意味を持ちます。

    この栃木の北部地域の付近には、栃木県那須塩原市青木の「青木村」があり、「村」でした。
    確かに、「大田原市」にもありますが、大田原は「村」では無く、一段小さい「字」の青木でした。
    この那須塩原の「青木村」は、「(4)の青木氏」の正規の「青木村」です。
    この(4)の「青木村」がある様に、下野と岩代の国境までは、「R4」に沿って、(4)の「諏訪族青木氏の分布域」である事は判っています。
    (宇都宮の北域一帯にまでこの(4)の子孫が分布しています。)
    しかし、(3)の「青木村の形成」は、その「配流孫の家筋」からは原則ありません。
    つまり、「武田氏滅亡」後に、後から来て、「秀郷流青木氏」に保護され、勢力を一挙に拡大させた(4)の分布域の中に、(3)の氏が小さく元々「武蔵7党」の小土豪の「郷士」として存在して居たのです。

    依って、当時の慣習の「棲み分け」としては、上記した様に、宇都宮より北部域に成ります。
    「南部域」は、藤原秀郷流一門の「関東屋形」と呼ばれる一族が定住していたのです。

    ただ、この「丹党の丹治氏系青木氏」が入っている小土豪の連合防衛組織の「武蔵7党」は、この「宇都宮付近」近郊まで住んでいた「小土豪集団」でした。
    ところが、「関東屋形」と呼ばれて、この「宇都宮」から南域は、藤原秀郷一門の「宇都宮氏」、「佐竹氏」、「小山氏」等の勢力圏にありました。
    お家の情報のあった「佐竹氏」とは、この「関東屋形」の”佐竹氏”です。
    お家の情報提供の永禄期の”「佐竹氏の青木氏に関する文書」”は、上記の3氏のどの青木氏の事を指して書いたかは問題です。

    そもそも、この「佐竹氏」は秀郷一門です。
    秀郷一門と云えば「秀郷流青木氏」と成ります。
    「秀郷流青木氏」と云えば、「秀郷一門一族361氏」を束ねていた「第二の宗家」と呼ばれる「青木氏」です。
    この「佐竹氏」は、元は、北九州豊後で、赴任中の秀郷宗家と護衛を務めた「青木氏」と仲良く成り、この一族は関東と行き来します。
    関東に来た「佐竹氏一族」の末裔が関東に定住し、秀郷一門と血縁して関東で大きく成った秀郷一門でも「支流族」です。
    この「関東屋形」と呼ばれる程に大豪族に成った「佐竹氏」が、「第二の宗家」と呼ばれる上位の上役の「青木氏」の事を、この「支流族」がおこがましく書くかの疑問もあります。
    (小山氏も「陸奥の土豪」で一門と血縁して関東で大豪族と成ります。)
    もし書くとすれば、「秀郷流青木氏」を背景に、その勢力を北に伸ばした関係のあった(4)の塩原の「諏訪族青木氏」の「合力」の事では無かったかと考えられます。

    武蔵を領国とした秀郷一門と、同じ武蔵の土豪(郷士族)であった「丹治氏系青木氏」とは、血縁関係もなく、支配関係下にも無かったのです。
    この「丹治氏系青木氏」は、そこで、何とか立身出世を夢見て、各地を転々とした”「国衆族」”の「小土豪の郷士」でした。
    文書にする相手であるかは疑問です。

    そもそも、この事に付いて決定的な事があります。
    それは、「丹治氏系青木氏」が ”「門徒衆」” であることです。
    この ”「門徒衆」”は、秀郷一門一族としては「禁じ手」でした。
    当時には、”「門徒衆」”と云う言葉の中には、”ある意味の含んだ言葉”であったのです。
    この「真宗」に入信している「下級武士」等は、”「藩主」の云う事を聞かなく、宗教に強く真髄し、藩主よりも「顕如上人」に真髄して「顕如」の云う事に従い、勝手に行動する「衆」である”と云う意味を持っていたのです。
    要するに警戒されていた集団であったのです。

    (因みに、浄土真宗 「石山本願寺」を攻めていた「荒木村重」も、この家臣の「門徒衆の裏切り行為」にて、信長に疑われて、結局は追い込まれて、「謀反の仕儀」と成った事は有名です。
    依って、慌てた全国の藩主等は、「家臣の門徒衆狩り」をしたのです。)

    「秀郷流青木氏」の事でも、上記した様に、「賜姓族の立場」があって、”「門徒衆」”を警戒して、嫌っていたのです。
    (「真宗」は二流あった。穏健派と抗戦派・門徒衆)
    それ故に、この「真宗」とは言え、 ”「門徒衆」”の(2)(4)はあり得ません。


    追伸の件ですが、上記の3氏が混在する中で、あり得ることではありますが、(4)の家臣は立場や家柄が違い過ぎて考え難いし、「佐竹氏」の家臣も共に上記の事もあって、考え難い事であったのです。
    ただ、(4)の支配下と、「宇都宮氏」の支配下、「佐竹氏」の支配下の中にはありましたが、「丹治氏系青木氏」は、正規の家臣では無く、「武蔵7党」の「郷士」であったのです。
    支配下の中での「土地所有」を一部認められた”「郷士団」”ですから、正式な家臣では無かったのです。
    一応は、支配下にあった事から、”「郷士」” ですから、ある程度の命令には従わなくてはならないのですが、正式な「家臣」では無かったのです。
    故に、”自由度の高い「家臣」” と観ていたのではないかと考えられます。

    そもそも、”「郷士」”とは、小さい「土地持ち」の古くからの”「地元の武士団」”で、後から来た「支配者」には「准家臣扱い」を受けます。
    この「大田原の丹治氏系青木氏」は、”「郷士」”として、”「下野の国衆」”と成って、秀郷一門(佐竹氏か宇都宮氏と、諏訪族青木氏)から、この大田原地域の「出城・物見櫓城」の防衛を請け負っていた事に成ります。
    「小土豪や郷士」等は、「国の支配者」に対して、「一部の土地」を与えられて、「国衆」か「プロの武装集団」を「生業」として、生き延びたのです。
    要するに、これが”「武蔵7党」”なのです。”「丹党」の「丹治氏系青木氏」”なのです。
    その一部本体が、各地を転戦した後に、「信濃の国衆」としても転戦し、「「村上氏の支配下」に入ります。
    そこで、一つの「出城の防備」を任されていたのです。(その後に「真田氏の国衆」に成る。)
    この様な集団は、各地に沢山ありました。
    愛知には、「今津川青木氏」の集団もありました。
    関西で有名なのは、雑賀族、根来族、柳生族、伊賀族、甲賀族、・・沢山あります。
    例えば、信長の「雇のプロ鉄砲集団」として、「雑賀族」は有名ですね。

    ところが、この時期に、各地では、この”「郷士団」”と、後から「支配者」となった「大名」や「豪族」との間で「争い」に成った事件が多発しました。
    有名なところでは、「山内氏」が土佐に入った時に、この「土佐の郷士団」が、「山内氏」に”「だまし討ち」”に合い戦闘して皆殺しにされる事も起こりました。

    戦国時代末期の緊縛した「永禄と元亀期」に、この”門徒衆”の「郷士」の事を書くかは疑問です。
    「文書中の青木氏」が、”門徒衆”の「大田原の青木氏」と決め付けるには問題です。
    従って、「大田原付近」にも一部「村」は形成しなくても、”「字域の程度以下」”で、「丹治氏系青木氏」が住んでいたのです。

    (江戸期初期には、この「丹治氏系青木氏」の本体は、「摂津麻田藩」と成った事から、関東に分布していたこれらの一族を呼び寄せて藩を固めます。
    弟にも河内4000石が支給され、”「国衆」”で離散していた一族を集めて家臣団を構成しました。)

    当初は、この”「郷士」”の「勢力の範囲」からも「村域」を形成出来る勢力ではありませんでした。
    ですから、この事からも「丹治氏系青木氏」と考えられます。
    そもそも、「丹治氏系青木氏」の本体は、「武蔵の国」の一部に”「郷士」”と成って住し、「立身出世」を夢見て、各地の ”「国衆」”と成って各地を転戦していた一族です。
    そもそも”「国衆」”の”「転戦族」”なのです。
    最終は、”「信濃の国衆」”がきっかけで立身出世して行きます。
    その結果、最終、「関ヶ原戦い」の「勲功」で、家康に味方した事から摂津の1万石の大名と成ります。
    離散していた一族は、皆、「摂津大阪域」に集まります。
    この”「門徒衆」の「丹治氏系青木氏」の「摂津磨田藩」”は、”門徒衆”の本山顕如の石山本願寺(平城 摂津国東成郡生玉荘大阪 現在の大阪城)の近くです。
    家康は、恣意的に”うるさい危険な「門徒衆」”を管理させる為に、「丹治氏系青木氏」をこの地域に配置したのです。

    家紋が判れば、「家紋分析」で判別が出来ます。また、守護神などでも判ります。
    (2)の守護神は「春日社」、(4)の守護神は「諏訪社」の様に、「守護神」が判れば、判別は確定する事が出来ますが、情報提供の範囲では確定は無理です。

    「龍念寺」がお判りに成るのであるのなら、その寺に、「人別帳」(過去帳は無い)なるものや「青木氏のルーツ」を物語るものは何かある筈です。
    城主(平館)ともなれば、「密教」の「菩提寺の過去帳」とは言えずとも、必ずや何らかの形で遺されている筈です。
    何故ならば、当時のルーツを示す事柄は「寺」が管理して遺していたのです。
    ”「土豪、郷士」”であるのならある筈です。

    少ない情報提供の範囲では、上記の「丹治彦王の配流孫」の「丹治氏系青木氏」と成ります。

    念の為に、情報の”菩提寺”の定義が違っています。
    「浄土真宗」は「密教」ではありません。「顕教」ですから、「檀家寺」と成ります。
    現在の”菩提寺”の使い方は、江戸初期、家康に依って、「密教の宗派」を一切無くし、全ての宗派は「顕教の宗派」と成りました。
    この為に、”檀家寺”も”菩提寺”と云う言葉と混同されてしまったのです。
    しかし、江戸時代でも、上級武士は「菩提寺」は「菩提寺」でした。
    「菩提寺」の言葉の使い分けは、一部上級武士階級で護られていました。

    更に、この時代の「・・守」は、朝廷が認証した正式な「・・守」では無く、勝手に名乗ったものも多く、城主が家臣に与えるなどの事もありました。
    土地の豪族らの「集団防衛組織」が、「権威付け」の為に、勝手に与えるなどの事も頻繁に起こったのです。
    室町末期の衰退期には、どんな小さな「土豪」でも、「金」を出せば朝廷の認可なしでも与えた衣冠名でもありました。
    従って、同じ「三河守」も沢山出てきますよ。
    何れにしても、この”「衣冠」”で、「個人の青木氏」の「郷士」を特定し、確定する事は困難です。

    先ず、お調べに成る時は、この辺のところを充分に検証してからお調べに成る事をお勧めします。
    この辺の検証を間違えると、ルーツ探究などの歴史研究は行き詰まります。

    「武蔵7党」の「小土豪集団」の「丹治氏系青木氏」でありますが、念の為に家紋や過去帳等の事をお知らせください。
    「丹治氏系青木氏」等の家紋は、はっきりしていますので、完全に判ります。
    上記した様な、「歴史的背景」を承知した上で、正しい歴史観の中で、ご研究を成される事をお勧めします。

    「青木氏」に限っては、他氏と異なり、「悠久の歴史」を持つ氏でありますので、「歴史観の判断」では「大きな影響力」を持っています。
    50以上の「慣習、仕来り、掟」と「賜姓族としての戒律」を把握しての探究が必要に成ります。
    何しろ、古い為に、一般の「氏や姓」と違って、全てが違っているのです。

    以上の事柄の歴史的な事に付いては、研究室やルーツ掲示板にも詳しく掲載していますので、是非お読みください。
    何せ、「膨大な資料」ですので、ゆっくりとお読みください。

    お読みに成って、ご質問やご不明な点がありましたら、何なりとご遠慮なくお尋ねください。


      [No.961] Re:大田原市中野内字青木の青木氏について
         投稿者:はかまだひなた   投稿日:2014/05/12(Mon) 23:41:03  

    追記情報

    字青木の浄土真宗本願寺派龍念寺の本尊阿弥陀如来は那須家臣とも佐竹家臣ともいう青木三河守義勝の守本尊と伝える。時点では義勝の後裔大山次郎秀勝が文明年間に堂宇を建立したのが始まりで、文禄頃火災で絶えた。宝永三年百姓源十郎が仏堂を再建、のち現在地に堂宇が建立されたという。

    原文のまま、掲載しました。


      [No.960] 大田原市中野内字青木の青木氏について
         投稿者:はかまだひなた   投稿日:2014/05/12(Mon) 00:03:11  

    私自身は青木ではないのですが、当家の菩提寺になっておりルーツ探しの一環として青木氏及び龍念寺についても調べております。

    青木要害の城主は青木三河守で浄土真宗・龍念寺は青木氏の菩提寺だったそうです。天正銘の鰐口、霜月六日に小野崎越前守に宛てた青木氏に関わる佐竹義昭の文書がある。(おそらく永禄4〜8年くらいのもの)、元亀元年の石山合戦に龍念寺門徒が参加していること等からそれ以前の開基であろうかと思います。

    現在、手元に資料がありませんが先代住職が書いた本が当家にあります。檀家さんに配ったものだと思います。うろ覚えなのですが、室町時代の開基だとか、青木龍念坊が興しただとか書いてあったような気もします。

    ネット上で一番詳しいのはhttp://homepage2.nifty.com/yogo1394/totigi/kurobanemati.htmこちらのサイトです。

    一体どこから来た一族なのか、なにかご存知のことあれば教えてください。


      [No.959] Re: 三つ盛り州浜
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/29(Tue) 17:23:31  

    今日は、始めまして。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    これからもよろしくお願いします。
    前の方は「三つ柏紋」の周防の方でしたが、お家は「三つ盛り州浜紋」の方ですね。
    何れも、ご先祖が漢方医の様ですが、家紋が異なっていますが、その先祖は同じ様にも観えますね。
    しかし、情報に依れば、お家の始祖とされるのは「丹治彦王の末裔」との事ですが、「三つ柏紋」の方は「甲斐の賜姓族」ですので、ルーツが同じでは無いようですね。
    確かに、「丹治彦王の末裔」が関東の武蔵で丹治氏を名乗り、その丹治氏が、その後、「嵯峨期の詔勅」にて「青木氏」を名乗った事は事実です。
    その末裔が、江戸期には、「関ヶ原の戦い」で勲功を立て、摂津に「1万石麻田藩」を家康から与えられます。
    この「丹治氏系青木氏」は「富士山に霧紋」です。
    そもそも、青木氏研究室などにもこの「丹治氏系青木氏」の発祥に付いては詳細に記載しています。
    一度、是非お読みください。

    そこで、念の為に、概要を記述して置きます。

    「丹治氏流青木一族」
    この「青木氏」は、「武蔵七党」の一つ、「丹党」から分岐した「青木氏」で、「嵯峨期の詔勅」に従って、「皇族出自」である事から、「青木氏」を名乗ったのです。
    「皇族出自」とは、この「丹治氏の由来」は、「丹治彦王」の「配流孫の末裔」である事から名乗ったものです。
    そもそも、「丹党」とは、平安期前に武蔵守に任じられた「丹治比氏の末裔」で、その末裔の「峯時」の代に「秩父牧の別当」と成り、「丹治氏」又は、「丹氏」を名乗りました。
    この末裔は、関東の児玉、秩父、比企、入間に広く分布しています。
    確かに、この始祖は、「左大臣の島」は皇位継承権のある「真人族」を授かり、その「島」の子の「広成」が遣唐使に成ります。
    この「広成八世」の孫の「武信」が罪を犯し、「武蔵」に配流されます。
    この武蔵で「配流孫」を遺し、その末裔の「峯時」がこの武蔵で家を興します。
    そして、その子の末裔の「繁行」が「丹党」を興します。
    この「丹党」が「丹治氏」を名乗ります。
    この「丹治氏」から「青木氏」が分岐したのです。
    「嵯峨期の詔勅」にて、「皇族出自の者」は、「青木氏」を名乗る事が決められています。
    その他の者は、一切氏名のみならず、一切の賜姓族の「慣習仕来り掟」を使う事の禁令を発します。
    この「青木氏」の内、「基房」の曾孫の「直時」なる者がこの入間に定住します。
    この「青木氏」が、立身出世を夢見て信濃と甲斐に”「国衆」”として移動定住します。
    ここで、この「青木氏」は3つに分かれます。

    一つは、甲斐に定住して甲斐の「真田氏に仕える者」と、真田氏に家臣と成って「紀州九度山に伴う者」、そして、更に立身出世を求めて、「丹治氏系青木氏の本体」は、美濃から関ヶ原に出て、家康に味方して上記した大名にと、この3派に分かれたのです。
    この内の甲斐派が周防に流れた事に成ります。

    「三つ柏紋」は「神官職」なので、「甲斐の賜姓族青木氏」が、「青木氏の守護神の神明社」の建立等の為か、「周防の神官職」との血縁で移動したかの何れかです。

    「島左大臣」は、「宣化天皇」より発し、「十市王」の孫の「丹治彦王」の「息子」であります。
    この「島」から12代目が上記の「配流孫の峯時」に成ります。
    さて、この「丹治氏系青木氏」は、大きく分けると、4流に成ります。
    この内、本流が上記の信濃ー甲斐ー美濃ー摂津と流れました。
    流れが、明確に成っていない一つは、「真田氏」に付いて九度山に伴った一族で、「関ヶ原の戦い」に参戦しました。
    後に、どの様な行動をとったかは判らないのですが、資料によると「毛利氏の庇護」を求めて逃げたとあります。

    ただ、なぜ周防に流れたかは不明です。
    「丹治氏系青木氏」の祖が上記した様に全て関東に関わっています。
    これほど西域まで流れたとは当時の法度では普通は考え難いのです。
    正式には、記録から「周防」に流れてはいませんので、「室町末期の移動」と成ります。

    ところが、その「周防」には、「三つ柏紋」の甲斐からの移動と、お家の「三つ盛り州浜」の移動とは、別にもう「二つの流れの青木氏」が在ります。
    ところが、「甲斐からの流れ」は、「丹治氏系青木氏」ではありません。

    何かどこかで、この2つのご先祖の流れが間違えている事に成ります。
    家紋から観ると、「三つ柏紋」はそもそも「神官族の家紋」です。
    「守護神の神明社」の「神官族の青木氏」と、「九州の菊池氏の神官族」との血縁族である事は判ります。恐らくは、「神官職の移動」である事は理解できます。
    「青木氏」には、「三つ柏紋」を始めとして「柏紋文様の青木氏」は、「青木氏の守護神の神明社」の「神官」を務めていますので大変多いのです。
    この事から、「薬師の仕事」は納得出来るのです。
    昔、「守護神神明社」の者の宮司は、「御師」と崇められて、その知識から、「薬師の役」も果たしていたのです。

    さて、「三つ盛り州浜紋の青木氏」ですが、この「家紋」は「陸奥の土豪小田氏」が、「陸奥」に赴任していた「秀郷流青木氏」と血縁したのです。
    その後に、「陸奥」から「秀郷流青木氏」の「青木氏の地」の「武蔵」に戻る事に伴って同行移動してきました。
    定住した「常陸」で勢力を拡大し「大豪族」と成った一族の代表家紋です。
    従って、「秀郷流青木氏」の「三つ盛り州浜紋の青木氏」であり得ます。
    ただ、この家紋群の限界域は、西域には「静岡東域」まで分布している家紋です。
    これが何故、「周防」に流れたのかは疑問です。
    昔は、「自由移動」は「国抜け」として「一族斬罪の法度」です。
    「何かの理由」、例えば、「神官職移動」や「関ヶ原の敗戦逃亡」などの理由が無い限りは「移動定住」はあり得ません。
    現在の様に自由にあっちにこっちにと移動は出来ないのです。
    そこで、「丹治氏系青木氏」とすれば、「甲斐の真田氏の九度山組」があげられるのです。
    関ヶ原で、敗戦後、幸村の生き残りの家臣等は、「毛利氏」を頼った事は判っています。

    「三つ盛り州浜の家紋」と「丹治氏系青木氏」が、実は、お家の「周防の青木氏」の場合は、一致しないのです。
    「丹治氏系青木氏」には、「三つ盛り州浜紋」はありません。
    「三つ盛り州浜紋」は「藤原秀郷流青木氏」です。

    つまり、「系譜」が「丹治氏系青木氏」で、「家紋」が「藤原秀郷流青木氏」で、矛盾しています。

    しかし、「柏文様の周防の青木氏」は、史実と一致していますから、納得できます。
    お家の場合は、この矛盾をどの様に解くかの問題があります。
    「丹治氏系青木氏」の場合で、検証する場合は、「周防」のそのルーツはあり得る事として納得できます。
    ただ、「柏紋の周防の青木氏」も、お家の「州浜紋の周防の青木氏」も、何れも、「薬師、医師、種痘、大阪の同じ所」でルーツを結び付けています。
    これは、一見同じルーツと見做されますが、ところがその「出自元」は全く異なります。
    この事は、「他の2つのルーツの方」も同じ所に結び付けています。
    これは、家紋分析からもあり得ない事です。
    何故なのでしょうか。

    さて、その原因は、どちらかが、丁度あった「周防の青木氏の史実」に「自分のルーツ」を ”根拠なし”に重ねて結び付けている事に成ります。
    先ずは、「柏紋系青木氏」には、その根拠と成る事が備わっています。

    お家には、「丹治氏系」か、「家紋」かに、先ずは「証明する根拠」を以って検証しなければなりません。
    「家紋」は観えるステイタスですので、信頼度は高いと観られますが、観えない「丹治氏系」には、お家に遺された「真実」のその「歴史的な史実の積み重ね」が要求されます。
    「遺された文書」や「系譜」だけでは、ルーツを確定する事は難しいのです。
    ”それは何故なのか”です。

    そもそも、「系譜の作成方法」に付いてお考えください。
    その「系譜」は、先祖が死ぬ毎に書き記して朱印して行ったものなのですか。違いますよね。
    誰かがある時期に書き残したものですね。
    では、その時に、そのご先祖がルーツを解明出来る程に歴史家でしたか。
    それほどに、社会にルーツの事の情報が在り、溢れていたのですか。
    その様な社会では到底無かったですよね。
    戦乱の世の中でしたよね。少なくとも作れる事が出来たのは、江戸初期から江戸中期でしたね。

    江戸期前は「自分の家のルーツ」の管理は、「氏の菩提寺」が行っていたのです。
    しかし、「檀家寺」では無い「氏だけを祭る菩提寺」をお持ちですか。
    「系統的な氏の戸籍簿」はこの「氏寺」が行っていたのですよ。
    つまり、「人別帳」では無い「過去帳」が在りますか。
    少なくとも、「家紋」にせよ、「丹治氏系」にせよ、関東より何らかの異変により移動定住した青木氏である限り、”氏が運営する氏の人だけを祭祀する菩提寺”は無い筈です。
    「自分の氏」の人だけを祭祀する「菩提寺」を、”創り運営する財力”は、「一介の武士」にはある筈はありません。
    それほどの寺を創建するだけの末裔が多くありましたか。移動した青木氏には無い筈です。
    そもそも、第一に、その「藩」が認める事はありません。
    何故なら、「寺建立の権」は、江戸期前は自由では無かったのです。全て許可制です。
    平安期ー鎌倉期には、更に「普通の氏」には「寺の建立権」には許可が出なかったのです。
    「特定の氏」にしか「建立権」が与えられていませんでした。
    その一つが「青木氏」ですが、但し、江戸期まで「氏家制度」でしたから、勝手に「分家」が「寺」を建てる事は許されません。
    全て「宗家」か「本家」にしか与えられていなかった権利なのです。
    つまり、「移動族」には「菩提寺」が建てられなかったし、「毛利氏の家臣」クラスが建てられる事は先ずはあり得ませんし、許可も出ません。経済的にも無理です。
    「氏の者全員」が、一地域に集まって正式な「青木村」を形成してこそ出来る事なのです。

    「菩提寺(過去帳:系統性がある)」は「檀家寺(人別帳:系統性は無い)」ではありませんよ。
    つまり、「信頼できる系譜」はそもそも作れない事に成ります。

    お家の論調は、ここにも無理があるのです。
    この無理をどの様に解明するかの努力があっての事と成ります。
    江戸期でも、”信頼できる真面な歴史書”は2つしかありません。
    その二つに「自分の家」のルーツが、「移動族」であるのに載っているとでも思われますか。

    更には、「家紋の三つ盛り州浜紋」と、「丹治氏系」との”矛盾”をどの様に解くかの必要があります。

    注意
    (その郷土史などの多くは、「三つ盛り州浜紋の秀郷流青木氏」と、「丹治氏系青木氏」とが「同じ地域」に定住している事に依る間違いを起こしている。
    合わせて、「家紋分析」が全く出来ていない事に起因している。)

    昔の「血縁の慣習」は、”「家柄、身分、格式」のバランス”が取れている事を前提として行われていました。
    「自由婚」ではありませんでしたよ。
    特に「青木氏」に関しては、その「氏名の発祥」から、この「慣習仕来り掟」は「厳しい戒律」として圧し掛かっていましたのです。

    この「家紋分析」と「慣習分析」の違いによる「検証ミス現象」はよくある事です。
    特に、室町期中期から江戸初期に掛けて「ルーツの搾取偏纂」が横行したのです。
    「家柄、身分、格式」をよく見せる為に「搾取偏纂」のブームが起こったのです。
    従って、この横行した「搾取偏纂」を見抜くには、「家紋分析」と「慣習分析」が絶対条件として必要なのです。

    むしろ、「個人的横行」だけではないのです。
    「江戸初期の幕府」は、「系譜編纂の令」を発して、「系譜・由来書等」を持たない「立身出世した大名」やその「家臣の上級、下級武士」などまでにも、「系譜偏纂」などの令を強引に出しています。

    お家が、おっしゃられている様に、室町期中期以降のステイタスに関するものを前提とするルーツの誇示は信用できないのです。
    この時代のものは、相当に検証しないと、「系譜や由来書」を始めとして、一切の書類や文書や官位官職や格式なども含めて全てと云ってよいほどに贋作なのです。
    その内容は間違うほどに良く出来ています。

    (知識の持った寺が「財政」を補うために、「副業」として請け負ったので良く出来ているのです。絵画や陶器の贋作を見抜くのと同じ程度の専門的知識が必要です。)

    又、その様に整える様に「幕府からの指導」を受けたのです。
    それでなくては「家や姓」を幕府から藩からも「黒印状」として認めてもらえなかったのです。
    家臣も右に倣えで藩主から認めてもらえない現象が起こったのです。
    認めて貰えなければ、「俸禄」はありません。搾取偏纂を承知で必死に金品を賭けて作ったのです。
    家臣までもが、何かの例を見本に、「類似する系譜や家紋や由来書や添書」などのものを、良し悪しに関わらず寺に頼んで作り上げたのです。
    故に、矛盾が出て来るのです。(この為に、戦いまで起こっている。)
    これでも江戸幕府はよかったのです。むしろこれを望んでいたのです。
    「良し悪し」は無視しても、別にしても、これは「江戸幕府」の徹底した「権威の構築政策」であったのです。

    幕府がこれを認め、且つ、社会の殆どが「贋作」であれば、それは最早、「贋作」では無く成ります。
    何時か時代が進めば、贋作である事を忘れ去り、それは「贋作」では無く、「真実」と成り得ます。

    「氏の菩提寺」を持たない氏以外は、この範疇の中にあります。
    念の為に、江戸期の「氏」と云っているのは全て例外なく「姓族」です。
    「氏族」と「姓族」があり歴史性が違うのです。
    「姓族」には「第3の青木氏」を除き「青木氏」はありません。
    「姓族」の最初は、室町期初期の「海部姓」である事が判っています。それ以後、立身出世で家を興した者が姓を名乗ったのです。
    「青木氏」は、朝廷が認めた「氏族」で歴史性は全く違うのです。
    これを同じテーブルで論じると、上記のような間違いを平気で起こすのです。

    実は、「青木氏」が定住するところには、必ず「第3の青木氏」と云う「青木姓」のものが在ります。
    この事も区分けして配慮しないと間違いを起こします。
    上記の間違いと共に、殆ど「郷土史」はよくこの間違いも起こしているのです。
    「平安期」から「江戸期」等の「歴史関係書」を読んで研究していないで編纂されているのが現状です。

    A 明治初期に苗字を持たない庶民が、「明治3年の苗字令」、「8年の督促令」に依って、”周囲の青木氏”に肖って「政府の強引な指導」もあって、ある日、突然に、「村や地域の全ての庶民」が「青木氏」を名乗ったのです。
    これを「第3の青木氏」と云います。
    この「第3の青木氏」も、周囲の庄屋や郷氏や郷士や豪農の氏名に似せて、その「由来や系譜」などをも「寺」にお金を出して作り上げました。

    B もう一つ、室町期末期に、”立身出世して下級武士の農民”が、「青木姓」を同じ要領で名乗ったのです。

    C 更に、江戸初期にも”苗字の持たない武士が旗本など”が家臣と成った時にも、「青木姓」を同じ要領で名乗ったのです。

    江戸時代の信頼できる歴史書には、このBとCに付いて「第3の青木氏」と書いて記載されています。
    「青木氏」には伝統的に維持した「特殊な慣習、仕来り、掟、戒律」があって、それとを比べれば完全に判別が可能です。

    例えば、お家の矛盾は、次ぎの「決定条件」で判別できます。

    「ルーツ確定の決定要件」
    宗派、過去帳、菩提寺有無、
    戒名の内容、永代官位格式、達親方式(布施方式か)、
    維新戸籍簿、仏壇形式、墓所形式 女墓、女紋

    以上の要件に全てでなくても合致していて検証すれば解くことが完全に出来ます。

    お家の場合は、この決定できる「大事な情報」が全く書かれていないのは疑問です。

    何か書き記したものがあるからと云って、自分のルーツのものだとして、鵜呑みにするのではなく、上記の事に照らし合わせて先ず検証する必要があるのです。
    だから、「4つの家紋」などの「出自」の違うルーツの青木氏が、同じ所に辿り着くことに成るのです。

    上記した様に、ある時期、この「搾取偏纂のブーム」が起こったのですから、「家系図」などがあるとしても鵜呑みには出来ないのです。
    筆者の知るところでは、「系譜等」は殆ど信用できず、上記の「決定要件」に照らすと、「搾取偏纂、贋作」が殆どです。
    そもそも、「系譜」の中味如何よりも、 ”系譜を遺している” と云う事そのものが、「偽の行為」と断定し評価できるのです。
    何故ならば、系譜は菩提寺に過去帳として遺されています。
    それを「系譜の形」にすると云う行為は、”家筋を誇示する事”に外なりません。
    外に対する誇示を目的としています。
    「菩提寺や過去帳」が在れば、何も作る必要が無い訳であり、自分の家の中で留める事で済みます。
    それを外に出す事は”誇示”以外にありません。
    「菩提氏や過去帳」が無いから、偽の系譜を作る必要が出て来るのです。
    ”系譜がある”と主張される家に、”菩提寺が在りますか。?、過去帳はありますか。? ”と尋ねると ”無い”と答えるのが殆どです。
    更に、その家は「姓名」です。
    「姓族」には、「菩提寺や過去帳」は、正当な家筋の大名クラスの相当な家筋でなくてはあり得ません。
    そもそも、「姓族」は歴史的に一番早いのが「海部姓」(室町期中期前)ですから、それ以外は殆どは江戸初期が発祥期に成るのです。
    仮に「系譜」を作るとしても、せいぜい4代から6代程度が関の山です。
    「農工商の民」、及び「下級武士」には、元々、”先祖を系統的に祭祀記録するそもそもの概念”が無かったのです。
    概念が無い習慣なのです。あって遺さなかったのでは無く、遺す考え方が元々頭の中に無かったのです。
    従って、寺(寺に記録を遺さない)や墓(河原の石を積み上げた墓)の”概念”も無かったのです。
    ”・・村・・太郎”と云う風に「個人名」だけで、「税制上」の為に、「一代限りの人別帳」(寺か多くは庄屋が管理した)しかなかったのです。系統性は全くなかったのです。
    個人が亡く成ると、”・・村の誰々の子”と云う様な系統性が無い為に、時が経つと抹消されて行くのです。
    後は”記憶の範囲”で治める習慣です。
    明治期等につくられたものは、殆どこの様なところが現代風に考えられて、作られているので、直ぐに見分けがつくのです。

    現実に、お家の系譜内容の「丹治氏系青木氏」の中の説明もこの様なところがかなり間違っています。

    参考
    「偽系譜の作り方」
    寺などが系譜作成を頼まれると、次ぎの要領で作ります。
    先ずその土地柄などによく似た系譜を探します。そして、その系譜の一部に偽の「架空人物」を横に繋ぎます。
    次ぎに、この人物に又別の系譜を繋ぎます。その系譜の末端にその先祖の数だけ繋ぎ合わせるのです。
    系譜をよく見てみると、全く「氏姓」「地域」「時代」等が異なっているのに、同じ様な系譜が幾つも出て来るのです。
    「氏の系譜」に「姓の系譜」が繋がったりしています。
    歴史に判力の無い人が見れば一見すると見抜くことは先ず無理です。
    青木氏は家筋上から、他氏と違い、この手を基としてよく使われていたのです。
    武士であっても、「江戸初期の第3氏」や「室町期中期の第3氏」が、この手を使っていて、他氏と違い、搾取が多いのはこの事から来ています。
    (決定要件に矛盾 侍は国民4000万の実質1割弱でした。仮に明治期の搾取偏纂を加えると9割が侍と成ってしまう。)

    そもそも、いきなり丹治氏の「青木氏」を名乗った様になっていますが、名乗ったのはかなり後の時代です。
    「丹党」から遅れて「丹治氏」へ、「丹治氏」から更に遅れて「青木氏」へと変化したのです。
    凡そ、900年位のずれがあるのです。(現代感覚で作られたことを意味しています。明治初期)

    更には、勝手に氏名を名乗れる時代ではなかったのに、「周防」と云うかなり離れた地域で、定住地外に名乗った事に成っている事。
    「青木氏」を”名乗った根拠”の「嵯峨期詔勅」の事が書かれていない事。(青木氏は慣習上は普通は書いている。)
    「系譜」が作られた時期は、「丹治氏の丹治彦王」の事が歴史的に判った後に成りますから、早くても研究で正式には明確に江戸中期以降に成ります。
    その結果が日本全国に広まるには今と違って時間が掛かります。遅くて、明治初期と成ります。
    それを昔の様に表現されている。
    そもそも、”何らかのアクシデントで周防まで定住移動しています”から、況して「傍流」ですし、「系譜」など作れない筈ですよね。
    ”敗戦後の掃討作戦”で、命からがらで逃亡したのですから、「家筋」を示す根拠等は何一つ無かった筈です。

    既に、丹治氏系の本体は既に、摂津で大名と成っています。
    何も、周防まで逃げる必要は無かった筈です。
    むしろ、一族を故郷から呼び寄せて集めて家臣団を作らなければなりません。
    「氏家制度」の社会でした。一族で固まって生きて行く社会でした。一人では生きて行けない社会でした。ここも現代風で違っています。
    真田幸村の家臣に成った丹治氏が毛利氏を頼ったとする説がありますが、筆者は違っていると観ています。
    甲斐で、涙ながらに別れた一族が、直ぐ近くの紀州に居たのです。敵味方に成って戦い負けたからと云っても、先ずは摂津の本体に逃げ込む筈です。
    ”丹治氏の流れ”は青木氏に至るまでの平安期から江戸末期まで、完全に歴史的に研究されて把握されています。
    誰か一人が国抜けして周防に辿り着いたとして、系譜を証明する根拠は無かった筈で、故に周防では「偽の系譜」になるのです。
    この辺も「自由移動の発想」です。

    「丹治氏系青木氏」と矛盾している「藤原秀郷流青木氏」の家紋の「三つ盛り州浜紋」とすると、これこそおかしいのです。
    秀郷一門と共に、「秀郷流青木氏116氏」も完全に把握されていて、家紋を始めとして一切の事が判っているから、”116氏”なのです。
    この中から一人外れ出たとしても「国抜け」ですから、系譜を証明する根拠は無かった筈ですし、本家筋は一族として”国抜けの者”に認める訳はありません。
    これも24地域外の定住地外の周防ですから、根拠なしの系譜を搾取偏纂して誇示する必要が出ます。
    そうすると当然に、早くて幕府の系譜等の作成令のブーム期か、江戸期中期頃から明治初期と成ってしまうのです。


    要するに、周防としての青木氏の場合は、「発祥経緯」と「上記の決定要件」に無理が出るのです。
    但し、発祥経緯では出ない要件が一つあります。
    それは、特別扱いであった「神職の青木氏」です。
    「柏紋」は、その意味で「発祥経緯と決定要件」はクリヤー出来るのです。

    そこで、何はともあれ、この決定要件でチェックすればすぐに判ります。

    (周防は青木氏の本来の定住地では無い事から、この決定要件に合致しない筈です。

    そもそも、この周防と云う土地柄には”「青木氏の特別な理由」”があったのです。
    「周防」は、平安期の昔から「政権抗争」や「配流先」として「公家族」等を庇護した土地柄であって、「青木氏」がこの地に踏み込むことを禁じられていたのです。
    つまり、古来より「青木氏の禁断の地」であったのです。
    依って、この地には、”正式な「青木村」”が無く、”「菩提寺」も無い土地柄”なのです。
    「青木村」が無い事は、”正式な移動”では無い事を先ず示します。
    当然に、青木村が無い事は、菩提寺が無い事に成ります。
    更に当然に、”真面な系譜”を作れる事は無い事に成ります。

    そこで、この地域には”青木氏の真面な系譜”などはあり得ない考え方になるのです。
    この系譜とするものが完全な”後付のもの”である事に成り、即座に判るのです。

    上記の多い矛盾点をどの様に説明づけられるかになりますね。
    かなり難しい事に成ります。

    この程度の書類であれば、寺に頼んで作っていますので、「第3の青木氏」も充分に揃えていますよ。
    (武士家臣であれば、表向きにも無理にでも整えなくては成らなかった。俸禄が得られなかった。)

    ところが、上記の様な「決定要件」のチェックポイント等が絶対に整えられないものがあるのです。

    先ずは、しっかりした検証をお勧めします。
    「秀郷流青木氏」は116氏、皇族賜姓族青木氏5家5流の15氏と、皇族青木氏(丹治氏系含む)は4氏が在ります。
    この末裔の定住地と移動が明確に成っています。

    あくまでも、「公的な場」と成っている以上、「青木氏の事実」と対比した結果で、厳しいお応えと成って居ますが、もし、判らない時には、何なりとお尋ねください。ご協力いたします。


      [No.958] Re: 三つ盛り州浜
         投稿者:むーみん   投稿日:2014/04/28(Mon) 12:50:29  

    周防大島の青木さん江、

    周防大島の青木家は二流あります。
    伝承の内容では武家であったようですね。
    であるなら1618年当時の青木善左衛門尉の子孫ではと思われます。
    この青木家の系図によると元祖は多冶比古王としています。
    天武天皇の前の代の皇子です。子供の多冶比真人島は天武天皇の御代は
    右大臣左大臣を勤めます。この一族の多冶比真人三宅麻呂が武蔵の秩父で
    銅を掘り出し朝廷に献じたことにより、年号が和同と改元されました。
    多冶比王から二十代後が青木武蔵守直兼で、その更に五代の孫、家継は
    京都で長尾豪佑から兵法を習い永正八年(1511)に神道流・宝山流の
    秘伝を授けられたとされます。
    その子が冶部丞元行で、大島郡安下庄塩宇に住み毛利輝元に仕えて
    軍功があって、和泉守を拝領しています。
    その子の善四郎元氏は三郎兵衛尉に任じられ、後に肥後守に任じられます。
    これらの官途名は京都の朝廷から出されたものではなく、中世も終わりになると
    大名も家臣に受領や官位を出していたので、中世末期以降は混雑しています。

    周防大島では別に和田村出身の青木周弼 弟・青木研蔵の医師が有名です。
    兄はシーボルトの教えを受け、当時の日本の種痘法の大家で毛利藩医学館頭
    として研究を続け、日本の医学史に名を残します。


      [No.957] Re:質問させて下さい。
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/09(Wed) 16:42:43  

    今日は。お便りありがとう御座います。
    そうですか、お家のルーツは判りました。

    お家のルーツと思われる青木さんはサイトでは充分に判っています。
    お家の事に付いては、サイトの左メニューの「地名地形データーベース」のところに書き込まれています。先ずはそこをお読みください。
    尚、下記に論じるものに付いては、ルーツ掲示板や研究室に既に書き記しています。

    福岡の件については充分な説明をしなくてはなかなか判らないのです。
    では、早速、説明いたします。
    先ず、”福岡に青木村が無かった”と云う件です。
    この地域には「3つのルーツ」の青木さんが時代は異なっていますが定住しました。

    先ず、この「3つのルーツ」を全て説明すると膨大なものと成りますので、「地名地形データーベース」を読んで頂いたとして、お家のルーツと観られる一つに付いて説明いたします。
    この事で、「福岡に青木村は無かった」とする事が判ります。

    お家の云う通り、ここに鎌倉時代に派遣された(「青木氏」)者が確かに居ました。
    記録に残っています。この派遣された者には2氏があります。
    一つは、鎌倉時代末期に「元寇の役」が起こりました。
    この時、幕府から防衛軍として、「藤原秀郷流青木氏族の5氏」が派遣されました。
    この5氏は秀郷の第3子の「千国」を始祖とする「兼行流」の「青木氏」、「永嶋氏」、「長沼氏」の3氏と、「文行流」の「長谷川氏」と「進藤氏」の2氏が派遣されたのです。
    そこで、「元寇の役」が終われば、元の関東に戻るのが規則ですが、この5氏は九州の自治をしていた九州全土を支配下に治めていた「大蔵氏」と血縁関係を結びました。
    ところが、「秀郷流」の「青木氏と進藤氏」は、現地で生まれた子孫も引き連れて関東に帰ってしまったのです。
    「秀郷流の長谷川氏」と「秀郷流の永嶋氏」の「青木氏族」は「現地の末裔」を残して本体は関東に戻りました。
    この残った現地末裔の「2氏の子孫」が大蔵氏の末裔として子孫を拡大させました。
    これが「九州大蔵氏系永嶋氏」と「九州大蔵氏系長谷川氏」です。
    この5氏は有名な「藤原秀郷流青木氏族主要一門」です。
    この5氏の内、青木氏は勿論の事、永嶋氏と長沼氏は青木氏を名乗ろうとすれば名乗る事は兼行流である為に名乗る事は可能でした。
    しかし、両氏とも名乗っていません。

    念の為に、下記Aに付いて、この「特別賜姓族」の「藤原秀郷流青木氏」は119氏に広がり、赴任地域の「24地域」に末裔を残しています。全て現存しています。
    この119氏の事は全ての内容が明確に判っています。
    武蔵の国入間の宗家を中心に、全国24の地域に認定を受けた「青木村」を形成して定住しています。
    一方、「皇族賜姓族5家5流青木氏」の14氏も全ての内容が明確に判明しています。
    更に、「嵯峨期詔勅」に基づく「皇族青木氏」も5氏として全ての内容が明確に判明しています。


    さて、次ぎはお家のルーツです。
    内容は殆ど明確に判明しています。
    鎌倉期に北家筋の「藤原利仁」の一族もこの地に派遣されました。
    派遣された3人は現地の土豪との血縁族を作ります。
    この血縁族が、後に「青木氏」を名乗ったのです。(但し、青樹氏から青木氏に後に変更)
    「嵯峨期の詔勅」にて、「青木氏」を名乗れるのは、「皇族の者」と決められていました。
    ところが、「皇族賜姓族青木氏5家5流青木氏」を補佐するために、特別に「母方族」の「藤原秀郷」に対して、皇族外から特別に賜姓して「青木氏」を名乗る事を許します。
    この「青木氏」を「秀郷の第3子の千国」に対して継承する事を定めます。 

    この秀郷は「平の将門の乱」を沈めた勲功から「武蔵と下野」を「領地」とし「貴族の家柄」をも与えました。
    ”貴族は武力を持つ事は出来ません”から、一族の宗家の「第3子」に、代々この「一族の護衛団の役目」を与えて永続的に役られる事で朝廷の認可がおります。
    更に、「皇族賜姓族青木氏」と同じく補佐する「天皇の親衛隊の役目」も与えたものです。
    そして、「皇族賜姓族青木氏」と全く同じ「全ての格式と立場」を与えました。

    ところが、この秀郷の親族の利仁なる者の末裔が筑前に派遣されたましたが、現地の末裔が室町期の後に青木氏(青樹氏)を名乗ったのです。

    北家筋の「藤原利仁流一門」は、皇族系ではない為に「青木氏」は名乗れる事が出来ません。
    そこで、「嵯峨期等の禁令」を破って強引に名乗ったのです。当然に朝廷からも賜姓はありません。
    勝手に名乗った青木氏である為に、「本流の青木氏」ではない為に、「第3の青木氏」と呼ばれています。
    室町期から江戸期までの歴史書の全ては、この「福岡の利仁流」で名乗った「青木氏」を「第3の青木氏」と定義されています。
    筆者もその説を採っています。

    これがお家のルーツで、定義上からは「第3の青木氏」と成ります。
    ところが、この「第3の青木氏」は、当初のその呼称は「あおき」では無く、「ウォーキ」でした。
    その漢字も「青樹」でありました。
    実は、この「ウォーキ」の呼称には根拠があるのです。

    そもそも、「皇族賜姓青木氏」の”青木の氏名”の賜姓は、「青木」と云う木があり、それを基に天智天皇は賜姓したのです。
    奈良期からこの木は「神の木」として用いられ、その実の真紅は「血」、枝の青さは常緑の青さから「体」と考えられ、又、その木の成長力の強さから「生命」と考えられ、「天皇家の祭祀に用いる皇祖神の神木」として用いられていたのです。
    つまり、この木の成り立ちが、この世の「生物の源」として崇められていて、この「生物の源」として「皇族の者」がこの木に準えて賜姓を授かり、下族して臣下として働きます。
    この「天皇の末裔」が「下族」で生きる初めての「民の根源の意味」を持たして、「賜姓の氏名」としたのです。
    ”「全ての民」は「天皇の子」であると云う概念”が「古来の概念」でしたから、”その「子の基」と成るのだ”として賜姓したのです。
    そして、この「神木のあおきの木」を以って、これが「青木氏の賜姓木」と成ったのです。

    しかし、この「青樹氏の呼称」は次ぎの様な由来から来ています。
    この「神木」の「あおきの木」の呼び方を神社の祭祀では、「ウォーキの木」と発声していたのです。
    この「利仁流藤原氏」は、この「青樹で ウォーキ」と発声したのです。
    この事から、「慣例の禁令」を「利仁流藤原氏」は破った事から、「青木氏」だけでは無く、「青樹氏」とし、更には、「あおき」ではなく、「ウォーキ」として発生して違いを出して罰を逃れたのです。

    この「皇族賜姓青木氏」と「特別賜姓秀郷流青木氏」の「2つの青木氏」には「最高級の格式」を与え、「3つの役目」を与えて、「不入不倫の大権」を与えました。
    この「青木氏」に「皇祖神」の子神の「祖先神の神明社」を「青木氏守護神」として、”民の安寧を図る事を目的”として全国に建立する事を命じます。
    566社に及ぶ建立をしました。他にも多くの役目を任じられています。
    これらを実行する為に、「2つの青木氏」は「経済的自立」を図ります。(二足の草鞋策)
    その為に「伊勢古代和紙」を5家に広げて、「殖産ー販売のシステム」を構築するなどをしました。
    徹底した「3つの発祥源の役目」を果たすように命じられ厳しい「特別の戒律」を与えられます。
    特に、「侍の根源」(武家の根源等)としての50以上にもなる「慣習仕来り掟」と、「訓」と「戒め」を与えて「民の模範」と成る事の役を果たす様に定められます。
    そして、「皇祖神の伊勢神宮」を「守護する氏」として始祖の「施基皇子」に「伊勢王」として命じたのです。(他の四家にも「守護する氏」としての役目を与えました。)
    その為に、「皇位継承の改革」を実行した「天智天皇」と「天武天皇」は、「王の格式と呼称」は、この時、「皇子の第4世族」までとして変更しました。(それまでは第6世族までであった。)
    この「第4世族」を「5つの地域」に配置したのです。
    これが「5家5流の青木氏」と成って、「光仁天皇」まで「5代の天皇」の「皇位継承者」から外れた皇子を、この「5家5流の青木氏」の跡目に入れて護ったのです。
    (光仁天皇は施基皇子の長男 女系天皇が続いた為に継承外の第6位皇子の伊勢から天皇に成った)
    そして、この臣下した「青木氏」には「天皇と宮廷を護る役目」を与えたのです。
    それが親衛隊の護衛軍トップの「左衛門上佐」として命じたのです。
    これを平安期では「北面武士」として呼ばれていました。

    この後、「嵯峨天皇」は、更にこの役目を強化して細目の「禁令と詔勅」を発し、その時に、「青木氏の賜姓」から、同じ賜姓の意味を持つ「源」を基にして、以後、「源氏」として賜姓する事に成ったのです。
    この「源氏」は「嵯峨源氏」を始めとして、「花山天皇」まで11代の「第6位皇子」で継続されました。
    この賜姓の受ける資格の持つ皇子は「真人族と朝臣族」に限定したのです。
    そして、この資格は第4世族皇子で第6位皇子に与え、資格から外れた者が下族する際には「青木氏」を名乗る事を定めて、「全ての民」はこの「青木氏」を名乗る事のみならず、この「一切の慣例の使用」を禁じたのです。

    この「5家5流の青木氏の跡目」に入れなく成った「下族皇子」と「還俗皇子」は「賜姓族」では無い「皇族青木氏」と呼ばれました。
    その「皇族青木氏」には5氏が存在して居ますが、この青木氏には厳しい多くの戒律は与えませんでした。逆に身辺の保護も経済的な保護も与えなかったのです。
    この「青木氏」から「源氏」に変わった「賜姓」は、11代続き、18人の皇子と7皇女とが対象となりました。
    しかし、「賜姓」を受けた皇子以外は殆どは「比叡山門跡院の門跡僧」と、皇女は「皇祖神の斎王」に成りました。

    従って、お家の「利仁流藤原氏のあおき氏」は、正規の朝廷から認可された「青木氏」でも無く、資格者でも無かったのです。
    「青木氏」でも無い「北家利仁流藤原氏」の「青樹氏」である為に、当然に「氏名の青木村」は認可されません。
    「家の格式」も与えられませんでした・
    この禁令で「青木氏」を除く全ての氏は ”地名による氏名”となりました。
    つまり、この時から「氏名」を地名とする事は出来なくなったのです。

    ところが、この「青樹氏」は、後に江戸初期に「江戸幕府初期の系譜作成の命」に従って「青木氏」に変更しています。
    他の地域でも、この令に従って武士としての旗本や御家人などは次ぎの様な類似の氏名を名乗りました。
    この青城氏、仰木氏、葵木氏、蒼樹氏、青城氏等の昔の「第3氏」に対しては、「条件付き」で「青木氏」に変更さしたのです。
    ”正規の賜姓族の青木氏の権威”に似せて、「権威付け」を社会に浸透させさせ様としました。
    この「政治的な目的」の為に、上記の「あおき氏」等に「青木氏」に変更する様に命じたのです。

    (注意 この幾つかの「あおき」を使って、逆に、江戸初期には姓を持たなかった農民から伸し上がった「下級武士」はこの上記の異なる「あおき」を名乗ったのです。
    又、明治初期には苗字令に依って全ての農工商の民は苗字を持つ事に成りますが、この時にも、この「あおき」を名乗ると云う現象も起こりました。)

    更に、この「青木氏の権威」は、正式には「平安期までの朝廷の権威」で保障されていたのであり、お家のは「鎌倉期の権威」では最早、「幕府の権威」はありません。

    (「朝廷の禁令の権威」は遺され、且つ、「社会的慣習」による「権威」は遺る。)

    お家は、この「権威の期」も異なっていますので、朝廷の「正規の青木氏」ではありません。
    「青木氏」の名乗り、のみならず「青木村」も認可外のものと成るのです。
    「青樹氏」の氏名の「青木村」は、本来であれば「青樹村」に成りますが、「氏名」から「村名」にするのは禁令ですから「青木村」は出来ないのです。

    故に、「室町期の青木氏」は存在するは、当然の事としても、”論調の範囲では無い事”から存在するも”「青木村」は無い”としているのです。
    (他の理由もある 下記)
    この様な「青木村と青木氏」は福岡以外の他にも数か所存在して居ます。

    この「第3の青木氏」では、室町期初期ー室町期末期ー江戸初期ー明治初期の4期に起こっています。(下記)

    更に、「お家の青木氏」にはもっと異なっているところがあるのです。
    それは「氏名」を使った「村」は、詔勅によって一切の賜姓族の慣例の禁止で禁じられていますが、
    「利仁流藤原氏」の場合は、「青木村」は使えないのですから、禁令を破っている事に成ります。

    但し、当時には、この「村」の種類も「3つの種類」があったのです。
    税制上の仕組みからですが、「村」より少し大きい「しょう 荘」、「村」より少し小さい「あざ 字」があります。

    (参考 4郡から5郡で「国」、4村から5村で「こおり 郡」、「しょう 荘」は2村程度 、「あざ 字」は0.5村程度、一村は400から500人程度となっていたとされています。)

    そこで、「お家の青樹氏(青木氏)」の「青木村」とすると、鎌倉期の頃は、税の記録から「字」の範囲であった事が記されています。
    つまり、禁令のみならず、実質的にも元々「青木村」ではなかったのです。
    その後、室町期の中頃から末期頃には「大きめの村程度」には成っていた事が判っています。
    「村の定義」の「青木村」としての記録は発見されない事から、”俗称的な村”であった事も考えられます。

    従って、ここでも鎌倉期末期から室町初期頃の事では、「字程度」として記録されていて「青木村の定義」からも外れるのです。
    ここでは論文ですので、お家が主張する大雑把な「村の定義」では論じられないのです。

    何れにしても、以上の様に、全ての「青木氏の条件」からは外れる事に成りますので論じられていないのです。

    ただ、「第3の青木氏」を論じる場合は、余りにその”多種多様な範囲での青木氏”と成りますので、一括して論じる事は難しいのです。

    千差万別の内容の異なる「青木氏」を名乗った時期は次ぎの4期に成ります。
    A 奈良期末期から平安期末期(皇族賜姓青木氏 賜姓秀郷流青木氏)
    B 鎌倉期末期から室町期初期(源氏から青木氏 皇族から青木氏 北家公家族から青木氏)
    C 室町期末期から江戸期初期(武士からの第3の青木氏) 
    D 江戸期末期から明治期初期(民衆からの第3の青木氏)

    お家は、このBに当たります。(ここまでの論議では)

    従って、判っているこの福岡地域の「他の青木氏」は、全て判っていてます。
    一つ目は、「黒田藩の日向青木氏」
    二つ目は、「黒田藩の摂津青木氏」
    である事が判っています。

    この流れの中に、「別の2つの青木氏」が「筑後」と「肥前」から流れ込んできている事も判っています。家紋分析からは判別できます。

    そもそも、「別の2つの青木氏」は次ぎの通りです。
    この「筑後」は、「源の為朝」が平家に追われてこの地に逃げ込んで出来た「配流孫」が、後に「青木氏」を名乗った事が判っています。(嵯峨期の詔勅による正規の青木氏)

    この「肥前」は、ここには「藤原秀郷流青木氏」が平安期から鎌倉期にかけて「秀郷一門宗家」の赴任に同行して「青木村」を形成して「秀郷流青木氏」が護衛団として定住していました。

    この「2つの青木氏」が、”「筑前の国境」付近の地域に定住”していた事も判っているのです。
    この「肥前の青木氏」の判別も可能で平安期の詔勅による「正規の青木氏」です。

    これらは「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「戒名」などの慣習で判別できるのです。

    当時は「氏家制度」の社会によって、その「家柄や身分」などによってこれらの慣習は決められていて、自由には選択できない社会でしたので判別できます。
    これらの事がその「氏の絶対的ステイタス」に成っていたのです。

    お家が云う様に、”「苗字や家紋」は違っていても・・・”の云々の主張は、現在感覚の発想であります。
    「氏家制度」の社会の中では、「苗字や家紋」は「絶対的なステイタス」として扱われていて、これを護るために厳しい戒律として「同族血縁」を繰り返して守ってきたのです。
    この”「絶対的ステイタス」”が侵されれば戦いも辞さない時代でした。
    現実に、記録から観ると、「青木氏」では事件も含めて10回程度起こっています。(研究室に記載)

    当然に、この「絶対的なステイタス」を護るには、「宗派や戒名」等の慣習もそれに準じて分けられていたのです。
    自由に、誰でもが、家紋や宗派や寺や神社や戒名等のステイタスを勝手に選ぶ事が出来ない社会でした。

    ですから、宗派や戒名でも氏のステイタスは判るのです。

    青木氏の場合は、「賜姓族」として、「武家」のその先頭に立っていたのですから、絶対にこれを護ったし、故に、氏の絶対的命題として「同族血縁」を進めていたのです。
    (筆者の祖父の代までこの慣習が護られていました。)

    (ここで云う「武家」とは、「公家」に類する「武家」であり、江戸時代で云われた武家では無い。「八色の姓の制」に従った「正規の呼称」。)
    「賜姓族青木氏」はその「武家の頂点」にあり、「武家、侍の発祥源」として位置づけられ権威付けられていた。)


    そもそも、社会に対して政治的に”体制の確固たるあるべき姿”を民に示す為にも、”護る事を主務としての賜姓氏”であったのです。
    ですから、この為に、それを護ろうとして「必死の同族血縁」が進むために「筑後」や「肥前」や「日向」から「筑前」に近づいてくるのです。
    そして、その為に近隣地域に「棲み分け」をするのです。
    同じ「青木氏」でも「氏」が異なれば絶対に住み分ける当時の慣習が護られていたのです。
    他氏と異なり混在する「青木村」は形成されませんでした。
    (「賜姓族青木氏」でも、「家の格式順位」があって、その格式で済み分けていた。)
    それが「氏名」を「村名」とする「由緒を示す青木村」の持つ意味なのです。

    従って、”黒田藩の青木理兵衛さん”のルーツとは、お家とは完全に異なっているのです。
    (次ぎのお名前からも異なっている。)
    市左衛門さんのルーツも異なっているのです。格式の違いによって地域を変えて住み分けていたのです。
    先ず、「家の格式」の差が大きいが為に異なっていますので、恐らくはお家とは血縁は無かったと考えられます。
    故に、上記した様に、その「氏」その「家」に依って異なるところから、「家紋や宗派や過去帳」などの事が判れば判別できます。

    「福岡の3氏」と「近隣に居る3氏」の青木さんは、故に、「集合村」では無いことから、「氏家制度の棲み分けの慣習」からすべて異なっているのです。
    この福岡も従って、「福岡3地域」「近隣3地域」に分かれていて、「家紋、宗派、守護神、菩提寺」等が異なっています。
    同族であれば、「青木氏」の場合は異ならず、「戒律」に依って「統一したステイタス」を持っているのです。

    率直な感想として、実に、お家の現在感覚での発想と主張で驚きます。昔の慣習を無視した”ごちゃまぜ”には着いて行けません。
    そもそも、良し悪し好き嫌いは別にして、「歴史」は「過去の感覚」なのですよ。

    さて、更に疑問があります。「第3の青木氏」である証拠が他にもあります。
    それは、”ご先祖のお名前の内容”です。
    ”「青木窪之弥次郎盛能」”と成っています。

    上記にも前回にも記述しました様に、
    身分は皇族朝臣族、
    家柄では浄大1位、
    官位では正二位、
    職位では左衛門上佐、
    担当職では民部上尉
    以上の氏の格式の立場を持っています。

    この「格式の立場」は、「皇族賜姓族青木氏」と「特別賜姓族青木氏」以外には名乗れません。
    これは永代に朝廷から認められたものです。
    因みに、この「格式の立場」はどの程度かと云いますと、「征夷大将軍の徳川家康」が「青木氏」と面会したとしますと、「徳川家康」が下位の儀礼の立場を採らなければならない立場なのです。
    殿様が座る上段の場では、家康は席を譲って下段に座り、座布団などの敷物は外す作法の慣例の立場にあります。
    馬に乗っていれば下馬する立場なのです。
    (現実にこの慣例に則り家康と対面している。)
    因みに、この事を物語る事件が歴史上に起こっています。
    この「二つの事件」は有名な歌舞伎にもなっています。

    一つは、信長が甲斐武田氏を滅ぼしました。そして、甲斐視察を実行している時、甲斐の賜姓族源氏と青木氏が白の布衣を着て、白の馬に乗ったままに信長を迎えたのです。
    これを観たこの格式の慣例の知らない信長が、怒ってこの白装束で白馬の者を自分で引き釣り降ろし殴る蹴る乱行に及んだです。極めて有名な事件です。

    次ぎは、4代将軍が伊勢神宮参詣に至った時に、「伊勢青木氏」がこの慣例に従って迎えたのです。
    それを観た将軍は怒って家臣に命じて罰する様に命じたのですが、家臣がこの「古式の慣例」を知っていて、将軍を咎めて難無くを得ますが、江戸に帰ってから将軍は収まらず、「青木氏」に対して嫌がらせをしたのです。この事は青木氏の口伝にも伝えられています。これも有名な事件です。

    事ほど左様に、現実には、筆者の祖父の代まで、紀州藩とはその慣例に原則従ったと聞いていますし、現実にその儀礼に従った徳川氏の手紙の記録もあります。

    さて、そうすると、正式に名乗る時には、”正二位青木朝臣左衛門上佐信定”と云う事になります。
    少なくとも、どんなに「格式の立場」が低くても、「青木氏」であった場合は、必ず最高で「左衛門上佐」か「左衛門尉」か「右衛門尉」が付く筈です。
    しかし、お家のご先祖には付いていませんから、これは明らかに「正規の青木氏」でない証拠です。
    つまり、附けられないのです。

    (青木理兵衛さん、青木市座衛門さん、共に付いています。この事でも、依って、違うのです)
    ただ、室町期末期から江戸期には大名や上級家幕臣は、衰退した朝廷の財政を賄う為に一代限りの官位と職位を金品で買って名乗る事が起こりました。

    例えば、よく知るところでは”遠山の金さん”の”遠山左衛門尉時定”と名乗っていますね。
    これは朝廷から金品を出して幕府の許可を得て授かった一代限りの官位です。
    幕末中期ころからは武士はこの左衛門、右衛門を勝手に付けて名前にしました。
    明治期には遂には庶民も名前にするほどに成りました。
    鎌倉期から室町期中期まではこの格式の慣例はまだ守られていました。

    ところが、それでもお家のご先祖の名には、幼名と俗名しかなく青木氏に関わる全く格式らしきものが付いていません。
    「第3の青木氏」である証拠です。

    次ぎに、更に疑問点があります。

    >”そこにはわたしの先祖、鎌倉幕府御家人である、青木窪之弥次郎盛能がいました。”

    ”御家人”がこの格式の無いのも疑問です。
    そもそも、あるから、「御家人」と云う「格式のある幕臣」の家臣に成って居た訳です。
    全くの疑問です。

    明らかに、江戸期の歴史書の通説通り、福岡の「第3の青木氏」である事を物語っています。
    これを更に証明するものがあります。(江戸期の「第3の青木氏」の可能性が高くなる)

    それは「宗派」と「菩提寺」と「過去帳」と「戒名」でも判ります。
    違うと云うのであれば、この4つの事が伝えられて判る筈ですから、教えてください。
    (恐らくは、菩提寺も過去帳も無い筈で、檀家寺は菩提寺ではありません。過去帳は人別帳ではありません。戒名も格式を示すものが付いていない筈です)、

    そこで、更に、お便りの情報ですが、先ず、Aの件でも違っています。

    「青木氏」はそもそも”「産土神」”ではなく、”「祖先神」”です。
    「青木氏の守護神」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」ですから、全く別の派で異なっています。
    「藤原秀郷流青木氏」も、「神明社」と「春日社」です。
    これでも、正規の守護神を祭祀出来ない立場にあった事を物語っています。

    これも通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠です。

    更に、「氏名」を「神社の社名」には、禁令に反しますから使えませんし、その青木氏には慣習はありませんし、出来ない仕来りです。(神社がお家のルーツの神社である事の根拠はありません。)
    そもそも、社名は統一して「神明社」です。
    全く大きな違いです。

    これも通説通りの「第3の青木氏」である事を物語る確実な証拠です。

    お家は強引に使っていますので、当初は「青樹」を使い、呼称も「ウォーキ」であった筈です。
    それを「江戸初期の令」により「青木」に変更したと観られます。(各地でも起こった)
    自らが「青木氏の禁令」を破るような事は絶対にしないし、「3つの発祥源」を自らが否定するような馬鹿な事はしません。
    これも「正規の青木氏」では無い事を物語ります。

    これも通説通り「第3の青木氏」である事を物語ります。

    次ぎはBのことですが、これも「青木氏の慣例」に従っていません。
    「青木氏」は「密教浄土宗」です。
    従って、”氏独自に寺を創建して、自らの氏の中から住職を出す仕来り”です。
    ですが、つまり「菩提寺」では無く、情報の寺は「檀家寺」と成っています。
    青木氏は独自独善の「菩提寺」を持っています。(寺名も統一されています。)
    その「寺名」も違っています。
    これも「第3の青木氏」である証拠です。

    もっと異なる事があります。
    下記のお便りの様に、この寺は「真言宗」です。
    「青木氏」は「浄土宗系」で「密教」で、「真言宗」ではありません。

    (青木氏は法然の密教浄土宗の前からこの浄土宗の前の「古代密教浄土宗」です。
    赴任によって一時的に真宗に入る場合がある。)

    >寺社は「青木山長福寺」をインドの僧、清賀上人が西暦725年に建立。その後大同三年、弘法大師(空海)が唐より帰朝して当社に移り、当時は隆昌を極めていたようです。

    これも「第3の青木氏」である証拠です。


    更に、禁令と慣習慣例に違反しています。
    「青木の氏名」を山名に使っています。
    明らかに「正規の青木氏」ではありません。
    「青木氏」は「嵯峨期の詔勅と禁令」に従って、勝手な所に「青木」を使う事は禁じられています。
    そんな慣習はありません。

    「第3の青木氏」である事に間違いはありません。

    恐らくは、上記等の資格が無い為に、「青樹」を使い、「ウォーキ」と呼称していた筈です。
    江戸初期の令に基づき変更したことに成ります。

    更に違いがあります。
    「青木氏の菩提寺」の「住職」は「密教」ですので、全て「青木氏」です。例外はありません。
    (一部に同族の近江佐々木氏が代行している)
    ”清賀上人建立”となっています。
    住職も青木氏である筈で全く違いますし、建立も青木氏と成ります。
    他の上人が建立することなど全くあり得ません。

    これも「第3の青木氏」である証拠です。

    そもそも、「自らの氏」が「自らの力」で「自らの住職」が「自らの僧侶」を揃えて建て、自ら”「達親方式」”で運営するのです。
    この点も異なっています。

    これも「第3の青木氏」である証拠です。

    >”当時は隆昌を・・”
    と成っていますから、この場合は「布施方式」です。

    「達親方式」は、”隆昌”は一族一門の寺の方式ですから一族の範囲で一切を行いますのであり得ません。
    これも全く異なっています。

    これも「第3の青木氏」である確実な証拠です。

    そして、時代にも疑問があります。
    「布施方式」は、真言宗も密教方式で、浄土宗の「浄土密教」と異なる「真言密教」です。
    「真言密教」が「密教」を解いて「布施方式」と「檀家方式」に変えたのはもっと後の時代です。

    江戸初期に家康が全ての宗派に対して、「密教方式」を解き、「菩提寺方式」を解いて、全て「檀家方式」に変え、「達親方式」を止めさせて「布施方式」に変えさせた時からに成ります。
    「家康の宗教改革」で、幕末にも起こっています。

    「時代性」も明らかに異なっていますから「第3の青木氏」である事は500%間違いありません。
    むしろ違いすぎています。

    >”青木社(八雲神社)の宮司、順光寺の住職、共に今も姓はアオキ”

    この件は、「青樹」であった事が考えられ、後に江戸期初期には「青木」と成った筈です。
    住職と神職共に青木氏であったとしても、この福岡地域には「3つの青木氏」と、近隣には「3つの青木氏」が存在して居るのですよ。
    お家の青木氏であるかは別問題で、その為にもお家の宗派や菩提寺や家紋や過去帳や戒名等と照合する事が必要で、其の上で検証して確定させるべき事柄です。

    例えば、この地域に「明治期の第3の青木氏」が存在したとした場合も、そのお寺や神社は青木氏だからと云って、「明治期の第3の青木氏」と親戚だとなるのですか。
    福岡でも「明治期の第3の青木氏」は発祥していますよ。

    そもそも、上記した様に「神明社」と「菩提寺」であり、異なっていて論外です。
    「青木氏」は神職と住職は「伊勢青木氏」から送り込むシステムに成っていますが、その福岡の記録がありません。
    まして、大蔵氏の基盤の中に「青木氏の菩提寺」の建立は殆ど不可能です。
    菩提寺を維持するだけの「村の規模」がありませんし、「経済的」にも成り立ちません。

    そもそも、既に、「達親方式」では無く、上記で「布施方式」で、「檀家寺方式」ですので、この件も無理です。

    関西より以北の「神明社」と「青木氏」が定住している地域の菩提寺は、全て「青木氏」で務めていましたし、現在は減少していますが、「伊勢青木氏」か「信濃青木氏」から送られた末裔である事は判っています。
    間違いだらけの論調です。

    これも「第3の青木氏」である証拠です。
    むしろ、「明治期の第3の青木氏」の可能性が高くなりました。

    ”書かれている何れの文章”にも明らかに「矛盾の問題」が多すぎます。
    多すぎるを超えています。

    この書籍の書いた人物かご先祖が「正規の青木氏」の寺であるかの様に、辻褄を合わして、誤魔化した様な、「明治期の第3の青木氏」であるが為に非確定ですがそんな気もします。
    それは、周囲に「利仁流藤原氏」が居た事があった事から、この知識や慣例を知っていて、それに辻褄合わせの類似する方法を採った可能性があります。
    (秀郷流と利仁流は、秀郷の祖祖父の藤成と、利仁の祖祖父の鷲取は兄弟)


    次ぎの問題は、「郷土史」を正としての前提で主張していますが、前回にも上記にも論じましたように、その”「郷土史の論処」は何辺にあるのでしょうか”、疑問を持たれないのでしょうか。

    「郷土史」の論処の殆どは、江戸初期に幕府が命じた系譜や由来書や歴史書や宗派や家紋や等の一切の格式に関する書籍の作成令から来ています。
    自らが歴史の研究をして、その「論処の是非」を研究せずに、この江戸初期の書籍を基に作成されているのです。

    さて、この江戸初期の大名やそれに準ずる豪族とその上級家臣等の主だった武士が命じられた者達は平安期からの悠久の歴史の持つ者達であったのでしょうか。そうではありませんでした。

    室町期の下剋上、戦国時代で、殆どの歴史や由来を持つものは11代の源氏を始めとして豪族と云う豪族は悉く例外なくすべて滅亡しているのです。
    そして、それらと入れ替わって、歴史由来の慣習と概念の持っていなかった”立身出世した有能な農民や庶民”が伸し上がったのです。
    主君に例外が無いのですから、家臣の領域までも例外がありません。

    ”作れ”と成れば、例外なく ”搾取偏纂の虚偽の書籍しか作り様がありません。
    江戸初期の幕府は、それでもよかったのです。
    「権威つくりの政治体制」を作らねば政治に「権威」を無くし又乱れるます。
    その「権威づくり」に躍起となったのです。
    「過去の権威」と繋がった様に書いていなければ受け付けなかったのです。
    当然に領主がそうであったように幕府が求めていなかった下級家臣にもこの影響が及びました。
    そうして、社会全体が、”「家柄 身分の格式」を重んじる社会”となって行ったのですが、結局は徹底した封建社会が確立しました。
    この作られた書籍は、事態と時代が進む程に、「真偽化」していくことに成り、「虚偽」を打ち消す資料と人は、無くなって行きます。これが世の中の条理です。

    さて、そうなると、この「虚偽の書籍類」を信じて以外に郷土史を作る方法は無くなります。
    それが「郷土史の実態」です。
    ですから、上記の様に、文章などに時代考証や慣習考証などに矛盾が生まれるのです。

    幸い、その中でも最も悠久の歴史と由来や慣習や仕来り掟などが消えずに残していて生き残った青木氏が存在していれば、その「青木氏が持つ資料」で、この様な「郷土史」は、是非を判定する比較対象がある為に、搾取偏纂虚偽の真偽の判別が可能と成るのです。
    それに上手く嵌ろうとしたのが「第3氏」で、「青木氏」であれば「第3の青木氏」と成って浮き上がってしまうのです。
    この様な判別が出来得る氏は前回でもお応えした様に、8000氏の中で虚偽で出来ていないのは、数えるほどの「僅かの氏」しかありません。

    歴史研究する者は「郷土史」も一応は資料対象としますが、その「真偽」から先ず調査して資料とします。
    殆どは、”虚偽搾取偏纂”とは言わずとも「矛盾」を持っています。
    これを取り除いた上で資料として使うのが普通です。
    ところが、お家はこれを省いていると云うよりは前提としていて我執に拘り主張するで困るのです。
    それも、自分の範囲で留まればそれはそれで信じるは自由ですから良いのですが。

    >古来・・速かあたへし書も数通あり

    以上の表現と成って居ますが、これも史書籍としての表現がおかしいのです。
    「郷土史」も歴史の書籍の一つで学問の規純と成る知識であるのに、”数通あり”の表現は驚きます。
    普通、この様に書けば、先ず歴史研究家や歴史通マニアから噛みつかれます。
    その”数通”が判っているのであれば、それも大きな確認材料でよりその真偽度を増すものですから、書くのが普通です。
    真偽度に自信の無い様子を呈していて、故意に信じさせようとする意図が見え隠れしています。

    更に、”古来”とは何時なのか。
    歴史書にしては、あり得ない表現です。
    普通はその年代を明確に書けなくても、”居た”とする事が確認できるのであれば、その年代時期は判る筈です。
    しかし、”古来”は地域の歴史書なのに雑過ぎますね。

    お家の青木氏の根拠とするものにも、これほどの矛盾を持っているのです。

    むしろ、矛盾が在りすぎます。
    「利仁流藤原氏の青木氏」と云うよりは、完全な江戸初期の「第3の青木氏」では無いかとも思えます。

    >室町幕府にも、足利尊氏からの着到状を掲げ、証判を受けています。

    その証拠としている古文書なる書物も観てみなければ判りません。
    権威の作成令の「江戸初期の第3の青木氏」が良く使った手口です。
    上記した様に江戸初期の令は、無いものにある様に無理に書き記せとしているのですから、書き記す以上はその根拠と成るものを捏造するは、どんな書類であっても作ります。
    それが江戸期初期に起こった現象です。
    典型的な例が、家の格式や立場を表すステイタスの「家紋」です。
    1つの権威ある家紋に対して、判りにくいところを少し変えて類似家紋に作り変えるのです。
    大抵は100から200位は類似家紋があります。
    この数字が如何に”捏造”が凄かったかが判ります。


    通説を否定するだけのとても筆者としても覆す材料の論処を残念ながら持ち合わせません。
    「利仁流藤原氏の第3青木氏」とする通説にしても、余りにも、異なりすぎます。

    「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「過去帳」と「戒名」などの慣習で判別をする為に教えて頂いて、確定をしなければなりませんが、”明治期の青木さんではないか”との可能性が強過ぎます。
    お家の地域には、この「利仁流藤原氏の第3の青木氏」が現実に住んでいました。

    ただ、明治の3年の苗字令と8年の督促令に従って、余りに令の進捗が悪かったのです。
    そこで、ある日突然、期限を区切って政府の強い指導で地域の土豪の氏名を「村」、或は「字」ごと一斉に名乗らした事も起こっています。
    その青木さんではないかとも考えられますが、ただ、お家の古文書なるものがどの様な意味を持つかは判断し兼ねています。
    下記の情報で判定は出来るでしょう。

    参考
     「宗派」と「家紋」と「菩提寺」と「守護神」と「過去帳」と「戒名」と共に、維新政府の戸籍簿でもこれらの「出自の事」が書き記されています。


    以上ですが、”青木村が無かった”の説明に時間が掛かりました。
    是非、これらの事は青木氏サイトに全て詳しく論じていますので、先ずは、そちらをお読みください。そこには、家紋などもありますので、この中にお家の家紋があるかを確認ください。

    念の為に、”家紋と宗派は変わる”と云うご主張であるのなら読むことは無駄です。
    それは、最早、歴史ではありませんね。ですから、歴史サイトですので無駄です。

    宗派や家紋や戒名や菩提寺等々を情報提供のご意志がおありなら、お応えいたします。
    しかし、その前に維新の戸籍簿の確認で一目瞭然ですよ。


      [No.954] Re:質問させて下さい。
         投稿者:福岡の旧姓が青木です。   投稿日:2014/04/07(Mon) 19:37:48  

    管理人さま、失礼いたしました。
    わたし自身、身内の聞き取りでさえ、大変な思いをしていることをすっかり忘れて勝手なお願いをしてしまいました。我が一族の残した古文書は既に各方面にて、研究され、解説論文もありますので、簡単に考えたことも事実です。


    しかし、管理人さんは「福岡には青木村がない」と仰っておられました。
    信じられない思いがしたのはこのことからです。
    けれど、データとして、お役に立てるのではないかと思い、ほんの少しですが、お知らせすることにいたしました。

    「筑前國続風土記拾遺」には、以下のように、青木村の存在がありました。今宿、女原、谷村、上ノ原、青木村、などなど。その昔は、あの一帯は青木村でした。朝廷の直轄荘園(怡土ノ荘)のすぐ隣になります。

    http://hakataboy.com/avenue/KaratsuGaidou/Imajyuku/m.html

    そして、そこにはわたしの先祖、鎌倉幕府御家人である、青木窪之弥次郎盛能がいました。
    室町幕府にも、足利尊氏からの着到状を掲げ、証判を受けています。
    同じ「筑前国続風土記拾遺」によりますと「是は古来久保に居たりし地士なるべし。元亀の比臼杵鎮速かあたへし書も数通あり」
    とあります。

    ですので、今宿青木の青木理兵衛さんは、遡るとわたしの一族にあたるのではないかと思います。
    今も色々な事情で苗字、家紋など違ってはいても、親戚筋がそこに住んでおります。


    また今宿青木の神社、寺社について、ですが、

    A 神社は、今宿の上ノ原には産土神として神代創建と伝える青木社(現在は八雲神社)があります。

    B 寺社は「青木山長福寺」をインドの僧、清賀上人が西暦725年に建立。その後大同三年、弘法大師(空海)が唐より帰朝して当社に移り、当時は隆昌を極めていたようです。
    その寺は全焼失により、順光寺と名前を変え宗派も変え、享保三年に西区姪浜に移転しています。

    青木社(八雲神社)の宮司、順光寺の住職、共に今も姓はアオキです。

    青木山とは、最近まで青木所有であった長垂山のことです。
    そこには明治以降にも、分家二つ目である青木が長垂寺を開きましたが、今は糸島の雷神社が重要文化財なども含め、自ら求めてくださって、一切を管理してくれています。

    神社は他に幾つもありますが、現在も宮司や住職が青木の名を持つのは是だけです。

    今回は今宿青木に関連して述べさせていただきました。


    管理人さま、以下二件は、うちの古文書の一部ですが
    本日、青木氏のルーツ地名から発見したことがあります。

    ○ 差出人不詳の青木右京進宛、「忠勤の由、肝要。入部の刻、富永郷内久重名5町を預け遣わす」との書状

    ○大友義統から青木中務烝宛の「軍労を賞し但馬守に任ず」との書状

    など他地域との関連を窺わせるものが幾つか。
    Bなど、そちらのHPを拝見しましたら、愛知県新城市に青木の地名がありました。
    もしかして何らかの関連が?と思い、お知らせしておきます。


    それ以外のわたしの先祖、青木一族については

    ”世に晒す事無かれ、何れに利無し”

    で、今のところ、公開して良いものやら、決断しかねておりますので、その旨ご了承ください。
    それではまた。失礼いたしました。m(_ _)m


      [No.952] Re:青木 半左衛門について(真田家に仕えた)
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/07(Mon) 12:17:07  

    今日は。お便りありがとう御座います。

    真田氏の家臣になった信濃の青木さん 更に村上氏の家臣でもあったと云う事ですね。
    これでお家のルーツが判りました。
    お家のルーツの情報が少なかったものですから、なかなか難しく特定できませんでした。
    ここ信濃は、奈良期より「皇族賜姓族の5家5流青木氏」の定住地です。
    更には、この青木氏と血縁した「諏訪族青木氏」の定住地でもあります。
    そして、この地の豪族の流れを組む「足利氏系青木氏」が定住しています。
    夫々は住み分けをしています。
    ところが、ここには次ぎの青木氏が一時期に移動してきました。
    関東武蔵から[丹治氏系青木氏」、武蔵から[藤原秀郷流青木氏」の2氏があります。ただ,「藤原秀郷流青木氏]は信濃には定住していません。
    そこで、このお話は、信濃と甲斐に繋がるお話です。

    ところが、この甲斐には「3流の青木氏」があって、「皇族賜姓族の青木氏3家」、「武田氏系皇族青木氏4家」と「武田氏系諏訪族青木氏2家」、それに「第3の青木氏」があります。
    賜姓地の中でこの甲斐にだけ「第3の青木氏」が存在します。
    従って、甲斐に関わる青木氏の場合は、この江戸期前にルーツを持たない「第3の青木氏」の検証をしなければならないのです。
    「甲斐の青木さん」を検証する場合は情報が少ないと特に難しいのです。信濃と違って元々少ない傾向があるのです。
    つまり、この「甲斐の第3の青木氏」には、一つの癖がありまして、武田氏の家臣の青木氏説、真田氏の家臣の青木氏説、村上氏の家臣の青木氏説、信濃から甲斐の豪族の家臣の青木氏説などを持ち出して家柄を搾取偏纂で誇張しているのですが、その「根拠と成る条件」が全て合致しないのです。
    その殆どは、明治初期の3年の苗字令と8年の督促令に基づいて名乗った青木氏なのです。

    実は、これにはある理由がありまして、この甲斐の国には一種この様な歴史的な風習の様な習慣があったのです。
    そもそも、武田氏が清和源氏を名乗っていますが疑問ですし、武田氏系青木氏も嵯峨期の詔勅を根拠に清和源氏の皇族出自だからと主張して「青木氏」を名乗ったり、母方が公家だからと主張して「一条氏」を勝手に名乗る等しています。何れもその確実な根拠はありません。
    その典型的な家柄の搾取偏纂の勃興氏はこの「真田氏」なのです。
    有名で真田氏の系図と記録を考察すると、ある程度の歴史的知識があれば直ぐにでも誰でも判る程の矛盾だらけです。
    これらの甲斐の家柄の記録は殆どは後付記録です。(ここでは議論しない。)

    これには、ある理由があったのです。
    江戸期初期になると幕府が、全国の1万石以上の大名に対して「家系譜作り」を強引に命じたのです。
    立身出世したものばかりですから、「家系譜」や「由緒書」や「添書」などは元々作れる筈がありません。
    しかし、その時に、「江戸守護大名として権威づくり」の為には、農民や商人から立身出世した大名ばかりであった為に、その「権威の低さ」から”政治的に拙い”として、無理承知で「平安期の名族」と強引に結び付けて提出させたのです。

    (「氏」を構成している「中級武士」以外には、”「ルーツ」を継承して記録する概念”そのものが無かった。農民や商人などから立身出世した「姓族」には無かった。兎も角も「氏の記録」を継承する「菩提寺」そのものの慣習は無かった。あったとしても「税」に対する「人別帳」で「一代限り」で「ルーツの系統」は無かった。「人別帳」にしても「檀家寺」か「庄屋」か「名主」などの「村主」が行っていた程度であってその夫々が「目的」が異なっていた。「墓などの概念」そのものがなかった。あったとしても「河原」の「路傍の石」を積み上げたもので一代限りのもので風雨に晒されて無くなるのが関の山であったし、仏教でもその様に教えていた為に「砂岩」を使わせた。”「路傍の石」”の言葉もこの事から来ている。)

    徳川氏そのものも例外ではないのです。拙いものは突き返すなどしてこれを公的に公表したのです。
    これを基に色々な「有名な歴史書」が作られました。「権威づくり」の為に”作らした”と云った方が正しいのです。
    従って、その大名の各種の内部記録には矛盾が多く残っているのです。
    当然に、各大名の上級家臣にもこの事を求めましたので、結果として出世するにはこの家柄が重視する社会が生まれたのです。況や「封建社会」です。
    この風潮が強かったのは甲斐が元々強かったのです。
    この様な社会体制の事に反発した甲斐の庶民の「100年一揆」が続いた位です。
    (背後に曹洞宗の扇動があった。)
    特に明治初期には、甲斐から信濃にかけて庶民にこの反発が爆発して一向一揆などが頻発して起こる程に強かったのです。
    例えば、「甲斐の青木氏」は「家康の命令」で全て青木一族郎党を埼玉鉢形と八王子に集団移植させているのですが、ところが居ないはずの「甲斐の青木氏」を名乗る青木さんは鉢形より多いくらいなのです。(「鉢形衆」や「八王子1000人衆」で有名)
    実は、これには「8年の督促令」が左右していて、明治政府が苗字令が一向に進まない事から、半強制的に村郡の庶民に対して、一斉に期限を切って周囲の名族を名乗る様に指導したのです。
    一夜にして村全体に「青木氏」が甲斐に出来たのです。これが「青木氏」の多くなった経緯なのです。

    (郡全体で一夜で「藤原氏」を名乗った地域もあった。「藤原氏」は直接「藤原の氏名」を名乗っていない。その「仕来り」は無く、「藤原氏」は「氏族の総称」で、官職名、役職名、国域名の順で「3つの頭文字」を「藤」の前に付けて名乗る仕来りであった。「伊藤氏」は「伊勢の藤原氏」の様にした「仕来り」であった。「甲斐の青木氏」もこの様な仕来りで判別する事が出来る。)
     
    元々、庶民でなくても武士階級でもその傾向が強かったので、江戸初期には立身出世した下級武士も平安期から室町期中期の「名族」を名乗ったのです。江戸時代は名乗っても文句を附ける氏族は幕府の圧力を感じて云わなかった状況であった。豊臣時代は逆に戦いで秀吉面前で決着させたくらいであった。
    つまり、甲斐は”「国衆」”でも物語る様に、庶民等の「立身出世の一番多い地域」であったのです。
    ”庶民等の立身出世を夢見る者”は「農兵」などしながら、この「国衆」の家来に成ったのです。
    「農兵」の場合は、村の者から世話役を作り、この世話役が「国衆」と条件で掛け合うのです。
    真田氏等の様に、大きくなればこの「農兵」も家臣に取り立てられ出世して行く事に成ります。
    「農兵ー傭兵」の「自然のシステム」が出来上がっていたのです。
    「農民や下級武士」の「甲斐100年一揆」はこの結果から起こった事なのです。
    この様な下から上への社会の循環が強かった事が、この信濃と甲斐と上野に掛けて横一線に強かった事を物語っていたのです。
    他の国は少しこの強さの点でお国事情で異なっています。
    例えば伊勢などでは殆ど起こっていません。

    さて、そこで、お家はこの何れの青木氏に成るのかと云う事ですが、検証してみると判ります。
    このお便りの以前には「群馬の青木さん」と他のお一人の方とのお便りがリンクしています。
    お二人の情報が少なくてこの検証ができませんでした。
    群馬の青木さんの場合は、「真田氏の家臣」と云う事でしたが、この場合は実はある事件があって真田氏の家臣と成っている青木氏には、実はよく調べると「2流の青木氏」があります。

    しかし、お家の場合は、”村上氏500年祭の招待がある”と云う事を信じて、信濃での青木氏であるとしていますので、上記の事の知識を念頭にして検証が出来ます。

    さて、では検証を進めます。
    青木氏も真田氏も信濃小県郡の「国衆」でした。
    この時、この小県郡には「信濃青木氏」も定住していました。この時は、先ず「信濃青木氏」は「村上氏」に”「合力」”して「配下の家臣」と成りますが、何度も戦った末に武田氏と村上氏の戦いで村上氏が上杉氏に助けを求めて城を放棄します。
    ここで、お家の「小県郡の信濃青木氏」は、城を捨てた「村上氏の合力」を解き、今度は「真田氏に合力」します。

    (「国衆」であって「合力」であった為に、「契約主の村上氏」が城を放棄すれば、必然的に「合力の契約」は解けます。お家は”家臣”としていますが、「国衆」は「直接家臣」ではありません。
    今で云えば、正社員と契約社員の関係に近いのです。
    「小県の信濃青木氏」は「契約社員」であった。)

    実は、この信濃小県郡域には多くの「国衆」と呼ばれる土豪よりより「小さい武力集団」が集まっていた地域なのです。
    各地の立身出世を夢観て、又一攫千金で金儲けをしようと集まっていた「小さい武力集団」なのです。これを”「国衆」”と呼ばれていました。
    必ずしも、その国の土地の者でもなく、各地から集まって来て「大きな武力集団」(豪族衆)と合力(味方する契約して配下に入る)して、その土地の一部の防衛を任されて住み着きます。
    この様な「小さい武力集団」が、信濃から甲斐に掛けて、美濃から信濃に掛けて集まっていました。
    「豪族衆」にとっても直接の家臣を抱えるよりは財政的にも有利で良く、且つ、周囲をもれなく護る事も出来ます。”イザ戦い”ともなればこの契約をすれば実力以上の戦力を持つ事が出来るのです。
    ただ問題は契約である以上、その契約状況が悪ければ離反すると云う事も、又リスクとして起こります。
    この「小さい武力集団」にしても、逆に何時潰される事もあるかも知れず、その為には互いにまとまり、更に大きい協力集団を形成して互いに護り合い、「戦い」が起こると何れかの陣営に合力して、”勢力拡大の機会”を待っていたのです。

    尾張から関東には「坂東八平氏」で8つの党や、関東には「武蔵7党」で7つの党や、美濃から信濃には「中津川一統」で10程度の党、信濃から甲斐付近では「滋野一党」、常陸から上野には「秩父党」等多くの集団が蠢いていたのです。
    関西では主なもので、根来集団、雑賀集団、伊賀集団、甲賀集団、柳生集団、楠木集団等数えきれないほどの武力集団がありました。中国地方では亀甲集団等有名な集団があります。
    特に関東の集団は各地に移動してそのチャンスを狙っていました。

    信濃では「足利氏」、甲斐では「武田氏」「村上氏」等の「大豪族衆」は、これらの「小さい武力集団」を合力させて配下に収めて、勢力を保っていたのです。一種の「傭兵制度」です。
    その「合力の見返り」として、「小さい土地」を与えたり、「金品」を与えて味方の陣営に引き付けていました。崩れる時にはまた早いと云う欠点もあります。
    そこで、中には、優れた集団には「娘」を嫁がせたり、「姓」を与えたり、「役目」を与えたりして引き留めていました。
    ところが合力した主が、”形勢不利”と成れば、直ぐに支配関係を解き、”有利”と観られる方に行動して徐々に勢力を付けて行くのです。
    ある程度の力を持つと、今度は国の協力集団の他の党の小集団を呼び寄せて、更に大きくして、発言力を増し、より大きい土地や傭兵金を獲得して拡大して行くのです。
    これらの小さい集団は各地を転々として移動してこの機会をねらっていたのです。
    日本全国各地にこの様な武力集団がありました。
    この地域ではお話の真田氏等がこれを繰り返したこの典型的な成功した集団でした。
    (真田氏のルーツに付いては諸説紛々にあり論じない。)
    この時、その一つの真田氏は、武田氏に合力し帰属し、西上野国に侵攻し、その上野国の「岩櫃城代」となり城を任されます。
    各地に点在していた真田一族はここに集結して移り台頭のキッカケを掴みます。
    そして越後上杉領を監視する役目を担うまでになります。
    この時、小県郡の青木氏は直接武田氏に合力せずに真田氏に帰属する事になりました。
    信濃の国衆同士が合力した事に成ります。

    この上野国側にも「秀郷流青木氏」がすぐ近くにいて、この「秀郷流青木氏」は真田氏に敵対します。
    この時、一時、次ぎの様な”青木氏同士が対立する事件”も起こりました。
    記録に遺されているところでは、この時に「青木氏」の中で「小さな事件」が起こったのです。
    恐らくは、この甲斐と上野の国境には「小県の青木氏」と「上野の青木氏」の「融合族青木氏」が存在して居たのです。(家紋分析から判断)
    「武田氏に合力する側」と、「真田氏に合力する側」との「路線選択の違い」で上野側の館での話し合いの際に殺戮の小競り合いが起こったのです。
    この「融合族」は「秀郷流青木氏の意向」を強く反映して「真田氏側」に合力することを主張していたのです。
    上野の「秀郷流青木氏」に取っては信濃を制圧した甲斐の豪族武田氏がこれ以上に上野側に勢力を高められる事は防衛上は得策では無かったからです。
    恐らくは、「群馬の青木さん」のお便りは、この「融合族の青木さん」であると観ています。
    ただ確定する為の「家紋等の情報」が無いので断定は出来なくて、以前のお便りの状況と成っているのです。


    この後、「甲越同盟」が起こり敵対は無くなります。
    天正7年には武田・上杉間で「甲越同盟」が締結され、上杉方との抗争は収束します。
    本来では合力関係は解消される筈です。
    ところが、相模国北条氏との「甲相同盟」が破綻したため、「甲斐国」ー「上野国」が引き続き緊張状態が続きました。上野は秀郷流一門の領国です。この一門を指揮していたのは秀郷流青木氏です。
    この様な状況が起こりますと、上記した様にこの「小さい武力集団」は直接の家臣関係にありませんから支配関係が解けて、「合力関係先」を求めて蠢くのです。
    合力関係を採らずとも秀郷一門は青木氏を中心として防衛力を持っていました。

    ところが3年後には「織田氏と徳川氏の連合軍」により「武田氏」が滅亡しますと、今度は真田氏は全く反対側の織田信長に合力し恭順します。蠢いたのです。
    そして、真田氏は、上野国の吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、更に元の3倍の勢力を獲得しました。
    「小さい武力集団」はこの様にして大きくなって行くのです。

    今度は3年後に「本能寺の変」により信長が死すると、武田領は空白域化しますが、越後国上杉氏、相模国後条氏、三河国徳川家康の三者で甲斐領を巡る争いが発生するのです。
    (上杉氏の家臣と成って養子縁組もした村上氏はこの時に上杉氏から城を一つ任されます。)

    この環境が「小さい武力集団」にとっては絶好のチャンスです。
    そこで、その真田氏は今度は上杉氏に帰属します。
    村上氏に従った青木氏と真田氏に従った青木氏はここで又味方同士の一つに成ります。
    ここで、真田氏は3郡を手中に納める豪族までに伸し上がります。
    村上氏の配下にあった真田氏は、今度は逆転して、村上氏は一城の城代で、真田氏は3郡の領主になっていたのです。
    そして、この時に真田氏は合力する「傭兵軍団」を止めて、3郡が任されたのではなく単独で手中に入った為に初めて自立する道を選んだのです。

    更に、天正10年には、第一次上田合戦において単独で上杉氏共に徳川氏と戦ったのです。
    そして何と知略を使って豪族の徳川氏に勝利します。
    ここでも、更に真田氏(信繁)には、徳川方に味方した”信濃の「国衆」”の仲間であった「屋代氏の旧領」が与えられます。
    これで、更に、1郡が増えて4郡を獲得します。完全に「国持の豪族衆」として独立します。
    (4郡で一国の掟)

    さて問題は、この時に、家臣と成ったお家の「信濃青木氏」です。
    小県郡で同じ「国衆」であった仲間が一国の主となりましたが、出遅れた「信濃青木氏」が一国の領主と成った「真田氏の家臣」に成る事を選択したのです。

    ここで問題は、この「小県の信濃青木氏」は、「5家5流の信濃の皇族賜姓青木氏」なのかと云う事なのですが、実は、この小県郡の「国衆の青木氏」は、上記した様に「国衆」なので違うのです。
    賜姓族はこの様な事が賜姓族の戒律で出来ません。
    では、”何処の青木氏か”と云う事ですが、この「青木氏」は、相互協力の防衛武力集団の「武蔵7党」の一つで「丹党」と云う集団の中の「丹治氏系青木氏」です。
    関東の武蔵より出て信濃に「国衆」としての勢力を張った「丹治氏系青木氏」です。
    この「丹治氏系青木氏」は、13の地域に移動しています。
    各地に移動地の経路には多く子孫を遺してきています。
    一氏が13もの家紋を持つ事は珍しいのです。信濃もその一つの経路です。
    この「信濃」の後は「丹治氏系青木氏」の主体は次ぎには「美濃」に移動しています。

    ところが、一国一城の主となった真田氏が戦乱の影響を強く受け「浮沈の影響」を強く受けた事から、この「丹治氏系青木氏」も領袖を問われて3つにわかれる選択に迫られるのです。
    「信濃」では真田氏の様に芽が出せなかった為に一族は次ぎの3組に分かれたのです。
    真田氏の家臣と成った青木氏を選んだ組
    真田氏から独立する事を選んだ青木氏の組に分かれます。
    この独立組は更に2つに分かれたのです。

    この時、真田氏と共に九度山の「配流組」と、「現地残存組」と、「独立組」に分かれます。
    残存組はその後、上田市や南佐久郡に定住しました。
    本体の「独立組」は、一族一門を連れて又「美濃」に移ります。
    しかし、丁度運良くと云うか、それをねらって美濃に移動したと考えられます。
     ”豊臣氏と徳川氏の戦い”が起こり、この独立した「丹治氏系青木氏」は、その勢力を以って、今度は「信濃」より出て「美濃」に来て、豊臣側に合力します。
    この時の「合力の契約」として「奈良の一部2郡」を与えられます。
    ところが、これに気づいた「家康の調略」に掛かり一国を与えられる事を約されます。
    「丹治氏系青木氏」の国元は「武蔵の国」です。家康と同じ領内の土豪集団です。戦略上は家康は「武蔵7党」を放置する訳にはいきません。懐の火種です。そこで、勝負に出たのです。

    (この時、豊臣側は大名集団が味方しなかったのです。そこで、各地の傭兵集団や土豪や国衆を土地と金で味方に引き入れる戦略を採ったのです。)

    徳川方に味方して、結果として選択は成功し、「摂津麻田藩1万石」を与えられます。
    弟には河内郡内の4000石を与えられます。
    結局は、真田氏と同じ「国衆」の動きから、遂には、真田氏と別離して「丹治氏系青木氏の独立組」も大名と成ったのです。
    この時、故郷の「武蔵7党」を呼び寄せての軍団で勝ち得た最終目的でした。

    実は、これには苦しい決断があったのです。
    この「麻田藩の独立組の青木氏」と「真田氏に従った青木氏」は、「丹治氏系青木氏」の親族で互いに先陣で敵味方に成って血みどろの戦をした末の結果でした。
    「麻田藩の独立組の青木氏」も家康と契約して皮肉にも「徳川方の先陣」を切る事を約束したのです。
    豊臣側に合力した九度山の真田氏も先陣を切りました。
    この有名な戦いでは、真田氏は城から低い丘の約4キロ程度のところまで戦いに成る前から事前に左右に「廓柵」を設けて先陣の機会を待っていたのです。
    「武蔵7党」の「丹治氏系青木氏」の軍団は、家康の旗本軍の前に陣取る先頭に位置していました。

    ところが家康はこの廓柵の存在を疑問視していたのです。
    戦況は動き、豊臣側不利と成り徳川方の大名の軍は前線に移動してしまった時に、突然に真田軍3000の騎馬兵がこの廓柵をまっしぐらに突っ走りました。
    周囲からは柵で見えずにこの状況が判らず、又判ったとしても柵が防護壁と成って何もできない状況下でした。
    周囲が気が付いた時には既に、真田軍は無傷で疾風の如くの速さで隙間の空いた「家康の旗本防御軍団の前に出ていたのです。
    家康の旗本防御軍団の前には、先陣組として「独立組の丹治氏系青木氏」でしたから、真田軍団と正面衝突の戦いと成り、肉弾戦の状況で真田軍団にバタバタと突き破られて家康の前まで出て来てしまったのです。信繁(幸村)は家康に敢えて一太刀与えて討ち取らず引き揚げます。
    この時に、何とか独立組の丹治氏系青木氏の生き残りの軍団が護って伊賀上野の安全な地域に引き上げたのです。
    真田氏は本家筋の兄は徳川氏に味方し、父と幸村は豊臣側に味方していずれにしても真田家が遺されるように仕組んだのです。
    依って、本家に影響がある事を心得て討たなかったのです。
    信繁の判断は、”天下は家康と云う人物”が治めるが最善としての策であったので、家康の論功行賞では、この信繁の判断を知っていた家康は、「本家真田氏」に対しては、遂には「国衆」から「23万石の大名」としたのです。

    そして、お家の丹治氏系青木氏も摂津麻田藩1万石の大名と成りました。

    お家の「丹治氏系青木氏」は「13の家紋群」から成り立っていますが、麻田藩は「富士山に霧紋」です。
    この家紋群を観れば、その移動経路が良く判ります。
    副紋を「丸に揚羽蝶紋」としているところから、伊勢平氏の支流末裔であると主張しています。
    ところが、この「丹治氏系青木氏」は、そのルーツははっきりとしています。
    そのルーツからするとこの「丸に揚羽蝶紋」の副紋は疑問です。
    平安期に武蔵の守に任じられた「多治比氏の末裔」で、峯時の代に秩父別当と成り、ここで丹治氏を名乗ったものです。
    「多治比氏」は「丹治彦王」の息子で「十市王の孫」にあたります。
    平安期に一斉を風靡した波乱に満ちた人生を送った島左大臣の子の広成の孫の武信が罪を得て武蔵に配流されます。この地でその子の繁行が丹治氏の丹党を結成し興します。
    要するに、皇族の配流孫の末裔が丹治氏を名乗り、皇族である事を理由に嵯峨期の詔勅に従って青木氏を名乗ったのです。
    ここには、平安期に伊勢平氏が駐屯していたこともあり、その伊勢平氏と女系で血縁して副紋としたと考えられるが、「嵯峨期の詔勅」では「青木氏」を名乗る以上は平氏は名乗れない事に成ります。
    何故、全ての家紋は副紋として「丸に揚羽蝶紋」を用いているのかは不明です。
    しかし、平安期に青木氏を名乗る以上は禁令を敢えて犯す事はしない筈ですから、「丸付紋」が意味を持たせたと観られます。
    伊勢平氏は「賜姓族の掟」として「丸付き紋」を使用していないからです。
    ”丸付紋は別のものである”としたと観られます。
    恐らくはこの事を狙ったものと考えられ、副紋を使っているところから「女系」には間接的に”伊勢平氏の支流の末裔だ”と主張している事に成ります。
    男系では丹治彦王と島左大臣の末裔、女系では伊勢平氏の末裔と主張しています。

    「富士山に霧紋」の「丹治氏系青木氏」の一氏が移動に伴って、「12家の流れ」を持った事に成ります。
    この他にも「武蔵7党」との血縁もしていますから、大変な子孫力を持った青木氏と成りますね。
    お家の家紋がこの内のどれであるかは判りませんが、「真田氏の家臣、九度山、村上氏」の3つの情報から検証を進めました。
    一度、ご確認ください。以下の13の家は現存しています。

    その家紋群は次ぎの通りです。
    富士山に霧紋(主要紋)

    三頭左巴紋1
    三頭左巴紋2
    三頭左巴紋3

    丸に揚羽蝶1(副紋を主紋としている家)
    丸に揚羽蝶2

    芳船紋
    鎧揚羽蝶
    三鱗紋
    丸に鱗
    三銀杏
    木文字紋
    花菱紋
    九曜紋

    三洲濱紋
    洲濱紋

    丸に葛花紋

    「三頭左巴紋」は類似家紋3種で一部が異なる。
    「丸に揚羽蝶」も同様に一部異なる。
    全ての家紋は「丸に揚羽蝶紋」を副紋としている。
    夫々の家紋には歴史を持っています。
    その歴史とお家との絡みが、又、ルーツのロマンや生き様が拡がり何か観えてきますね。

    以上ですが、他に情報がありましたなら、お知らせください。
    では、ご質問やご不明な点がありましたらお尋ねください。


      [No.951] Re:質問させて下さい。
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/04/07(Mon) 12:09:08  

    今日は。始めまして。これからも宜しく願いします。
    確かに、多くの調査資料が投稿されています。
    この資料は約50年程度調べ上げたものです。
    それには、多くの歴史研究家の研究論文や、筆者の家の遺資料と口伝と物品と添書や、筆者自身が集めた研究資料や、青木氏と同族関係にある氏の膨大な研究資料や、その同族の内部資料や、他の歴史やいろいろなマニア関係者の研究資料や、日本書紀からあとに出ている江戸時代までの専門書籍や、歴史小説家の研究論文や、全国各地に分布している青木さんの持っている資料と伝来資料と口伝や、青木氏外の他氏のが持つ資料や、歴史関係を専門とする有名な脚本家の研究資料や高度な歴史史実に写真を添付させて発刊している専門書などありとあらゆる書籍から導き出した論文です。

    お家がご質問されている前提は、「青木氏の事」を専門に書いたものとしての事に成っていますが、
    そもそも、「青木氏の事」を単独で書いた公に成っている文献などは数えるほどのものはありません。
    先ず無いと云っても云いくらいです。
    故に、ここに長年に研究してまとめあげたものです。
    まあ、あるとしても信頼できるものとして「近江佐々木氏」のものと認識しています。
    あるとしても徳川幕府が江戸初期に農民から立身出世した全国の大名に無理に「系譜由来」などの資料を作る事を命じましたが、殆ど搾取偏纂で信用できません。
    「文献」がすべて正しいと云う前提でのご質問のようですが、歴史に関してはその前提はありません。

    ご質問の前提が違っていて歴史を甘く見ておられるようですね。
    もし、ご質問の様な「専門文献」の様なものがあれば、わざわざ投稿していません。
    ブログかチャットの様な感覚認識にあるようですね。
    無いから投稿しているのですよ。利益サイトではありません。

    もし、お知りに成りたいのであれば、高等学校で習った「歴史の参考書」に書いてある文献を全て読んでください。それはここでは書ききれませんし、書けたとしても、また、書く事が著作権や個人情報保護の関係から書けません。
    「歴史の参考文献」の全ての内容知識を、全ての時代の慣習ごとを頭の中に入れて、それから知りたい事をまとめてどの資料が何処にあるのか等まとめて、ある程度推論を立てて足を使ってその文献を見つけるところから始めてください。
    全てのマニアは毎日この事を繰り返していて見つける作業をしています。

    全国の青木さんの主な家に電話等をして聞き出したり、資料などがあったら頂くなどして一つの調査内容をクローズアップさせるのです。
    気の遠くなる作業です。現在では無理です。
    青木氏と全く同じ事をした氏が佐々木氏であると思います。佐々木氏も100年はかけていると思います。司馬氏も同じだと考えます。私の知る範囲では日本8000氏ある中で5氏に満たないだろうと思います。

    歴史家ではこの様な作業された人では、司馬遼太郎さん等5人が行っていますが、この歴史小説家が書いた中に青木氏の事も書いています。
    上記した資料や研究した論文は、殆どが単行本で発刊されていて、且つ、非売品や限定版や特定版が多く、これらのマニアや、各地の歴史に観られる本家筋の青木氏を調べて来て販売するシステムになっています。
    そもそも青木氏だけの事を書いた本などは本にしても一般には売れませんよ。仮に売れたとしても読む人がいないですよ。

    ”勉強したい”のであれば、それを上記した様に苦労してまとめあげた本論を信用されていない事を前提としてのご質問なので、それはご自分でお願いします。
    そもそも本論はその文献のまとめた一つですよ。
    内部の論文の内容についてはご質問にはお答えしますが。
    その為に投稿しています。

    Aに付いてのご質問ですが、両方ですが、幾つか文献と研究資料にあり、それらを学問的に総合するとまとまりが出ますが、伊勢青木氏は発祥の時期は647年です。
    役割は「三つ発祥源」の「3つの役」を与えられて臣下しています。

    そもそも、勘違いされているようですが、日本に遺されている古文書は一つの事が一つにまとめられて整理されて書かれている事はありません。
    いくつかの文献を組合する事で一つの事がまとまるのです。
    そんな昔に現在の様に整理された社会ではありませんでしたよ。
    現在感覚で以て質問されていますね。

    「歴史研究」とはそもそもそのような行為をさします。依って、その詳細は由来書や研究によって裏付けられて判っています。

    因みに「慣習仕来り掟」は50程のものがあり、「家訓」は10訓、「掟」も5つほどあります。

    この様な関係資料から、”多分この様な事に成るだろう”として推論を建てて、その推論を証明するような事柄を何処から見つけ出して、それを整理して結論付けられるものです。

    だめならばまた始めから「推論建て」をするのです。
    その為には推論をより史実に合う様に近づける様に、出来るだけ多くの知識を持って記憶する必要があり、その知識の中から組み立ててす進めるのです。
    現在の様に求めるものが書いてある訳では決してありません。
    論文とはそう云うものですし、研究とは根気の居るその繰り返しで何年もかかります。

    筆者は現役の時は元は「物理系技術者」でした。「技術論文」なども「歴史論文」と全く同じ事です。
    「疑問立て」−「装具立て」−「証拠さがし」−「論理立て」ー「証明立て」−「結論附け」ー「論文作り」ー「修正作業」=「最終結論」
    この全工程を研究と云います。
    この「研究」の幾つかを次ぎの様に組み合わせて「史実の結果」を生み出すのです。
    「最終結論A」+「最終結論B」+「最終結論C」+「最終結論D」=「事実」


    お家はそれを一挙にしたいと思って居られるようですが、そんなものではありません。

    伊勢松阪市と隣の玉城市や名張市や員弁、桑名、脇坂は青木氏の地主で、始めは56万石、925年頃から本格的な「二足の草鞋策」で150万石から200万石程度の経済力を持っていた事が判っています。
    筆者の祖父の代の明治35年まで続きました。
    それを導き出したそういうものを出せと云われている訳ですから、全研究資料を出せと云う事に成りますので物理的にそもそも無理と云うものです。
    その無理の為に、多くの青木さんに観てもらえる様に、何とか公の場に投稿しているのではありませんか。
    管理人さんにサイトを開いて頂いて利益を得ている訳ではありませんよ。
    投稿する事の利益は筆者には全くありません。
    信用するかしないかは読む青木さんの判断にお任せするしかなく、信用されないのであれば自分で装具立てて調査する以外にはありません。

    Bに付いてのご質問ですが、違っていますので、本論を是非もっとお読みください。
    因みに、身分は皇族朝臣族、家柄では浄大1位、官位では正二位、職位では左衛門上佐、担当職では民部上尉です。
    青木氏は多くの家がありますので、上記の位階は家ごとに依って異なります。
    しかし、最低でも従五位か従四位です。

    Cに付いてのご質問ですが、「伊勢王」の事に付いては日本書紀や韓国の日本世記や中国のが最古ですが、奈良期の事に付いて研究された黒岩氏や松本氏などの数人の方の論文があります。その中にも非売品刊行本や対談本として載っています。
    (中国と韓国に奈良期の事に付いて書き記した日記型の書籍が発見された。天智天皇と天武天皇の相談役や指導役をした学僧の実に詳しく細かいことまで書いた日記などに書かれています。)

    Dに付いてのご質問ですが、例えば「嵯峨期の詔勅類」や「類聚三代格」等や「格式延暦式目」などの古文書に乗っています。
    この様な「古文書の文献」では、個人では無理で、「歴史研究社」等の機関が取り扱う非売品の古文書にも記載が多くあります。
    現実にはこれを獲得する方法しか現在では遺されていないのが現状です。

    以上ですが、そこで、折角ですから、これらの事は、最低限の事ですが、高等学校の歴史参考書の中に日本書紀を含めた古文書の文献に殆ど記載されています。それを深くする詳細にするかは他の研究論文を読み漁りあつめてください。江戸時代にも寛永や寛政年間に研究された文献が沢山ありますが、その文献を調達することの難しさもありますが。その書籍をここに書き記す事は不可能です。
    また、投稿の目的外の事ですので。

    研究した内容そのものに付いてはご質問に積極的にお応えします。
    その根拠を説明することはお応えしかねますし、物理的にも無理ですし、著作権、個人情報の法の順守の為にもできません。
    尚、ここでは著作権などの問題で公的な形では書くことが出来ませんが、5家得5流の事も含めて、全てのご質問の事に付いては論文の何れかのところにその準根拠的な表現の形で文献や経緯を網羅していますので、そちらをお読みください。

    では、内容についてご遠慮なくご質問ください。
    歴史だけでは無く何なりとご質問ください。


      [No.948] 質問させて下さい。
         投稿者:福岡の旧姓が青木です。   投稿日:2014/04/06(Sun) 16:56:04  

    こんにちは。わたし、旧姓が福岡市の青木です。青木氏のサイトがあるとは本当に驚きました。膨大なデータを集め、整理されておられる。大変な労力をかけておられるのですね。素晴らしいことです。
    金曜にこのサイトを見つけたばかりのわたしも、時間はかかるでしょうが、じっくりと読ませていただくつもりです。
    どうぞ、宜しくお願いいたします。
    今宿青木の青木さんの質問には、個人的に関心がありますが。

    ただ、他のことはまた、別途お話するとして、今日は管理人さんに質問させていただきたいと思い、お邪魔しました。
    どうぞよろしくお願いいたします。

    A「天智天皇が「第4世族皇子」に伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護を命じて臣下させ、「第4世族内」で「第6位皇子」に位置するものは「賜姓」をして保護して臣下させました。」
    これは文献があるのでしょうか。
    五家五流の発生に至る経緯などの文献も含めて、ですが。
    それとも、ご先祖伝来の古文書に依るものでしょうか。

    わたしも興味を持ち、勉強したいと思いますので、宜しければお教え下さると嬉しいです。

    伊勢青木氏が本家としての役割、例えば仕切りなどを担っておられたのなら、発生段階では、各地の青木氏の動向も把握しておられたのではないかと考えました。

    B 皇賜姓青木氏の官職を拝見致しますと、従五位下、以上を見受けないように思うのですが、それはなぜでしょうか。

    C 伊勢王について、ですが、日本書記にはお名前がありますが、彼の系図はあるのでしょうか。もし、あれば教えていただけないでしょうか。

    D「嵯峨天皇が、民間が青木氏を名乗る事と、その数多い皇族としての「慣習、仕来り、掟」などの使用もあわせて禁じました。これは明治初期までこの規則は守られます」
    とありますが、この文献も合わせて教えて頂ければと思います。

    数々、厚かましい質問ですが、よろしくお願いします。


      [No.944] Re:青木 半左衛門について(真田家に仕えた)
         投稿者:土屋みのり   投稿日:2014/03/31(Mon) 00:57:04  

    長野県坂城の青木半左衛門の子孫です。村上義清の家臣でした。真田幸村親子と高野山へ同行しています。村上義清が葛尾城を出た後に真田家に仕えたようですが、慈野一党です。江戸時代幕末まで坂城で本陣をしていました。村上義清500年祭には、ひいおじいさんがよばれていると聞いてます。


      [No.938] Re:広島の白髭神社で宮庄屋をしていた者の曾孫です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/03/07(Fri) 09:12:31  

    丹治さん 今日は。
    お読みいただきましたか、ありがとう御座います。
    白髭神社に参詣されますと、ご先祖との「心の対話」が出来るかも知れませんね。

    お家が関西地区に住んでいる丹治氏ですので、丹治氏系の「青木氏」と同族に成ります。
    丹治氏はルーツは二つに成りますので青木氏を名乗った側の丹治氏ですね。
    埼玉にももう一つの別流の丹治氏が定住しています。

    埼玉のルーツではお家の始祖のお城がありますので、そこも機会がありましたらお尋ねになるとよいのではないでしょうか。
    その城には丹治氏と丹治氏系青木氏が住んでいた高羅郡に青木村があって、そこに「泉ケ城跡」がありますよ。

    高羅郡とは現在の飯能市や入間市や川越市や狭山市などに成ります。
    ここは奈良時代には朝鮮半島の北側の高句羅と云う国がありましたが、そこの帰化人が定住したところです。
    ですから、お家には5世紀頃には武蔵7党の血筋として高句羅人の血も流れている事に成ります。
    そもそも「日本人全員」が「7つの民族」の「単一融合民族」です。

    ではまた何かありましたらお尋ねください。


      [No.937] Re:広島の白髭神社で宮庄屋をしていた者の曾孫です。
         投稿者:丹治   投稿日:2014/03/06(Thu) 21:37:52  

    少ない情報でここまで丁寧な長文をいただき大変感謝しております。自分の知らない情報ばかりで大変感心致しました。
    親の話では小さな神社との事ですが、一度白髭神社に御参りに行こうと決心がつきました。
    男子に恵まれないと言うのは実は今も何ですよね(笑)この血筋は祖祖父以降、身内含めて男子は僕しかいません。

    最後に返事が遅れ、尚且つ短文、大変失礼致しました。
    そしてありがとうございました!


      [No.936] Re:広島の白髭神社で宮庄屋をしていた者の曾孫です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/03/05(Wed) 10:00:46  

    丹治さん 今日は。 初めまして。ようこそ青木サイトにお越し頂きました。
    このサイトは全国の青木さんが集うサイトで青木氏に関する事は何でも研究して論文にしています。
    青木氏族の事は判るのですが、他の事は詳しくは判りません。

    折角ですので、知る範囲でお答えしたいと思います。
    幸い丹治氏には丹治氏系青木氏と云う青木氏がありますので、そのルーツの丹治氏はある程度掌握しています。それをご紹介します。
    さて、丹治氏とはそもそも関東の武蔵には「武蔵7党」と呼ばれる土地の「土豪軍団」がありましたがその中の一つです。小さい土豪が互いに結束して護り合う集団です。
    通称、この集団を「丹党」と呼ばれます。
    この「丹党」は、皇族の出自者で、平安時代に「多治比氏」と云う氏がありました。
    この「多治比氏」は「多治彦王」の末裔で、この「多治彦王」は数度に渡って「武蔵守」に任じられました。
    そして、「多治比峯時」の代の時に「秩父牧の別当」を命じられて武蔵に赴任します。
    その後、この末裔は武蔵に定着し、「多治比氏」から「丹治氏」を名乗りました。
    その末裔は児玉、秩父、比企、入間の郡に分布しました。

    平安時代 左大臣の島と云う者が真人族となります。真人族とは皇位継承者の族で、この島から八代目の曾孫になる武信の時に、真人族であるにも関わらずその素行が良くなくて武蔵に配流されました。
    その孫の峯時の時に関東に住み、更にその「配流孫」が家を興して、秩父郡を領します。
    ところが、峯時から5代目がこの”秩父郡と加美郡を横領した”として、再び武蔵(帰京を差し止め)に配流されました。
    その後、許されて上洛します。
    土地に遺した「配流孫」の「繁行」と云う者が丹党に組する事に成りました。
    先ずこれが「丹治氏」のルーツに成ります。

    そこで、提供して頂いた情報は少ないですが、その範囲でお答えします。
    この丹治氏は元は皇族であった事から、「嵯峨期の詔勅」に基づき、「皇族の者」が下族した時には「青木氏」を名乗る事に成っていましたので、基房の曾孫直時なる者が青木氏を名乗って分岐したのです。
    「丹治氏」とは全く関係がないのではなく、「丹治氏系青木氏」のルーツに成ります。
    遠祖の「島左大臣」は「十市王」の孫で「丹治彦王」の息子です。
    「丹治氏」の代表家紋は「三頭左巴紋」です。
    この「青木氏」は「富士山に霧紋」です。

    そこで、この丹治氏の中で「丹治氏系青木氏」が立身出世を夢観て丹治氏一族を連れて全国行脚し、長野に流れ着き、そこで更に力を着けて豊臣側に味方し奈良国の一部を与えられます。
    ところが、家康の調略を受けて、地元の徳川方に味方します。
    関ヶ原の戦いで先陣で手柄を立てて、摂津4万石を与えられて大名に成ります。
    この時に、丹治氏一族は青木氏と共に摂津に移動しました。
    恐らくは、お家は何らかの理由でこの摂津から広島に移動した丹治氏である事に成ります。
    お家の家紋が「梅鉢紋系」でとの事ですが、「天満宮」の神職紋です。
    従って、摂津に来てからの家紋と成ります。
    恐らくは、男系跡目がとれず梅鉢紋族から養子を迎えたが、再び男系跡目に恵まれず、また娘に養子を迎えましたが、それでも男系に恵まれず、結局、2代続きの女系の女系と成ってしまったので、男系ですので最初の親の方の養子先の家紋となります。
    この家紋が梅鉢紋系である事に成ります。

    「白髭神社の宮庄屋」との事ですが、神社の仕事をいろいろと面倒を見る役目で氏子を代表して「総代」として氏子の面倒も見る人の事で、地方ではこの”総代さん”の呼び方があります。
    広島では、神社の氏子の面倒を看る庄屋の役事を呼んだのです。
    広島でもこのような役目を担っているようですからかなり古い家であった事に成りますね。
    江戸初期に摂津に、中ごろには広島にと成りますと、一般の者は「国抜けの罪」で定住移動出来ませんので、神職関係に携わった可能性があります。
    「近江の白髭神社」との血縁で神職と成った可能性があります。広島に白髭神社建立で移動したとも考えられます。

    「宮庄屋」は摂津に移動した後の事だと考えます。「白髭神社」は近江が元だと思いますので、摂津に定住してこの神社との関係を持ったものと考えます。
    天満宮と白髭神社と梅鉢紋糸の関係は掴めません。
    梅鉢紋も元は神職系の家紋です。(菅原氏神職)
    つまり、室町期から江戸期には大変よくあった事ですが、「神職関係の血縁」(白髭神社と天満宮の血縁)がルーツの中にあった可能性が伺えます。
    「家紋掟」により養子縁組で男系跡目が採れなくて家紋が変紋したとも考えられます。

    以上ですが、これらの事に付いて更に情報がありましたらお便りください。
    またご質問がありましたら何なりとREでお尋ねください。


      [No.935] 広島の白髭神社で宮庄屋をしていた者の曾孫です。
         投稿者:丹治   投稿日:2014/03/05(Wed) 04:52:54  

    いきなり書き込み申し訳ありません。
    私の姓は丹治と申します。
    最近の家系図ブームで自分の家のルーツが気になり、ネットで調べていくと同じ苗字の方が以前ここに私と同じ疑問を持ち、書き込みしてるのを発見しました。宮庄屋がどのようなものか、具体的な事はネットで調べても分かりませんでした。親の話では人の話を聞いてアドバイスする?ものとの事です。
    家紋は親の昔の記憶のみを参考に梅鉢系統との事です。
    『青木様』のルーツと関係無くて大変申し訳ないのですが、私の丹治家のルーツを分かる範囲で教えていただく事は可能でしょうか?m(__)m


      [No.934] Re:三重の青木さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/02/02(Sun) 17:12:44  

    名古屋の青木さん 今日は。初めまして。

    全国の青木さんが集うサイトです。サイトには青木氏に関する歴史資料が満載しています。
    膨大な量ですのでゆっくりと楽しんで少しづつお読みください。
    判らない時は御遠慮なくルーツ掲示板からこの専用の欄としますからREでお尋ねください。

    さて、お尋ねですが、情報が"三重"と云う事ですから、お答えは難しいですね。
    折角ですから、前提条件を一つ付けますが、後は家紋や時代性や宗派や古い慣習等が判りましたらお知らせ下さい。本家の所在地や一寸変わった習慣何でも結構ですからお知らせください。
    出来ましたら、江戸末期以前の情報がルーツを特定出来易いのです。

    そこで、その前提ですが、江戸期に三重の伊勢にご本家の先祖が住んでいたとします。
    そうしますと、筆者と同じ「伊勢青木氏」と成ります。
    筆者はその宗家ですが、もしこの前提であるとすると、昔は親類であった事になりますね。
    この「伊勢青木氏」は、大化の改新の時に、天智天皇より賜姓を受けた「皇族の賜姓族」の「青木氏」と成ります。
    この「伊勢青木氏」は天皇の第4世族内の「第6位皇子」が臣下して天皇を護る近衛親衛隊と成ります。詳しいことは研究室かルーツ掲示板で検索を使ってお読みください。
    この青木氏は5代の天皇の皇子から成り立ち、近江、伊勢、美濃、信濃、甲斐の地域の守護王として配置されました。「皇族賜姓族5家5流」から成り立ちます。
    この「5家5流の賜姓青木氏」の宗家格の「伊勢青木氏」で、伊勢を中心に「4家」になります。
    先ず、松阪、玉城 員弁、桑名、四日市、名張と、少ないですが伊賀と脇坂と上田のその近辺にも分布しています。
    お家は前提ではこの何処の付近に住んでいたかが判ると伊勢青木氏です。
    その「伊勢青木氏」には大化期からの歴史を持っている為に「血縁での青木氏」と「絆での青木氏」があります。
    その「絆の青木氏」も長い歴史の中で”女系での繋がり”を持っています。詳しくは研究室での資料をお読みください。

    明治維新の本家の戸籍簿があると直ぐに特定できますよ。
    宗派は浄土宗ですが何處の寺にお墓があるかも判ると特定出来ますよ。青木氏は特定の氏ですのでその慣習仕来り掟などの戒律が厳しく特徴ある歴史的条件を持っていますので、ご本家にはその名残が多く残っている筈なのです。

    一度、前提条件の時代が何時なのかお調べください。4代か5代前のご先祖となりますが、戸籍簿で直ぐに判りますよ。明治維新の戸籍簿には江戸時代にどこに住んでいてどこから来たかも書いています。
    先ず、そこから確実な方法として其処から始めて下さい。江戸期は「国抜け」と云って自由に定住地を変える事が出来ませんでした。また、江戸期以前にご本家が青木氏であったとすると殆どルーツに戻れます。もう一つの青木氏は、特別賜姓族の「藤原秀郷流青木氏」がありますが、この青木氏も24地域に分布していますし、その青木氏も地域に依って特定できます。
    この二つは住み分けしていましたのでよく判りますし家紋などでも判定できますよ。

    兎に角は、上記の事をご本家の情報を先ず調べ下さい。
    何か絵画をお持ちの事ですが、もしそれが贋作でなければかなりの情報となります。
    これには伊勢青木氏の「二束の草鞋策」の商いとの繋がりがあるのです。
    この詳しい内容は次の時にご紹介いたします。
    青木氏は950年以上も続いた「二束の草鞋策」(忠臣蔵にも出てくる)で歴史に出てくるほどの「大商い」を取っていまして、武家と共に大商いをしていました。
    全国にある500社程の「神明社」の神社もこの青木氏が建立したものです。
    江戸期にこの神明社があった所には青木氏が定住していた事を意味します。
    この様にお家の近辺の事も情報になるのです。
    何でも結構ですから、お便りを下さい。サイトで青木氏の知識を基にお家のルーツの特定にご協力を致します。
    では、まずサイトの資料を少しお読みになってからお便りをお待ちしています。このReでお便り下さい。


      [No.933] 先祖について
         投稿者:名古屋の青木   投稿日:2014/02/02(Sun) 15:22:20  

    はじめまして。名古屋の青木と申します。
    今、自分の先祖について調べたいと思っています。

    父に聞いたら詳しいことがよくわからなかったのですが、
    元々のルーツは三重県だと言っていました。
    あと青木の先祖には関係ないと思いますが、
    昔、尾崎行雄の掛け軸のようなものがあったらしいのです。

    いろいろ調べましたが、検討がつきません。
    少しでも知りたいと思ったので、
    このサイトにお願いしようと思いました。

    よろしくお願いします。


      [No.932] 秋山さんのルーツ
         投稿者:福管理人   投稿日:2014/01/26(Sun) 19:21:44  

    >大変参考になる記述で驚きました。さて私は秋山と申しまして400年以上前から家紋は「丸に花菱」です。当家の過去帳は396年前の祖先まで記載があり、記載初代は1617年に亡くなっております。偶々金沢(加賀藩)に秋山家の古文書(由緒書)が残っており、そこには出自が甲斐である事と甲斐源氏の子孫として「源」姓が付けられておりました。由緒書きによれば、その先代の子が1630年代に青木(青木右衛門?)の娘と結婚しております。
    >「秋山家」は普通「三階菱」の家紋なのですが、「丸に花菱」の家紋を継ぐ我家の理由は「青木家」に関連していたと考えるのが妥当かもしれません。ちなみに祖先は江戸時代よりも前に「越前福井」におり、江戸時代は代々越前松平家から捨扶持700石を貰っていました。1650年代に当家の娘(知久)が松平昌勝の側室に上がり(第6代越前福井藩藩主、松平吉那を生んでいます。)、その際に一族で江戸に上がり明治大正期まで同じ屋敷で暮らしていたそうです。

    大変貴重なお便りを頂きました。

    更には、昨年の3月にお便りを頂いて居りながら、ブログコメントの検索をする事を忘却して放置してしまいました。折角お便りを頂きながら誠に申し訳ありません。

    さて、ブログの「甲斐の青木氏」の研究論文をお読み頂いた事のお便りの様ですが、青木氏と他氏との繋がりに関してはかなり網羅しているつもりですが、秋山さんに関しては残念ながら掴み切れていませんでした。殆どは他氏との繋がりに関しては藤原秀郷流青木氏との繋がりの中での研究でしたので、「皇族賜姓青木氏」の繋がりに付いては、その「慣習、仕来り、掟」から主流5家5流以外に鎌倉期か室町期中期までの繋がりのものでした。
    この青木氏に付いては、「慣習、仕来り、掟」が皇族としてのものが多くあり、これを護る為に大きな犠牲を払った為にその結果として子孫拡大は少ないのです。
    本来であれば、その立場から藤原氏を凌ぐ子孫拡大をしていた筈ですが、「三つの発祥源」と皇族としての「慣習や仕来りや掟」に縛られていた事が原因です。それだけに「青木氏」としては大変であった事が云えます。

    遺された信頼できる記録が青木氏の中ではここまでが限界で、乱世での室町期末期での繋がりは他氏との関係に及んでは掴み切れていないのが現状ですし、その後の資料の信憑性で乱世で信用できません。ただ、信長と秀吉との繋がりから一部に於いてだけ網羅出来ています。
    戦乱期では管理人さんが専門領域でありますが、ただ、この中で、「越前福井」はその一部に当たりましてある「特定の由緒」が有ります。
    この事がお家の由来の解明に大きなヒントに成るのです。
    この事に付いては青木氏の守護神(神明社)の中で良く紹介しています。
    出来ましたらここをお読み下さい。論文の終わりの方に網羅しています。

    さて、実は、”青木家に関連して”のお家のご推測は当たっています。
    大変に貴重な情報で青木氏としては更に横に研究が広がる事に成ります。稀な可能性の範囲ですが調べてみたいと思います。判りましたら又研究室などから投稿したいと考えています。
    さて、現在では、筆者が把握する歴史情報からの推測の領域を現在では脱し得ませんが、今は”ルーツのロマン”として参考にして頂く事でお読み下さい。

    それには、先ずは、第1に家紋です。家紋が「三階菱紋」の秋山家で、後に「丸に花菱紋」に、次に、第2には「青木氏」には奈良期から関係のある越前福井です。更に、第3には、この江戸時代の越前福井では、捨て扶持7百石と時代情報のこの「3つの情報」です。
    全てこの「3つ情報」の内容には「青木氏との関係する歴史の史実」が潜んでいます。

    では、その「3つの情報」の事に付いてご説明いたします。
    この「3つの情報」を総合的に歴史的に推理しますと、ある一つの推理が成立ちます。
    その推理をご紹介いたします。
    そこで、先ず、第2の事に付いてご説明した方が判り易いと思います。
    そもそも、青木氏には大別すると、「藤原秀郷流青木氏」と「皇族賜姓青木氏」があり、何れも直接間接にて血縁関係を強く持っています。何れも「賜姓族」です。
    青木氏の「皇族賜姓族」は「大化改新」の時に、”皇族の改革”が起こり、皇族に関係する者を「第4世族」までとし、それ以外の者は天皇が代わる度に代々出る「第7世族」が皇族から外れて臣下して「平族」(ひら族)の氏を賜り坂東に配置されました。これが義経や頼朝などで有名と成った「坂東八平氏」と成り関東の土地に根付きます。
    この「ひら族」に似せて、「桓武天皇」は後漢帰化人の首魁の阿多倍王の末裔に「たいら族」を賜姓します。天皇家との血縁関係を持ち准大臣の立場を得ます。後に、大きく分けると大蔵氏と内蔵氏と坂上氏です。この中には宗家の「平氏」(たいら族)があります。これが後に5代続いた「平清盛」一族となります。
    天智天皇は「第4世族皇子」に伊勢、近江、美濃、信濃、甲斐の守護を命じて臣下させました。
    この時、「第4世族内」で「第6位皇子」には位置するものは「賜姓」をして保護して臣下させます。
    この時の「賜姓」が「青木氏」で、「象徴紋」(皇族賜姓族では「象徴紋」で、元来、「家紋」の考え方はありません)の「笹竜胆紋」を与え、天皇の直接の守護の任務(親衛近衛軍)を与えます。
    平安期では「北面武士」として天皇警護をしました。そして、そのステイタスとして「鞍造部止利」作の「大日如来坐像」と、「御神木」の”あおき”を「氏木」として指定し、他に使用を禁じます。
    (これらは現在も伊勢青木氏が維持保存しています。)
    更に「自然神」を基本とする「皇祖神」(天皇家)の子神の「祖先神」を「青木氏守護神」として任じ、その「神明社の建立」と「維持管理の責任」と「青木氏」だけに「永代の不入不倫の権」等を与え保護します。
    その「5家5流の青木氏」の宗家に「伊勢の国」と「伊勢神宮」を守護する「皇族賜姓伊勢青木氏」に命じます。この「賜姓」は5代の天皇に依って維持され、それぞれ皇位継承から外れた第4世族内皇子をこの「5家5流の青木氏跡目」(同族血縁)に入れてゆきます。
    この後、「桓武天皇」は、この「皇族の仕来り」(皇親政治)を打ち切り破り、母方の民間の者の阿多倍王の末裔に賜姓をしました。
    (桓武天皇の父光仁天皇は天智天皇の第6位皇子の施基皇子の嫡子で伊勢青木氏の出自)
    この為に、皇位継承から外れた皇子は、比叡山に入山し門跡僧として終る事に成りました。
    ところが、これに反対する子供の「嵯峨天皇」は「天皇家の仕来り」を元に戻し、詔勅を発し「第6位皇子」に対してはそれまでの「青木氏」では無く、その「青木氏の意味」から「源氏」を賜姓する事にしたのです。(神木の”あおき”は”全ての始まり”の意味を持つ。天皇が認めた賜木)
    この時、「青木」の取り扱いについては、皇族者で第4世族内で皇位継承から外れた皇子に対して、源氏とは別に、下族還俗する際に「青木氏」を名乗る事を許可して、その為に民間が青木氏を名乗る事と、その数多い皇族としての「慣習、仕来り、掟」などの使用もあわせて禁じました。これは明治初期までこの規則は守られます。(信長だけは共和制を求めたために護らなかった)

    そこで、この「5家5流の賜姓青木氏」は、「皇祖神」の子神の「祖先神」の守護神として「神明社」を全国に約く500社程度の建立を任務として勤めますが、乱世などで混乱に陥った場合には、子孫を絶対に絶やす事が無い様に、純血性を維持する為に、この「5家5流の青木氏」の末裔が巻き込まれた時に逃げ延びる所として「越前福井」を定めていました。(大化期から創建)
    そして、其処に全国でも最も多い「神明社」を建立し、其処に「庇護するシステム」を作り上げていたのです。明治期まで維持されていました。(伊勢シンジケートで身辺を守った)
    (「3つの発祥源の青木氏」を永代に存続させるシステムの構築)
    この時の「経済的な裏づけ」として、この「青木氏の5家5流」は、「古代和紙の殖産」を手がけ、平安期初期には「2足の草鞋策」で大商いを営み、この越前福井にも支店を設けて一族の者が逃げ込んでも生きていく事が出来るようにしていたのです。(商いは明治35年まで続きました)其処に逃げ込んだ末裔はこの「商い」をして生き延びました。
    (越前に子孫存続と万一の場合の純潔血縁保全を護るシステムの構築も)
    その全体の指揮を執っていたのは「第6位皇子の皇族賜姓族の伊勢青木氏と信濃青木氏」でした。
    ところが、平安期に「源平の乱」が起こり、「近江青木氏」と「美濃青木氏」はこの「皇族の戒律」を破り、「賜姓族」の同族の源氏に味方して「源平合戦」に合力して美濃富士川の激戦で滅亡してしまいます。

    (「賜姓族」に与えられた「皇族の戒律」とは、「皇族賜姓族」のその発祥の目的は「3つの発祥源」である事から「戦い」は絶対の禁じ手の戒律でした。ところが、この「源氏」には、この「賜姓族でない源氏」も多く、この「皇族の戒律」に縛られない源氏もあったのです。皇位継承から外れた「第4世族内皇子」が比叡山の「門跡僧」に成る事を嫌う下族したい皇子には、賜姓などの一切無い「源氏」を許可なく名乗る事を平安中期には妥協して認めたのです。
    本来であれば、「皇族賜姓青木氏の5家5流」のどこかに「跡目」に入る事が出来るのですが、「第4世族」でなく、「跡目の口」が無かったりした場合は「門跡僧」に成るのですが、それも叶わない場合は、「自発的な源氏の氏」(生存の危険性)を構成する事に成ります。
    然し、平安期には18皇子25皇女がこの対象にありましたが、1代か2代で ”経済的背景と乱世を生き延びる力”が無いために全て滅亡してしまいました。
    (皇女は皇祖神の全て斎王と成って人生を終わらせている。)

    この「源平の戦い」を起こしたのは歴史的に有名な「経基王」の「清和源氏」が主流ですが、この「清和源氏」でも「賜姓族」でない源氏も4家もあったのです。「経基王の清和源氏」も「清和天皇の子供」では無く末孫であって、父は武烈で精神異常者で賜姓を受ける事が出来ませんでした。同時に「第6位皇子」ではありませんでしたし、末孫王なので、この「皇族の戒律」から縛られる事は無かったのです。(従って、清和天皇は経基王の賜姓を渋った)
    「嵯峨天皇」が「源氏」を賜姓する詔勅を出した時に、「皇族賜姓青木氏」の様にはこの「戒律」を付けず、その代わりに「永代の不入不倫の権」と「領地」をも与えなかったのです。皇子として保護しなかったのです。
    そこで「清和源氏」などは「自分の才覚」で勢力を拡大させて、つまり「皇子の権威」を利用して拡大させ「荘園制」を利用して領地を奪い取る事に成り、特に清和源氏の分家の「頼信-義光系」はこの方向に極端に走り領地と武力を持つ事になったのです。
    (朝廷から世を乱す理由から疎んじられた 頼光系の宗家の4家は伊勢と信濃の青木氏と血縁して慣習を守ったが、頼光より4代目の頼政は遂にこの戒律を破った。以仁王の乱の首謀者)
    この行為が余りに社会に不安を与えた為に、平安末期に「後三条天皇」など4人の天皇に依ってこれを禁止されるのです。この為に、この様な賜姓外源氏は糧と力を失い衰退し滅亡したのです。
    この為にこれを断行した天皇などは身辺に危険が及び、その為に「北面武士」のシステムを作り身を守ったのです。これに大きく関わったのが「皇族賜姓5家5流の青木氏」なのです。
    この「皇族賜姓青木氏」は、宮廷を護る事から、この為に「官職名」が「・・左衛門・・右衛門・・民部尉」を授かり最高位の家柄となるのです。「佐と尉の階級」が付いたし、身分は「浄大2位」の皇族では天皇に次ぐ最高級の身分と家柄となったのです。その後、江戸時代には一般の武士が朝廷に勝手に金品を払って一代限りの官位を獲得し名乗って、最後には官職は誰でもが勝手に使い意味が無くなったのです。)

    僅かに、生き残ったその「近江青木氏の支流末裔」がこの「越前福井の神明社」に逃げ込んで生き延びたのです。(不入不倫の権で神明社を攻撃できない)
    そして、その「近江青木氏」は近江、滋賀と移り住み、最後に同族の近江佐々木氏と佐々木系青木氏に助けられて兵庫に定住地を設けて子孫を広げました。美濃は子孫が広がりませんで完全に滅亡しました。
    伊勢、信濃、甲斐の「皇族賜姓青木氏」は、益々その経済力と身分、家柄、官職などから子孫を拡大させ、「永代不入不倫の権」に護られて平安期には信濃足利氏、甲斐武田氏との血縁を図り、両氏の末裔が発祥します。
    要するに、「賜姓族」とは別に「佐々木氏系青木氏」「諏訪族青木氏」「足利氏系青木氏」、「武田氏系青木氏」が生まれたのです。
    「信濃の足利氏」は信濃の清和源氏の源氏末孫ですが、武田氏も河内源氏傍系支流末孫と云われています。(源氏の意味に注意)
    信濃と甲斐とには、奈良期からの元々の「皇族賜姓族青木氏」と賜姓族ではない嵯峨期詔勅による「皇族青木氏」(武田氏族青木氏 皇族系を主張すれば自由に名乗れる)とこの2つの血縁による青木氏が存在します。
    (賜姓族の諏訪族系青木氏以外に、この賜姓族ではない「皇族青木氏」は4氏に及ぶ)
    従って、越前福井には「5家5流皇族賜姓の青木氏」の複合の配流孫の末孫が5家5流外に発祥したのです。
    中には、信長と秀吉に特別に取り立てられ、西ノ庄の10万石と5万石を与えられた「伊勢青木氏の末裔」と「信濃青木氏の末裔」がいましたが、関が原の敗戦に巻き込まれて大量にこの一族が逃げ込んだのです。これが「越前福井青木氏」(5家5流の複合青木氏)です。

    恐らくは、お家が越前にいたのは、この越前に一時青木氏として乱世で逃げ込んでいたのではと考えられます。
    その根拠の一つとして、1630年代に「・・右衛門」を名乗っていた青木氏との血縁をしています。これには大きな意味を持っているのです。
    「皇族賜姓族」は基本的には「同族血縁」を主体としている為に、娘を嫁に取るとしてもそれなりの氏でなければ「戒律(慣習仕来り掟)」に従えませんので、1610年の初代は越前では青木氏であった可能性があるのです。
    この様な事ができるのは、甲斐には1600年代に「青木氏の神職」か「住職」で赴任して来たことを意味します。
    そして、「過去帳」を作れていますので可能性は高いと観られます。その後の職業は判りませんが。1610年と云う時期に初代の御先祖が甲斐に突然に姓の「秋山姓」で発祥したのには何かの理由か背景があったことを物語ります。
    これが「神職か住職の関係する事」で一族を引き連れて甲斐に来たのではないでしょうか。
    或いは、花菱紋ですので越前から甲斐に戻ったことも考えられます。

    次に、甲斐での事ですが、「花菱紋の武田氏系青木氏」にはこの様な変遷が歴史上発生していますが、直接、秋山家の様な「姓氏」(武田氏の中にない)が、「皇族の慣習、仕来り、掟」により「源氏と青木氏」を「嵯峨期詔勅」により正式に名乗る事は禁じられていました。
    この事は明治期まで守られましたので出来ませんので、恐らくは、そうなると、1610年の初代とすると、「賜姓族の甲斐青木氏」が跡目養子を武田氏系列から迎えとり、更に、又続いて跡目が養子と成り女系となったことから、家紋掟に従い、それ以前には、先の初回の養子先の武田氏の系列に入った「皇族賜姓甲斐青木氏」であった事が言えます。

    そして、この青木氏(秋山家)が700石の捨扶持で越前にも定住していた事から考えると、別の「嵯峨期の詔勅」による皇族の武田氏系青木氏(時光系)では、天皇からの賜姓族で無いために越前に移動定住して庇護・保護する事はできませんので、それでは無く、定住出来たとすると、「甲斐の賜姓族」の系列の青木氏(源光系)である事に成ります。

    では何故、「秋山家」(小笠原支流 三階菱紋)であるのか、「丸に花菱紋」であるのかと云う事になりますが、本来であれば、「青木氏」で「皇族賜姓族」が持つ「笹竜胆紋」である事になります。
    しかし、ここで、先ず一つ考えられる推理として、次ぎの事が恐らくは起こったのです。
    先ず第1回目の嫡男に恵まれない事が起こり、そこで「跡目養子」に、その養子にも嫡男に恵まれなかった事が起こり、2養子に嫡男に恵まれず女系となりました。
    依って、「家紋掟」により「甲斐の皇族賜姓武田氏系青木氏」となりましたが、その後に於いて、更に、その後で再び、嫡男に恵まれずに、同じ事の2代続きで男系跡目が出来ずになったと考えられます。
    何代かでこの「4人の養子」が入った「2度の家紋掟」の適用が起こった事から完全に女系となってしまった事が起こりました。
    だから、この時の最初の方の男系の養子先の系列に入る事が2度起こしました。

    (注意  二人の養子の前の養子先の系列に先ず入る。ここで「元の家紋」が養子先系列に入った為に「養子先の家紋」に成る。この時は、家紋は変化するが未だ宗家が認めれば元の氏名を名乗れる。
    次に、同じ事が起これば、4人の養子が入った男系が変わったので別氏と成る。
    これにより「家紋」も変更するも「氏名」も変わる。初回の2度目養子に跡目の嫡男に恵まれれば、元の家紋に戻せる。2回目の2度目養子に跡目嫡男に恵まれれば一つ前の家紋に戻せる。
    何れも恵まれなければ「家紋と氏名の変更」と成る。
    一度目の跡目養子に跡目嫡男が恵まれれば変化はない。
    従って、家紋と氏名の変化を起こさない様に血縁のある同族の遠縁からでも養子を迎えて変化しない様にする。)

    そこで2度目の「家紋掟」により下位の「秋山家」を名乗り、更に、ところが「家紋」は1度目に武田氏系となった時点で、「笹竜胆」から元は青木氏であった為に皇族系の「花菱紋」と成りました。
    そこで「秋山家」の家紋の「三階菱紋」とに付いては、”2度の家紋掟の変更”が血縁で起こった事から、皇族の「慣習、仕来り、掟」から完全に「青木氏」と血縁関係が乖離しましたので、「皇族系」を外れる事に成ったことになります。
    「氏家制度」の中では、「家紋の使用」と「青木氏を名乗る事」が「甲斐賜姓青木氏」の宗家より許されなかったと観られます。(甲斐で2流の青木氏同士で同じ様な争いが起こっている氏、有名な柳沢氏も同じ事で青木氏から柳沢氏を名乗った。)
    当然に、秋山家は「下位の姓族」であるので、「皇族外の姓」を名乗る事と成ったのです。
    「青木氏」には五十程の「皇族賜姓族」としてのその「慣習や仕来りや掟」があり、これに合致しなかったのです。
    当時の「皇族賜姓族」の血縁関係は「下位の姓族(氏族と姓族)」の血縁は原則許されなかったのです。室町中期の乱世の後に乱れて原則が一時守られなくなったのです。
    この様に成らないために如何なる場合でも、奈良期より「5家5流の皇族賜姓族」は、一族一門縁者から家柄や身分のつりあいに問題が起こらない様に、且つ、純潔血を護るために「同族血縁」の掟により皇族を含む同族による血縁関係は強いられていました。
    (越前はその意味でも皇族賜姓族系の青木氏を分散消滅しないように集めて保護した)
    依って、如何なる場合でも血縁が護れる仕組みを敷いていたので家紋なども変更はありません。
    「氏」と「姓」と「家紋」が変わったと云う事は、この前提ごとが崩れた事を物語っています。
    筆者の家も明治初期までこの慣習下にありました。
    「秋山姓」は調べたところでは、「氏族」では無く、室町期末期前後に勃興した最初の海部族等と同じく「姓族」であると考えられます。(「秋山姓」も「柳沢氏」と同じ経緯を辿ったか。同じ事件かも知れない。)
    朝廷より認可された「氏族」は200以下で正式には48氏である筈ですので、「氏族」ではない事が云えます。8000の氏姓の殆どは室町期から勃興したこの「姓族」です。

    参考 「秋山」に関係する国として次ぎの地域があります。
    陸奥国 伊達郡 秋山村  現在地は福島県伊達市川俣町 に成ります。
    ここが「秋山姓の発祥地域」ではないかと観られます。

    そこで、提供いただいた情報の年代も1600年代と一致していますので、「秋山家」の本家の出自は、この経緯から、「神官職」か「住職」ではなかったかと観られます。
    「神明社の神官職」で、全国500社に一族から輩出して配置しましたが、比較的に「皇族賜姓族」の仕来りに縛られることなく血縁を結んでいた模様で、故に、甲斐と越前の両国を定住地に出来たと考えられます。普通は出来ません。
    当時は、「国抜け」と云って許可なくして勝手に定住移動は出来ません。そのためには移動の為の根拠が必要となり、期間もその内容によって決められるのです。
    朝廷からその「建立の権限」を認められていた為に「神明社などの神官職」はこの例外として可能であったのです。
    その意味では、青木氏は全国に分布している筈ですが、そうでもないのです。
    これには、特別な「慣習仕来りや掟」が青木氏に存在していた事から拡大分布しなかったのですが、一つは、青木氏に関わる地域外は「同族の賜姓族の佐々木氏」が神職、住職として配置の協力を得ていた事と、この地域外では「青木氏の氏の拡大と存続」を認めなかった経緯から起こっているのです。それは、「三つの発祥源」を守る責務から「青木氏としての純血性の保全」が原因していたと考えられるのです。この事から何かの理由で「青木氏」の呼称を認めなかったと考えられるのです。
    その何らかの理由には、地域外以外に、主に「慣習や仕来りや掟」を守らなかった事からでもあったのです。
    筆者はこの「秋山家の姓」はこの事から来ていると推理しています。

    そもそも、平安期ー鎌倉期までは兎も角としても、室町期にはいくら戒律が厳しいとしても例外は無かった事は先ずない筈で考えにくい事から、神職からこの例外が出たと観ていますが特定ができないのです。
    「嵯峨期詔勅」と「戒律」から縛られていたとしても「青木氏の姓族」が出ている筈です。
    その根拠は「御師」の事で裏付けられるのです。
    この「御師」(おんし:おし)とは「青木氏の守護神 祖先神の神明社」の建立に伴い全国各地に「神明社の神官(御師)」を配置していて青木氏として定住していました。
    この「御師」の宗家は「伊勢神宮」の神官職のトップも務めていた伊勢青木氏が総括であった為に、全国に神明社を通じて「姓」となって根を張った事が判っています。
    しかし、この「青木氏」から出ている筈の「姓」族が「氏族」ではないために「履歴の慣習」が青木氏の中に無かった事から室町期中期からその履歴が全く掴めないのです。
    柳沢氏は兎も角も、この神職系(住職系)の「姓族」の「青木氏族」は掴めません。

    室町末期から勃興した「姓族」の中で青木氏の定住地の有名な大名、豪族のルーツをそれなりに調べると、この「御師」(おし)との繋がりが家紋分析からところ何処に確認できるのです。

    (八代将軍のころの江戸期の頃からは「職能の高級幕臣」の「総取締」を「御師(おし)」と呼称される様に成ったのです。これは吉宗と青木氏との繋がりから採用された)

    (藤原秀郷流青木氏は掴めていますし、「青木氏の職能集団」の「絆の青木氏」として「姓」を組織的に発祥させていたこともあって、「別姓の姓」は神職系か住職系しか考え難い。)

    故に、今後の研究課題として、家紋と「御師」のキーワードで探ってはいましたが、その経緯から「秋山家」はこの可能性があると考えられるのです。
    青木氏の神職系では祖先神の神明社との関係から笹竜胆紋外に神木の柏紋が多いのですが、「姓族」としてはこの神職系2氏が確認されているのです。
    別属ですが、家紋と御師で繋がる久志本氏(熊野神社系)と千秋氏(熱田神宮系)と菊池氏(阿蘇神社ー宗像神宮系)です。
    これには地域性を持っていますが、甲斐の地域では熱田系との関係もあったのではと推理します。
    その為に、「秋山姓」が生まれたとも考えられます。
    つまり、「伊勢神宮の皇祖神の子神の祖先神」の青木氏と「熱田神宮系」の氏とが結びついた姓族ではないでしょうか。
    だから、「秋」を使った姓を発祥させた家との血縁であったのではないでしょうか。
    「神職系と住職系の戒律から離れた姓」は、「職能集団の絆青木氏」として「姓の処置」に付いて組織的に確立されていたために、「戒律」から外れた「姓」は認めていなかったと観られます。
    だから、「青木氏」の中での記録が全く確認出来ないのです。
    その意味でも「越前福井」の離散する「青木氏の囲い込み」として、「青木氏の血縁保持」としても意味を持っていたのです。
    代表する姓族からの繋がりは上記の通りの記録でかなりの確率で確認できるのです。
    しかし、「青木氏」としては多くの「一般の姓」を出すことは「3つの発祥源」としての立場を有名無実にさせてしまう事から「絆の青木氏」で組織化して固め維持させた。)

    (この「青木氏の囲い込み策」は「血縁族との婚姻の弊害」に付いての疑問が生まれるが、この対策として他氏からの釣合の取れた氏からの「嫁取り」と「嫁入り」とで「女系の新血」を補完策を採用していた事が判る。
    「越前福井」はその「新血の意味」でも「青木氏」にとっては非常に「大きな策」であった。
    筆者のルーツを観ても「嫁取りや嫁入り」は全く無縁の氏からのものではなく所謂「遠縁」の範囲で行われていた事が判り、明治35年頃まではこの慣習下にあったことが確認出来る。)

    そこで、甲斐の「花菱紋」に「丸付き紋」ですので、武田氏系の「支流一族」であった事になります。
    「皇族賜姓族の青木氏」の全てはこの「丸付き紋」は使用しません。この「丸付き紋」の慣習は室町期以降に発祥した「武士の慣習事」ですので、1600年代も丁度その時期に相当しています。
    お家が”1630年頃に青木氏と血縁した事”については、この時点の以前に青木氏との繋がりがあり、同族血縁に近い縁組を考えたのではないでしょうか。2度の家紋掟により「秋山家の姓族」と成っていますが、古来からの「青木氏」としての「血縁族の形」をルーツの中に何とか再び残そうとしたと考えられます。
    扶持米を受けていた加賀藩との関係も年代的に一致していますので、由来的に青木氏であったことが考えられます。(扶持米」を受ける為にはそれなりの理由がある。家臣ではない事になりますので茶飲み相手などの藩主の話し相手や師範が主に受ける。普通は家臣では二百石が生活の限界ですので相当の身分家柄とその藩主の話し相手であった事を意味します)

    この事を1610年の初代から聞いていて知っていた1630年の2代目はわざわざ「青木氏との血縁」に踏み切ったと考えられます。普通は未だこの時代はぎりぎりで「秋山姓」では「氏家制度」の「釣り合い」からこの縁組は本来は無い筈です。(家紋だけは花菱紋に戻した事も考えられる。)

    ところが、記録に「源の姓」と表現しているのですが、「源氏」は「姓」(かばね)ではありませんで、「氏族」ですので間違いを起こしています。何故この様な簡単な事を当時に間違えたのかです。
    つまり、「笹竜胆紋」は源氏の紋だけと考えていた事からで、ところが、そもそもは天智天皇から与えられた「青木氏の象徴紋」なのです。「家紋」ではないのです。
    正規の賜姓源氏は「11家11流」(嵯峨天皇ー花山天皇)があり、11代の天皇から出た第6位皇子の賜姓源氏の初代の賜姓「嵯峨源氏」が、この「青木氏の象徴紋」を「皇族の同族賜姓族」である事から同紋を「象徴紋」として使用したのです。
    つまり、中には源氏でも「笹竜胆」でない源氏も多いのですし、賜姓族でない源氏もあるのです。
    殆どは初期に滅亡していますが、元々、「源氏」には、多種多様の「源氏」があったことから、元々「家紋」と云うものを持っていなかったのです。
    そこで「清和源氏」の時に、「青木氏の象徴紋」を武家に習い「家紋」として用いたのです。
    (5家5流の青木氏は家紋として掟から用いていない)
    それ以後、「頼信系清和源氏」が有名に成り、一般に源氏=清和と勘違いされました。
    本来は11家11流あり、更に賜姓外や第6位皇子外や第4世族外や自認の源氏等の多種多様の源氏がありながら、「荘園制」を利用して勢力を大きくした「清和源氏」だけが「源氏」と思い込みが起こったのです。
    そして、全て「笹竜胆紋」と間違われ、「家紋」と間違われてしまったのです。
    元々は「5家5流青木氏」が代々の天皇から「賜姓族」の「象徴紋」として与えられたものです。
    「家紋」と成ったのは「皇族賜姓族青木氏」に習って「48氏」が「象徴紋」として用いた事からの平安末期からのものです。本来は第6位皇子の賜姓源氏の象徴紋でありながら、そうではない清和源氏も笹竜胆紋と間違われて思われてしまっているのです。
    恐らくは、源氏と明記した間違いは、”過去に「伝統」として「皇族賜姓族青木氏」の流れを持つ事の由来”を間違えて、この「源の表現」になったものと考えられます。
    「秋山家」のみならず「武田氏」にしても源氏では学問上はありません。
    このような「源氏」は「未勘源氏」といいます。「源氏」を名乗っているのは9割はこの「未勘源氏」です。正規の本当の源氏は「賜姓源氏」と呼ばれます。
    その名乗っている殆どは「姓族」で、発祥の時代が一致しませんので、朝廷が認めた「氏族」ではありません。「賜姓源氏」は朝廷が認めた「氏族」です。発祥時期が異なるのです。
    これは室町期に下克上で勃興した者が家柄を良く見せるために採った室町期の「虚偽の名乗り」です。殆どは謀反をして主君の家柄を盗んだものです。
    室町期に残されていた「傍系支流の源氏」も戦乱で源氏はそもそも完全滅亡しているのです。
    室町期にはたった傍系で4氏しか残っていませんでしたが、末期に信長に掃討されて村上源氏の支流「北畠氏」を最後に完全滅亡しています。
    「皇族賜姓青木氏」の「伊勢青木氏と信濃青木氏」は、信長に攻められて「伊勢の3乱」で3度戦い勝利し残ったのです。
    この時、「2足の草鞋策」での信長を凌ぐ「莫大な経済力」と、信長の軍事力を凌ぐ「伊勢シンジケート」を使って勝利しました。
    この事は後に2度も有名な歌舞伎にもなっています。
    その後、「不入不倫の権」で秀吉はこれを護り、それに依って守護となった藤原秀郷系の「蒲生氏郷」(青木氏と親睦)に本領安堵を認められました。
    (秀吉はこの青木氏のシンジケートを良く知っていた。秀吉の家来と成った「山族の蜂須賀家」はこのシンジケートの一員であった。楠木正成もこの一員)

    そもそもすべての「源氏」は室町期発祥の「姓族」ではありません。
    恐らくは、1610年の初代の方がお家の口伝を間違えたものと思います。(青木氏と源氏の間違い)
    筆者は「姓族の秋山家」では「氏家制度」の慣習の中では考え難く「越前と甲斐の事」から、元は「青木氏」であったのではと考えます。

    ”「過去帳」(「人別帳」ではない)が存在する”との事ですが、つまり、「檀家寺」では無く「菩提寺」である事に成ります。「過去帳」が396年前で初代が1610年とすると、それ以前に古くからそこに「秋山姓」が「氏」として存在していた事になりますが、そして、「秋山姓」が独自に運営管理する「菩提寺」もあった事に成ります。これは矛盾しています。
    そうなると、「武田氏」と同じくらいの歴史を甲斐に「秋山姓」は持つ事になりますし、誰でもが持つ事の出来ない許可されない「菩提寺」を持つと云う事は、「武田氏」と同じくらいの勢力を甲斐で誇っていた事に成ります。
    調べましたところそのような勢力の秋山氏は甲斐には存在していませんでした。
    「人別帳」は代毎に消えて行きますから396年前までのルーツを遡る事は出来ません。
    そのような慣習は「人別帳」に記載される家にはもともとありませんでした。明治期になってからの事です。(過去帳は氏族が主に 江戸期に家康の督奨令で上級武士の間に認められて増えた)
    この矛盾をどの様に解くかと云う問題ですが、それには元は慣習から「神官職」「住職」が符号一致しているのです。「神官職」にも菩提寺を持つ「神官職」と、神道である「神官職」も有りました。
    この「秋山姓」は「菩提寺」を持つ「神官職」であった事に成ります。
    つまり、「青木氏の神官職」か「青木氏の住職」かであった事に成ります。
    この2つであれば上記の事は成立します。
    お家は1610年の初代のご先祖が甲斐に「青木氏の神職か住職」として赴任した事に成ります。
    依って、1610年前の「秋山姓」の前は、上記の経緯を経て「青木氏」(越前青木氏 皇族賜姓青木氏)であった事に成ります。
    結論は、「甲斐青木氏」が血縁関係で2度の跡目嫡子不在で「家紋掟」で秋山姓に変わった事に成ります。
    それであれば全ての上記の花菱紋などの「3つの問題」はクリヤーすることが出来ます。

    この推理に何らかの確証が得られれば良いのですが。何でも一寸した事でも結構ですからお便り下さい。
    筆者は先ずは「柳沢氏の事件」に関係しているのではと調べています。
    その中に小笠原氏支流族の「アキヤマ」が出てくる事を目論んでいます。
    「アキヤマの地名」があれば「柳沢氏」と同じ事に成ります。

    以上の事は、青木氏の研究室かルーツ掲示板で論文に網羅させていますのでゆっくりとお読み下さい。
    では、複雑ですが、ご質問などありましたら、ご遠慮なくお尋ね下さい。


      [No.931] Re:丸に酢漿草
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/11/20(Wed) 10:36:41  



    シュ秀さん 今日は。始めまして。

    青木サイトにようこそお越し頂きましてありがとう御座います。
    これからもよろしくお願いします。

    さて、お尋ねの件ですが、藤原秀郷流であるのかは提供頂きました情報では判断が付きません。
    家紋の他に、先ず青木氏であるのか、江戸末期頃の出身地は、宗派は何宗か、菩提寺か檀家寺はどこか、他に御先祖の事で判る範囲で何かを提供して頂きたいのですが。

    家紋の丸に酢奨草だけでは判りません。確かに丸に酢奨草の文様類は藤原秀郷流青木氏の中にありますが、他氏にもこの文様を多く使っています。
    この文様はまたはカタバミとも云うピンク色の花を咲かす花です。ハート型の4つの花びらを持つ草でその軸をかじると酢の様にすっぱい草です。
    主にこの文様を家紋にしたのは、愛知から静岡に定住分布した藤原秀郷流青木氏であります。
    藤原秀郷流青木氏の総紋は下がり藤紋です。恐らくは男系継承が難しくなり養子をとり地元の豪族との血縁に依って更に男系継承がかなわず養子先の家紋と成った青木氏でありますが、この青木氏が子孫繁栄して赴任先に分布し定住したものです。
    従って、その分布先や宗派等が判らないと判断が付かないのです。

    尚、明治3年の苗字令と8年の督促令により藤原秀郷一門一族にゆかりの持った苗字の持たなかった庶民がこの2つの令に依って一門に関わった藤原氏の氏名を名乗りました。国民の9割はこの令に基づく氏です。この為に、この見分けが必要です。
    この2令に基づく氏名には宗派や定住地や菩提寺や檀家寺や過去帳有無が異なりますので判断が付くのです。先ず江戸期の御先祖が無ければこの2つの令に基づく氏名となります。
    家紋はこの時に自由に使いましたので、土地や宗派が一致しない限り一概に確定できません。

    以上ですので再度お調べに成ってお便りを頂きます様にお願いします。
    では、情報をお待ちしています。


      [No.930] 丸に酢漿草
         投稿者:シュ秀   投稿日:2013/11/20(Wed) 00:00:58  

    自分の家の家紋が丸に酢漿草っていうけど藤原秀郷と関係あるの?


      [No.929] Re:埼玉県の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/11/19(Tue) 09:54:13  

    埼玉の青木さん 今日は。寒くなりましたね。

    実は、筆者は引越しを致しまして暫くサイトに携わる事が出来ませんでした。
    ご迷惑をおかけしましたが本日より落ち着きましたので、なんとか管理が出来る様に成りました。

    さて、お尋ねの過去帳ですが、お答えします。

    お答えはお尋ね通りです。
    御説明したルーツのままです。
    そもそも、明治以前の家の祭祀の慣習は本家を中心に営まれました。
    従って、ご本家にお家の御先祖が過去帳に記載されていれば問題はありません。
    その後の分家の御先祖は、普通は過去の青木氏の密教浄土宗の慣習では5代を以って新たに分家の過去帳を作る事に成ります。
    そして、その法要などの祭祀は3代の範囲で営むのが慣習です。
    この事から、伺っている範囲では、曾祖父かその次の御先祖から分家に成った様ですので、そろそろお家の「分家の独自の過去帳」を作る必要がある事に成りますね。
    その意味で曾祖母が作られた過去帳らしきものはその意味合いを持っていたのかも知れませんね。
    ですから、丁度、見直す時期にあると考えられます。
    その際には、本家の過去帳にあるお家の御先祖の直系の方と成った事を明記の上で、分家の独自の過去帳を改めて作られると良いのでは無いでしょうか。
    その際には、御本家の菩提寺と成っている三芳町の多福寺などの事や本サイトの藤原秀郷流青木氏の概要などを一つにしてまとめられて、それを「由来書、又は添書」として添えて、その作成者明記の上でこれからの御子孫に遺されては如何ですか。
    この様な本来あるべき慣習が、江戸末期から明治初期の激しい行過ぎた宗教改革で伝統や慣習が消されてしまったのです。
    関東の藤原秀郷流青木氏の慣習は研究すると判るのですが、思いのほか消えてしまっている様です。
    お家などもその影響を受けているのだと思います。
    曾祖父や曾祖母様が多福寺に墓所を持たれ、且つ過去帳をつくられたこの一環の流れはこの慣習をいくらかでも戻そうとしたのではないでしょうか。

    お家が御先祖の事に気を配られて本サイトに御投稿成されているのも、この”何かの御先祖の暗示”であるのかも知れません。御先祖がお家を動かしているとも思えます。
    仏教で言う”以心伝心の法”であると云う事になりますかね。
    因みに、筆者は「過去の人」と「現在の人」と「未来の人」との間には、何も無いとは考えていませんで、”以心伝心の働き”があると考えています。
    ただ、問題は何でもそうであるとは限らず、人、時、場所の仏教で言う「三相の理」に従っている筈です。
    筆者も不思議な体験をしています。筆者は技術屋で他の方より論理性の考え方が強いのですが、人間が持つ論理性以上の事がこの現世にはあるのではと考えていて、それを現在の人間の知恵ではまだ論理付けられないのではと観ています。
    恐らくはその媒体はその個人が持つ脳のベータ波であって、そのベーター波の強い者(人の理)に働くのではないでしょうか。(進化進むにつれてこの人間の能力が低下している)
    そして、何時でも働くのではなくある環境に成った時(時の理)にその波長を受け入れ、
    何処でも働くのではなくある特定の適合した場所に届くと考えられます。
    その最たる現世の現象には、子を生んだ母親とその子の間にはこの現象が働いている事が脳医学的に実証されていて、その為に、女性には、男性にない二つの官能の脳器官を持っています。
    一つは、大脳の下にある予知能力を示す複眼機能、もう一つは女性が子を生んだある期間に極めて高いベーター波を持っている事、そして、この二つの事を同時に実行する本能として、女性にだけ同時に二つの事を思考し実行する能力が備わっています。残念ですが、この2つの事は男性には備わってないのです。
    人間には脳の最も下の部位に「古代脳」と云うものがありますが、つまり、通称、幻覚症状を起こしたときに働く「野生脳」といわれるものが、この「2つの事」と「野生脳」が連動させられるのが女性である事が現在医学では解っています。
    例えば、目に映って見えていない母親の後ろに居る幼児の動きが手に取る様に解る女性の本能は、この「以心伝心」の原型であると考えられています。

    恐らくは、過去の人はこの事を察知して、仏教の最終の「心の境地」として修行に励んだのではないでしょうか。本来この能力を持っていない男性の僧侶は、修行に依って何とか会得しようとしたもので、仏教で云う「無我の境地」とはこの事を指すのではないかと観ています。
    これを「仏教の目的」としたと考えられます。
    特に、われわれ青木氏の古代密教浄土宗ではこの事を諭していると考えられます。
    青木氏には「家訓10訓」と云うものが遺されていますが、この10訓全てを通して云える事はこの”「三相の理の会得」の人物たれ”と諭していると考えます。
    この事は、論文に私なりに論理的に説いていますので参考にお読みください。

    そこで、本来は昔の慣習では、「過去帳」はご本家の菩提寺にあるものなのですが、それを写してその御先祖に毎日の朝晩の仏様へのお勤めに使用して「般若心経」をあげます。
    ご分家のお家にも御仏壇があるとすれば、5代になった処でもありますし、御本家にもお話をして「分家の過去帳」を作られて、三芳町の多福寺の菩提寺にも納めて置いては如何でしょうか。
    御先祖が生まれる毎に書き足して貰うようにしてはどうでしょうか。
    そして、仏壇に置いておく過去帳には曾祖母の様に親しい友人や人生に大変世話になった方も書き足して供養も合わせて行なうのも又良いのではないでしょうか。拘る必要はないのではと考えます。
    代替わりすれば御先祖外の方を抹消して行けば良いのではないでしょうか。
    ただこの為に、5代までの御先祖の「曼荼羅帳」と云うものがあり、現在もこの慣習は行われていますが、御本家のルーツの中で御分家のルーツに成ったお三人かお二人の御先祖の方の曼荼羅帳を作って置く事も慣習と成っています。
    昔は「武家の慣習」では、この「曼荼羅帳の慣習」と「過去帳の慣習」が合わせて行われていましたし、特に浄土宗では現在も行なわれています。

    過去帳の御質問に付いては以上ですが、曾祖母から既に代替わりしていますから、変える時期としても良いとも思います。

    では、また御不明な点などや御質問がありましたらお尋ねください。


      [No.928] Re:埼玉県の青木です。
         投稿者:ねこ   投稿日:2013/11/07(Thu) 02:36:41  

    お久しぶりです。
    埼玉の青木です。
    先日は色々と詳しくルーツについて説明をいただきまして、ありがとうございました。

    度々ですが、過去帳について訂正をさせていただきます。

    家の仏壇にある過去帳(毎日日付に合わせてめくる)は、20年前に他界した私の曾祖母が用意したものらしく、近しい親族や親戚の他に曾祖母が仲の良かった友人の名前まで書き込んでいたと父から聞きました。
    家は分家ですので、やはりちゃんとした本家筋からの過去帳はないようです。
    とても詳しくご説明いただいたのにすみません。

    そこでお聞きしたいのですが、私の家に本家筋からの過去帳がない場合でも、私の家の大体のルーツは先日ご説明いただいたままでよろしいのでしょうか。

    また何かありましたら報告をさせていただきます。


      [No.927] Re:埼玉県の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/10/06(Sun) 20:05:07  

    入間の青木さん 今日は。

    お便りありがとう御座います。

    ルーツを知る事は、ご先祖が引き継いで来た「お家の伝統」を知る事になり、お家のご先祖の生き様を知る事にも成ります。
    藤原秀郷流青木氏は他の氏に比べて悠久の歴史を持ち無視する事のできない伝統を持ち得ています。この伝統を知る事は自分の生き様にも参考に成る事でもあり、生きる助けに成ります。
    時代が変化しても人の生きる様は大して変わりません。その意味で伝統に関わる事には心を豊かにしてくれます。
    筆者は、”「過去の自分」と「未来の自分」の輪廻”だと云う考えを持っています。
    ”子や孫は自分の分身”云う考えです。孫が生まれた時に無条件に無意識にうれしく可愛く感じますし、不思議な安らぎを感じます。
    これは、”人は子孫を残す事に一義があり、「現世の喜怒哀楽」には有らず” と云う事を脳が覚えている事を物語ります。他の生物と変わりません。
    この事から「青木氏」には「家訓10訓」が遺されていてこの中にも書かれています。
    因みに、科学的に観ても、子供の血液型が同じであれば、その親の遺伝子の85%の遺伝子を引き継いで居ます。つまり、これはまさに「分身」を意味します。
    サイトでは、その意味で「ご先祖の生き様」を研究して記録を載せています。

    今後共に何なりとお尋ね下さい。

    さて、お便りに付いて、「青木氏に関する過去の慣習」がお家の中に遺されていますので、お知らせします。
    先ず、「臨済宗の柳沢吉保の三芳町の多福寺」の件ですが、昔の慣習は氏家制度の中で営まれていましたので、氏の一族一門の本家に従ってその寺を菩提寺か檀家寺とします。
    お家のご本家がこの多福寺に有るとすると、お家は江戸時代は郷氏であった事から昔の氏家制度の慣習では分家が他所の寺になる事はありません。
    何故ならば、全て、ご本家の慣習に従います。もっと云えば一族の冠婚葬祭の儀は分家が独自に営むのではなく本家が主催するのです。
    判りやすく云えば、分家の生計の根幹も本家の背景で営まれていたのです。
    冠婚葬祭のみならず、一般の出来事もご本家のお伺いを立てて、あるいは相談して進めます。
    本家が、何事にも前面に出て面倒を看るのです。
    従って、一族一門の行動と結束を高めて統一する為に、「家訓」などがあり、一族を見分ける為に「家紋」があり、更に詳しくするために「通名」「襲名」などを使いました。
    恐らくは、ご本家に沿って、明治後、この習慣が無くなりましたので、昭和になってご曾祖父が後に再びご本家の菩提寺に戻した事に成ります。
    故に、前回のお答えの通りの経緯となり、それを明治期に生きたと観られる「ご曾祖父の行為」が証明しています。
    ご曾祖父はこのような慣習を十分に知っていたと考えられます。故に本家筋のところに戻したのです。

    余談ですが、そもそも、更に、古い平安時の本当の一族一門だけを祭祀する独善の菩提寺は、現在の研究では密教形式の浄土宗の「西光寺」ではないかと見られます。
    入間ですので武蔵国か常陸国の「西光寺」になると予想されます。
    「青木氏の神社」は「皇祖神の子神の祖先神の神明社」です。お近くの「神明社」がお家の青木氏の独自の守護神です。
    お家などの116氏の秀郷流青木氏は菩提寺は当然の事として、この神明社も自らの力で青木氏に関係する各地の地域に490程度もの神社を建立しているのです。

    「剣片喰紋」族は、元は愛知-静岡の付近に定住し分布し、その勢力を張っていた秀郷流青木氏の家紋類です。当然に藤原氏でもありますので、藤原氏の守護神の「春日神社」も2つのお家の守護神です。
    そして、お家のご先祖は、上記した「氏家制度」を維持し、「藤原氏」と「賜姓族」の「青木氏の家柄や純潔性」を維持する為に徹底した「24地域の116氏の同族血縁」を前提としていましたので、恐らくは、この慣習の中で嫡男に恵まれずに「愛知の青木氏」から養子を迎えたが、再び2度も嫡子に恵まれずに「家紋掟」により「養子先の家紋」になった事を意味します。
    この意味でどんな事があってもご本家は嫡子をはずす事は出来ませんのであらゆる手立てを講じてこれを守り通す責任を持っています。そして、総紋の「下がり藤紋」を守り通します。江戸中期からはこの慣習も緩んだのです。しかし、分家筋のお家は丸に剣片喰紋を維持したと見られます。
    この家紋類は、実は、四国阿波国の秀郷流青木氏にも多いのです。

    次に、過去帳の件ですが、これにもお家のご先祖の「青木氏独自の慣習」が遺されています。
    「過去帳」や家系図は、本来はご本家が菩提寺に保管しているものですが、実家では、分家のお家の様に、ご分家ですので、ご先祖の一族の関係者の人を書き記した帳を置いておきます。
    そして、「古来からの仕来り」として、その「ご先祖の人」は、「5代前までの身内のご先祖」と、「親族の3代前の親族」などを書き記した物を遺します。
    仏壇では、法要では3代前までを原則祭祀する事、墓所では、3代まで墓を作り、50年経るごとに順次「先祖墓」に入れてこれを繰り返して行く事に成ります。
    お家の様に、これは、仏壇のところでは、上記の「仕来り」で代々書き換えて行きます。
    実際はそんなに前のご先祖まで覚えてゆく事は出来ませんので、その中でも、何とかこの「仕来り」が「古代密教形式」の「浄土宗の慣習」として引き継がれて来たのです。

    (浄土宗は、本来は、江戸期前のものでは「密教系」であり、「特定の氏」しか入信できず、寺の建立なども独自に氏が立て、自分の氏から独自の僧を仕立て、独自の経済力で建設や修理にいたるまでの管理運営までの一切を賄ったのです。しかし、この密教形式はその氏が衰退すると立入らなくなり衰退し、無くなるなどの事が起こったのです。)

    そして、江戸末期から明治9年まで何度も続いた「宗教改革」とその混乱に因って、この様な密教形式の浄土宗の寺は焼き討ちや取り壊しなどに会い、滅亡の危機に陥りました。特に浄土宗はこの影響を受けました。
    特に、「秀郷一門の青木氏」は、平安朝は滅亡し、鎌倉期に多くは失職して経済的に低下し、一時これらの「仕来り」を維持する事が出来なくなりました。その後に勢力を盛り返して「関東屋形」と呼ばれるくらいに息を吹き返し大勢力を維持しました。しかし、この時から菩提寺や多くの仕来りや伝統の記録が消失したのです。
    さすが「青木氏のメッカ」の入間ですので、研究でもかなり消えている事は判っているのですが、ある程度の事が遺されている筈です。
    この「青木氏の仕来り」は、故に上記したことから、祭祀はご本家やご分家の関係者を帳としたのです。
    今もお家の中の分家の慣習の中にもまだこの様に遺されている事を物語っているのです。
    法事などが行なわれる時には、「先導僧」や「諷儀の僧侶」に供養する先祖を教える為にも、書き記している昔の浄土宗が採った慣習なのです。
    この慣習には、寺から「曼荼羅帳」と云う掛け軸に上記した関係者の戒名を書いたものを書いてもらい仏壇前に吊るしておく慣習もあります。

    この様に、お家には意外なところに古い観衆が遺されているのです。
    前回のお便りからこの様な事が遺されていると予測できましたので前のお答えになっていたのです。
    予測が当たりました。
    決して余計な事ではありませんよ。伝統をこれからもこの様な事を是非守って行ってください。

    気になりましたので、これらの事を追伸しておきます。
    詳しくは「2つの掲示板」に論じていますので、膨大な資料ですのでゆっくりとお読みください。
    読み終わるには先ず3年は掛かるかも知れませんね。

    私も埼玉の草加には15年ほど住んでいました。入間川の傍の入間にも良く行きました。
    何しろ、”おーい あおきさんー”と云えば、何処からも”ハーイ”と聞こえるくらいに、埼玉には青木さんが多いところですよね。
    何か面白い土地のお話がありましたら教えてください。
    では、又お便りください。


      [No.926] Re:埼玉県の青木です。
         投稿者:ねこ   投稿日:2013/10/06(Sun) 15:02:49  

    返信ありがとうございます。

    苗字と家紋からでもルーツが判明するのですね。
    こんなに詳しく解説していただき、とても感激しております。
    父と共にじっくり読ませていただきました。

    寺の件ですが、父に詳しく聞いたところ、昭和の中頃に曽祖父がこの臨済宗の寺にお墓を購入したと聞きました。
    ですので、家のお墓は先祖代々のものではないようです。
    しかし、入間郡三芳町にある青木の本家も家と同じ臨済宗の寺の檀家になっているようなので、やはりこの寺が菩提寺ではないかと思われます。

    家の仏壇にある過去帳(毎日日付に合わせて1ページめくります)も、先祖全てが書かれているわけではなく、家に近しい親族や親戚の故人の戒名、氏名などが書かれているので、
    遠い先祖とは余り関係がないようです。
    紛らわしいことを書いてしまいまして、すみません。

    また何か伺う際はよろしくお願い致します。
    こちらの他のページも拝見させていただきます。


      [No.925] Re:埼玉県の青木です。
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/10/03(Thu) 08:58:06  

    埼玉の入間の青木さん 今日は。始めまして。
    ようこそ、全国の青木氏が集う青木氏氏のサイトにお越しいただきました。
    サイトには青木氏に関するあらゆるデーターを投稿しています。
    青木氏の氏を物語るデーター量では日本ダントツ一位です。ヤフーHPk歴史サイトにも認可をえてブログを運営しています。
    これからも青木サイトの運営にご協力ください。

    さて、早速ですが、お尋ねがありましたので、お答えしたいと思います。
    お家のご先祖が武蔵国の入間にお住まいであった事
    三芳町の臨済宗のお寺が菩提寺である事
    家紋は丸に剣片喰紋である事
    農家ではなかったかと見られる事
    過去帳が存在する事

    この5つの情報から次ぎの事が云えます。
    先ず、武蔵の入間は藤原秀郷流青木氏の総宗本家が定住していたところです。
    ここは全国24地方に定住していた藤原秀郷流青木氏116氏の中で、藤原秀郷の宗家を護って、「第2の宗家」と呼ばれた秀郷流青木氏が、入間を中心に神奈川横浜を半径とする円の地域をこの116氏の本家筋が螺旋状に定住しながら護っていたところです。
    入間の中央を基点に外側に向けて116氏の分家筋の末裔が護っていたのです。
    この末裔は、「嵯峨期の詔勅」で特別に天皇より「青木氏」を名乗る事を許された「特別賜姓族青木氏」であり、天皇を護る役目の親衛隊を担った特別に皇族に列する身分と家柄を与えられていました。
    平安時代には天皇とその宮殿を護る「北面武士」として最高の官職と家柄と勢力を以って「北家」として誇っていました。藤原氏には「四家」の流れがあり、最終は同族の勢力争いから「北家」が残ったのです。
    「特別賜姓族」と成ったこの116氏にもなるこの「特別賜姓族青木氏」は、第6位皇子の「皇族賜姓族」に習って、秀郷一門の秀郷第3子の千国が青木氏を賜姓で名乗り始祖となりました。
    秀郷は「平の将門の乱」を鎮圧した勲功で貴族と武蔵国を獲得しました。このために貴族と成った秀郷は武力を持つ事が出来なくなり、そこで第6位皇子の臣下族と成った「皇族賜姓族」の青木氏と同じく「天皇家の仕来り」に習って、この第3子が一族一門を護衛する役目を担うことができる様に成りました。
    そして、この「皇族賜姓族」を補佐し支える役目を担わせるために全ての身分、家柄、官位、官職を同じくする「特別賜姓族青木氏」として発祥しました。これが始祖の「千国」で総宗本家は入間に定住しました。
    これがその後、全国各地の24地域に子孫を残し116氏にも広がったのです。
    従って、この入間に昔から定住していた事は少なくとも本家筋の末裔である事が云えます。

    なぜならば、昔の慣習は、「住み分け」として家柄に応じて住み分けていましたので、入間に定住していた事は本家筋の末裔である事が考えられます。
    入間の総宗本家の青木氏は家紋は秀郷宗家と同じく総紋の「下がり藤紋」です。しかし、この総宗本家以外はその末裔は血縁関係により養子などの事が起こりますので、「家紋掟」により家紋は変化します。
    入間の本家筋の末裔である事は、この「丸に片喰紋」が物語ります。
    この家紋は116氏の中でも秀郷流青木氏の主要8氏の家紋類の一つです。
    片喰紋に丸がついていますので、入間の本家筋枝葉の中の末裔で、その分家筋である事に成りますが、この「丸に片喰紋」は本家筋の「片喰紋の青木氏」より勢力を誇っていました。

    そこで問題は、「柳沢吉保建立」といわれる入間の臨済宗のお寺(多福寺)の檀家である事なのですが、実は、「柳沢吉保」は「甲斐の武田氏系青木氏」です。本来は甲斐の柳沢村の青木氏ですが、徳川家の家臣になった時に、青木氏から村名の柳沢氏を名乗りました。
    これにはある経緯がありまして、青木氏を名乗る事を本家筋から横槍があったことから名乗れなかったのです。
    (吉保の叔父一門は青木氏を名乗った。吉保は一蓮寺、永慶寺の甲府の菩提寺、平林寺、等がある。甲斐青木一族の菩提寺の常光寺−曹洞宗)
    この甲斐武田氏系青木氏である柳沢吉保が立身出世した時に、青木氏のゆかりの地に寺を建立します。本来は浄土宗なのですが、これにも経緯がありまして、浄土宗寺を建てられなかったのです。
    そこで、曹洞宗、臨済宗の寺を建てました。
    そもそも賜姓族青木氏の浄土宗は密教方式を頑なに守った事から、その氏が衰退するとその菩提寺となる寺の運営が出来なくなり滅亡消滅して行ったのです。
    甲斐武田氏系青木氏も武田氏が滅んだ結果、この憂き目を受けました。
    室町時代は下克上と戦国時代が起こり、これらの平安期からの由緒ある古い氏は滅亡して行きましたので、その菩提寺となる浄土宗寺も下克上の焼き討ちなどで消滅して行ったのです。

    そこで何故、入間に寺を建てたかと云う事ですが、これにも経緯がありまして、武田氏が滅んだ時に武田氏系青木氏は、家康の管理下の配下に入り、後に武田氏系青木氏は家康の家臣に成り、この時、武蔵国の鉢形に一族全員が定住移動させられました。
    この武蔵鉢形の「武田氏系青木氏」は、その後、住み分けの為に生き延びる為に関東北部に勢力を伸ばします。
    ただ一人出世した青木氏の柳沢氏は、一族一門をまとめるために、この時に、これらの「武田氏系青木氏の寺」を各地に建立したのです。この入間のお寺もこの為に建てたものです。
    密教系浄土宗を建てられなかった事から、曹洞宗や臨済宗などの寺を建立したのです。

    そこで、ここにこのお寺がお家の檀家寺と成っていることが問題です。
    しかし、片喰紋類は秀郷流青木氏の主要家紋ですので、当時は家紋が氏を証明する一つの有効手段でしたので、家紋と云うことから考えると、この「武田氏系青木氏」では無い事を意味します。
    寺に関しては、江戸時代にも全国各地のこの本来の浄土宗の存亡危機が起こったのです。このために家康は「浄土宗の督励令」を発して存続を図ります。
    ところが明治期には激しい「宗教改革」でこのような弱体化した得意な位置づけにあった浄土宗寺は殆ど廃仏毀釈で潰されたのです。
    恐らくは特定の氏しか檀家に収めなかった菩提寺系の寺はこの時に潰されたのです。
    実は武蔵の藤原の「総宗本家」や一門の「特別賜姓族」の「青木氏の菩提寺」さえも関東では判らなくなっているのです。

    この時に、お家などは「柳沢吉保の勢力」の下に入り、この時に、お家も一族の安全の為にもこの寺に入ったと考えられます。この様な事が関東では大変多かったのです
    この武蔵国には他に武田氏に味方した「皇族賜姓族諏訪族青木氏3氏」も、「秀郷流青木氏」を頼って、神奈川と栃木にも秀郷流青木氏の保護を受けて逃亡して勢力を盛り返し定住しました。

    次は、”お家が農家では”の事ですが、「入間の青木氏」は鎌倉幕府-足利幕府-徳川幕府の時に、時の幕府の家臣団に加わりました。但し、これにも経緯があり、主に116氏の本家筋が家臣となったのですが、分家筋はその家臣の配下に入りましたが、本家筋はせいぜい200石程度の禄高で低く、更にその配下であった事から山林を切り開きして農業をして暮らしを立てました。若い時の吉保も含めて大変に貧乏していた事が詳細に記録されています。しかし、いざと云うときには武士として働くのです。
    多くの抹消の分家筋は江戸時代には農兵の様な働きをしてこの暮らしをしたのです。
    武田氏系青木氏に限らず、秀郷流青木氏も特に分家枝葉の一族は同じであった事が判っています。
    本家筋の多くは、庄屋、名主、豪農を務めました。分家筋はその親族としてこの本家筋を護ったのです。

    そもそも江戸時代の士農工商の身分制度には、士と農との間には、実は「郷士と郷氏の階級」があったのです。武士の階級に入っていましたが、平安期からの伝統を誇る武家の身分であって衰退して農業をしていた者たちです。
    徳川氏は、この時、これらの者たちを村役の庄屋や名主とさせました。時には豪農、豪商となり「2足の草鞋策」を採りました。豪商の殆どはこの郷氏です。
    そもそも、一般の農民は、独自に村を形成する事を許されていませんでしたので、この「郷士」か「郷氏」の村に所属する社会形態をとっていました。青木氏だけが氏名を村名とする事を奈良期から特別に許されていました。
    室町期に伸し上がった一般の武士と違って、由緒ある古来からの家柄や身分や官位官職を伝統的に持ち、これらの土地を所有する郷士や郷氏は後からなった一般の武士からはけむたがられて居ました。
    中でもお家の様な秀郷一門の青木氏は、村を形成し広大な土地を持っていた「郷氏」であった為に、土地の大名からも一目を置かれていました。

    因みに「郷氏」に関する有名な事件が幾つも歴史上にあります。
    一躍身分の低い豪族から躍り出た信長が、信濃、甲斐を平定し、巡行視察の際にこの甲斐の「郷氏」の清和源氏の末裔が白馬に跨り儀式の白装束に身をかため信長を歓迎したのです。
    ところがこの儀式の郷氏の採った態度を知らずに、自ら馬から引きずりおろして殴る蹴るの狂態を示したのです。側用人がこれを知らせずにいた事から起こった歴史上有名な事件がありました。
    又、徳川4代将軍が、伊勢の「皇族賜姓族の伊勢青木氏」が矢張り平安期からの儀式に乗っ取り所定の位置で出迎えずしたり、又、拝謁する際には上位の者が座る上座を取られて怒ります。
    しかし、その後に家臣から知らされてこの儀式の事を知った将軍はしぶしぶに上座を譲ります。
    これらのこの2つの事件は有名で歌舞伎にも成っています。
    この様に、「郷氏」には、時の将軍と云えど朝廷から正式に永代で与えられた身分、家柄、官位、官職に関しては頭が上がらなかったのです。
    この青木氏の様な「郷氏」の中には大名より経済的に勝った氏もいて、50万石から中には200万石にもなる経済的な勢力を誇っていて、広大な土地も所有する勢力を持っていました。そこいらの大名よりも大きく家人500人もいる青木氏の郷氏も居たのです。
    因みに、筆者の伊勢青木氏も「2足の草鞋策」で歴史上有名な豪商を営み、紀州徳川氏初代頼宣から伊勢松阪において上位の位置で上座を維持し、大正期までこの関係を維持していた事が判っています。

    お家は「青木氏の氏」を守っていたことから、古い由緒を持つこの「郷氏」であったと考えられます。
    これらの分家筋は江戸時代には農業をしながら「郷士」か「郷氏」と呼ばれました。
    恐らくは、お家は苗字と刀と布衣を纏う事を許された「土地の武士」で、この「郷氏」か「郷士」であったと考えられます。
    一般の民衆は寺の習慣が無かったし、苗字もありませんし、氏も構成していませんでした。当然に過去帳もありませんでした。民衆はなかには有ったとしてもせいぜい「任別帳」で村の構成人としてその時代に生きた「人の記録」だけでした。
    9割の民は苗字を持ったのは明治期の3年と8年のの苗字令からです。この場合の多くは、任別帳は庄屋の家で記録されて、それを村の一般の寺に保管していたのです。これらの事はお家の総本家の内容をお調べに成れば判ります。

    以上の事柄の詳しい事は、研究室かルーツ掲示版に詳しく書いていますので、ゆっくりと関連する事からお読みになってください。

    ご不明な点やご質問はご遠慮なくなんなりとお尋ねください。
    この専用の投稿欄からReでおだねください。


      [No.924] 埼玉県の青木です。
         投稿者:ねこ   投稿日:2013/10/01(Tue) 23:06:47  

    はじめまして。
    こちらの掲示板を拝見していて、自分のルーツのことも少し知ることができればと思い、書き込みさせていただきました。

    私の家は埼玉県ふじみ野市(旧入間郡)にあり、本家は埼玉県入間郡三芳町にあります。
    お墓は三芳町の柳沢吉保が建てた臨済宗のお寺にあります。
    家紋は丸に剣片喰です。

    父によると、家は昔農家だったので先祖も農民だったのではないかと言っておりましたが、家には過去帳のみで家系図がないので詳しくはわかりませんでした。


      [No.923] Re: 函館の青木
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/09/09(Mon) 16:50:30  

    函館の青木さん 今日は。
    何とか秋らしくなってきましたが、今年は異常気象で大変でしたね。

    そこで、余談として、筆者が関わった物理学から先ずは次の説を披露したいと思います。
    ゆっくりとお読みください。
    マスコミでこんな難しい事は云わないですからそのつもりでお聞きください。

    300年に一度来る地軸回転による北極側の空気の動きが変化して、その動きを300年に一度修正する時期に来ていることが考えられますね。
    丁度、3世紀の”邪馬台国の卑弥呼の時代”にも起こったと観られています。果物などの化石からこの事は判っています。
    そもそも、卑弥呼の出現は、この異常気象から卑弥呼の「自然親−鬼道神」がその超能力によりその異常気象の気候の変化を毎日予言して、穀物の収穫を改善した事から、卑弥呼が信頼されて巫女となり、遂には、その飢饉で互いに戦っていた各地の豪族が、あまりにも当たる”卑弥呼の予言やお告げ”があたる為に、互いに争いを止めて「九州の政治連合体」の王と祭り上げられた事が所以と成っています。

    そこで元に戻りますが、普通は地球のマッハ2くらい速さの自転に依って、地軸に沿ってその周りの空気が回転しています。この回転が北極側の周囲で本来は3つの空気のウエーブを作るのですが、それが次第に乱れて、そのウエーブは位置連れを起こしながら最終は5つのウエーブを起こします。
    このままではその空気のよどみのウエーブは際限なく増えて行こうとしますが、そうすると北極側にある空気の層は破壊します。
    そこで、それを元の3つのウエーブに戻そうとして、エネルギー保存の法則に従って、その空気の層の入れ替えが起こるのです。北半球側でそのウエーブの5つになった一つが南側に大きくせり出して空気の回転にブレーキを掛けるのです。
    このために押されて南半球側の空気の層がひずみ、亜熱帯の気候が押されて一部北半球側にせり出す事に成ります。
    これが海流や亜熱帯の空気層に影響を与えますが日本付近に淀む結果となって異常気象が起こるのです。
    当然にこの現象は300年から400年前に比べると、地軸の傾き23.4から23.8に変化していると云われていますので、その影響も大きく受けてこの現象が加速される事に成ります。
    この地軸が0.5度傾くと太陽の周りの円運動の公転は楕円形になり、その為に中心の太陽に対して通常の円運動より太陽に近いところが出来、又遠いところが出来ることで、更に暑さと寒さの寒暖差は大きくなる事に成ります。これが夏はAVE32℃から35度へと変化しているのです。
    冬も同じで−約3度差の変化が起こっているのです。
    この変化は地球が軽くならない限り戻せません。突き詰めると1650年頃から比べると、地球には唯一無から有を生じさせている人間の量が10倍以上に成っていますので、地球は重くなり加速度が大きく働きます。それに見合った地軸が傾いているのです。
    この現象は”こまの回転原理”と同じです。
    そうする、この地球重量の増加現象から唯一増えるものがあります。それは生物が吐き出す作り出す炭酸ガスです。文明が高くなれば当然にこの炭酸ガスが増える仕組みです。
    普通、地球に対して適度の炭酸ガスであれば、地球の8割は海ですから、空気より2倍程度重い炭酸ガスは海に流れ込んで加湿されて吸収されてしまいます。
    (空気28.8 炭酸ガス系42程度 Co Co2 Co3 H2Co3 H2Co4と変化して行く)
    ところが、この吸収される速度以上に炭酸ガスを這い出すために余ったものは地球の表面に滞留する事になります。空気より重いのですから、人間が作り出す余計な炭酸ガスは傘の形になって太陽の熱を地表にとどめてしまいます。そして、熱は地表と海面を暖めて滞留する事に成ります。
    これが、更に、上記の現象に熱の影響を与えて余計に亜熱帯化しているのです。
    地軸が0.5度傾くと傾いた分だけ赤道上にある熱気の塊はより北上する事に成りますから、空気中の水分や海水温で蒸発した水分が北側にせり出してくる事になります。
    この相乗結果から、夏冬の寒暖さ、季節の地表と上空の寒暖差が大きくなる事に成ります。
    普通は、エネルギー計算から35度程度が限界とされていますが、これが40度差と成っているのです。
    上記の自然現象のこの3度を修正することは増えた地球重量を減らす事に成りますので無理でしょう。

    (計算では85億から95億位までが第1の標準限界値と見られます。ここからは標準を超える値となりますのでいろいろな異常な自然現象が起こる事が予想できるのです。現在はこの第1の標準限界に達しつつあると観られます。異常現象が起こり始めるポイント域と云えます。)

    そうすると、炭酸ガスによる熱の影響の2度を減らす事で何とか成るのですが、これが難しいのです。
    文明の近代化の為に、その増えた人間の量の食料分を賄える事になっているからです。
    しかし、これも人間の重量を減らす事は出来ないことから無理と成ります。結局、無理なのです。
    恐らくは、最終は、温度上昇に依って低空気中の”水分の不足”から、最後は人口が減る自然現象が起こると考えられています。そうでなければ地球重量が増え続けると、地球の加速度が増し、その遠心力で地球上の人間を含む物質は、引力<遠心力の関係から地軸の回転で制空圏の方に空気中通してに飛ばされて行く事に成ります。まさに人間ロケットです。
    その前に軽いものから飛ばされますので、先ずは地球の一番外側にあるものから飛ばされます。先ず空気や水分です。次第に重いものへと繋がって行きますが、その前に、水分の枯渇から益々地球上は過熱化して行き、ついには生きて行くことは生物にとって不可能となります。
    この時点で、再び地球の重量は戻り次第に自然の環境は取り戻されてゆく事に成ります。
    この時、海の水分が残っていれば再び地球を冷やす事に成りますし、海水中に含まれる空気が地球の表面に湧き出てきます。しかし、この時には人間が恐竜の様に絶滅する事に成るかもしれません。
    恐竜の絶滅原因は隕石と成っていますが、隕石の衝突の影響で直接死んだ訳ではありません。
    (火星もそこの経過を辿ったとする説があり、この時に飛び出した水分と火星の生物が地球に届いたとする説があるのです。最近の火星の研究から判明説)
    筆者はこの説ではないかと観ています。
    隕石が地球に当たる事に依って上記の様な現象が起こったと考えられています。

    (そもそも、大隕石が地球に当たると回転している地球には耐えられない大ひずみが起こり、亀裂してそれに地球の加速度の影響が加わり、それが亀裂は走り続け地球を分解させてしまう筈です。
    又、この隕石に含まれていたとされる「地球の水分量」が何処から来たのかの説明もつかないのです。
    最近の間研究で、この水分量は上記した原理により火星から届いたのではないかとする説が生まれて来たのです。生物が火星から来たとする説はこの事を意味しています。故に隕石に含まれていたとする水分が隕石より多くなると言う原理が成立たないからです)

    この様に隕石だけでは説明がつかないことが多いからですが、上記の説では全ての現象が説明できるのです。
    兎も角も、後は、地球の気候変動は300年周期の時期を越えるのを待つだけです。
    北極には、炭酸ガスの影響は少なく、極点にはエアーポケットが出来るくらいですから、この重い炭酸ガスは集まりません。自然周期300年期の自然上昇熱で北極−南極の氷も解けるのもこの現象から来ています。
    付け加えれば、自転の変化で地球に働く遠心力の影響で遠心力が強く、海底の地殻にひずみが大きくなり地震もこの周期に沿っているのです。そして、地震の場合もこの300年の間に矢張り3から5回の大中地震が起こるのです。
    そうすると、卑弥呼の3世紀前から起こったとすると、2013年頃は7回目の直前の年を過ぎた時期に入ります。異常気象現象が各地で起こる事に成ります。
    この理論から観ると、ウエーブのよどみが修正されはじめてくるのはもう少し期間を見る必要がありますね。

    さて、これを論じていると際限がありませんので本題に入ります。
    歴史も上記の現象と同じで、小さい周期性を持っています。人間の生き様も同じです。
    室町期中期までの事は前回お答えしました様に、大蔵氏の義種の末裔がこの塩飽族の頭に成りますが、この後は、その操船技術を買われ、足利幕府、信長、秀吉、家康の支配下に入ります。
    明治期には、日本帝国海軍の操船術は、この末裔が引き継いだ操船術が基本になっているのです。
    日露戦争の海戦での讃岐の秋山真之の事でも有名ですね。
    瀬戸内海の海流の速さと同じ朝鮮半島との間の海流の早いところでの決戦としたのもこの塩飽族らの操船術があったからなのです。
    この様に海洋族の日本の操船術は優れていたために、侮っていたロシアに日露戦争の海戦で大国の海軍術に勝てたのです。この塩飽族や海部族の海族がもたらしたものですが、その後、末裔は幾つかに枝分かれしますが、天正時代から明治初期の時点では、塩飽族は次の「4つの姓氏」によって構成されています。
    宮本、吉田、真木、入江氏の4氏です。

    (この4つの姓には共通の由来を持っています。それは「神社」です。宮本氏は神社の氏子代表が用いた姓です。吉田氏は朝廷の神職の官職の奈良期からの氏名で神職に大変多い氏です。真木氏は神社が用いる神木の真木の木で神職系の姓です。入江氏は古来より神が好む宿る場所として神社が創建される場所は入り江の丘に建てられたのですが、神職系の姓です。何れも神職系の氏姓名です。
    何故この様な神職系の氏姓名を使ったのかは不明ですが、塩飽族は前回のレポートでお答えした様に彼等の首魁であった「藤原純友」を慕って建立した「純友神社」の下に姓を求めたのではないかと推測されます。)

    この中でも、宮本氏が最大勢力を持っていたそうで「頭目役」を務めていたとされます。
    つまり、「氏子総代」、又は「禰宜」、「権禰宜」を勤めていた事が判ります。奈良期古来からの日本最古の由緒ある神職氏の吉田氏を名乗っている事に注目しています。
    その「頭目」となると、この宮本氏が当然に大蔵氏の義種の末裔の”塩頭の弥太郎”の末裔と考えられます。この4氏は全て血縁関係にあった事が判ります。
    従って、海部氏と同じく少しあとでの1560年代に姓氏の宮本氏を名乗っています。
    この塩飽族の4氏の系譜の末梢族と見られますがその繋がりは判っていません。
    これら4氏の枝葉末裔が、その術を買われて最も各地に広げています。その一つが陸奥の国にもあるのです。これは讃岐青木氏の行動範囲からの末裔分布で判るのです。つまり、行動範囲を伴にしていたことを意味します。讃岐青木氏が行くところには彼等の4氏の何れかが同伴した事に成ります。
    その都度、4氏の中からその末裔が選ばれて行く掟の様なものがあったと観られます。
    讃岐青木氏と4氏から観たものでは、備前備中地域や、越前越中越後陸奥域までの記録があります。
    この中でも、記録で観ると、讃岐の筆頭の本家の宮本氏が江戸初期前後に養子を迎えてますが、この頭目と成った養子が一時、東北の方に移動したことが書かれています。
    そして、当初3年の予定であったらしく、結局は戻らなかったとされ、”退転”と云う言葉で表現されています。更に、因って、結局、”本家は分家の者が引き継いだ”と記されています。
    この”退転”したとされる頭目の跡継ぎの者が、この弘前藩に操船術で召抱えられたのではないかと考えられます。
    それがお便りの「塩分町」(塩飽族の宮本氏)で、「青木屋・・左衛門」(讃岐青木氏)となると考えられます。

    実は、この事を補足証明する事があるのです。その迎えられた理由に付いては、先ずは、弘前藩の記録には、最北の小藩の津軽氏の弘前藩は、この1648年前後の時期には、2度の「藩政改革」を実行して、その為に利権を争う勢力争いが起こり、その前に家臣がお家乗っ取り事件も2度も起こしています。
    これらの一連の有名な事件に加え、この時期に幕府が出てきて裁定を下すほどの更に2度の大事件を起こしています。
    この結果、その2度の事件に関わった者は、喧嘩両成敗の裁定で、中心人物は一時、山口の毛利氏や伊予讃岐の松平氏にお預けの身となります。
    この藩政改革の中で、その利権争いの原因となったもので、幕府に対して、”弘前藩の廻船業”と、江戸などへの定期航路の”運航許可”を申請し、それが幕府から認可されています。
    争いを起こしている北の小藩に対して、況して何度も事件を起こしていながら極めて重要な申請を受け入れているのです。先ず、この時代の幕府は大名を抑え締め付け減らす裁定を下している環境下です。
    大いに疑問です。
    この時期を挟んで、小国の津軽氏の弘前藩は、この事に依って莫大な利益を上げて、幕府に対する献金も増えるだけでは無く、その為に所領も増えているのです。
    この事から莫大な利権争いの事件が続けて起こったのです。何かが藩政改革の中で決定的な事があった筈です。
    この時に、お預けの身になっていた津軽氏のこの藩政改革実行派の中心人物が、地元伊予讃岐の松平氏の許可を得て、弘前藩に藩政改革の切り札を送り込んだと観られます。
    その一環として上記の弘前藩が「2速の草鞋策」で行った藩政改革の切り札、即ち「廻船操船術」の為に招かれて、塩飽族の宮本氏の上記の退転者が本家の一族を率いて弘前に移住したと考えられます。
    当初は3年の計画で基礎を構築して後に戻る計画であった様ですが、結局、何らかの理由で定住してしまった事に成ります。
    そもそも、津軽氏はもとより宮本氏だけではこの様な利益を上げる事は当時の社会慣習から不可能です。
    大物が率いていた筈です。疑問です。

    しかし、その前にここで更に疑問が残ります。
    本来、お家騒動は掟として「廃藩の憂き目」にあう筈ですが、”御咎め無し”の喧嘩両成敗で済んでいます。北の小藩で、且つ、大広間にも出られない「家の格式」の低い藩ですが、”廃藩”がなかったのです。
    むしろ、後に所領を増やすという事が起こっているのです。
    何かそれに見合う利得が幕府側にあり、それを執り成した大物者が居た筈です。
    これは、後に判ることなのですが、実はこの”廻船業の利益の献納”があったからなのです。
    これは当時の身分制度と社会構造からして、到底に宮本氏の操船術だけでは成しえません。
    その操船術には何かの廻船業の莫大な利益を生み出す「ノウハウと組織」が付いていたからこそ成しえた筈です。
    その証拠にはこの事件以前にはこの歴史の浅い小藩の弘前藩の経歴の中に、この廻船問屋の履歴はありません。
    このことはお預けの身になった藩政改革の中心人物に、伊予讃岐の「松平氏」の仲介を得て、瀬戸内を牛耳っていた「讃岐藤氏」の「讃岐青木氏」の廻船問屋の紹介があったのです。
    そして、この讃岐青木氏の力を使って、弘前に廻船業とその産物を商う2速の草鞋策を敷いたのです。
    そして、問題と成るお家の藩政改革にこの「2足の草鞋策」を改革の中心に据えたのです。
    其処から生まれる利益の一部を幕府に献納する事に依ってお家の安泰を図ったのです。
    幕府にしてみれば赤子の手を握る程度の小藩ですが、この献納金の魅力が大きく、伊予讃岐の松平氏の口添えもあり、利権争いから来るお家騒動の2度もの事件に目を瞑った事になります。
    讃岐青木氏と行動を伴にしていた宮本氏の移動は、この時のこの中の一連の手順の一つであったと観られます。
    故に、喧嘩両成敗の裁定で終わったのです。
    小藩の津軽氏が単独でこの様な商売で莫大な利益を上げ献納できることはあらゆる面で不可能です。
    讃岐青木氏の全体のノウハウと組織があったからこそ成しえたのです。
    昔は何度も研究室の投稿で論じている様に、彼等の豪商の支配下にあるシンジケートがなくては物を動かす事はこの時代は無理なのです。
    産物の仕入れや梃子の調達などあらゆる商いに伴う準備は塩飽族の宮本氏には無理であります。
    これに讃岐青木氏が伊予讃岐の松平氏の2氏の仲介で関わったのです。
    讃岐青木氏、伊予讃岐松平氏、津軽氏の3者共にどちらに執っても利のある話であったのです。
    其れも、事件後すぐではなく、この裁定の時期が2つの事件終了後の2年後なのです。
    津軽氏と讃岐青木氏との廻船業と殖産業と運行業の3つが上手く行くかの様子を幕府は見た事を意味します。

    それだけに幕府にとっては献納金は魅力であったのです。恐らくは、この青木氏らの結果を見てからの裁定と成った事に成ります。
    治世を司る伊予讃岐の松平氏と、地元瀬戸内を支配する最大豪族讃岐藤氏の讃岐青木氏との関係を保つ事は両者に執っても最大の眼目であり、地元の廻船問屋の北への拡大は伊予讃岐松平氏にも利が大きかったのです。
    現存する讃岐青木氏はこの廻船問屋を昭和20年まで続いたとされていますし、この間に陸奥と北海道にも廻船業の支店として移動定住した末裔があったことが判っています。
    この時、讃岐青木氏は塩飽族を抱えて廻船問屋を営み、瀬戸内全域はもとより、島根の宍道湖のところまで末裔を移して定住させて、松前船で知られる様に、日本海側周りの海産物も取り扱う廻船問屋をも拡大して手広く北海道までも運航していた事が記録されています。
    明治期の北海道開拓には勢力を注いだ事が判っています。
    筆者の総合商社を営なんでいた伊勢青木氏とは、明治中期までの商いでの付き合いがあり、その廻船問屋の行動は赤穂浪士の城明け渡しの時にも出てくる2速草鞋の豪商です。
    恐らくは、この讃岐青木氏は秀郷流の同族の陸奥青木氏をも頼り、陸奥青木氏ともこの陸奥に伴に移動した宮本氏の塩飽族との関わりをも持っていた事と考えています。
    何れしても讃岐青木氏には、その配下にあった塩飽族の宮本氏も本家−分家で讃岐−陸奥で繋がっていたと観られます。恐らくは、この「青木屋・・左衛門」は讃岐藤氏の讃岐青木氏の末裔と見られます。
    現在調べていますが人名の確定が出来ません。
    左衛門は賜姓族青木氏の奈良期からの官職ですので、この江戸中期からはだれでもが名乗ってしまった名となっしまいましたが、この江戸初期をぎりぎりには未だ何とか嵯峨期の詔勅の禁令を守っていたことが判りますので、「・・部分」のところを見つける事が必要ですので讃岐青木氏の系譜の中で調べています。
    恐らくは、陸奥での新たな証拠は見つけるのは難しいと思いますが、判りませんが、陸奥の塩分町には、この讃岐青木氏の末裔と宮本氏や他の3氏の姓がある程度残されているのではないかとも考えられます。その財力から観て菩提寺を建立している筈ですので、お寺や付近の神明社の神社関係で資料が残されているのではと考えます。
    恐らくは、付近にあれば陸奥の讃岐青木氏の一族とその一門とその郎党を祭祀する菩提寺名は「西光寺」ではとも考えられます。
    其処には宮本氏の塩飽族の郎党も永眠して祭祀されているのではと考えられます。
    しかし、ここまでが青木氏から観た塩飽族の由来です。ここからは判りません。

    陸奥青木氏は藤原秀郷流青木氏です。青木氏の大変多い地域で、青木の地名もあるくらいです。
    現在は弘前には青樹と変化していますが、元は青木です。変化した理由が明確ではありませんが資料から明治期になってからと考えられます。
    左メニューの「地名地形データ」にも記載していますのでそちらもお読みください。

    陸奥域から北海道に移動した青木さんは4つのルーツがあり、時代も異なっていますが、おそらくはこのひとつでしょうが、函館の青木さんのルーツがある程度読めてきているのではないかとも思っています。
    青森県には次の五氏の青木氏があります。

    藤原秀郷流の陸奥青木氏(総紋 下がり藤紋)、越後青木氏(総紋 下がり藤紋)、讃岐青木氏(下がり藤に雁金紋)、陸奥青木氏から出た関氏系青木氏

    皇族賜姓族の神職の信濃青木氏(柏紋類)、住職の信濃青木氏(笹竜胆紋)、
    北海道に渡った青木氏で記録があるのは関氏系青木氏を除く4氏です。

    (関政家を祖とする関氏系青木氏は秀郷流一族に与えられた特別賜姓族の特権を使って後に青木氏を名乗った。賜姓青木氏ではない青木氏で、その末裔は関東に移動経路を採っている)

    又、ご質問がありましたらお尋ねください。青木氏からの情報でお答えします。


      [No.922] Re: 函館の青木
         投稿者:青木 昭   《URL》   投稿日:2013/09/08(Sun) 15:06:54  


    早速ありがとう ございます。
       今年の暑さと 雨には参りました。
       図書館は 我が家と違い涼しく快適なので。青森や弘前市史。
       郷土史の本などを読んでいたところ。 弘前市史の付録の絵図「慶安の絵図 1648年」の中に。
       青木屋 と読める記述があり気になり。
       お盆の時期に 弘前図書館にいき 本物を見せて戴きました所ありました。
       青木屋とありました。 残念ながら 青木屋00左エ門 としか読めませんでした。
       博物館の方にも見ていただいたのですが。わかりませんでした。
       弘前図書館の人の話ですと 住んでる町名が しわく町「今は 塩分町」
       ここの人達は 弘前藩が瀬戸内から船頭さんを招いて住まわせた所で。
       それで。町名をしわく町とつけたそうです。
       弘前 青森には函館にはない資料が沢山あり また行って調べてみます。
       函館では本州の事は調べずらいので。
       塩飽と北のつながりで何かありましたら。
       教えてください。


      [No.921] Re: 函館の青木
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/08/26(Mon) 17:28:51  

    函館の青木さん 今日は。お久しぶりです。
    京都に行かれたそうですが、静かなイメージの都の印象が与えられるかは疑問ですよね。
    当然の事かもしれませんが、人を集めて利益の事ばかり考えて、過去の悠久の歴史の雰囲気を感じさせる努力に欠けていますよね。何処へ行っても同じですね。むしろ、名も無い田舎の探索の方が安らぎを感じられます。

    それには、お尋ねの様な事をお調べに成り、その前知識で”塩飽”等の地域を探訪もいいのではないでしょうか。

    さて、お尋ねの”塩飽”の件ですが、室町期以降の事は”塩飽水軍 ”でネットでお調べに成る事をお勧めします。何故かと云いいますと、室町期以降の事は資料としてはっきりしていますので、簡単に判ります。
    ところが、鎌倉期前の事は概容は判りますが比較的研究されていません。
    そこで、奈良期から平安期までの情報に付いて知る範囲でお知らせします。
    既に、「青木氏の守護神(神明社)−1−22」でこの部分に付いて論じています。
    ”青木氏に無関係か”と云いますと、そうではないのです。
    そもそも、この「塩飽水軍」のルーツは研究室で何度も論じていますが、「後漢 阿多倍王」が引き連れて来た17県民の200万人の180職能集団が「大化期の前後」から難民として上陸し、瞬く間に九州全域と関西までの32/66国を無戦制圧しました。
    この200万人が後に帰化し、在来民の生活向上に大変功績を残しました。
    現在の第一産業の基礎はこの進んだ後漢人の技能がもたらしたものですが、孝徳天皇−天智天皇の時にこれらの後漢の帰化人の技能集団を各地に配置しました。
    この時、この中国地方に配置されたのが、陶器を作る職能集団の「陶部」と、海の産物を取りそれを水産加工する職能集団の「海部」です。陸は西域の中国地方に「陶部」が勢力を持ちます。
    「海部」には、船等を操作する集団、水産物をとる集団、海産物に加工する集団に別れますが、在来民を支配下に入れて技能を養成し、後には室町期中期には日本最古と見られる「姓氏」と成って独立しこの瀬戸内を支配しました。
    これらの後漢の帰化人の技能集団の首魁「阿多倍王」は、南九州の隼人大隈に拠点を構えました。
    在来民を巻き込んだあまりの勢力であったので、危険を感じた朝廷は「720年代」の頃、この「帰化人の勢力」を排除しようとして、この拠点攻めますがあまりの強さに失敗します。
    その後、何度が攻めますが全て失敗します。
    朝廷は、結局、攻める事は無理として、今度は、この民に技能を教授して慕われている集団に対して懐柔策に出て、この隼人大隈を半国割譲して「阿多倍王」に正式に領土を与え、拠点として認め与えます。
    更に、彼らの渡来人(帰化人)の力に依って政治と経済が安定した事を理由に朝廷は、この「阿多倍王」と父親の「阿智使王」と共に都に呼び出します。
    そして、「伊勢北部伊賀地方」を(青木氏が守る伊勢国を)半国割譲して正式に与えます。
    次には、この「阿多倍王」に「敏達天皇」の孫の「芽淳王の女」を娶らせます。
    そして、最後には、朝廷の官職の「准大臣の官位」と「従五位下の官職」を与えました。
    この時の朝廷の官吏の6割は、この「阿多倍王」が率いて来た職能集団の「史部」が占める事に成っていました。この官吏の「史部の集団」の首魁は「阿多倍王」の父親の「阿智使王」が率いていました。
    皇族との血縁関係を持ったこの伊勢北部伊賀に住んだ「阿多倍王」には3人の男子が生まれます。
    そして、この3人の息子は力を発揮して、奈良−平安期の朝廷の政治機構3蔵(斎蔵、大蔵、内蔵)の内の「大蔵」と「内蔵」を牛耳ります。(斎蔵は藤原氏)
    そして、この3人の子供の長男には、「坂上氏」を賜姓し朝廷の軍隊を任せます。
    次男には、「大蔵氏」を賜姓し朝廷の一切の財政を任せます。
    三男には「内蔵氏」を賜姓し天皇家の財政を任せます。
    更に、「阿多倍王」の他の親族には、阿多倍王の阿と倍をとり阿倍氏を賜姓し、朝廷の学問や総務の職能集団の「阿部」を任せます。
    ここまでは日本書紀と遺された歴史上の史実とで経緯は構成されます。
    ここから歴史上の遺された有名な史実と繋がって繋がって行きます。
    ここからはネット上でも判りますのでそちらをお調べください。

    さて、「塩飽水軍」までの経緯を更に続けますと、先ず、上記の長男の坂上氏は彼の有名な征夷大将軍に任じられて「阿多倍王」の軍を率いて「朝廷軍」として日本全土を制圧した坂上田村麻呂(806年)です。
    兄弟の様に仲の良かった「桓武天皇」とタッグを組んで平安初期の難しい時代を乗り超えました。
    (天皇を守り警護する近衛軍は「青木氏」 「桓武天皇」は「伊勢王施基皇子」の長男の「光仁天皇」と「阿多倍王」の孫娘の「高野新笠」との間に生まれた子供)

    次は、次男の大蔵氏は九州全土を任され「宿禰族」に任じられ、9代目の大蔵春実は瀬戸内の支配をも任されて、「藤原純友の乱」を沈めた功績で「錦の御旗」と「国刀」を授かります。
    正式に九州全土の支配する別府の「太宰大監」に任じられて、「遠の朝廷」として軍事、政治、経済の自治権を獲得します。これが「春実」−「種光」−「種材」の3代で築き上げます。
    (種材は仁王様のモデルにもなった豪傑で大政治家)
    薩摩の島津氏を除き九州の豪族の殆どはこの大蔵氏の血筋を引いています。
    この「塩飽水軍」には大いに影響のある「大蔵氏」なのです。

    最後は内蔵氏ですが、東北地方6県の地域を勢力範囲に治め、その末裔には歴史上に出てくる有名な阿倍氏、安倍氏などが有ります。

    1 関西以西32/66国の統括支配権を持ち伊勢北部伊賀に半国過剰の国に住む首魁の阿多倍王の宗家、
    2 関西に末裔を広げ高級官僚の首魁と成った阿多倍王の親族の阿倍一族

    3 九州全土自治権と中国地方の支配権と瀬戸内海域の警察権を保持し勢力圏として正式に治めた大蔵氏
    4 首魁阿多倍王の支配下にあった中国地方の陸族の「陶部」と瀬戸内の海族の「海部」

    5 讃岐地方を根拠地として瀬戸内の政治的支配権を保持していた「讃岐藤氏」の藤原氏と青木氏
    結局、この5つが「塩飽水軍」に関わってきます。

    では、先ずその関わりに付いてこの5つを繋いで概容を説明します。
    ここで「阿多倍王」はかなりの高齢で没しますが、「高望王・平望王」等と「平尊王」などと呼ばれその功績から賜姓を受ける事に成ります。
    関東には、天皇が変わるたびに出る「皇族の第7世族」が関東に配置されますが、この下族し平に成った「第7世族」に対して、代々平族(ひら族)を賜姓しました。
    (「坂東八平氏」と呼びます)
    この「第7世族」の「ひら族」に準えて、天皇家の間接的血縁を持った「阿多倍王」の子孫に対しては、同じ「平族」として「たいら族」の賜姓を桓武天皇はしました。
    (「青木氏の賜姓」を止めて賜姓した。)
    この「たいら族」を「京平氏」「桓武平氏」「伊勢平氏」と呼ばれました。
    朝廷が名づけた「平尊王」の”平”からこの様に呼ばれました。
    (阿多倍王の年齢から「後付」と観られている)
    その子(孫)に当たる「国香」と云う者が「阿多倍王」の勢力を以って関東に進出して「令外官」の「押領使」(警察軍)として配置されます。
    そして、同じ関東に配置された同族の「平将門」は関東に「独立国建国」の乱が起こりますが、この時に説得と鎮圧に出た叔父の「国香」を殺害します。
    ところが朝廷は、この乱を鎮圧できません。関東周囲が「たいら族」の一門で抑えていた為に誰も様子を見て手を出しません。群馬付近には清和天皇の孫の「経基」らが国司として居ましたが、乱を鎮圧できなかったのです。むしろ、経基等は将門の行状を天皇に讒言して密告して罪を被せて潰そうとしていました。
    結局、関東の同じ押領使で中間にあった「特別賜姓族青木氏」の元祖と成った「藤原秀郷」が、朝廷に対して貴族の身分と武蔵国と下野国を領国とする事の2つの条件を出して鎮圧に当たります。
    国香の子、平貞盛は父の仇を打つ為に親族の将門を打つ事にやむなく立ち上がります。
    この二人は「平将門」の建国乱を鎮めます。
    この「平貞盛」はその功績から朝廷に引き戻されて重く用いられます。そして、その5代後に平清盛が太政大臣に成ります。
    この過程を継続して数年の前後して、再び、「阿多倍王」の支配下であった瀬戸内の海の「海族」の「海部」らを上手く統治して勢力を得ていた「讃岐藤氏」の藤原氏の伸張を警戒して、経基や摂関家の藤原氏等は、この「讃岐藤氏」を潰しに掛かります。
    (「西の讃岐藤氏 東の武蔵藤氏」と呼ばれた)
    つまり、早くから力を持った「西の讃岐藤氏」を潰しに掛かったのです。
    東は「将門の乱」後の関東の「たいら族」の衰退で、この事件で勢力を拡大し、逆に「東の武蔵藤氏」が伸張する事に成って、中央の「摂関家」は弱体化して、”元の木阿弥”と成った「2つの事件」であったのです。

    (「讃岐藤氏」は中央の「摂関家」の云う事を聞かなかった状況にあった。「藤原氏四家」は、勢力争いで云う事の聞かない式家、南家、京家を、「北家」に依ってこの「三家」は潰された経緯がある。)

    ”瀬戸内を制する者は国を制する”と呼ばれていたこの海域の「経済力」と「海域軍事力」を得た者が国を制するのです。それを「讃岐藤氏」は獲得したのです。
    別に云えば、瀬戸内の民のこの「海族」を得た者が国を支配すると云う事に成ります。
    従って、この瀬戸内には国の権力者の利害思惑が渦巻きます。
    「阿多倍王」が後漢から引き連れて来た「海部」等の海族の「経済力と海域軍事力(海賊ではない)」を味方に引き入れ得た「讃岐藤氏」(讃岐の藤原氏)を潰しにかかったのです。
    同じ様に、関東の陸と海の富と民と周囲の勢力を集めた将門に対し、それを妬まれ難癖を付けられた「平将門の乱」と同じ事が同時に起こったのです。
    この「2つの乱」のきっかけを起こした人物は、つまり、両方の乱を讒言で引き起こしたのが、後に、これらの「讒言」を功績と認められて、源氏の賜姓を受けた清和源氏の始祖の源経基なのです。

    (元々、経基は、臣下する第6位皇子に与えられる賜姓と朝臣の身分を欲していたが、対象外の権利のない「清和天皇の孫」であって第6位皇子でもなかった。その為に何らかの功績を獲得しなければならない事情下にあった。そこで、二人に対して妬みからの讒言を天皇にした。これを知っていた清和天皇はなかなか賜姓に応じなかったのです。)

    然し、ここで、これに危機を感じていた同族の2つの勢力、九州全域と中国地方の陸域を勢力圏に治めていた「大蔵氏」と、それを指揮する朝廷内に藤原氏に並ぶ勢力を保持しかけていた同族の宗家の「平氏」は間に入って邪魔をします。

    (経基の讒言を利用した。その様に仕向けたと観られます。大蔵春実の行動がタイミングと準備と処理があまりにも完璧で良過ぎるし、天皇そのものがそのあまりの良さの勲功に驚いていて、その勲功もあまりにも良過ぎる。)

    そして、「讃岐藤氏」を弱め、「瀬戸内の警察権」を取り戻し獲得しようと合作します。
    これの発端に成ったのが「讃岐藤氏」の「藤原純友の乱」です。
    この鎮圧に経基と摂関家も関わりますが、「大蔵春実」は、これらの朝廷派の勢力を封じ込めて、純友と元々支配下にあった「瀬戸内の海族」の切り離しに成功します。
    この大蔵氏は「純友の乱」を上手く利用して処理して、朝廷よりその勲功により瀬戸内の全域の海域の警察権を獲得し取り戻します。
    純友には、”「海賊」と仲間になった”として、「個人的な罪」として処罰され、「讃岐藤氏」は藤原一門である事から遺し、その経済力と海域軍事力も取り戻します。

    (春美は純友個人に罪を着せて全体を救った。そうしなければ元の支配下であった海部の海族を罰しなければ成らなくなり、海族を元の支配に戻しても反発を受けて収まらなくなる事を懸念した。純友も納得した。その証拠が純友神社等の動きである。)

    (「海族」の海部等は「海賊」と讒言され決め付けられた。 「海部」は「純友」を慕って後に「純友神社」を瀬戸内の各地に建立した。)
    そして「大蔵氏」は歴史上唯一氏に与えられた「錦の御旗」を以って九州から中国地方を正式に、且つ、実質の大領域権とします。
    この財産を引き継いで朝廷内に食い込んで行ったのが、伊勢北部伊賀に拠点を置いていた宗家平氏となった「たいら族」の5代目清盛なのです。
    この清盛は播磨の国を拠点として、この瀬戸内の経済力と海域軍事力と、更には同族の大蔵氏の「太宰大監」までも上手く獲得します。伊勢の宗家がその後に「大蔵氏の支配権」(太宰大監の上司の形式を採る)を正式に獲得します。
    そして、この後漢から引き連れてきた「瀬戸内の海部」らの「海族」を使って清盛は「宋貿易」をするのです。関西以西を政治、経済、軍事の3実権を握ったのです。
    この「瀬戸内の海族」は、元の状態に戻して宗家の「清盛の基盤」と成ったのです。
    現実に、”瀬戸内を制する者は国を制した”のです。

    一方、この時、「讃岐藤氏」は何とか生き延びます。一族の経済力は低下しましたが、この時、「讃岐藤氏」一族を率いていた「讃岐青木氏」は、讃岐宗家に代わって、ここより四国西域と瀬戸内の四国側をまとめて勢力を盛り返しに掛かります。
    それは、「純友」は悪者に仕立てられましたが、「純友の善政」に心底から慕っていた「瀬戸内の海族」の南域四国側に住していた一部は、後にこの「讃岐青木氏」に従い「生活の基盤」を取り戻します。

    彼等は、軍事力を獲得すると海族同士の争いと成る為に、この四国側域の海族は経済力のみの範囲に留めます。
    「讃岐青木氏」の保護の下で「海産物の生産」とそれの販売業をし、海族としての「讃岐青木氏」の「廻船業」を手伝います。
    つまり、これが後の中国側の瀬戸内に「海部氏」、四国側の瀬戸内28島に「磯部氏」が室町期中期に発祥します。これが歴史上の日本で庶民から出た「最古の姓氏」の発祥です。
    (磯部は一部は駿河沿岸部に移動定住した)
    さて、平族は、清盛死後、この「瀬戸内の海族の勢力」を率いて、源平合戦の「壇ノ浦の戦い」と「三浦沖の戦い」に挑んだのです。この結果、敗戦した「瀬戸内の海族」は元の二派に分かれるのです。
    これが、中国側に「村上水軍」、四国側に「塩飽水軍」になって分かれたのです。
    海部の海族は、敗戦後に「海部族」と「磯部の塩飽族」に分かれるルーツは次ぎの様に成ります

    阿多倍王−山本直(大蔵氏初代)−・・・−春実9代目−種光−種材(1020)−光弘−種弘−種輔−種貞−種嗣−義種

    種輔−種貞−種有(大蔵姓)−種資  
    種輔−種貞−種嗣(大蔵姓)→義種
    種輔−種平−種直(原田姓 3人は太宰大監 岩戸少卿の系−種直は清盛の時 原田種成)

    (春実より種直までの「岩戸少卿」は瀬戸内全域の警察軍事権者 )
    (種貞−種嗣までは「右馬允」で補佐 義種で官職ではなく、実質の「瀬戸内族の首魁-頭」と成る)

    義種−第2子−海頭弥太郎→海部族を率いる (第2子の名前不明 大蔵氏から外れて海族の頭に)
    義種−第3子−塩頭弥太郎→塩飽族を率いる (第3子の名前不明 大蔵氏から外れて海族の頭に)

    義種−義親(九州 長嶋氏の祖 鎌倉時代 「元寇の役」の後に)
    (義種が「海族の統括者」であった)

    (「左馬允」と「右馬允」は朝廷の官職で、本来は天皇の前の左右を警護する警備役名で、少卿を補佐する役柄 左馬允が上位 後に大蔵氏の呼称姓とした)

    この「塩飽水軍」の多くは、その後、室町期後期には「讃岐青木氏」(2足の草鞋策 廻船業)と共に生き、瀬戸内の海産物の殖産業と廻船業で昭和23年まで続きます。
    この間、「塩飽族」は、「讃岐青木氏」と共に、信長、秀吉、家康に味方して生き残ったのです。
    現代の日本の「造船術」と「操船術」は、この瀬戸内の海族の「塩飽水軍」のものが基礎となっているのです。
    第2次大戦の世界に響いていた「日本の海軍力」の操舵法は「讃岐青木氏」に守られたこの「塩飽族の水軍」のものであったのです。
    何故ならば、瀬戸内のこの二つの同族の水軍の「村上水軍」と「塩飽水軍」の生き方に左右されたのです。「塩飽水軍」は政治的な勢力に傾かなかった事に有ります。
    それは「讃岐青木氏」と繋がって廻船業に純粋に従事した事に依ります。
    純粋に操舵技能と造船術に従事した事に因ります。
    例え、足利、信長、秀吉、家康に水軍として利用されたとしても、それはあくまでも”雇われの操舵術の範囲”を超えなかった事にあるのです。
    だから、鎌倉期から昭和期までその「操舵術」はどの勢力にも採用されたのです。
    有名な「鉄砲の雑賀族」の様な「生き方」をしたのです。
    これが出来た裏づけは、「讃岐青木氏の経済的な裏づけ」が彼等にあったからなのです。
    人は「経済的な背景」が無ければどうしても政治的な背景を求めて安定しようと働くのが条理です。
    「讃岐青木氏」と「讃岐塩飽氏」は、この「水軍の力」を使って広島から島根の日本海まで子孫分布を広げています。
    「青木氏」から調べた「塩飽水軍」の内容ですが、「塩飽族」は庶民であった事から、磯部氏、海部氏、など海や船にまつわる姓の「姓氏」を名乗っています。
    その元は日本最古の姓氏の「海部氏」に辿りつきます。
    恐らくは、長い歴史を持つこの「讃岐青木氏」とこの「海部族氏」と「塩飽族」等とには血縁関係を持ったと考えられます。

    上記の詳しい事は青木氏の研究室の青木氏の守護神(神明社)」などの論文に詳しく記述していますので、そちらをお読みください。
    但し、投稿欄のメモリー容量の制限があって、仕方なく論文が膨大になる為に、”塩飽水軍”の固有名詞は、海族としてのみにして、使用していません。

    ご質問ありましたら、知る範囲でお答えします。
    然し、青木氏外の事に成りますので、「姓氏の範囲」の奥深くまでは把握できていません。

    お家は、確か「三つ柏紋」で信濃であったと記憶していますが、柏紋は「神職の青木氏」で、特に陸奥から後には、更には北海道までも「神明社の神職」として移動していますので、恐らくは「信濃青木氏」と考えられます。そのお家が、何故、「塩飽水軍」に御興味を持たれてお尋ねになったのでしょうか。
    観光で知った事のお尋ねですか、
    実は、この「讃岐青木氏」は昭和の戦後に一部北海道に渡ったとする記録もあります。
    そちらのお尋ねでしょうか。

    兎も角も、この様な歴史上の事を知って旅するのも当時の「人の葛藤や生き様」が頭の中に蘇り、楽しい旅となる秘訣ですね。歴史のドラマを見ていても奥が深くなり人より楽しいドラマとなりますよね。あぁあそこは描きが違うな、間違えているなとか、浅いなとか思いながら楽しめます。

    では、又、何かありましたらお尋ねください。知る範囲でお答えします。


      [No.920] Re: 函館の青木
         投稿者:函館の青木   投稿日:2013/08/25(Sun) 07:49:11  

     
      ご無沙汰 しております。
      昨年の京都も愉し旅行でしたが。 人の多さわずらわしさに まいりました。
      やはり、函館がよいです。
      質問があるのですが、あおき に 関係があるかわかりませんが。

      瀬戸内の 塩飽 塩飽水軍 について教えていただけないでしょうか。
    >   


      [No.917] Re:吉永さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/20(Thu) 17:43:07  

    早速のお便りありがとう御座います。

    さて、困りました。本サイトは青木氏で青木氏についての事はよく把握していますが、他氏の事までは残念ながら把握しておりません。

    菊池氏に関しては、青木氏族の中に藤原秀郷流青木氏がありまして、その青木氏族の中の一つに永嶋氏があります。血縁関係が大変強いので青木氏族と成っていますが、この永嶋氏が元寇の役の時に北九州に赴き、九州一で九州全土を制覇した超大豪族の大蔵氏と血縁しその末裔が九州に根を下ろし子孫を広げました。この時、この大蔵氏系永嶋氏がこの菊池氏との血縁をするのです。
    依って、永嶋氏との絡みで菊池氏の事は承知している程度です。
    青木氏も神明社を守護神としていますので青木氏の神職も多く、この関係から菊池氏などの神官職との関係もあって承知している程度です。
    ルーツ解明として菊池氏との絡みか、伴氏との絡みが強いかの問題ですね。
    確実な事はいえませんが、単なる推測ですが、”都からご神体を運んだ”としていますので、「伴氏」との絡みも強いことも考えられますね。
    菊池氏から入るか、伴氏から入るかが大きなポイントになるかも知れません。
    その入り口を示す何かがあればよいのですが。ご先祖が江戸期から住まわれていた村の由来と神社の由緒などから紐解けるかも知れませんね。
    九州の宮崎と大分の県境に大神氏という氏族がありますが、この氏も飛鳥から神職として九州に移った氏です。お家は室町期中期から末期に掛けて枝葉末孫となった可能性がありますね。

    お調べに成られて、判断に困った時にはご遠慮なくお尋ねください。青木氏がご協力いたします。


      [No.916] Re:吉永さん
         投稿者:吉永   《URL》   投稿日:2013/06/20(Thu) 11:51:59  

    ご丁寧に誠にありがとうございました。
    確かに近くに阿蘇神社があり同格だと聞いております
    明治8年生まれの祖父の話では市杵島神社の御本尊は先祖が京都から背負ってきたときいております。
    その時に氏帯名を許されたと聞きましたが
       「神社建立の権」を持つ氏や古銭のムステイタスを持つのは「菊池氏族」しかありません」
    からすると菊池氏族との関係で考えられることはどんな経過が考えられるのしょうかご教授ください。


      [No.915] 吉永さん
         投稿者:福管理人   投稿日:2013/06/19(Wed) 13:03:11  

    吉永さん 今日は。始めまして。

    ようこそ青木氏サイトにお越し頂きました。
    青木氏サイトは、青木氏族に関する事を研究しているサイトですが、折角お越し頂きましたのまで、何らかのお答えを致します。

    お答えから、先ず先に、青木氏とは吉永氏とは関係がありません。
    青木氏にはいろいろな慣習や仕来りや掟がありまして、大化期から続いています。氏名については枝葉末孫まで青木氏を名乗ると云う掟がり、嵯峨期の詔勅により定められ、他氏が名乗る事を禁じられていました。明治3年まで守られました。
    依って、青木氏から吉永氏には氏名の変更はありません。
    青木氏は枝葉末孫まで青木氏を名乗る事が定められていました。
    他氏とは異なるところです。

    さて、折角ですので、提供していただいた情報から知る範囲の事を推測します。
    まずは、「丸に木瓜に唐花紋」ですが、これは最初、公家の徳大寺氏が家の象徴紋として用いたものです。保元の乱の頃です。
    この家紋は奈良期から平安期にかけて「5大官僚族」と云われた「伴氏」の家紋でもあります。
    この伴氏は九州全土にその勢力を広げ、その拠点を大宰府に置きました。この「伴氏」は「弁済使」と云う官職のトップの官僚族で、土地の豪族との血縁を進め大蔵氏、廻氏、肝付氏など九州の多くの豪族はこの血筋を引いています。つまり、朝廷よりはけんされた「税務官」です。
    長崎付近に菊池氏、大分の佐伯氏等多くの豪族はこの「伴氏」の血筋を持っています。
    恐らくは、寛政時代からのお家と成り、大家を持ち、刀などの遺品、神社を建立できる権力を持っているとすると、これらの豪族の末裔でその分家筋に当たると観られます。
    昔は、神社仏閣の建立は、朝廷−幕府の時の権力者から許可を得ての特権で、誰でもこの特権を持つ事は出来ませんでした。その地域や国を司っている豪族にしか与えられない権力でした。
    青木氏は永代に認められた権利を持っていたのです。「神明社」で500社程度建立しています
    その意味で、吉永氏はこの付近の豪族の末裔となりますと、とすると、この領域で考えられる豪族でその「永代権利」を持っているのは、限られます。
    宗像神社の宗像氏、阿蘇神社の菊池氏、宇佐神社の佐伯氏等であります。
    「市杵島神社」も宗像神社や阿蘇神社や宇佐神社と共に「5神祭祀の子神神社」です。
    「市杵島神社」は古い有名な神社で全国各地に支社があります。特に九州はその本拠地です。
    彼の有名な安芸の宮島の「厳島神社」もこの系列です。
    この神社を建立したとなれば、そこで、長崎となれば菊池氏、この菊池氏は、太宰大監の九州全土を抑えていた大蔵氏との血縁族です。「神職系族」です。九州「吉永氏」も「神職系の氏」と云う事を聞いた事があります。吉が土冠が元の字である事は有名で間違いありません。
    一族の枝葉末孫が何らかの理由で吉の字に変えたのが、「吉永」と成ったものではないでしょうか。
    この現象は室町期初期、江戸初期、明治初期に起こったのです。
    江戸時代まで続いた大豪族です。寛政期にこの字を使っていたとする何らかの理由で明治期に変更した古い一族であると思います。
    「家紋」で繋がり、長崎地域や江戸時代や、大家や、刀や、古銭などの情報が一に繋がるとした氏は、この菊池氏と成ります。
    「古銭の保持」は、当時の「大豪族のステイタス」でした。これは奈良期からの「古い氏」(連族)の高い家柄である事を証明する手段でした。
    この「古銭の保持」はだれでもが出来る事ではありませんでした。「伴氏」はもとより「菊池氏」や「宗像氏」や「佐伯氏」や「肝付氏」などの大豪族の仕儀となります。
    特に神職系豪族に良く観られるステイタスです。
    この慣習は、特に平安時代の貨幣経済が活発になった時の名家には「古銭保持」のブームが起こりました。それを江戸時代までその伝統を守り続けてきたことを意味します。清盛もこの古銭を集めた事が判っています。
    日本には朝廷から認可された「氏」(うじ)族と、平安末期から興った「姓」(かばね)族、明治期の苗字令による名の3つに分けられますが、「氏」は全体の5%にも満たない200程度にも満たない族です。
    殆どは、室町期から江戸初期に興った「姓族」です。
    この奈良期か平安初期からの「氏」を示す根拠として「古銭」を持っていたのです。
    第2次大戦時に金属の拠出を命じられた為に、これらの「氏」は「刀」や「古銭」などの氏を証明する伝統品ステイタスを床に穴などを掘って隠したのです。
    その意味で、この様な「古銭」などのものを持っている事は、悠久の歴史を持つ氏としての大変な証明に成るのです。この地域では「神社建立の権」を持つ氏や古銭のムステイタスを持つのは「菊池氏族」しかありません。この菊池氏一族一門は、多くの「枝葉末孫」を出しています。
    お家は、その末裔ではないかと考えられます。
    吉次氏も吉永氏の更に「枝葉末孫」では無いかと考えられます。
    名籍の伴氏と同じ家紋を持つ吉永氏ですが、この家紋は愛知静岡付近に分布する家紋類ですが、これが北九州にあることは「伴氏系菊池氏族」以外にはないのではと思います。

    長崎には、確かに、藤原秀郷流青木氏の特別賜姓族青木氏が朝廷から赴任先としてここに赴任し、その後、土地の豪族との血縁した者が定住して「青木村」を形成しました。
    「青木村」の村名は土地の地名を村名にする仕来りでしたが、「青木氏」だけには「氏名」を村名にする事を許されたただ一つの氏で、この長崎にも「青木村」があります。
    ただ、上記しました様に、青木氏以外に名乗る事は許されていませんでしたので、吉永氏に成ることはありません。
    確かに間接的に菊池氏とは血縁をしていますが、青木氏を他氏が名乗る事は出来なかったのです。

    実は、お家にの主柱に寛政年間の字が書かれていたとしていますが、これも大変な氏を物語る事なのです。
    寛政年間は大変歴史の感覚が強くなった時期で、この時代に日本の歴史本の研究が進んだ時期でもあって、寛政の歴史書が多く発刊された時期です。
    特に、氏姓についてはよく研究されているのです。
    そのような背景もあって大切に保存されていたと考えます。こま時期までお家の口伝による伝統が伝わっていた事を物語ります。

    これからも、是非、この様な伝統や古銭や神社建立などを何がしかの文書成りにして、折角ですから、今からでも保存継承される事を期待します。

    ご質問や不明な点がありましたら、ご遠慮なくお尋ねください。


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